このところ、ひと月くらい毎日バタバタしていて疲れてしまいました。
それもあってか、今週の日曜には礼拝をお休みしました。
日曜の朝には、嫌な気分が抜けなくて、思い切って休むことにしました。
ただ、以前なら「教会を休む」って事だけで(理由は関係なく)、
良心が咎めて、次の日には更に具合が悪くなるパターンがしばしば。
でも、この良心は私のためにある愛ある良心ではなく、
過去の自分が複雑に絡み合った、所謂押し付けられた良心です。
なぜなら、時々咎めなくていい事までも咎めが来るからです。
例えば、私とは関係ない人の事についてまで咎めたりします。
なので、この良いと思われる「良心」さえ聖められなければならないようです。
しかし、今回お休みした事については、良心は過剰反応しなかったのか?
次の日には、また元気になってバタバタしてました。
そして昨日…久しぶりの友達とお茶して楽しくいろいろ話した後で、
帰ってから買い物に行って、花を植えて、お風呂掃除をしてから横になったら、
「つっつかれたーーー(_ _).。o○…
休ませて下さい…」
と、心の奥底が叫んでいました。
でも次の日にも、私は予定を入れていました。
大切な人と会うんだから絶対に「いい事」だと思って。
しかし、今朝起きたら疲れで頭痛はするし、身体中は痛いし予定はキャンセルしました。
そして心の本心から祈りました。
「イエスさま、疲れました。
ごめんなさい。疲れました。」
すると、神さまはこんな風に言っておられるように感じました。
「わたしは、真の礼拝者を求めているよ。
ヤコブが杖に寄りかかってわたしを礼拝したように、
真の礼拝者を求めている。」と。
「信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、
そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。」
(ヘブル人への手紙 11:21 )
私は、自分の基準で「いい事」と思われることをやってた時に、
(もちろん、その事自体は大事なことだったと思います)
イエスさまは、真の礼拝者を求めておられたのです。
今、主を礼拝します!