いつ頃からでしょうか?
「傷ついた」って言うのが、あまり好きではなくなったのは。
「傷ついた」のは事実で、心に傷跡もあるのですが、
私は、一生被害者として生きていくのは嫌だし、
実際、私が傷つけた人もたくさんいるので、
自分が「傷ついた」って言うのは嫌になりました。
「私は傷ついた。」と言って自己アピールしている惨めな自分の姿が見えました。
でも長い間、心が「誰か私を分かって下さい!」と叫び続けてきたので、
「傷ついた」と言って、誰かにすがりつきたい気持ちは痛い程分かります。
でもです!誰も誰も!私を理解出来る人はいないと知りました。
ただ、おひとり。イエスさまを除いては…。
誤解しないで頂きたいのですが、「心の傷が癒される」ことはとても大切な事です。
傷がなかったことにする必要もありません。むしろ告白すべきです。
その傷は身体の傷同様に、放置しておけば膿をもち、どんどん大きくなるかもしれません。
人生のどこかで、その傷に向き合い、膿を出し尽くして癒される必要があります。
でないと、自分もずっと痛みを抱えて苦しむことになりますし、
またちょっとでも、その傷に触れた人がいると、攻撃してしまうかも知れないからです。
しかしです。その傷の膿を出す場所が大切です。
結局のところ、私を真に(心の深みまで)理解出来るのは神さましかいないのです。
それも、深い傷を受けた経験のあるイエスさましか。
人に尽くしながらも、人にあっさり裏切られたイエスさま。
理不尽な裁判で、ムチ打たれ十字架に張り付けられたイエスさま。
そのお方が、私の小さな傷や悩みを理解して下さり、癒して下さったのです。
その過程では、多くの人の助けを頂きました。
同じ病気の人たちとの出会いや、教会の先生や友達、家族。
戦いながら、いろいろな気持ちを吐露する内に、
私の問題の根本的解決は、十字架の元にあると知りました。
血が流されなければならなかったのです。
私には、十字架の血潮が必要でした。ドクドクと流れるイエスさまの血。
私には、イエスさまの十字架の死が必要でした。
私の代わりに、父なる神に完全に見捨てられたイエスさま。
そして葬り、希望の復活が今の私を生かしています。
今、イエスさまが生きておられることが、私が生きて行く力です。
もし、イエスさまの命が私から流れ出て、周りの人たちを生かすなら、
それが私にとって一番の幸せです。
イエスさまの愛や、恵み、慈しみ、許し…それらが私から流れたら…。
私は、今そっとイエスさまに信頼します。