2年程前、広島平和記念資料館と原爆ドームを見に行った。
僕は広島の瀬戸内海の小島で生まれ、
生まれてすぐ、0歳の時に両親共に大阪に出てきた。
広島の・瀬戸内の故郷には小学生高学年まで、
兄弟で夏休みに祖父母と親戚を訪ねよく行った事を思い出す。
一番古い記憶では、私がまだ小学生にあがっていない頃だと思う。
兄3人に連れられて行った記憶がある。
私は男子だけの5人兄弟、4番目だ。
この頃は5男の弟はまだ生まれておらず兄弟4人で行っている。
山陽線は当時まだ蒸気機関車だった。
トンネルに入ると慌てて窓を閉めないと、
社内に蒸気機関車の煙が立ちこめて大変だ。顔も真っ黒になる。
外を見るのが好きでよく閉め遅れ、大人に怒られた記憶がある。
8時間程かかったと思うが、
今思うと一番上の兄が中学生になったばかりの年齢だったと思う。
当時子どもだけで、この長い行程よく行ったものである。
子供の偏見で、原爆都市広島が嫌で、
大人になってからも広島市内には行った事がなかった。
60才前になってやっと、この当時のことが知りたくなり、
東京の靖国神社に行った。さらに広島にも行ってみたいと思うようになった。
母がよく戦時中に勤労奉仕で「宇品」の軍需工場に行っていたと話していた。
そのとき原爆の光るのを見たと言っていた。
地図で宇品を調べると、広島市の南側3kmほどの海に近いあたりの地名だった。
放射能の被害は個人差があり、近くても生存してる人もいれば、
遠くても後遺症に苦しんでいる人もいる。
母が癌で60代で亡くなったのは原爆の影響ではないかと思っている。
そんな思いもあったが、
原爆記念館では、引き込まれ、永い時間をかけて熱心に見て回った。
欧米人も沢山いて、彼らがそれらを見てどんな反応をするのか、
つい興味を持って観察してしまったりした。
自身は展示に感情移入してしまい、長い集中に気がついたら頭が痛くなった。
次の年、長崎にも行ってみた。
長崎の平和公園には学生のとき修学旅行で行った。
平和祈念像の前で撮った写真があるが、
長崎原爆資料館にも入っただろうに記憶はない。
年齢的にも興味も薄く、悲惨なものだし見たくなかったんだろう。
今回の訪問時、大阪伊丹空港では大阪のお嬢さん学校の生徒と同じだった。
いまも変わらず、彼女たちの修学旅行先は同じかとちょっと同情していた。
学生が多いと騒がし芋のだが、普通の学校に比べたら、
さすがお嬢さん学校成績も良い学校らしく、少し静かだ。
僕と時間も似たコースを巡るのだろうと思っていたら、
原爆資料館で一緒になった。
この年齢では興味を持ってそうな子はごく少数で、
学生当時の僕の記憶にほぼ残っていないと同じ様に
何年かすればこの資料館行った事も忘れてるだろうなんて思ったりした。
実際、展示物の前で「こわい~。う~最悪。ここパス。」とか色々聞こえてくる。
ほとんど足早に素通りで、見る所がないのでうろうろするばかり。
僕だってこの歳まで見る気にならなかったんだから、しょうがないよね。
もっと、自分たちが本当に見たい、思い出に残る所に行ければ良いのに。
そんな時に、
欧米の生徒の一団が入ってくる。
欧米では珍しく制服姿なのでかなり良い学校なんだろう。
みんな白人の美形で、イギリス系のような気がする。賢そうだ。
教師らしい人々と小さなグループに分かれ、
熱心に展示物の前で話しながら時間をかけて見ている。
面白いのは、
大阪の女の子達が急におとなしくなって、この生徒達に混じって熱心に見て回り出した。
微笑ましくて笑ってしまった。
僕だってこの立場なら、こんなかっこいい、
金髪やら、まつげの長い蒼目の男の子を見たら同じ気持ちだ。
昔,鳥取への車中で、地元の田舎のわんぱくな小学低学年の男の子が、
親も注意することもなく、わがままいっぱいに電車内で騒いでいた。
次の停車駅で、この田舎に場違いのような、同じ年頃の外国の女の子が乗ってきた。
金髪で、青い目のお人形さんのような女の子が、向かいに座ったとたん
ただただ、ぼーっと見ていたが、その後恥ずかしそうに、時折前を向く以外
下を向いておとなしく座っていた。その時も微笑ましくって笑ってしまった。
一瞬の初恋、そんな事を思い出した。
みんな、がんばって話しかけて、メルアド交換したら。
そしたらすごい思い出の修学旅行になる。
資料館だって楽しかった場所になるぞ!
う~ん無理かな、そばについて小さなアピールしてる子もいるけど、無理みたいやな。
そんな、歴史の場所が世界中でまた日本にできる。
「FUKUSHIMA」。
こんな修学旅行先はできて欲しくないもんだ。
僕は広島の瀬戸内海の小島で生まれ、
生まれてすぐ、0歳の時に両親共に大阪に出てきた。
広島の・瀬戸内の故郷には小学生高学年まで、
兄弟で夏休みに祖父母と親戚を訪ねよく行った事を思い出す。
一番古い記憶では、私がまだ小学生にあがっていない頃だと思う。
兄3人に連れられて行った記憶がある。
私は男子だけの5人兄弟、4番目だ。
この頃は5男の弟はまだ生まれておらず兄弟4人で行っている。
山陽線は当時まだ蒸気機関車だった。
トンネルに入ると慌てて窓を閉めないと、
社内に蒸気機関車の煙が立ちこめて大変だ。顔も真っ黒になる。
外を見るのが好きでよく閉め遅れ、大人に怒られた記憶がある。
8時間程かかったと思うが、
今思うと一番上の兄が中学生になったばかりの年齢だったと思う。
当時子どもだけで、この長い行程よく行ったものである。
子供の偏見で、原爆都市広島が嫌で、
大人になってからも広島市内には行った事がなかった。
60才前になってやっと、この当時のことが知りたくなり、
東京の靖国神社に行った。さらに広島にも行ってみたいと思うようになった。
母がよく戦時中に勤労奉仕で「宇品」の軍需工場に行っていたと話していた。
そのとき原爆の光るのを見たと言っていた。
地図で宇品を調べると、広島市の南側3kmほどの海に近いあたりの地名だった。
放射能の被害は個人差があり、近くても生存してる人もいれば、
遠くても後遺症に苦しんでいる人もいる。
母が癌で60代で亡くなったのは原爆の影響ではないかと思っている。
そんな思いもあったが、
原爆記念館では、引き込まれ、永い時間をかけて熱心に見て回った。
欧米人も沢山いて、彼らがそれらを見てどんな反応をするのか、
つい興味を持って観察してしまったりした。
自身は展示に感情移入してしまい、長い集中に気がついたら頭が痛くなった。
次の年、長崎にも行ってみた。
長崎の平和公園には学生のとき修学旅行で行った。
平和祈念像の前で撮った写真があるが、
長崎原爆資料館にも入っただろうに記憶はない。
年齢的にも興味も薄く、悲惨なものだし見たくなかったんだろう。
今回の訪問時、大阪伊丹空港では大阪のお嬢さん学校の生徒と同じだった。
いまも変わらず、彼女たちの修学旅行先は同じかとちょっと同情していた。
学生が多いと騒がし芋のだが、普通の学校に比べたら、
さすがお嬢さん学校成績も良い学校らしく、少し静かだ。
僕と時間も似たコースを巡るのだろうと思っていたら、
原爆資料館で一緒になった。
この年齢では興味を持ってそうな子はごく少数で、
学生当時の僕の記憶にほぼ残っていないと同じ様に
何年かすればこの資料館行った事も忘れてるだろうなんて思ったりした。
実際、展示物の前で「こわい~。う~最悪。ここパス。」とか色々聞こえてくる。
ほとんど足早に素通りで、見る所がないのでうろうろするばかり。
僕だってこの歳まで見る気にならなかったんだから、しょうがないよね。
もっと、自分たちが本当に見たい、思い出に残る所に行ければ良いのに。
そんな時に、
欧米の生徒の一団が入ってくる。
欧米では珍しく制服姿なのでかなり良い学校なんだろう。
みんな白人の美形で、イギリス系のような気がする。賢そうだ。
教師らしい人々と小さなグループに分かれ、
熱心に展示物の前で話しながら時間をかけて見ている。
面白いのは、
大阪の女の子達が急におとなしくなって、この生徒達に混じって熱心に見て回り出した。
微笑ましくて笑ってしまった。
僕だってこの立場なら、こんなかっこいい、
金髪やら、まつげの長い蒼目の男の子を見たら同じ気持ちだ。
昔,鳥取への車中で、地元の田舎のわんぱくな小学低学年の男の子が、
親も注意することもなく、わがままいっぱいに電車内で騒いでいた。
次の停車駅で、この田舎に場違いのような、同じ年頃の外国の女の子が乗ってきた。
金髪で、青い目のお人形さんのような女の子が、向かいに座ったとたん
ただただ、ぼーっと見ていたが、その後恥ずかしそうに、時折前を向く以外
下を向いておとなしく座っていた。その時も微笑ましくって笑ってしまった。
一瞬の初恋、そんな事を思い出した。
みんな、がんばって話しかけて、メルアド交換したら。
そしたらすごい思い出の修学旅行になる。
資料館だって楽しかった場所になるぞ!
う~ん無理かな、そばについて小さなアピールしてる子もいるけど、無理みたいやな。
そんな、歴史の場所が世界中でまた日本にできる。
「FUKUSHIMA」。
こんな修学旅行先はできて欲しくないもんだ。