日々Change。今日の怒りも、恐れも、悲しみも、明日は夢と希望と喜びに。

少々高くても、日本の商品を買いましょう。力を合わせて日本の復興のために。

ノーベル医学生理学賞に選ばれた大村智さんの受賞に思う

2015-10-06 01:13:16 | 感動・思い出
第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補となった
北里柴三郎博士がノーベル賞を取れなかったことが
残念で仕方ないと、常ずね思っていた私としては
とっても嬉しい。

ラグビー日本の強さが彼一人の力とは言わないが、かなり攻撃でマイナスやな。

2015-09-25 19:48:25 | 感動・思い出
やっぱり、状態良くないんでしょうね。

スコットランド戦で負傷退場したNo8のアマナキ・レレイ・マフィ選手。

日本の快進撃は彼一人ではないですが、
攻撃の面ではかなりのマイナスですね。

それにしても、マフィ選手って知るほどにすごい選手です。
怪我から復帰したのが8月30日とか。
まだ一月経っていないんですよ。
信じられないパフォーマンスです。

W杯メンバー発表会見で、指揮官がマフィを
「ギフト(贈り物)のような選手」と絶賛したそうです。

長く、ラグビー見ていなかったので知りませんでした。
NTTコムですか。
今度、関西チームとの試合の時に花園に見に行きたいです。

ファンになっちゃいました。

W杯、vs南アフリカ。ノーサイド寸前、感動しました。

2015-09-20 14:17:45 | 感動・思い出
エッーーーーーッ!
I can't believe.
あの南アフリカに勝ってしまった・・・。
サッカー以上に体格のハンディが影響するラグビーで。
ランキング3位と13位と言ってもサッカーと違い、
強豪国が少ないからその差はランキングの10位差以上ある。
日本はW杯に8回出て、
1勝2分けしか出来ていないのを見てもサッカー以上に、
ラグビーの世界での日本の厳しさがわかる。
ラグビーは少しの差なら精神力で勝つことはあるが、
この2チームの力の差でははっきり実力の差が出るスポーツだ。

南アフリカはW杯、優勝2回の世界トップの一つ。
しかもがっぷり四つで、得点で競り合い、最後は終了間際の大逆転。
涙ものの大感動である。

私はサッカー好きですが、実は一番好きなのはラグビーです。
最近ほとんど見ないし、選手も知らない有様で好きという資格もないですが、
スポーツとしては一番面白いと思っています。
1980年代、平尾誠二が若くして日本代表になった時は
ラグビー人気が全国区に、最高の時代でした。
そして、私が平尾選手に似ていると、あだ名までつけられた時は恥ずかしさと、
かっこよさがあまりにもかけ離れていることに、内心むちゃ嬉しいのですが、
否定せずにおれませんでした。

今だから恥ずかしくもなく言えるが、
私の古い写真を見ると自分でも似ているとニンマリしてしまいます。
そしてもう一つ、
大学選手権や日本代表でも使われていた「CONVERT」のラグビーボール。
私がデザインしたものなんです。
デザインもなんも文字入ってるだけや、と言われそうですが、
文字の選定、大きさ、配置のバランス。
こういう物のデザインはメーカーが内部でする場合と、
ちゃんとデザイナーに発注する場合があるのです。
当時のボールは茶色で白いものはなかったんですが、
今はカラフルなものが主流のようです。
文字は「Crillee Bold Italic」という書体、今も当時と同じものを使っています。

この勝利の喜びはしばらく消えそうにありません。

すごすぎる、佐村河内 守さん。

2013-05-16 08:47:32 | 感動・思い出
昨日書いた、いくつかの下書き(未投稿)ブログ記事の中に
「佐村河内 守」の書きかけの記事がある。

現代のベートーベンとか言う作曲家のことは知っていたが、
それだけで調べようともせず、
よく解らないこともあってそれ以上の興味もわかなかった。

そのままになっていたが、
数週間前、彼のことをテレビで偶然見ることがあった。

すごい人である。

4歳からピアノ、ヴァイオリン、尺八、マリンバなどを習い。
5歳で作曲。
小学校4年生でベートーヴェンのピアノソナタやバッハを弾きこなした。

その後様々な事を独学で学ぶ学究人でありながら、
対極の喧嘩、抗争を繰り返す悪童でもあったという。

17歳から交響曲の作曲、原因不明の偏頭痛や聴覚障害…。
音大には進まず、肉体労働者、独学で作曲を学ぶ。
ホームレス、路上生活、ソロのロック歌手、
実弟の交通事故死、聴覚異常の発症…。

轟音が頭に鳴り響く頭鳴症、耳鳴り発作、腱鞘炎。
光を浴びることで偏頭痛や耳鳴りの発作が誘発される。

もう、作曲家にとってはこれでもかと言う
マイナス要素、致命傷の繰り返してある。

こんな人が現代では難しすぎて作曲する人がいない
交響曲に…、まして耳が聞こえないのだ。

耳が聞こえる人でさえ、
交響曲はいくつもある各楽器のパートを
頭の中で思い描きながら作る大変な作業である。

もう人間と言うのは
何があろうと、できる人はできるのだ。
あきらめてはいけない。
出来ないことはないのだ。

ぜひ、ウィキペディアで「佐村河内 守」さんの
すごさを見て欲しい。

テレビの前で、僕はこれでもかこれでもかと、
次々起こる障害に息を詰めて見ていた。
番組を見終わって、
大きく深呼吸をしてしまった。

もう、感動的なほどかっこいい~!It's so cooooool. NISSAN GT-R 2013

2013-04-17 21:55:37 | 感動・思い出

      NISSAN GT-R 2013

かっこいいな。
かなえられない夢だからいつまでもかっこいいのか。

日本の最高傑作、
日本の誇りやね。

アウトバーン走ってみたい!

大島渚監督逝く。桃旗の青春時代のモニュメントの一つ。

2013-01-23 00:34:51 | 感動・思い出
大島渚監督が亡くなった。

少し前知人と昔の話をした時にATGの映画を

「当時、大手5社規制があり、反体制の新進気鋭監督の大島渚(小山明子の旦那)、篠田正浩(岩下志摩の旦那)、新藤兼人(乙羽信子の旦那)などが自主映画ATGで予算もなく、お嬢様女優の女房をタダで使い、濡れ場を演じさせていた。」

と彼は言った。
彼はATGの映画を見たこともなく、
エロ映画ぐらいにしか理解がなかったのだろう。
芸能面の記事あたりからの監督が美人女優をものにする嫉妬心しか
ATGに関心も知識もなかったのだろう。

彼は昔話にシネラマのOS劇場の前にストリップ劇場があったと言う。
当時の保守的な僕の親達と同じレベルで、
肌を出して足をあげて踊る人たちの「レビュー」を
ストリップと思っていたのだろう。

僕と年が一つ違いだけれど、同年代であれば
彼の様な保守的な方が若者でも大勢であり、普通であっただろう。

今、彼と昔話をすると当時はそんな時代の新しさに
僕と同じように浸っていたように話してくるものの、
根本で違うのでばれてしまう。

そんなことを思い出すのが、僕にとっての大島渚監督だ。

今の中国の自由を求める一部の若者のように
彼らの作る映画が、大きな国の大勢に無力な僕らの
はけ口だったように思う。

僕はどうも大島渚監督の様な今の80代、
ちょうど僕より20歳上あたりの人と話が通じることが多い。
昔いた山の会でもちょうど20才上の人たち、
そしてさまざまな分野の方とも、
先に入院した時も80代の方ととても気が合った。

どうも戦争の時代に20代を経験した人の人生観と合うように思う。
そして、彼らが自分の考えを社会に向けて主張したのが僕の20代。
そこに結びつくものがあるように思う。

続いて感動のテレビ番組、「情熱大陸 鉄拳」。

2012-12-25 18:39:05 | 感動・思い出
前のブログでイチローの感動話を書きましたが。

その「Mr.サンデー」を見る前に見ていたのが、
「情熱大陸 鉄拳」。
話題になっていたので見た方は多いと思う。

「情熱大陸 鉄拳」を見て感動した後、
チャンネルを回してさらに「Mr.サンデー」で
イチローの感動ストーリ―を見た。

若者の間でテレビ離れが激しいのはよく聞く。
さらにここ最近、
入院した時に、知り合った何人かの80代のお年寄りが
ほとんどテレビを見ずにラジオを聞いておられた。
僕より上の60代半ばから80代ぐらいのお年寄りに
ラジオ派が多いのだ。

おそらくAM放送を聞かれているのだろう。
昔からのパーソナリティ(例えば浜村淳など)の話に世の中の情報を
得られているのだと思う。

僕のラジオの視聴は古い。
この話は長くなるので後日として、

この2つの番組を見てやはり映像から受ける感動は大きい。

BSを含めてNHKの番組にはいいものが多いが
民法にもいくつかいい番組がある。
僕が常時見ているのは
「夢の扉+」TBS
「情熱大陸」MBS
「がっちりマンデー」TBS
「FAMILY HISTORY」NHK

話は戻るが
「情熱大陸 鉄拳」はお笑いの鉄拳のパラパラ漫画が
世界中で話題と感動を読んでいるということ。
動画だけで人の深い愛情が世界の人に伝わっている。

以前は音楽が入っていたが著作権で削除されたらしい。
その削除されたYouTubeに寄せられた外国からのコメント。
だれかが訳して載せていた。その一部を引用すると。

●ああ、僕の愛する人よ。君と僕は永遠に一緒だ。もし君を傷つけた­ことがあったのなら、どうか許してくれ……(ブラジル)
●信じられない。ホントに感動的だ。この傑作を創り上げた人は誰な­んだ? (韓国)
●嘘はつけん。ああ、泣いたさ。 (アメリカ 25歳)
●これは……なんて凄いんだ。どんな言語を用いても、この素晴らし­さを表現するのは不可能だ。 (サウジアラビア)
● 俺達は皆、時の流れに身を任せて生きている。 友だちや家族との宝物のようなすべての瞬間を抱えて。 どうか母親にもこの動画を観て欲しい。 こんなにも美しいアニメーションを作ってくれて、ありがとう。(アメリカ 34歳)
●泣いてなんか(グス)ないんだから(グス)。 ああもうダメ。目から滝のように涙が。 (アメリカ 17歳)

内容は?この前のTV番組に続いて説明するのも…、
YouTubeの「鉄拳パラパラ漫画」で検索してほしい。
タイトルは「振り子」。
今は音楽が外されている。
一見すればわかるでしょう。

昨日(23日)のMr.サンデー、「ICHI-METER」のイチロー選手にすごく感動しましたね。

2012-12-24 12:34:38 | 感動・思い出
2001年のイチローのマリナーズデビュー以来、
セーフコフィールドのライトスタンドでホームゲームを毎回応援。
イチローの安打をカウントし続けたファン「エイミーさん」。
そのカウントボードは「ICHI-METER」と名付けられTVでもよく映し出される。
9年間、家族と共に40km離れた球場に通い続けたエイミーさん。
生活は楽ではないのに入場料だけでも年間数十万。

2012年7月23日、vsヤンキース戦
そんなセーフコフィールドのホーム試合に
突然、イチローは相手のヤンキースのユニホームで登場。
8番ライトで先発。

1回裏、守備につくとスタンドから声援が送られた。
エイミーさんは相手選手となったイチローに複雑だったであろう。
イチローはエイミーさんに近づくと「エイミー」と声をかける。
エイミーさんはイチローが自分の名前を知っていたことに感激。

イチローが高い外野フェンスをジャンプしてエイミーさんとハイタッチ。
そして渡された「ICHI-METERボード」にサインしようとする。
ボードのどこにサインをしたらいい?と聞くイチロー。

攻守交代の短い時間での長く応援してくれたファンとの交流。
ん~ん、映画のワンシーンのようだ。

イチローってこんな選手だったのか?
日本での印象は職業人、ファンに迎合しない割り切った孤高のスーパースター。
阪神大震災の時に初めてイチローのファンへの思いが表されたぐらいだ。
ファンは大切にしても、とても親しみと言う印象ではない。

実は僕も神戸のFM局の仕事の帰り、
細い路地の飲食店の前にひとり立つイチロー選手と出会ったことがある。
日本記録を打ち立てたすごい選手だが、
パリーグのしかも弱小球団と言うので今一つ華やかではなかった。

このエイミーさん、長いファン生活の中でも
イチローのサインをもらったことがなかったらしい。

そして、なんと後日。
エイミーさんの自宅に突然イチローから
感謝の気持ちを書いた手紙と
サインをしたバットとスパイクが届いた。

も~なんだよ、イチローやるな。
これはエイミー本人はもちろん大感激だが、
そんな話を聞く僕たちまわりにも大感激ではないか。

その試合の3回表、初打席に入る時、
帽子を取ってスタンドのファンに深々とお辞儀をすると、
スタンディングオベーションでの大きな拍手が送られた。
イチローの目には光るものがあったような。

あの時、サインをもらえばよかった。
有名人に興味がないふりをした自分が悔しい(笑)。

京大が秋入学見送り。京大さん、経済と同じで日本の教育をだめにするの。

2012-12-02 08:42:20 | 感動・思い出
僕は国家で一番大事なことは教育だと思っている。
経済なんて、優秀な、創造性のある、人材が育てば
勝手についてくる。
国の品格も立派な人格を持った国民が多ければなりゆく。

江戸末期で日本が植民地化されなかった理由は
世界でもまれな、日本中にあった寺子屋教育によるものだ。
農民まで国民の識字率の高さに欧米が手を出せなかったからだ。

毎日新聞の11月30日の記事に
<京都大>秋入学を見送りへ 松本学長「入試改革が先」
 東京大が提唱する「秋入学」について、京都大の松本紘(ひろし)学長は29日、毎日新聞の取材に対し、「先に入試改革を行う。入試改革にめどが立たない段階で秋入学をやる気はない」と述べ、事実上、見送る方針を明らかにした。東大は5年後の実現を目指しているが、賛否を決めかねている大学も多い。京大が同調しないことで、各大学の判断にも影響を与えそうだ。


何かが先だから、何かができていないから、
こんな言い訳で見送る、保守的な考えが情けない。

実行して宣言して、動かしたらどうなんだ。
ただただ、現行の体制を変えることを恐れているとしか思えない。
なのもしなければ、責任もないと言うことか。

関西に住んでいるので東大より京大に肩入れしたい。

世界基準(欧米)の秋入学に変えることは絶対に必要なことだ。
日本の大学レベルのアップにも、
世界中から優秀な留学生を集めることは重要だ。
日本人自体にも日本で大学に入るにも、留学するにも
グローバルな教育ができる。
今や世界を意識せずに、世界で通用する学生を育てないとだめだ。
さらに、日本に来る留学生が日本の文化や歴史を知ることになり
日本との結びつきの強い留学生が多く育つことは国益に結びつく。

今、東大、京大などの日本の優秀な大学の留学生は
欧米の大学に比べると極端に低いという。
そして、中国、韓国が7割近いらしい。
これまた、ガラパゴス化になっているのか。

そして、大学ランクでは中韓には水をあけているが
積極的に取り入れている教育国韓国に
電化製品と同じくそのうち負けるんではないか。

教育だけは何にもまして
改革して力を入れるべきだ。
東大の5年先でも遅いのではないか。



【野鳥】六甲で相思鳥を見ました。

2012-05-14 01:09:22 | 感動・思い出

この写真なんだかわかりませんよね。
実は何枚もとった1枚なのですが、自分でもわかりません。

土曜日に東おたふく山から最高峰に向う途中で
きれいな野鳥を見つけて撮ったものです。
肉眼ではしっかり見えたのですが。
何枚も写真を撮ったのに、すべてこの有様。

この中で激しくさえずっている鳥がいるのですが。

しっかり目に焼き付けた姿をHPで探しまくりました。
相思鳥(ソウシチョウ)
不思議な名前です。
そう言えば、大きな声で鳴き合っていました。

相思鳥



一瞬、ジョウビタキかと思いました。
でもジョウビタキは良く見るし、
好きな鳥で何度も観察しているので違うとわかりました。

ラッキーです。
こんなきれいな鳥が見れて。
女性(メス)と必死で交信しているようで、
鳴き声はかなり激しかったです。
習性を知っていれば、(wikipedia参照)
「落ち着け」と言ってやりたかった(W)。

ブータンシボリアゲハが見れるんだって。

2012-04-05 00:07:32 | 感動・思い出
今日知ったのだが、前に書いた「ブータンシボリアゲハ」が
2月に東京大学総合研究博物館で展示されたという。
調査隊がブータンに残してきた5匹の標本のうち2匹が、
ワンチュク国王夫妻の来日の際、日本側に贈呈されたのだ。
そして、その貴重な標本が、無料で見られるのだ。

 

いいな、東京は。前に書いたブログ。
NHK「ブータンシボリアゲハ」の番組、よかった~。

そして、今回知った記事。
シボリアゲハ属のウンナンシボリアゲハを、
1981年に日本の登山隊員が60年ぶりに中国で再発見した。
その際のエピソードは、ミニヤコンカの悲劇という
歴史的遭難事故とともに、語り継がれている。
1981年5月10日、中国四川省にある標高7556メートルの高峰
「ミニヤコンカ」に挑んだ北海道山岳連盟の登山隊のうち、
8人が滑落事故で死亡。日本隊の海外登山で最大の遭難となった。
隊員の中に昆虫に興味を持つ者が2人いて、
滑落事故の前にベースキャンプ付近で珍しい蝶を採集していたが、
うち1人は事故で亡くなった。後にこの蝶がウンナンシボリアゲハと分かり、
60年ぶりの再発見は「悲劇の中での快挙」(展示文章より)として、
世界に伝えられたという。

そして、今回の「ブータンシボリアゲハ」の原田隊長は
アゲハチョウ科の生態の世界的な研究者で
2008年に亡くなった故五十嵐邁博士の愛弟子のような方だ。
原田隊長が12歳ぐらいの時、
東京から引っ越してきた五十嵐博士と知り合ったという。
この世界的な昆虫研究者二人が知り合ったのも感動的である。

蝶を追う昆虫学者には感動的な話がつきまとうようだ。
僕は昆虫にそんなに興味がないが、こういうお話は大好きだ。


五十嵐コレクション

下段左の1匹の「ウンナンシボリアゲハ」には、81年4月採集の記録がある。
これこそは、ミニヤコンカ登山隊員が採集したあの蝶なのだ。

前回にも書いたが「ブータンシボリアゲハ」の生息地は、
東側のチベット寄りの1カ所の谷に限られていて、一般人は入れないのだ。
(中国、インドが争う)国境に近い、ピリピリしているエリアで、現地の集落の人以外は行かないところ。
さらにジープで入れるのは途中までで、その先は道を作らないようにしているという。
国境エリアに入るのはだめということ。これが希少種の環境を守る役目も果たしたのだ。

ブータンシボリアゲハはもちろんのこと、シボリアゲハの仲間はすべて、ワシントン条約による保護の対象。
特別な許可がなければ、採集して持ち帰ることはできないのだ。
この時もブータン政府の許可で標本にできるのは5匹だけと決まっていた。
きれいなもの5匹だけを残して、あとは全部逃がしたという。(逃がす程とれたのも奇跡だ)
そして、ブータン政府に渡したうち、2匹が日本政府に贈られたんだ。

ミニヤ・コンカの悲劇
Mac仕様の方は文字化けします。テキストエコーディングを「日本語(EUC)」にすると読めます。

Googleの旅~イグアスの滝(世界7大自然景観)

2011-11-23 00:51:24 | 感動・思い出
ナイアガラ、ヴィクトリアと並んで世界三大瀑布と呼ばれる。イグアスの滝は、
高さこそ80mと、100mを超えるヴィクトリアの滝に及ばないものの、
川幅2.7km、36億リットル/分の水量は、他のふたつの滝をはるかに凌駕する。






川の流れと垂直に細い白いラインが横切っています。
遊歩道です。あれを渡って滝壺近くまで行くんですね。
どれぐらいの距離があるんでしょう、壮大ですね。



あれだけ長い遊歩道。水量も多いし、
ブラジル人が造っていると思うと大丈夫かいなと思いますが、
実際、過去に人が歩いているまま崩れたことがあるらしいです。

晴天ならば、太陽と逆方向にいつでも観察できるイグアスの虹。
条件がよければ満月の夜、闇に浮かぶ虹を見ることもできる。
伝説では、その虹には命を蘇らせる力があり、見た者を幸せにするという。





遊歩道、コンクリートでしっかり出来てるように見えますが、
ずっと休みなく水で寝食されてる訳ですからね。


ここに身を置くと、左右の立ち上がった滝に挟まれて、
まるで映画の十戒のワンシーンのような気がしませんか。
まあ、想像だけで楽しめる桃旗でしょ。
これだから、Googleフェチになるのです


Googleの旅~ハロン湾(世界7大自然景観)

2011-11-17 22:10:59 | 感動・思い出
ベトナム北部にある大小3,000もの奇岩、島々が存在する。







彫刻作品のような島々の景観は、太陽の位置によって輝きが変化し、
雨や霧によってまた趣のある雰囲気を醸し出す。






3000もある宝石のような島に囲まれている自分を想像すると…、
この写真の中に身を置いたらと思うと、すごく感動します。

車よりウォーキング。でも懐かしいサニークーペ1200GX。

2011-09-01 23:59:27 | 感動・思い出


今若い人に車が売れないという。

今、車が憧れではなく、あって当たり前、用途重視の道具。
車による個人の競争・差異意識の低下。
車を所有・購入する魅力も薄れてしまい、
同時進行で車自体も「エコ」とか便利さで、走りの楽しさやスタイリングなど、
自動車本来の魅力のある車が作られなくなったことも原因のようだ。
もちろん、若者の雇用不安と給与の低下に伴う経済的な問題、
さらに購買順位が下がり、携帯やゲームなど低価格商品に流れたからでもある。

僕の20代の頃、
給料をもらうようになって、真っ先に買った高額商品が車でした。
確か60万円だったかな、サニークーペ1200GX。
サニークーペの中でも最上位機種だったから当時でも高かった。
(スタンダードタイプで45万ぐらいだったか)

サファリラリーで日産が活躍していた時代、
国際的に認められつつあった日本の誇りみたいなものだった。
サファリカラーと言われた、からし色のクーペでした。

当時、デザイナーなんて職業は弟子入りみたいな世界。
他の職業から見ても所得は少なかった。
私の給料が1万5千円から2万円を少し超える時代。
(大企業の初任給4万ぐらいかな)良くこんな給料で買ったもんです。
ただ右肩上がりの経済、1年で3、40%給料が上がった。

今から10年ほど前のデジタルカメラが出る前の中国で。
月給数千円の中国人が年収の3倍程の一眼レフカメラを買っていると、
日本のニュースではキャスターが驚きながら話していた。

まるでその頃の僕と同じ、中国でも同じような時代だったのかな。
貧しいながらも国が右肩上がりで、
自分の将来に不安はなく期待しかなかった時代。

僕はメカには弱いけれどもクルマが大好きだった。
中学生の頃には、ほぼすべてのクルマの車種が言えた。

免許を取り立ての20代はじめの僕がこの高いクルマを買った。
理由は2つあり、
一つは初恋の女性を乗せて走りたいと夢を持った。
僕は車を持てば彼女が振り向くと思っていた。
実際夢は一度だけしか夢は叶わなかったけれど、
彼女を乗せて走った1日は忘れられない。
運転にも女性にも新米の僕は運転に集中出来ず、
自分でも危ないと思って、低速で慎重に運転したのを思い出す。

もう一つは、僕のデザイン学校の教師が、
当時人気の鈴鹿サーキットでレースをしていたチームの一員で、
自分のチームのレースカーをデザインしていた。
その教師の自慢は、規模も成績も話題にもならない下位チームだが、
当時日本人レーサー、人気実力ともNo1の生沢徹に
車のデザインだけは一番良いと誉められたことだ。

その教師は普段仕事で日産のクルマのパーツのデザインをしており、
当時はトヨタよりも技術の日産と言われており、
日産のファンだった僕はこの教師の影響もあり、
車好きが熱狂したサファリラリーのサニークーペを買うことを決めた。


Suny Cupe GX この後姿、今見てもかっこいい。
重低音のエグゾーストノートは今のF1カーよりしびれる音でしたよ。

クルマで走るのが好きだった。目的もなく街を走った。
といっても暴走族でもなく、メカオタクでもなく、ただただ、
クルマのかっこ良さと所有欲の満足感、そして何よりスピード感。

アメリカの有名なコラムニスト、ボブグリーンの17歳という小説の中に、
若者がただただ毎日、車で街を流す一説が出てくる。
若者はどこも同じようだ。

レーサーには福沢幸雄なんてかっこいい若者とかも出て・・・。
育ちは福沢諭吉の孫という超サラブレッド。
おまけに容姿もよく、モデルまでして映画スターのような若者だった。
そして、命知らずのレーサーでもある。かっこよすぎる。
さらに当時の彼の恋人は、人気の歌手の小川知子であり、
彼が自動車事故で亡くなり泣き崩れる小川知子の姿は、
まるでドラマか映画のようだった。

この頃、超話題のグラフィックデザイナー、横尾忠則が
ポスターに小川知子のイラストを使ったりしていたし、
世の中のすべてが僕の生き様とつながっているような気がしたものだ。

僕の20代は車とともにあったような時代だ。

車は日本の躍進のシンボルのようなもので、新しい車が発表されるたびに、
僕も含め若者の一番の関心ごとだったように思う。
今、新しい車が出てわくわくするようなことが少なくなってしまった。

そして何より、僕自身、今は車よりも歩くことに興味を持ってしまっている。
それでも唯一、復活した日産スカイラインGTRが僕をわくわくさせる。


NISSAN SKYLINE 2000GTR