アメリカの歴史、文化が銃を持たせ、憲法にも所持を記している。
私の記憶に強く残っていること。
昔、日本の学校で女教師が生徒にナイフで刺されて亡くなった。
学校が荒れていた時代で、教師への障害の事件が頻発していた。
刃物を学校に持ち込まないように持物検査をしたらどうかと意見があったが、
教育者側(教育委員会?)だったと思うが、
生徒の人権を侵すものだと猛反対があり、あっさり立ち消えてしまった。
何かと人権を声だかに訴える人の特徴だが、
いつも悪者側に立って訴える人が多い。
そして世間的に文化人と言われる人が多い。
世間に反して悪者の精神に持論を展開して自己顕示しているとしか思えない。
世間の大多数の情に絡んだ安直で稚拙な考えではその根本は変わらないという発想だ。
しかし生徒の人権なんて高尚な権利よりも、
学校に人が死ぬほどの刃物を持ち込む必要はないだろう。
これだけこの種の事件が頻発している時期だけでも、
有無を言わせず、持ち物検査をして済むことだと思うが。
と、その当時強く思った。
情緒不安定な思春期に、激昂した気持ちをコントロールできない年齢に、
殺傷能力のある武器がなければ、殺人なんて事件にはならないだろう。
教育者というのはどうしてこんな発想でしか考えられないのか。
毎年、何千人という重傷者が出ているというのにサーカス紛いの組体操を
教育の一貫としての必要性に執着する。
かと思えば、髪の毛の色一つに人間の品格を決めつけて、
教育に使う時間も情熱も校則の実行に費やす神経。
生徒に勉強に関係ない髪の色で、
地毛を黒く染め直さなければいけない色か否かと悩ますアホさ加減。
この話とアメリカの銃の問題は別の話だが、
この時代の日本と同じで、
どう考えてもシンプルに学校に銃を、
持ち込ませなければ解決することだと思うが。
トランプ大統領の解決策が教師に銃を持たせればいいと。
教師が打つ殺す前に、生徒が打たれてしまうのはどうする。
じゃあ、加害者(生徒)が銃を持っているだけで、
その前に教師が打てるというのはどんな人格?
いくら銃社会でも、打った教師にも精神疾患が残るだろう。
人権でも自由の国でも、
学校に銃を持ち込ませなければ事件も事故も起こらない。
結局、その延長で、
国中で一般人に銃を持たせなければ銃の事件事故は起こらない。