日々Change。今日の怒りも、恐れも、悲しみも、明日は夢と希望と喜びに。

少々高くても、日本の商品を買いましょう。力を合わせて日本の復興のために。

高知にて。「♪♪思い出はいつの日も…雨~♪♪」。

2012-08-27 19:11:27 | その他
雨、晴、雨、雨、晴、雨、雨、雨、晴、
この山間の集落は強い日差しが射したかと思えば
夕立のごとく激しい雨、そしてあわてて家に入ると
陽が射してくる。もう大丈夫かと、出るとまたスコール。
1日の天気が目まぐるしく変わる。

こちらの予報では水曜日まで雨だとか。
今年はほんとに雨にたたられる。
この1年でまったくお天気おじさん台無しである。
もう、看板も下ろしてしまった。
台風まで進路を変えてしまう。
今までの栄光のお天気おじさんの歴史はなんだったんだ。

まあ、雨も気持ちを切り替えれば悪くはない。

これを言うと叱られるんだが、
僕の娘が本当に「雨おんな」で、いろんな行事がことごとく雨だった。

幼稚園、小学校の遠足など当日雨で延期、
延期した次の週も雨で中止になったことさえ何度もあった。
あきれるほど、中学でも続いていた。

気にするのであまり言わなかったが、
一度何気なく言って、怒られ機嫌を悪くされたことがある。
僕から見ればそれも思い出になるし、気にすることもないと
思っていたから、軽口になったのだが。
考えればその同学年の生徒すべてが、雨おんな、雨おとこなんだから。

サザンオールスターズの歌に 「♪♪思い出はいつの日も…雨~♪♪」
と言うフレーズがある。
メロディーとともに僕は大好きである。
この曲が自分のテーマソングになれるのに素敵だと思ったが。
娘には通用しなかった。

これから僕のテーマソングになるのかな。
と思うと雨だって前向きに楽しくなる。

これからの人生、僕の作られていく思い出は
「♪♪思い出はいつの日も…雨~♪♪」。
今からだと、思い出少ないかもしれんけど。

TSUNAMI (作詞/作曲 桑田佳祐)

風に戸惑う弱気な僕
通りすがるあの日の幻影
本当は見た目以上
涙もろい過去がある

止めど流る清か水よ
消せど燃ゆる魔性の火よ
あんなに好きな女性に
出逢う夏は二度とない

人は誰も愛求めて 闇に彷徨う運命
そして風まかせ Oh, My destiny
涙枯れるまで

見つめ合うと素直にお喋り出来ない
津波のような侘しさに
I know…怯えてる Hoo
めぐり逢えた瞬間から魔法が解けない
鏡のような夢の中で
思い出はいつの日も…雨



山野井夫妻のクライミングのすごさ。

2012-06-24 01:38:10 | その他
先日のブログ(山野井泰史、妙子、木本哲。オルカに挑む。)の続き

僕は50代に山のクラブに初めて入った。
一通りの練習をしたけれど、その中でもクライミング。

僕の中には相反するものがある。
高いところは大好き、でも、結構高所恐怖症気味。
高いところから見るのは大好き。だから、
飛行機も必ず窓側席をゲットする。
ニューヨークでも真っ先に行ったのがエンパイアステートビル。
高所の吊り橋なども歩いて見たがる。
でも、それは僕が見て安全が保障されている場合に限って。

ビルの屋上も好きだけど、柵の格子の幅が広かったり、
吊り橋などの足場や横の隙間が広かったり、
ガラス貼りで安全と解っていても、
このガラスが割れたらなど、イメージでも恐怖感を感じてしまうと、
途端に震えだし、立っていられない。

僕を知る山の仲間は意外と思うかもしれないが、
(ながく、クライミングの練習には参加しないから)
クライミングを嫌いと思っているが、実は嫌いではない。

だがやはり、クライミングの場合は不安が先に立つ。
それでも、関西でクライミングをする有名な岩には
一時期、ほぼ、すべてチャレンジして登っている。

一度、クライミングの得意の人と二人で行った時に、
簡単な(している人にとっては)オーバーハング気味の岩に
チャレンジして落ちた。
ほんの少しの距離だが、結構トラウマになった。
体重も重いこともあり、
体を持ち上げるのには筋力がないのも問題だ。

そして、誰にも話していないが、僕がやらなくなったのには
やっぱり無理だと思った、もっと大きな理由がある。



プラスティックのブロック。
最初のデザイン会社に勤めた時に、
会社ではこのおもちゃを入れるパッケージのデザインをしていた。
新人だった僕はブロックの完成品を写真に撮って載せるためや、
販売店(百貨店など)で店に飾る完成品のサンプルを毎日作らされた。

 例えばこんな感じ

僕は初めて自分の指先が、
固く尖ったものを触るのが大嫌いであることを知った。
そういえば、六角ボルトのネジを回すのがすごく苦手だった。
話を聞いて、そんな遊びみたいなことを仕事でできるなんて
すごくうらやましいと友達には言われたが、
僕にはすごく苦痛な仕事で嫌でたまらなかった。

そして、クライミングはまさにこの指先がすべてなのである。
これが僕をクライミングを敬遠させる最大の理由。
簡単に血がにじんでくるのである。
あまりしないから、余計に指先の皮が軟らかく、痛点が敏感なのだろう。

 これが「カチ」
※他のHPから借用させていただきました。すみません。

この指先の感覚、痛くてものすご~く苦痛だ。

このブログの山野井夫妻の本を読んでいると
凍傷で切断した指の根元の皮膚から血が出たり、
裂けたりして、グリップした岩肌に血の跡が・・・とある。

この鍛えた人たちでさえ、指先が傷だらけなのだ。
自分の体重をこの指先ひとつで支えるわけだから、当然なのだ。
ちょっと、感動した。

クライミングをまたやってみたい、でもやはり僕には無理だ。

ちなみにクライミングで岩をグリップする方法はこんなにあるのだ。


カチ(クリンプ)
狭いホールドに4指を立てて、親指を上に添えるように持つ方法。上の写真がカチ持ちです。

パーミング
指のかけることのできない、丸いのっぺりとしたホールドを、手のひら全体の摩擦を得るように押さえつけて保持する方法。 こういう持ち方をするホールドをスローパーとも言います。

ラップ
ノブホールド(ドアノブのような出っ張り部分のあるホールド)を手で包むように持つ方法。

ポケット
穴状のホールドに指をかけ、ひっかけるように持つ方法。多く指をひっかけた方が、力も多くかけられる。

ジャミング
岩の割れ目のような部分に、手を差し込み、ねじったり広げたりして保持する方法。人工壁では、稀なケース。

ガバ
丸くて大きめのホールドで且つ、つかみ易いホールド(主にジャグ・ホールド)をガバっと覆うようにひっかけて持つ方法。

ピンチグリップ
親指と4本の指ではさむように持つ方法。

アンダークリング
下向きのホールドを持つ方法。手のひらを自分の方向に向け、親指はホールドの外に。足をあげ、体が上がるにつれて安定していく。

サイドプル
横向きのホールドを、ブラ下がらずに横に引くようにして保持する方法。

ガストン
斜め内側を向いているホールドを、肩を入れて斜めから押し上げるように保持する方法。

オープンハンド(タンデュ)
指を伸ばし気味にし、指先でかけるように持つ方法。親指をホールドの側面に当てることができる場合は、より安定する(これをセミアーケとも言う)。


※他のHPから借用させていただきました。すみません。

山野井泰史、妙子、木本哲。オルカに挑む。

2012-06-22 09:37:42 | その他
数年前、NHKの「白夜の大岩壁~クライマー山野井夫妻」
という番組を見逃してしまい、いつまでも残念な思いをした。
たまたまこの前図書館に行った時、
その同名の本を見つけさっそく借りてきた。




山野井泰史は90年代、2000年代初めには世界最強のクライマーと言われた。
その登攀の多くを単独、ソロでしかも無酸素で成し遂げている。
どれも世界の山岳史に残る記録といわれている。
山野井妙子、女性としては日本屈指の登山家にとどまらず、
登山家としても日本トップレベル。
女性クライマーとしては世界一かもしれないのだ。

泰史が単独で登攀するのは、たくさんの人と意見交換する事が
気持ち良くないという。自分で判断して行動したいかららしい。

その最強の二人が夫婦になったのは
クライミングパートナーとして同じ考えを持ち、
言葉を尽くさなくても同じ行動をする相手だからという。

二人とも未知の土地、未踏のビッグウオールに対する
パイオニア精神が誰よりも強い。
そして緊張感の強い泰史に対して
緊張したり焦ったりしない、落ち着いた性格の
妙子とはベストカップルであり、パートナーだ。

妙子がマルカーで登頂した後、遭難寸前となり
初めての凍傷を負ったのを泰史が見舞い、
次に泰史が富士山の強力仕事中に落石に当たり、
足を骨折したのを見舞った後、二人は
奥多摩で一緒に暮らし始めた。

二人で数々の山を登攀するが、
中国とネパール国境の美しくて難しいと言われる、
エベレストの近くのギャチュンカン(7952m)に挑んだ時、
珍しく妙子が体調を崩し、泰史だけが登頂した。
その10m先も見えない吹雪の中の下山の途中に雪崩に会う。
雪崩の後、中吊りになった妙子を救いに行く泰史の眼は
雪崩の衝撃で視力を失っていた。
目が見えない今、手袋越しでは岩の割れ目がわからない。
泰史は雪の中、凍傷になるのを覚悟で
素手をさらして割れ目を探すことを決断する。

この時泰史は、この後氷河まで降りるのに
ピッケルを持たなければいけないから
親指と人差し指は最低限必要と考え、
それ以外の指を使おうと考えたという。

そして、4時間以上かかって妙子のもとにたどり着く。
体調を悪くして胃液をはいている妙子を連れて
ベースキャンプについたのは3日後という。

後日談で泰史はギャチュンカン登攀を後悔していないという。
常に自分の能力を最大限発揮したいと思っていると。
ギャチュンカンでは体力、精神力、テクニックすべてを出し切り、
そして、帰ってこれたんだから、
僕の中では最高の登山の一つだと確信しているという。

泰史の両手は薬指と小指がない。右手は中指の先もない。
右足は5本の指すべてがない。
妙子の両手には指らしい指が1本もない。
足も左足の小指と薬指の2本以外ない。
両手両足を除いて18本の指がないのだ。

クライマーにとって指がないことは致命傷だ。
だが、この手足でも妙子はクライミングをこなしている。
泰史も指を失ったことでテクニックも制限されるようになったが、
2人とも絶対不可能と言われた岩登りができるようになった。

「どんなに頑張っても最終的に解決できないことが、
繰り返されたらつらいけれど、長年クライミングをやって、
できない動きを何度も繰り返していると、ある日出来るようになる。
それを知っているから続けられる、できたときには感動する」

泰史はソロで登った経験が多いせいか、人一倍安全に気を使う。
「最も天国に近い男」と言われた通り、
挑戦するルートは死と隣り合わせのものばかり。
しかし、登っている最中の行為一つ一つは「生きるため」に
必要なことを誰よりもきちんと行っている、という。

人によればこの命を粗末にしているとしか思えない行動(行為)と
安全に生きるために誰よりも気を使っているという行為の
相反する矛盾している行為に、
なんでわざわざそんなバカなことをするんだと思うだろう。

でも僕は人間だからする行為なのだと思うし、
人として生まれたからにはそうあるべきだと思っている。


泰史は長年憧れてきたグリーンランドの大岩壁に挑むのだ。
そして、もう一人のパートナー木本哲を伴って。

木本哲。日本のフリークライミング創成期から活躍し、
同じく世界各地の山々を登ってきたベテラン。
木本も足の指すべてを凍傷で失っている。
「植村直己物語」の撮影に山岳ガイドとして協力した。
その時下山できなくなったカメラマンを救助に向かって、
成功し、代償に凍傷を負い指を失ったのだ。
そして、彼も不可能を克服してクライマーとして復活した。

3人は同じ医者に手術をしてもらっている。その悲壮感を
笑ってしまえる、痛みや辛さを理解しあえる仲だ。

3人は「オルカ」と名付けた、1300mを超える
前人未到のグリーンランドの大岩壁に挑むのだ。


オルカ(約1300m)



是非、見ていただきたい。
読んでいただきたい。
壮絶なのである。
そして、楽天的なのである。

有言不実行?中山道を歩いてみる(ing)

2012-05-15 01:53:09 | その他
ウオーキング倶楽部に入って昔の街道を歩いている人が大勢いるのを知った。
私も年を取って浅いながらも歴史好きになって、その波及効果で
昔の暮らしに興味を持った。
そして、建物に風物に土地に興味は広がって行く。
昔の面影を探して、街道歩きもしてみたくなった。
そこで、選んだのが一番興味のある「中山道」
構想1年、未だ途中だけれどそろそろ前半を歩き始めてみようかな。
もちろん、遠くになるとお金も時間も耐力もいる。
どこまで実現できるか自分ながら、乞うご期待である。

その前に、京都トレイルをしようと調べて準備が終わって
いざ実行と計画した日に限って空模様が怪しく中止。
そんな時に、ちょうどクラブの会員の方も実行中と言うのを知った。
先を越された?じゃないけれど、こちらと平行してやるつもりだ。

【中山道】
●草津(東海道草津駅)~守山(東海道守山駅)/5.1km=2:10
 M駅7:40新阪8:04草津8:52/守山12:23M駅13:47
●守山(東海道守山駅)~武佐(近江鉄道武佐駅)/16.5km=6:40
 M駅7:40新阪8:04守山8:57/武佐17:25M駅17:01
●武佐(近江鉄道武佐駅)~愛知川(近江鉄道愛知駅)/11.1km=4:10
 M駅7:40新阪8:04武佐9:16/愛知川14:28M駅16:31
●愛知川(近江鉄道愛知駅)~高宮(近江鉄道高宮駅)/7.4km=3:00
 M駅6:58新阪7:19愛知川8:55
●高宮(近江鉄道高宮駅)~鳥居本(近江鉄道鳥居本駅)/6.4km=2:40
  /鳥居本16:14M駅18:01
●鳥居本(近江鉄道鳥居本駅)~番場(東海道米原駅まで3km)/5.4km=2:10
 M駅7:40新阪8:04鳥居本9:28
●番場(東海道米原駅から3km)~醒井(東海道醒ヶ井駅)/4.3km=1:50
  /醒ヶ井15:34M駅17:31
●醒井(東海道醒ヶ井駅)~柏原(東海道柏原駅)/5.4km=2:10
 M駅6:58新阪7:19醒ヶ井8:51
●柏原(東海道柏原駅)~今須(最寄り駅なし)/3.3km=1:20  
●今須(最寄り駅なし)~関ヶ原(東海道関ヶ原駅)/4.2km=1:50
  /関ヶ原15:19M駅17:31
●関ヶ原(東海道関ヶ原駅)~垂井(東海道垂井駅)/5.2km=2:10
 M駅6:58新阪8:20関ヶ原9:06
●垂井(東海道垂井駅)~赤坂(東海道美濃赤坂駅)/5.9km=2:30
  /美濃赤坂15:43M駅18:31
●赤坂(東海道美濃赤坂駅)~美江寺(樽見鉄道美江寺駅)/9.6km=4:00
 M駅6:58新阪7:19美濃赤坂9:39/美江寺15:48M駅18:31
●美江寺(樽見鉄道美江寺駅)~河渡(東海道穂積駅まで3km)/4.8km=2:00
 M駅5:49新阪6:25美江寺9:22
●河渡(東海道穂積駅まで3km)~加納(東海道岐阜駅)/5.9km=2:30
  /岐阜15:19M駅18:01
●加納(東海道岐阜駅)~鵜沼(名鉄鵜沼宿駅)/17.4km=7:00
●鵜沼(名鉄鵜沼宿駅)~太田(高山鉄道美濃太田駅)/9.3km=3:50
●太田(高山鉄道美濃太田駅)~伏見(名鉄明智駅)/8.1km=3:20
●伏見(名鉄明智駅)~御嵩(名鉄御嵩駅)/4.5km=1:50
●御嵩(名鉄御嵩駅)~細久手(最寄り駅なし)/11.4km=4:40
●細久手(最寄り駅なし)~大湫(中央線釜戸駅まで6km)/6.9km=2:50
●大湫(中央線釜戸駅まで6km)~大井(中央線恵那駅)/12.3km=5:00
●大井(中央線恵那駅)~中津川(中央線中津川駅)/11.3km=4:30
●中津川(中央線中津川駅)~落合(最寄り駅なし)/4.1km=1:40
●落合(最寄り駅なし)~馬籠(最寄り駅なし)/4.6km=2:00
●馬籠(最寄り駅なし)~妻籠(最寄り駅なし)/7.3km=3:00

ここまで行ければ万々歳。だけど、計画しただけでも課題は多い。

【京都トレイル】
京阪「伏見稲荷駅」 〈4時間← →3時間45分〉地下鉄「蹴上」駅
地下鉄「蹴上」駅 〈3時間25分← →2時間50分〉銀閣寺道
銀閣寺道〈3時間10分← →4時間10分〉「ケーブル比叡」駅
ケーブル「比叡」駅北山〈4時間50分← →4時間〉「戸寺」バス停
「戸寺」バス停前〈2時間20分← →2時間40分〉叡電「鞍馬」駅
叡電二ノ瀬駅〈3時間35分← →3時間45分〉京見峠分岐
京見峠分岐〈4時間5分← →3時間45分〉清滝金鈴橋
北山金鈴橋〈2時間15分← →2時間10分〉阪急「嵐山」駅
阪急「嵐山」駅〈1時間35分← →1時間40分〉「苔寺」バス停

まあ、歩き始めて考えよ。ようは実行。
京都トレイルと中山道。
有言不実行を恐れず1歩踏み出そう。
ブログを見ている人で部分的にも付き合う方歓迎。




登山用ストックの使い方、間違っているぞ、第2弾。

2012-05-10 01:05:00 | その他
昨日も書いたが、今みんなWストックを使っている。
そして、1本使いのT型ストックを使っている人は少ない。
むしろ、僕が準会員になっているクラブでは
T型は老人用の杖だと言う。山で使っているのは素人扱いである。

ストックは小さく収納出来るように、
また使用者の身長に合わせられるように、長さの調整が出来る。

それを山のクラブでは、Wストックを登りの時は短く、
下りの時は長くするように指導している。
つまり、前に付くストックが登りも下りも、
伸ばした腕が水平になるようにするということ。

ストックは耐力のない方の平地歩きに有効だから、
ストックの長さで山の斜面を平地歩きのように再現しようとしているのだ。

僕が言いたいのは
まず、近郊のこの程度の山の登りでストックは必要ない。
使ってはいけないと言いたいぐらいだ。
街中で杖を必要とする人以外は(W)。
そんな人はケーブルを使いましょう。

動物と同じ4つ足は安定するという理論で言っているが、
動物の場合、胴が長いから。
(僕も胴が長い?2足歩行ではなく、4つ足だと胴は横に長いでしょ)
そして、動物にはしっかりした足裏があるから。

4本の足で歩くと言うことは体重を移動すること。
手を伸ばしたストックまでの長さの距離が胴体になる、
ストックの足は役に立たない。
おまけに足の裏(ストックの先)は先の尖った細い足である、
体重をかけるべきではない。

登りで使うと自然の山では傾斜が様々で、
動物の間接がある前足では歩きながら長さが自在に変えられる。
ストックを突いて歩くと前のめりになったり、
身体が起き上がったり安定しないのでバランスを崩す。
第一、全く意味がない。

下りでは使いたくなるが、使い方によっては危険きわまりない。
どうしても前かがりで歩くため、細いストックの先と設置面の不安定や
長さ調整できる構造ゆえに、ストック自体のトラブルが生じれば
上体から斜面に突っ込んでしまう危険がある。

筋力をつけるためにも、使わないことにこしたことはないが、
私のように膝のトラブルが発生した時や、
痛みが起こりそうな予兆に見舞われれば使いたいものだ。

そのときは4足歩行の前足と言う観念で使わず、
子供の自転車の補助車のように、あくまでも2本足の補助、
バランスの支点と言う意味で使うべきだ。

あくまでも斜面に対して正面にストックを使うのでなく
スキーで言う斜滑降で降りるべきである。

下りで使うなら、
むしろ1本使いのT型ストックを身体の後ろで使うべきだ。

つまり、雪山で下りの時にピッケルをどう使っているか。
斜面に対して斜めに降り、
短いピッケルを山側に支えて使っている。
体重は2本足より気持ちいつも後方で
ピッケルに気持ちだけ、かかっているイメージ。
ピッケルがどうしてT型をしているかここに答えがある。

ちなみに僕はピッケルを使ったことも、持ってもいない。
ピッケルを使って雪山を下るDVDを見て、
自分が降りている気持ちになって感じたことだ。
スキーで行った雪山は数えきれないが、
スキーではなく近場の山に冬に登ったことは何度かしかない。

その他、何度か登った山の実践から書いている。
登山学校や本から道具の使い方を得たとしても
それはその人が解釈したもの。
こう書いてあるから、言われたからと鵜呑みにして判断せず。
自分なりにしっかり身体で解釈するべきである。

しかし本題はやはり昨日と同じ、
六甲山でゴムカバーを外してストックを使うな!
積雪時以外、アイゼンを履いて歩くな!


怒り新党 御精読ありがとう


登山用ストックのゴムカバーを外すのは間違っている。

2012-05-09 01:41:07 | その他
僕は六甲山が大好きである。日曜日にトレッキングをしたが
同じように六甲が好きな方とたまたま出会い、少しいろんな話が出来た。
その時に僕が日ごろ気になる話をしたら、強く賛同してくれたので、
トレッキングをする人に聞いてほしくてここに書きたい。

ストック、特にWストックで歩いている方に言いたい。
ストックの先のゴムカバー外さずにしたままで歩きなさい。

実は僕の所属するクラブで山登りのセミナーをしており、
ストックの使い方でわざわざ外しなさいと教えている。
それは間違っている。

私はお金を払ってまで、受ける気はないので
一度もセミナーを受けたことはない。

ある時、クラブのリーダー的存在の職業が坊さんの人と登ることがあった。
彼はセミナーで教えているクラブの代表である人と僕が
同じ時から山を始めた話を聞いており、その僕がカバーをしているのを見て、
「長年、山を登っているのにそんなことも知らないのか」
「カバーを外さないで使って意味ないだろう」
と馬鹿にしながら僕に指摘した。

それは山以外の移動の時に危ないから付けてるカバーで
使う時にそれを外さないと意味ないだろうと言うことらしい。

僕は正確なことは知らない。
しかし使っていれば、自然とそれは間違いだとわかる。

クラブがセミナーで、また普段の山行で休憩の折、
ワンポイントと称してただで教えてくれる事項である。

教えている代表と友人でもあり、準会員の僕が違う意見を言うのは良くない。
代表の言っていることが間違いと指摘することになる。
そんな思いでずっと封印してきた。
そして、この時も黙って従うふりをした。

スキーの経験の永い人はわかると思うがスキーにストックは必需品だ。
雪だから役に立つ道具だ。雪が深くても、堅くなっても適度にグリップする。
アイスバーンを滑ると石突が氷を適度に砕いてグリップしてくれる。
生半可だと氷にはじかれて、ストックが滑りアイスバーンでコントロールできない。
(もちろん脚力のある方は、スキーエッジだけでもコントロールできる)
といって、昔のような先のとんがったストックは弾かれて滑るか、
適度に刺さらないと、深く入り込むと抜けなくなって引っかかってしまう。

あの、石突のストックは雪に最適なのだ。
それがいつから山にも使われだしたのか、
おそらく山スキーから山歩きのトレッキングに使われ始めたのだろう。
つまり2足より、4足の方が疲労なり、筋肉に負担が少ない。

山の道には、ガレ場(大きな石の散在した道)や大小の石が混在した土の道、
土だけの道と色々あるが、先が石突の状態のストックが必要だろうか。
石の道を歩くと堅い石にはじかれたり、
氷じゃないから表面を削ってグリップしないから滑ってしまい、
逆にバランスを崩すし、使うと危ない。
使うならカバーを付けたゴムの状態の方が手にクッションにもなり、
ゴムなので少しは石の上で滑らずにすむ。
石まじりの土の道も結局、石に当たって同じだ。
土だけの道は石突で突き破ってまでストックを食い込ませる必要はない。
むしろ、粘土質だと食い込んで抜けなくなることもある。

おそらく、あのゴムのカバーを作った人も
形状を見れば単なるカバーの用途だけに作った筈ではないとわかる。
接地面が広くあたるように底が広く出来ている。
カバーだけの用途なら不要な形態だ。


この間違ったことを会員に教えている人は本からの知識か、
当たり前にカバーと解釈して、
もっともらしい自分理論を膨らまして話しているのだろう。
本に書いてあっても間違ったものはいくらもある。
後に正しい知識をえて変わることも多い。
鵜呑みにせず、使っている自分で正しいことかどうか判断するべきと思うが。

ヨーロッパから入ったストックのブランド「LEKI」。
ブランド好きの僕の少し前の世代、
高額年金取得のオヤジが猫もしゃくしも購入した。
山は上級商品の『LEKI』だらけ。
このクラブでも命が大事なら、ケチらずに「LEKI」にしなさいと言っていた。
僕にいわせれば、国産でも十分だ。

家族連れが楽しめる、六甲山に必要ないだろ。

僕が言いたいのはそのことではない。
六甲がストックで破壊されているのだ。
道は本来踏み固まれてしっかりするのだが、
山道がストックで掘り返されて山道が固まるどころか
雨が降るたびに、山道の土が流されてしまう。

えぐられ、流され、まるで谷のようになった山道が益々ひどくなる。
(六甲の場合はアイゼンワークの練習に、雪もないのに
アイゼン付けて山道を歩く、自己中心型の人間がいるのも原因)
崩れて、道の谷川がくずれたり、山側が削られて行く。


年寄りが増えると益々、ストックを使う人は増えるだろう。
僕だって、苦手なきつい下りは膝を守るのにストックを使う。
それでもゴムのカバーは付けている。

六甲では
なんとか、アイゼン禁止とストックにカバーを付けることを
義務付けられないか。広められないか。

下手な山の知識を得て上がってくる連中に言いたい。
自分の足で何度も何度も登りなさい。
自ずと正しい知識を得られるし、必要なものがわかる。

あなたたちは自然破壊してるだけだ。
六甲は日曜日に出会った、子供たちや、若いカップルの楽しめる
貴重な山だ。


夢は逃げはしないけど、僕に寿命がある。

2012-01-11 01:21:23 | その他
ウオーキング倶楽部の代表のブログを見ていたら
そろそろ僕の引退を考えていたと書き込まれていた。
この会は年頭に各自1年間の目標を発表する。
私の今年の目標を見て
もう少し様子を見るような趣旨が書いてあった。

そうか、新ためて考えると
この倶楽部は50才までとあったのを無理矢理入れてもらったのだ。

会の年齢層が高くなるのは良くない。
登山倶楽部でよくわかった。
ジジ臭くなるし、活性化、創造性、全てがなくなってくる。
本人も、スピードについて行けなくなり、
無神経な人は別で不参加が続き、自然と退会を考える。
当時、私が好きだった70代の女性が
もう皆に合わせて歩くのがしんどいと言う、
かといって、私に合わせて歩くのもどうかと思うので
辞めるつもりだと話していた。
僕は「そんな、Kさんがいないと淋しいじゃないですか」
と言いつつも、確かにあまりにスローだと楽しめない。
今度また会とは別で、のんびり一緒に登りましょう。
といって、その後お会いすることはなかった。

ちょうど今、このウオーキング倶楽部に入会して1年。
他を調べることもなく初参加して、そのまま居座っているが
僕にとって、ホントに良い倶楽部に巡り会った。
ウオーキングの事を沢山知ることが出来たし、
目標の設定や楽しみ方、協会や大会のあることも知った。

引退となっても
代表やリーダーの方のブログを見れば
まだまだ、関西近辺歩きたいと思う所が沢山ある。
そこを一人で楽しんで行っても充分ある。

仲間と歩くのは楽しいもので、いつまで続けられるのか
仕事と同じで、いつリストラされるのか、
されても良いように覚悟はして、今はとりあえず毎回楽しもう。
リストラされるまでに、リーダーも1度しとかんと。

それにしても僕の目標の2つが、なかなか果たせない。
実は次ぎに行く他の山の目標もあるので
とりあえず、槍ヶ岳行かんと。
毎年、夏に設定して取り組むがトレーニングの途中で
体の次々新たに起こる不調で断念したり、慎重になったり、
会社の休みを取る難しさに先送りが続いている。
槍ヶ岳に登らねば次の目標に行けない。
しかも年を取るばかりだ。
今年こそ、少々無理をしてでも準備をして行きたい。

今まで登ったちょっと高い山(スキー以外)
御嶽山、雨飾山、伊吹山、荒島岳、奥穂高、北穂高、屏風の頭、
蝶ガ岳、石立山、羊蹄山、駒ヶ岳。その他今思い出せん。
うーんチョトしかないな。がんばろ。

もう一つの目標、Bジム。
これが年寄りで入るのが難しい。
各ジムの特長を見て選びたいが、
体力上遊びに近い年寄りを受け入れてくれる所でないと。
といって、女性向けのダイエット指向の所は嫌だし。
近さ、交通の便、就業後ということもあって、
なかなか、決まらない。
やっぱり、普通のジムで筋トレしてからかな。
奥さんも絶対行ったら良い、と言ってくれるが。
とりあえず、1月中にも門を叩いてみよう。




桃旗、ただ今妻の実家に帰省中。その4、初登り。

2012-01-01 22:18:32 | その他
2012.1.1

家の裏のさらに実家のお墓の裏山にあるお堂に、
お供えをしてくるように頼まれた。

 向こうに見えるのがお堂

細い獣道のようなところを行くとお堂はすぐに見つかった。
お堂の裏の山を見ていると少し登ってみようかと思った。

そこに女性がお供えを持って現れたので、聞いてみた。
子どもの頃は登ったんだけど。
ここに来る少し手前に細い道みたいなのがあったでしょ。
そこを登ると、鉄塔のところに出て、お宮に出ると言う。
今は山の裏から車でいけるので、ここから登る人はいないと。

じゃぁ、行けるとこまで言ってみようと、
少し戻って、道らしいところに分け入った。
途中で人が通らなくなったと言ってもどうも道の感じがしない。

無理矢理急斜面を登り、岩を越え、柔らかい斜面に足を取られながら
とりあえず、行けるところまで行った。
どうも入った道が違うらしかった。
あの女性も、もう覚えていないのか、
僕が入ったのを見ていたから間違ってたら言ってくれた筈だから。
山は登は良いが降りれなくなる恐れがある。
少しヤバいかなと思った時、前方斜面の上が下から見て
道のような雰囲気がする。

あそこまで登って、違ってたら降りよう。
果たしてしっかり道らしい物だった。



しばらく行くと崩れていて道がない。
慎重にあちらへこちらへ見ていたら、
倒れた樹木に赤いテープを発見。この方面らしい。
それにしてもイノシシが掘り返した後が多い。
まだ新しいのもある。
気をつけないとその辺にまだいるかも知れない。
でも、六甲で慣れているのであまり恐くはない。
一度六甲で寝ていて、
僕の体程のイノシシが顔をのぞき込んでいたことがあった。
道が崩れているとこがある。



岩場を登り、帰りに降りれるかを確認しながら進んだ。
食料も水も夜間用電灯も山の道具は何も持っていないのだから。
細心の注意をしないと。





そんなことを繰り返していたら、鉄柱のところに出た。
間違いなかったようだ。


こんな所にあるなんて、誰も知(し)んめいw。神明宮(だじゃれか、バチ当たるぞ)

無理矢理下からこじ開けてお供えしました(ええ年にしてな)

更に登ると「神明宮」と言う鳥居と奥に祠があった。
他に置く予定だった、お供えを置いて下って行った。
帰る途中妻から電話が入った、心配していたようだ。

戻ったところで義父が、今はイノシシや猿が出るから
気をつけないと、と言われた。

僕も猿は怖い、昔、信州の柄沢に行く登山道で出会った時は
ホントに恐かった。

でもちょっと気持ちのいい山登りだった。

桃旗、ただ今妻の実家に帰省中。その3、194号線仁淀川。

2011-12-30 23:49:55 | その他
2011.12.30

大三島からしまなみ海道大橋に入った。
フェリーで今治まで行き、走るよりも大三島に遠回りしても
かなり早くなる筈だ。

四国に架かる3路線の橋の中で、このしまなみ海道が一番美しい。
フェリーを降りてから高速に入る大三島ICは島の一番反対のところにある。
しまなみ海道の大三島はちょうど真ん中あたりなので、
ドライブもたっぷり楽しめる。

大三島橋(大三島ー伯方島)~伯方・大島大橋(伯方島ー大島)
~来島海峡大橋(大島ー四国・今治)
少しガスったような、幻想的な橋の上の景色が走り去って行く。
気持ちいい。思いっきりアクセルを踏み込んでいる。
145km。この車で出した最高速度。
これで車がスポーツタイプだったら最高なんだが。
なんせ、風切り音が安っぽいバンのような感じだ。



ハンドルにデジカメを載せて適当にシャターを切る。
新婚旅行でサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを通って、
3っの大橋を渡って、またSFまで1周回ってきたことがあった。
嬉しくて、興奮して真っ赤な橋を眺めながらゆっくり走ったな。

今治に入ってしばらく行くと196号線に入った
この道の前方に石鎚山の連峰が見える。
穏やかな普通の山の後ろに、薄紫がかった荒々しい岩の山が
異様な質感で迫り来る。





富山から見える立山連峰のようだ、感動的。

残念ながら、信号待ちで取った画像を確認するが
この迫力は写らない。何度もシャターを切るがとれない。

194号に入って山越えだ。後、約60km。
寒風山トンネルに入る。約5.5km。
日本の無料で走れるトンネルとしては最長の長さである。
名前を聞いただけで寒い。
ほとんど直線のトンネル、130km駆け抜けた。それでも長い。
(後で義父に聞くとスピードの取締を頻繁にしているらしい。)

この山道に入ってから、寒風山あたりから距離にして30km。
何処まで走っても車に出会わない。すれ違った車は2台だ。
このカーブのきつい山道を平均時速100kmで走りまくった。
まるで、ラリーだ。
吾北地区を過ぎたあたりからやっと車を見るようになった。
お店が現れ、仁淀川に架かる橋がきれいなイルミネーションで
飾られている。大きな建物(後でシルバーセンターと知る)も
側面をきれいなイルミネーションで飾られていた。

真っ暗なだけにホントにきれいだ。
川幅が広いので、LEDもかなりいるだろう。
貧乏な自治体なのに日本の不思議だ。

この辺りで少し休憩したので、実家には7時頃に着いた。
ボンカレーのような懐かしいカレーが出てきた。
美味しかった。義父、義母、義弟、妻、みんな元気そうだ。

        ■

2011.12.31

皿鉢料理が大晦日の夕方に届いた。
生ものなのでお正月前だが皆で頂いた。

鉢は一の鉢、二の鉢、三の鉢とあるのだ。
それぞれ、中味がみんな違うということだ。
海老、カニ、お寿司、普通のおせち料理に入っているもの盛りだくさんだ。

更に、鰹のたたきの鉢。
マグロのさしみの鉢。義父さん、はり込んでくれた。

写真はいつものように食べてしまって、
あっ、写真!ということで、それぞれ2皿を集めてもらって、
なんとか撮影。やれやれ。






産まれて数カ月だけの故郷。大崎上島。こんな偶然が。

2011-12-30 21:13:27 | その他
僕の故郷、大崎上島は潮待ち風待ちの島と言われる。
昔の船は、司馬遼太郎の菜の花の沖などを読むとよくわかるが
帆が一つなので、風の向きや潮の向きで走らないのだ。
だから港でその潮や風を待たなければならない。


実際、風待ちの偶然ですごい話がある。

7年ぐらい前。
僕のお金持ちの友人がヨットを買い換えた。
そのヨットが九州にあって飛行機で取りに行き、
瀬戸内を航海して大阪までクルージングするという。
6日ほど日にちがかかるのだけれど、僕は仕事で休めず行けなかった。
このことはいまだに残念でならない。

僕の娘が行きたいと言い、彼の4人の子供たちに交じって行くことになった。
関空で片道の飛行機代を渡したが、後で娘がVIPルームで何とかかんとか。
まさかファーストクラスに乗せたんでは?内はそんなお金ありません。
知らんぷり。それはいいんだけど。
ヨットはキッチンもトイレもついていて6人ぐらい寝れる船だ。
乗るだけなら10人以上乗れるぐらいのヨットで
夜はどこかの沖合に停泊して眠るのだ。

九州出航3日目ぐらいに(行く前日ぐらいから気になっていたが)台風がドンピシャで
瀬戸内海に向かってくることがわかった。
僕は大阪で心配だったが位置がはっきりわからないのし、どうにもならない。

ヨットは転覆しても復元するように底にキールというのが付いているので、
水深の深い港でないと入れない。
彼は港で非難すべく、海上保安庁や警察に問い合わせていたようだ。
やっと見つかった水深の深い港に避難してから、僕に電話をしてきた。

彼の話からどうも僕の故郷の島じゃないかと思いだし、
彼に島の人に聞いてもらうと、本当にそうだった。
なんという偶然だろう。たくさんある瀬戸の島で僕の故郷に入るなんて。

それも少し意味が違うが、風待ちの島に台風のかぜよけに。

予定ではその島の側を通ることもなかったんだから。
台風が招いた偶然。
島にいる叔父さんに電話をしたら、足が悪くて訪ねて行けないと。
友人も偶然を喜んでくれて、次の日娘を唯一島で知っている
父の弟の家に連れて行ってくれた。

今回亡くなった叔父さんだ。娘はほとんどあったこともなく、喜びもなかったが。

船大工のおじさんはもう船を作っておらず、
昔、僕たち甥に1台ずつ作った小舟を友人にヨットで引いて、
もって帰りなさいと言ったらしい。

友人は問い合わせてきたが、もらって帰っても繋いでおく所もなく
使うこともないので断った。
そうなんです。この船大工の叔父さん、
当時、大阪の兄の子供4人に(5人兄弟だけどその時は4人)
1台づつ一人乗りの小さな船を作ってくれたんです。
夏休み、田舎に帰った時乗った記憶があります。
少しの波でバランスを取るのが難しく、
みんなあまり乗らなかったと思う。
今でいうカヌーぐらいの大きさ。和船のシーカヌーと言えるかな。

子供2人を僕は田舎に連れて帰ったことがなかった。
だから、神さんが娘を連れて行ったのかもしれない。
この偶然の話。僕はとっても気に入っている。

桃旗、ただ今妻の実家に帰省中。その2、大崎上島。

2011-12-30 20:51:41 | その他
2011.12.30

いよいよ、32年振りの故郷だ。と言っても、
物心ついて1年以上も住んでいればもっと感慨深いだろうが。



漁師の船に乗せてもらって島に渡っていた時、
おじいちゃんが昔は海賊が出てよく襲われたと言っていた。
そのために船でおかゆを炊いておき、
近づいたらそのおかゆを海賊にかけるんだという。
お湯と違って体にまとわりつくから、おかゆの威力は強いんだ。
という話を聞いたのを思い出した。
小学生前の話だ。よく覚えていたもんだ、印象に残ったんだろう。

船べりに座り、手を海につけて波を切っていると、
サメに手を食われるよ、と脅かされたことも思い出す。
怖がりの僕はあわてて手を引っ込めたが、
実際にそのあと、すごい偶然だと思うが小さなサメがいたことがあった。
あれからいつも、サメがいるんじゃないかと思うようになり、
底の見えない深い海が怖くてしょうがない。


四国に渡るには3つの橋のルートがある。
明石大橋、なると大橋の淡路島ルート。
昔の宇高連絡船に近い瀬戸大橋ルート。
そして、広島、愛媛の瀬戸内海の小島をつないだ
しまなみ海道ルート。

私の故郷は一つ西にずれてしまって、ルートに入らなかった。
海賊の島とおじいちゃんに聞いた、お隣の大三島がルートに入った。
この辺りは無人島が多く、大きくなったら自分の島を持ちたいな。
なんて思っていたものだ。乗せてもらった船で無人島が見えると、
あの島には小さな砂浜があるから、あれがいい。
あの岩の端に家を建てて、浜まで階段をつけてなんて空想したものだ。
実際あの頃、俳優の森重久弥が瀬戸内海の無人島を買っていると聞き
あこがれたものだ。



港が見えたが面影もない。しかし、気持ちは感慨で一杯だ。
島に着いたが全く分からない、フェリー乗り場のおばさんに
お年寄りなんで知ってるかと叔父さんの名前を言った。
やっぱり想像通り知っていた。
わりと大きな島だが、名前を言えばわかると思った。



らしきあたりまで車で行ったが、わからない。
できるだけ古いお家の数人に聞いて何とかたどり着いた。

何度呼んでもおばさんは出てこず、テレビの音が聞こえるので
遠慮なく家の中に入るとおばさんはこたつの中にいた。
「お茶も出せないよ」というおばさん。
日本中にこんな一人暮らしのお年寄りがいっぱいいるのだろう。
お正月まで子供さんは帰ってこないようだ。



実はこの叔父さんの家の前まで、入江、海だったんだよね。
32年前に来た時、ちょうど埋め立てられつつあったけど、
まだ、昔のままの姿だった。
叔父さんは数少ない船大工で、ちょうど最後の船だと言って
ほぼ完成間近の船を作っているところだった。

それが今では入江の中に、広い道が走り、きれいな家が建っている。
わずかに面影がある、家の前の水路。
そう、僕は小さい頃ここに落ちたんだ。
そういえば僕は良く船から落ちたりしていたな。
今でも海にブクブクと沈んで行っている自分をおぼえている。



叔父さんのお参りをして、叔母さんと話をして、
夏休みに帰っていつも泳いでいたなつかしい外浜海岸に行って見た。
昔は沖合に飛び込み台があったな。
この海は藻が生えていてその中に入ると藻が体にあたって気持ち悪かった。





叔父さんの家の前の入江では、今では天然記念物の兜ガニがたくさんいたな。
気持ち悪いカニだった。



四国に渡るのに島の南、木江港に向かった。
ここはみかんの島、僕の小さい頃はたくさん送ってくれて
毎日のように1日20個ぐらい食べた記憶がある。
お蔭で今でも、指で触っただけでおいしいミカンがわかる。
スーパーでばら売りだとおいしいミカンだけを10個ぐらい選べるので便利だ。
中々バラ売りがないのがねぇ。

  





海賊を撃退したという弓張岩や
途中、クマさんこと篠原勝之さんの鉄のオブジェがあった。
ふれあい郷土館は船の形をした建物だ。




木江港に着くと四国の今治に渡るフェリーは18:45の出航だ。
あまりにも遅いし、今治まで1時間以上かかる。
そこから実家まで山道を3時間ほどかかる。
15:20出航の大三島、宮浦港行のフェリーがある
高くつくが大三島からしまなみ海道大橋に入って行こう。

そういえば朝から何も食べていない。
釣りをしているオジサンに開いてるかわからないけど1件だけある
食堂を教えてもらった。

 

 木造4階建て、めずらしいよね。

帰ってくるとオジサン、入れ食いで連れていた。
売るほど晩のおかずが連れてしまった。
そういえば32年前、叔父さんに釣った魚をすぐさばいてもらって
食べたけどおいしかったよな。



故郷、さようなら。さあ、ぶっとばして妻の実家へ。

桃旗、ただ今妻の実家に帰省中。その1、広島・安芸津港。

2011-12-30 20:39:10 | その他
30日朝より、妻のいる高知に車で帰省することにした。

そして、少し前に亡くなられ、お通夜にもお葬式にも出られなかった、僕の故郷の叔父さんのお参りと叔母さんへのお悔やみに、瀬戸内海の島に寄ってから四国に渡ることにした。

07:13 出発
ナビによると安芸津港に11:37着と出ている。
長く乗らなくなった車で長時間運転、腰は大丈夫か。
1時間ごとにストレッチをしながら、よし、休憩を入れて11:30までに着くぞ。
中国道 池田IC in
~山陽道 白鳥PA 吉備SA 小谷SA 高屋IC out
到着なんと11:10 安芸津港。
実は桃旗非常にスピード狂なのです。各休憩15分程とったにもかかわらず
ナビの予想到着時間はどんどん短くなっていくのです。(キャーほとんど120km、嫁さんに内緒)


着いたよ、長かった。
           

こちらJR安芸津駅、記憶にはないなぁ。



酒蔵のようなチケット売り場。        


そう、こんな小さな漁港だった。


フェリーが 12:00発なので小さな港をぶらぶらする。
帆立ての貝殻をいくつも重ねたものがたくさん置いてある。
牡蠣かなと思うものの、同じ貝殻に?沖から帰ってきた小さな漁船の猟師に聞いてみた。
帆立ての貝殻に牡蠣の卵を植え付けて何とかかんとか。
「あんたらが思うよりも牡蠣は手間がかかるんじゃけん」を何度も。
余程、楽そうに言われて来たのか。私はこれからは大変何だと思いながら有り難くいただきますよ。


この帆立の貝殻に牡蠣の卵を植え付けるとか 

 
フェリーのない頃こんな小さな漁船に乗せてもらって島に渡った。


32年前、結婚してすぐ奥さんが僕の生まれた島が見たいと言うのできた。
その時は車を僅か4台しか乗せられないフェリーがかわいらしく珍しがった。
そのもっと前の小学校低学年の記憶では確か、フェリーもなく、小さな漁船に乗せてもらって島に渡っていた記憶がある。

永い年月がたったのだ。



昔の4台しか乗らないフェリーに比べれば大きい。安芸津港バイバイ。

僕が生まれてすぐ0才の時に両親が大阪に出たので、
今渡る、この島での生活の記憶はない。ここでの僕の記憶は田舎に帰省した夏休みの思い出の記憶だ。

僕はほとんど大阪生まれと同じだからな。