行ってみませんか... こんな 素敵な世界へ

好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

ブルターニュ紀行 69 < 海と信仰と ケルト文化と古代巨石文明と 最終章 1 >

2021-07-12 00:14:03 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『Vallée des saints 聖者の谷』

海と島と岩と
異民族で異言語を持ち異なる独自のキリスト教信仰を持ち
ケルト文化と古代巨石文明を起床する
全てにおいて異世界のブルターニュ
69 最終回 1



『海のブルターニュ』
北ブルターニュは冬の荒れ狂う波
南のブルターニュは夏の穏やかな輝き
でも
干満の差が激しいのは南北共に同じ海

『Phare de Kéréron ケレロン灯台』


『Phare de Nividic-Ouessant ニヴィディック=ウエッサン灯台』

『Phare d'Ar Men アル・メン灯台』

『Saint-Malo サン・マロー』



冬の荒波が激しい時は
岸壁の海岸道の頭越しに道の反対側の建物を波が直撃する



激しい波から岸壁を守るために
消波ブロックなどという不細工なものは使うはずもなく
波消しのための丸太を波打ち際に打ち込んである

そして
その海が干満の差が非常に激しいのは
北も南も同じ


町の岸壁では
干潮になると水位は極端に下がってしまう


複雑な入り江では
水のない場所があちこちに出現する


港を守る砦の建つ岩礁も


引き潮になると陸とつながったりもする

そして
小さな岩礁も含めて
ブルターニュには数え切れないほどの島々がある

『Île du Guesclin デュ・ゲクラン島』

『Île de Roch Ar Hon ロック・アル・オン島』

このような
一軒家が建つ個人所有の小さな島は極めて人気が高い
売りに出される少ない可能性に賭けて
ブルターニュの島を扱う不動産業者には100人以上の順番待ちのリストが
常にあるらしい
実際に売買が行こな割れるのは1世紀に1〜2島だそうだ

特に
この島は観光客に人気が高い

『Île de Plougrescant プルゥグレスカン島』

ブルターニュ独特の花崗岩の巨大な二つの大岩に挟まれて
小さな家が建っている光景は
絶好のフォト・ポイントとなっている

『Castel Meur マー館』

この島も干潮時には陸とつながり道路が現れるので
所有者は車で島から出入りをしている

『Castel de Perros-Guirec ペロス=ギレックの館』


所有者一人の極小の島でなくとも
人の住む島は当然漁師たちも住んでいるが
別荘地として需要が高い

『Île de Bréhat ブレア島』

北海岸「パンパル」(既出)から海に向かって伸びる『アルクエ岬」の先端の
目と鼻の先にある『ブレア島』は岬の先端から渡し舟が出ているが
観光シーズンには1時間ほどで島を一周する遊覧船も頻繁に出ているほどの人気ぶり


『Île de Batz バッツ島』

次も北海岸『ロスコフ』(既出)から船ですぐの『バッツ島』も
人気が高い


「バッツ島」の
ある複雑な形の小さな湾の中ほどの岩山と
満潮時にわたる石造りの歩道とその端にある小屋も



絶景として名高い


当然「岩だらけ」の海岸も多い

岩と家といえば
こんな場所もある

『Les Rochers de Ménéham』

北ブルターニュの海岸にある『ケルルーアン村』にある
『メネアム岩の家』
島ではないので観光客が自由に岩に登って上から家を眺めたりしている


この石を組み合わせて作られた小さな家は極めて美しく
屋根と壁との一体感を持った仕上げは技術の高さをうかがわせてくれる


信仰といえば
ブルターニュのキリスト教信仰は特別
ローマ時代に
3世紀キリスト教が非合法だった頃にガリアの地に布教を始めた
『Saint-Martin サン・マルタン(聖マルティネス)』
から始まったフランスのキリスト教化の流れとは異なり
ローマ亡き後の混乱期に
地方政権がが分立してゆく過程で形成されていった「ケルト民族諸国家」
ブリテン島から渡ってきた同じケルト民族の布教者たちの手によって
ブルターニュは「ケルト・カトリック」という信仰が根付いていった
『ブルターニュ7聖人』
と言われ
「ブルターニュの創設者」とも呼ばれて
ブルターニュの「精神」と「社会」の基礎を作り上げたとされている


国立図書館に保存されている1275年の古文書に
初めて「ブルターニュ7聖人」という記述が残っている


「Saint-Pol Aurélien」


「Saint Tugdual」


「Saint Brieuc」


「Saint Malo」


「Saint Samson」
以上の5名はウエールズ生まれ。


「Saint Patern」


「Saint Corentin」
これらの2名は土着の布教者だった
それぞれ依って立って活動した土地がそのまま町の名前になって残った

かず多くのアイルランドから渡ってきた布教者たちの中には
農民が使う石をくりぬいて作った飼い葉桶を船の代わりにして海を渡ってきた
という伝説があり
それが先回の「Mean Van」の石の船を作るきっかけになったそうだ

「ラニオン」(既出)から真南に12kmほどにある「ル・ヴュー・マルシェ」
という集落に『7聖人の礼拝堂』というチャーミングな礼拝堂がある

『Chapelle des sept Saints』




壁の上部に
聖母子を挟んで立つ7聖人像

これも既に触れているが
ブルターニュの(特に西半分_各地に
独特の「Fontaine 泉」がある
これも「ラニオン」から真南25kmほどにある『ビュラ=ペスティヴィアン』
という村の「泉」は

『Fontaine de Sept Saint de Bulat-Pestivien』
「7聖人の泉」
という名前が付いている


7聖人の街を巡る巡礼も頻繁に行われる


恒例の大巡礼祭には
各教区協会に保存されている其々の聖人の旗幟を押し立てて
巡礼団が練り歩く光景が見られる

極めて信心深いブルトン人ということで
『Valée des Saints 聖者の谷』
という場所すらできている

『Vallée des Saints』

橋は「Carnoët カルノエット村」周辺の広大な斜面
「ビュラ」ペスティヴァン」からさらに南西に10km


触れ込みは
「ブルターニュのイースター島」
目的は
「第三千年期(2001年以降3000年まで)のカルナック」を作ろう



起源は1990年
「サン・ポル・ド・レオン」(既出)の町で
「Saint pol Aurélien」1500年祭を行った際
哲学教授で熱心なカトリックの「フィリップ・アプジャン」が
この地に多くの人々を惹きつける魅力的な宗教的なモニュメントを作りたい
と考えた事



その後
一人の銀行マンと
一人の法律家とが集って
往路ジェクトを立ち上げたのが2008年の事だった


文献に見つかるブルターニュの聖人は2000人余り
そのうち
経歴と奇跡の事実があやふやな為に
ローマ教会(教皇庁)に認知されていない500人を除いて
1000人のブルターニュの聖人を並べて
「現代のカルナック」と「西欧のイースター島」を作り上げようという
壮大な計画



今現在「150体」のブルトンの聖人が
河岸段丘の斜面から下を見下ろしているのです

『Sainte Anne 聖アンナ』

実はブルターニュには独特の聖アンナ信仰がある
この「聖アンナ」とは聖母マリアの母親の事だが
もともとケルト信仰からキリスト教化して行く過程で「マリア信仰」があった
この「マリア」はインド・ヨーロッパ語族に共通のもので
「供給の女神アンナ」といい
古代ギリシアの「ダナエ」
フェニキアの「タニット」
古代ローマの「アンナ・ペレンナ」
河川の「ドン」「ドナウ」
アイルランドの「ダナ/アナ」
と同じもので
印欧語の起源で「ana」は「息・微風・魂」を意味した
それがいつの間にか聖母マリアの母親のアンナと混同されて
ブルターニュの国母として敬われるよになった
ブルターニュのカトリック信仰の独特の習慣である「パルドン祭」で
『サント・アンヌ・ラ・パリュ』(既出)のそれが
もっとも重要視される所以でもある

『サント・アンヌ・ラ・パリュの礼拝堂にある聖アンヌ像』


パルドン祭の時アンヌと聖母に黄金の冠が戴冠される



サントアンヌの村の泉は
聖母マリアを抱いた小さな聖アンナ像が飾られている

この項続く
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 68 < 『ブルターニュ防衛線』をたどる 5 最終回 ドォル・ド・ブルターニュ > 

2021-07-09 00:00:08 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 「ドォル・ド・ブルターニュ」の市壁(町を囲む防壁)

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
68



『Marche de Bratagne』
これまで「ブルターニュ防衛線」と訳してきたが
フランス王国側から言えば「ブルターニュ長征線」なのです


西ローマ帝国が「蛮族ゲルマン人」の侵入による解体滅亡の後
多くのゲルマン諸部族の興亡の末に
「フランク族」が他民族を凌駕して「旧西ローマ帝国領土」の大半を平定していった
その際の
ガリア地方における他部族平定戦の過程で生まれてきた言葉であった

第二次大戦戦中に中国共産党を組織し
大戦後中国全土を平定した毛沢東の平定戦を『長征』と呼ぶのと同じで
大ピピンから領土を受け継いだ『シャルルマーニュ大帝』が
ブルトン人の領土平定戦をおこなった足取りが「Marche de Bretagne」と呼ばれ
直訳すると「ブルターニュの歩み」という意味になる
今回その「歩み」の跡がその後1000年間のブルターニュ公爵領と
フランスのカペー王家(その後支家ヴァロア王家)との領土紛争の最前線となり
今回「ブルターニュ防衛線」と訳して南から北へと辿ってきた

脱線すると
シャルルマーニュがイタリア半島北半分「ロンバルディア」を征服した際に
ローマ周辺から北にラヴェンナまでのやや濃いオレンジ色の部分を
教皇に奉納し「ローマ協会領」と定めた
これが
建前上西ローマ帝国の皇帝位の復活でイタリアを領有する
「神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)」と
西欧カトリック世界の神の代理人「ローマ教皇」との間に
イタリアに対する支配圏の対立が起こり
『ギベリン派』と『グエルフ派』との抗争が続く最初の遠因となった

5回目となる今回の
最後の⑭番目『ドォル・ド・ブルターニュ』で締めくくる事になる


旧市街の通り

実はこの町には
城は全く跡形も残っていない
ただ
町を取り囲んで防御する城壁「市壁」の一部が残っているのみ
それも
かつては雑草と雑木が無秩序に生い茂るに任せて打ち捨てられていたのだが
近年
町当局の努力で整備され「プロムナード」として再生した


こんなだったのが


足元が整備されて歩きやすくなった




場所によっては


案内板もある


公園風にまでなってしまったが
空堀の位置の雑草や雑木は取り払い
歩く道筋は整地されて安全に歩きやすくなったが
城壁に絡んだ草木はそのままにしておいてくれたのが良かった

塔の内部も見ることができる


屋根はなく


結構傷んでいるものもあれば


床も屋根も修復されている塔もある

それから
5500人ほどの人口の町にしては立派な大聖堂がある
理由は街の成り立ちにあるのだがそれは後述することにして
とりあえず見てみよう

『Cathédrale Saint-Samson de Dol 聖サンソン大聖堂』


西側正面の玄関口は非常に素朴な作り
しかも普通使わない


扉口の上のサン連アーチ部分とその上部に
屋根のようなデザインで「木瓦(木のチップ)」が使われているのが珍しい
通常の出入りは
西側正面の右門から側面に回り込んだところに造られているポルシュから

Porche de la Cathédrale


身廊の造りは極めて正当なゴシックの大聖堂


ただ主祭壇は交差部ではなく内陣に入ったところ


右側廊のアーチの一つの下に身廊に向いて「説教壇」があるのも定型
その説教壇の裏側

外陣

内陣を取り囲む周歩廊は無く
内陣の両側は身廊部の様に側廊があって正面で閉ざされている
内陣の正面の奥は
外側に向かって礼拝堂の様に張り出している

南側の側面の全景


大聖堂南側のポルシュに向かう通り


その通りの終わるところ

北側の側面全景

北側 遠景

ここ「ドォル」の町のカテドラルが大規模なのは
この町がブルターニュの中でも特殊な重要性があるから

伝説によると
「モン・サン・ミッシェル湾」の位置は7世紀頃までは所々に湿地のある森林だった
湾に近い『アヴランシュ』の町の司教「オベール神父」の元に
大天使聖ミカエル(サン・ミッシェル)が夢枕に立ち
「自分のための祠」を立てて欲しいと訴えた
大天使の出現を信じないオベールにミカエルは三度現れ
三度目の出現の際に大天使に指で頭を小突かれて彼は正気になる

大天使聖ミカエルの「御出現」という奇跡体験の教皇庁への報告と
聖ミカエルの祠の作り方を学ぶためにオベールはイタリアへと旅立った

彼の3年弱の不在の間にその辺りで大地震が起こったらしく
おそらく地盤沈下のせいで
森林だったあたり全域が遠くだった海岸線から海水の侵入により
湾になっていた
以前森の中に丘が三つあった
「モン・トンブ」「モン・トンブレーヌ」「モン・ドォル」
それらが湾になった海に島となって浮かんでいた

イタリアから帰ってきたオベール神父は森が海に変わっている光景に驚愕し
大天使ミカエルが「祠作りを急げ」と自分に対しての催促のための奇跡だと思い
一番陸に近い島「モン・トンブ」の頂上に大天使のための祠を築き
以後その島は『モン・サン・ミッシェル(大天使ミカエルの山)』と呼ばれるようになる

なぜ「モン・トンブ」だったかというと
「モン・トンブレーヌ」は小さな岩礁程度の大きさしかなく
陸から遠すぎて工事をやりづらかった

そして「モン・ドォル」は
聖書に描かれた悪魔が天上の世界に憧れ天に攻めこもうとした際
大天使ミカエルの軍勢に叩き潰された
その際ミカエルは剣で岩山を切り裂きその中に悪魔の残骸を封じ込めた
という伝説があって
恐れ多くて手をつけられなかった

それが「ドォル」の町の宗教的優位性を作り上げたのです

以下の「モン・サン・ミッシェル湾」の俯瞰写真において
白い四角を見ていただくと

photo by ⒸEuropa Space Agency

右に二つ縦に並ぶ四角の上から下に
「モン・トンブレーヌ」
「モン・サン・ミッシェル」

そして左に一つはなれている四角が
「モン・ドォル」
この島はその後の湾の縮小でいつしか陸地の中に取り込まれてしまった

ちなみに湾の淵のグレーの帯状の部分は
干潮時で水がなくなるか
非常に少なくなっている事を表している

左上「モン・トンブレーヌ」 右下「モン・サン・ミッシェル(旧モントンブ)」

『Mont-Dol モン=ドォル』

畑に囲まれた岩山「モン・ドォル」は


最高点での標高65メートルの楕円形で
花崗岩の一枚岩の丘(Mont 小山)


上の俯瞰写真の丘の左下が削れている所は
岩が露出した部分で


ロック・クライマーがよくトレーニングを行っている





クライマーが張り渡したザイルが残っていた




頂上の片隅に「聖母子像」を塔と礼拝堂が
はるか四方を見下ろしている

左「Chapelle de l'Espérance」 右「Tour Notre-Dame de lEspérance」

「希望の礼拝堂」と「希望の聖母の塔」




風車もある

『Moulin du Mont-Dol モン=ドォルの風車』

楕円形の岩山を取り巻いて周囲に家並みが少しあり
「ドォル・ド・ブルターニュ」の町の「字(あざ)」で岩山の名前と同じ
『Mont-Dol モン=ドォル』






所で「ドォル・ド・ブルターニュ」のカテドラル「聖サンソン大聖堂」の前に
最近面白いものができた

『Maen Vog』

これは
なんと花崗岩でできた船
しかも浮く

2000年に3月に彫刻家「ジャン=イヴ・メネーズ」が作り上げた
『Maen Vag マエン・ヴァグ号』
ブルトン語なのであやふやだが「海の石」というような言葉らしい
長さ4m02
幅1m81
喫水(水上に浮いた状態で水面から下の沈んでいる深さ1m06
積載重量1t50



中に女性が一人乗っているので大きさの想像がつく

この船は
この近くの「Lanhélin ラネリン」という町の近くから産する花崗岩
35トンの塊を削りくりぬいて作られている

実物製作用に作られた模型の一つ

彼はこのような模型を何種類も作り
実際に浮力計算を行って
水上航行が可能な最終作品を造った
重さが3t50



内部はこうなっている
舳先から艫(とも)つまり前から後ろを見た角度

これまでにフランス全土で10回ほど
遊覧航行を実演した


この写真は艫に座っている製作者本人からの提供


パリのサンマルタン運河でも航行して見せた
ブルターニュのご案内も
そろそろ最終章です
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 67 < ブルターニュ防衛線 『マルシュ・ド・ブルターニュ』 4 > サン・トーバン フゥジェール

2021-07-07 00:01:38 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『Château de Fougeres』

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
67


前回訪れた「ヴィットレ」から北北西へ25kmで
下図⑫『Saint-Aubin du Cormier サン・トーバン・デュ・コルミエ』に着く


ここの城は完全な廃墟
なぜなら
フランス王家側に取り壊されてしまったから


この城こそ
『ブルターニュ公爵領』の敗北を意味するのです
1488年7月28日
15000名のフランス軍を迎え撃った11000名のブルターニュ軍は
6000名の戦死者を出して壊滅した
フランス側の犠牲は1500名に過ぎなかった
「サン・トーバンの闘い」

前世紀から150年続いていた各地での戦いの末
時のブルターニュ公「フランソワ2世」はかなりの窮地に追い込まれており
この年
「シャトーブリアン」「ヴィットレ」「フゥジェール」と続いた戦いでの一進一退ののち
起死回生の一戦だった


『サン・トーバンを攻めるフランス国王』 Archive by ⒸBibliothque Ste-Geneviève

独立国ブルターニュの男系最後の公爵だった「フランソワ2世」は
この壊滅戦の後
相続権を持つ娘「アンヌ・ド・ブルターニュ」を残して
同年9月9日に此の世を去る


城趾の一角に
この戦いで散ったブルトン人6000名の鎮魂の銘板がある

ブルターニュ公フランソワ2世は
公国の生き残りをかけて各方面との連合を試み
「オーストリア大公ハプスブルク家」の世嗣「マクシミリアン」に
娘「アンヌ」との婚約を前提の連合を呼びかけていた
「マクシミリアン」は
ハプスブルク家から初めて皇帝に選出された「フィリップ大公」の
世嗣ぎで
中世最後の騎士と言われる人物

『サン・トーバンの闘い記念碑』

1988年に500年祭が行われ
その際に建立された記念碑にオーストリア兵に関する銘板もある


『神聖ローマ帝国兵士600名 
隊長ブッラーの指揮のもと ブルターニュのために戦い この地に眠る』

天守の残骸

この城は低い一つの丘全体を占めていた

Schema by ⒸArchitecture Urbanisme Patrimoine 1090

現在「白山」は草生す雑木が茂る丘になっており
城の残骸がそこかしこに点在する


天守の下にあった
池と言っても良いくらいの広い堀の一部は残っている








強者どもが夢の跡....




天守の最上階の暖炉が残っている

ここ「サン・トーバン・デュ・ブルターニュ」の町では
毎年7月28日の15時から
記念式典を行っている




フランス人(左)とブルトン人(右)との一騎打ち





※  ※

この「サン・トーバン・デュ・コルミエ」から北北東に8kmで
絵図⑬の『フゥジェール』に至る
ここは「Marche de Bretagne ブルターニュ防衛線」の
ブルターニュ側北端の最重要な城がある

『Château de Fougères フゥジェール城』 城壁の塔

城の規模は広大で
胸突く高い城壁に囲まれているが
この土地の立地が起伏に富んでいて周囲にぐるりと丘があり
すり鉢の底のような場所に城が建っている
つまり
大砲の精度が上がり信頼性が増した16世紀以降なら周囲から容易に砲撃を受け得る
甚だ不利な場所に在ると言える



ただ水の流れる小川を利用した堀で囲まれているので
歩兵や騎兵の攻め手にとっては
非常に高い城壁と巨大な塔と相まって
甚だしく攻めにくい城であったはずだ


城の南側にすぐ始まる丘の斜面の途中から
右端の三角屋根の丸い塔が大手門







大手門

大手門から時計を逆回りに城壁に沿って歩いてみよう


前の写真のアーチをくぐりさらに奥に進む固定橋を左に見ながら


土手のように岩盤が盛り上がる上に高い城壁が伸び
要所要所を塔が固める

城壁の上の巡警路と
そこにいる守備兵を守る胸壁や石落とし(水平狭間)もしっかり残っている


やがて
突き出した部分が「搦め手門」で
常用ではないので直接出入りできる連絡はなく
非常時に必要に応じて板を渡しで出入りする戦国の城塞のお約束通りの構造


「搦め手門」から回り込むようにさらに城壁が続くが
支える岩盤が頑強であることがよく分かる作りになっている



道路で見えていないが城壁の真下は水が流れる川堀になっている



さらに先に
城壁と平行に教会がある



一つ前の写真の塔が左側の塔
この向き合った位置に『Eglise Saint-Sulpice 聖シュルピス教会』


新郎両側の側廊の壁側に並ぶ礼拝堂の其々が外側に切妻の破風を並べる
ブルターニュ伝統の形のことは
このシリーズが始まった頃にご紹介した通り





やがて行く手に城門のようなものが見えてくる
そこから右に町を囲む城壁が伸びる



城より高い位置に広がる町を防御する城壁(市壁)が今でも一部残っている


二つ前の写真の角度を城壁の上から見下ろすと
門と市壁の関係がわかりやすい


町に入る門のアーチの左の堀の中に水路が二箇所



左のトンネルは城の地下を通って流れてくる水路
右のトンネルは町に入るアーチの位置に左の水路と平行に流れてくる流れの出口


その市門のところに流れてくる水路には4連水車がある
これらの水車は
上からくる樋を流す水で回すようになっている
左の建物はかつての粉ひき工場の跡
最後の水車のすぐ右の四角い穴は市門のアーチの中から出てこられる



再び大手門に戻って


「塔の間のアーチをくぐり
常設橋を進んでさらに中に入るって振り返ると



こうなる


その「大手門」の二重構造部分が「シャトレ(橋頭堡)」になっていて
上から俯瞰する

場内中ほどから大手門の方を振り返る
左奥のやや高い部分は



塔の際上部の小屋掛けの部分が残っている
場内は2haもの敷地で
ブルターニュ有数の大規模な城だった(戦国城塞として欧州最大とも言われる)
現在の城の創建は12世紀後半1173年
古くから有ったこの町の貴族フゥジェール家の城が1166年
イングランド王プランタジュネット家の始祖ヘンリ−2世の攻撃で破壊され
その後
時のブルターニュ公ラウル2世が1173年に再建
その後のブルターニュ家とフランス王家の戦いが続く中で
改良と拡張が15世紀まで続いた


居館などがなくなっているが残骸も興味深い


削り取られてしまった丸い塔だが
内部をうめてしまったものの壁の厚みが凄いのがよく分かる


先程よりもっと奥からの眺め

これが先ほどの「聖シュルピス教会」の前にあった二つの塔
教会も見える


「大手門」のほぼ反対側
一番奥の「搦め手門」の部分の二つの塔


その「搦め手門」を上から覗くとこうなっている


1892年以来「フゥジェール市」の所有と成っている
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 66 < ブルターニュ防衛線『マルシュ・ド・ブルターニュ』 3 ラ・ゲルシュ と ヴィットレ >

2021-07-05 00:00:50 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 「ヴィトレ」の城のある風景

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
66



前回ご紹介した「シャトーブリアン」から北へ30km
絵図の⑩番『La Guerche-de-Bretagne ラ・ゲルシュ・ド・ブルターニュ』に至る


結論から言うと
この町「ラ・ゲルシュ」には城は残っていない
ほぼ跡形もなく

『Place Charles-De-Gaulle シャルル・ド・ゴール広場』

木の柱と梁の家々の残る旧市街の角の三角形の広い空間
「シャルル・ド・ゴール広場」を中心に
その辺り一帯で
毎週火曜日朝8時から12時まで市場が経つ



ここの位置は
実に1121年以来900年間にわたって連綿と続けられてきた
現在では
季節によって毎回100から150件の出店者が店を出している

『ラ・ゲルシュ市場900年祭の記念写真』

この市は
「ヴァンヌ」の空堀大通りの市に次いで
歴史的意義でブルターニュで二番目に位置付けられている








この「ラ・ゲルシュ・ド・ブルターニュ」の真西に15kmで
先日ご紹介した『la Roche aux Fées 妖精の岩』があります


※  ※

その「ラ・ゲルシュ」から北に20km強
「レンヌ」からは東へ25kmの位置で
⑪番の『ヴィットレ』に至る

『Château de Vitré ヴィットレ城』

ここ「ヴィットレ」の」城は雄大


創建は11世紀後半
13世紀前半に三角形の平面プランで拡充されて以来変わっていない
高い城壁で囲み
要所要所に塔を配し角々に頑丈な丸い塔を加えて防御している






さらに15世紀初頭に城門を形成するシャトレを増強


『Chatelet 大手門出丸』

左側面から見たシャトレ
跳ね橋を吊るす腕木が確認出来る


⑤が「シャトレ」で城門
⑧は天守に相当する最も大規模で強固な塔「サン・ローランの塔」

右が「シャトレ」 左が「サンローランの塔」


右から「サン・ローランの塔」
その左二つ目の丸い塔が⑨番「アルジャントリーの塔」
さらに左の飛び出した屋根付きの四角い塔は⑩「祈祷室の塔」
それに接する一番左隅が①「モンフィランの塔」

城内から見てみよう

左が天守「聖ローランの塔」 右端が「アルジャントリーの塔」




手前は井戸

『礼拝室の塔』
出窓の様な張り出しの部分が祭壇


中で見てみると



聖母子像が飾られてある


「礼拝室の塔」の先で直角に伸びるアーケードを持つ建物は
「ヴィトレ市」の市役所が使っている



その右側にかつては居館があった


その角の塔の屋根の部分や居館の一部が
近年復元された


市役所の建物の入り口は独特の階段付きポルシュ






この市役所が使っている部分を場外から見ると



こう見える

そして「シャトレ(大手門出丸)」の城内側は「Logis(居館)」になっている

『Logis du Châtelet』

ちなみに外側はこう


城門出丸(シャトレ)に向かって右側に城主たちの居館があった


居館があったのは右の窓のある城壁の向こう側
当然城壁の前には空堀がある


シャトレの大手門に入る橋(現在はリン位に赤く塗られている)が
確認できる
そのままこの方向のずっと先が「サン・ローランの塔(天守)」

『Tour Saint-Laurant』

ちなみに
手前の白い彫像は「戦没者記念碑」の兵士像
フランスはどんな小さな自治体でも
その町や村から出征して帰らかった兵士の名前を刻んだ「戦没者記念碑」が
必ず有るのです

その天守と
その他の主だった塔の中は博物館


塔の分厚い壁の中をくり抜いて造った通路と階段


城外の町屋敷から移設された16世紀(1583年)の暖炉


歴代「ヴィトレ家」が集めた中世からルネッサンス区の彫刻群


















1780年革命直前の時代の「ポーランド式ベッド」

「ヴィトレ」の町は
城から始まってぐるりと城に戻る城壁で囲まれて守られていた

Schema by ⒸPascal PIROTAIS

左端の中が白い三角形の部分が城
Shateauの末尾に繋がる部分が「シャトレ」
左上の黒い長方形が「市役所」が使っている部分
町を囲む城壁のうちこの図で赤い部分は存在しない

この図面の15番「Porte d'En Bas 下の門」という
町に入る門の部分から
町の城壁の残った塔と城を見る角度はよくガイドブックや絵葉書に登場する

『Porte d'En Bas』


やや下り坂で城壁内から出てきたところに4軒並ぶカラフルな民家の
それぞれの屋根の縁の反り返った具合に注目されたい



『Porte Saint-Pierre サン・ピエール(聖ペテロ)の門』 絵図面②

これを入ると



こうなっている

『Tour aux Chèvres ヤギの塔』 絵図面③
城の北面は下が谷になっていて高度がある

『Tour de la Fresnaye フレネの塔』 絵図面④

『Tour de la géometre 測量技師の塔』 絵図面⑤

『Tour de Bridole ブリドールの塔』 絵図面⑨

その他








また
旧市街の民家の家並みにも美しいものが数多い


ここは
先ほどの「下の門」に向かってゆく通り





では次回をお楽しみに



=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
皆様からのご感想やご意見ご要望をお待ちしています
是非是非「コメント」ボタンからお寄せください
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ブルターニュ紀行 65 < ブルターニュ防衛線 2 アンスニ から シャトーブリアン へ >

2021-07-02 00:15:56 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『シャトー・ダンスニ』の城壁

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡る
65



先回の続きで「ブルターニュ防衛線」上に並ぶ城の第二回
絵図 ⑧ の『Château d'Ancenis アンスニ城』から始めましょう
「ナント」から「ロワール」を遡ること30km

『Château d'Ancenis』

創建は10世紀に遡る。
「ブルターニュ防衛線」の戦略的な位置である故に
12世紀から16世紀にかけて幾たびもの激しい攻防戦の的となった
その頃から現存する部分が
城門を固める巨大な塔で防御された「Chatelet 出丸」で
14世紀のもの


『Chatelet』




この門は16世紀に補強され
扉は巨大な「落とし格子」が上部から降りてくるように作られ
中は屋根付きのギャラリーがシケイン(クランク型の誘導路)につながっていたらしい
居館は16世紀半ばのルネッサンス式

『Logis 居館』
中庭に面した側面は装飾のディテールがフランスの初期ルネッサンスだが
建築骨格(平面図)と
特に窓の十文字仕切りや物見の小塔などはまだゴシックのまま



未修復の部分

上掲の建物の反対側

最後にひとつ興味深い視点を


この「シャトレ」の向かって左の円塔の左端の上に立つ白亜の建物
端から見ると


こんな具合で正面側と直角ではなかった


  ※  ※

「アンスニ」の町から北に真っ直ぐ40kmで
絵図⑨番の『Châteaubriant シャトーブリアン』という町に至る

『Château de Châteaubriant シャトーブリアン城』

18世紀後半
ブルターニュ紀行のごく最初にご紹介した「サン・マロー」出身で
ルイ15世の宮廷で活躍した文芸貴族に
「フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン」という有名作家がいるが
彼の名前は『de Châteaubriand』と最後が<D>で
この町の名前は『Châteaubriant』で最後は<T>で終わる

城は非常に大規模で各時代の建築様式が見られる

俯瞰 Photo by ⒸMairie de Châteaubriant

横長の「<」型につながる建物群の上辺の中ほどに
丸い塔が二つつながるのが見分けられれば
「大手門」への進入路を守る「出丸」である「シャトレ」

城の創建は11世紀
ブルターニュをアンジュー伯の侵攻から防御する目的の「マルシュ・ド・ブルターニュ」
として
「クリッソン」「アンスニ」「ヴィットレ(後述)」「フゥジェール(後述)」
らの城と同じ役割を担った
この城の改築は19世紀まで続いた


『Châtelet』


二つの巨大な丸い塔の間の門の上
ルネッサンス期に付け加えられたレリーフはかなり削り取られてしまっている


同 裏側


天守


同 別角度

同 城内から


同 屋上

天守内部3階の暖炉の跡


3階部から4階を見上げる
各階のフロアーは残っていない


天守内の上部へは
地上階から直線の階段を少し上って
そこから壁の厚みの中に設えられた螺旋階段を登ることになる

天守内大階段

天守内小階段


天守内の水場

天守内の牢獄部(ここは女囚房)

「シャトレ 出丸」と「ドンジョン 天守」以外の部分も
見てみよう

Photo by ⒸMairie de Châteaubriant

再び別の角度からの俯瞰写真で
天守はほど中央に見える
その斜め右上に接する部分が「旧大居館」
さらにそのまま「シャトレ」
天守の右下に接するのは「旧小居館」
そのまま右下が「礼拝堂」


右の屋根窓二つの建物が旧「大居館」
左の屋根窓一つの建物が旧「小居館」



大居館の2階部分の一室

小居館の切妻部分



大居館の端と
小居館に至る繋ぎの建物の端とに
入口が接して二つある

「旧」居館と呼ばれるのは
この城ができた最初の頃の小規模な時代の居館だったから

そして
小居館から先に礼拝堂



礼拝堂内部は装飾などは残っていない



礼拝堂の城外側の外壁は城壁と一体になっている

次に
ルネッサンス期に拡張された部分の居館をご紹介しよう


     先掲の俯瞰写真の左半分に当たる左側の縦に並ぶ上半分の白い建物が
『Logis de Jean de Laval ラヴァル公ジャンの居館』
下側につながる屋根窓の無い部分が『Batiment des Gardes 衛兵の兵営』

右が「ラヴァル公ジャンの居館」左が「衛兵の兵営」

『Logis de Jean de Laval ラヴァル公ジャンの居館』

「ラヴァル公ジャン」という人物は
ここからもう少し北のアンジュウ伯爵領の町『Raval』の領主で
ここ「シャトーブリアン」を
併わせて領有し城を増改築した『Jean de Laval-Chateaubriant』の事
『ラヴァル=シャトーブリアン公ジャン』が正式名称

居館の左端に玄関口「ポルシュ(ポーチ)」が有る

『Porche d'Entrée』



外観でわかるがこの中は階段ホールにもなっている


階段天井の格天井は完全に「イタリア・ルネッサンス」





登った上階の左の扉
建物の外観より内部の装飾が完全にルネッサンスになっている

『Arcôve アルコーヴ(寝台を置く切り込み)』

「黄金の間」と呼ばれる寝室は17世紀の様式


暖炉上部のレリーフの金彩がいかにも17世紀後半のフランス

領主が臨席して行った会議の間も残っている

『Salle de tribune 会議の傍聴の間』

次に
この居館の北側につながる「衛兵の兵営」









この「衛兵」の兵舎と天守を結ぶ移動用のギャラリーが残っている


攻城戦の際に敵軍の矢玉を避けて移動できるように
且つては屋根も付いていたらしい
その左下は



「Le Cher シェール川」を少しせき止めた堀『Etang de Torche トーシュ池』
という堀がある
右端が天守
左端は「衛兵の兵舎」の先端

そして
「ジャン・ド・ラヴァルの居館」の右端(南端)に近い部分に
『大ギャラリー』
が直角に伸びる






大ギャラリーの階段部

そして
この「大ギャラリー」の南側にもさらに建物が伸びている


右の丸い塔の左横に接するあたりの向こう側に
「大ギャラリー」が直角に接している


『ブルターニュ防衛線』の項つづきます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
ご意見ご要望ご感想などを「ぜひ」お寄せください
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ブルターニュ紀行 64 < ブルターニュ防衛線を辿る 1 マッシュクゥル から 東へ >

2021-06-30 00:15:55 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 「マッシュクゥル」城址

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
64



『Les Marches de Bretagne』
という言葉があります
普通の意味では
「ブルターニュの歩み」「ブルターニュの足取り」等としか訳しようがないのですが
『ブルターニュ祖国防衛線』
とでもいうような意味の言葉であります

Map by  Ⓒtourisme-marchesdebretagne.com

上図の赤い点と数字がブルターニュの地域内
黒い点と数字はライバルのフランス王室系諸侯領

話は古代の西ローマ帝国の崩壊にまで遡る
西ローマ亡き後
「蛮族」が群雄割拠し互いに戦っては滅び
他部族を征服しながら進軍し地中海の島々を荒らし回り
北アフリカにわたって消えてしまったり
途中で定着したりして
初期西欧国家郡が誕生してゆく
その過程で勢力を拡大したのが「フランク族」だった


青く塗られた部分が「ピピン父」が築いた『カロリング王朝』で
それを引き継いだ息子「シャルル・マーニュ(カール大帝)」が征服して併合した領土が
オレンジ色で表される
北から
「ザクセン」「バヴァリア」「ロンバルディア」
左下は
コルドバ王国から奪ったピレネー山脈の両側の麓で
『Marches Espagnoles エスパニア防衛線』と呼ばれる
そして左上に
「ブルトン人」から奪った土地で
後の世までフランスとブルターニュとの最前線としてシコリが残る
『Marches de Bretagne ブルターニュ防衛線』

ちなみに黄色の部分は「土豪国」と呼ばれて
大フランク王国
所謂神聖ローマ帝国の版図に含まれない部分
ブルターニュもまさにその部分だった
つまり「辺境の地」という扱い

ここでいう「Marches」はシャルル・マーニュが征服行動で遠征した
「長征戦役」の場を意味し
ブルターニュ側は後々の自分たちの領土をフランス王室から守る抜くための
「生命線」で会った

したがって
拠点となる城郭都市が
双方にらみ合うように北から南へと並ぶ結果となった
その線に沿って
南から順にご紹介していく
まず最初の絵図の南限④番から訪れてみよう

『Machecoul マッシュクゥル』

『Château de Machecoul ou Château de Gilles de Rais』

この「マッシュクゥル城」は別名『ジル・ド・レの城』と呼び習わされてきた
この「ジル・ド・レ」という貴族は
百年戦争後期のフランス側の諸侯の一人で
敵国イングランドのみならず自国フランス側にも多くの敵を抱えていた
『ジャンヌ・ダルク』の数少ない側近として
最後まで彼女を護った人物として名高く
ブルターニュ紀行の極く初期に
百年戦争の前半のフランス王国側のヒーローだった「ベルトラン・デュ・ゲクラン』
の曾姪孫で
フランス王国軍司令官の一人で元帥
「レ(Raiz)の男爵」「マッシュクゥルの領主」「ル・ベナートの領主」
その他11の爵位領主位を併せ持った


土地の戦略的重要性の減衰と共に
城も朽ち果てて一部が残るのみとなった




この「ジル・ド・レ」(名前はRais、領地はRaiz、と綴る)が所有した
この近くのもう一つの城に
『Château de Tiffauge ティフォージュ城』がある


『Château de Tiffauges ティフォージュ城』

彼は数々の武勲の恩賞として
1422年「ティフォージュ」を封土として与えられた
この城も廃墟だが
壮麗な規模であったことが偲ばれる

なお
ここ「マッシュクゥル」には大修道院跡がある

『Abbaye de Notre-Dame de la Chaume ショームの聖母大修道院』

周囲を囲んだ長い塀と鳩小屋などわずかな部分しか残っていないが


塀に残った「メガネ」のような開口部が面白い


鳩小屋は城や修道院その他豊かな住民の屋敷などによく見られる
食用鳩のためのもの


修道院聖堂をはじめ
施設の建物は残っていないが
草噴く地面に一つの祭壇が風化して残されている

※  ※

⑤番 の『La Bénate ラ・ベナート』は
城は「城趾」すら残っていない
村名も度重なる他村との合併で「あざ」と教区名に残るにすぎない
ただ前述の「ジル・ド・レ」の領地の一つであった

 ※  ※

⑥番の 『Clisson クリッソン』


『Château de Clisson クリッソン城』

この町は周辺含めて八千人程の人口を抱えるだけあって
各時代にそれなりの役割を持った存在であり続け
11世紀に作られた城は15世紀まで増築が続き
城は廃墟ながら大規模でかなり原型をとどめて残っている


胸壁と水平狭間(石落とし)を持つ巡警路の部分は残っていないものの
堂々たる城壁と空堀
対フランス王国の最前線を固める城として地位の重要性が理解出来る


18世紀半ばに城主が放棄し
そのまま荒れて行き
革命中には放火されて
中核をなす部分の建物は外壁しか残っていない


そして城門が三か所







城門の内側から見ると
跳ね橋を引き上げる「錘(おもり)」が上がっている
これを下ろすと
その重みで橋が引き上げられることになる













天守に当たる丸い塔は
他の多くの城塞と同じ様に各フロアーはなくなっているが
鉄砲狭間から
壁の厚みがよく分かる


この絵図の
下部の黒い部分(数字4)が城
緑は出丸
薄緑は橋頭堡(城壁の内側で一段高くなっている)
極薄青は空堀
上側の大きな灰色部分が旧市街(城下町)
その町中に教会(数字6)がある
青はロワールの支流「セーヴル・ナンテーズ川」


川から見ると
城と橋と教会とが一度に見える
橋の中ほどにはブルトンの十字架が立つ




城から見下ろす川

『Eglise Notre-Dame de Clisson クリッソンの聖母教会』


1970年代からやっと修復工事が始まり
何度かの工事が繰り返されて今日に至っている




※  ※

⑦ 番の『Oudon ウッドン』

『Château d'Oudon』

城の起源は11世紀
その後「ノルマンディー公爵」がイングランドを統一して打ち立てた『ノルマン征服王朝』
の後を受けて
ブルターニュ公国と国境を接するフランス王室にも連なる「アンジュー伯爵家」の
「アンリ」がイングランドを受け継ぎ
「プランタジュネット王朝」を創設した『ヘンリ−2世』と
その後の『ジョン欠地王』と
ブルターニュ公側のウッドンの領主との間で
激しい争奪戦が繰り広げられた

現在の城の起源は比較的新しく14世紀から15世紀にかけて建設されたもの


現在の城で残る最も重要な部分が天守の塔
この城は
太古の人類が火打石や矢尻に使った「結晶片岩」と
「片麻岩」とで建てられている
ちなみに縁取りの白い部分はロワール河流域特産の真っ白な凝灰岩

大手門



門のくぐる部分は跳ね橋の装置を受ける部分もない形に
後世作り直されているが


この最後の橋脚からの部分は跳ね橋だったはず


くぐって振り返り城外を見る


城内も廃墟


そして
天守に入るところにも城門がある




天守の頂上

この「ウッドン城」は
ロワール河の小さな支流「Le Sêvre セーヴル川」が
ロワールに合流する直前の位置に立っている
大河「ロワール」と「セーヴル」が外堀ということだ

セーヴル川から天守を望む
(Marches de Bretagne の項目 続く)
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 63 < レンヌ と 周辺 の 特徴あるホテル >

2021-06-28 00:45:48 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ/ホテル
巻頭写真 : ホテル『シャトー・ダピニィエ』

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
63


今回は「レンヌ」と周辺のホテルをご紹介しておこうと思います

まず「レンヌ」に一軒
『Balthazar Hotel バルタザール・ホテル』

『Hôtel Balthazar』

間口はこれだけ
少しも大きくない
どころか小さなホトェルと言っても良いかもしれない
ただ奥にある別棟と繋がっている
場所は「商業会館」の真裏という一等地にあります


正面玄関(写真奥)を入ってすぐ模擬にレセプション
逆向きに見ると


奥のガラスの部分は
別棟との間にガラスで仕切って作ったパティオ



ロビー中央にになってエレベーターホールがある
左の反対側にはバーがある


バーカウンターの奥はレストランのワインを飾ったカーヴ


玄関からまっすぐ進んだ突き当たりのパティオが下



パティオの正面の壁が無関係の隣の建物
左が繋がっている別棟のレストラン



先ほどのバーカウンターとカーヴの横を進むと
レストランに入る



実は結構広いのです


お料理は
別に星は付いていないけれど良いホテルなりに楽しめる



特にデザートは
優秀なパティシエがいるらしく秀逸


入り口と反対側に抜けると
パティオとは違うテラスもある


それから
地上階共用空間には冬の間はとても暖かそうな場所もあったりする


肝心の客室はといえば



クラッシック・モダンな内装です
バスタブの側面の高さに注目されたし



そして幾つかののお部屋


例えばこのお部屋には


こんなテラスが付いてます

廊下の照明は落としてあり
人が通る位置だけ歩く速度に合わせて明るくなり


部屋番号はこんな具合に見えるのです

スパとフィットネスも完備


特にスパのプールは
非日常的な照明で落ち着かせてくれます


マシン類も揃っていますし
各種ボディーケアも優秀なスタッフがいて十分にリフレッシュさせてくれます



※  ※

では郊外に出てみよう

「レンヌ」を西に出ること2km
「ルドン」の北に10km
『シャトー・ダピニィエ』というこじんまりとしたシャトー・ホテルがある

『Château d'Apigné』


玄関口の前に
天気の良い季節に外で食事が取れる空間を作ってある

玄関を入ったエントランス・ホール


客室はどれも「お城のお部屋」の雰囲気がたっぷり








レストランは
小さめのhっ屋が二つと



大きなお部屋
ここでは頻繁に結婚式のパーティーが行われる




玄関前の食事風景



お料理は今風です


マグロの握りと炙りホタテの前菜






※  ※

上述の「シャトー・ダピニィエ」から
南に5kmくらい下った所に
『Hotel Domaine de Cicé-Blossac ドメーヌ・ド・シッセ=ブロサック』

この辺りは「ヴィレーヌ川」に沿って湿地帯となっている


『Hôtel le Domaine de Cicée-Blossac』

ル・コルヴィジュエの発想の「ピロティー構造」の建築物が
湿地帯の中に建ち並んでいる

Map by ⒸGoogle

地図左上のポインターの位置が「シャトー・ダピニィエ」
左下が「ドメーヌ・ド・シッセ=ブロサック」
湿地帯であることがお分かりになるだろう


実はここ
ゴルフ場ホテルなんですが
ゆっくりと休暇を過ごすには最適


ゴルフコースは池を縫いながら作られている


カヤック遊びもできます




お部屋のテラスからコースが見下ろせる

2ベッドルームのスイート


どの客室も広々としているので
リヴィング・スペースが快適です


そして
どの部屋にもテラスが備わっている





自然の池の中に「浮きプール」が造られている
もちろん「スパ」も完備しているので
ボディーケアーの後のクールダウンはスパの屋内プールで



レストランは別棟



外にも席が作れます



中は




バーはすぐ隣に


そして
グルフ・クラブも別棟



クラブハウスの談話室


朝食は
自分のお部屋にルームサーヴィスを頼んでバスローブのままで摂るのがいい
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 62 < レンヌ 2 > 東ブルターニュの もう一つの首都 続き

2021-06-25 00:57:24 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : アールデコの『サン・ジョルジュ市立プール』

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスでは無い異世界を巡ろう
62


「レンヌ」の街のランドマーク建築「ブルターニュ高等法院」を前回ご紹介した
今回も引き続いて残りの
「商業会館」「旧聖ジョルジュ大修道院」「オペラ座」
「旧市街」
「サン・ジョルジュ市立プール」
を順にご紹介していこう

まず2番目の『Palais du Commerce 商業会館』


『Place de la République 共和国広場』
に面する
『Palais du Commerce 商業会館』

かつてこの広場の位置は「ヴィレーヌ川」が流れ
船を引き上げる斜面の船溜まりと「魚市場」と「織物市場」があった
19世紀後半にそれらを廃止し
市場の跡地に新たに「商品取引所」を作ることになった

西翼が19世紀末に完成し
20世紀になって東よくも完成した
その後1911年に西翼が火災で立て直すことになり
中央のドームを低くした現在型に落ち着いた
その後
名称は「商業会館」のままで
中央郵便局と市立図書館と
ブルターニュ地域圏立美術学校
国立高等音楽院レンヌ分校
などが使っていた



前の広場はバスターミナル

2018年に大改修することが決まり
「ルネッサンス計画」という名称で工事が開始


『LEGOミュージアム』が入り
前のバスターミナルは廃止


東翼をガラスで拡張し
「ヴィレーヌ川」に蓋をして広場を広げて歩行者専用となり


国際ホテル『マリオット』
料理高等専門学校とそのレストランなどがテナントとなり
その他オフィスが入る総合施設として再建中
2025年に完全オープンの予定
名称は
『Palais du Commerce-Renaissance 商業=ルネッサンス会館』


では3番目のランドマークの
『Palais Saint-Georges 旧聖ジョルジュ大修道院』


旧聖ジョルジュ大聖堂はフランス革命で廃止され
軍の兵舎となった


その後
レンヌ市警と消防署が使ってきて


2014年頃から再開発計画が図られ
国際高級ホテルの誘致が決定
コンペの結果200室強のホテルが収まり
2018年開業の予定だった



着工直前に計画は白身戻され
結局現在は市の保健局と障害者支援局
青少年の文化・スポーツ・先端技術交流センターなどが使っている


4番目のランドマークの『Opera de Rennes レンヌ・オペラ座』


それまで
場所を転々としていた「演芸場」を改め
市役所前広場に舞台と客席とが完全分離された歌劇場様式の劇場の建設が決まり
1836年2月に落成
『L'Opera de Rennes レンヌ歌劇場』


正面ファサードの半円形壁面の内部がそのまま回廊


その半円形の回廊から
階段でそれぞれの階上の席に向かう形式





オーケストラ・ボックスが閉まった状態の舞台
規模は小さいもののパリのオペラ座のに非常に似ているが
平土間席を取り囲む周囲の階上席は桟敷にはなっておらず
オープンの座席が並ぶ

下手側の貴賓席桟敷から上手側のそれを望む
パリのオペラ座と同じく舞台袖すぐの階上席が桟敷の貴賓席



ヨハン・シュトラウス2世作曲『コウモリ』の舞台





正面全景 夜景


ここからは「レンヌ」の町の象徴的光景のもう一つ
「旧市街」をご紹介しよう

『Place de Sainte-Anne サント・アンヌ広場』

第二次大戦末期
ノルマンディーを中心ポイントとして上陸した連合軍は
フランス国内を占領するナチス・ドイツの守備隊と戦いながら国土を回復していく過程で
多くの町の旧市街は破壊されていったが
戦火を逃れ得た地区はその町の一番の観光地域となっていて
「レンヌ」もその例に漏れない


例によって
建物の歪み具合から
これらの建物の経てきた時間の長さを感じ取ることができる




窓をよく見ると
建物がゆがんでいても垂直と水平とがちゃんとやり直してあることがわかります









『Marché du Lice 外堀通りに立つ朝市』


外堀通りの建物
かつての城壁の外を囲む空堀の位置を大通りにした「外堀通り」は
フランス全国各地の町に存在する


それから
この町の近代の文化財として名高いものとして「アール・デコ」様式の市営プールがある

『Pichine municipale Saint-Georges サン・ジョルジュ市立プール』


1926年落成開業
『アール・デコ』という単純化したラインや幾何学模様の装飾を多用する様式の
初期の貴重なプール

しかし
セラミックの装飾のアレンジや

溢れ出る水がモチーフのセラミック装飾


鉄製の扉や手すり等
「アール・ヌーヴォー」という方が正確なように見える部分も多いものの




入り口のアーチと左右の壁の直線の作りは
確かに「アール・デコ」になっている














番号のついた各個人用の更衣室兼ロッカーを反対側に抜けると


プールサイドにそのまま出られる作りが便利そう






さらに
一つユニークな劇場がある

『Théàtre de l'Anncienne eglise St-Etienne 旧サン・テチエンヌ教会劇場』
昔の「聖エチエンヌ教会」を劇場に再利用している


教会の正面鐘楼下の入り口が劇場の入り口


オペラ座と違って
演劇芸術の日常性そのものがここにある




あと
ここ「レンヌ」の名所と言えば「植物公園」

『Jardin Botanique - Parc Thabor タボール植物公園』

「植物園」と言うより敢えて『植物公園』

展示館






鶏小屋

ことりが止まり中に入る入り口が並ぶ








=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 61 < レンヌ 1 と その周辺の ボエル 妖精の岩 > 現在の広域行政圏ブルターニュの首都 と ブルターニュ最大のドルメン

2021-06-23 00:04:10 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『妖精の岩』

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
61



ブルターニュの首都三つの最後のご紹介となる『レンヌ』に着く前に
ブルターニュで最大で最も美しいと言われるドルメン
『La Roche aux Fées 妖精の岩』
に立ち寄ってみよう

『La Roche aux Fées 妖精の岩』

「ナント」から北へ80km
「ジャンゼ村」と「ルティレ村」の中間あたり
「Essé エッセ」という小集落の周辺のトウモロコシ畑や小麦畑の
合間に点在する栗林のひとつの中に
忽然と
それは存在している
Illustration by ⒸVIGNERON

紀元前3000年〜2500年の間
長さ19,5m
幅4,7m
最大高4,10m
32基の縦岩(メンヒル)
9基の上蓋の大岩
写真左端が開口部を持つ「前室」
右端が閉じられている「玄室」


開口部の蓋の部分の岩は長さ(幅に当たる)5,5m
左右で支えるドルメンは露出部の高さ1m
蓋をする上蓋岩の厚みも1m近い

二列目はやや崩れていて


左側面から見るより



右側面からの方が沈み方が大きいのが見てとれる
さらに三枚目の天板を支えるメンヒルも左右共に中央が消失している


ところどころに衝立のような張り出しがあって
全体が4つの石室に分けられていることがわかる(上掲の図面参照)
奥の人も見れば
高さも理解できるだろう


開口部の反対側が閉じられていて


そこが「玄室」なのだろう


上に登ってみると
天板の岩は平らではないこともわかる


立ち位置によって


目線の高さによって


見る角度によって



様々な見え方をする
本当に不思議な「アレ・クヴェールト」で
まさしく
「妖精の岩」と呼び習わされてきた意味が分かろうというものだ


※  ※

ここから北西に20kmで
「ラ・ロッシュ=ベルナール」から「ルドン」でご紹介した「La Vileine ヴィレーヌ河」
に沿った『Boel ボエル』村に至る

渓谷美と断崖の地層の美しさで知られるこの辺り
「ボエル」には名高い水車がある


流れを段差で遮っているので
右端に見える水門で船が航行できるようにした




見る位置を変えても


季節が変わっても


とても美しい佇まい


この辺りで「ヴィレーヌ河」は馬蹄形に蛇行しており
岸辺の一部は岩盤でかつては石切り場だったところもある


旧石切り場の崖



崖の上に固い岩盤が露出した部分もあり



ハイキングやトレッキングやサイクリングのコースとして好まれている


『Pont de Boel ボエルの橋』
この村の入口の橋はロマネスク時代のもの


※  ※

この「ヴィレーヌ」の流れを10kmも北へ遡行すると
いよいよ
ブルターニュの都の一つ『レンヌ』に至る


ヴレーヌは「レンヌ」の街中を流れる

中之島『Ile Hélier エリエ島』






首都なので市域は広く
かなりの規模の城壁に囲まれて防御されていた


『Porte Mordalaise モルダル門』

当然重要な拠点都市なりの
広い空堀に囲まれた城壁があったわけですから
城門も残っている

『Tour Duchesne デュシェンヌの塔』
城壁の橋頭堡となる頑丈な塔もある


4月のこの場所は
城壁に絡みついてしな垂れる藤の花が美しい

街のシンボルは
「ブルターニュ高等法院」「商工会議所」「大修道院」「オペラ座」「旧市街」
となる

まず「ブルターニュ高等法院」だが

『Parlement de Bretagne ブルターニュ高等法院』

独立国ブルターニュ公国最後の君主「アンヌ・ド・ブルターニュ」が
フランス王「シャルル8世」「ルイ12世」に相次いで嫁ぎ
フランス王国と合体した後も
ブルターニュの公爵位と領土は「王妃アンヌ」に帰属していたが
ルイ12世との間の娘「クロード・ド・フランス」がその相続権を持って
王族「サングレーム公爵フランソワ」に嫁ぐ

その後夫がフランス国王を継ぐこととなり「フランソワ1世」として即位
その際王はブルターニュの主権を完全に王国に吸収してしまって
1554年主権は消滅した
そのかわり「上級裁判権」をブルターニュに残して
ここ「レンヌ」にその場を設けた


したがって「Parlement」という名前なので
一般的には「ブルターニュ議会」と誤訳される事もあるが
実は『高等法院』が正しい
現在も「高等裁判所」として機能している

この「高等法院」前の広場を反対向きに見ると


まるでパリの中心部のような感じでビルが立ち並んでいる
そして
この建物も火災に遭遇した


1994年2月4日
その日レンヌを訪れたエドワール・バラデュール首相に
イギリスやオランダに有利すぎるEU漁業政策の採択による漁価の大暴落に抗議する
ブルターニュ中から4000名の漁民が集まって抗議行動を行い
機動隊の強権執行に両者乱闘状態となった
デモ隊の誰かが持参していた「救命信号弾」を空に向けて発射し
そのうちの数発が高等法院の屋根をぶち抜いて屋根裏の木組の中に入り込んで徐々に出火
数時間後の夕刻
火災発生に気がついた職員の通報で騒ぎが広がった


結局1日半燃え続け
翌々日朝に鎮火したが

Photo by ⒸLesEchos
結局内装の95%が消失してしまった

Photo by ⒸRennes.fr

Photo by ⒸRennes.fr

レンヌ市
イル・エ・ヴィレーヌ県
ブルターニュ地方(地方圏・州)
の積極的修復行動と
市民からの多額の寄付などにより
焼け跡から集めた1cmほどの破片に至るまでを検証して場所を特定
洗浄や再彩色や金箔の塗布など精力的に修復に取り組んだ

Photo by ⒸRennes.fr

Photo by ⒸRennes.fr

Photo by ⒸRennes.fr

各分野の専門家の献身的な修復作業の結果10年の工事期間の予定が5年で修復が完了
1999年業務を再開できた



大法廷




大法廷の部屋には
必要に応じてブルターニュ公爵がお忍びで裁判に出廷する特別な桟敷きが
残っている

小法廷の一部屋


エントランス・ホール







一般の内部見学も再開されている



さて
レンヌのご紹介は次回も続けます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
【お願い】
ご感想やご意見ご要望などを「ぜひ」お寄せください
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ブルターニュ紀行 60 < ナント 2 東ブルターニュの首都  >

2021-06-21 00:58:01 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ/ホテル
巻頭写真 : レトロ未来風テーマパーク『マシン・ド・リル』の『巨象』

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスでは無い異世界を巡ろう
60


ここ「ナント」はフランス一の大河「ロワール」の両岸にまたがり
河口まで25kmあるかないかなので
河川港として結構船が登ってくる


帆船もいれば


これくらいの客船なら入ってこられる

そのロワール河の中に中州がある

その島に「ジュール・ヴェルヌ」のアイデアにも影響を受けて
生化学と機械工学とのフュージョン的実現の実験工房のような
ユニークな施設が作られている
『Machines de l'Ile 島の機械(館)』

島というのは
ナント市のロワール河の中之島


『Ile de Nantes ナント島』Photo by ⒸJiji44

この島にある且つての「造船所」の建物を利用したもので
『人造巨象』
『レトロ未来メリーゴーランド海洋』
『3つのギャラリー』
『アトリエ(工房)』
から成立つ一種のテーマパーク



3棟のギャラリーの向かって左のギャラリーの中に「人造象」が見える

『Eléphant Géant 巨象』

巨大
高さ12m
長さ21m
幅8m
重さ48,4t
各関節部可動部を制御する油圧シリンダーのオイル量2500L
ピストン62本
地方空港で滑走路から機内に入る時に使うタラップのような階段を横付けして
中と上に登れる


 頭の上に立ってる二人の大きさを見ると...

幾つかのコースを30分かけて歩く
速度1〜3km/h

巨大「メリーゴランド海洋」は三重層



『深海』『海中』『海面』
の三種類が三層にかぶさる

『深海』
は「海底二万里」でも出てくる怪物イカや深海魚など


「ダイオウイカ」



なぜか「ハコフグ」も深海

『海中』
はお魚やエビなど


マッコウクジラと怪魚が並んでる


エビ





カニ
蟹は甲羅の上の椅子に座るようになってた



『海面』
は船や磯に転がる帆立貝やら陸上の架空の生き物など






お魚の船


海馬


「海面」の層の頭の上には
色鮮やかなトビウオが飛び回っています

ちなみに
うんと小っちゃい子用の「ミニ・メリーゴーランド」も有る






ジュール・ヴェルヌの作品の
出版当時の挿絵をシートにして貼ってあるのを見ると



まさにこのまんまですよね

「ギャラリー」には
ありとあらゆる不気味カワユイ生き物たちが潜んでおります

タランチュラ


ドイツ人のおっさんがよく乗ってる改造巨大バイクのエンジンみたいだ




この「鷺」の様な鳥は



こんなに羽ばたく


これはやや意味不明



巨大な「芋虫ちゃん」みたいだ




こうなると全く理解不能
でも面白そうではある


ナマケモノのお腹の上にも乗れます

さらに空中のレールを走らず
家から吊るされているわけでもない
地上走行型も



このアリンコは四人乗り


係が小型の模型を使って
どの様に作動するのか説明してくれたりのするのです


このハチドリは(多分)乗れない

それから
場内遊覧する歩く怪獣は巨大人造象だけではない



メリーゴランドのタランチュラとは別の巨大蜘蛛
こんなんにウロウロされた日には気色悪くてたまらんだろう
でも乗ってる方は楽しそうではある


他にも

『Doragon-Cheval 龍馬』

背に中国風のパゴダを載せた時と



載せてない時と



鼻から煙を吹き口から火を吐く
オモロきしょカワイイでしょ

さらに
ジュール・ヴェルヌが考えた「空飛ぶ島」をもとに
レタッチしたポスターが貼られており


どうやら
これを作るらしい



小型の模型を作って



現物を仕上げて


外に飛び出す腕のところまで行くと



宙に浮噛んでいる様な錯覚にとらわれる

レストランもありますが


食べ散らかしていると
アリさんにご注意

巨象は
散歩中でなければここにおります




ではこの辺で
もう少し街を見てみよう

まず大聖堂

『Cathédrale Saint-Pierre et Saint-paul 聖ペテロ・聖パウロ大聖堂』

パリの「ノートル・ダム大聖堂」に非常に似ている
違いは
バラ窓がないことと
全体に高さが低い上に鐘楼がの角角に小さな尖塔が立ち上がっていることくらいか


後陣は見事なゴシックの様式

実はこの大聖堂も
パリと同じ様に火災にあった



放火だった
2020年7月18日


結構な被害が出たが
幸いパリの例のような大惨事ではなかった


ブルターニュ公国の最後の主権者だったアンヌ・ド・ブルターニュの父親
ブルターニュ公爵フランソワ2世の墓がある
なくなったのは娘がまだ10歳だった

大聖堂は今では火災の後は完全に修復されて
元の姿に戻っている




ここらで
ナントのホテルを一軒ご紹介しておこう
『Sozo Hotel ソゾ・オテル』


このホテルは
19世紀の礼拝堂を作り変えてある

レセプション 兼 バー


頭上は石のアーチ


上の階の手すりから見下ろすとこんな感じになる

客室は
礼拝堂の内陣部やその周囲にある小礼拝室がそのまま使われている



Duplex(メザニーン)の部屋
上からベッドを見下ろす


ステンドブラスもそのまま


スパの入り口


レストランは無く朝食だけだが
街のレストランで食べれば良いので問題無い

最後に
もう一つナント産まれの名物が


ビスケットの『Lu リュ』

『La Tour Lu』

「リュ・タワー」は本社ビルの円塔でナントっ子のシンボル
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 59 < ナント 1 東ブルターニュの二つの首都の一つ >

2021-06-18 00:29:20 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : ナントのシンボル『りんご園のパッサージュ』

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
59



旧ブルターニュ公国以来
ブルターニュには中心都市が3つある
西に『カンペール』
東に『ナント』と『レンヌ』
東の二都市はともに大ブルターニュ半島付け根
ノルマンディーとアンジュー(王室親族)という二大ライバルの勢力圏に接し
その南北の半ばに「レンヌ」
南の際に「ナント」がある

「ナント」に歴代ブルターニュ大公のの主城があり政治都市
「レンヌ」は二大対抗勢力に接する戦略的拠点都市
「カンペール」はケルト色の強い民族都市

『Château des Ducs de Bretagne ブルターニュ大公城』

この街は
世界史を取れば必ず出てくる
16世紀後半数十年続いた
国家と民族の基盤「カトリック」と
抵抗勢力「プロテスラント(抵抗する者たち)」
との間の宗教戦争「ユグノー戦争」を
新旧両教派を納得させて終わらせたブルボン王家の始祖『アンリ4世』が
新教の信仰の自由を認めた「ナントの勅令」を発布した街として


城の壁面に「1598年4月13日 国王が勅命に署名した」と明記された
銘板がはめ込まれて記念されている

1598年最後のブルターニュ大公国の継承者『アンヌ・ド・ブルターニュ』女大公が
フランス国王ルイ12世に「嫁がされ」て
ブルゴーニュ公国はフランス王国と「同君連合」となって以降も
議会や裁判権など大半のブルターニュ既得の主権は認められていたが
「ナントの勅令」によりほぼ全ての独立していた権利が王国に吸収されてしまう
いわばブルターニュの終焉でもあった

『Duchesse Anne de Bretagne ブルターニュ大公アンヌ』

父君大公フランシワ2世の後を受け24歳でブルターニュ公国の継承者となった
「アンヌ・ド・ブルターニュ」は
独立を維持する能力はないだろうと考えた重臣たちにより
フランス王国と合併することを推し進められかかり
オーストリア大公マクシミリアン・ド・ハプスブルクとの結婚を決める
ところがブルターニュの爵位と公国が次世代にオーストリアに移ることを危惧した
フランス王シャルル8世に強引に略奪結婚されて一度フランスと合体
王の夭逝で独身に戻って公国の独自性が回復した直後
次期仏国王ルイ12世に嫁がざるをえなくなり
ブルターニュが最終的にフランス王国と合併してしまうことになった

 城は
堀に縁取られた中世の城塞の城壁に囲まれ
その中に近世の城館が建っている


城を見晴らすこの広場は夏にはそこかしこから水を吹き出す
噴水というか散水というかになっており


子供達が濡れながら大喜びではしゃぎまわる






中世の城壁は単に周壁ではなく
塀自体が後世の城館の構造体として組み込まれていることが見て取れる



大手門


搦手門


塔の左側はゴシックの時代の建物
右側はルネッサンスの時代の建物



井戸もそこにあった
城館の中は「ナント歴史博物館」になっている



ブルターニュ侯爵家とフランス王室の紋章を交互に配置したタピスリー






古い城と新しいトラム

博物館つながりでもう一軒

『Museum d'Histoire Naturelle de Nantes ナント自然史博物館』

フランス語では博物館・美術館は「Musée ミュゼ」ですが
自然史博物館だけ「Museum ミュゼオム」と言います






幾つかの他の町にもある「ムゼオム」と同じで
地球上のあらゆる生物(動植物)を化石から実物の剥製まで
時代順地域別に網羅する展示


入り口は
反対側の通りの面した方にある

さらにもう一軒
ナントが生んだ稀代の異彩『ジュール・ヴェルヌ』の記念館

『Musée Jules Verne』

『地底旅行』
『海底二万里(リーグ)』
『月世界旅行』
『八十日間世界一周』
『十五少年漂流記』
『気球に乗って五週間』
多くの作品からこれだけ挙げるだけでも
空想科学小説で冒険小説で
地球内部の探検や海底での半永久的生活を送れる大潜水艦やら
月面に到達できるロケットやら
世界中の主だった土地の有様や
少年たちの冒険心やら
杞憂やらアフリカ大陸の様子やらを題材にした
稀有の才能を誇った小説家であることがわかる


残念ながら
この家は生家でも彼が済んだ屋敷でもない
彼と同時代の富裕層の屋敷を市が買い取り
ジュールヴェルヌボツ150年祭を記念して博物館をオープンした



通りの反対側は斜面になっているので4階建
内部には
「ジュール・ヴェルヌの世界」が満載


奇才というか鬼才というか
SF小説と冒険小説の父と言われる「ジュール・ヴェルヌ」は
宇宙ロケットや
空気や水も自給自足する技術を備えた何年も深海で生活できる大潜水艦や
ユートピア的機械製品など
数々の
19世紀における未来世界のイメージを生み出した

陸海空の三刀流の乗り物

その
近代都市ナントの時代を現代に伝えるシンボリックな場所が
パッサージュ

『Passage Pommeraye パッサージュ・ポムレィ』

この「パッサージュ」は
ある一人の若き公証人「ルイ・ポムレィ」が
地味で特徴のなかったこの一帯を高級ショッピングの場所として再開発したい
というアイデアから生まれた
フランス最後の国王「ルイ・フィリップ」の御代1843年に落成


三層のショッピング・ギャラリーと
オフィスや住居に使える最上層とで構成されている


外部からの入り口は何箇所かある


Pommeraye の「y」を「i」に替えれば
同じ発音で「りんご園」という意味になる
しかも
欧州の言語はもともとは「y」と「i」は同じ字だった
多分発案者の交渉人はご先祖がリンゴ農家だったのかも


高級ショッピング・ギャラリーを
と望んだその感覚は十分に今でも生き続けている



吹き抜けの場所の中央階段


別に側面の階段もある


最上層


パッサージュだからガラスの天井は必須


19世紀半ば
最後に復活した王政時代を彷彿とさせる大理石の彫刻






レトロだがしっかり現代的でもあり
ナント市の「ランドマーク」だけのことはあります

もう一箇所「博物館」をご紹介しておこう
『Musée Dobrée ドブレ博物館』

『Musée Départemental de Thomas-Dobrée 県立トーマ・ドブレ博物館』

19世紀にトーマ・ドブレが
わざわざ「復古主義」で15世紀イタリア風の館を建てたのは
彼がその土地を購入した時点で
すでに15世紀の司教の屋敷が立っていたから



あるいはベルギーの古都にでもありそうな建物にも見える

建物は19世紀末には既に県が所有しており
近年中世から20世紀までの美術と古代の出土品などを展示する為に
ここに博物館を置く事にした







『ブルターニュ公爵アンヌ・ド・ブルターニュ』


『アンヌ・ド・ブルターニュの心臓を収めた遺物匣』










ところで
ここ「ナント」はブルターニュで一番の都会だけあって


高層アパートもあるし


ブルターニュ全体でおそらく唯一の高層ビルも有る


(続く)
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ブルターニュ紀行 58 < サン・ナゼール と その周辺 > ブルターニュ南東端 ロワール河の世界の入り口

2021-06-16 00:15:02 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ/ホテル
巻頭写真 : サン・ナゼールの造船工廠で建造中の豪華客船

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
58



「ラ・ボール」から東へ12km
フランス第一の大河『ロワール』の河口の街が
『Saint-Nazaire サン・ナゼール』

『Pont de Saint-Nazaire サン・ナゼール橋』

フランスの東半分を南北に(北1/3 南2/3くらいに)分けて流れる「ロワール」は
全長1020km強

フランスという国は
「民族・言語・伝統・文化」の成り立ちと
「気候・風土」の自然条件が南北で異なっており
その境目が「ロワール河」なのです

「サン・ナゼール」は河口なので
非常に長いヨーロッパ最長の橋がかかっている
3356m





20世紀になって以来豪華客船の建造に特化した造船の町として名高い


街を走っていると
こういう光景が普通に車窓から飛び込んでくる


かなり完成形の姿を表しているものもあれば


最後部だけ建造中のサイトもあったり



舷側が覆われているのや


最上階甲板の建造中だったり


完成した船が進水式を済ませて
船主の元へ「納入」されるために出航するときは
岸壁にはお見送りの人々もいる


20世紀後半に入って
日本の造船業が安価な建造費で世界の造船業を壊滅させて
その日本も高度成長に伴い人件費が高騰すると韓国がマーケットを奪い
その韓国も中国に奪われ
という変遷を経てきた造船業だが
「豪華客船」となるといろいろなノウハウがモノを言うらしく
「サン・ナゼール」の牙城は揺るがない


『Queen Mary II』

そういえば
2003年の進水時には世界最大の豪華客船だった
総トン数148000トン
全長345m
高さ72m
という『クイーン・メリー2世号」も
ここ「サン・ナゼール」で建造された

ところで
フランス人は伝統文化を大層丁寧に大事に受け伝えているが
片方では
途方もなく現代的な良し悪しの判断の難しい物もしっかり評価する
それで
ここ「サン・ナゼール」では
町中にストリートアートが溢れているのです


中心部の至る所に
道路にカラーリングが施されていたり



なにやらけったいなオブジェが置かれていたり
そのオブジェは「シードラゴン 海龍」という作品で



実はこれ木製の遊具で
製作途中の段階から子供達は横で遊べた



横には
タコだか何だかよく分からない不思議なものもありました

ついでに横の建物の壁面に壁画も描いてみたり





そんな壁画を描くことを
中心街のあちこちの建物に拡大したり









ここは「美術学校」の前
なんだか納得

フランスは社会インフラの建造物を
古い建物を利用して大胆な改装を行ったり
目一杯斬新で奇抜なものを造ったりする傾向がある

旧駅舎を市立劇場に作り変えてしまった


これが駅正面全景


その内側を


木とコンクリートでこんな風にして



中がこうなった

そして
こんな物まで造ってしまった

『La Souscoupe ラ・スゥクープ』

「アンダー・ソーサー」(ティーカップの下の受け皿)
と命名された
「バレーボールとボクシング」の専用競技場です



中の観客席が「すり鉢状」になっているのが納得できる
しかし実にけったいな代物です

極めて伝統的である「市場」もこの町は近代的


正面の外観はそこそこですが


どうです
この光溢るる清潔感と言ったら



※  ※

ところで「サン・ナゼール」の対岸に
『Saint-Brévin-les-Pins サン・ブレヴァン・レ・パン』
「松林のサン・ブレヴァン」という町があって
そこに
なんとも奇妙奇天烈なオブジェがあるのです
波打ち際の
干潮時には歩いていけるほどの水の中に

『Sérpant de l'Océan』

その名も「ウミヘビ」という
巨大な骸骨

まずいかに大きいかをご覧いただこう


口の中に子供連れのお母さんが立っております


これを「けったいな」と呼ばずして
なんと呼ぼうや

2012年の「サン・ナゼール河口祭」のために
EU「ヨーロッパ地方開発基金」からの資金で
中国人彫刻家「Huang Yong Ping」に発注された総アルミニウム製の巨大な海蛇
の中骨
全長なんと130m!



笑ってうなされそうな
SF映画のワンシーンのような
でも時と状況によっては


神々しくすら見える海蛇さまではあります

さて
ロワールをまた渡って「サン・ナゼール」の側に戻って
町から西の郊外『ディシニャック』という場所に行ってみよう
ここには古代巨石文明の遺跡がある

『Tumulus de Dissignac』
目にも鮮やかな滴るような緑に只中にポツネンと一つだけ
5600年前からの時を伝えている円墳


この目線の高さで見ると
なにやらインベーダーゲームのキャラクターに見えなくもない


どうやら玄道が二本あるようだ


そして
玄道のかなりの部分が露出してしまっている


もっと大規模に覆われていたはずだ
残念ながら中には入れない


一面の畑の中のタイムマシン

※  ※

今度は「サンナゼール」の東北東側数キロ『トリニャック』
ここは且つて製鉄業で栄えた場所だった
と言う事は
戦後欧米の製鉄業がシェアーを日本に奪われ
韓国に移り
中国が奪い
今やインドネシアやインドに渡って壊滅した産業の痕跡

『Ancien Haut-Fournau de trignac トリニャックの高炉跡』


これまた
別のタイプのSF映画のセットの様な


あまり
恨みがましくも嘆きかなしむ様子も感じない廃墟遺産遺跡

※  ※

さらにもう少し東のロワールの川岸に『ドーニュ』という
現役の産業地もあります

『Raffinerie de Dogne』
ドーニュ石油精製基地


これはこれで
おどろおどろしいまでのエネルギッシュな存在感ではあります

※  ※

最後にホテルを一軒ご紹介しよう
「サン・ナゼール」から橋を渡ったすぐの対岸に『Hôtel Anne de Bretagne』







ここはレストランが特にお勧めです













=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 57 < ラ・ボール > 南ブルターニュ と言うより 西フランスで最も名高い海のリゾート

2021-06-14 00:17:15 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ/ホテル
巻頭写真 : 東フランス大西洋岸最大の砂浜『ラ・ボール』

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
57



フランスの三大ビーチは
南はコート・ダジュールの『ニース』  北はノルマンディーの『ドーヴィル』
そして
西がブルターニュの『ラ・ボール』
という事になっている

Map by ⒸGoogleMap

地図左端の表示が「バッツ」
右端が「ロワール河」の河口で
河口の街は「サン・ナゼール」
「ラ・ボール」はポインティング・マークされている「扇型」のところ

西の「Pulligen ル・プゥリギュン」から
東の「Pormichet ポルニッシェ」まで
9km
途切れずひと続きの
管理された砂浜としてフランス最長のビーチです


砂浜の砂はきめ細かくて
日光浴に寝そべるにはぴったり
海岸線に沿って道路が延び
ヴァカンス用のコンドミニアムが途切れなく立ち並ぶ

海岸の遊歩道は


夏でも


冬でも
人々はさんざめく

砂浜でも


冬場でも人の絶えることはない


とてつもなく長い砂浜は
引き潮になると広大になる


夏場は


こうなり


子供用の遊具を揃えた「キッズ・クラブ」も幾つか見られる


子供達は大はしゃぎ


ヨットスクールも
ウインド・サーフィンのレンタルも揃っています


人出のない早朝は
乗馬クラブの出番となる


少し時期がずれると
キッズクラブもなくなり人気も少なく
逆にゆっくりとビーチを堪能できたりする

最盛期には


午前中はこんなでも


午後にはこういう光景の日もある

海岸線の道路に沿って続くコンドミニアムの中には



こんなアヴァン・ギャルドなものもあった

海岸通りには
小綺麗で快適そうなレストランも並んでいる
そのうちの一軒

『Restauran Le Ponton』


吊るされた籠のような椅子もあって
冷たいカクテルなんぞをちびちびやりながら海を眺めてしばらく過ごす
なんて時間の使い方も海岸ならでは

海岸通りから内側に入ると
整然と管理された明るい林の中に19世紀初頭から20世紀初頭の別荘が並んでいる

別荘だけあって様々な遊びのある仕様のものが見られる


『Villa Bel Horizon』
あえて「中世」風の塔を配した作りの『ベル・オリゾン(眺望)邸』


『Villa la Glorita』
アングロ・ノルマン様式の『ラ・グロリータ館』

『Villa Etchoia』
バスク風の『エッチョイア邸』

『Villa Le Volière』
アングロ・ノルマン様式の『鶏小屋館』



以前ご紹介した「Brière」湿地帯に多い形式の民家風別荘(名称不詳)


『Villa Régina』


『Villa les Pins』


『Villa Musset』


『Villa Ker Lotti』


『Villa Manpon』

『Villa des Roches Rouges』


『Villa Saint-Christoph』

以下名称不明








これらの200年を経た別荘は当然すべて指定文化財で
しかも
「文化財建築保護区域」に残っており
現在も使用されている

そして楽しいことも
人通りも車も少ない静かな林の中のような通りなので
時々こんなのが横切ったりもする


人に出会って一瞬止まって尻尾が総毛立った
怖がらせたらごめん

この林のような環境に
超高級ホテルが二件あったりします

まず『エルミタージュ』

『Hôtel l'Hermitage-La Baule』

ロビー

海側のプライヴェート・ビーチからの全景

もう一軒は『ル・ロワイヤル』

『Le Royal la Baule』

ロビーは木造建築の雰囲気

レストランの一部

実はどちらも同じ資本になってしまった
地中海岸のカンヌと
ノルマンディーのドーヴィルと
北ブルターニュのディナールと
ここラ・ボール
に昔からあった大型高級ホテルをほぼ傘下に収めたあるチェーン

だから
カジノ プール スパ タラソテラピー サウナ ジム テニスクラブ 乗馬クラブ 
などのあらゆる施設が全部揃っています
目の前のプライヴェート・ビーチに面しては共通のレストランがある

ビーチのレストラン

その手の「大型高級ホテル」が嫌いな筆者としては
ここ「ラ・ボール」の一押しホテルは別にあります

小さくて家庭的で上品で
かつ
快適な要素はすべて備えてることが条件
それが『Castel Marie-Louise カステル・マリー=ルイーズ』

建物全景

レセプション

レストラン

お庭のテラス席

バーのカウンター


客室 1



客室 2

客室 3

お食事は
近年星を落とされてしまっているものの質はほぼ変わっていない

ホタテのカルパッチオ

牡蠣の温製 イクラと海藻添え

フレッシュ・フォワ・グラとホタテとアカザエビの ハーヴティーのナージュ


この町の市場は古いものは残されておたず
近代的な清潔な建物に変わっている


早朝の外観


あえて戸外の朝市っぽく作った部分もある


そこは
営業時間になるとすっかり様変わりして



内部も多くの店が軒を連ねている
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 56 < ル・クロワジック  バッツ・シュー・メール> ゲランド半島に向かう

2021-06-11 00:24:59 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ/ホテル
巻頭写真 : バッツの『ミューリエの聖母礼拝堂』の遺構

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
56



塩田が広がる湾のような湿地帯の南の縁を取り囲む腕が
『Presqu'ile de Guérande ゲランド半島』
付け根の位置は南ブルターニュ一番の海浜リゾート『La Baule ラ・ボール』
西の先端が『Le Croisic ル・クロワジック』

その半島の中間点に
『Batz-sur-Mer バッツ・シュー・メール』という小さな町があって
そこにユニークな姿の礼拝堂あり


『Chapelle Notre-Dame de Mûrier』

その名も「ノートル・ダム・ド・ミュリエ (ミュリエの聖母礼拝堂)」
何がユニークな姿なのかというと
壁と柱しか残っておらず屋根も天井もステントグラスも無いから

左側面

15世紀
ペストの大流行に地元民は
当時廃墟になっていた古の聖母に捧げられていた礼拝堂を立て直そうと考えた

正面上部 向かって右斜めから

当時この土地は既に製塩で多いに潤っていたが
礼拝堂の建造は手に余った

正面 上半分

時のブルターニュ公爵ジャン5世がローマ法王ウージェーヌ4世に直訴し
再建なった暁に
礼拝堂に参る信者たちからの献金を「建設費」の償還に向ける許しを得て起工し
1496年に完成した



1819年の大嵐で
屋根と天井が崩壊した

正面下部

以後
そのまま廃墟として今日まで続いている





内部



左側面 後部から斜めに


文化財登録は廃墟になってから半世紀後
1862年の事

実はこの礼拝堂と
道一本隔てた隣のブロックに「まともな」教会があります
その鐘楼に上ると

この礼拝堂の
屋根も天井もないことが明確に見て取れます
「まともな」というのは壊れていないからですが

『Eglise Saint-Guénolé 聖ゲノレ教会』

西側正面の方から前半分を見る限りごく普通
でも
十字架形の頭の方(東側)半分はかなり変わっている


翼廊(十字架形の横軸)の手前
つまり内陣のある左右に礼拝室が二つ飛び出しており

十字架形の頭を外部(外陣)から見ると


先端が二つに分かれてそれぞれに破風(三角部分)を持ち
その外側に
軸線がずれるがさらに二つの礼拝室のような破風を持つ屋根が出っ張っている

鐘楼下の西側正面玄関口


内部で
身廊から内陣方向を見ても軸線がゆがんでいることがわかる


振り返ると西側正面玄関口の上にパイプオルガン
天井がそれほど高くないので設置位置が非常に低いのは
ブルターニュの教会の特徴

内陣の主祭壇
祭壇衝立(Retable)の左側の柱に

Saint-Guénoré (聖ゲノレ)
この教会の名前となっている守護成人『聖ゲノレ』の彩色木像があります

身廊と内陣とは古式豊かな木造天井だが
左右の側廊はゴシックの石組の天井で
一部のアーチ交差部の要石の装飾が非常に興味深い


7匹の悪魔の眷属に食われつつある「地獄落ち」した罪人
こわっ


こちらは「聖骸布」

先ほどの鐘楼にもう一度登ってみると


狭い半島なので海まで見張らせる

それからこの町には
『Musée des Maraiss salants 塩田博物館』
なるものがある

建物外観

白壁に「塩田」の図面がレリーフされて
その前に
採れた塩の入ったザルを頭に乗せた地元女性の銅像が


所狭しと並ぶ展示物の合間に
壁と床とに
塩田地帯の空撮写真の映像が


昔の製塩業従事者の衣装の展示


製塩の歴史から
世界中の製塩の中心地の紹介
製塩方法の違いと素fレゾfれの塩の実部tr巣の展示など
興味は尽きない


採取した塩に混じるゴミや砂などを取り除くための
塩洗い機
ザブザブ洗っても
体積は減ってもそうそう溶けけなかったらしい


洗塩機の前には塩を運んだ馬車


子供達に熱心に説明する親子連れも多い
学校からの見学も絶えないそうだ
部屋数も多く
展示方法も工夫が凝らされ
子供達が手にとって触って感じる事が出来るようにしたものも多い


「バッツ」から岬の先端に向かおう

※  ※

ゲランド半島の西端「ル・クロワジック岬」は
地図の左端の楕円形の部分


港は他の町のように河口というわけではなく
陸側をえぐったように入り込んでいるのですが



引き潮に成ると


当然こうなってしまいます



港越しに教会が見える



『Eglise Notre-Dame de Pitié 慈愛の聖母教会』

海の町なので
19世紀以来の魚取引市場がある


かつては
この中で毎日「せり」が行われていた


今では新しい建物ができてそちらに移り
特別展示会場に使われている


現在の魚市場

内部(イメージ)

この楕円形の岬の周囲の海岸は
造山活動で地形ができた頃にのままで
その環境を活かして
小さくて行き届いたサービスと快適さとを満喫できる
素敵なホテルがあります


『Hôtel Le Fort de l'Océan ル・フォー・ド・ロセアン』


小さいです
地面の高さが微妙に違うので



この右にやや下がってレセプションに入ります

共用空間

二階客室 1

二階客室 2

ジャグジー付きのバスルーム

三階客室

レストラン




テラス


プール




サンデッキ

キオスク

飲み物がオーダーできます


野生の海岸は徒歩30秒

=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 55 < ゲランド と その周辺 > ブルエール自然公園の南西の縁の塩沼地帯

2021-06-09 00:45:32 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : ゲランドの塩田での塩つくり作業

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
55


フランスには
塩の産地が大きく四種類に分かれる
海岸近くでの塩田天日製法
海岸近くでの塩水火力蒸発製法
内陸岩塩鉱脈地方の水汲み上げ地下水の火力煮沸製塩法
内陸岩塩鉱脈から掘り出す製塩法

この中の
天日による製塩法で名高い産地の中でも
「Noirmoutier ノワールムゥティエ」
「Guérande ゲランド」
の二カ所が双璧で
特に一旦途切れていた昔の手作業の小規模製塩技術を
地元の若者が戦後に復興した「ゲランド」が品質の上で最も高い評価を受けている


map by ⒸGoogleMap

地図の緑色の部分が「ブリエール自然公園」の範囲
そのヘリの部分に「ゲランド」の町があり
その左下の網目状の部分が塩田地帯

俯瞰すると
一面の塩田であることがわかる


より内陸地に近い方

Photo by ⒸFox3Shots
より海に近い方

まず町を見てみよう
大手門

旧市街を囲む城壁は
ほぼ完全に近い形で残っている


『Porte Saint-Michel 聖ミカエル門』

東西南北に4つある城門のうち
いわゆる大手門は東門で「サン・ミッシェル門」と呼ばれる


この辺りは堀も消滅して




したがって
跳ね橋も残っていない
この城門を入って



振り返ると
内側は例によって二つの塔ではなくて
一つの大きな塊



内側の「城門通り」は
結構小綺麗な商店が並ぶ感じの良い通りになっている


商店やカフェ


レストランなどを左右に進んで行くと
教会の欲の広場に出る

『Ancienne Collegiale Saint-Aubin 聖オーバン旧神学校聖堂』


週に4日
この広場に市がたつ


当然塩も売ってた


生産者直売なので
お土産用にお店で売っているものよりお安く買えます





この西側正面玄関口は普通開けない
南側面の入り口を使うのは他のブルターニュ各地の教会と共通の特徴

教会まで行くと
通りが入り組んでいる





城壁内は当然古い小さな家が並ぶが


中には
やや大型の意建物も無い事は無い



城壁の上も一部あるける



4つの城門の後の3つは


『Porte Vannetaise』
北門は「ヴァンヌの門」

『Porte de Bizienne』


西門は「ビジエンヌ門」

『Porte de salines』
南門は「塩田の門」

堀は
西門から北門の間と北門を通り過ぎて少しだけ
残っている







時計でいうと
9時から1時まで右回りに


あとは堀はすでに無いが
旧市街を取り囲む城壁の外側は
道路で一周できる


ではいよいよ
製塩の現場に行ってみよう


最初の作業は「田造り」
海からの水を少しでも長い距離を流せるように迷路のような畔を作る


それらの「塩の田」を
高度が10cm 程の差をつけて何面もつないでゆく


高さが少しずつ低くなる何面もの塩田に
海からの塩水を引き込む


くねくねと長い距離を流れて行く間に
塩水の水分が蒸発して塩分濃度が上がって行き


表面に塩の結晶が少しずつ形成され始める
その最初の結晶は塩水の泡から形成され香りと風味がずば抜けて良い


その最初の結晶を集めたものを『Fleur de Sel 塩の華』と呼び
採れる量は非常に少なく
それ以後のたくさん量が採れる粗塩とは取引価格が全く違うのです


毎日集めた結晶を一箇所にまとめておく





上の小さい杓子の色の白い小粒の方が「塩の華」
下の大きい方の杓子の色がやや濃い方が「Gros Sel 粗つぶ塩」


塩を集めた後には
水鳥がやってきて餌を漁っている



ところで
「ゲランド」のすぐ南の郊外「Careil カレイユ村」に
実に素朴な城が一軒


一応城壁はあるものの門構えだけ見ると
とても城には見えない

この門を入ると


『Château de Careil カレイユ城』

こうなります
そして左を向くと





この角度で見れば
確かに城塞ですが





このルネッサンスの屋根窓を見ると


一応城館とも言える
まあしかし


地方の小貴族の「代々の」家という雰囲気そのもの






この寝室などを見せられたらもう
「古城」以外の何物でもありません


しかし
この雰囲気は19世紀の館

大食堂の間は


近郊の人たちが
結婚式のパーティーなどに好んで利用されているそうです


気取らず
片意地張らず
先祖代々の屋敷を守ってきた城主の家族の自負を感じるものであります
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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