行ってみませんか... こんな 素敵な世界へ

好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

地中海の『美の島』 コルシカ島 4 < アレーリア から バヴェーラ峠 を経て ポルト・ヴェッキオ へ > 古代ローマ都市 と 高山と

2021-08-16 00:22:59 | 素晴らしき世界/コルシカ島
巻頭写真 : アレーリア『ディアナの塔』

「地中海から突き出した高山」コルシカ島は
人間が作った美ではなく
地球の野生の美しさを保っているから「Ile de la Beauté 美の島」
と呼ばれてきた



国道が山側へ向かうのと海岸に沿って南下するのとの分岐点から
前回の5つ村々を右上に見ながら通り過ぎ
同じように山の上や中腹にある村が続く『カルタニッチア地方』の東の縁を
50km走ると『アレーリア』に着く

『Aléria』

国道の右側にほんの数メートル高くなった地形に村がある
国道で村の区域に入り程なく右に入る県道がありそこに入ると左手が
この写真の角度になる
一番右の四角っぽい建物が「マトラ要塞」で現「考古学博物館」
それに向き合って写真左手に「聖マルセロ教会」
ローマの遺跡はさらに少し向こう側

Photo by ⒸU Patrimoniu

この写真に写る左が村で中央がローマ遺跡
国道は村の左からまっすぐ来ているのがかすかに写っている


Photo by ⒸU Patrimoniu











ここに集落を作ったのは紀元前6世紀半ば
小アジアの地域紛争で逃れてきた古代のフェニキア人たちだった
その後ギリシアとの交易の中継点として栄えたようだが
考古学的には遺構は残っていない
フェニキアの都市カルタゴの時代には
ローマ以前のイタリア文化を築いた「エトゥリュスク人」との交易もあり
カルタゴ崩壊でローマの支配下に入り現在の遺跡の町が作られた
ロマーニャ地方の対岸とあって大いに栄えた

ただ全島に言えることだが
ローマ崩壊とともに「ヴァンダル族」の侵入で島中根こそぎ破壊されてしまう

その後のことは省力するが
18世紀後半まで5世紀間続くジェノヴァ支配に抵抗した独立運動の主導者
『パスカル・パオリ』の
『独立コルシカ共和国』の指揮下に入らず
抵抗運動に抵抗したジェノヴァ側の重要拠点の一つとなり
戦いの起点となったのが『Fort Matra マトラ要塞』である

『Fort Matra / Musée départemental d'Archéologie Jérôme-carcopino』

この要塞は1485年ごろにジェノヴァ共和国によって建てられた
ここに
遺跡からの出土品が集められて
『上コルシカ県立ジェローム・カルコピーノ考古学博物館』となっている

「マトラ要塞」中庭

展示室

ギリシア 赤絵だし壺 1


ギリシア 赤絵出し壺 2

古代ギリシア陶器には
赤土本体に黒土皮膜をかぶせて模様部分を赤土で表す「赤絵出し」
逆に
黒土本体に赤土皮膜で黒土部分で模様を表す「黒絵出し」
と二種類がある

クレタ 黒絵出し小壺

ギリシア 赤絵出し平杯

ギリシア 赤絵出し平杯 2

エトリュスク 馬頭杯

同 部分


犬頭杯

エトリュスク 壺

エトリュスク ライオン石像

エトリュスク ペンダント

エトリュスク 山羊 青銅


発掘現場の写真


同 2 ペットと思しき犬と一緒に埋葬


同 3 ペットの犬だけの埋葬



左にマトラ要塞 右に聖マルセロ教会


正面マトラ要塞 右聖マルセロ教会

『Ghjesgia San Marcello 聖マルセロ教会』


同内部 祭壇部

ここ「アレーリア」には「タニョーヌ川」という小さな川が流れてきて
村のすぐ近くで大きく蛇行しながら海に注ぐ
その河口を挟むように南北に池が二つ
「サレ池」と「ディアーナ池」
当然どちらも汽水池で北側のディアーナ池の狭まった出口から海に注ぐ先端に
15世紀ジェノヴァの建てた塔がある

『Tour Diana』

その海岸に素敵なレストランがありまして...

『Restaurant aux Coquillages』

シーフードてんこ盛りで出してくれるんですが個人的に気に入ったのが
これでした



では「アレーリア」を発ってもっと南下しよう

東海岸は平坦で海と付かず離れず15kmで『ギソナッチア』を通り抜ける
こんなビーチがあって

『Plage de Ghisonacchia』

ジェノヴァの塔もある



「ギソナッチア」を過ぎて

さらに15kmほど南下すると『ソレンザーラ』に着く
小さな村には不釣り合いなほど大規模で近代的なマリーナが有る他は


こんな
古いんだか新しいんだかよくわからない教会がるだけの村に
山側から『ソレンゾーラ川』が流れてくる

その渓流を遡って山国コルシカを訪れよう

『Rivière de Solenzara』

海岸の「ソレンゾーラ」から国道を離れて西へ
正確に言うと南西へしばらく「ソレンゾーラ川」に沿って山道をうねうねと登って行く




『cascade de Purcaraccia ピユゥカラッチャの滝』


『Piscine de Purcaraccia ピユゥカラッチャのプール』


幾つかの山々があるが
一番高い「バヴェーラ針峰」を中心として『バヴェーラ山塊』と呼ばれる


『L'Aiguilles de Baverra バヴェーラ針峰』

aiguille は針
見る位置により頂上が針のようにつきたっているのでこう呼ばれる
アルプスのモンブラン山塊に「エグィーユ・ディ・ミディ」という名峰があるが
同じ発想

標高は1,857mと特に高山というわけではないが
存在感は圧倒的だ





その主峰を見晴らす峠が『バヴェーラ峠』
標高1,217m


『Col de Baverra』

その峠の一角にケルンが積み上げられており
マリア様の像が飾ってあった


峠の直前にオーベルジュが一軒ある
他に食事どころがないので観光バスが停まっていることも多いが
山国の素朴で美味しい料理を味わえる

『Auberge du Col de Baverra』



コルシカ特産「イノブタ」の煮込み






山塊の山々は魅力的でそれほどの上級者でなくても登れるコースが多いので
登山家たちを引きつける





これらの山あいの県道は
ソレンゾーラから南西に山に入り「バヴェーラ峠」で下り勾配になり
数キロ走って「ゾンザ」から南東に角度を変えてまた海岸を目指す



実に爽快で車で走って気持ちの良い山道を下っていくと
また渓流があり滝もあって退屈しない

『Piscia di Ghjaddicu』

「ガッロのピッシア(おしっ○)」という愉快な名前で親しまれている滝と
それに続く天然のプールは素晴らしい


このまま山道を下って南西コルシカの主邑の一つ
『ポルト・ヴェッキオ』
を目指す
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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地中海の『美の島』 コルシカ島 3 < バスティア から レイリア へ > 島の東側を南下する

2021-08-13 00:01:46 | 素晴らしき世界/コルシカ島
巻頭写真 : 「ヴェスコヴァート村」

「Ile de lq Beauté 美の島」と呼ばれる『コルシカ(コルス)島』は
島ではなく
海からいきなり突き出した高山と言われる



上コルシカ県の県庁所在地「バスティア」を出て南に下る
島を海岸沿いに時計回りに回ってみて行こう
時折内側の山国に入り込みながら

国道198号線はバスティアから10kmほどで住宅密集地が途切れて平らな視界が開け
左側は海
右側は山

Map by ⒸGoogle Map

その頃から左側には沼沢地になる(道から離れているので見えない)
「ビグーリア池」
その先に空港がある(地図の買い物マークのところ)
バスティアから来て国道の空港と反対側(右側)の山の上に集落が見える
『ボルグゥ村』
標準フランス語で「ボルゴ」だがコルシカ語では「ボルグゥ」


『Borgu』

例えば空港から国道に出るとすぐ目の前に見えるので
コルシカ到着第1番目に目にする「山国コルシカ」の光景になる

『Eglise de l'Annonciation de Borgu ボルゴ受胎告知教会』

同 鐘楼と後陣


同 北側側面

同 南側側面

同 西側正面ポルタイユ

村の通り


村の家



村の中から山側を見る


村の西側から東の海を見る

下に幹線道路と「ビグーリア池」とさらにその向こうに海
海の中に見える『ピアノーサ島』(イタリア)はわずか40km

※  ※

そのまま国道を南に1km半進むとまた右手の山の上にも同じような光景が見えてくる
『ルチアーナ村』


『Lucciana』




バラ色に染まった教会が見えるがそれは

『Eglise Saint-Michel de Lucciana 聖ミカエル教会』


同 内部 身廊

同 北側側面
品から見える村の全景に見える教会は南の側面
北側は土地が斜面になっており
二階席に入る階段が外側に別につけてある


階段

北側側面

南側斜め後方から


村の中心部

家々

観光収入で豊かなプロヴァンス地方の村々のように修復などされておらず
時代の年輪が染み付いた生活感の汚れ方が「コルシカ」なのです




※  ※

「ルチアーナ」を過ぎて1kmほど南下すると国道は左右に分かれる
(上の地図のT10とT20)
右に曲がる(地図上では左)と山国に分け入って島の中央部に至る
左に曲がるとそのまま海岸に沿って南下する

その分岐点からまっすぐ正面の山際にコルシカらしい山里がいくつも並んでいる
『ヴェスコヴァート』『ヴェンゾラスカ』『ソルボ=オカニャーノ』
『ペンタ=ディ=カシンカ』『カステラーレ=ディ=カシンカ』『ロレート=ディ=カシンカ』

海沿いの方の国道を通るので右奥になるが
少し奥まっていて国道からは時折見えにくいこともあるが
そのような山里を次々と発見しながら走ることがコルシカの醍醐味といえよう
内側には村同士を結ぶ山道もあるが
国道から其々の村に向かう細く曲がりくねった道もある

まず「ヴェスコヴァート村」

『Vescovato』

村の東全景

村の外れの民家


中心の広場

村の下に古い橋



教会に行くには


こんな感じのアクセスがある


ごく古い時代の教会の部分を通る


内部は完全に17世紀後半古典主義というギャップが凄い

主祭壇



正面ファサードをしっかり距離をとって写せる距離はない


※  ※

次に「ヴェンゾラスカ村」

『venzolasca』

『Eglise Sainta-Lucia 聖ルチア教会』

同 正面

同 内部 バロック

同 側面入り口

『Chapelle Saint-Antoine-Abbé 大修道院長聖アントニヌス礼拝堂』

村内一景
この幅の狭い背の高い資格い家は極めてコルシカの山里的




沖にイタリアのピアノーサ島が見える


※  ※

さらに「ソルボ・オカニャーノ村」

『Sorbo Ocagnano』

『Eglise de l'Annunciata 受胎雨告知教会』


この教会は見る位置と目線の高さでかなりイメージが変わる


村の中心の広場は海まで見晴らせる位置にある

展望台広場

村自体も見る位置によってかなり違って見える
(これまでの他の村も同じだが)


こう見るとかなり小規模な村

これでは密度が散漫
そして


この位置が一番よく村の実態が把握できる
さらに
他の村も同じで村の位置から下に
海まで自治体の範囲はつながっているので
ビーチも有るのです

『ソルボ・オカーニャ村のビーチ』

※  ※

そして「ペンタ・ディ・カシンカ村」


『Penta-di-Casinca』





※  ※

また「カステラーレ・ディ・カシンカ村」


『Castellare-di-Casinca』

『Eglise de San Pancraziu 聖パンクラス教会』

同 側面


同 内部

※  ※

最後に「ロレート・ディ・カシンカ村」


『Loreto-di-Casinca』



『Eglise Saint-André 聖アンドレ教会』


このまま山岳地帯をその辺り全体を『カスタニッチア』と呼ぶ山国で
細く曲がりくねる山道を南へ分け入ってゆくと
山里の美しさに感嘆するのですが
そこは後日改めて一項を割くことにします

そしてこのまま
海沿いの国道をそのまま1時間ほど南下すると古代ローマ都市『アレリア』に到着する


そこは次回に見てみることにしよう
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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地中海の『美の島』 コルシカ島 2 < バスティア > 北の中心都市

2021-08-11 00:21:26 | 素晴らしき世界/コルシカ島
巻頭写真 : バスティア「旧港」

「Ile de la Beauté 美の島」と呼ばれる『コルシカ(コルス)島』は
島ではなく
海からいきなり突き立った高山と言われる



コルシカ島は
右手を握った拳を親指だけ立てて内側から見ているような形をしている
左上から右下に袈裟懸け二切り捨てたように斜めの境界線で別れて
右上が『Haute Corse 上コルシカ県』
左下が『Corse du Sud 南コルシカ県』
と二つの県がある

Map by ⒸLa Documentation Française

上コルシカの県庁所在地は『Bastia バスティア』
南コルシカの県庁所在地は『Ajaccio アジャクシオ』
ちなみに島全体の首都は「アジャクシオ」

まず「バスティア」から訪ねてみよう

まず当然港から始まる


右の突堤から左が港で
フェリーが見える正面奥が新しい大きな港
左奥が旧港



旧港は他と変わらず
プレジャー・ボートと小型漁船の停泊地となっている


港に向かってすぐ奥に『洗礼者聖ヨハネ教会』がシンボリックに
港を見下ろす
港を挟んでこの協会側を「Terra Vecchia 旧市街」と呼び
古代フェニキア時代から人が住んで集落があった場所だが
教会その他仕様な建物は18世紀終わりフランスに帰属した頃に建て替えられている

港に向かい合ってすぐ左側
教会の反対側の小さな岬の岩の上に14世紀にジェノヴァ総督が館を建て
15世紀になって「Bastiglia 城塞」を建て城壁で周りを囲んだ
そこから町の名前「Bastia」が誕生することになった
その際「城塞」側を『terra Nova 新市街』と呼ぶようになった
現在も「Citadelle 城塞都市」として残っており
バスティアの「町」の起源となる

『Citadelle de Bastia』

「シタデル」を海側から見ると




塔は「Chapelle Santa Crus 聖十字架礼拝堂」



最先端

この城塞都を陸側から見れば

『Bastion San Ghjuvanni 聖ヨハネ櫓』

『Bastion San Carlu 聖カール櫓』

『Bastide Santa Maria 聖マリア櫓』

『Bastion San Gerolamo 聖ヒエロニムス櫓』

「シタデル」の港に近い側の角に
ジェノヴァ支配時代の「総督府」が建っている
現在は博物館になっていてこの外側の入り口から入れるが
総督府「Palais des Bouverneurs」自体は城壁の中からしか正面は見られない

『Porte Loius XVI ルイ16世門』

500年間に及ぶジェノヴァ支配の間コルシカ人たちは常に解放闘争を続け
住民弾圧が及ばなくなったジェノヴァはルイ15世に島を売却
フランス兵がバスティアに上陸すると
ジェノヴァからの経済的解放者として熱狂的に迎えられた
その後
ルイ16世に捧げる記念碑的城門が作られた

「Palais des Gouverneurs 総督府宮」



この「総督府丘で」の中は「バスティア市立美術館」になっている

総督府宮の中庭


『ギリシアの陶器』紀元前4世紀 アレリアで出土

『イタリア半島先住民族エトリュスクの壺』紀元前4世紀

『大理石の墓碑銘板』1〜2世紀 ルリで出土


『ジェノヴァ・アルビゾーラ・モンテルーポの彩色陶器』16〜18世紀

『ジェノヴァ共和国紋章入り総督府の椅子』1585年頃


フレデリック・ド・メルセィ『バスティアの港』1839年


リュシアン・ペリ作『バスティア遠景』20世紀初頭

イニアス・ルイ・ヴァレーゼ作『パスカル・パオリの肖像』19世紀前半
ジェノヴァ支配と戦って最初にコルシカ独立を宣言した
『自由コルシカ共和国』の初代大統領

『ナポレオンのデス・マスク』大理石 1833年

総督府宮の建物を海側に出ると城壁の上のテラスのでられる




「シタデル」の中に戻ろう

「Palazzu Zerbi ゼルビ邸」
現在1階はレストランになっているが
かつてのジェノヴァの有力者「ゼルビ家」の屋敷


『Palazzu di Nobili Dodeci ノビリ邸』

「Palazzu Viacuvile 思郷館」


『Ancienne Cathédrale de Santa Maria Assunta 被昇天の聖母マリア旧大聖堂』
16世紀ジェノヴァ統治時代のもの


同 正面を横から

身廊から内陣を見る

左が身廊 右が側廊


内陣部の天井

Leonoro dell'Aqula 作『被昇天の聖母』16世紀

この旧大聖堂に隣接してあるのが


『Oratoire Santa-Crus 聖十字架祈祷室』


北側入口

身廊

翼廊

翼廊祭壇部の天井

身廊祭壇部の天井


この礼拝堂にはパティオがある


南側入口



「シタデル」の中の道は狭い小径が多い





総督府から城壁の方を眺める

さらに
城壁を回ってみることもできる


こんな光景だったり


こんなだったり

昔の火薬庫




『テーラ・ヴェッキオ』側に戻ってみよう



「Terra Vecchia 旧市街」と呼ばれる地区のシンボルは
やはり『洗礼者の聖ヨハネ教会』


内部は他の教会と同様で
イタリアの影響が大きいコルシカならではの「バロック」と「ロココ」


聖ヨハネ教会から北に程なく
小さな礼拝堂がある
『Oratoire Immaculée-Conception 無原罪のお宿り祈祷室』




さらにその北側に
やたらに広い広場がある


『Piazza San Nicola サン・ニコラ広場』

長さ300mにも及ぶこの広場は
東側は眺望が海で大型フェリーが出入りするのがよく見える
そして
ナポレオンの遺体が「セント・ヘレナ島」からフランスに帰ってきた頃建てられた
「古代ローマ皇帝の衣装の皇帝ナポレオン」像が建っている



こちら側「テッラ・ヴェッキア」には伝統的な民家は多い


一応修復されているものも


まだ修復の手の及んでいないものも


新建築も伝統建築に準じた意匠で建てられ
同じように「オークル(黄土)」で化粧されている

では
次回から島を一周しながら各景勝地を訪れることにしよう
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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告別企画 < トロカデロ広場 宴が去って 次の宴が始まる > 『8月8日 東京からパリへ バトンは渡ったセレモニー』 

2021-08-09 01:38:41 | 特別企画
巻頭写真 : 『Cérémonie du Passage J.O. Tokyo à Paris à Jardin du Trocadéro』


開催が大いに疑問視された『東京五輪2020』の閉幕式が行われた8月8日
同時進行で
パリ「トロカデロの庭園」での受け渡しセレモニーが行われた

設営準備中の会場

パリのトロカデロ広場に立つ「シャイヨー宮」のセーヌ河側
一段低くなる斜面にある大噴水の池に蓋をして
中央特設ステージとそれにつながるキャットウォーク
中央ステージ背後と左右にオーロラヴィジョン3機
水の噴霧器を兼ねた巨大スピーカー10機ほど
などをしつらえて

東京での閉会式の開始直前に

Photo by Ⓒleprogres.fr

背後のエッフェル塔の上部から
旗として世界最大の「パリ五輪旗」をたなびかせるはzyだったが
当日の今日はか座があり急遽中断
テレビ画面には咲く術のリハーサル時の映像が流された

『Drapeau des Jeux Orimpiques de Paris 2024』

フランス語で「町」は「Ville ヴィル」と言い女性名詞
パリを思わせる女性の顔と五輪の炎と両方をイメージさせる
「パリ五輪2024の旗」


東京で五輪旗がパリ市長「アニー・イダルゴ」に手渡されるとき
「東京2020➡️パリ2024』の表示が現れ


『パリ2024』に変わると
パリ五輪組織委会長『トニー・エスタンゲ』
男子カヌー・スラローム選手
2000年シドニー
04年アテネ
12年ロンドンで金メダル

それに居並ぶ
『フィリップ・カンデローロ』
男子フィギュア・スケート選手
1994年リラハンメル
98年長野で銅メダル

『マリー・ジョー・ペレック』
女子陸上選手
1992年バルセロナで400m金
96年アトランタで200mと400mとで金

『ローラ・フェッセル・クロピク』
現スポーツ大臣
女子フェンシング
金3+銀1+銅2

『アラン・クリア』
男子フィギュア・スケート選手
1964年インスブルックで銀

などの組織委関係者が居並び



まだ東京にいるフランス人メダリストたちに
テレビがインタヴューしている映像がリアルタイムで流れる

すでに帰仏した東京2020のメダリストたちが
中央のキャット・ウォークを通って
ステージへ




100mほどのキャット・ウォークを
進んだり振り向いたり立ち止まったり大変な騒ぎでステージを目指す



柔道男女複合団体で金メダルを獲得した
男子100kg超級のリネカーが通る時は熱気が最高潮に盛り上がった
さすがは
日本以上の柔道人口を誇る柔道大国フランスだけのことはある

東京での閉会式が終わった後
ステージのメダリストたちが姿を消した後は
ジャズロックのバンドのコンサートで熱気は去らない

会場の全体的な風景はこんな感じに成る


一番高い位置の「シャイヨー宮」のテラスに行ければ
会場の中央ステージを正面にみおろせる
しかし
混乱を避けるために警察が見張っていて
テラスには入れない


「シャイヨー宮」の横からすり抜けて下って行くことになる






実は会場自体は茅のゴザ様のもので塀を作ってあり
自由に出入りできなくしてあるのです




ここは元来
東京五輪期間中オーロラヴィジョンで(フランスの)テレビ中継を
大勢で楽しもうと作られた会場


そして
入場するには「ワクチン接種証明書(日本でいうワクチンパスポート)」と
証明書の本人かどうかを確認する身分証明書を提示する必要がある


枠外から入り口ゲートを見る


ゲートは二箇所


これは接種証明書の確認を済ませてくる人たち


1番ゲートです


今はロックジャズのコンサート中
スクリーンは正面ステージ背後とその左右に離れて計3基




すごい人ですが
全員予防注射を2回接種済みの人たちだけなのです


テレビのクルーは
朝から中継をやっている


巨大なスピーカー・システムを収めた櫓は水の噴霧器にもなっていた






例の「キャット・ウォーク」はこれ


歌っていたヴォーカリストが「ウォーク」に出てきているらしい



キャップをかぶった白いブルゾンの髭のお兄さんがヴォーカル


実はこのバンド『Woodkid』という結構有名なジャズロックのグループで
スクリーンにグループのロゴだ映し出された


ヴォーカリスト




中心から外れると
「パリ2024五輪旗」と一緒にこんなポーズで写真撮ってる人もいたり



一番背後の「五輪マーク記念碑」で写真撮る人も多い




噴霧器は4〜5分くらい働くと同じくらいの時間休憩します


一人のおじさんが各国の小旗を配ってました
日の丸はなかった(笑)
もう「パリ2024」ですからね
フランスの「トリコロール」もらいました


テレビのクレーン・カメラのポールと
エッフェル塔と
トリコロールを
三本並べてスリーショット



会場を出てセーヌ河から振り返ってみる
ちょうど観光客を乗せた赤いテュフテュフが走ってきました




会場を背に橋を渡ると
コンサートの大音響に誘われて多くの人たちがこちらに向かってくる


会場の方向を河越しにもう一度振り返る



橋の上は人が数珠つなぎで向こうに歩いているのが見えました

3年後のパリではコロナは収まっているのでしょうか
個人的には
東京は中止するべきだったと今でも信じて疑いません

選手たちの活躍は喜ばしいことですし
開催されるかどうか不安だった世界中の選手たちが
大変な状況下で強引にでも開催してもらえて
自分たちの人生をかけた努力の結果を示せたことの嬉しさも理系できます
各国選手たちの「ありがとう」の声は率直に「よかったね」と思います

でも
開催するべきではなかった

次回からは『コルシカ島』の探訪に戻ります
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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地中海の『美の島』 コルシカ島 1 < 序章 > 

2021-08-06 00:19:07 | 素晴らしき世界/コルシカ島
巻頭写真 : 城塞の町『コルテ』

「Ile de la Beauté 美の島」と呼ばれる『コルシカ(コルス)島』は
島ではなく
海からいきなり突き立った高山と言われる



地中海で
「シチリア島」「サルデーニャ島」「キプロス島」
についで4番目に大きな島『コルシカ』は
面積8600km2で鹿児島県と広島県の中間くらい
南北150km 東西(広いところで)80km
人口は34万人弱

島なのですが
海岸からいきなり山岳地となり
最高峰2700mの高山のほか2000m級の山々7座を有し
「地中海に突き出した高山」
と呼ばれてきた



真北はジェノヴァで150km
北西側 ニースまで220km マントンまで180km
東のイタリアはトスカナの海岸まで90km
その中間に「エルバ島」がある

1788年にフランス王国に売却されるまで500年ジェノヴァ共和国が支配し
その前はピサ共和国
その前はアレクサンドリアの海賊の支配下にあり
その前はゲルマン民族の最も残虐だったヴェンダル族に徹底的に破壊され
その前は西ローマ帝国の領土
その前はカルタゴ...
フランスの一部になるまで一度も独立したことがなく
常に民族運動で支配者への抵抗運動や内乱が続いた

今回の「コルシカ・シリーズ」では
土地の固有名詞をなるべく現地語コルシカ語読みの表記にしてあります

一応島なのでコルシカは海だ

ユネスコ世界自然遺産『スカンドーラ海岸』


手を浸すと紺色に染まりそうな紺碧の海か

パロンバッジアの海岸

淡い透明なアクアマリンの様な海が周りを取り囲んでいる

主だった町は当然ながら海岸にある


『ボニファッチョ』

『カルヴィ』

しかし
地中海からいきなり突き出した山である以上
コルシカは山でもある

『Monte Cinto モンテ・チント』

コルシカ最高峰「チント山」は標高2,706m
地中海の暑い夏でも
北側の頂上付近の斜面の一部には残雪が見られることも稀ではない

「バヴェーラ針峰群」

「カプ・ドルト」

したがって魅力的な山里も多い

「ソヴェーリア村」

「サルテンヌ」

そして
山には湖や渓流も多い

ロトンド山塊に抱かれた「メロ湖」


メロ湖から発する「レストニカ川」


「ピスカラ・ディ・ガリュの滝」

「プルカラッチアの渓流」

「ファンゴー川」に掛かる13世紀ピサ占領時代の橋

特筆すべきは
島全体の斜面を覆う野生の植物群
潅木の雑木もあるが
多くは栗の木や仏手柑やプラムやらライチその他の野生の果物の木と
あらゆる種類の薬草とハーブと花々
それら全部の植物相をコルシカ語で『Maquis マキ』と呼ぶ

コルシカはマキ


集落を離れて自然の中に立ち
深呼吸すると
「ターメリック」「ミント」「にんにく」
などの懐かしい香りがミックス状態で漂ってくる
それが「コルシカ」

さらには
先史時代の遺跡も多い

「フィリトーザ遺跡」

 忘れてはならないことは
コルシカ島は「ナポレオン」の故郷ということ
彼の生家もあるし
各種モニュメントも多い


皇帝になる前の「第一執政」時代のナポレオン像

次回から
この「美の島」を具体的に町や村や見どころを順に
たどりながら御紹介していこう
海の幸と山の幸に恵まれて
素敵なホテルもあります

ご期待ください
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パリで美術三昧 < ガブリエル(ココ)・シャネル回顧展 後編 3/3 > パリ市立モード博物館/ガリエラ宮

2021-08-04 00:16:09 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『64年 65年 69年 の作品』



第二次世界大戦『欧州大戦』(1939〜1944)終了後
ガブリエル・シャネル
1945年モード界復帰第一作

『フォーマル・ドレス』1945年春夏
アイヴォリーのコットン・テュール  金糸刺繍
ゴールド・ラメのホワイト・オーガンジー

その前に
一度戦前の作品をもう一度ご紹介しておこう

左『イヴニング・ドレス』1933年春夏
黒のシルク・テュール  アイヴォリーのシルク・ポンジィ(絹紬)

中「イヴニング・ドレス」1929年から30年秋冬
ブラックのシルク・テュール  ブラックのシルク・クレープ
アイヴォリーの機械編みレース

右「イヴニング・ドレス」1930年
ブラックのシルク・レース




『イヴニング・ドレス』1954
シルク・テュール  黒刺繍糸で縁取り刺繍

『イヴニング・ドレス』1957年から58年秋冬
赤のシルク・ヴェルヴェット  黒シルク・シフォン

『カクテル・ドレス』1959年春夏
黒のドグニン・レース




『ブローチ』1959年

『カクテル・ドレス』1959年春夏
黒ドグニン・レース


右『イヴニング・ニュース』1955年春夏
赤シルク・モスリン

中『イヴニング・ドレス』1970年から71年
赤シルク・モスリン


左『ドレス』1966年から67年秋冬
黒のシルク・モスリン  黒糸刺繍のアップリケ


『映画衣装』1961年
黒シルク・クレープ 黒タフタ
女優デルフィーヌ・セリグが
1961年の作品『去年マリエンバードで』で着用した衣装


『映画衣装』1961年
ゴールド・ラメ
同じくデルフィーヌ・セリグが「去年マリエンバードで」で着用



『イヴニング・ドレス』1957年から58年秋冬
黒シルク・ヴェルヴェット  黒シルク・ガーゼ

『ドレス』1964年
黒のコットン・クロッケ(膨れ織り)  黒のオーガンジー

左『テュニックとスカートのアンサンブル』1960年春夏
黒のシルク・クレープ  黒のラレックス糸のラメと黒シルク・コード  金メッキメタル

中『ジャケット、スカートとブラウスのテーラード・スーツ』1961年から62年秋冬
黒のセロファン・ヴェルヴェット  アイヴォリーのデュシェス・サテン
黒のガラリス

右『ドレス』1963年から64年秋冬
黒のパイエット・ビーズで総刺繍したシルク・テュール


女優「ロミー・シュナイダー」が着用したもの


『カクテル・ドレス』1961年から62年秋冬
ブッコル社製「フロッシュブリーユ生地」  黒のナイロンとセロファンのテュール
黒ラッカー仕上げのサテン・リボン

『ドレス』1961年から62年秋冬
ゴールドとシルバーのラメの膨れ織り

左『ドレス』1960年
アイヴォリーのコットン・テュール  コットンとシルクの金糸刺繍  金ラメ
ホワイト・オーガンジー  アイヴォリーのシルク・クレープ

右『スーツ』1962年から63年秋冬
ゴールド・ラメ  アブサン色シルク・オットマン(横畝織)

『イヴニング・ドレス』1964年から65年秋冬
黒のモール糸とラレックスの変わり織  赤シルク・ヴェルヴェット


左『イヴニング・ドレス』1967年から68年秋冬
ナイロンの網細工  ホワイトの捻り織レーヨン  虹色セロファン クレープ
モスリン  アイヴォリーのシルク・シフォンとシャルムゥーズ

右『イヴニング・ドレス』1967年から68年秋冬
ネイヴィのシルク・クレープ  淡青のシルクのモスリンとタフタ

そして1960年に入って
いよいよ「シャネル・スーツ」が登場する

  
 『スーツ』1961年から62年秋冬
ピンクのウール・ジャージィ  ルラックスとナイロンのラメ
ブッコル社の『ムスタファ生地』

1960年代に入り
ゴールドのラメを多用するようになって
ゴールドが夜の衣装限定から昼にも身につけられるようになった
「ムスタファ」という生地が
メタリックな光沢を備えてゴールド色と」方向性が一致し
1965年からは
小粒の人造パールで縁取ったボタンや「ダブル C」のボタンも登場する

『スーツ』1961年から62年秋冬
ウール・ツイードにゴールドのメタリック糸  フランボワーズ色のシルク・ポンジェ(絹紬)

もともと
ここ「パレ・ガリエラ」には『ガブリエル・シャネル・ギャラリー』という
彼女に捧げられた名前の付いたギャラリーが地階にあるのです


そこに
今回の「特別回顧展」でも60年代以降の「スーツ」が
一堂に会しておりました


1950年台後半にはすでに「雛形」は存在していた

『スーツ』1958年から59年秋冬
レジュー社のフレック(細かい斑点)の茶と白のツイード  金メッキのメタル

そして発展型が次々と登場してゆくこととなる


『スーツ』1959年末
オフ=ホワイトの膨れ織りウール・ニット  ネイヴィの飾り紐の縁取り
モナコ大公国『グレース大公妃』が着用されていたもの

左『スーツ』1960年から61年秋冬
ビュール社製白ウール・ニット  ネイヴィのウールニットで縁取り シルク・ポンジェ(絹紬)  金色メタル

中『スーツ』1963年から64年秋冬
アイヴォリーのウール・ツイード  アイヴォリーのシルク・ポンジェ  アイヴォリーとネイヴィのウールボカシ染め飾り紐で縁取り

右『スーツ』1959年末
ベージュとプルーン(赤紫)のツイード  プルーンの縁取り  金色メタル
モナコ大公国『グレース大公妃』が着用されていたもの

『スーツ』1961年
細糸織りツイード  グロ=グラン(絹の畝織り) ネイヴィの組紐フケシア
金メッキのメタルとイミテーション・パール
ベルギー王国『パオラ王女』が着用されていたもの


『スーツ』1961年春夏
ボカシ染め細糸織りのツイード  ネイヴィの飾り紐付き赤のグロ=グラン(畝織り)


『ジャケットとスカート モダン・ブラウス』1961年から1962年秋冬
多色フレック・ツイード  黒のグログラン  

『スーツ』1962年春夏
ベージュのツイード  黒のシルクの縁取り


『ドレス』1962年から63年秋冬
白のコットン糸でキルティング縫い目を入れた黒のウール・ニット  金色メタル

『スーツ』1962年から1963年秋冬
黒シルク・ヴェルヴェット  黒のシルク・サテンのリボン  金色メタル


『スーツ』1964年から65年秋冬
フレックのベージュのツイード  金メッキのメタル  ピンクのシルク・クレープ・ド・シーン

『スーツ』1964年から65年秋冬
フレックのベージュのツイード  金メッキのメタル  ピンクのシルク・クレープ・ド・シーン

左『ジャケット、ブラウスとスカートのスーツ』1964年
白とネイヴィのチェック柄ツイード  ネイヴィーでプリントした白シルクのテュイル

中『ジャケット、スカート、シャツとタイのスーツ』1969年
ネイヴィと白のチェックのウール・ニット  白コットンのポプリン  黒のシルク

右『スーツ』1965年
ネイヴィでプリントした千鳥講師の白のシルクのクロッケ(膨れ織り)


『スーツ』1964年から65年秋冬
オフ=ホワイトのツイード  ネイヴィと赤のウールでブレード


『スーツ』1965年から1966年秋冬
ネイヴィのツイード  膨れ織りの赤のシルク  ネイヴィのガラリス  金色メタル

『スーツ』1968年春夏
ネイヴィとピンクのボーダー柄プリントのシルク・テュール
女優『メレーネ・デートリッヒ』が着用したもの

『ジャケット、スカートとベルとのスーツ』1970年
マレスコット社社製ファンタジー(変わり織り)アイヴォリーのウール・ジャージイ

『ジャケット、スカートとベルトのスーツ』1970年
マレスコット社黒ファンタジー・ウール・ジャージー
女優『マレーネ・デートリッヒ』が着用したもの

コートもあります

まず1950年代のもの


『コート』1954年春夏
アイヴォリーの広幅織りウールとシルク・クレープ  真珠貝

そして60年代に入る

『ドレスとコートのアンサンブル』1962年春夏
アイヴォリーのブックル・ツイードとシルク・クレープ  金色メタル

『コート』1961年から62年秋冬
黒の膨れ織りシルク  白のミンク  金色メタル


『ドレスとコートのアンサンブル』1962年春夏
赤のウール  ラズベリー(赤紫)のキルト模様シルク・タフタ

『ドレスとコートのアンサンブル』1962年春夏
ネイヴィの広幅織りウール  アイヴォリーのシャンタン


『ドレスとコートのアンサンブル』1965年から66年秋冬
ネイヴィのツイード  赤の幅広織りウール  金色メタル
  
『コート・プリッセ(毛皮月コート)』1966年から67年秋冬
チェック柄行き浮き出し織りの黒ウール  刈り込みビバーのファー  黒ガラリス  金色メタル

変わり種も

『ドレスとケープのアンサンブル』1968年から1968年
ゴールドのクロッケとラメ  ゴールドのシルク・オーガンジー  メタルと螺鈿

この項
字数が足りませんのでここまで
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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パリで美術三昧 < ガブリエル(ココ)・シャネル回顧展 中編 2/3 > パリ市立モード博物館ガリエラ宮

2021-08-02 00:42:22 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『Palais Galiera/Musée de la Mode de la Ville de Paris』



前回に引き続き「シャネル回顧展」中編です

1920年代に織物生産技術が進歩し
フランスの織物メーカーが新趣向の布地の生産を始めた
シャネルはそれらの業者と連携して
女性モードに新素材で新しいラインを作り出して行った


『コート』1918年
黒シルク・サテン  アイヴォリーの絹糸でポアン・アヴァンセ刺繍
茶の毛皮





『コート』1922年
クレープ地に多色絹糸と金糸のポアン・ド・シャテーニュ刺繍
現代的な毛皮

左『ドレス』1922年から1923年
黒のシルク・クレープ  黒玉ビーズの刺繍




右『ドレス』1922年
黒のシルク・シフォン  黒玉ビーズの刺繍



『ドレス』1923年
加工した黒のウールと銀糸  黒のポンジー(絹紬)





左『イヴニング・ドレス』1929年から30年秋冬
ブルーのシルク・テュール  ファンタジックなブルーのスパークリング刺繍

右『イヴニング・ドレス』1938年から39年秋冬
黒のシルク・テュール  黒のスパンコール


『アンサンブル』1937年から38年秋冬
クロビーズで総刺繍したシルク・テュール  アイヴォリーのシルク・モスリン
アイヴォリーと真珠色のシルク・レース
アメリカのモード誌「ヴォーグ」編集長『ダイアナ・ヴリーランド』が着用したもの


右『イヴンング・ドレス』1938年から1939年秋冬
ミッドナイト・ブルーのシルク・テュール  金糸の刺繍




左『イヴニング・ドレス』1939年
ミッドナイトブルーのシルク・テュール  ミッドナイト・ブルーとシルバーの菅ビーズ刺繍 






左『ケープ』1925年春夏
黒のシルク・クレープ  雄鶏の羽

右『ケープ』1925年春夏
アイヴォリーのシルク・クレープ  雄鶏の羽




左『イヴニング・ドレス』1927年春夏
アイヴォリーのシルクのクレープとフリンジ

右『イヴニング・ドレス』1926年から1927年秋冬
ミッドナイト・ブルーのクレープ・ジョーゼット  シルクのフリンジ






左『イヴニング・ドレス』1921年
ネイヴィ・ブルーのクレープ・ド・シーン  同系色のスパンコールとキラキラの刺繍
ミッドナイト・ブルーのポンジー(絹紬)  ロイヤル・ブルーのクレープ・ジョーゼット

中『ショート・イヴニング・ドレス』1927年から29年秋冬
ブルーのシルク・クレープにブルーの玉ビーズ刺繍

右『ショート・イヴニング・ドレス』1920年代

ガブリエル・シャネルは
1925年には時のウエストミンスター公爵に招かれて
チェルシーのエクレストンニアる公爵の城『Eaton Hall イートン・ホール』
での夜会に参加した




また
「マルセル・アシャー」の劇団とコラボして
「THéâtre du gymnasse ジムナス劇場」での『アダム』の公園に
衣装製作で参画した


「アダムの舞台衣装」1930年11月

ところで
ここまで「戦前」「戦中」の時代における「ガブリエル・シャネル」の
創造の軌跡を辿ってきたが
その時代におけるもう一つの大きな発明を欠かすわけにはいかない

そう
香水であります。

『Parfum Chanel No.5』

世界中で香水の代名詞のように語られる
『シャネルの5番』は1921年に登場した
ココはそれまでと全く違うものにこだわった
それまで
ジャスミンやラヴェンダーやバラや乳香やジャコウなど
ある単体の動植物の香りとして使われてきた身元の分かる「フレグランス」というものではなく
彼女は構築された「パッファン」という概念での新しい香りを求めた
そのココの求めに応じて『エルネスト・ボー」という職人が
80種を超える香りの元を調合して
新しい概念の「パッファン 香水」を作り上げた
イランイランやグラースのラヴェンダーと五月のバラなど
希少な花々の香りに
微妙な量の森の香りやスパイスのアクセントをつけて調合された



その後業界全体で
抽出された香りのエッセンスを10〜15%含むものを「パッファン 香水」
同10〜15%のものを「オー・ド・パッファン」
同8〜10%のものを「オー・ド・トワレット」
と法的な区分基準で
エッセンス分が薄く割安なものも作られるようになり
大小さまざまなクリスタル・ポットで商品化され続け
「No.5」は世界で最も数多く販売された香水ということになっている


「ええ、ご存知の通り、たくさんのいろんな質問をうけますわ」
「例えば "夜は何を着て寝まれるんですか" 
"パジャマの上だけとか?" 
"パジャマの下だけとか?"
"それともネグリジェですか?"
"それならどんな種類の?"
なんてね。
それで答えたんです "シャネルの5番よ" って
だってそれ事実なんですもの」
笑いが起こる
「それでね、私は別に裸で寝るとは言ってませんのよ」
「お解り?」
「でもそれが真実なんですもの」
(マリリン・モンロー)

ココ本人の中で
「香水」は見えない「アクセサリー」という感覚であった


さらに
「ジュエリー」も20年代から始まる
彼女にとってのジュエリーは衣服自体の要素の一部で
希少宝石とフェイク(ファンタジー・ジュエリー)の間に境界線を引かず
両者を同時に使って
付ける場所も「袖口のカフス部分」や「袖」「肩」あるいは「帽子」と
それまでのジュエリーの扱い方の概念を変えた

『ネックレス』1920年代
中央」のどの位置から下に一列と
上から二列目の中央の左右とだけライオンが吠えている

『(上)ネックレス と(下)ブレストプレート』1925年

『(中央)ネックレス と (左右)イヤリング』1928年

『(左)ネックレス  (中)ネックレス 』1930年
『(右)ネックレス』1939年から38年

『(左)ネックレス』1937年
 (中)ブレスレット (右)ブレスレット』1939年

『(左・上下)イヤリング (右上)ネックレス』1938年


『(左上)ブレスレット (右上)ブレスレット/クリップ』1930年から39年
『(左下)ブローチ (右下)ブローチ』1930年から39年

ここまで
戦前の時代を生きた「ガブリエル(ココ)・シャネル」の軌跡を辿ってきた
1939年からに欧州大戦がはじまり
モードの世界はひたすら息をひそめるのみとなった

ココがモードの表舞台に復活するのは
対戦終了5年後の19454年
その年に女性モード週刊誌『ELLE』がいち早くシャネルの後押しを始める


1957年8月10日号 「シャネル 新しいシャネル・モードを発表」

「エル」という雑誌は終戦の翌年1945年に「エレーヌ・ゴードン=ラザレフ」
によって創刊
単なるモード雑誌と一線を画し
他社と違うリベラルな筆使いで女性報道誌としての地位を獲得し
女性の自由な社会進出を後押ししており
シャネルが復活すると同時に定期的にシャネルの動向を報道した

『エル 1947年8月12日号』 「シャネル 新たなシャネル・モードを再発信」

『エル 1957年10月28日号』「シャネルの新しいシャネル流のテクニック」

『エル 1961年2月24日号』「正式発表前に61年春物新作を発表」

『エル 1961年8月25日号』「シャネルの勝利」

『エル 1958年12月1日号』「今後エルの全号でシャネルのテーラード・スーツの型紙無料提供」

エルは(シャネル本人の暗黙の協力で)
シャネルのスーツの型紙を無料で1点ずつ掲載すると発表
それらのモデルは単純に「プティ・シャネル」と名付けられた

『エル1959年12月4日号』「シャネルの無料型紙の秘密」

『エル 1961年2月17日号』「シャネルのエル/春の新作テーラード」

『エル 1963年2月15日号』「シャネル」


『エル 1969年9月29日号』「魅力的なプティ・シャネル 本物の宝石」

『エル 1970年3月2日号』「シャネルの眩いホワイト」





CASSANDRE 作『Portrait de Gabrielle Chanel』 1930年 油彩

では今回はここまでにして
次回「シャネル回顧展 最終回」で
皆様方のどなたもご存知の
戦後のシャネルの全貌を辿ってみましょう
お楽しみに
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
【お願い】
皆様方の「読後感」「読前感」を是非お寄せください
「コメント」ボタン
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パリで美術三昧 趣向を変えて < ガブリエル(ココ)・シャネル 回顧展 前編 1/3 > パレ・ガリエラ モード美術館

2021-07-30 00:20:12 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 「ガブリエル・シャネル特別回顧展」



「ガリエラ宮」のモード美術館でロックダウンで公開できなかった
『ガブリエル・シャネル回顧展』が
予定期間を後倒しして5月19日から開催された

『Palais Galiera Musée de la Mode』

ガブリエル(通称「ココ」)は
男性が連れ歩くアクセサリーで家庭の中の花という女性のイメージで
ウエストを締め付け鯨の骨で膨らませたペチコートを重ねるような
体の自由な動きを封じるごとき女性服に対して
表に出て社会で活躍する女性をイメージし
体の動きと精神を開放するような女性服を世に送り出した
いわば女性開放主義者の元祖のようなデザイナーだった

1903年に叔母アドリエンヌの洋裁店のお針子さんとしてスタート
1909年マレゼルブ大通りに服飾帽子製造販売の店を持つ
1910年未だに本店を構えるカンボン通り21番地に
「シャネル=モード」というブティックを開店
その後「ドーヴィル」「ビアリッツ」というリゾートに進出

1913年から15年まで
黒の撚り糸と黒のシルク・サテンのリボンを使った帽子の作品が作り出された



豪華なデコレーション山盛りだった当時の女性の髪型と帽子に対し
抑えたシンプルさをモチーフとした新境地を開拓

その後「ドーヴィル」「ビアリッツ」というリゾートに進出
リゾートで休暇を過ごすという習慣が上流階級に広まった頃であり
時と場所が
海浜リゾートウエアーを生み出した

『セーラーブラウス』1916年夏 シルク・ジャージー


『ドレス』1917年から19年 
ガラス管ビーズで刺繍した黒のシルク・テュール  黒のクレープ・ド・シーヌ

『イヴニング・ドレス』1918年から19年
鉄とガラス管ビーズで刺繍した黒シルク・テュール





『ドレス』1919年
シャンティイのレース  黒のシルク・クレープ


1918年今の本店の位置カンボン通り31番地に「メゾン・ド・クチュール」
を開き
「ガブリエル・シャネル」の名前が浸透し始めることとなる

『ジャン・コクトーも演出ノート』1924年

1920年代に入ると
詩人で画家で映画監督で舞台演出家であった「ジャン・コクトー」に見出され
行動を共にし
『ル・トラン・ブルー 青列車』の製作に関わって
衣装を担当した

その傍ら自分のブティックを持ち女性服の製作を本格的に始める




『コート』1933年 アイヴォリーと濃紫のぼかしツイード



20年台後半から30年代には
シルクの「クレープ・ド・シーン」や「オーガンジー」などのドレスと
ウールの「ツイード」を用いたアンサンブルが
並行して作り出されていった

『スカーフとドレスのアンサンブル』1929年春夏 多色プリントした白のシルク・レース




『アフタヌーン・ドレス』1930年夏 ホワイト・シルクのモスリンにプリント

『テーラード・スーツ』1927年から29年 茶と生成りのウールの撚り糸のツイード


『デイ・ドレスとジャケット、ベルトのアンサンブル』1928年と30年
ウエーヴをつけたシルク・ヴェルヴェット  多色のモスリン
生成りのキルト地天然シルク  メタルと着色パット・ド・ヴェール

『ジャケット』1928年から30年
ベージュのフレック・ジャージー  多色のジャガード・ニット  ベージュのクレープ

繊細なステッチがなされている


『ガントレット・グローブ(長手袋)』1933年 ブラウンのコットン天鵞絨と
錆び色のスエード


『デイ・ドレスとジャケットのアンサンブル』1925年から29年
黒のウール・ジャージー  ステッチ  黒とベージュのジャガード

『ポシェット』1920年から29年
多色と鋼色のコットンの畝おりニット  ステッチ入り白の鞣し革

この1920年から30年に向けて
彼女は浄化されたエレガントな「シルエット」の進歩を追い求め
シンプルさを追求し
実用性とエレガンスを兼ね備えた彼女の服は
当時のスポーツウエアーに着想を得て
ある種の男性の優美さと活動性すらも参考にしてテクニックと素材選びを行って
これらの微妙な共存の中で「シャネル」という「スタイル」を形作っていった


『イヴニング・ドレス』1924年
ゴールド・ラメ  玉磨きゴールドの刺繍レース


『ドレス』1924年から25年
黒のシルク・モスリン  黒のシルク・クレープ  ガラス管ビーズの刺繍



1930年代になると
彼女は「ライン」の感覚だけを、最もハイレベルに表現する
ドレスは過剰にならずに体の線を明示するようになる

『フォーマル・ドレス』1920年から25年
黒のテュール  刺繍と黒真珠のフリンジ  黒の刺繍とシルク・クレープ・ド・シーン

『デイ・ドレスとコートのアンサンブル』1928年から30年
暗緑色のウール  グリーンのカマユーにプリントされたシルク・モスリン

『スカーフとドレスのアンサンブル』1930年 アイヴォリーのクレープ・ド・シーン
黒のプリント柄

『イヴニング・ドレス』1930年から1935年
黒のシルク・テュール  シルバー・スパンコールとシルバー及びシルバーラインドガラス管





『イヴニング・ドレス』1933年から34年
黒のレイヨン  アイヴォリーのシルク・オーガンジー

『ドレスとケープのアンサンブル』1933年から35年
黒柄プリントのアイヴォリー色シルク・ジュレープ

『ドレス』1935年
アイヴォリー地に多色プリントのシルク・オーガンジー

少し変わったものもあった

『ロング・ドレスとジャケットのアンサンブル』1930年から31年
ゴールドのシルク・サテン

これなど現代にきても全く違和感なくとっても素敵です

『イヴニング・ドレス』1939年春夏
多色プリントされたコットンのヴェール  ピンクに染めたオーステルリッツの羽 



当時のゴーモン映画社のニュース映像  このドレス政策でお針子さんたちの作業中


裾部分の複雑な縫込みや貼り付けなどのデコルテは 実際にマヌカンに着せた状態で行われた


この頃から
ココ・シャネルの中では「軽やかさ」と「洗練さ」が
重要な要素になってゆく
「明白な機能性」と「究極の洗練」との融合という矛盾を最低限度に止めて
ファッシンを作り出すことに傾注した



『ドレス』1936年春夏
ベージュのレース

左『イヴニング・ドレス』1930年
コットンのモスリン 白レースのアントル・ドゥ

右『ドレス』1930年春夏
ホワイト・イギリス・レース

『ドレス』1930年
薄い水緑のテュール

『扇』1928年
ベークライト 薄水緑のコットン・オーガンジー


左『イヴニング・ドレス1937年』
黒シルクのレースとテュール シルク・シフォンのモスリン



右『イヴニング・ドレス』1933年春夏
プレープ仕様の黒シルク・モスリン  黒シルク・タフタのレース


(ガラスケースの表面に安泰側の映像が撮りこんでいました)

『イヴニング・ドレス』1937年から38年
シルク・ヴェルヴェット レースのアントル・ドゥ  赤のシルク・タフタとテュール





『イヴニング・ドレス』1938年
黒のシルク・テュール  黒シルク・サテンのリボンのアプリケ  





「デッサン画」のオリジナルが5点展示されていた
1937年から38年秋冬コレクションのためのもの






いずれも
「メゾン・シャネル」のハウス・デザイナー『Christien Berard』画
水彩と水墨


ガブリエル(ココ)は更に前に進む
「私たちは夢のドレスを作ることから時始めるの」
「そして それを打ち倒さなければなりません」
「切り取らなければいけない」
「そして引き剥がす」
「決してそれらを加えないこと」
1957年9月3日 『エル』のインタヴュー

この項続きます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
【お願い】
このブログの継続の参考にさせていただきたいので
皆様の「ご感想」「ご意見」「ご要望」「共感」「反感」「むだ話」
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パリの秘密 2 < アンドレ・シトロエン公園 > 知られざる魅力的な場所がある

2021-07-28 00:15:01 | 素晴らしき世界/パリの秘密
巻頭写真 : アンドレ・シトロエン公園

ちょっと休憩して
ガイドブックに載ってない魅力的な場所で
しばしを忘れよう



「シトロエン」
という名前をご存知だろうか

1919年自動車メーカーを設立した「アンドレ・シトロエン」は

『Citroën Trancion Avant シトロエン・トラクション・アヴァン』

1934年この車を生産開始
当時誰も実用化の可能性を考えもしなかった「前輪駆動車」だった
車名の「トラクション・アヴァン」は文字通り「前輪駆動」という意味
今でこそありふれたこの仕組みは
自動車の黎明期の20世紀初頭
前エンジン前輪操舵で後輪駆動が当たり前だった時代に
前エンジンで前輪に操舵と駆動と両方の役割を与える革新的な発想で
シトロエン本人の意欲的な発想と技術開発で世に送り出され
1958年生産中止まで
名車として欧州だけでなく米国にまでその名を轟かせた
「4ドア・セダン」「2ドア・クーペ」「幌付きオープントップ」「幌なしロードスター」
「ライトバン」「ラリーカー」
などあらゆるヴァージョンが生産された


『ジャヴェル河岸工場』1934年 Photo by @Omania

パリ左岸
セーヌ河がパリを流れ出る直前のあたり「ジャヴェル河岸通り」に
この工場があった

ちなみに後継車は『DS』という

『Citroën DS シトロエン・デーエス』

これまた革新的な車で
通常のサスペンションに加えて「エアー・サスペンション」を備えており
乗り心地は
ふかふかのシートと相まって「雲にっている様な」と言われ
駐車してエンジンを止めキーを抜くと
自動的に車高が下がり降車しやすくなり
発車のためキーを回すと
走行時の車高に自動的に上がるという至れり尽くせりで
ヘッドライトがハンドルに連動するため
暗い夜道(いなか道は街灯などなかった)にカーブする際
自分が向く方向を常に照らす画期的なシステムを備えていた
これ以外の車は現代でもヘッドライトは回転しながら進行方向より遅れて車の向きを照らす

ついでに
シトロエンというと忘れてはならない国民車が
『2CV ドゥー・シュヴォー』だろう


『CItroën 2CV Charlstone ドゥ・シュヴォー・チャールストン』

写真は最晩年のお洒落な若者向け仕様だが
普通は灰緑の光沢もない一色塗装
ブリキ板を切り取り線に従って切り抜き
折り線に沿って折り曲げ溶接しましたみたいな車
一切の「贅沢」を廃し
シートはパイプの枠にカンバスを巻きつけたタイプ
しかしリッター20km以上の燃費を誇り
しかも屋根のカンバスを巻き取り後部座席を取り外すと
小型の「アップライトピアノ」が積めた
戦時中の国民の頼りになる味方だった

今回は車がテーマではないのでこれくらいにして
工場の話です
第二次大戦中は砲弾などを作る軍需工場にされており
戦後工場を再開せず跡地の再利用をあれこれ計画が上がってはつぶれ
最終的に「公園」としての利用が決まった

ということで
パリの南西の端セーヌ河の左岸の河沿いに静かな隠れ栖みたいな公園があるのです
『Parc André Citroën』

まず驚かされることは
中央広場のような広い芝生のスペースに巨大な気球が鎮座していること


赤く見えるところがゴンドラで
ロープで繋がったまま200mほど上昇する観光用



ちなみにゴンドラはドーナツ型で
360度回りを見晴らせると同時に真下も見ることができる


『Parc André Citroën』 Photo by ⒸParcAndréCitroen

この写真では写っていないずっと下の方に気球があり
さらにその先の方向がセーヌ河
写真上部に2棟
長方形にガラス張りの「温室」と呼ばれる建物があって通常熱帯植物が多少置かれているが
貸しホールとしての機能も持っている








二つの温室の間のコンクリートの地面がややスロープに成っていて
円形のものが並んでいるが
真夏の週末には噴水のように水を噴き上げるノズル
上がる高さが変わったりして
公園の来客は大人も子供も間を走り回ってはしゃいでいる光景が
テレビニュースによく流れてくる





全部のノズルから一斉に拭きあげたり
一部だけに変わったり


広大な長方形の芝生の中央広場の両側は2段高くなって歩けるようになっている
そこに大きな水路というか池があり
その端にベンチが並ぶ



その位置の所々にコンクリート製の小屋のような建築物があって
そこから階段かスロープで一段下がるとまたベンチなどが並んでいて
上段より狭い水路があったりする


そのもう一段下に水路のように池がある
一番上のベンチのベルからは
目線の高さによっては下の水路は見えないこともある


最上段の水路の端
とにかく水がふんだんに使われている


そして
セーヌの方から見て左右(特に左側)の上の段の方に
様々な木々と花々とを使った涼しげなブロックが数多く作られている





ここまでは中央の芝生の広場の温室の方向に向かって右側


水路ある部分を支えるコンクリート壁をくぐる形で
反対側の
広場の左側へ行く


左側は
10mから20m四方ほどの
様々な木々や花々をあしらった緑の空間が作られており


行けば行くほど緑に囲まれる



それぞれのブロックは
土塁かコンクリート壁で仕切られていることが多く


いたるところの隠れたベンチで
人々が寛いでいる



もともとあったのか
土地の高低差をうまく使って
それぞれのブロックを上から見下ろすことができる

高い方にも遊歩道があり
ワンブロック毎をつなぐ渡り廊下みたいになっていたりする







ブロッコリーの妖精ではありません
向こう側のベンチに座っているお嬢さんたちです






















いくつかある公園の入り口の一つ





パリ市水道局が設置した水飲み場もある
とにかく水が多い



ブロック同士を隔てるコンクリート壁を広くした
階段状に水を流すところ
残念ながらこの日は水は出ていなかった



こんな風になっているところも


ここも水がなかったが
なにやら流れを利用した仕掛け



ここも中央を水が流れるはずの場所




ここは本来水が張ってあるところ



そして
くつろぐ市民は後を絶たない




=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
ご意見ご感想をお寄せください
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パリで美術三昧 < オルメカ展 2/2 > ケ・ブランリー美術館で 特別展を訪れる

2021-07-26 00:15:48 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『エル・アズズレスの4体』

パリで一番新しい国立美術館
『Musée du Quai Branly Jacques Chirac』は
「第三世界」の美術工芸の専門美術館
そこの
『オルメカ特別展』を訪れよう 
後編



『メキシコ湾岸 オルメカ人とその後継者たちの文明圏』


『祭儀と供物と副葬品』

『El Manati 出土 供物』
「左 16連パールのネックレス」紀元前1600年
「中央 と 右 祭儀用斧」紀元前1600年〜1200年

『El Manati 出土 胸像』 紀元前1200年〜紀元前900年

『El Manati 出土 胸像 と 王笏』 紀元前1200年〜900年



『La Merced 出土 彫像』 紀元前1200年〜900年

「レ・メルセッド」ではオルメカの歴史に重要な一ページを加える
時代の異なる二度かそれ以上の機会に奉納された無数の
宗教的祭儀の供物が発見された

「ベベ 赤ん坊」という愛称が付けられたこの「跪く」彫像は
手に斧を持ち
乳児ならではの且つオルメカの高貴な立場を表すシワの寄った表情で
ヘマタイト(赤鉄鋼)の鏡と土器の器と磨製石器の斧500本に取り囲まれていた

『レリーフされた小記念碑』

発掘作業時の写真も展示されていた





「オルメカ文明」というと
このような巨大な円頭がいくつも見つかっていることが知られているが
残念なことに
これらの円頭はパリには来なかった

『祭儀用の斧27丁』 紀元前1600年〜紀元前900年(第2期?)

『供物』 紀元前300年〜100年

「擬人化個体」「擬獣化個体」「首飾り」「耳飾り」「玉」その他「破片」
など30ピースの供物セットの一部

『同』


『同』

『彫刻』 紀元前1200年〜紀元前900年(第3期?)

第3期が最後の奉納で
複数の斧と道具や土器それにヘマタイトの鏡などから構成されているが
その中で傑出した彫刻作品がこれ
古代オルメカの神性を典型的に表しており
頭部の割れ目と突起は
彼らにとって新しい食物であった「とうもろこし」の出現を
表しているらしい

『祭儀用の斧』
線刻と浅いレリーフで「ヒトガタ」を表している


「レ・メルセッド」以外のサイトからの出土品

『セッロ・デ・ラ・メッス』のサイト

『Cerro de la Mesas 出土 牛の軛(くびき)のミニチュア』 紀元後100年〜300年

『線刻した亀甲』 紀元後100年〜300年


『坐像』

『貝殻のペンダント(部分)』
縁がカットされている

『多色彩色壺』


その他のサイト

『Maopasito 出土 土器』 紀元700年〜900年


『Tancama 出土 壺』 紀元1200年〜1300年


『同 耳飾り』


別の地域


トルテカ文明『Matacapan 出土 香炉』 900年

『Matacapan 擬人体像』 300年〜900年

身分の高い鎧姿の男
族長か他の部族の大使かと言われている
堅焼き土器製



左手で持つ盾 または 手甲




『マヤ文明』

『Balamcanchè 出土 神の姿を彫った香炉』 1250年〜1521年


『同』

そして16世紀
「征服者コルテス」侵入の直前の時代の副葬品

『フワステカ文化』
「タムトック」のサイト出土の35歳女性の副葬品
1520年頃

『ネックレスとペンダント・トップ』

ネックレスは
金張りの銅とカディスのガラスビーズおよび太平洋の貝殻から作られ
ペンダントは
グアテマラの翡翠
アステカ文明に含まれる「フワステカ人」の
16世紀初めの交易ルートとシステムが広い範囲で確立していたことがわかる
その他の副葬品の主だったものは
ローカルな陶




埋葬された当人の頭蓋

このサイトの町「タムトック」は「オルメカ文明」とその後継者たちの
中心都市のひとつで
紀元前300ねんから紀元600年頃が最盛期だったが
16世紀初頭でも15000人の人口を誇った

ここで2005年に素晴らしい発見がなされた

『生贄にされた女』 紀元1世紀頃

割れており欠損部分も多いが
繊細な仕上げの滑らかな表面
若い女性の身体の華美な美しさと官能性
若い世代の香り立つ苦悩
肥沃な豊穣さ
などが余すところなく表現されている




身分の高い人物を表しているのか
などモデルに関しては全く分かっていない
石切場の天然の貯水槽に沈んでいたので
彼らの先祖の儀式や習慣に則っているために「生贄」という呼び名がついた






最後に
『サン・ロレンツオ』と『ラ・ヴェンタ』
の地区



「サン・ロレンツォ」のサイトは
紀元前1500年から紀元前600年まで続いた
「ラ・ヴェンタは
紀元前1200年から紀元前400年まで存在した」

『サン・ロレンツオ出土』 紀元前1200年〜紀元前600年

前編でご紹介した「ラス・リマスの族長」と同じ形式で
歯のないV字形の口や胸元の衣服の襞及び
頭頂がV字形に分かれていて開いているのも「トウモロコシの神」「雨の神」を
象徴している


『同 背部』
縦に溝が伸びていて上に開いている

そして
「ラ・ヴェンタ」文化圏の「ザザカトラ」の出土品


『人造1』灰色凝灰岩製 紀元前800年〜紀元前500年


『人像2』安山岩製 紀元前800年〜紀元前500年

この2体も
口の形や頭頂部に開口部があることなどから
メキシコ湾岸全域での各地の権力者たちがイデオロギー的に共通の価値観に至っていた
という事が理解出来る


『ojoshal 出土 供物』 紀元前1800年〜紀元前200年

100個の斧と一緒に収められていた彫刻した笏
こんな組み合わせは珍しい


『Encrucijada 出土 胸飾り板』 翡翠製 紀元前900年〜紀元前400年


『祭儀用斧』緑玉製 紀元前1200年〜紀元前600年


次は「レ・ヴェンタの供物 No.3」と呼ばれるひと組からの抜粋
紀元前900年〜800年

『ひと型』

『ブレスレット』


『飾り板(バッジ)とペンダント』

続けて同じ「ラ・ヴェンタ」のサイトから

『首を捻じ曲げた猫』セラミック製 紀元前1200年〜紀元前900年


『足で立つ人像』翡翠(玉)製 紀元前1200年〜紀元前600年


『Simojovel 出土 祭儀用線刻斧』黒色粘板岩 紀元前1000年〜紀元前400年
一般的に「シモホヴェルの斧」と呼ばれる

『Tenango del Valle 出土 人頭』 ジェダイト(硬玉)紀元前1200年〜紀元前600年


上『人面文様のペンダントトップ』 緑玉髄製 紀元前1000年〜紀元前600年
下『』動物面文様の胸飾り板』 翡翠製 紀元前1200年〜紀元前400年


『Tlapacoya 出土 ひと形』 セラミック製 紀元前1200年〜紀元前800年

「ベビー・フェイス・タイプ」と呼ばれる堅焼き陶器のひと形で
内部は空洞のタイプ

前後二回に分けてご紹介してきた「オルメカ展」は
これで終わります

「ケ・ブランリィ美術館」は常設展示も大変にkyぽ海深いです
いつかご紹介しましょう



=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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パリで美術三昧 < オルメカ展 1/2 > ケ・ブランリィ美術館

2021-07-23 00:08:40 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『Musée du Quai Branly』

パリで一番新しい国立美術館
『Musée du Quai Branly Jacques Chirac』は
「第三世界」の美術工芸の専門美術館
そこの
『オルメカ特別展』を訪れよう 
前編


1981年から1995年まで
二期14年大統領を務めた社会党の「フランソワ・ミッテラン」が
新国会図書館と新しく国立総合病院を作らせ
死後「ミッテラン図書館」「ミッテラン病院」と正式名称にその名が残された後
次の保守党大統領「ジャック・シラク」が
自分の名前を残したくて
パリに新しい美術館を作らせ
生前から「ケ・ブランリィ・ジャック・シラク美術館」と命名した

Quai Branly(ブランリィ河岸)というセーヌ左岸のエッフェル塔のすぐ近く
通りに沿ってガラス張り


ガラスの塀の中に入ると鬱蒼とした「藪」になり
ここかしこに
歓談用にベンチを備えた一隅などがあり
その緑に囲まれて摩訶不思議な建物が建っている


鉄のコロンで持ち上げられた何艘かの数珠繋ぎの船の様な

『Musée du Quai Branly jaques Chirac』

設計は目下フランス一名高い建築家となっている『ジャン・ヌーヴェル』


ちなみにすぐ隣にあるエッフェル塔の展望台から見ると



こうなっており
対岸の「シャイヨー宮」の「歴史文化財博物館」の窓から見ると


こんなであります
エントランスホールには
「オルメカ文化」の象徴のような巨大な頭像が鎮座している


このエントランス・ホールの中央に入場券確認があり
そこからスロープを上階の展示フロアーに登ることになる


今二人がいる場所から右にスロープに入ると


世界中の文化遺産の所在地と出土地の地名が
スロープの床にランダムに映し出され
あたかもセセラギの流れのように
曲がったり集まったり離れたりしながら流れ下ってくる



途中で左右の壁を岸辺の土手に見立てて
流れの一部が潜り込んだり別の場所から流れ出てきたり
驚かされる

上階の展示フロアーにたどり着くと


「オルメカ文明」の彫像の一体が出迎えてくれて
奥のポスターが上から吊るされている「特別展会場」へと進む

特別展の会場に入ると最初の部屋が

『Senor de Las Limas ラス・リマスの男』紀元前900年〜400年頃

1965年に「ラス・リマス」の町の郊外で発見された
「古代オルメカ文明」最高傑作と言われる「超現実的存在を両腕で抱く男性座像」がある



「オルメカ」は
紀元前1700年頃からメキシコ中部「メキシコ湾」岸沿いに起こった文明で
紀元前600年〜400年頃が最盛期であったらしい
紀元前200年頃に突如消滅
「Las Limas」「El Azuzul」「Tres Zatotes」「La Venta」「San Lorenzo」
など何箇所かの遺跡サイトに分散して見つかっている

その末裔たちの最後が「アステカ文明」の人たちで
スペインからの侵略者「征服者ヘルナン・コルテス」が1521年に上陸した時点で
文明全体が消滅した

『ラ・ヴェンタの供物』紀元前800年〜600年頃

16人の人型と6本の斧の模型からなる
15人はジェダイット(硬玉)製で花崗岩製の一人に向き合っている
神への捧げもの

次は
1987年に発見された『アズズレス」遺跡
紀元前1200年〜紀元前900年の遺跡の出土品4点の中から




これは
痛み具合がほんの少し違うほぼ同じ2点の一つ

同型のもう一体は




さらにこの坐像も2体あって
一つは




同型のもう一体が




そっくりだが
正面から見たときの腹帯の水平度が微妙に違っている


『Laguna de los Cerrosから出土した 無頭の男性立像』紀元前1200年〜900年




以下は『オルメカの男性像』と呼ばれるもの

『Cruz del Milagro 出土の オルメカの人像』紀元前1200年〜900年

同 背後


同 側面



『Piedra Labrada 出土 記念石柱』紀元200年〜600年


『Cerro de las Mesas 出土 祭壇 族長の側面坐図レリーフ』紀元467年〜468年


『Cerro de las Mesas 出土 族長側面坐図レリーフ』紀元600年〜900年

次は凄い

『Tres Zapotes 出土 祭壇 上部』紀元前31年

『同 下部 暦』
実はこれオルメカ数字で暦になっていて
紀元前3114年8月11日
から
紀元前32年9月1日
つまり作られた年の前年までを表している

以下
題して「メキシコ湾岸の人々」

『Antonio Plaza 出土 レスラーと名付けられた男性坐像』紀元前1500年〜紀元前400年

『同 右斜め側面』

『同 左斜め側面』

『同 背中』


『Chiquipixta 出土 青年像』紀元前1200年〜紀元前900年


『同 背面』
背中に一本くっきりとした縦の溝が彫られている

『同 側面』
古代エジプトに見られるような「長頭族」に似ている

ここから時代が飛ぶ

『Tamahi 出土 背中に子供を背負ったワステカ族の青年』紀元1000年〜1521年

『同 上半身』

『同 背中』


『別の青年像』
同じような刺青をしている

『Tecomaxöchitl 出土 台座に立つ女性像』紀元900年〜紀元1521年


『Tuxpan 出土 跪く女性像』紀元900年〜紀元151年

『同 左側面』


『同 右側面』

『同 背中』


『Ciudad Madero 出土 腕の先で穴を掘る棒を持つ男性像』紀元900年〜紀元1521年


『El Tajin 出土 Niches のピラミッドの装飾石柱』紀元600年〜900年?

『El Naranjo 出土 トガり帽の男性像』紀元900年〜1521年

『Castello de Teayo 出土 女性像』紀元900年〜1521年

『同 背中』

『Ozuluama de Mascarenas 出土 Seigneur d'Ozuluama 
擬人化されておうぎ形の帽子をかぶった族長』1200年〜1521年

『同 背中』
帽子の後ろ垂れは骸骨

『Huilocintla 出土 ウィルシントラの石柱』900年〜1521年
族長自らの自己犠牲を表しており
これにより神への生贄を想起させ超自然的存在が失った血を取り返してくれるという
「マヤ」でよく見られた風習

『Tempoal 出土 跪く男性像』1200年〜1521年

『同 右側面』

『Castello de Teayo 出土 擬人化された女性石柱』900年〜1521年

『同 裏側』

『Ahuateno 出土 何かの動物の上に立つ人像』1200年〜1521年

『同 右後方側面』

『同型 別ヴァージョン 背面』
顔に穴が空いていないタイプ

この項 後編に続きます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
【お願い】
今後のブログ継続の参考にするために
皆様方の「ご感想」「ご意見」「ご要望」「お叱り」「嫌味」「励まし」
など読者の皆様方の声をお待ちしております
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パリで美術三昧 < シニャック展 後編 > ジャックマール・アンドレ美術館 2021年 初夏

2021-07-21 00:02:34 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『ジャックマール・アンドレ美術館』


前回に続いて
「シニャック展」後編をお届けします

「ポール・シニャック」は常に気心の知れた信頼する友人たちに
取り囲まれていた
まず「マキシミリアン・リュス」との出会いは1887年
「独立画家展」で彼がリュスの作品を一枚購入したことに始まった
彼は描く画家だけではなく
他の画家の優れた作品を集める収集家でもあった
シニャックは初期のリュスを色調の分割の技術で深く影響を与えた
リュスは人々の日常の着眼し
ベルギー旅行の際に「カフェにて」や
フランドルの製鉄所を訪れて「製鉄工」などの作品を仕上げた

そのベルギー滞在中に
ベルギー人画家「ジョルジュ・レマン」と出会い
アヴァンギャルド派であった彼は「独立画家協会展」に出品するようになり
スーラやシニャックと交流が始まった
パリで「ナビ派」の画家たちと出会い
「ジョルジュ・ラコンブ」は新印象主義に影響されるようになる
いずれも
「色彩」の捉え方とその表現の道筋を作っていった

「エドモン・クロス」は以外と遅く
1891年になって新印象主義に傾き
しかし一度その道を踏み出すと生涯変わることなくその道を求め続けた
シニャックにとって非常に気心の知れたごく日常的な友人であり
スーラ亡き後はシニャックにとって片方の空間を埋めてくれる
欠かせない存在であった

「テオ・ヴァン・リッセルベルグ」はブリュッセルにおけるシニャック
とでもいうべき存在で
かの国のアヴァンギャルド集団の展示会などに
シニャックが行っていたように参加を続け
本来肖像画家であった彼が風景画にも色彩の構成の主張を持ち込んだことで
ベルギーはフランスに次いで第二の「新印象主義絵画」の祖国となっていった

その後のシニャックの歩みに戻ろう


『Couché de Soleil (Evantail)』1905 紙 水彩・墨・鉛
「夕陽(扇画」」

『Avignon. Soir (Le Palais des Papes)』1909 紙 水彩+墨・ペン
「アヴィニヨン 夕刻(教皇庁)」

シニャックは友人たちをサントロペに誘い
制作中に彼らに薫陶を与えた
その滞在中
彼は水彩画の魅力に目覚める

『Antibes』1910 紙 水彩+墨・ペン
「アンチーブ」

油彩とは異なる存在価値としての水彩を
好んで戸外制作に用い
それがその後のアトリエでの油彩の制作にも影響を与えることとなる
この「アンチーブ」匂いて
水彩の色彩の繊細さの極地に到達していると言われている

『Les Cyprès de sainte-Anne (Saint-Tropez)』1905 紙 水彩+墨・ペン
「サント・アンヌ(墓地)の糸杉(サン・トロペ)」

『Venise. La Dogana』1906 紙 水彩+鉛筆

『Venise. San Giorgio (Éventail)』1905 絹貼り厚紙 水彩
「ヴェニス サン・ジオルジオ(扇)」

1900年代に入り
1902年
1904年
1906年
と数次に渡って繰り返された
『Salon des Artistes Independants (独立芸術家協会展)』への意欲的出品で
彼はパリのみならず
ベルギー・オーストリア・ドイツに置いても名声を確立してゆく

ヴェネチア滞在によって「光と水」の表現に磨きがかかり
1907年以降中国の水墨を用いる事も
白と黒のコントラストの表現の上で極めて有用であった

『Séte』2 Avril 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「セート」

『La rade de Toulon ou Toulon. Ciel d'Orage』Avril 1931 しぼ紙 水彩+鉛筆
「トゥーロン波止場 または トゥーロン、夕立空」


『La Ciota』1930 シボ紙 水彩+鉛筆
「ラ・シオタ」(南仏)

『Paimpol』13 Août 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「パンポル」(ブルターニュ)

『Villefranche-sur-Mer』1931 シボ紙 水彩+鉛筆
「ヴィルフランシュ=シュー=メール」(コート・ダジュール)

『Morlaix』21 juin 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「モッレー」(ブルターニュ)

『Saint-Nazaire』23 juillet 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「サン・ナゼール」(ブルターニュ)


『Douarnenez』13 juin 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「ドゥアルルネーズ」(ブルターニュ)

『Nice』2 mai 1931 シボ紙 水彩+鉛筆
「ニース」

『Le Bono』31 mai 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「ル・ボノ」(ブルターニュ)

『Concarneau』7 juin 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「コンカルノー」(ブルターニュ)

『Menton』1931 シボ紙 水彩+鉛筆
「マントン」(コート・ダジュール)

 『saint-Malo. Les Voiles jaunes』29 octobre 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「サン・マロー 黄色い帆」

『Dankerque』5 juin 1930 シボ紙 水彩+鉛筆
「ダンケルク」(ノルマンディ)

これだけの水彩を一堂に並べると
シニャック=点描派
という固定観念が一挙にひっくり返ってしまう
それにしても
シニャックも「水と空」を光と色で表現する「印象主義」の第一歩から
全く変わっていない同一線上にあることが理解できる
『Néo-Impressioniste 新印象派』
という仲間とスタートしたのだから

水彩なので色を「タッチ(点)」で置いて行くわけにはいかないけれど
水彩画の可能性を深く認識したシニャックの面目躍如といったところでしょうか

また油彩に戻ろう

『Arc-en-ciel, Venise』1905 カンバス 油彩
「虹 ヴェネチア」

この作品で
自分のパレットの反響である虹の七色を
彼は大気の効果を再現すべく実に繊細に利用している

20世紀になると
「色彩の役割」が
芸術活動と論争の中心的位置を活気付けて行くのです
そして
シニャックの作品と政策理論とは
新たな若い県政のうねるである『フォービスム』に受け入れられて行くことになった

「色彩と線とを 感じ取り 伝えたいという情熱の元に従わせてゆく 
つまり
描くという行為の結果は詩人の作品ということになるだろう」
(ポール・シニャック)

『Le Port Royal, Inondation』1926 紙 墨絵
「ポール・ロワイヤル 洪水」

彼は
最初から「色彩の解放」を推し進めていき
観察するモチーフから
カンバスの中でどんどん解き放たれて行くようになる

1898年ロンドン滞在中に『ターナー』の作品に出会い
対象を「模倣し」「コピーする」という概念から
離れる必要を痛感した
「色合いを創り出さねばならない」と書き残している通り
彼は「自然主義」から離れて行く

「サン・トロペ」やその周辺の鄙びた海岸の村に足を運び
中央で知られていない土地の趣を
表現してゆく中で
地中海の海と太陽とは
色彩の理解と分析とその解放とに大いに役割を果たしたはずで
最初の頃訪れていたブルターニュの光の少ない海辺との対比も
シニャックの形成に一役買っている

『Antibe. Matin』1903 布張り厚紙 油彩
「アンチーブ 朝」

『sainte-Anne (Saint-Tropez)』1905 カンバス 油彩
「サント・アンヌ地区(サン・トロペ)」

『Juan-les-pins. soir ( Première version』1914 カンバス 油彩
「ジュアン・レ・パン 夕刻」(ヴァージョン 1)


『Juan-les-pins. Soir』1914 デッサン用紙 水墨
「ジュアン・レ・パン 夕刻」

彼は芸術特に絵画の黄金の世紀と言われる
17世紀「古典主義」に精通しており
その根底にあるデッサンの重要性も理解しており
その時代の巨匠たちが作品に取り組む前にやったような
「カートン(画用紙)」を使用して
さらに中国の墨を使う水墨画を研究して
自分の求める色彩の解放への手がかりともしていった

『Avignon, Matin』1909 カンバス 油彩
アヴィニヨン 朝」

『Marseille, Le Vieux-Port』1906 カンバス 油彩

最後に
この特別展の冒頭に展示されていたものをご紹介しておく


『Application du Cercle chromatique de M. Charles Henry』1888 リトグラフ

これは
当時の「アンドレ・アントワーヌ』が率いた劇団『自由劇場』の
公演プログラムのための図版で石版画
この図版政策で
シニャックは「色彩と線」の化学的デモンストレーションを行っている
一人描かれている観客の首が
オレンジ色という明るい緞帳からの逆光の中にうきあがり
ブルーがオレンジのコントラストを成し
影が光に対立している
『Theatre-Libre 自由劇場』のイニシャルが
当初の色とその変性色の多様性の精緻な組み合わせが
将来の彼の予兆を成している
ここで彼は
色彩の調和と対比との化学的分析は
ポスターやイラストにも有効であることを示している

最後の最後に

『Palette, Aux Tuileries』1882 〜 83 板 油彩

彼が
自分のパレットに描いた「チュイルリー公園」です

ここ『ジャックマール・アンドレ美術館』は特別展と常設展と
両方を楽しむことができます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
ご感想ご意見ご要望を是非お寄せください
「あれが好き」「これは嫌い」「それ見てみたい」
些細なことなんでも結構です
「コメント」から送信できます
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パリで美術三昧 < シニャック展 前編 > ジャックマール・アンドレ美術館 2021 初夏

2021-07-19 00:10:26 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『Musée Jaquemart-André』

『ジャックマール・アンドレ美術館で年明けから予定されていた
後期印象派の最終到達点『点描派』の巨匠『ポール・シニャック』特別展が
コロナによる美術館の休館措置解除でやっと開催された

展示会のテーマ「彩色されたハーモニー」

1863年11月パリで生を受ける
1879年16歳で「第四回インプレッショニスト(印象派)展』を訪れ
カイユボット ドゥガ ピサロ モネ
などの存在に触れた

1880年
彼は「クロード・モネ」のプライヴェート展示会に招かれ
高校を中退して画家になる決心をする

伝統芸術としての絵画の要素は
「主題」「構図」「構成」
だったヨーロッパ官製芸術のアカデミスムに対して
「光」と「色彩」
に注目したのが「モネ」が始めた「印象主義」であった
光は常に移ろい同じであることは決してない
その光の与える効果が色彩だ
ということに気づいた印象主義者たちは
移ろう光とその効果である色彩をこの一瞬で画面に捉えることを行い
構図の要素である平面の処理が後回しになっていった
揺れる光線の効果で平面が分解されて
ブロックになって行き
それが大きなブロックに集約されてゆくと「キュービスム」を生み
小さなブロックに分かれてゆくと「点描」になった

『Saint-Briac, Le Bechet サン・ブリアック ル・ベッシェ海岸』1885年 カンバス 油彩

1884年
彼は「Societé des Artistes Indépendants 独立芸術家協会」の結成に
参画する
審査員もいない受賞もない作品展を年に一回行うことを目的とした
翌年1885年から翌86年の冬ブルターニュに制作旅行に旅立ち
少し前から「カミーユ・ピサロ」が始めていた
混ぜ合わせない純粋な色彩を画面上に細かいタッチで載せて行き
鑑賞者の目を通して
描かれた風景の現実の色彩の「トーン」を感じ取ってもらうという手法を
「サン・ブリアック」などの描写で試してみた

極めて最前面の構成と
色彩の生き生きとしたトーンと極めて幾何学的形状の構図と
画面の三分の二をしめる海の
「点」に昇華した波頭の単純で厚みのあるな繰り返しという単調さを
手前の大きな岩で壊して奥行きの感覚を与えている

『Fécamp, le Soreil フェカン 太陽』1886年 カンバス 油彩

こちらは「ノルマンディー」の海際の町の
空と地面で
同じ技法を採っている

この頃
彼に英ky等を与えた人物に『Georges Seurat ジョルジュ・スーラ』がいる

Maximilien Luce『Portrait de Georges Seurat スーラの肖像』1980 紙 コンテ

『ジョルジュ・スーラ』はパリの「エコル・デ・ボザール(美大)」出のエリートで
絵コンテによるデッサンで才能を非常に高く評価されていた

Georges Seurat 『Mère de l'Artiste assise 母親坐像』1882年 紙 コンテ

このデッサンに表されているスーラの母親像は
輪郭を取り囲む線によってではなく
光と影のゾーンの対比によって際立たされている
しかし高い評価にもかかわらず
この絵コンテは1884年の官製展覧会『ル・サロン』に落選
それをきっかけにスーラは「Sakon des Indépandants 独立芸術家協会」に
参加するようになり
1885年856年にかけての冬
色調の「分割」の技法を生み出すことになった

1886年の「印象派展」に出品した作品が『Post-Impressionisme』を
産むことになる
しかし1891年の最初の「独立協会展」の年に急逝した


『シニャックの芸術は自ら生まれて 彼の天才を体現した』


『Avant du Tub, Opus 176 タブの前 作品番号176』1888年 カンバス 油彩

シニャックは「スーラ」の影響で
1886年1月から色調の分割の新たな手法を始める
タッチがより「手法的」になり
風景をより「幾何学的」に扱うようになっていった


『saint-Briac, Les balises Opus 210 サン・ブリアック、標識  作品番号210番』 
1890年 カンバス 油彩

1885年の滞在で目覚ましい制作を行った後
彼は90年に再度「サン・ブリアック」を訪れた

前回の「印象主義的」作法と異なり
今回はこの地で突如「新印象主義」に目覚める
この作品では
風景を厳密さで再現しながら
視点を人工的に単純化し
要素を「砂」と「水」と「空」とに単純に分割し
標識の縦の線と水平線の横の線の単純さで
光線に「抽象音楽」のようなリズムを与えた


『La salle à Manger ou  Le Petit Déjeuner (Etude)』1886〜87年 カンバス 油彩
「食堂 または 朝食』(習作)

『Concarneau, Carme du Soir (Etude)』1891年 カンバス 油彩
「コンカルノー」(習作)

これらの習作で
「色の分割」には異常に冷静で厳密なアプローチが必要であることを学び
絵の具の混合を避けて純粋さをを保つために
色ごとに塗る時間を変えたり乾燥させるタイミングを変えたり
様々な努力を繰り返した


『Soreil couchant sur la ville ou Saint-tropez La Ville』1892年 カンバス 油彩
「町の夕陽 または サントロペ、町」(習作)

『Concarneau (Etude)』1891年 カンバス 油彩
「コンカルノー (習作)」

既に彼は絵を描き始めた当時から
点描に通じるピサロの色彩の使い方を学んではいた

『Les Andelys, Le Soleil couchant』1886年 カンバス 油彩
「レ・ザンドリス 夕陽」

しかし上掲の習作の過程で
彼は色彩の分割のための色の実態をより確実に把握していった

『St-Tropez, Fontaine de Lice』1895年 カンバス 油彩
「サン・トロペ 空掘通りの泉」

この作品でシニャックの新たな頁がめくられた
この作品においては
色彩が彼の関心事の中心的役割を果たしてはいるが
それだけではなく
全く違う副次的な色の使い方をしている
中心となる色彩だけではなく「7原色」を全て使って
それぞれが全体の色調に平衡てき効果を与える役割を見出だしているのだ


『Saint-Tropez, Après l'Orage』1895年 カンバス 油彩
「サン・トロペ 夕立の後」

この年の一連のサントロペを描いた作品の中で
彼は「点」をよりゆとりのある「タッチ」(点より大きい)に重きを置いて
習作に見られた自由さを獲得し
彼の地中海の海を描いた作品に」よく見られる「太陽の光」ではなく
空気の効果を構成する
銀鼠ブルーで表現された中にかすかに見られる「赤」が
その効果を膨らませている

『Samois Etude No.11』1899年 布貼り厚紙 油彩
「サモワ 習作No.11

『Samois Etude No.6』1899年 布貼り厚紙 油彩
「サモワ 習作No.6」

『Mont Saint-Michel, Brume et Soleil』1897年 カンバス 油彩
「モン・サン・ミッシェル、霞と太陽」

ここで『カミーユ・ピサロ』にも
触れておかねばならない


Camille Pissaro『La Briqueterie Delafolie à Eragny』1886年〜88年頃 カンバス 油彩
カミーユ・ピサロ「エラニィのドゥラフォリーレンガ工場」

「Seurat スーラ」に続いて
シニャックと並んで「Camille Pissaro カミーユ・ピサロ」は
1886年から分割したタッチの色彩効果を
使い始めた
現色を「交差使用」することの継続的な模索によって
ピサロは『新印象主義者』達の仲間入りをすることになる
上の作品は
かつて印象主義で描いたテーマだが
仕切られない空間を表現することで印象主義より表現方法をさらに現代化し
さらに次の作品で

同『Le Troupeau de mouton à Éragny』1888年 カンバス 油彩
「エラニィの羊の群れ」

急進的アプローチによる光と影を用いて厳格な幾何学性を築いくことで
新印象主義の傾向から徐々に離れて行くことになった

さらに
スーラとシニャックの影響を引きついだ画家を挙げておこう

『Archille Laugé アーシィユ・ロジェ』
1861 〜 1944


『Archille Laugé『L'Arbre en fleur』1893年 カンバス 油彩
アーシィユ・ロージェ「花咲く樹」

出身地トゥールーズの美大で学び
さらにパリの美大に入ったが伝統的アカデミスムの教育に失望し
「独立画家集団協会」に参入
スーラとシニャックの色彩の表現に影響を受けた
ただし実際には二人に出会ってはいないらしい
故郷に帰ってから開花し
三原色を微小な点で重ね合わせてゆく氷河んで
フランスの「分割主義者(点描派)」の中の独特の地位を占める

その他にも

『Louis Hayet ルイ・アイエ』
1864 〜 1940


Louis Hayet 『Au Café』1887 〜 88年 薄布 各種顔料の混合
「カフェ にて」

『Maximillien Luce マキシミリアン・リュス』
1858 〜 1941

Maximillien Luce『Le Café』1892年 カンバス 油彩
「カフェ」

同『Aciérie』1899年 カンバス 油彩
「製鉄工」


同『Le Port de Saint-Tropez』1893年 カンバス 油彩
「サン・トロペの港」

同『Saint-Tropez, Route du Cimetière』1892年 カンバス 油彩

『Georges Lacombe ジョユジュ・ラコンブ』
1868 〜 1916

Georges Lacombe『Baie de Saint-Juede-Luz』1902 〜 04年 カンバス 油彩
「サン・ジャン・ド・リュズ湾」

『Georges Lemmen ジョルジュ・レマン』
1865 〜 1916

Georges Lemmen『Promenade au bord de la mer』1891年 カンバス 油彩
「海辺の散歩道」

『Théo Van Rysselberghe テオ・ヴァン・リッセルベルグ』
1862 〜 1926

Théo Van Rysselberghe『Le Moulin du Kalf à Knokke』1894年 カンバス 油彩
「(フランドル地方)クノッケのカーフ風車」


同『Canal en Flandre』1894年 カンバス 油彩
「フランドルの運河」

『Henri-Edmond Cross アンリ=エドモン・クロス』
1856 〜 1910

Henri-Edmond Cross 『Paysage avec le Cap Nègre』1906年 カンバス 油彩
「(南仏地中海岸の)ネーグル岬の光景」

同『La Mer clapotante』1902 〜 05年 カンバス 油彩
「波が打ち寄せる海」

「クロス」はスーラとシニャックと並んで
官製美術展『ル・サロン』の伝統的閉鎖性に対抗して立ち上げた
「Société des Artistes Independants 独立芸術家集団」
の共同設立者の一人で
フランス点描派の第一人者の一人である

この項後編に続く
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ブルターニュ紀行 番外編 < シャトー民宿 in ブルターニュ >

2021-07-16 00:03:39 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ/ホテル
巻頭写真 : 『シャトー・ド・ケルグゥアントン』

海と信仰ケルト文化と古代巨石文明に加えて城が無数にある異世界
そして
そんなブルターニュにも城の民宿も沢山ある



「お城で暮らす」ことに興味がありますか?
フランス各地に何十万もあるお城に中には売りに出ているものも何万件かありそう
売値は数10億ユーロの数から一軒のアパルトマンを買うくらいの場合も多いが
たとえ買えても
日々の維持とメンテナンスと税金と何やらかんやら
やはり相当の富裕層でないと無理ぽ

そこで
せめて旅行中くらいは「シャトー・ホテル」に泊まってみたい
いい考えです
でもお城であっても「ホテル」はやはりホテルで
どこか「お仕着せ」なんですね

そこで
お城の民宿というのがあります
シャトーホテルおどお高くなくて
「仮の宿」の雰囲気ではなく「生活感」を満喫して滞在できる格好の機会です
そこで
せっかくのブルターニュ紀行を終えるにあたって
つでにブルターニュの「民宿やってるホテル」をほんの何軒か
ご紹介してみよう
いずれも
部屋数「一部屋」からせいぜい「十部屋」止まり
平均四部屋
つまり
現役のお城の「一部」に泊まれるわけです

ほとんどコメントつけずに上げて行きます


『Château de Bonnefontaine シャトー・ド・ボンヌフォンテーヌ』











※  ※

『Château de la Villedubois シャトー・ド・ヴィルデュボア』












※  ※

『Château de Montbrault シャトー・ド・モンブロー』









※  ※

『Château de Bonabry シャトー・ド・ボナブリィ』











※  ※

『Château de Kergouanton シャトー・ド・ケルグゥアントン』













※  ※

『Château de l'Epinay Bretagne シャトー・デピニィ=ブルターニュ』











※  ※

『Château de la Croix Chemin シャトー・ド・ラ・クロワ・シュマン』













※  ※

『Château de la Motte Beaumanoir シャトー・ド・ラ・ボーマノワール』












※  ※

『Château de Penfrat シャトー・ド・ペンフラット』











※  ※

『Château du Val シャトー・デュ・ヴァル』













※  ※

『Château de Léauville シャトー・ド・レオーヴィル』







では
次回からは別のテーマでお届けします
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 70 最終回 < 海と信仰と ケルト文化と古代巨石文明と 最終章 2 >

2021-07-14 00:19:38 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : モン・ドォル周辺のメンヒル『メニール・ド・シャン・ドレン』

海と島と岩と
異民族で異言語を持ち異なる独自のキリスト教信仰を持ち
ケルト文化と古代巨石文明を起床する
全てにおいて異世界のブルターニュ
70
最終回



ブルターニュはケルト文化の国
ローマ化したガリア人とゲルマン人との混血であるフランスの「中央政権」とは
人種が違い
言語も伝統の宗教のあり方も違い
ローマ滅亡以来フランス(フランク族カロリンが王朝とのちのフランス王家)
による千福行動に対抗し
独立を守る戦いが政治・外交・軍事面で15世紀まで延々と続いた

他の地方よりフランスへの併合がずっと遅かった分
その独自性が強く残った

キリスト教信仰の中の「Grand Pardon パルドン祭」はその最たるもの
「Grand Trémine 大トレミーヌ祭」とも呼ばれる
詳しくは『ロクロナン』の項を参照されたい







そして
ブルターニュのキリスト教会で欠かせない独特のものが
「カルヴェール」と「ブルトン十字架」
がある
詳しくは「ギミィヨー」「サン天テゴネック」などの項を参照

カルヴェールは礼拝堂や教会の建物の周りを低い塀で取り囲み
その中に墓地や納骨堂などの一緒に作られる
新約聖書の情景を表した彫刻が多く集まった十字架のこと

『Saint-Jean de Trolimon 聖トロリモン』のカルヴェール


『Plougonven プルゥゴンヴェン』のカルヴェール



『サン・テドネック』のカルヴェール



『Guéhenno』のカルヴェール

『Pleyben』のカルヴェール

「Croix bretonne ブルトン十字架」とは
カルヴェールを簡略化して十字架だけにしたもので
架刑にされたイエスがいることもあるが
普通に見られるイエスの彫刻を十字架にくっつけたものではなく


全体を一枚岩を削って作った十字架のことで
街道筋の交差部や見晴らしの良い丘の上や岬の先端などに建てられている




『Croix de Carantec カランテックの十字架』


『Croix de Guisény ギゼニィの十字架』

特に「ケルト十字」で作られたものは
古くからの土俗信仰が抜けきっていない時代感覚を伝えている

Croix celtique  ケルト十字架

ケルト十字はキリスト教の十字架より二千年ほど起源は古く
アイルランドがキリスト教化された時に
アイルランド人が転用し
ブルターニュに伝わってきた

『Fontaine de l'Île Saint-Cado サン・カド島の泉』の十字架
これは「エテル川に沿って」の項の「サン・カド島」を参照ください

ケルト文化の伝統といえば
主だった町では必ず夏に毎年繰り広げられる「ケルト祭り」
皆さんこの時とばかりに民族衣装で身を飾り
バグパイプの楽団が町を練り歩き伝統的ダンスで大騒ぎです

『Coiffes de pays Bigpourden ビグゥルデン地方の髪飾り』


これはおそらくもっとも狭い範囲でのみ伝わる衣装で「コルヌアイユ地方」の
「グゥエゼック村」と「サン・トワ村」
だけに伝わる晴れ着


『Coiffes et Binious de Quimper カンペールの衣装』
この衣装「ビニウ」と髪飾りはコルヌアイユ地方の首都「カンペール」のもの



とにかく
ブルターニュの夏はどこの町でもお祭りです

前からも



後ろからも



民族衣装のオンパレード


大人も


子供も


手拍子も



女性部隊も


男女混合も



親子の組も


昼も



夜も



ブルターニュの夏は暑く燃えます
ケルト衣装の乱舞です

忘れてならないのが古代の巨石文明

その中で
変わり種のメンヒルを一つ挙げておこう


紀元前5000年 〜2000年くらいの間のものだろうと推定されており
高さ7m40
(ただし地中に1/3ほど埋まっている分を除く)
幅2m60
キリスト教伝来とともに
キリスト教化されたメンヒルとして名高い




彫り込まれている文様は
太陽と月から始まって
円にリボンその他「ケルトのシンボル」が多い
十字架は別の石で作られて頭頂部にはめ込まれた

そして
やはりすごいのは「カルナック」の列柱
狭い範囲の三箇所に分散して合計で8000本ほどのメンヒルが列をなす




巨大な石から小さなものへと順番に並ぶ様は圧巻



そして
最大のドルメン『妖精の岩』の驚くべき姿



食文化で言えば
ブルターニュは海の幸
内陸は土地が痩せていて歴史的には小麦が育たず
蕎麦とニンニクしか採れないと言われた

海の幸といえば「オマール海老」
特に「Omard bleu 青いオマール」は特別に稀少で非常に美味



これだけ大きいと1k500はありそうなのでお値段も.....
ちなみに茹でると赤くなるので調理の前に実物をご披露するのがお約束

北海岸の「Côte Armor アルモル海岸」の港に行けば
例えば「ペロス・ゲリック」(既出)など
漁師が獲ってきたオマールを自分で売っているところに出くわすこともある

『Trebourden トレブゥルデン』(既出)の港にて

ここまでになると齢二十年とかになる
ハサミはゴムバンドでぐるぐる巻きに縛っておかないと
挟まれたら悲劇が起こることも

さらには
「アワビ」も特産


パリでは
運が良くても小型のトコブシしか見つからないが
ブルターニュでは
時期によって大型のアワビを出してくれるレストランもある



それから「牡蠣」


『Huître de Belon ブロンの牡蠣』
「ポンタヴェン」(既出)の南のアヴェン川が海に注ぐ河口のすぐ東に
V字型になるように北東から出てくる入り江のような川「ブロン川」の特産で
「ヨーロッパ・ヒラカキ」という和名がある

丸くて平らな牡蠣は古代ローマ人が大好きで
「輸入」の手間を省きたいばかりに
海軍を送りつけて戦闘力で占領してしまったという史実すらある

陸の名物は
今でもニンニクは特産だが
それに加えて「アーティチョーク」も名産地として名高い



ドルメンを背景にアーティチョーク畑


茹でたりオーヴンで焼いたものの「ガク」を一枚一枚はがして
ヴィネガーソースに浸して根元を歯先でこそぐようにして食べる


芯の部分はヤツガシラのような味と舌触り




特筆すべきは
ブルターニュは豚の放し飼いをする


  塩を舐める場所

放牧されるのは巨大なメスで
それぞれの寝ぐらとして「一軒家」を与えられている
いわば「家付き娘」
生まれた子豚も一緒に住む



お菓子も
全国区として名高いのが二つ

『Far Breton』
「ブルターニュの朝飯(粥)」みたいな意味で
半干しプルーンを使ったフラン(蒸しカスタード)みたいなもの

『Nantais』
「ナントの(菓子)」という
まるで「ジャパニーズ」という名のお菓子があるみたいなウエメセな名前
もともと『Gateau Breton ブルターニュのお菓子』という名のパウンドケーキが有って
それを平たい円形に作って天面を砂糖で厚くグラッセしたもの

長く続けましたブルターニュ紀行はこれで終わります
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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