行ってみませんか... こんな 素敵な世界へ

好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

ブルターニュ紀行 16 <ランデヴェネック クロゾン モルガ カマレ ロンカヴェル>  知られていない クロゾン半島 を先端まで

2021-03-08 00:00:42 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 廃船の港『カマメ』

荒海と信仰とケルト文化と巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
16


「プルゥガステル」から南へ下り
やがて「ル・ファウ」という小さな入江の根元ん町から西に曲がると
『Presqu'Ile de Crozon クロゾン岬』


Photo by @MICHELIN

赤で示された国道「N 165」から
黄色の県道「D791」に分かれるところが『ファウー湾』
県道
に降りてものの5kmで「オーン川」を渡るところに
『Landévennec ランデヴェネックという町がある』

Photo by @IGN

ちょうど「D 791」という印が出ているあたりの
「まが玉」みたいな形の岬があるところ

『L'Aulne オールン川』
とはいうもののブレスト湾の先駆けの細く長い湾みたいなもので
こんな光景が


修道院の廃墟もある

『Abaye Notre-Dame de falgoat ファルゴート大修道院(跡)』





しかし
こんなのどかな光景も



「ランデヴェネック」から一路西へ
クロゾン岬の先端まで行ってみよう


※  ※

岬の先端がカエデの葉のように4つくらいに分かれる
その左の付け根に『Crozon』と隣接して南側が『Morgat モルガ』という港
そこの海岸線には洞窟が並んでいる









岩盤の花崗岩に含まれる酸化鉄の量で岩肌が赤やピンクになる





岬の最西端は半円形の小さな湾
その南の裾が『Pointe de Dinan ディナン岬』
先日ご紹介した「ディナン」の街と全く同じ綴りだが
何の関係もないらしい


この荒々し岩塊の岬に面妖なものがある
その名も『Château de Dinan ディナン城』
もちろんディナンの街の城とは縁もゆかりもなくて


岬の先端に近い小山のような岩の上をよく見ていただくと

塔が並ぶ城壁が山の峰の上にあるように見えませんか
ここを
地元では「ディナン城」と呼び習わしてきて
地図にも「お城記号」とともに「ディナン城」と記載してあるのです

岬の先端の

親指をつきたてたような地形のその左下の付け根の位置に
『Camaret カマレ』という町がある


 ※

「カマレ」は美しい港町だが


別名「船の墓場」ともよばれている







完全な残骸もあるが
実は全部が全部「廃船」というわけでもなく
使い込まれた現役の漁船だったりもする




「カマレ」から南に数kmで『Pointe de penhir ペンイル岬』






この絶景の岬と「カマレ」の中間あたりに
『Alignements de Lagatjar ラガチアー巨石列柱』があります

おさらいしよう
単一の大きな細長い岩を地面に直立させたもの
『Menhir メンヒル』
二列に隙間なく並べたメンヒルの上に平らな石で蓋をしたもの
『Dolmen ドルメン』
ドルメンを小石で覆って小山のようにしたもの
『Tumulus テュ:ユリュス』
そして
メンヒルを一定の間隔で一列に並べたものを
『Alignements 巨石列柱』
と言います





 ※

その「カマレ」の湾に飛び出す極小の岬にまたまた不思議なものがある
『Chapelle Notre-Dame de Rocamadour ロカマドゥールの聖母礼拝堂』
何が摩訶不思議かというと
フランス南西部に『Rocamadour ロカマドゥール』という
巡礼で名高いムラがあるのです
そこと一体何の関係があるんだろう


礼拝堂本体はごく見慣れたブルターニュ風の
背の低い勾配の緩やかな屋根で切妻の片方に鐘楼という定型通りです


内部も見慣れた通り


船乗りたちが安全な公開を願って寄進した船の模型が天井から下がるのは
海辺の教会の常


祭壇の左右にも救命浮き輪やらオールやらが飾られている
そして
上の種祭壇ではなく側廊の祭壇が素晴らしい



この写真の左の奥突き当たりです

そしてある柱に黒い木彫りの聖母子像があった



そこで
本物の(と言うのは変な言い方だが)「ロカマドゥール」は


断崖にへばりつくこんな場所です
ほぼ中央の白く大きな一塊が「ロカマドゥールの聖母教会」
なのですが
そこの「ご神体」(と言うのはカトリックにはありませんが)みたいなのが



これです
どうです同じですよね
きっと本家から暖簾分け(?)してもらってきた聖母子像にちがいない




※  ※

「クロゾン岬」最先端の北側の先端に
岬とも言えないほとんど出っ張りのない岬がある
『Pointe des Espagnols エスパニヨル岬』

そのまた先端の陸地から20mほど離れて
引き潮の際は陸続きになる小さな岩礁があって
その岩礁全体が要塞になっている
『Fort ds Capucins カプサン要塞』



起源は17世紀
星型要塞建築で名を成したヴォーバン元帥が
「ブレスト港」の南海域の航行を管理する要塞の建設を考えた


18世紀に砲台の建設が始まる



19世紀には
陸側と岩礁の間に橋をかけてつなぎ
本格的な要塞の建設が進行した






20世紀第一次大戦で
陸側にもバンカーやトーチカを造り
総合的な守備の拠点となった





第二次大戦ではドイツ軍に接収され
終戦で使われなくなる





現在改めて見てみると
第一次大戦では発明間もなかった航空機が急速に進歩した結果
兵器として戦場に登場してきた

上空からの偵察と攻撃から目をそらせるために
施設の屋根全体が岩山に見える様な工夫がされていることがわかるのです


さあ今回はここまでにします
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
皆様のご意見やご感想を是非お聞かせください
旅行自体の具体的なことに興味のある方は以下のサイトもどうぞ
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ブルターニュ紀行 15 <プルゥガステル ランデヴェネック クローゾン半島> ブレストの湾を挟んで南岸の半島へ

2021-03-05 00:18:47 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : プルゥガステル『聖ヨハネ礼拝堂』

荒海と信仰とケルト文化と巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
15


今のように測量技術が精密ではなかった昔の
そして地球は平らだと思われていた昔の話
ヨーロッパの最西端
つまり「そこから先は海しかない」地の果ては
ブルターニュの
『サン・マティユー岬』か『ラ岬』だと思われていました
ここはすごいところなので後日改めてご紹介するつもりです

『地の果て』までご案内したので再び少し内側に引き返しましょう
「ブレスト」まで引き返し
街を通り抜けてすぐ南に向きを変え
先日ご紹介した「ランデルノー」で話題にした「エロー川」が
ブレスト湾に出る河口で渡ってすぐが
『Plougastel-Daoulas プルゥガステル=ダゥラス』という町

ここは「礼拝堂祭り」状態になります
というのも
自治体内の村々に古い礼拝堂が無傷で残り
「プルゥガステルの八つの礼拝堂」と呼ばれる村々をめぐる
『礼拝堂街道』
という名のルートがあるのです

まず『プルゥガステル=ダウゥラス』自体から始めましょう

『Eglise Saint-Pierre 聖ペテロ教会』

実はこの教会は18世紀に建て直し
19世紀に建て直し
第二次大戦上陸作戦で米軍が空爆して大半が破壊され
現在のものは花崗岩とコンクリート併用の60年ほどしか経っていない
残念なものなのです

しかし
見事な「カルヴェール」が残った

裏側全景

十字架部分が三層構造なのはここだけ
登場人物180名を誇り
構成と表現は「ギミィオヨー」のそれより優れていると言われています






十字架の裏面


こちらが「イエスの磔刑」が表された正面


正面全景


受胎告知と聖アンナ訪問

イエスの降誕

東方三軒人の来訪

エジプトへの逃避

最後の晩餐(あと4人は画角の外)

最後の晩餐のあと弟子達の足を洗うイエス

イエスの逮捕


総督ピラトの裁きの場に出るイエス

十字架の道行き


イエスの埋葬



イエスの復活

ところでこの町は
「Plougasutel」と「Daoulas」
二つの自治体の「市町村合併」による「ハイフン付き」の名前になりました
その
『Daoulas ダウラス』地区に大修道院があります

『Abbaye Nptre-Dame de Daoula Eglise Abbatiale 修道院聖堂』

手前にカルヴェール
右端の小さな塔が納骨堂

『Oratoire Chapelle N.D. de la Fontaine 祈祷所(泉の聖母礼拝堂)』

内部

天井の白い点々とある模様は「ブルターニュ公国」の紋章の
『Hermine ミンクいたち』


「泉」の湧水口

祈祷所(礼拝堂)の泉

回廊の一部も残る
内側のアーケード部だけで四方の壁も天井もないが
アーチだけでも美しい




回廊には必然的にある「聖水」の水盤も美しい細工が施されていた

修道院聖堂正面と墓地へ入るポーチ

最初の聖堂の写真の反対側




最初の写真で墓地は聖堂の手前に見えている

では「礼拝堂街道」に出かけることにしよう
これ以降は字数制限に収める為に説明抜きになります

※  ※

『Chapelle Saint-Guénolé 聖ゲノレ礼拝堂』











※  ※

『Chapelle de Saint-Claude 聖クロード礼拝堂』




















※  ※

『Chapelle Saint-Jean 聖ヨハネ礼拝堂』

巻頭写真の場所です







※  ※

『Chapelle Saint-Thrémeur 聖トレマー礼拝堂』
















※  ※

『Chapelle Saint-Adrien 聖アドリアヌス礼拝堂』









































この辺りの産地ごとに色の違う花崗岩が使われている

※  ※

 『Chapelle Sainte-Christine 聖クリスティーヌ礼拝堂』






※  ※

『Chapelle Notre-Dame de la Fontaine Blanche 白い泉の聖母礼拝堂』











実は保存状態の良い古い礼拝堂は八つだけではないのです
この辺りには20くらい存在します
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 14 < サン・マテュー岬 と ル・コッケ > 北ブルターニュの最西端を訪れる

2021-03-03 00:18:47 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『Pointe de Saint-Mathieu サン・マチュー岬』

荒海と信仰とケルト文化と巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
14



北は「モン・サン・ミッシェル湾」から
南はロワール河河口の『ナント』から
西に向かう巨大な「ブルターニュ半島」は西へ向かうほどに徐々に狭まり
先端は南北に大きな岬
中ほどにやや短い岬と
三つに分かれて大西洋に臨む

その北の岬の付け根の『ブレスト』から西進すること15km
先端に
『ル・コッケ』という町と『サン・マテュー岬』とがある

『Les Phares de St-Mathieu / Ruine de l'Abbaye St-Mathieu』

岬の先端には
二つの新旧の灯台と大修道院の廃墟とがある


硬い玄武岩の地盤が浸食されて
両岸はいずれも切り立った厳しい断崖になっているところは
ブルターニュに大小1000くらいはありそうなどの岬とも同じ佇まい

この灯台は非常に歴史が長い

まず起源は「四角い灯台」の歴史から始まる
1157年ブルターニュ公爵は夜の篝火を絶やさないことを条件に
ベネディクト会に修道院の建設許可を与えた
1250年修道院完成
修道僧たちは40mの塔の上で毎夜篝火を焚く

17世紀迄それが続き
1689年王室海軍は夜間航行の強化の為に新型のトーチを作ることを決めた
修道院の塔のてっぺんに屋根をつけガラスで囲う
これで悪天候でも日の管理がたやすくなる
2人に灯台守りで管理できることから北海岸全域に同じシステムを導入
三層に5個ずつの銅製のランプを設置するものだが
魚の油を燃やしたので炎が不安定で油煙が上がりガラスが曇り
熱でガラスが割れやすかっので
特に夜の暗い秋から冬の雨の降らない日にしか明かりを灯せない
1701年修道院から王室海軍が灯台を引き継ぐ
教会だけは維持する約束で
修道院は廃止され数動員の教会の塔だけ使い続ける



そして礼拝堂は完全な形で残った

明かりに引き寄せられた海鳥が飛び込みガラスが割れる事態が多発
金網で覆うが
光の多くが網の金属に吸収されて効率が落ちる結果に
大判のガラス板で囲うことをやめ
小さなレンズ型のベネチアン・グラスのガラスを沢山使い
菜種油を半分混ぜることで問題は大幅に改善
その時点で明かりの到達距離は30kmに及んだが
ガラスは頻繁に割れた

革命で修道院の残骸は売却されたが撤去されたが塔だけは売却リストに載らずに
破壊を免れた
1820年反射板も取り付けた回転式となる
30秒ごとに明滅を繰り返すことで照度が落ち
到達距離は24km

photo by Musée de la Phare de St-Mathieu

フランス海軍は
灯台設備を強化する決定を下し
修道院の廃墟の石材を使って新たな円形の塔を建てることとなった
1835年に完成した新しい灯台は地上高36m
海面から55m
発光装置が直径3,2m半曲面レンズ16枚
到達距離50km以上
で今日も使われている




地形的にやや海から離れている分だけ地面が高いので
新しい方の灯台に登ってみると古い方の塔との高さの差がわかる
右前方に
巻頭写真にもある「修道僧の像」が見える



今では
ベネディクト会の修道僧たちの努力を顕彰するために
修道僧の像が立てられている


今では原型をとどめない修道院聖堂(教会)の正面扉口と
現存する礼拝堂

 全体を海の方から見ると


こうなる

岬全体は『Plougonverin プルゥゴンヴェラン』という自治体に属するが
この辺りの海岸線にも
他のブルターニュ中の海岸線と同じく
戦いの備えのあれこれは数多く残っている

『Toul-Logot トゥル=ロゴ』と呼ばれる「字(あざ)」には
17世紀の王室軍の砲台の遺跡が埋まっていた





現在も『フィニステール県」の主導で
発掘と一部再建作業だ続けられている

かと思うと『Bertheaume ベルトーム』という地区には

『Fort de Bertheaume ベルトーム要塞』
「ブレスト港」を守る砦が残っている

かと思えば


第二次大戦中
フランスを占領下においてドイツ軍が
連合軍の上陸作戦に備えて作ったトーチカ(砲台兼塹壕)もある

『Bunker de l'Armée Allemende ドイツ軍のトーチカ』

今は『第二次大戦 戦争博物館』となっている

もちろん戦争だけではありません
平和を求めて当然教会は各集落にある


『Eglise Saint-Gwenaël 聖ゲナエル教会』

なんと
正面ファサードに点々と宿り木が生えてる
当然「アンクロー」には「カルヴェール十字架」が


古代の石碑を削り直して作られていたり
さらには


鉄器時代の二機のメンヒルが
キリスト教布教時代にテッペンを十字架に掘り直されて
残っていたりもする


※  ※

この「プルゥゴンヴェラン」の北側に隣接する
隣町にも寄ってみよう
『Le Conquet ル・コンケ』

『Quai du Drellach ドレラック波止場』

急にのどかになります

『Chapelle Saint-Michel de l'Eglise Notre-Dame de Bon Srcours』

善き救いの聖母教会の聖ミカエル礼拝堂
中は
とっても素朴です


木製の青い天井はお約束通り

この町のシンボル的な建造物はというと
これ

『Maison des Segneurs 殿様の館』

海側に向かっての眺め

上流に向かっての眺め

城壁の上からの眺め


中庭の扉

正面

通りに面した正面は以外と平凡な田舎家の風情
こちら側は18世紀に作り直された

湾に面して完全防備の施された方は1505年頃の改築になるそう



日の出と共に

古い家といえば
17世紀の民家

『Manoire de Cosquiez コスキエ屋敷』

こんな立派なのもあれば


こんな庶民の棟割長屋風もあったりする

では今回はここまでにしましょう
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 13 < フランス北西の玄関 ブレスト > 荒海の地の静かな港

2021-02-26 00:18:47 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : Océanopolis (水棲動植物館)の「ホッキョクグマ」

荒海と信仰とケルト文化と巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
13


ブルターニュ半島の最西端は
大きく分けて
南北に三つに枝分かれしている
その一番北の部分と中央の部分とに挟まれて




それぞれの海岸線は土地が非常に不規則に千切れていて
北と南の大きな枝に守られて
真ん中に嵐から守るように地形に囲い込まれた港がある
『Brest ブレスト』


港まつりに集った帆船の一隻

まずブルターニュの天候の特徴を理解して欲しい
特に冬季に大西洋上に巨大低気圧が発達し
左回りの腕の先端が
フランス北西の先端の角『ヴルターニュ』をかすめてゆくことが多いのです

photo by ⒸNASA Worldview

右端に離れた逆くの字の白い部分がブルターニュ辺り

年に数回の大潮の際に悪天候での満潮時には『サン・マロー』の海岸通りなど
こうなります



そんな条件下で
『ブレスト』の位置は二重三重の防護をまとった港として
フランス北部の軍港としての役割を不動のものにしてきました

1637年ルイ13世の御代宰相リシュリューが軍港を開く
1857年ナポレオン3世の援助で商業港が開設



フランス海軍探査ヘリがいたりします





乾ドック 1

乾ドック 2

乾ドック 3

『Atelier des Capucins 旧海軍工廠』

ここ「カプサン会」の丘に17世紀末にヴォーバン元帥の手で僧院ができ
革命中に革命政府海軍兵舎が入り
1841年に『フランス海軍工廠』となり2004年まで使われた
その後
複合文化施設に転用

車やトラムでもいけるが
ロープウエイで行く事が好ましい
港を鳥瞰できる




鉄を溶かす「溶鉱炉」やあらゆる工作機械が撤去された
建屋の一つ

2011年に土地ごとブレスト市が買い取り
衣替えが行われた結果


上の写真の建屋はこうなり


「美術館」「文書保存館」
「IT図書館」「音楽学校」「劇場」
などが入った複合文化センターとなった

ホールでのダンスのパフォーマンス

IT図書館の閲覧室


カフェ

外のテラス




ところで
湾に面する広大な港湾施設から
ドックや工廠などのある内港に入る左右に
昔からの塔と城塞とが残っている


左に『Tour Tangy タンギィの塔』
右に『Château de Brest  ブレスト城』の石垣
が見える

『Tour Tanguy タンギィの塔』

百年戦争序盤の1380年代終わりにブルゴーニュ公爵ジャン4世が
ブレスト城を占領していたイングランド軍に対抗するために建てた2つの塔の一つ
イングランド軍ランカスター公爵に破壊されたがより強固に再建
90年代にイングランド軍は退却し
その後塔は地元の武将タンギィ家の手に渡り
以来この名で呼ばれる
1980年代に市が購入し大改修を行って現在は市の歴史博物館

城下埠頭

港まつりの日

「タンギィの塔」から「城」を見る

「城」から「タンギィの塔」をを見る

『Tours de Paradies 天国の門』という名の大手門


「天国の門」を内側から見ると平になってる

中庭
城の中は「海洋海事博物館」になっている



イヴ・コレ作『海神ネプチューン』
イヴ・コレは18世紀後半から19世紀前半に活躍した
ブレスト生まれの彫刻家

1930年代の大型駆逐艦『ヴォークラン号』の操舵パネル(本物)



潜水艦 POCHE S 622
この港湾警備用小型潜水艦「ポッシュ型」は4隻建造され
この『S622』は
アメリカ海軍の要請により米国に貸し出され
サンディエゴで60回ほどの作戦行動を行ったのち
戦後フランス海軍に返還され
一般広報用に放出されたもの





ブレストは
対戦中占領していたナチス・ドイツ軍に対抗する米国の空爆などで
かなり被害を受け
街中は再建されて新しい

市役所前を走るトラム



『ブレスト大学文学部・尋問科学部校舎』

文化財級の建物といえば

『Maison de Crosnier クローニエ館』
アールヌーヴォー期の建築で
ブルターニュの二箇所の産地の花崗岩と
一箇所の石灰岩(非常に少ない)と煉瓦とで建てられている


『Maison de la Fontaine 泉の家』

ブレスト周辺でもっとも古い家の一軒
17世紀末から18世紀初頭にかけての建築



かつての海軍兵舎の一部にあったポルシュの名残
移築されて海岸同地にある


海軍工廠になる前の
最初の僧院時代の神学校の門

ところで
新しいものといえばこれも是非あげておかなければならない
『Océanopolis 水棲動植物館』


ここは
古典的な意味での水族館に
水棲動物と熱帯雨林やマングローブなどの水棲植物を集めた部分とを融合させた
大規模「ライブ・ミュージアム」なのです


このような伝統的な水槽から
巨大水槽
大型小型魚類
烏賊・蛸・蟹・海老・雲丹・磯巾着・海月・ウミガメ
などなど
さらに
イルカ・ペンギン・アザラシ・ジュゴン
果ては
ラッコ・ホッキョクグマ
に至るまで何でも取り揃えて皆様のお越しをお待ちいたしております
なのです




















もちろん
このブレストは軍港だけではありません

まず新造民間船の進水前の艤装ではフランスで一番の扱い高ですし
商業港としての機能も大きい
大型客船も来る
プレジャー・ボートの停泊数も大きいんです



最後に興味深いものを一つご紹介しておこう
『ブレスト地下火力発電所』


戦後間もない頃
ブルターニュの発電量が需要に対して下回るようなことがあるときの
緊急給電ようとして火力発電所を計画した
戦争体験から
その発電所を破壊から守れるように
岬の岩盤を掘り抜いて「地下発電所」にした
建設はフランス海軍の協力のもと1947年から1951年にかけて行われ
1961年に
外側にガスタービン発電機を増設(写真で分かるとおり)
主な顧客がブレストの海軍工廠だったことからも
「地下式」などという難工事を選んだ理由が推測できる

1986年で操業停止となった

おまけ

『Joseph William Turner " Port of Brest The Quayside and Château』1826〜28
=   =   =   =   =   =   =   =   =   =
ご感想ご意見ご要望をお待ちしています
旅行の実態にご興味のある方は以下のサイトも御覧ください
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ブルターニュ紀行 12 < ランディヴィジオー と ランデルノー > エローン川に沿って 徐々に西の果てへ

2021-02-25 00:06:43 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『上に人の住む橋 呼ばれる ド・ローアン橋』ランデルノー

荒海と信仰とケルト文化と巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
12


先回の「ギミィヨー村」のすぐ北西に隣接するほどの近さで
『Landivisiau ランディヴィジオー』

この村は見るべきものはさほどないが唯一
やはり教会だ

『Eglise Saint-Thuriau 聖テュリオー教会』

この教会の尖塔は殊の外細くて高い



ポルシュ

「ポルシュ」とは英語のポーチで
入り口の囲い部分
左右に壁があり前方が扉で入り口には扉がない

ちなみに
入り口にも扉があれば「ナルテックス」と言います


ポルシュ入り口左の柱部分




右の柱部分



ポルシュ屋根部分の装飾



 このポルシュを入る時両側で聖人たちがお出迎え

左壁

右壁


身廊

天井が赤いのが新鮮だ

内陣

内陣突き当たりに
かなり大規模なトリプティック(三折祭壇画)がある

あまりない数少ない壁の装飾


中央の大天使聖ミカエルに護られた幼子イエス
左に聖母マリア
右に当時のレオンの司教


中央の」十字架から降ろされたイエス
左右は不明


『大天使聖ミカエル』


『Chapelle Sainte-Anne 聖アンヌ礼拝堂(旧納骨堂)』

この教会のアンクロはそれほどのものではないが
納骨堂はちゃんと残っていて
いつしか礼拝堂に帰られていた

同 側面


ここのアンクロだった柵の一部に噴水(フォンテーヌ)がある





鉄器時代からの湧き水らしく
5世紀に修道院が作られた際に修道院の取水口となり
その後
村の共同洗濯場などに利用されていった

















※  ※

さらに村域内の『Commana コマンナ』地区に
「アンクロー」のみるべき教会が一つある

『Enclos paroissial de Commana コマンナ教区アンクロ』

『Eglise Saint-derrien de Commana コマンナの聖デリエン教会』後陣からの姿

本当はそうではないのだが二身廊形式の様に外陣が二つある
文字数の制限で書かなかったが
昨日の「ギミィヨー」の教会も二身廊の様に見える造りだった

南のポルシュと尖塔

この角度から見ると
上でご紹介した『ランディヴィジオー』とそっくりだが
ポルシュ上部の造りなどこちらの方が複雑で重厚


内部の様子も
今までのものと似た雰囲気で共通点が多い


身廊



右副身廊と側廊

南副身廊のルターブル


南翼廊の礼拝堂のルターブル





左(北側)副身廊

左副身廊のルターブル

同 ディテール

同 ディテール


『洗礼水盤と天蓋』

天蓋の支え柱


そしてお約束の『カルヴェール』です




「カルヴェール」は今までのところよりはるかにシンプルですが
普通はこの程度です
これでも全国的にブルターニュ以外では見られない十字架なのです


納骨堂を背景にカルヴェール

納骨堂

同 ディテール




アンクローの外から
『勝利の門』『納骨堂』『教区教会』
を振り返る

※  ※

では
ここからさらに西へ『エローン川』に沿って15kmほど
『Landerneau ランデルノー』
まで行ってみよう

この光景が
この町で一番名高い光景


「人の住む橋」
という別名で呼ばれる『Pont De Rohan ド・ローアン』橋

見ての通り
家が橋のように川をまたぎ
水は下を流れる


この橋は1510年にそれまでの木造の橋の代わりとして架けかえられた
すぐに橋の上に商店が二軒建ち上階には人が住み始め
橋の中央は水車小屋ができた
水車の建物の上も住居となり
漁業代官所やふた部屋の牢獄すら置かれたそうだ

以来500年間
未だに人が上に住むヨーロッパで唯一の橋として今日まで続いている
1639年には裕福な貴族が
橋のかなりの部分にルナッサンス様式の館を建て
店舗は舞踏会場となった


19世紀には公衆浴場も作られたとか

反対側から見ると


一部こんな具合の「Ardoise 粘板岩」の瓦を張り巡らせた家が
並んでいて
それはそれで興味深い

そして現在は横に新しい橋が架けられて
両岸を簡単に行き来できるようになった

『Maison Guillard ギヤー邸』

この家は「橋の上」の家の一軒


やや引いて見る

「アルドワーズ」葺きの古民家といえば
町中にこんな家もある

『Maison de la Duchesse Anne アンヌ公妃の家』

名高い最後のブルターニュの女性公爵の名前が付いており
別名『ド・ローアンの家』とも呼ばれる

横から見ると規模がわかる



アルドワーズといえばこんなのも




その他特徴ある文化財級の建物といえば

『Maison Duthoya デュトヤ邸』

裕福な船主出会った「デュトヤ」家の建物
この辺りに来ると
黄色とグレーと赤に近い3種類の花崗岩玄武岩が取れ
混じり合って使われている

その他にも




では
今回はここまでにしましょう
=   =   =   =   =   =   =   =   =
皆様のご感想ご意見その他何でもお待ちしております
PCでご覧の方は右下の「コメント」ボタンから
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ブルターニュ紀行 11 <サン・テゴネック と ギミィイヨー> で カルヴェールを識ろう

2021-02-24 00:06:25 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : ギミィイヨーのカルヴェール(部分)

荒海と信仰とケルト文化と巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
11


ここらで海から離れて内陸をご紹介してみよう

キリスト教化がやや遅れた事と
イタリアからの使徒に布教された南部や中央部と違って
ブリテン島からケルト人の教徒が布教に来て
ケルトの価値観が入った宗教観を
ケルト人のブルトン人(ブルターニュの民)が受けた
というニュアンスが
独特のキリスト教を作り出した

ローカルの聖人たちへの信仰
独特のキリスト教の祭り
独特の教会建築

などなど

祭りとしては『パルドン祭』があるが後日に回して
今回
徐々に触れてきた『アンクロ』と『カルヴェール』の
最高峰に触れてみよう

「モッレー」から西南西の20km
『サン・テゴネック』『ギミィイヨー』
という
名高い二つの「アンクロ」がお互いに近い位置に存在している

※  ※

『St-Thégonnec サン・テゴネック』


勝利の門から『アンクロ』を望む


『Eglise Notre-Dame de St-Thégonnec サンテゴネックの聖母教会』

「アンクロ」内にある教区教会『ノートル・ダム』


『Porte triomphale de l'Enclos アンクロの勝利の門』
外から中を覗く


内側から

最後の審判で勝利する第一歩の
死者が潜る勝利の門





「カルヴェール」全景と納骨堂



『カルヴェール』の基壇部


別の面


基壇部 一部




カルヴェール十字架先端部



上の写真の反対側


十字架部の基部

教会内部は
本体の彩色は多くはないが備え付けの祭具はカラフル

内陣奥





左端は説教壇



その登壇階段の手すり


壁の最上部の位置を左右に支える梁も上に
木張りの天井の彩色も非常に穏やか
イエスと左右に聖母マリアとマグダラのマリアが飾られていた


洗礼水盤は花崗岩の一枚岩を磨きだして作られている


『Triptique 三折祭壇画』

ところがこの「トリプティック」は板絵ではなく
彫刻を使った箱仕立てで非常に珍しい
仏教でいる「厨子」みたいだ


『L'Ossuaire 納骨堂』



納骨堂から勝利の門を見る


勝利の門を出てもう一度ふり返ろう

全景


 ※  ※

次に
『Guimiliau ギミィイヨー』



勝利の門からアンクロを望む




『Eglise de Saint-Guimiliau 聖ギミィイヨー教会』


『Portail  ポルタイユ 教会正面扉口』
入ると奥にもう一つ扉口がある「ナルテックス」の形



ナルテックス両側の聖人達






上を仰ぎ見ると圧倒的な印象を受ける


身廊
天井の梁にイエスと聖母とマグダラのマリアがいるが
「サン・テゴネック」のとはポーズが違います


パイプオルガンが不思議な置き方をされている
大きなパイプオルガンを設置したかったのだろうが
天井高が足りない
床に置くと音響効果を妨げる


ということで
こんな風にとても低い位置に細い柱で持ち上げられているのです
ヨーロッパ中で初めて見た


洗礼水盤の天蓋は木彫
上部は金箔貼り



水盤自体は花崗岩製


いくつかある「Retable 祭壇衝立」が
大変に手が込んでいる
ほんの一部(下部中央)だけ拡大してみると




壁や柱のそこここにも






そして
肝心の「カルヴェール」です


基壇が大掛かりで彫刻群も『サンテゴネック』の物より複雑















イエスの十字架磔刑

最後の審判で地獄行きが決まり怪物共に喰われる悪人たち

ロバでエルサレムに入るイエス
















基壇部の彫刻群が複雑な替わりに
十字架上部はとてもシンプル


そして納骨堂



※  ※

おまけでもう一箇所
ギミィヨーの「あざ」『Lampaul-Guimiliau ランポール=ギミィヨー』


教会(左)と納骨堂(中)と勝利の門(右)が繋がっている


勝利の門の上にもカルヴェールがあり
門を通して奥にあるカルヴェールが見えるが
どちらもシンプル

納骨堂


カルヴェールから振り返る



ここは教会の中が素晴らしいのです














こういうカラフルな「ルターブル」がいくつもあります

では今回はここまでにしょましょう
=  =  =  =  =  =  =  =  =
ご感想やご意見をお待ちします
実際の旅行に関しては以下のサイトにどうぞ
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ブルターニュ紀行 9 <サン・ジャン・デュ・ドワ から シャトー・ロザンボ そして モッレ> 教会と城と街を巡る

2021-02-22 00:43:35 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『Château Rsanbo ロザンボー城』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう


バルルネーズから北東にほんの少し行くと
『サン・ジャン・デュ・ドワ』という村があって
そこの教会がちとばかり面白い

『Eglise Saint-Jean Baptiste 洗礼者聖ヨハネ教会』

人口700人居るかどうかという村にしては
規模が大きい

なぜなら
村の名前が『Saint-Jean du Doight 指の聖ヨハネ』という
不思議な名前で
なんと
ここに聖遺物『聖ヨハネの指』があるのだという

結論から先に

『Reliquaire du Doight de Saint-Jean-Baptiste 洗礼者聖ヨハネの聖遺物 』

金と銀を使った聖遺物が入った容器
中にはイエスに洗礼をした羊飼いヨハネの指の骨の破片が
入れてあると
信じられている


上の「聖遺物櫃」を収めるための容器

要するに「イワシの頭」な訳ですが
そう言ってしまうと身も蓋もないですからね




本体は正面も裏側もほぼ同じ形で
正面側には
鐘楼が脇に立っている


南側側面には
翼廊の入り口と並んで礼拝堂が一つ張り出している

献堂された『聖ヨハネ』の像は
羊飼いヨハネの姿のお約束通り毛皮を身にまとう


これまたお約束で
横に『Enclos アンクロ』が付随している

これはブルターニュの信仰と文化との伝統の一つ

文字通り「囲まれた」という意味で
低い仕切り壁で囲まれて
中にブルターニュの十字架を発展させた『Calvaire 道行きの十字架』
墓地と共同納骨堂などがある敷地の事

『Arc triomphal de l'Enclos アンクロの勝利の門』

囲いの一角には
「最後の審判」で天上の楽園に行く勝利を目指して死者が潜る門『勝利の門』がある


門をくぐった内側の上で「至上の神」が見下ろしている

敷地内には

『Oratoire du sacre 聖別祝祭の祈祷所』

これはキリスト教の祭礼の際の有力者の休憩所であり
葬式の際の野辺送りの場であった

さらに納骨堂がある

『Ossuaire de paroisse 教区納骨堂』

墓地のスペースには限りがあるので
25年とか50年とかの契約が終わる時に契約更新をしてくれる子孫がいなければ
掘り起こして納骨堂に収めるのです

この『Enclo アンクロ』は
ブルターニュでは特に伝統的に守られてきた構造で
『Calvaire 道行きの十字架』
という
イエスの処刑までのプロセスを彫刻群で飾った十字架彫刻群を競って
今でも素晴らしいものが何箇所も残っています


※  ※

では「サン・ジャン・デュ・ドワ」を立って
海岸に近い橋からまた内陸の方に15kmほど下って
お城を一つ訪れよう

『Château de Rosanbo ロザンボー城』

14世紀の古城の基礎の上に16世紀に屋敷を建て
17世紀に拡大されて現在の規模となった
『Bô ボー』川の峡谷を見晴らす高台にあり

ブルトン語で「ボー川の上にある岩塊」と言う意味の名前がついたそうです











鳩小屋

もちろん食用鳩ですよ

同 内部

『Charmilles クマシデの並木』



このトンネル状の並木は2500mも続いている

内部は一部屋だけご紹介



フローリングが古色蒼然とした輝きを持っている






※  ※

前日の横切ってきた
『Morlaix モッレ』の街まで引き返そう

海のそば迄ほんの5〜6kmで最大4km幅はありそうな『モッレ河』
が街のあたりではまだ狭いとはいえ
両岸は高くその下に街がある
ブルターニュ北岸の町々と同じように
だから国道や鉄道が高架で横切る



これは19世紀半ばの鉄道橋
道路はもっと大回りして町の中心部上は通らない

この町でいちばんの名物は
『アンヌ公爵の家』
と呼ばれる16世紀の家なのです


写真が傾いているわけではなく家が傾いているんです
500年の時の流れで片方に傾いでしまった
中の部屋はしっかり水平な床に作り直してあるのですよ
古い木造家屋ではごく普通の光景なんです
それより
外観は以外と他にもありそうな木組みの家ですが
この「モッレ」だけの独特の家
『Maison Pondalez (Lanterne) 明かり取りの家』

教会の祭壇上の天井だけ他より高くしてあって
テッペンの周囲に開口部があって光が入ってくる
そんな造りがあります
「Tour Lanterne 越し屋根の塔」と言いますが
これは
家の中に広い空間が最上階まで吹き抜けているのです




「モッレ川」が街を出ると急に広くなり始め
5〜6kmで幅が4kmほどまで広がり
海に注ぐに当たって東の岸の一部が堤防のように張り出して
出口自体は1kmほどにせばまる
つまり港として最適なわけです
「Morlaix」は特に「麻」の貿易で財をなした大商人が
好んでこのような家を建てた

外観は普通の家に見えて
中は広々
明かり取りの中央吹き抜けの一方の角に螺旋階段を持ち


樫の木で
真ん中の「通し柱」は上まで継ぎ目なしの一本柱
この家は4階建てで
16mの通し柱はびっしりと彫刻が
元材からそのまま掘り出して飾られている


4面の壁の内側に部屋があり
大家族と奉公人とが一緒に暮らせて
貿易会社としての執務室や商品の倉庫も兼ねられる規模がある

周りの壁の柱や梁にも彫刻が





これは階段から途中の部屋に入るところの壁の柱



通し柱の最上部

そして階段の各階のの位置に
階段から直接入れる部屋を通り抜けなくてもそれ以外の部屋に行けるよう
渡り廊下がある


そして
暖炉自体がまだ贅沢で城の王公の居住部分などにしかなかった15世紀に
まるでお城の大広間のような大暖炉をつくる





裏側の地上階は厨房であった



階段の内側はこんな感じ


正面の玄関口は
頑丈な花崗岩の柱で支えられている



この町の名物のもう一つは
意外なことに「鉄道高架橋」なのです
19世紀半ばの石造だから美しくないと言えば嘘になる



『Port et Viaduc de Morlaix モッレの港と高架橋』
Félix Benoist 1865

その高架橋のすぐ下に教会が一つある
『Eglise Saint-Mélaine 聖メレーヌ教会』


15世紀後半に立てるときに
将来のこんな光景は想像もしていなかったはずだろうが
決して低くない鐘楼の尖塔と高架橋を見比べてみると興味ふかい
何しろこの橋は58mの高さを単線の線路幅だけで300m近くの長さで
壊れることなく建っているのですからね







やはり高架橋は絵になる




高架橋と港は表裏一体





『旧 タバコ工場』正面

旧タバコ工場 中庭

なんだかカルメンが出てきそうなノスタルジーですね

では今回はこのくらいにしょましょう
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 8 <バルヌネーズ で 古代巨石文化に触れよう> 

2021-02-19 00:58:15 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : バルヌネーの『テュミュリュス(ケルン)』全景

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう


まず『ブルターニュ』の成り立ちを三行でまとめると

>5〜8世紀にノルウエーやデンマークあたりから南下してきた
ノルマン人やその他サクソン人などヴァイキングと呼ばれる北方異民族が
全欧を侵略しまわってブリテン島にも進出した時
異民族支配を嫌って大陸側に逃げてきた民族が住み着いた土地

>従って南西イングランドのコーンウォール地方やウェールズと同じ民族で
その後のローマ化の影響を受けにくかった北方辺境系のケルト族で
独特の宗教観と言語と文化を受け継いでいる

>従って16世紀後半までフランス王の支配下になく
ブルターニュ公爵の支配する独立国『ブルターニュ公国』だった

と言う事で
フランスにあってゲルマンともラテンとも違う民族文化が色濃く残り
世界中に分布しているとはいえ
南イングランドやウエールズにあるような古代巨石文化遺跡が
ブルターニュには特に多い


遺跡は大別すると三種類ある

まず『Menhir メンヒル』
縦長の一枚岩を地面に垂直に立てたもの

『Menhir de Cailouan カイルアンのメンヒル』


次に『Dolmen ドルメン』
両側に立てたメンヒルの上を平らな岩を並べて塞いだもの

『Dolmen de Crucuno クリュキューノのドルメン』

三番目が「Tumulus テュミュリュス」
これは「ドルメン」を砕いた石で覆い被せたもの
かぶせた石がそのままむき出しで残ったものは「Cairn  ケルン」と呼ばれることもある
氷河が運んで積み上がった石
それを模倣して登山家が山頂に積む石の名前から


『Tumulus de Kercado ケルカドーのテュムリュス』

おそらく墳墓に近いものだという解釈もあって
ピラミッドや前方後円墳もテュミュリュスの一種だと言う事になる


今日の目的地は
トレブルデンのすぐ南の町「Lanion ラニオン」から西に35kmにある
「Morlaix モッレ」から海の方(北)へ
湾としか呼びようのないだだっ広い「モッレ河」右岸を下り
右側に「Anse de Terenez テレネー入江」という入江に挟まれた
細長い岬の先端まで10kmほど行くと突然見えてくる
『Tumulus de Barnenez バルヌネーのテュミュリュス』

南側側面の全景

これは
いつの時代かか被さっていた土を全部取り除き石積みがむき出しなので
「Cairn de Barnenez バルヌネーのケルン」
と呼ばれることもあり
11のテュミュリュスをつないだ集合型のタイプ


丸いところがいわゆる玄室だろう


上の全景とは逆の北側の一部で
左から「C・B・A」の玄室の順だがむき出しになっている
これは
いつの時代かこの場所が「石材採取場」として利用された事により
表面を覆っていた石が持ち去られた事によるそうです

玄室 A

平面図を見ていただくとわかるが
この辺りの構造はなくなっているのでむき出し状態

玄室 B

こちらは「A」と違って「ドルメン」部分が残っている(復元された?)


『玄室 C』

元来向こう側から玄室に至る「玄道」が空いているのが見える

『玄道 C』

南側の側面から玄室Cに至る玄道
向こう側が壊されていなければ光は見えないはず

ところでこの「テュミュリュス」は3段階に拡大されてきたらしい

東側初期部分


玄道玄室の濃い赤の点線は縦石(メンヒル)が残っている部分

写真はこの図面の右側から撮ったもの
右側薄黄色の「Massif est」とは覆いの盛り石の負荷を止める基礎で
写真の手前一番下の段

『玄道 J 入り口』塞いである

『玄道 I  入り口のドルメン部』

左下の「圧力止め」がドルメン左のメンヒル部を隠しているが
昔は全部右につながって隠れていたはず

第二段階が西側半分



ほとんどの玄道の入り口は塞がれてしまっているが

『玄道 E の入り口のドルメン』

上の図で分かるとおり「玄道 E」は縦石はほとんど残っていないが
この天石は相当のボリュームがありそうだ


『玄室 D』

むき出しになっている玄室D
その玄室Dに至る玄道の入り口が

『玄道 D へのエントランスと玄道』

このテュミュリュスは
おそらく新石器時代のもので
前段階部分は紀元前5010年から4400何の間
後期段階部分は紀元前4550年から3895年の間
だろうと推定されている
エジプトのギザにある三大ピラミッドより2500年ほど遡ることになる

素粒玄武岩と花崗岩が使われている



改めて北側側面の全景を見ると
左半分の初期部分が整然と残り
右半分の後期部分が壊されて変形してしまっていることがよくわかる

改めて南側面を見てみると

南側側面 玄道B入り口あたり

南側は破壊されていないので
玄道B入り口を挟んで「圧力止め」の基礎が二段に組まれていることがわかる

このような小さな写真と限られた字数ではわかっていただけないが
11ある玄道と玄室は
全て構造が違い
メンヒルとドルメン構造
縦は切石乾積み構造
縦横共石積み構造
と別れて
権力者の家族の墓などではないだろうとの意見が確立している

死者の世界と生者の世界の橋渡しを意味する
シンボリックな存在として造られたのだろうと思われている


それから
この写真を見て分かるとおり
実は平地にあるのではなく結構な斜面に存在しているのです

今はほとんどの玄道が塞がれてしまっている





昔は自由に出入りできた




これと次とは
「危険につきこれより立ち入り禁止」
という赤い看板が置いてある玄道もあった


中から海が見える光景は
今日ではもう望めない


世の中
どんどん息苦しくなっていきますねえ

最後に
なくなってしまった部分を無一度見てみよう

Photo by @FinistereTouring


上の俯瞰写真とほぼ同じ角度で
左から「玄室 C」
むき出しのドルメンが「玄室 B」
右端の黒いところが「玄室 A」
手前に石が一列に並んでいる線が壊される前の輪郭の位置

玄室Bのドルメン




先端部の基壇(負荷圧止め)



場所によって基壇の組み方や高さ角度も違うのは
一度で全部の形に作り上げたからではない証拠とも言える

そして
岬も先端はもうすぐそこ



おまけ

そのすぐ近くの海の
陸地からすぐ近くに
こんな面白い城があります
『Château de Taureau 雄牛城』


一応「Château」という名前なので「城」と書きますが
要塞ですね
この辺りは手を伸ばせば届きそうな範囲に島だらけなので


岬は向こう側です


角度を変えると


こんな感じで

塩がひくとこうなる




では今回はここまでにしておきます
次回をお楽しみに
ブルターニュはまだまだ続きます
=   =   =   =   =   =   =   =   =   =
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ブルターニュ紀行 7 <ラニオン から ル・レゲー川にそって ケルフォンの礼拝堂まで>

2021-02-18 00:25:07 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『Chapelle Notre-Dame de Kerfons ケルフォンの聖母礼拝堂』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう


昨日の「トレブルデン」からすぐ南に隣接する町が
『Lannion ラニオン』
と言います

起起伏あり都会の街並みあり旧市街あり
でも
なんとなくだだっ広い空間という感じの町


展望ポイントから見るとこんな感じで
テッペンに教会があるいつもの村みたいに見えますが


町でイチオシの光景はこれ
いずれも「中世風の」しかしそれぞれ違うデザインの家が連なって
本当に素敵です

右の角から三軒目が

『Maison de Chapelier 帽子屋の家』

16世紀の愛称「帽子屋の家」と呼ばれる建物
城や館の屋根に使う高価な粘板岩の瓦「アルドワーズ」を
壁全面に貼るのは「ノルマンディー」にもあるやり方で
海からの潮風を受ける場所に多い建て方のようだ

斜面の一番上に教会


アクセスは複数あるが
階段が教会堂に向かうには一番相応しいような気がするのです






南側翼廊の扉口の上に
細い塔が三本立ち上がっているのが珍しい


石造りの重量感を圧力として感じるのが
ブルターニュの建築物ならではの特質





天井は木製


外壁の一角に日時計がある
1778年と言う数字が誇らしげに見える

もう一つ別の教会もご紹介しよう
『Eglise Saint-Jean-de-Baly バリィの聖ヨハネ教会』

正面

この教会も高いところにあることがわかる

ラニオンには修道院も複数あります

『Monastère Sainte-Anne 聖アンナ修道院』

『礼拝堂』

もう一つ

『Monastère Sainte-Ursuline 聖ウルシュラ会修道院』

「サン・ギレック(プルマナック)」の岬の目と花の位置にある
『Grande-Ile 大島』
の白い花崗岩で作られた

中庭

町は『Place Centrale 中央広場』を文字通り中心として機能している




街中を『ル・レゲー川』が流れ
一部にカヌーのコースを作ってあった



『Le Léguer ル・レゲー川』

郊外に出ると例によって結構な川幅で
数十キロ海に近づくと入江さながらとなる


そのル・レゲー川を本の7〜8km遡る(南下)と
『Kerfons ケルフォン』
と言う小さな集落に特筆すべき礼拝度yがあるのです
『Chapelle Notre-Dame de Kerfons ケルフォンの聖母礼拝堂』


『Chapelle Notre-Dame de Kerfons ケルフォンの聖母礼拝堂』

外観からして見事な造形美

通常の十字架型ではなく「T の字」型でこの地方独特のもの
中央身廊の先端から南北に礼拝室が二つある
この写真手前は南側


側面に小さな「コーナー」を作ってあって
一枚岩を掘った十字架が立っている
角度のせいで分かりにくいが
上に十字架上のイエスの像やマリアとヨセフ等が表裏で立っていたりする




これは「アンクロ」と言ってブルターニュの非常に重要な特有の構造物で
今後ブルターニュを旅して行くときに必ずご紹介しなければならない
テーマになります


入り口能ある側の上の
鐘楼ならぬ鐘塔へ登るための階段もユニーク


扉口

そして入り口はもう一つあって


その扉の


扉上部には「受胎告知」のレリーフ

中に入ると
そこは驚嘆の世界が広がる

『Jubé 内陣仕切り壁』

スペインの教会には多いが
初期中世の頃までの教会は
西側正面入り口を入って身廊の奥にある祭壇が仕切り壁で隠されていた
つまり
一般信者席に座ると祭壇は見えない
その壁を「ジュベ」と言います
フランスでは17世紀には取り払ってしまった

この礼拝堂は
そのジュベの細工が素晴らしいのです


この「ジュベ 内陣仕切り壁」の奥が祭壇
その壁の一番上の梁の上に二体の彫刻






向かって左
ブルーの衣なので聖母マリア


となると右は聖ヨハネ


左端は大天使聖ガブリエル

左から二人目
天国の鍵を持つ聖ペテロ

その右
逆さ十字架に架かった聖アンドレ

右端は聖ヤコブ






右端がイエス・キリスト

ジュベをくぐって祭壇まで行って振り返ると




内と外と
左右につながる装飾帯の下に天使がぶら下がっている





















持ち物が違っていたり
同じ持ち物でも衣の色が違っていたり

その他
壁の前や角々
あるいは天井のアーチの立ち上がりの位置などにも
様々な彫像があるのです

『受胎告知』


『幼子イエスを抱くマリア』


『イエスの洗礼』


『イエスの復活』


礼拝堂の神父


司教様


『聖母子像』


どの彫像も
ロマネスクの戯画性もなく
ゴシックのオドロオドロしさや威圧感もなく
ルネッサンスの芸術性もなく
でも
極めて素朴で稚拙にも見える表現から
其々表されている対象の人間臭さみたいなものが感じられ
なんとも言えず魅入られてしまう


この礼拝堂は15世紀から16世紀にかけて建立され
「Jubé」は1480年頃の作らしい
美術様式的にはゴシック終期
木製で彩色

ということは決して古い教会建築というわけではないが
重要文化財です
=   =   =   =   =   =   =   =   =
皆様のご感想をお待ちしています
「どこが気に入った」「あれが好きだ」「これはそんな意味だったのか」「ここは好みではない」
年でも結構です「コメント」ボタンからどうぞ
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ブルターニュ紀行 5 サン・ブリウック湾にそって西進する <サン・ブリウック/サン・ケ・ポーリゥーを経て ケルマリア と パンポル へ>

2021-02-16 00:35:46 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 『ボーフォー大修道院』(パンポル)

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう



 前回に続いて西へ進む
逆三角形大きく切れ込んだ『サン・ブルウック湾』に沿って西へ

逆三角形の下の角に『Saint-Brieuc サン・ブリウック』という町がある
ここは都会

バスターミナルの工事現場もあれば


ブルターニュらしい
黒々として重そうな大聖堂もある

『Cathédrale Saint-Etienne 聖エティエンヌ大聖堂』

しかし
やはり海の前なので
湾の先端が両岸からかなり低く町の中心近くまで切れ込んでいて
そこを港に使い
わざわざ低い位置まで降りてこない国道が高架橋で上を横切っている

『Port de Légué レゲ地区ボート・ハーバー』

そして当然ビーチもあるし



「サン・ブリウック」を出て北西に進むと
『Saint-Quay-Portrieux サン・ケ・ポーリユー』という町

例によって
港と海岸とと別荘と



『Ile de la Comtesse 伯爵夫人島』

この優雅な名前の瀟洒な島が


干潮では陸続きとなるお約束


ハーバーはというと
見て下さい並んでいるポールを
上の方まで色が黒いでしょう
満潮の時間には水位がそこまで上がるのです
だから桟橋は固定できないので「浮き桟橋」で
岸壁にはタラップで上がる


港の出入口もこの通り
干潮時には航行できません

そんなこんなでこの町も通り過ぎて
もう少し北へ登って国道を「Plouha プルゥア」西に降りると
町の外れに
『Kermaria ケルマリア』という重文の礼拝堂が建っております

『Chapelle de Kermaris an Iskuit ケルマリア・アン・イスキット礼拝堂』

1200年代の初めに
十字軍帰りに地元の有力貴族の手で建立されたらしいこの礼拝堂は
教会として機能しているわけではないので閉まっています

でも
こういう時のお約束は
一番近くのお家に行って尋ねると「鍵」を貸してくれるのです

入り口は横にある「ポルシュ(ポーチ)」から


そのポルシュの左右に
往時の色彩を感じさせる彫刻が並んで出迎えてくれる




ポルシュの天井も彩色が残る


内部に入ると
身廊の天井は木製


左右の壁の上部にもフレスコが残る


このフラスコは
リドゥレー・スコット監督の英米独合作映画
『死者の王国』
のテーマとなったことで知られている

『死者の舞踏』

何気なく置かれている彫像も良い感じ

『Saint-Eloy 聖エロワ』

この聖人は「鍛冶屋」の守護聖人

『Archange Saint-Michel 大天使 聖ミカエル』

いずれも
年代的にも中央から遠い地方文化という観点からも
素朴極まりない表現が実に素晴らしい


平面図十字架の頭部「外陣」と南側横木「翼廊」の部分を後ろから見る
北側横木に当たる翼廊は造られていない
と言うより
翼廊はもともとは造られなかったようだ


この「ポルシュ」も最初の建立時より後だと思うが
翼廊よりは前だろう
手前に十字架だが
一枚岩で切り出したゴツい十字架はブルターニュの特徴で
感動の分岐点などにもよく見られる
お地蔵様みたいな物


ポルシュ外側のの上部の角に「テラス」状のものがあって
ユニークだ

ポルシュの奥
堂内に入る扉の上の壁には『聖母子像』



そして本来なら入り口がある西側はただ壁だけ



南側側面の全景


では
ここを発ってすぐ北側5〜6kmの『パンポル』という港町へ向かおう

『Pampol パンポル』
は「マルゥイーン」海賊の拠点の港の一つだった

町に入る直前に修道院の廃墟がある
『Abbaye de Beauport ボーポール大修道院』
ここもフランスの重要文化財

Nef 修道院聖堂の身廊部
正面扉口(ポータイユ)の方向を振り返って

逆方向
奥の祭壇方向に向いて

Grande Réfectoire 大食堂跡

反対側の壁


Salle de Duc 公爵の間

この大修道院を立てたのは
前の「ケルマリア礼拝堂」を立てたのと同じ地元の公爵家だが
その公爵の主君に当たる『ブルゴーニュ公爵』のための広間が
用意されていた
普通修道院には暖房用に暖炉はないが
ここは特別に二つもある


Salle capituraire (Salles des Capitres)入口

Salle capituraire 参事会運営会議の間


Gisant de l'Abbé Hubert ユベール院長の寝姿

名高い大修道院長だったアベ・ユベールの石棺


まるでお地蔵様のような優しげなお顔の石像もあった
その部屋の中にあったある時代の修道院長
おそらく石棺の蓋のビビんだと思われる



この辺りにたくさんあるローズ色の玄武岩を使い
黒い石や黄色い石を巧みに使って
色彩のコントラストが計算された建物だった



Cloître 回廊の一部跡

回廊部の手水
手足を清める水場があったようだ

回廊は聖堂(協会)と大食堂との間にあったが
内側のアーチの部分はほんの僅かしか残っておらず
その外側の壁の部分が残るのみ


僅かに残る回廊内側のアーチ列


こんなレリーフがあった
誰もがそこだけ触るのだろう色が黒くなってしまっている





回廊の跡は緑豊かなお庭になっていて
外からは想像ができない秘密の庭園といった趣

別棟には大小二つの酒庫もある

Grand Cellier 大酒庫

ブルターニュは
隣のノルマンディーと並んで葡萄の生育北限を超えている
今の時代なら栽培できるが
昔は葡萄は育たなかったので多分シードル(リンゴ酒)だろう

どこの修道院でも
ワインや蜂蜜その他銘菓などの「名物」を作っていて
現金収入源にしていた

今回の巻頭の写真は
この修道院の教会に隣接する貴顕賓客を泊める迎賓館のような建物で
その裏側が


正面側にも小規模ながら庭園のように設えられている



聖堂の位置からでも海はすぐそこ


当時は
敷地が海までそのままつながっていたという




さて
ここの町『Paimpol パンポル』にも行ってみよう


港の周りにレストランが多く集まっていて
とても賑やか


18世紀に「マルーアン海賊」商売で財をなした船主の家々が並び
楽しい港町です

前回から今回にかけて
三角形に切れ込んだ「サン・ブリウック湾」に沿う様に6〜70km
その間に中小の岬が50位あってご紹介し出したらきりがないのでやめました
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =
ご意見ご感想をお寄せください「コメント」ボタンからどう
旅行の具体論に関しては以下のサイトもどうそ
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ブルターニュ紀行 4 <フレエル岬 から サブロン・ドール と ヴァル・アンドレ に向かう> エメラルド海岸を西へ

2021-02-15 00:56:58 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 『フレエル岬』の先端の一つにある『ラット要塞』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう



「ディナール」から海岸線を西進しよう

かなり大きな岬
『Cap Fréhel フレエル岬』を訪れる

この辺りは
例によって海岸まで真っ平らな陸地が続き
海岸で急激に引き裂かれたように入り組んだ岬が現れたりする
中でも
規模が大きくよく識られているこの岬は
北部イングランドやウエールズの原野「ヒース」とよく似た
地形と土壌と植生とが見られる


時期になると
自生している「エリカ」が紫の花をつける


野生の動植物の宝庫だ

岬の先端には灯台が三つある


小さな写真で分かり難いが
最先端に小さな灯台があるのです


中世の終わりの頃から残る
ごくごく初期の灯台

そして
もう少し内側に二つ


手前に1701年建設の灯台
奥に現代の灯台と

1959年建設の灯台

灯台の写真は4月にしては好天だった
元来ブルターニュは夏でも南とは違って底抜けのブルーにはならない
夏場でも朝のうちは霧が出ることもある


同じような角度から違う天候の日に


どちらも
岬の先端に近い方から陸に向かっての光景です


陸が完全に平らなのでわかりづらいが
海面とは70m以上の高度差がある
こうやって崖を間近で見るとそれがよく分かる




この岬は
赤い玄武岩と黒い粘板岩でできていて
岩肌に縞を感じる

岬の最先端に近いあたりの数少ない砂浜に
波に削られた「赤い玄武岩」と「苦労粘板岩」の実物が見られた


玄武岩は花崗岩の一種で普通の花崗岩より色が濃い
粘板岩は古生代に泥が沈殿して石化したもので「硯」や「屋根瓦」に使われる

この「フレエル岬」の先端部は二股に分かれており
短い方の先に城塞がある

フレエル岬の先端近くから見た『ラット要塞』

ということで
『Fort de la Latte ラット要塞』
に行ってみよう


駐車場からしっかりした道で200m


入り口に「跳ね橋」があるのがお分かりになるだろうか


右端の城門にまず跳ね橋が一つあり
それを渡って「一の丸」(出丸)を突っ切ると次の橋と跳ね橋とで本丸に入る

本丸のさらに先の
一段下がった「二の丸」のテラスには大砲が沖を睨んでいる



「本丸」に入るには
上の左右に突き出した二本の腕木から鎖でぶら下がる橋を
城門の扉の位置の巨大で頑丈な思い木の扉が振り子というか重しの役を持って
上に引き上げる
その重しを止めるストッパーがあった


ここをくぐるとすぐ
メインの建物が残っている


この写真の左半分の建物の端の狭い部分をくぐって中庭に入る形になる



その中にある
守備隊長の居住区画




敷地全体の基礎の中に大きな地下室のような水槽があり
そこに雨水を貯めて沈殿させ浄化する


水の汲みあげ口が丸い井戸のように見えている


『le Donjon 天守の塔』


天守の入り口


天守の最上階の天井のアーチ


内側のアーチで支えられている円蓋の屋根の外側は
こんな風
左に四角い柱みたいなものは暖炉の煙突

この天守の最上階から下を振り返ると
この城塞の構造がよく理解できる


居住用の建物の斜め前
写真で手前の建物は礼拝堂
さらにアップにして「出丸(一の丸)」を見ると


そこそこのスペースがあることがわかる
そこに


パンを焼く石窯もあった

ところで
この城塞の名称が「Fort」となっているので
一応「要塞」と訳す

この「ラ・ラット要塞」から見た『フレエル岬』も見てみよう


あくまで大地は平ら
70mの断崖

※  ※

「ラ・ラット要塞」を後に岬の海岸線をさらに西に進もう

そのうち
『Sables-d'OR-les-Pins サーブル・ドー・レ・パン』
その名も『松林の黄金の砂』
という名の村に至る

その村に着く前に手前の高みから見下ろす


緩やかに弧を描く優美な長い海岸線
ちなみに
前方の岬の向こう側は『エルキィ』という名の小さな漁港

この「松の金紗村」は村というより
海岸にその名の由来と存在意義があるのです


上の写真とは逆向きに見ているが
この明るく輝く砂浜


見てくださいこの砂浜
お天気の良い日差しの強い日には正しく黄金の砂浜でしょう



ご安心ください


松林もちゃんとあります
エメラルド色の海も一緒に


この「松林の黄金の砂海岸」は美しい砂が柔らかく
広くて人があまり来ない
穴場中の穴場なのです

※  ※

そしてこの海岸線の西の岬を回り込むと
『Port d'Erquy エルキィ港』


この灯台のすぐ左が港


そして
岸壁に魚市場がある
一定の時間に競りが行われています


底引き網漁船からの荷下ろし

※  ※

さらに西に数キロ行くと
『Val André ヴァル・アンドレ』

この町は結構大きく
リゾート・タウンとしてしっかり機能している


こんな浜辺もあり


こんなのどかな光景もあり


プレジャー・ボートのハーバーもある

だがしかし

Photo by  marina.com

お分かりだろうか
これは駐車場ではない
たくさんの係留中のボートが引き潮で「陸に上がったマグロ」状態なのです

そこで
2kmほど先『Dahouët ダウエ』地区にもう一つ港がある


ここが入り口で


一番奥にプレジャーボートが係留し
漁船は手前の壁に横付け



こんな感じになってるんですけど
船の位置が低すぎますよね
これは目下引き潮だからなのです
満潮になれば舟べりが岸壁の高さを超えることもある
それでもっと低くなると


ブルターニュの干満の差恐るべし
続く
=  =  =  =  =  ==  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 3 <サンマロー から ディナール さらに ディナン まで> ランス川に沿って 訪れる

2021-02-12 00:52:13 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 『Dinan ディナン』の街角

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
ランスにあってフランスではない異世界をを訪れよう



「サン・マロー」を離れる
西へ
サンマローの西側の湾は「ランス川」の河口
その反対側へ回ることにする
サンマローを海越しに見ることができるポイントが各所にある








やはり
サンマローは海から見るのが一番美しい

「ランス川」を渡るときに
非常に珍しいものに出会うことになります

『Barrage de la Rance ランス川堰』

この橋には二つの役割がある
一番目は船の通行用の堰
干満の潮位差の激しいブルターニュなので
この橋でランス川の水位を保ちながら
船の通行の際に「閘門」の役を果たして船体を上下して通行させる
2番目の役割は「潮力発電所」
干満の差が最大13,5mという激しさということは潮の流れる速度も速い
その両方を利用して最大出力24万kw
年間500Gwの発電量を維持している



向こう岸に渡ると
『Dinard ディナール』という町


町の中心部には高級な大きなホテルもカジノもあり
かつ
美しい小さなビーチがたくさんあって
人気の高い理リゾートとなっている

『Plage du Port-Rou /  Plage de Saint-Enogat』

半分引き潮になりかかって
「ポー・リゥ・ビーチ」と「サン・テノガ・ビーチ」とが
一つに繋がりかかっている

『Plage de l'Ecluse』

もう一つ別のビーチ『エクリューズ・ビーチ』の引き潮
向こう側の岬に
立派な館のような戸建てが並んでいるのがお分かりだろうか
ここ「ディナール」は
サン・マローも遠望でき19世紀にナポレオン3世時代に人気が高まった

元来フランスの王侯貴族は
宮殿内の舞踏会や各種も容姿ものと
宮廷男女の秘め事が娯楽であったのに対して
英国は元来「領地」で狩猟や馬の飼育など戸外の活動が好まれ
「カントリー・ジェントルマン(上流階級)」
と呼ばれていた
彼らはブリテン島の悪天候を嫌って地中海岸の漁村を
自分たち専用の避暑避寒用の別荘地に開発したりしているうちに
フランスの上流階級にもそれが影響して
リゾートで休暇をす過ごす発想が生まれて行ったのです


というわけで宮廷の主人が休暇に来るようになると
その他ヨーロッパ中から王侯貴族が入れ替わり立ち替わり訪れ
産業革命で財をなした裕福な市民たちのも別荘を構えるようになっていった

『Villa Eugénie ゥージェニーのヴィラ』

ナポレオン3世の后ゥージェニー皇后のための別荘

『Villa Reine Hortance オルタンス王妃のヴィラ』

皇帝ナポレオンの妻ジョゼフィーヌ・ド・ボーアルネの前夫との娘
でナポレオンの末弟オーラント国王「ルイ・ナポレオン」の妃
ナポレオン3世の母『オルタンス』
の別荘
ここはホテルになっていてまるで貴族のお屋敷の民宿みたいな雰囲気
大好きなのですが
血待ったのはずいぶん昔で写真も見つからないので今回なご紹介はしません

その他にも






などなど目の保養になる光景が続きます


これらのヴィラは
19世紀後半に一部のお金持ちの間に起こった懐古趣味の
『Neo-Gothique 新ゴシック様式』
の例で
この最後の写真のものなど耐波基礎工事も中世のアーチ風にしている

海の前から離れて町中に行っても
歴史を感じさせる建築物も結構残っている

『Manpoir du vicomté ディナール子爵領主館』




『Ancienne Priuré 旧小修道院』

『Maison du Prince-Noir エドワード黒太子の館』


ここ
「ディナール」を発って南に「ランス川」の左岸を15kmも下ると

※  ※

『Dinan ディナン』という町に至る

その町こそ
百年戦争の際
攻勢をかけるイングランド王家の大群を何度も撃退し
後半の「ジャンヌ・ダルク」と並んで
前半の英雄と称えられる
『ベルトラン・デュ・ゲクラン』の父親の領地なのです



彼はフランス全土でイングランド国王軍と戦い勝利を続け
フランス各地方の王室軍元帥に任命され
エドワード黒太子を破ったのち
黒太子を応援した異母弟ペドロ1世の悪政に反抗したエンリケを助けるべく
カスティーリア継承戦争にも参戦して勝利し
エンリケから「カスティーリア」の王位を送られた
最終的にはフランス王国軍総司令官になり
戦場で病没した際
国王シャルル5世は歴代フランス国王の霊廟に葬る命令を出し
その時
彼の心臓が「ディナン」の大聖堂に収められた


『Basilique Saint-Sauveur de Dinan 救世主バジリカ聖堂』

具体的には説明しませんが
典型的なブルターニュの教会の様式で作られています


正面3つの扉口は一番古くて11世紀ロマネスクの部分



そもそも教会は
土地の事情が許す限り十字架を地面に置いた平面図にする
まず聖地エルサレムを向くように東向きに十字架の頭部を建て
そこだけを神様に捧げる儀式「献堂式」を行って
そこを教会として使いながら工事を続行し
十字架の横軸を作ってから縦軸を伸ばして
最後に西側の先端に正面扉口を開けて完成となる

そこまで行くと数十年とは100年以上経っているので
より大きな教会に建て直すことがあり
十字架の頭から再度工事をを始め
頭部だけで後の工事は行われなかった
という好例
内陣という十字架の頭部だけ屋根が高く大規模
横軸と縦の身廊(本堂)部分は規模が小さいのが一目でわかる


内部の身廊部の天井は木で葺いてある
奥の内陣は後から作り直した背の高いゴシックなので天井は見えない



デュ・ゲクラン大元帥の心臓墓碑のレプリカ



十字架の頭部の外側「外陣」部




中心部は木組みの家がかなり残っている
ノルマンディーとアルザスは
建築に適した石材が多くなかったので近代まで気の梁と柱の家を建て続けたが
それ以外の地方は16世紀までで国政の家はやめて石造りに変わっていく
特にブルターニュは硬い玄武岩の産地なので
木組みの家を建てるのは15世紀まで








この左の淡い灰緑色の柱と梁の建物はレストランになっていて
外観と同じような古色蒼然としたエキゾティックな内装の中で
質の高い郷土料理を出してくれる
オススメの店です

ところでこの町は高台にあって町の中心から四方に下り坂になっているが
特に教会の裏側は断崖絶壁


教会からやや遠ざかった位置の写真です
真裏から見ると


 これが
あの「潮汐発電所」のあった『ランス川』なのです
川口から10kmほどはまるで狭い入り江みたいなのですが
それより上流に来ると急に狭くなる

その川の両岸の部分を『下の町』と呼びます
河川港として使われているのです



左に見える高架橋は県道
その手前に500年ほど前の石橋が架かっている




県道の高架橋をくぐって振り返ると
それをくぐって振り返ると



川はすでにここまで狭くなっている
もう少し上流には1000年くらい前のロマネスクの橋も残っている





上の町から車の通れる通りで降りてゆくことも出来るが
直接降る道もあります



町の東側は急な崖
川のない西側は緩やかに下れて
両方とも城壁が残っている

『Repmart ouest et Tour de Lesquen 西側の城壁とレクアンの塔』

町の北側がサン・マローだから
『Porte St-Malo サン・マロー門』

町の南には城址







空堀を渡る橋と
天守と思われる頑丈な塔が残るのみ

では
次回は次の目的地に向かいましょう
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
皆様方のご感想やご意見ご要望など何でもお待ちしています
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ブルターニュ紀行 2 <カンカル から 歴史の舞台となった港町 サン・マロー へ>

2021-02-11 00:06:04 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『Ile Du Guesclin デュ・ゲクラン島』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界をを訪れよう


カンカルを発って海岸に沿って走る
夏場は野生の草花が群生して咲き誇っている


ブルターニュ北側のここらあたりは
『Côte emeraude エメラルド海岸』と呼ばれる
地中海の『Côte d'Azur 紺碧海岸』と比較して
海面が緑色に見えるところからそういう名前がついたようだ

ハイカーたちが歩いているところは断崖の先端

そして北側のブルターニュ独特の複雑に切れ込んだ海岸線で
陸地は真っ平ら

この黄色い花は不明だが
時期と場所によっては「エリカ」も自生しているのです

やがて小さな岬がある
『Pointe de Grouin グルーアン岬』


一番先まで行ってみると


遠目にはわからないが地形は非常に複雑
そして
お約束の党に岬に先端の先には岩礁があり
灯台が立っている

この細長い岬の右隣
すぐ手の届きそうな位置に細長い岩だらけの島がある


それもかつては別の岬だったに違いない
何千年かの波の侵食で陸から切り離されてしまったに違いない
先端にあるいくつもの岩礁も同じだ

さらに西に進む
海岸線が入り組んでいるので曲がりくねって進む時に
時間によって
こんな光景に出っくわす


小さな湾が
引き潮で陸地になってしまっているのです

往々にして
数多くのボートがゴロンと転がっている光景もごく普通のこと

そして
巻頭写真のこの島が見えてくる

『Ile Du Guesclin デュ・ゲクラン島』

百年戦争の際
繰り返し行われたイングランド軍の総攻撃からモンサンミッシェルをを護り抜いた
フランス王家が圧倒的に不利で会った百年戦争前半の
フランス王国のヒーロー『ベルトラン・デュゲクラン』の先祖が所有し
城塞を建てていた
この小さな島も
干潮時には一部で陸と繋がってしまうのです

そうこうしているうちに
大型量販店の看板などが身につきはじめて町に近づいていくのを感じてくる

ブルターニュの歴史的港町サン・マローです

まず隣接する手前の町
『Paramé パラメ』

ここは
今日の目的地『サン・マロー』の「字(あざ)区画」です


サン・マローの城の城壁の角からみた
「パラメ」の海岸線
右中央部の黒い影あたりから向こうがパラメ
こちら側がサン・マロー

実はパラメは海岸に道路がない
道路に沿って小さなホテルや民家や集合住宅が並んでいて
その奥が海岸に面しているのです
家並みの途切れるところから海岸が見えるのです


こんなだったり


こんなだったり


夕刻で波が荒れ始めていたり

でも通りを走っていると
狭い隙間の奥を覗く余裕なだないのでほとんど気がつかない

海の方から見ると


山見が並ぶあたりは
激しい波に対抗する石垣の海岸線

「サン・マロー」は歴史的にも有名で城壁に囲まれた存在感が
多くの観光客を惹きつけるが
海岸はあまりない
重錘に海岸で遊ぶのは
長い海岸線を持つこの「パラメ」ということになる
従って

カジノ(左) グラン・ホテル(右)

カジノと大きなホテルはここ「パラメ」の海岸にある

サンマロー市役所パラメ支庁舎

役場は典型的なブルターニュの建築で非常に美しい


では
いよいよ『Saint-Malo サン・マロー』を訪れるとしよう
一言で言えば一周完全に城壁で囲まれた城郭都市である旧市街と
外側に広がった新しい街並みに
町の規模にしては大規模な港湾施設
ということになる


右下のグレイの部分がかつての城で
現在は市庁舎と歴史博物館が使っている


城壁越しに城の天守が見える
正面の巨大な丸い塔は城の城壁の防御の塔の一つ
その横を曲がると町に入る城門の一つがある

『Porte St-Vincent サン・ヴァンサンの門』



城の大手門

城門をくぐって旧市街に入ったらさらに城の門がある

つまり城壁に囲まれた城を起点に
そこから町を城壁が囲んでいるという中世のままの構造


この門を入り
すぐ右に曲がると目の前の広場
右は上の市庁舎の門になっている城の大手門で


正面突き当たりの左に二軒目の建物は
18世紀後半
宮廷人で政治家で文学者だった
『François=René de la Châtraubriand フランソワ=ルネ・ド・ラ・シャトーブリアン』
の生家
現在はホテルになっている
牛フィレをベーコンで巻いて焼くステーキの名前の由来と言われるが
それは俗説にすぎない


旧市街は
狭い城壁の中とはいえ"都市"なので五階建てくらいの

高い建物が
狭い通りの両側に並ぶ



城門をくぐってすぐは
おみやげ屋さんやレストランのいわゆる観光的な通りだが
すぐ普通の各種の商店が並ぶ普通の綺麗な町並みと変わり
常にカモメの鳴き声が聞こえる



上に掲載した地図の下側は
イヴェントの際は巨大な帆船が何隻も入れる港の船泊まり
平素は
夏はヨットやプレジャーボート
冬は貨物船が係留している



そこに面した城壁の上に
城壁内に立ち並ぶ建物の屋根の上に
ひときわ高く大聖堂の尖塔が遠くからでも見える



その真ん中にあるのが『グランド・ポルト 大門』

大門

入ってまっすぐ行くと
程なく


『Cathédrale Saint-Vincent 聖ヴァンサン大聖堂』

これは斜め側面
正面など道幅が狭くたかさは高すぎて
全く写せません



ギリギリでこんな感じです



この「サン・マロー」は
フランスの航海史上非常に重要な役割を果たした

16世紀初頭
この町出身の海軍提督『ジャック・カルティエ』が
この港からフランソワ1世王室海軍を率いて大西洋横断に成功し
北米大陸カナダを発見した


城壁のテラスから東の海域を睨んで立つ「ジャック・カルティエ」の銅像


1534年第1回航海の航路


1535〜36年の第二回航海航路

フランスが植民地にしたカナダがその後英国に大半を奪われ
それでも『ケベック州』だけはフランス語圏として残る

『サン・マロー/ケベック協会』
という組織があって
1984年にケベック誕生450年祭が大々的の行われ
多くの双胴ヨットが参加した大西洋横断レースなどが行われた

18世紀末
サンマローを拠点とした私掠船が大西洋全域で大活躍をして
この港町の名声を一気に高めた

『Capitaine Robert Surcouf ロベール・シュークゥ船長』

軽量高速の戦闘艦を私有し
平素は要人を警護つきで海外輸送を請け負ったり
商品を運んだりして生計を立てており
国王の要請に従って「フランス王室海軍」を形成して外国と戦っう

洋上で敵国艦船と遭遇すると
襲って積荷を奪うことを国王から許された「特許状」を行使して財を成す
海賊と訳されることも多いが
覇権争いの時代の海上交通と海軍戦略と対的国経済破壊作戦を担っていたのです
英国にもスペインにもオランダにもいた


1800年
大西洋上で大型砲でハリネズミのように武装して400名の戦闘員が乗り組む
1800トンの英国大型輸送船を
一瞬で制圧してその名を不動のものとした「シュークー船長」の勝利の絵

ジャポンの形容詞で人種や言葉を表す名詞はジャポネというように
サンマローはマルゥーアン(女性形マルゥイーン)といい
スペイン語で読むと「マルヴィナス」
彼らが発見してフランスの植民地となり
その後スペインに奪われ
さらにイギリスが不法に奪ったのが
スペインの植民地から独立して領有権を主張するアルゼンチンと
英国との戦争にまで発展した『マルヴィナス諸島』

この高速戦闘艦を「Corsaire コルセア」と言います
プロペラ機時代の旅客機にコルセア機というのがあった


『コルセア戦闘艦船長の子孫の会』というのがあり
9世紀のコルセアの実艦を修復して観光客の航海を実施してもいます


2時間コースから1日コースまであれこれあります
乗組員は18世紀の服装です



そして
サンマローで欠かせないのが城壁の散歩

Grande Porte (大門)の内側の階段

城壁内にはいると各所に階段があって上に登れます
ほぼ一周でき
各方向で眺めが異なるのが興味深い



激しい荒波を防ぐために
コンクリートの消波ブロックではなく生木をを打ち込むのがこのあたりの伝統

=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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