『蛾文様水さし』ドーム
全ては「ガラス」から始まった
"パット・ド・ヴェール製の壷" ドーム
実は
完全に平らで薄く
歪みもない「板ガラス」というものは
17世紀半ばまでなかったのです
ガラス器自体は
古代のエジプトに始まり
ペルシア・ギリシア・フェニキアなどに起源を持つ
歴史の古い加工品です
ガラスの原料である珪石(石英の一種)その他を砕いて粉末にし
水で練り合わせて型に嵌めて焼く
壷や椀
パット・ド・ヴェールと言います
パットはフランス語で『捏ねたもの』とか『生地』『麺』の事で
イタ飯でいう『パスタ』です
その後
筒の先に原料のパットをくっ付けて焼きゴム風船のように膨らませて
それをやや覚まして切り開き
平らなガラスにしようとするのですが
全体に波打って「鏡面」のような平らで滑らかな板ガラスはできません
サイズも限定的でした
従って
鏡は銅などの平らに延ばした銀などの金属で作られていました
ただし
ヴェネチアだけは
17世紀になると現在のような薄い平らな広い板ガラスを作り上げていた
そこで
ヴェネチアはガラス製の平らな鏡を独占的に作っていたのです
ヴェネチア・ムラーノのガラス工房
17世紀半ばのフランス
ルイ14世がフランスをヨーロッパの頂点へ引き上げ
太陽王と呼ばれるに至る過程で
その名に相応しい大宮殿を作り上げてゆきます
ヴェルサイユ宮殿です
彼は
燭台とシャンデリアの明かりをきらめかせて
夜も眩い太陽王に相応しい大ギャラリーを作ろうと望んだ
いわゆる『鏡の間』です
ヴェルサイユ宮殿『鏡の大ギャラリー』
庭園の側に向かって17の「フランス窓」
(足元から天井近くまでの直接そこから出られる形の大窓)を開け
その反対側の壁に窓と同じ形で鏡をはめ込んだ
その際
一枚の大きな板ガラスを
「ヴェネチアに頼らなくともフランスでもできるはずであろう」と
国内の東「ロレーヌ地方」に王室のガラス工房を作らせ
そこで焼かせた平らな歪みのない板ガラスで作った平らなガラス製の鏡が『鏡の間』に使われたのです
鏡の大ギャラリー(ディテール)
天地50センチほど左右30センチほどのその鏡は
ヴェネチア以外のガラスで作った第一号の鏡でした
1650年台後半のことでした
左右の『戦争の間』『平和の間』とに挟まれて
長さ75メートル天井高13メートルに及ぶ大ギャラリー『鏡の間』と
3ギャラリー合わせて400枚の鏡が使われました
その後20年もすれば
そのフランス窓の形(幅4メートル強高さ10メートル強の馬てい形)を
1枚ガラスで鏡を作れるようになります
爾来
フランスのロレーヌ地方はガラス産業地帯になりました
ガラスを溶かす火をたくための薪が
森林地帯の多いロレーヌでは簡単に手に入りやすく
周辺に町が数多く労働力も保証されていたからです
これからお話しするアールヌーヴォーの原動力となったガラス工芸家
『ルネ・ラリック』『ドーム兄弟』『エミール・ギャレ』達は
ロレーヌの首都ナンシーで活躍しました
ルイ14世の王室ガラス工房はその後350年以上続き
今や世界有数の大ガラスメーカー『サン・ゴバン』となっています
大気圏再突入の際の超高温に耐える
スペースシャトルのコックピットのウインドウや
紫外線の透過遮断率を極限まで高めたハイテクガラスで作られた
「ルーブルのピラミッド」は、サン・ゴバン製です
ルーブルのメイン・エントランス『ピラミッド』
大気圏再突入で灼熱に燃えるスペースシャトルのコックピットの
フロントガラスも
同じくサンゴバン製が使われています。
ちなみに
ルイ15世は王室ガラス工房を
ロレーヌの小邑バカラ村におきました。
それが現在の有名クリスタル・メーカーである『バカラ』です
バカラの工房
火口が1ダースある巨大な炉の前で
ガラスを吹く職人
巨大な燭台の組み立て中
19世紀後半
実に複雑怪奇な見え方と色合いのガラス工芸品を作り出して行った
『ドーム兄弟』
『ルネ・ラリック』
『エミール・ギャレ』
達は
競い合って新たな技法を編み出し作品を世に送り出していきました
加熱したパット・ド・ヴェールを型で成型した壷を作り
壁面の外側も内側もそれぞれレリーフが形作られ
別の色合いのパットを付けて加熱した筒を
先に成型したものの中に入れて吹き隔壁が二重の壷にする
外側には別の色合いの違う温度で加熱した
従って透明感も違うパットを貼り付けて模様を作り.....
それらの作品群の主要なモチーフとなったのが
先の回でお話ししたジャポニスムの「花鳥風月」
特に昆虫とお花でした。
『パット・ド・ヴェール製昆虫文様水さし"タイトル『水たまり』" (エミール・ガレ)
このような
それまでの環境に存在しなかった存在感を持つガラス工芸は
それだけ単品で使っても
周囲と調和しない
そこで
それらのガラス工芸品に釣り合うような雰囲気の
絵画・彫金細工
果ては家具調度品
室内の造作全般
最後には
家屋敷建物までその精神の作品が生まれて行きます
『バルト館』バルセローナ アントニ・ガウディ
19世紀
特に後半になると社会構造が変わり
王侯貴族に変わって産業資本家が社会の主人公へと躍り出てきました
彼らは
王侯貴族御用達の「アカデミー(美術学校)」の教授たちが主導する
官製美術の理論性より
日常の生活感覚にフィットするものを好み
学問的至上主義つまり形而上的芸術から
生活感覚優先つまり形而下の美術が生まれてきます
自然主義(リアリスム)そこから派生する印象派
それと並行して
なんでもありの不可思議性も好まれた
その嗜好がアール・ヌーヴォーに向けられます
パリだけではなく
ロンドン
ブリュッセル
ウイーン
プラハ
バルセローナ
地域によっては世紀末様式
ニュー・スタイルとも呼ばれた『アール・ヌーヴォー』が
市民権を得たのです
次回からは
具体的な写真を使って
ガラス工芸・建築その他をご紹介して行くことにしましょう
<続く>