私は美容師で夫は農業をしています。私たちはマレーシアで、オレンジを投げる伝統行事にて出会いました。これは良縁を求める女性のための行事です。一年後、私たちの結婚式は牧師の立会のもと、教会で執り行われました。私はその牧師による私たちの婚姻のための祈りにとても深く感動しました。私は信心深くありませんでしたが、声に出さずに神に懇願しました。「この人がずっと変わらず私を慈しみ、私を大切に思ってくれますように。そして一生私の伴侶でいてくれますように」
結婚生活が始まると、夫婦間の対立がひとつまたひとつと生じてきました。夫は毎朝四時に家を出て野菜を売りに行き、午後七時までは帰宅せず、私は午後十時過ぎまで仕事が終わりません。私たちは一緒に過ごす時間がほとんどありませんでした。疲れきった体を引きずって帰宅するたびに、私は夫から気遣いや思いやり、理解を少しでも受けられたらと強く願っていました。仕事はどうだったか、楽しかったかどうか、夫に尋ねてほしかったのです。しかし残念なことに、私が仕事から帰ると夫はほぼ毎回テレビを見ていなければ携帯電話をいじっていて、私にお帰りとすら言わないこともありました。私が存在すらしていないかのようでした。私はこれに本当に落胆して、次第に夫に対して不満を募らせていきました。
あるとき私はお客さんと意見の行き違いがあり、とてもいら立ち、不当な扱いを受けたと感じていました。帰宅後、そのことを夫に愚痴りました。夫が私を慰めてくれるだろうと期待していたのです。しかし驚いたことに夫は携帯電話をもてあそびながら、ただ私に気づいてうなずいただけで、私に意識を向けないではありませんか。うなずいた後はすぐにうつむいてまた携帯電話を見始めました。夫の私に対する完全な無関心に我慢できず、私は夫に向かって怒鳴りました。「あなた石でできてるの?話さえできないの?誰かのことも気に留めるってことある?」ひどく怒る私を見て、夫は答えるのを拒否しました。夫に無言でいられればいられるほど、私の怒りはヒートアップしました。私は夫をしつこく責め立て、何か言わせてやろうとすっかり躍起になっていました。思いがけず夫が突然「まだ言い足りないのか」と怒鳴り返してきました。これで私は余計に怒りを感じ、さらに不当に扱われたと思い、夫にわからせようと話し続けました。結局、夫は何も言おうとしないため、私たちの口論は話になりませんでした。また別の時に、職場であった腹立たしいことについて夫に愚痴を言って、夫が私の気を楽にしてくれることを期待したことがありました。しかしその代わりに夫の返事はぶっきらぼうで氷のように冷たかったのです。「どっちもどっちだろう。君は他人の問題しか見えてないんだな。なんで自分のことを省みないんだ?」私は瞬間的に不機嫌になり、一言言ってやらずには気がすみませんでした。憤りで頭がいっぱいになり、思いました。「この人どんな人種なの。私、なんでこんな人と結婚しちゃったの。私の気持ちをこれっぽっちも考えないじゃない。一言だって私を慰めようとしない」この時から私は、職場でのことを夫に話すのをほとんどすっかりやめました。しばらく後になって夫は私に仕事のことを訊こうとしてきましたが、私は夫に注意を向けたいとは決して思いませんでした。夫は次第に私に質問するのをやめていきました。私たちの間には共通の話題がどんどんなくなっていき、失望するような出来事が起こると、私は耳を貸してくれる友達に当たってみるのでした。時には遅くまで外で話し込み、夜半過ぎまで帰宅しないこともありました。それほど遅くに帰宅しても、夫は私を気遣う様子など見せず、ただ「うちをホテル扱いしてるみたいだ」と言うのです。私はひどく気分を害し、夫への不満が大きくなり、私たちはしょっちゅう口げんかするようになりました。二人とも苦しんでいました。私はこれ以上こんな生活を続けたくないと思い、夫ときちんと話せるチャンスを見つけようと決めました。
ある日の夕食後、私は夫に頼みました。「私のこと本当に我慢ならないんでしょ。どうなの。どうして私のこと少しも気にしてくれないのよ。私のことで何か問題があるなら直接言ってよ」夫が何とも答えないので、私は夫に迫り続けました。すると驚いたことに夫はいら立って私に怒鳴ったのです。「そんな質問をするのはやめろ。君とのことは全部が問題だよ。うんざりなんだよ」こんな風に言い返され、私は怒りで頭に血が上り、私たちはまた言い合いを始めました。何か言っては言い返されるというように、しばらく口論を続けていましたが、最後は夫が立ち上がり私をドンと押しました。私はバランスを崩し、ソファに倒れ込みました。夫が私に手を挙げたことに、私は胸が張り裂けそうでした。「これがあんなに慎重に選んだ夫?これが私があれほど望んでいた結婚?この人はどうして私をこんなふうに扱えるんだろう」この時から私は夫に何かを期待するのをやめました。
2014年4月、ほんの偶然から、ある姉妹が私に主イエスの福音を分かち合ってくれました。姉妹は主が私たちを愛していて私たちを救うために十字架にかけられたのだと言いました。私は主の愛に心から感動したので、主の福音を受け入れました。その後、私は牧師に結婚生活の問題について話したところ、牧師は言いました。「私たちは、まず自分自身が変わらない限り、他の誰も変えることはできないのです。主イエスの例に倣い、他者への寛容さと忍耐強さを実践すべきなのです」それで私は自分自身を変えようとし始めました。仕事が終わるとすぐに帰宅し、家を掃除し、時には夫が私を無視するとかっとしそうになりましたが、寛容さと忍耐強さを私にお授けくださるよう主に祈りました。自制心を失って夫と口論を始めてしまった時には、その口論を丸く収めようと私の方から働きかけました。私に起こった変化を見て、夫も主を信じるようになりました。双方が信徒になると、口論は減り、意思の疎通が増えました。主が直接私たちをお救いくださったのがわかり、私は主への感謝でいっぱいになりました。
しかし時は流れて、私たちはなお自分の感情をコントロールできずにいました。家庭内不和はまだ時々起こり、そして特に一人が不機嫌だともう一人も寛容さと忍耐強さを実践することができず、結果として私たちの口論は激しさを増していきました。口論の後は毎回、私は心が痛み苦しくなりました。そして主に祈りました。「主よ、寛容で忍耐強くなるようにと教えてくださいますが、私はどうしてもそうできないようです。夫が私の嫌なことをするのを見ると、夫への不満が本当にひどくなります。主よ、私はどうすべきなのですか」その後、私は実践の道を見つけたくて教会が主催するあらゆる勉強会に参加し始めました。しかし望んでいたものは得られませんでした。グループのリーダーに助けを求めても、ただこう言うだけです。「妻と私もしょっちゅう口論しますよ。パウロでさえ『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。』(ローマ人への手紙7:18)と言っていますしね。たえず罪を犯しては告白するというサイクルに直面した私たちの問題の解決法を誰も持っていません。私たちにできるのは、主に祈り、憐れみくださいとお願いすることだけです」それを聞いて私は途方に暮れました。対立の泥沼にはまったまま二人とも残りの人生を過ごすのが運命だ、ということなのでしょうか。
2017年3月、これまでずっと無口な人だった夫が突然、生き生きとした話し好きになりました。それに加えて聖書に書いてあることで自分が理解したことを、たびたび私と分かち合ってくれるようになりました。さらに驚いたことに夫の話は本当に光に満ちていたのです。私は不思議に思いました。夫が突然別人になったかのようだったからです。それに夫の言うことは本当に識見に飛んでいました。私は一体何が起こっているのか知りたいと強く思いました。ある日、夫があるSNSのグループのメンバーだと偶然に知り、すぐに夫に仲間とどんなことを話しているのか尋ねました。夫はとても真剣な面持ちで、終りの日の全能神の働きのことを検討しているのだと、主イエスが既に再臨されていて、それが全能神なのだと言いました。夫が言うには、全能神は既に何百万語もの御言葉を発せられ、終りの日における人類の裁きと清めの働きをされているとのことでした。また、それは聖書の預言「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙4:17)を完全に成就していると言いました。神の出現と働きを求めるなら、自分の観念と想像に盲目的に執着するのではなく、神の御声を聞くことに集中しなければならない。真理を追求せずにただ神の啓示を消極的に待っていたら、主の再臨を歓迎することはできないだろう、とも言うのです。これを聞いて私は衝撃を受け、信じられない気持ちでした。その後、私はかつてインド人牧師が言っていたことをふと思い出しました。神の再臨のことを耳にしたら、心を開いて真剣に吟味して求めるべきだと。自分の観念と想像を頼りにして盲目的に物事を決め付けてはいられないのだと。そこで私は主に祈りました。「主よ、もし全能神が本当に再臨された主であるなら、心を開いて真理を追求し、このことを吟味できるよう、どうか私をお導きください。そうでないならば、私が主から逸れないよう、私の心をお守りください。アーメン」
こう祈った後、聖書を開くと、ヨハネの黙示録3章20節にこうありました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」これは私によって突然の天啓の瞬間で、主が私に話されている、再臨したらあなたの戸を叩こうと仰っているのだ、と感じました。主の声に耳を傾けて戸を開けよという主のご指示だと感じました。それはまるで聖書にある花婿の声を聞いて花婿を迎えに急いだ賢いおとめたちのようでした。それから私はヨハネによる福音書16章12-13節のことを考えました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」聖書のこのような節について熟考していると、高揚感が湧き上がってきました。主が遠い昔に、ご自身の再臨に際し私たちにさらに多くの御言葉を発し真理を授けてくださると教えてくださっていたのだと気づきました。そして終わりの日の全能神の働きは、人類を裁き清めるために御言葉を発せられることです。全能神は本当に再臨された主イエスなのだろうか。もし主が本当に再臨され、人類のあらゆる困難を解決するために真理を表されているなら、罪の束縛から逃れる希望があります。ならば私と夫の間の問題も解決できるのではないでしょうか。私はすぐさま、全能神教会の兄弟姉妹と連絡を取らせてほしいと夫に頼みました。私も終わりの日の全能神の働きを吟味したいと思ったのです。
集会では全能神教会の兄弟姉妹が聖書からいくつか節を選んで、真理のさまざまな側面について私に話してくれました。それは主の再臨の仕方、主の新しい名前、主がどのような働きをなさるのか、といったことでした。兄弟姉妹の説教はとてつもなく説得力があり、私には全く新しいものでした。私は終わりの日の神の働きについてもっと知りたいと切望したので、何度も何度も神に祈り、神の御言葉を理解できるように私を照らしてくださいとお願いしました。神の御言葉を読み、兄弟姉妹の説教を聴くことにより、私は次第に人類を経営する神の目的、人類を救う神の働きの三段階、人類の結末と終着点について、次第に理解するようになりました。終わりの日の神の働きについて調べている間も、私はごくごく些細なことでいまだに夫と言い争ってしまうことがあり、その後でひどい罪悪感に苛まれ動揺し自問しました。「なぜ私は神の御言葉を実践できないの」私は当惑したままでした。集会で、私はある姉妹に質問しました。「私と夫はなぜいつも口げんかしてしまうのでしょうか。なぜ平和に仲良くやっていけないのでしょうか」姉妹は神の御言葉の数節を私のために見つけてくれました。「人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)
姉妹はそれから、説教をしてくれました。「最初、アダムとイブはエデンの園で神の御前にて幸せに暮らしていました。口論などありません。苦しみもありませんでした。しかしヘビの言うことを聞いて善悪の知識の木になる実を食べた後、彼らは神からどんどん離れ、神を裏切り、神によるお世話と保護を失ってサタンの権力下で生きるようになります。悲しみと苦しみの日々の始まりです。これが今日まで続いているのです。そして私たちはサタンによりどんどん深く堕落しています。私たちは堕落したサタン的な性質に満ちています。私たちはとてつもなく傲慢で利己的で嘘つきで、強情です。あらゆる物事において自己中心的で、常に人に自分のことを聞かせたいのです。だから闘ったり殺し合ったりするのです。親子、夫婦ですらお互いへの寛容さと忍耐強さを持たず、互いに調和して仲良くやっていくことができないでいます。私たちには最も基礎的な良心と理知さえも欠けているのです。主イエスが私たちを贖ってくださり、私たちが主に祈り、告白し、悔い改め、頑張って主の教えに従ってもなお、私たちはどうしても罪を犯し神に背いてしまいます。これは主イエスが人類を贖うという働きのみをされたからなのです。主イエスは人類を完全に救い清めるという働きはなさいませんでした。主イエスの救いを受け入れることは、ただ、もはや私たちに罪はなく、祈りにおいて主の御前に来て、主の憐れみを受けて罪を許される機会があることを意味するだけです。でも、私たちの堕落した性質はまだ清められていません。私たちの罪深い本性はまだ私たちの中に深く根付いたままです。私たちにはまだ、終わりの日に主が再臨なさり、人類を清め変容させる段階の働きを行なうことで私たちの罪深い本性の問題を解決していただくことが必要なのです。そして今や神は再び受肉され、私たちを堕落した性質から完全に救い、サタンの影響から逃れさせて完全に救うために、裁き清める働きを行うための御言葉を発せられています。神の新しい働きに遅れずついていき、神の御言葉の裁きと罰を受け入れ、真理を追求し、神の御言葉を実践する限り、私たちの堕落した性質は次第に変容します。これが真の人の似姿を生きられる唯一の道であり、そうすることで初めて他者とのかかわり合いにおいて調和を実現できるのです」
神の御言葉と姉妹の説教から、私はようやく気づきました。私たちが罪を犯しては告白するという状況に常に生きているのは、主イエスが人類を贖うという働きはされても、私たち信徒の罪が赦されただけで、私たちの中の罪深い本性は非常に深く揺るぎなく存在しており、私たちのサタン的な性質はまだ清められていないからなのです。その好例が、私が主の教えに沿って忍耐強さと寛容さを実践しようとしても、夫が私の嫌な言動をするやいなやどうしても腹を立ててしまうことです。どうしても自分を制御できないのです。私たちを救う神の働きなくして、自身のサタン的な堕落した性質を自身の努力だけで拭い去ることは不可能です。そして今、人類を裁き清める働きを行なうために神が再び受肉されました。神の新しい働きを受け入れ、真理を本当に追求することで、私たちには性質の変容を達成する機会があります。私は御声を聞かせてくださった主の憐れみに心から感動し、とてつもなく感謝しました。しかし私にはまだわからないことがありました。神が私たちを清め変容させる目的で御言葉を発するために今回再臨されたのはわかりましたが、どうして御言葉が私たちの堕落した性質を裁き清めることができるのでしょうか。そこで私は自分の混乱を説明しました。
姉妹は、神の御言葉の別の一節を読んでくれました。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)
姉妹はさらに私と説教を分かち合ってくれました。「神の御言葉は、神がどのように裁きの働きをされるのか明確に私たちに説明しています。神は人類を裁き清めるために御言葉を使われるのです。神は御言葉によりおもに私たちの堕落した本性と本質、サタン的な性質を直接明らかにされ、細かく分析されます。また、どのように神に服従し神を崇拝すればよいのか、正しい人としてどう生きればよいか、どのように真理を追求し、性質の変化を達成すればよいか、どうすれば正直な人でいられるか、そして神が何を人に望まれ要求されるかを明確に説いてこられました。神はどのような人を好まれ、どのような人を排除されるか、また他に多くのことも告げられてきました。また、私たちを刈り込み取り扱い、試し、精錬するための人々、出来事、物事、環境を準備されます。こうして私たちの堕落した性質が明らかにされ、私たちは神の御前に行き真理を追求し、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、自らを顧み、自らを知ることを余儀なくされます。神の裁きと刑罰の御言葉を受け入れると、まるで神が私たちと面と向かって生き生きと話されているように感じられるのです。そこで神に対する私たちの不従順と抵抗、私たちの不正な動機、私たちの観念と想像を余すところなく明らかにされます。それで初めて私たちは自らの本性と本質が傲慢さとうぬぼれ、欺瞞、腹黒さ、身勝手さ、卑劣さに満ちていることを知ることができます。私たちは神への畏敬の心が全く欠けていること、サタン的で堕落した本性に完全に基づいて生きていること、露呈するものすべてがサタン的性質であること、ただただ人の似姿に欠けていることを知るのです。すると自分を憎み始め、心から自分を嫌悪し、これ以上サタンの影響下で生きていたくないと、サタンにもてあそばれ傷つけられるのはもうたくさんだと思います。何よりも、神の裁きと刑罰をとおして神の神聖な本質と罪を一切許容しない神の義なる性質とを知ります。神への畏敬の心が私たちの中で生まれ、神に御満足いただくために真理を実践しようと意欲的になります。ひとたび真理を実践し始めると、神の善に満ち憐れみ深い性質が私たちに明かされます。神の御言葉を読み続け、神の裁きと刑罰を経験し続けることにより、自身の堕落した本性についての認識を深め、神が表現される真理をさらに認識し、神の裁きと刑罰を受け入れ服従すること、肉を見捨て真理を実践し神に満足していただくことをさらにいとわなくなります。堕落の露呈が減っていき、真理を実践するのがどんどん容易になり、神を畏れ悪を遠ざける道へと次第に歩みを進めていきます。神の御言葉による裁きと刑罰を経験すると、これが堕落した性質から私たちを救い癒す万能薬であることを誰もが心から確信することができます。これが私たち堕落した人間に対する神の至高の真の愛であり、神の御言葉による裁きと刑罰を経験しなければ、真の人の似姿を生きることは決してできません」
神の御言葉と姉妹の説教は、私にとってとても大きな衝撃でした。終わりの日の裁きと刑罰という神の働きは本当に実際的だと思い、また自分の堕落した性質が変容するよう願うなら、神の御言葉による裁きと刑罰を経験しなければならないのだと思いました。そうでなければ、罪を犯しては告白するという循環の中に永遠に生き続け、罪の束縛から決して逃れられないのです。ですから心の中で神に祈り、御言葉で私を潤し糧を与えてくださいと、そして自分自身を知り、堕落した性質が近い将来変容して真の人の似姿を生きられるように私を裁き罰する環境を整えてくださいとお願いしました。
終りの日の神の働きを受け入れた後、私はまた神が私のために整えてくださったこの結婚について、新たな認識を得ました。ある時、ある姉妹が私のために神の御言葉の数節を読んでくれたのです。「人間は、自分が結婚を経験するまで、結婚に関して様々な幻想を抱き、その幻想は全て美しい。女性は、白雪姫に登場する王子のような自分の夫を想像し、男性は自分が白雪姫のような者と結婚することを想像する。こうした空想により、人間には、それぞれに結婚の条件、数件の要求事項、基準事項があることが示される。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より)「結婚は人生における重要な節目である。結婚は人間の運命の産物であり、人間の運命における重要な繋がりである。結婚は人間の個人的な意志や嗜好に基づくものでも、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、当事者双方の運命、双方の運命に関する創造主の采配と定めにより決定される。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より)「したがって、ある者が結婚した場合、その者の人生の旅路は、その者の配偶者に関与して影響を与え、同様にその者の配偶者の人生の旅路はその者の人生の運命に関与して影響を与える。換言すると、人間の運命は相互に関連しており、他人に全く依存せずに自分の人生における使命を全うし、役割を果たすことが出来る者はいない。人間の出生は、極めて幅広い関係の結びつきに影響を与える。また、成育にも複雑な関係の結びつきが含まれる。それらと同様、必然的に結婚もまた、極めて幅広く複雑な網の目のような人間関係の中に存在し、維持されて、その関係に含まれる全ての者の運命に影響する。結婚は、当事者双方の家族や、成育環境、容姿、年齢、資質、才能その他あらゆる要素の産物ではなく、むしろ共通の使命と関連する運命から発生する。これが、創造主により指揮され、用意された、人間の運命の産物である結婚の起源である。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より)姉妹はそれから私と説教を分かち合ってくれました。「私たちの結婚はどれもがみな、神によって予定されていて、私たちが誰と家庭を持つかを神がずっと前に決められているのです。みな神ご自身の知恵により采配されています。神が私たちのためにお選びになった結婚は、私たちの社会的地位や外見や能力によるのではなく、両人の人生における使命により決定されます。しかし、私たちは自身の堕落した性質にコントロールされているので、たえず自分の片割れにたくさん要求し、いつも相手が物事を自分のやり方で行なってほしいのです。相手がそうしないと、私たちはそれを受け入れるのを拒否し、不満に感じます。相手と口論したり怒ったり、不平をぶつけたりもし、また神を責めたり誤解したりもします。こうして両人とも苦しんで生きることになります。この種の痛みは他の誰からももたらされるものではなく、神の支配や編成によるものでもなく、ただ私たちが傲慢でうぬぼれた堕落した性質で生きているがゆえなのです。このような堕落した性質により、私たちは神の支配に抗います。神の采配や編成に服従できずにいるのです」
姉妹のこの説教を聴いて、私は夫との今までの関係を思い返しました。私はいつも夫に対し不満を露わにし、いつも私の思い通りにしてほしいと要求していました。夫が私のことを気にしていなかったり私に気遣いや思いやりをみせてくれないと、また私が幸福であるか知ろうとしてくれないと、夫に対し文句を言い、だめな人だなどと思っていました。私は夫をあらゆる面で見下し、冷戦をふっかけ、彼に注意を払うのを拒否していました。私はようやく、自分が実に傲慢でうぬぼれていて利己的で卑劣な人間だったとわかりました。自分の利益しか考えず、他人の気持ちを考えようとしない人でした。よくよく考えてみると、夫が私に思いやりがないなどというのは全く真実ではありませんでした。夫はただかなり内向的であまり感情を表さないだけだったのです。そして夫には独自の思いや好みがありました。それなのに私は夫がしたがらないことをさせようと躍起になっていたのでした。私はいつも夫に私を中心にして動き回ってほしくて、それが私たちの間であれほどの対立が起こった原因だったのです。私は自分の過去の振る舞いを後悔せずにはいられませんでした。また夫が言ったことを思い返せば、過去に主の福音を夫に伝えたのは私の方ですが、今度は夫が終わりの日の神の福音を私と分かち合ってくれたのでした。これは私たちへの神の偉大な御恵みで、神の素晴らしい編成でした。私たちは二人とも極めて恵まれていたのに、私には感謝の気持ちが一切ありませんでした。それどころか神が私のために手配してくださった結婚に自分を委ねようとせず、たえず神を責めていました。自分がどれほど傲慢でどれほど理知を欠いていたかがわかりました。御言葉で私を導いてくださった神に感謝します。私はこの結婚におけるあらゆる苦しみの根源を見つけました。そして心が楽になり力が抜けるのを感じました。またこの時から、傲慢でうぬぼれた堕落した性質を捨てるため、そして夫と仲良く暮らしていくため、私は生活において喜んで神に頼り、神に目を向けるようになりました。
それ以来、夫と私はよく一緒に神の御言葉を読んだり真理に関して交わったりするようになり、被創造物として自らの能力の最善を発揮して本分を尽くしています。また、毎日神の御言葉により糧と潤いを得ています。問題に直面した時には、神の御言葉から神の御意志を求めます。堕落を露呈したり口論を始めたりすると、二人とも神の御前に進んで自らを顧みて自らを知ります。このように実践していると、お互いへの認識も赦しの心も育っていきました。口論の回数はどんどん減り、家庭生活は調和し、人生がどんどん充実してきました。私が一番感動したのは、夫が私よりも真理を認識していることです。夫はよく神の御言葉で理解したことについて私と説教を分かち合ってくれ、私の堕落した性質が見えた時には真理と神の御意志について話してくれます。私への夫の思いやりと愛を本当に感じ、心から幸せです。私たちの歩んだ道を振り返ると、いまだに私は私のまま、夫は夫のままです。終りの日の全能神の働きを受け入れ、いくらかの真理を理解してきた、ただそれだけで、何もかもがすっかり変わったのです。私たちをお救いくださった全能神に感謝します。