賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神の救いを受け入れたあと、新しい生活を手に入れる

2020-07-20 22:40:07 | 信仰生活

   私は美容師で夫は農業をしています。私たちはマレーシアで、オレンジを投げる伝統行事にて出会いました。これは良縁を求める女性のための行事です。一年後、私たちの結婚式は牧師の立会のもと、教会で執り行われました。私はその牧師による私たちの婚姻のための祈りにとても深く感動しました。私は信心深くありませんでしたが、声に出さずに神に懇願しました。「この人がずっと変わらず私を慈しみ、私を大切に思ってくれますように。そして一生私の伴侶でいてくれますように」

   結婚生活が始まると、夫婦間の対立がひとつまたひとつと生じてきました。夫は毎朝四時に家を出て野菜を売りに行き、午後七時までは帰宅せず、私は午後十時過ぎまで仕事が終わりません。私たちは一緒に過ごす時間がほとんどありませんでした。疲れきった体を引きずって帰宅するたびに、私は夫から気遣いや思いやり、理解を少しでも受けられたらと強く願っていました。仕事はどうだったか、楽しかったかどうか、夫に尋ねてほしかったのです。しかし残念なことに、私が仕事から帰ると夫はほぼ毎回テレビを見ていなければ携帯電話をいじっていて、私にお帰りとすら言わないこともありました。私が存在すらしていないかのようでした。私はこれに本当に落胆して、次第に夫に対して不満を募らせていきました。

   あるとき私はお客さんと意見の行き違いがあり、とてもいら立ち、不当な扱いを受けたと感じていました。帰宅後、そのことを夫に愚痴りました。夫が私を慰めてくれるだろうと期待していたのです。しかし驚いたことに夫は携帯電話をもてあそびながら、ただ私に気づいてうなずいただけで、私に意識を向けないではありませんか。うなずいた後はすぐにうつむいてまた携帯電話を見始めました。夫の私に対する完全な無関心に我慢できず、私は夫に向かって怒鳴りました。「あなた石でできてるの?話さえできないの?誰かのことも気に留めるってことある?」ひどく怒る私を見て、夫は答えるのを拒否しました。夫に無言でいられればいられるほど、私の怒りはヒートアップしました。私は夫をしつこく責め立て、何か言わせてやろうとすっかり躍起になっていました。思いがけず夫が突然「まだ言い足りないのか」と怒鳴り返してきました。これで私は余計に怒りを感じ、さらに不当に扱われたと思い、夫にわからせようと話し続けました。結局、夫は何も言おうとしないため、私たちの口論は話になりませんでした。また別の時に、職場であった腹立たしいことについて夫に愚痴を言って、夫が私の気を楽にしてくれることを期待したことがありました。しかしその代わりに夫の返事はぶっきらぼうで氷のように冷たかったのです。「どっちもどっちだろう。君は他人の問題しか見えてないんだな。なんで自分のことを省みないんだ?」私は瞬間的に不機嫌になり、一言言ってやらずには気がすみませんでした。憤りで頭がいっぱいになり、思いました。「この人どんな人種なの。私、なんでこんな人と結婚しちゃったの。私の気持ちをこれっぽっちも考えないじゃない。一言だって私を慰めようとしない」この時から私は、職場でのことを夫に話すのをほとんどすっかりやめました。しばらく後になって夫は私に仕事のことを訊こうとしてきましたが、私は夫に注意を向けたいとは決して思いませんでした。夫は次第に私に質問するのをやめていきました。私たちの間には共通の話題がどんどんなくなっていき、失望するような出来事が起こると、私は耳を貸してくれる友達に当たってみるのでした。時には遅くまで外で話し込み、夜半過ぎまで帰宅しないこともありました。それほど遅くに帰宅しても、夫は私を気遣う様子など見せず、ただ「うちをホテル扱いしてるみたいだ」と言うのです。私はひどく気分を害し、夫への不満が大きくなり、私たちはしょっちゅう口げんかするようになりました。二人とも苦しんでいました。私はこれ以上こんな生活を続けたくないと思い、夫ときちんと話せるチャンスを見つけようと決めました。

   ある日の夕食後、私は夫に頼みました。「私のこと本当に我慢ならないんでしょ。どうなの。どうして私のこと少しも気にしてくれないのよ。私のことで何か問題があるなら直接言ってよ」夫が何とも答えないので、私は夫に迫り続けました。すると驚いたことに夫はいら立って私に怒鳴ったのです。「そんな質問をするのはやめろ。君とのことは全部が問題だよ。うんざりなんだよ」こんな風に言い返され、私は怒りで頭に血が上り、私たちはまた言い合いを始めました。何か言っては言い返されるというように、しばらく口論を続けていましたが、最後は夫が立ち上がり私をドンと押しました。私はバランスを崩し、ソファに倒れ込みました。夫が私に手を挙げたことに、私は胸が張り裂けそうでした。「これがあんなに慎重に選んだ夫?これが私があれほど望んでいた結婚?この人はどうして私をこんなふうに扱えるんだろう」この時から私は夫に何かを期待するのをやめました。

   2014年4月、ほんの偶然から、ある姉妹が私に主イエスの福音を分かち合ってくれました。姉妹は主が私たちを愛していて私たちを救うために十字架にかけられたのだと言いました。私は主の愛に心から感動したので、主の福音を受け入れました。その後、私は牧師に結婚生活の問題について話したところ、牧師は言いました。「私たちは、まず自分自身が変わらない限り、他の誰も変えることはできないのです。主イエスの例に倣い、他者への寛容さと忍耐強さを実践すべきなのです」それで私は自分自身を変えようとし始めました。仕事が終わるとすぐに帰宅し、家を掃除し、時には夫が私を無視するとかっとしそうになりましたが、寛容さと忍耐強さを私にお授けくださるよう主に祈りました。自制心を失って夫と口論を始めてしまった時には、その口論を丸く収めようと私の方から働きかけました。私に起こった変化を見て、夫も主を信じるようになりました。双方が信徒になると、口論は減り、意思の疎通が増えました。主が直接私たちをお救いくださったのがわかり、私は主への感謝でいっぱいになりました。

   しかし時は流れて、私たちはなお自分の感情をコントロールできずにいました。家庭内不和はまだ時々起こり、そして特に一人が不機嫌だともう一人も寛容さと忍耐強さを実践することができず、結果として私たちの口論は激しさを増していきました。口論の後は毎回、私は心が痛み苦しくなりました。そして主に祈りました。「主よ、寛容で忍耐強くなるようにと教えてくださいますが、私はどうしてもそうできないようです。夫が私の嫌なことをするのを見ると、夫への不満が本当にひどくなります。主よ、私はどうすべきなのですか」その後、私は実践の道を見つけたくて教会が主催するあらゆる勉強会に参加し始めました。しかし望んでいたものは得られませんでした。グループのリーダーに助けを求めても、ただこう言うだけです。「妻と私もしょっちゅう口論しますよ。パウロでさえ『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。』(ローマ人への手紙7:18)と言っていますしね。たえず罪を犯しては告白するというサイクルに直面した私たちの問題の解決法を誰も持っていません。私たちにできるのは、主に祈り、憐れみくださいとお願いすることだけです」それを聞いて私は途方に暮れました。対立の泥沼にはまったまま二人とも残りの人生を過ごすのが運命だ、ということなのでしょうか。

   2017年3月、これまでずっと無口な人だった夫が突然、生き生きとした話し好きになりました。それに加えて聖書に書いてあることで自分が理解したことを、たびたび私と分かち合ってくれるようになりました。さらに驚いたことに夫の話は本当に光に満ちていたのです。私は不思議に思いました。夫が突然別人になったかのようだったからです。それに夫の言うことは本当に識見に飛んでいました。私は一体何が起こっているのか知りたいと強く思いました。ある日、夫があるSNSのグループのメンバーだと偶然に知り、すぐに夫に仲間とどんなことを話しているのか尋ねました。夫はとても真剣な面持ちで、終りの日の全能神の働きのことを検討しているのだと、主イエスが既に再臨されていて、それが全能神なのだと言いました。夫が言うには、全能神は既に何百万語もの御言葉を発せられ、終りの日における人類の裁きと清めの働きをされているとのことでした。また、それは聖書の預言「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙4:17)を完全に成就していると言いました。神の出現と働きを求めるなら、自分の観念と想像に盲目的に執着するのではなく、神の御声を聞くことに集中しなければならない。真理を追求せずにただ神の啓示を消極的に待っていたら、主の再臨を歓迎することはできないだろう、とも言うのです。これを聞いて私は衝撃を受け、信じられない気持ちでした。その後、私はかつてインド人牧師が言っていたことをふと思い出しました。神の再臨のことを耳にしたら、心を開いて真剣に吟味して求めるべきだと。自分の観念と想像を頼りにして盲目的に物事を決め付けてはいられないのだと。そこで私は主に祈りました。「主よ、もし全能神が本当に再臨された主であるなら、心を開いて真理を追求し、このことを吟味できるよう、どうか私をお導きください。そうでないならば、私が主から逸れないよう、私の心をお守りください。アーメン」

   こう祈った後、聖書を開くと、ヨハネの黙示録3章20節にこうありました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」これは私によって突然の天啓の瞬間で、主が私に話されている、再臨したらあなたの戸を叩こうと仰っているのだ、と感じました。主の声に耳を傾けて戸を開けよという主のご指示だと感じました。それはまるで聖書にある花婿の声を聞いて花婿を迎えに急いだ賢いおとめたちのようでした。それから私はヨハネによる福音書16章12-13節のことを考えました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」聖書のこのような節について熟考していると、高揚感が湧き上がってきました。主が遠い昔に、ご自身の再臨に際し私たちにさらに多くの御言葉を発し真理を授けてくださると教えてくださっていたのだと気づきました。そして終わりの日の全能神の働きは、人類を裁き清めるために御言葉を発せられることです。全能神は本当に再臨された主イエスなのだろうか。もし主が本当に再臨され、人類のあらゆる困難を解決するために真理を表されているなら、罪の束縛から逃れる希望があります。ならば私と夫の間の問題も解決できるのではないでしょうか。私はすぐさま、全能神教会の兄弟姉妹と連絡を取らせてほしいと夫に頼みました。私も終わりの日の全能神の働きを吟味したいと思ったのです。

   集会では全能神教会の兄弟姉妹が聖書からいくつか節を選んで、真理のさまざまな側面について私に話してくれました。それは主の再臨の仕方、主の新しい名前、主がどのような働きをなさるのか、といったことでした。兄弟姉妹の説教はとてつもなく説得力があり、私には全く新しいものでした。私は終わりの日の神の働きについてもっと知りたいと切望したので、何度も何度も神に祈り、神の御言葉を理解できるように私を照らしてくださいとお願いしました。神の御言葉を読み、兄弟姉妹の説教を聴くことにより、私は次第に人類を経営する神の目的、人類を救う神の働きの三段階、人類の結末と終着点について、次第に理解するようになりました。終わりの日の神の働きについて調べている間も、私はごくごく些細なことでいまだに夫と言い争ってしまうことがあり、その後でひどい罪悪感に苛まれ動揺し自問しました。「なぜ私は神の御言葉を実践できないの」私は当惑したままでした。集会で、私はある姉妹に質問しました。「私と夫はなぜいつも口げんかしてしまうのでしょうか。なぜ平和に仲良くやっていけないのでしょうか」姉妹は神の御言葉の数節を私のために見つけてくれました。「人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

   姉妹はそれから、説教をしてくれました。「最初、アダムとイブはエデンの園で神の御前にて幸せに暮らしていました。口論などありません。苦しみもありませんでした。しかしヘビの言うことを聞いて善悪の知識の木になる実を食べた後、彼らは神からどんどん離れ、神を裏切り、神によるお世話と保護を失ってサタンの権力下で生きるようになります。悲しみと苦しみの日々の始まりです。これが今日まで続いているのです。そして私たちはサタンによりどんどん深く堕落しています。私たちは堕落したサタン的な性質に満ちています。私たちはとてつもなく傲慢で利己的で嘘つきで、強情です。あらゆる物事において自己中心的で、常に人に自分のことを聞かせたいのです。だから闘ったり殺し合ったりするのです。親子、夫婦ですらお互いへの寛容さと忍耐強さを持たず、互いに調和して仲良くやっていくことができないでいます。私たちには最も基礎的な良心と理知さえも欠けているのです。主イエスが私たちを贖ってくださり、私たちが主に祈り、告白し、悔い改め、頑張って主の教えに従ってもなお、私たちはどうしても罪を犯し神に背いてしまいます。これは主イエスが人類を贖うという働きのみをされたからなのです。主イエスは人類を完全に救い清めるという働きはなさいませんでした。主イエスの救いを受け入れることは、ただ、もはや私たちに罪はなく、祈りにおいて主の御前に来て、主の憐れみを受けて罪を許される機会があることを意味するだけです。でも、私たちの堕落した性質はまだ清められていません。私たちの罪深い本性はまだ私たちの中に深く根付いたままです。私たちにはまだ、終わりの日に主が再臨なさり、人類を清め変容させる段階の働きを行なうことで私たちの罪深い本性の問題を解決していただくことが必要なのです。そして今や神は再び受肉され、私たちを堕落した性質から完全に救い、サタンの影響から逃れさせて完全に救うために、裁き清める働きを行うための御言葉を発せられています。神の新しい働きに遅れずついていき、神の御言葉の裁きと罰を受け入れ、真理を追求し、神の御言葉を実践する限り、私たちの堕落した性質は次第に変容します。これが真の人の似姿を生きられる唯一の道であり、そうすることで初めて他者とのかかわり合いにおいて調和を実現できるのです」

   神の御言葉と姉妹の説教から、私はようやく気づきました。私たちが罪を犯しては告白するという状況に常に生きているのは、主イエスが人類を贖うという働きはされても、私たち信徒の罪が赦されただけで、私たちの中の罪深い本性は非常に深く揺るぎなく存在しており、私たちのサタン的な性質はまだ清められていないからなのです。その好例が、私が主の教えに沿って忍耐強さと寛容さを実践しようとしても、夫が私の嫌な言動をするやいなやどうしても腹を立ててしまうことです。どうしても自分を制御できないのです。私たちを救う神の働きなくして、自身のサタン的な堕落した性質を自身の努力だけで拭い去ることは不可能です。そして今、人類を裁き清める働きを行なうために神が再び受肉されました。神の新しい働きを受け入れ、真理を本当に追求することで、私たちには性質の変容を達成する機会があります。私は御声を聞かせてくださった主の憐れみに心から感動し、とてつもなく感謝しました。しかし私にはまだわからないことがありました。神が私たちを清め変容させる目的で御言葉を発するために今回再臨されたのはわかりましたが、どうして御言葉が私たちの堕落した性質を裁き清めることができるのでしょうか。そこで私は自分の混乱を説明しました。

   姉妹は、神の御言葉の別の一節を読んでくれました。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)

   姉妹はさらに私と説教を分かち合ってくれました。「神の御言葉は、神がどのように裁きの働きをされるのか明確に私たちに説明しています。神は人類を裁き清めるために御言葉を使われるのです。神は御言葉によりおもに私たちの堕落した本性と本質、サタン的な性質を直接明らかにされ、細かく分析されます。また、どのように神に服従し神を崇拝すればよいのか、正しい人としてどう生きればよいか、どのように真理を追求し、性質の変化を達成すればよいか、どうすれば正直な人でいられるか、そして神が何を人に望まれ要求されるかを明確に説いてこられました。神はどのような人を好まれ、どのような人を排除されるか、また他に多くのことも告げられてきました。また、私たちを刈り込み取り扱い、試し、精錬するための人々、出来事、物事、環境を準備されます。こうして私たちの堕落した性質が明らかにされ、私たちは神の御前に行き真理を追求し、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、自らを顧み、自らを知ることを余儀なくされます。神の裁きと刑罰の御言葉を受け入れると、まるで神が私たちと面と向かって生き生きと話されているように感じられるのです。そこで神に対する私たちの不従順と抵抗、私たちの不正な動機、私たちの観念と想像を余すところなく明らかにされます。それで初めて私たちは自らの本性と本質が傲慢さとうぬぼれ、欺瞞、腹黒さ、身勝手さ、卑劣さに満ちていることを知ることができます。私たちは神への畏敬の心が全く欠けていること、サタン的で堕落した本性に完全に基づいて生きていること、露呈するものすべてがサタン的性質であること、ただただ人の似姿に欠けていることを知るのです。すると自分を憎み始め、心から自分を嫌悪し、これ以上サタンの影響下で生きていたくないと、サタンにもてあそばれ傷つけられるのはもうたくさんだと思います。何よりも、神の裁きと刑罰をとおして神の神聖な本質と罪を一切許容しない神の義なる性質とを知ります。神への畏敬の心が私たちの中で生まれ、神に御満足いただくために真理を実践しようと意欲的になります。ひとたび真理を実践し始めると、神の善に満ち憐れみ深い性質が私たちに明かされます。神の御言葉を読み続け、神の裁きと刑罰を経験し続けることにより、自身の堕落した本性についての認識を深め、神が表現される真理をさらに認識し、神の裁きと刑罰を受け入れ服従すること、肉を見捨て真理を実践し神に満足していただくことをさらにいとわなくなります。堕落の露呈が減っていき、真理を実践するのがどんどん容易になり、神を畏れ悪を遠ざける道へと次第に歩みを進めていきます。神の御言葉による裁きと刑罰を経験すると、これが堕落した性質から私たちを救い癒す万能薬であることを誰もが心から確信することができます。これが私たち堕落した人間に対する神の至高の真の愛であり、神の御言葉による裁きと刑罰を経験しなければ、真の人の似姿を生きることは決してできません」

   神の御言葉と姉妹の説教は、私にとってとても大きな衝撃でした。終わりの日の裁きと刑罰という神の働きは本当に実際的だと思い、また自分の堕落した性質が変容するよう願うなら、神の御言葉による裁きと刑罰を経験しなければならないのだと思いました。そうでなければ、罪を犯しては告白するという循環の中に永遠に生き続け、罪の束縛から決して逃れられないのです。ですから心の中で神に祈り、御言葉で私を潤し糧を与えてくださいと、そして自分自身を知り、堕落した性質が近い将来変容して真の人の似姿を生きられるように私を裁き罰する環境を整えてくださいとお願いしました。

   終りの日の神の働きを受け入れた後、私はまた神が私のために整えてくださったこの結婚について、新たな認識を得ました。ある時、ある姉妹が私のために神の御言葉の数節を読んでくれたのです。「人間は、自分が結婚を経験するまで、結婚に関して様々な幻想を抱き、その幻想は全て美しい。女性は、白雪姫に登場する王子のような自分の夫を想像し、男性は自分が白雪姫のような者と結婚することを想像する。こうした空想により、人間には、それぞれに結婚の条件、数件の要求事項、基準事項があることが示される。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より)「結婚は人生における重要な節目である。結婚は人間の運命の産物であり、人間の運命における重要な繋がりである。結婚は人間の個人的な意志や嗜好に基づくものでも、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、当事者双方の運命、双方の運命に関する創造主の采配と定めにより決定される。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より)「したがって、ある者が結婚した場合、その者の人生の旅路は、その者の配偶者に関与して影響を与え、同様にその者の配偶者の人生の旅路はその者の人生の運命に関与して影響を与える。換言すると、人間の運命は相互に関連しており、他人に全く依存せずに自分の人生における使命を全うし、役割を果たすことが出来る者はいない。人間の出生は、極めて幅広い関係の結びつきに影響を与える。また、成育にも複雑な関係の結びつきが含まれる。それらと同様、必然的に結婚もまた、極めて幅広く複雑な網の目のような人間関係の中に存在し、維持されて、その関係に含まれる全ての者の運命に影響する。結婚は、当事者双方の家族や、成育環境、容姿、年齢、資質、才能その他あらゆる要素の産物ではなく、むしろ共通の使命と関連する運命から発生する。これが、創造主により指揮され、用意された、人間の運命の産物である結婚の起源である。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より)姉妹はそれから私と説教を分かち合ってくれました。「私たちの結婚はどれもがみな、神によって予定されていて、私たちが誰と家庭を持つかを神がずっと前に決められているのです。みな神ご自身の知恵により采配されています。神が私たちのためにお選びになった結婚は、私たちの社会的地位や外見や能力によるのではなく、両人の人生における使命により決定されます。しかし、私たちは自身の堕落した性質にコントロールされているので、たえず自分の片割れにたくさん要求し、いつも相手が物事を自分のやり方で行なってほしいのです。相手がそうしないと、私たちはそれを受け入れるのを拒否し、不満に感じます。相手と口論したり怒ったり、不平をぶつけたりもし、また神を責めたり誤解したりもします。こうして両人とも苦しんで生きることになります。この種の痛みは他の誰からももたらされるものではなく、神の支配や編成によるものでもなく、ただ私たちが傲慢でうぬぼれた堕落した性質で生きているがゆえなのです。このような堕落した性質により、私たちは神の支配に抗います。神の采配や編成に服従できずにいるのです」

   姉妹のこの説教を聴いて、私は夫との今までの関係を思い返しました。私はいつも夫に対し不満を露わにし、いつも私の思い通りにしてほしいと要求していました。夫が私のことを気にしていなかったり私に気遣いや思いやりをみせてくれないと、また私が幸福であるか知ろうとしてくれないと、夫に対し文句を言い、だめな人だなどと思っていました。私は夫をあらゆる面で見下し、冷戦をふっかけ、彼に注意を払うのを拒否していました。私はようやく、自分が実に傲慢でうぬぼれていて利己的で卑劣な人間だったとわかりました。自分の利益しか考えず、他人の気持ちを考えようとしない人でした。よくよく考えてみると、夫が私に思いやりがないなどというのは全く真実ではありませんでした。夫はただかなり内向的であまり感情を表さないだけだったのです。そして夫には独自の思いや好みがありました。それなのに私は夫がしたがらないことをさせようと躍起になっていたのでした。私はいつも夫に私を中心にして動き回ってほしくて、それが私たちの間であれほどの対立が起こった原因だったのです。私は自分の過去の振る舞いを後悔せずにはいられませんでした。また夫が言ったことを思い返せば、過去に主の福音を夫に伝えたのは私の方ですが、今度は夫が終わりの日の神の福音を私と分かち合ってくれたのでした。これは私たちへの神の偉大な御恵みで、神の素晴らしい編成でした。私たちは二人とも極めて恵まれていたのに、私には感謝の気持ちが一切ありませんでした。それどころか神が私のために手配してくださった結婚に自分を委ねようとせず、たえず神を責めていました。自分がどれほど傲慢でどれほど理知を欠いていたかがわかりました。御言葉で私を導いてくださった神に感謝します。私はこの結婚におけるあらゆる苦しみの根源を見つけました。そして心が楽になり力が抜けるのを感じました。またこの時から、傲慢でうぬぼれた堕落した性質を捨てるため、そして夫と仲良く暮らしていくため、私は生活において喜んで神に頼り、神に目を向けるようになりました。

   それ以来、夫と私はよく一緒に神の御言葉を読んだり真理に関して交わったりするようになり、被創造物として自らの能力の最善を発揮して本分を尽くしています。また、毎日神の御言葉により糧と潤いを得ています。問題に直面した時には、神の御言葉から神の御意志を求めます。堕落を露呈したり口論を始めたりすると、二人とも神の御前に進んで自らを顧みて自らを知ります。このように実践していると、お互いへの認識も赦しの心も育っていきました。口論の回数はどんどん減り、家庭生活は調和し、人生がどんどん充実してきました。私が一番感動したのは、夫が私よりも真理を認識していることです。夫はよく神の御言葉で理解したことについて私と説教を分かち合ってくれ、私の堕落した性質が見えた時には真理と神の御意志について話してくれます。私への夫の思いやりと愛を本当に感じ、心から幸せです。私たちの歩んだ道を振り返ると、いまだに私は私のまま、夫は夫のままです。終りの日の全能神の働きを受け入れ、いくらかの真理を理解してきた、ただそれだけで、何もかもがすっかり変わったのです。私たちをお救いくださった全能神に感謝します。


仕事でインスピレーションを得られないことにもう悩まされない!

2020-07-03 00:23:40 | 信仰生活

  聖書には次のように記載されています。「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。 」(箴言 9:10)。私達は全員、神様こそ知恵の源であられることを知っています。実際、私達が日々の生活でどのような困難に遭遇したとしても、真実の心で、神様に祈り、神様に頼る限り、神様から御知恵を授かり、困難を解決してしまうでしょう。

   先日、上司が私と2人の同僚に、ある業務を割り当てました。上司は、私達1人ひとりにテーマポスターをいくつかデザインするように命じました。その上、今回のポスターでは厳格な要件が設けられており、この種のポスターを私はそれまでデザインしたことがありませんでした。最初、やり遂げることができないかもしれないと私は不安になりました。しかし、「これまでこの種のポスターをデザインしたことはないが、別の種類のポスターならこれまでもデザインしたことがある。インターネットでいくつかの情報を検索すれば、もしかしたら上手くやることができるかも知れない」と考え直しました。そこで、デザインを考え始めました。いくつかの関連するコースをオンラインで検索し、私がこれまで集めてきたポスターを1つずつ見ていきましたが、頭には何も浮かばず、どうデザインすればよいかが分かりませんでした。その時、私は不安になり、「他の2人の同僚が仕事を完成して、私にできなかったら、私は実力不足で、本当の能力や学習能力がなく、この会社でデザイナーの振りをしているだけと上司は考えないだろうか?」と思いました。それについて考えれば考えるほど、集中できなくなりました。

   そして、助けを求めて1人の友人のところへ行き、彼女には何か考えやよい提案がないかを尋ねました。彼女はいくつかの参考写真を見せてくれました。これらの写真を見ても、ポスターをどうデザインしたらよいか分かりませんでした。そのとき、2人の同僚はデザインを完成させたと聞き、さらに不安になりました。そして、2人の元同僚がこの種のポスターを前に作成したことを思い出し、助けてくれることを願いながら、急いで彼らのところへ行きました。しかし、物事は私の願いと反した展開になりました。2人共忙しく、時間がなかったのです。空白のままのソフトウェアインターフェースを見ながら、あまりにも不安になり、ほとんど泣き出しそうでした。

   万事休すでどうすればよいか途方に暮れていたちょうどそのとき、神様に頼るべきだとうことを思い出しました。聖書では次のように記載されています。「これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。」(箴言 2:6)。私は、「その通りだ!神様は知恵の源で、真実の心で、神様に頼り、神様を仰ぐ限り、神様の御啓示とお導きを受け、すべての困難を解決することができる。当初、モーゼがイスラエル人達を率いてエジプトを出国していたとき、彼らは前方には紅海が広がり、後方にはエジプト王の兵士が迫り、進退窮まっていた。しかし、モーゼは神様に心から祈り、神様に頼ることで神様の驚くべき御偉業を目の当たりにした。紅海が開き、乾いた大地が現れ、イスラエル人達はエジプト人兵士の追っ手から逃げおおせることができた。同様に、小さなダビデがペリシテ人の巨人と戦ったとき、ペリシテ人は剣と槍と盾を使ったが、ダビデは万軍の神、ヤーウェの御名に頼った。ダビデは神様に頼ることで、投石具と石1つでペリシテ人の巨人を倒した。ですから、私が神様に頼るならば不可能なものは何もない。神様は私の最強のサポーターなのだから」と考えました。

   この考えに、自信が湧きました。そして、心からの御祈りを捧げ、私が遭遇している困難を神様に委ねました。御祈りを捧げ、神様の御前で心を静めてから、ポスターのデザインに取り掛かりました。参考写真を検索したり、エレメントをデザインしたりする度に心の中で静かに神様に祈りました。無意識のうちに、何らかの考えと、前よりも明確な方向性を持つようになっていました。私が目にした参考写真が何であれ、その重要な箇所を見つけることができ、それをデザインに加えることができました。2時間後、私は7つのデザインを完成させました。これらを眺めていると、1日かけても完成できなかったデザインを神様に祈り、神様に頼って2時間後に完成したことが、とても信じられないような感じがしました。これは、神様の御啓示とお導きあってのことで、神様が私に御知恵を授けてくださったことが分かっていました。その後、私がポスターを上司に見せると、上司はこれらの出来栄えに満足し、高い評価をしてくれました。私は心から神様に感謝の気持ちを捧げました。一方、私は、神様に頼り、神様を仰ぐ限り、困難は何もないこと、そして神様に頼る限り、私達には無限の知恵が与えられることを深く経験しました。すべての栄光は神様のものです!


なぜ主イエスは天国の鍵をペテロに与えたか

2020-06-18 23:54:10 | 信仰生活

聖書を読んで困惑する

   私は朝早く起きると、祈り、聖書のマタイによる福音書16章19節を開きました。主イエス様がペテロに語った内容が書かれている箇所です。「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。この句を読んで私は困惑し、思いました。「ペテロは大した働きもしていないし、ペテロが書いた書簡も大して有名でもない。それだけでなく、主イエス様が捕えられて裁判にかけられた時、ペテロは三度もイエス様を否定した。それなのになぜ主は天国の鍵を他の使徒達ではなくペテロにだけ与えたのだろう。」聖書をあちこち開いて調べましたが、結局解決に繋がるものはなく、そのまま仕事に出かけるしかありませんでした。

 

 同僚の助言によって答えを見出す

   昼休み、私は依然として朝の疑問を引きずっていました。「神様は義なる方で、間違えたことはなさらないのに、なぜ主イエス様は天国の鍵をペテロに与えたのだろう。そこにどんな奥義が隠されているんだろう。」はっきり知りたいと思った私は、長年主を信じている同僚に聞いてみました。同僚は微笑んで言いました。「主がペテロに天国の鍵を与えられたのは、主がペテロを選ばれたから。ではなぜ主はペテロを選ばれたんだろうか。」 戸惑う私に友人は続けました。「主イエス様が弟子達に対して自分が誰かと聞いた時、ペテロが何て答えたかを覚えているかい。」私は答えました。「シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』。」(マタイによる福音書 16:16)同僚はうなずいて続けました。「その通り。イエス様の12弟子のうち、ペテロだけが聖霊の啓きを受け、主イエス様こそ預言されたメシアであり、キリストだと言った。主イエス様が、自分がいのちのパンであり、人は自分の肉を食し、血を飲むだけで永遠のいのちを得ると言われた時、多くの人が観念を抱き、そして主に従うことを止めた。だがペテロだけはこう言った。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。(ヨハネによる福音書 6:68-69)このふたつの出来事から、ペテロが主イエス様の言葉と働きを本当に理解していたことが分かる。ペテロは、主イエス様がキリストで永遠のいのちの道だったと確信していたんだ。だから、パリサイ人がどれほど主イエス様を裁き、非難し、攻撃しても、決して混乱することなく、周りの人達が主イエス様を捨てるかどうかに関係なく、誰にも強要されずに献身の姿勢を貫き、最後まで主に従ったんだ。主が甦られて天に昇られた後、ペテロは主のご命令通りに教会を牧会したんだ。ペテロは主の福音を広め、最終的に主のために逆さ十字架にかけられ、力強く美しい証しとなったんだ。このことから、ペテロが主を本当に理解しており、主に対して純粋な愛の心を持っていたことが分かる。そうでなければ、ペテロが生涯を通して主に従い、福音を伝えることは不可能だったし、特に、神様に対する究極の愛と、死に至るまでの従順を貫くことは不可能だった。

   わたしはうなずいてこう言いました。「あなたの言う通りよ。12弟子の中でペテロだけが主イエス様がキリストだと理解し、ペテロだけが主イエス様のために逆さ十字架にかかったのよね。それを見ても、ペテロが主に受け入れられ、認められるようなものを持ち合わせていたことが分かるわ。」

 

主イエスを愛し、主イエスに認められたペテロ

   同僚は続けました。「主イエス様は言われた。『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。」(マタイによる福音書 22:37-38)「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。」(ヨハネによる福音書 14:23-24)「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書 7:21)主イエス様の言葉から、主イエス様は私たちが心と思いの全てで主イエス様を愛し、その言葉によって実践し、主の道から離れないことを望まれていたことは明らかだ。ここに書かれているのは主イエス様が私たちに求めておられることで、私たちが主の栄光を受けて天の御国に入るための基準なんだ。ペテロはこのような主の言葉に従って追い求めていたんだ。神を愛することを目標としていて、神を愛する者になることを追い求めたんだ。主イエス様がゲッセマネの園で捕らえられた時、ペテロは駆け寄って主を守ろうとし、大祭司の手下の耳を切り落とした。ペテロのした事は軽はずみだったけれど、危険な状況の中でも進み出て主を守ろうとしたのは、彼が心から主を愛していたこと、主を守ろうとしたことの表われだ。ペテロは主を知らないと三度否定したが、悔い改めて自分自身を忌み嫌い、しかも自分の過ちの原因をしっかり考えた。ペテロは自分の命を主に差し出したいと思っていたが、現実的に神の前に命を差し出す純粋な愛を持ち合わせていなかった。まだ死の束縛の下にあり、命を危険にさらすことができなかった。だから、ペテロはその先さらに追い求めることを目標とし、主を愛して主に満足していただくことを残りの生涯で求め続けたんだ。ペテロは生涯を通して主に託された任務に忠実だった。主イエスが復活して天に帰られた時、ペテロはあちこちで福音を述べ伝え、群れを牧養した。主の言葉と主の御心の証人となり、どのように主の言葉を実践するかを教えたんだ。その働きの中で、ペテロは自分が理解した真理と純粋な神に対する理解によって兄弟姉妹を支え、どこにいても神をたたえ、神の証しとなり、兄弟姉妹を神様の前に導いたんだ。どれほどユダヤ教の指導者達に追われても、ローマ政府に迫害されても、苦しみは困難の中にあっても、ペテロは神様からの任務に忠実であり続け、神様が命ずることを忘れたことはなかった。ローマの暴君ネロがクリスチャンを迫害しようとした時、周囲の助けによってペテロはローマの街から逃げ出した。主イエス様がペテロに現れ、ご自身がペテロの為に再び十字架につけられると告げた。主の御心を理解したペテロは、ためらわずに引き返し、逆さ十字架にかけられるために自分の命を投げ出した。そうすることで、ペテロは神と神の究極の愛に対して死に至るまでの忠誠を証ししたんだ。ペテロは主を愛し、天の父の御心を行う人間であり、彼が求めたものは神の承認を得たんだ。だから主イエス様はペテロに天国への鍵を渡された。もし私たちが天の御国に入りたいのであれば、ペテロに倣い、主の愛を知り、天の父の御心を行うものにならなければいけないんだ。主が約束されたものを獲得するにはそれ以外にはないんだ。

   同僚の話を聞いて突然気づいた私は言いました。「そうか、ペテロは本当に神様を愛して従った人だったのね。主イエス様がペテロに天国への鍵を渡されるのも当然ね。ペテロの経験に比べたら私の信仰や私が主に差し出したものなんて、単に自分が天国に入るためのもの、自分が報われるためのものでしかなかったわ。主の御言葉を実践するとか、主の要求にこたえるなどと言うことを考えたことはなかったわ。主への働きの中でも、主の御心を兄弟姉妹達と語り合うことすらなかった。福音を伝える中で困難に出会えば、兄弟姉妹を支えることもできずに消極的で弱くなり、主に対する信頼を失っていたわ。今、こうしてペテロと自分を比較してやっと、自分が主を愛する人間でないことが分かったわ。ペテロの証は本当に私たちが倣うべきものだけど、それならペテロはどのように主を知り、愛することを追い求めたのかしら。」

 

ペテロはどのように主を知り、主を愛したか

   私がこう言うのを聞いて、同僚はよろこんでタブレットを取り出して言いました。「福音のサイトでペテロがどうやって主を知り主を愛することを求めたかを読んだことがあるよ。かなりはっきり書かれてた。一緒に読んでみようか:「ペテロは何年にもわたりイエスに従い、人々が持っていない多くのことをイエスの中に見た。… イエスの動きのすべてが生涯ペテロの手本になり、イエスの説教は特にペテロの心に刻まれた。彼はイエスに対して非常に思いやりがあり、忠実であり、決してイエスに不平不満を持たなかった。こういうわけで、彼はイエスが行くところどこでもその忠実な伴侶となった。ペテロはイエスの教え、イエスの穏やかな言葉、食べるもの、着るもの、日々の生活、旅を観察した。ペテロはあらゆる点でイエスのやり方に従った。彼は独善的ではなく、以前の古臭い事柄をすべて投げ捨て、言葉や行動においてイエスの例に従った。ペテロが天地万物は全能者の手の中にあることを感じたのはこのような時で、そのような理由から、彼は自分で選択はせず、イエスという存在のすべてを手本として吸収した。」『言葉は肉において現れる』の「ペテロの一生」より「一定の経験を積んだのちに、ペテロはイエスの中に神の業を見、神の愛すべきことと神であるものを見た。そしてイエスの言葉は人が話すことのできないものだと知り、イエスの働きは人にはできないものだと知った。さらに、イエスの言葉と働きの中に、神の知恵と神性の働きが多く含まれていることもペテロは知った。ペテロはこの自身の経験の中で、自らを知るに至っただけでなく、イエスの行うことを見ることに焦点を当て、新しい事柄を数多く学んだ。つまり、イエスを通して神が行った働きの中に、実際の神が多く表現されており、イエスの言葉や行い、教会の牧養の仕方やその働き方が、普通の人とは異なっているということを学んだ。こうして、ペテロはイエスから学ぶべきことを数多く学び、イエスが十字架に架かる時までに、イエスに関してある程度の知識を得ていた。こうした知識によって、ペテロは生涯イエスに忠実に仕え、イエスのために逆十字の刑を受けたのだ。」『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが、神の証人となることができる」より

   ペテロは主の福音を広め、最終的に主のために逆さ十字架にかけられ、力強く美しい証しとなったんだ。

   これを聞いて私は同僚に言いました。「へえ、じゃあペテロは主イエス様に従う中で、いつも主の行いや振る舞いを観察していたのね。そうすることで、主イエス様の言葉や行動から、ペテロは主を知るようになったのね。」

   同僚は答えて言いました。「その通り。この二か所を読めば、ペテロが主を知りたいと思っていたことが分かるし、主イエス様とのやりとりの中で、ペテロがイエス様の言葉や行いを一つひとつ取り入れていたことが分かるんだ。主イエス様の中に、ペテロは実に多くの神性を見た。例えば、主イエス様が語った言葉は真実で、力と権威に満ちていて、人々の霊的必要を与えて下さる。イエス様のなされた奇跡や驚くべきことは神様の権威と全能性を現わしていて、人間ができることではない。主イエス様は憐れみによって罪人を救われ、全ての罪を赦され、人類に豊かな恵みを下さった―人間に対する愛と憐れみに満ちておられたんだ。ペテロもまた、主イエス様が七つの災いをもってパリサイ人をとがめ、非難したことを通して主イエス様が聖く義であり、人間の背きを許されないことを知ったんだ。ご自身の働きの中で、どれほど肉的な苦難を伴い、努力が必要でも、そしてたとえ命を犠牲にしなければならないとしても、主イエス様は自らの任務を全うする決意だった。ペテロは、キリストの本質が父なる神様の御心に従うことであることを知った。ペテロはイエス様の中の大いなる神性を知り、純粋で実践的な神様に対する理解を得たんだ。それだけでなく、ペテロは主イエス様の言葉を心に刻み、繰り返し思い巡らし、そこから主の御心を理解して神様の人間に対する要求が何かを追い求めたんだ。イエス様はペテロに三度次のように聞いた。「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。(ヨハネによる福音書 21:16)ペテロはしばしばこのことを熟考し、内省することによって自分の愛が単に天におられる神様に対するものであり、実際のキリストに対するものでないことを理解したんだ。それは真に神様を愛することではなかった、そして地上におられるキリストを愛する事が純粋に神様を愛することだと気づいたんだ。それ以後、ペテロは頻繁に祈り、どのように主を愛するかを追い求めたんだ。最後に彼は、神様に対する究極の愛と死に至るまでの従順に到達し、真に神様を愛する者となったんだ。ペテロはまた、主イエス様からの批判を受け入れることもでき、そこから真実を求めようとしたんだ。イエス様がはりつけにされると知ったペテロはイエス様のすることを妨げようとし、そのような事などあり得ないと言ったが、イエス様はペテロを強く非難して言われた。「サタンよ、引きさがれ」。(マタイによる福音書 16:23)イエス様の強い非難から、ペテロは主が人の熱意や優しさを嫌い、神様の御心を妨げるものはいかなるものでもサタンの行為であり、神様に非難されることを知った。そのことからペテロにとって、主の業、行動、説教、そして非難の言葉から主を理解することが大切であったことが分かる。だからペテロは主を真に理解し、主に対する純粋な愛を自身の中に強くしていったんだ。」

   同僚の話を聞いて、私は、神様が本当に人の心と思いを探られるのだと感じました。主イエス様は無意味にペテロを称賛し、天国への鍵を渡されたのではないのです。イエス様はペテロの人間性と力量に自分との繋がりを感じ、ペテロの真理と主に対する愛に自分との繋がりを感じたのです。ペテロが誰よりもご自身の任務と信頼に相応しいとイエス様は知っておられ、だからご自身の羊を飼うという責務をペテロに任せられたのです。振り返ってみると、私は主を三度否定したペテロに対する主の承認を理解できていませんでした。けれども今は、主が見られるのは人の本質であることが分かります。一方私はと言えば、ペテロの振る舞いの一部だけを見ていました。しかもそれは、ペテロが主に従い始めてから僅か3年ほどの時のことで、彼の信仰はそれほど成長していませんでした。生死の境目では、肉の弱さが出ても当然です。誰かの小さな過ちに付け込んで私が非難することなどできないはずです。もしそれが私自身であったならば、イエス様が連れ去られた時に逃げていたでしょう。それでも私はペテロを裁いて過小評価していたのです。あまりに傲慢で、愚かで、無知でした。同僚からの話を聞いて、ペテロは神様に喜びをもたらしたこと、私たちもペテロに倣うべきであることを知りました。私は自分の人生において、主の御言葉を実践し、主への働きと奉仕に全力を尽くし、あらゆることにおいて主を知り、愛することを求め、主の御心を全うする者となりたいです。そうして初めて、私は神様に承認していただくことができ、天の御国へ入る機会が与えられるのです。

   このようなことを理解した私は、同僚に言いました。「主の導きと、今日のこのような会話に感謝します。主イエス様がペテロに天国への鍵を与えられたことが、今理解できました。今日の話には真に神様の奥義があります。どう求めればよいか、私も分かりました。主の導きに感謝します!アーメン!」

   同僚も笑顔で言いました。「主に感謝します!アーメン。」


主イエスのご身分が洗礼者ヨハネのそれと違っていたのはなぜか

2020-06-10 12:46:00 | 信仰生活

  信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

   こんにちは!お訊きしたいことが一つあります。主イエスと洗礼者ヨハネはともに約束によって生まれ、主イエスはおいでになったときに天国の福音を宣べ伝えられましたが、ヨハネも多くの働きを行ない、「悔い改めよ、天国は近づいた」という福音を広めました。しかしヨハネの身分が主イエスのご身分と同じでないのはなぜでしょう。お返事をお待ちしています。

   敬具

   張宇

 

 

   こんにちは張宇さん

   私も最初は、主イエスと洗礼者ヨハネの身分がなぜ違っているのかわかりませんでした。その後集会のとき、ある福音のウェブサイトでその問題に関する交わりを探し求めるのを、同労者の一人が手伝ってくれました。兄弟姉妹とのその交わりを通じ、私はいくらかの認識を得ました。それをいまあなたと分かち合いたいと思います。

   主イエスのご身分がヨハネの身分となぜ同じでないのかについては、聖書に答えを見つける必要があります。まずはヨハネの生誕にまつわる状況を見てみましょう。ヨハネの母エリサベツは子を身ごもることができず、夫ザカリヤとともに何年も前からすでに老いていたので、ザカリヤは神様に祈りました。すると天使が彼にこう告げました。「……あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい」(ルカによる福音書1:13)「彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」(ルカによる福音書1:17)これらの聖句から、ヨハネが生まれる前に天使が彼の身分を明かし、エリヤの霊と力とをもって主に先立って行くと述べたことがわかります。エリヤは旧約聖書の律法の時代の預言者であり、ヨハネは実はエリヤの生まれ変わりだったのです。そのことは聖書で確認できます。「見よ、ヤーウェの大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」(マラキ書4:5)「弟子たちはイエスにお尋ねして言った、『いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか』。答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう』。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った」(マタイによる福音書17:10-13)

   ヨハネが生まれる前、天使はこう言いました。「彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き……整えられた民を主に備えるであろう」(ルカによる福音書1:17)ヨハネが生まれたあと、ザカリヤは聖霊で満たされてヨハネにこう預言します。「幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみまえに先立って行き、その道を備え、」(ルカによる福音書1:76)また『マルコによる福音書』第1章3節にはこう記されています。「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」これらの聖句から、ヨハネの使命は主の働きのために道を備えることであり、彼の身分が預言者のそれだったことがわかります。成長したヨハネは自分の本分と使命を履行し始めました。また聖霊の啓きのおかげで、自分が主イエスのために道を備える者だということも知りました。その一例が次の聖句です。「このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。彼は宣べ伝えて言った、『わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう』」(マルコによる福音書1:6-8)これらの聖句から、ヨハネは天国の福音を宣べ伝えたものの、彼の身分は普通の人間のそれであり、主のために道を備えた預言者に過ぎないことがわかります。ヨハネは主イエスが恵みの時代の働きをよりよく実行なさることができるように、主イエスの働きを人々のあいだに広めたのです。

   これでヨハネの身分ははっきりしました。次は主イエスのご身分に目を向けましょう。『ルカによる福音書』第1章30節から35節にはこう記されています。「すると御使が言った、『恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう』。そこでマリヤは御使に言った、『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに』。御使が答えて言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう』」またイザヤもこう預言しました。「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」(イザヤ書9:6)イエスが地上へおいでになる以前、そのご身分は神様の子、すなわち神様ご自身のそれだと、天使がすでに言っていたのです。そして預言者イザヤもイエスのご身分は神様だと預言しました。

   ここで他の聖句を読みましょう。「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」(マタイによる福音書3:16-17)「そこでイエスは彼らに言われた、『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』。シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』。すると、イエスは彼にむかって言われた、『バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である』」(マタイによる福音書16:15-17)これらの聖句から、イエスがご自身の職分をお始めになるべく洗礼を受けられたとき、イエスは神様の愛する御子であると聖霊が直接証しをしたことと、イエスが自分は誰かとペテロにお訊きになったとき、ペテロは聖霊に啓かれ、イエスこそ生ける神の子キリストであると答えたことがわかります。またイエスはこうもおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14:6)以上の聖句から、イエスのご身分はキリストであり神様であることがはっきりわかります。

   これらの聖句から、主イエスと洗礼者ヨハネはともに約束によって生まれたものの、二人の身分には決定的な違いがあったことがわかります。主イエスが肉となられた神様でありキリストである一方、ヨハネは神様によって用いられる人、預言者に過ぎませんでした。

   加えて主イエスとヨハネの働きの本質からも、両者の身分の違いがわかります。神様の御言葉はこうおっしゃっています。「ヨハネによってなされた働きとイエスの働きとは同じではなく、性質が違っている。それが、神であるかどうかを決定するものである。イエスの働きとは、始めて、続けて、終わらせて、達成することであった。これらの段階をそれぞれイエスは実行したが、一方ヨハネの働きは、始まりの働き以上ではなかった。最初にイエスは福音を伝え、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後にイエスは人類を罪から贖い、その時代全体のための働きを完成した。イエスは人々に説教し、あらゆる場所で天の国の福音を宣べ伝えた。この点ではイエスとヨハネは同じであったが、イエスは新しい時代の到来を告げ、人間に恵みの時代をもたらしたという違いがあった。人が恵みの時代に実践すべきことと従うべき道に関する言葉がイエスの口から発せられた。そして、最終的にイエスは贖いの働きを終えた。ヨハネはそのような働きを決して実行することはできなかった。だから、神自身の働きを行なったのはイエスで、イエスが神自身であり、神を直接表すのもイエスである。」

   神様の御言葉のこの部分を最後まで読むと、外見で判断すれば主イエスとヨハネはともに普通の正常な人であり、したがって二人の身分を区別するのは容易でないものの、二人の行なった働きを通じて二人の身分を区別し確かめられることが理解できます。当時、ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と宣べ伝え、多くの人が彼に従いました。しかし彼は悔い改めの具体的な道を語ることができず、主イエスのために道を備え、人々が神様の働きと歩調を合わせられるように天国の福音を彼らに伝えただけでした。ヨハネが広めた福音を聞いたあと、人々は悔い改めることしか知らず、実践すべき道は知らなかったので、いまだ律法に制約されたままでした。ヨハネは人間であり、真理を有しておらずそれを表することもできなかったので、人々に道や真理やいのちをもたらすことはできませんでした。それに比べると、主イエスもご自身の職分を果たし始めるとき、悔い改めの道をお広めになりました。外見から判断すれば主イエスは普通の正常な人間ですが、神性の実質を有しておられました。主イエスは新しい時代を導いて古い時代を終わらせることができ、また人々のために真理を表わして実践すべき道を指し示すこともおできになりました。一例を挙げると、自分に対して罪を犯した兄弟を何度赦すべきかとペテロが尋ねたとき、主イエスは七たびを七十倍するまで赦すよう彼におっしゃいました(マタイによる福音書18:21-22を参照のこと)。またイエスは、天国に入るための条件は父の御心を行なうことだと私たちにおっしゃっています(マタイによる福音書7:21-23を参照のこと)。他にもまだありますが、主イエスが表現されたこれらの御言葉によって、私たちは神様の御心をはっきり理解するとともに、実践の道を知るようになります。さらに重要なこととして、主イエスは十字架につけられて人のために罪の捧げ物としてお仕えになり、それによって人を罪から救えるように肉となられました。人は自分の罪を赦されて初めて、神様に祈り神様の救いを得る機会を持つのです。主イエスがそのようになさっていなければ、人は律法によって罰せられ、律法の下で死刑に処されていたでしょう。人類を贖う働きは主イエスだけがおできになったのであって、ヨハネや他の誰かがそのような働きを行なうことはできませんでした。

   よって以上二つの側面から、主イエスとヨハネの身分がなぜ違っているのかがわかります。

   以上の交わりと理解があなたのお役に立つことを願っています。

   信仰ステーション


サタンの哲学は人を陥れ、損害を及ぼす

2020-05-19 22:30:03 | 信仰生活

   少し前のことですが、教会は、仕事上の理由から、私がホストファミリーと暮らすよう、手はずを整えました。ホストファミリーの兄弟姉妹と最初に話した時、彼らは「交流会でのお祈りを最も恐れています。自分たちだけでお祈りをする時には何と言えば良いかを心得ています。しかし、交流会でお祈りをする時には何と言って良いのか分からなくなります。」と言いました。これを聞いた時、「交流会でお祈りをしなければ、聖霊の働きを受けることができなくなるだろう。それでは、交流は効果を発揮することができなくなってしまう。私たちは祈る必要がある!」と思いました。その後、「彼らがお祈りを本当に恐れているならば、私が彼らにお祈りするように強要したら、彼らは私に反感を抱かないだろうか」と考え直しました。記事を編集するという私の責任を果たすため、私は長期間このホストファミリーと暮らす必要がありました。「私が彼らの願いを聞き入れないことにより、彼らが私に反感を持ち、もう私を家に滞在させたくないということになったらどうすれば良いだろうか。彼らの願いを聞き入れた方が良さそうだ。」と考え、その翌月の交流会では一度もお祈りをしませんでした。これにより、神の言葉に関する話は退屈で味気ないものとなり、聖霊の啓示を全く欠いたものとなりました。話し合う論点から逸脱することもよくありました。兄弟姉妹の状態は段々と正常ではないものになっていき、交流意欲が低下していきました。交流会中でも、常にぼんやりすることが多くなり、神の言葉を飲食することを重要と考えなくなりました。彼らは時間があればテレビを観、私に対してかつてのような親しみある態度を示さず、私と話をすることさえ気が進まないようでした。このような状況を目の当たりにし、私は心が痛み、「私は彼らの願いをすべて聞き入れ、彼らに反対しないでた。なのになぜ、彼らはこんな風になったのか」と混乱しました。


   

   この状況に全く困惑してしまっていると、神の言葉が私を啓きました。「あなたがたに神との正常な関係が無い場合、人間関係を維持するために何をしようとも、またいかに精力的に取り組んだとしても、またいかに多くの労力を費やしたとしても、それは依然として人間の人生哲学の範疇に属するものである。あなたがたは、人々が自分を賞讃するようにするため、人間の観点と哲学により、人々の中における自らの地位を維持している。あなたがたは、神の御言葉に従って正常な人間関係を確立してはいない。人間関係に重点を置かず、神との正常な関係を維持し、自らの心を神に捧げて神に従うことを学んだならば、全ての人間関係も極めて自然に正常なものとなるであろう。…正常な人間関係は、自らの心を神に捧げることを基礎として成り立ち、人間の取り組みによって実現されるものではない。」(『言葉は肉において現れる』の「神との正常な関係の確立は極めて重要である」より)神の言葉を通して、私は、突如として光を見ました。結局は、こういうことだったのです。人間の肉の関係を維持することに盲目的に意識を集中し、神との正常な関係を築くことに意識を集中しなかったために、このような状況を招いたのです。私に対して好印象を持ち、私を喜んで家に迎え入れてくれるようにするため、ホストファミリーとどのように荒波を立てないようにやってきたかについて考えてみました。私は、真理の指針や、私の行動が彼らに利益をもたらすかを考えもせずに、彼らの言うことに従い、彼らを受け入れるためにすべてのことをしました。交流会での祈りを恐れていると知ると、関連の真理を彼らに伝えて、彼らがお祈りをする意味と重要性を理解できるようにするために努力をしませんでした。それを行う代わりに、私自身の利益を守るため、彼らの意見に従い、交流会中にお祈りをしたくないという彼らの希望に配慮したため、私たちの関係は完全に肉体的な人間関係となってしまいました。祈り、追求、真理の口伝が行われなければ、交流会中に聖霊の啓示や神の導きに到達したり、神の言葉を飲食することで志を高く維持したりできるはずがありません。その結果、私たちの状態は正常性が低下し、正常な関係を維持することができなくなっていました。私は祈りの重要性をよく知っていました。祈りは人が神の精神により動かされるのを助け、聖霊が働く1つの方法です。祈りは、真理をより深く理解するため、聖霊からの啓示をより多く受けるのに役立ちます。さらに、交流を行う前に祈ることは、常に、人の心の中に神の場所があることを示し、人間が他のすべてのことよりも神を賞賛していることを示す1つの方法です。それにもかかわらず、私は「個人的な生き残りのために抜け目なさを持っていろ」というサタンの人生哲学に従い、私の関係を維持するために祈ることを止めてしまったのです。これは、私の心には神の場所が全くないことを示し、私の心の中は完全にサタンの哲学に支配されていました。私は常に人々との肉体的な関係を維持しようと努めてきました。この姿勢は、「個人的な生き残りのために抜け目なさを持っていろ」というサタンの人生哲学をそのまま取り入れていたことの現れです。これは私の心と魂を腐敗させ、私を臆病で、自己中心的で、卑劣で不公平な者にし、真理を実践できなくしました。これまでも何度も私自身のみを守るために、神と対峙する姿勢を取ってきました。教会のリーダーとして働いていた時、私は人々が特定の考えを広め、ネガティブな感情が伝播し、教会の息吹を阻害するのを目撃しましたが、私は敢えて彼らを止めようとはしませんでした。私が何かを言うことで、私の利益を危険に晒すことになるのを恐れたからです。副音の働きを管理していた時、私は兄弟姉妹が記載されている内容が難しすぎると不平をこぼした議事録を撤回し、彼らにもう少し努力するように頼むことはありませんでした。彼らの気分を害することで、彼らの心の中にある私の場所を失うのが怖かったからです。これにより、私は福音の働きを無効にしてしまいました。記事の編集を担当するグループと働いている時、私とペアを組んでいた姉妹が彼女の仕事に真剣ではないことに気が付きましたが、そのことを指摘するのを躊躇しました。彼女が不機嫌になり、私に嫌悪感を持ち、それが私たちの調和を乱すのを恐れたからです。・・・この時点で、私が行なってきたすべてのことにおいて、私は他者の私に対する態度や評価に常に意識を集中していたことをはっきりと自覚しました。私は、他者の心の中にある私の場所や私に対するイメージを守り、私自身の損得を考えていたのです。私は、「個人的な生き残りのために抜け目なさを持っていろ」というサタンの人生哲学通りに生きていたと言えるでしょう。これは私の行動の指針となり、人間として私がどのように機能するかの基盤となっていました。神は人々に正義と真理のための闘いに捧げ、闇の力による反撃に屈しない勇気を持ち、多勢に従って不正な行動を行うのではなく自分の信念を持つことを頼みました。しかし、この「個人的な生き残りのために抜け目なさを持っていろ」というサタンの哲学は、人々を自己中心的にし、闇の力に屈するべく誤った導きをしています。これに従う人々は、その行動に何の指針も信念もなく、自身への個人的な利益となるのかのみを考えます。この「個人的な生き残りのために抜け目なさを持っていろ」というサタンの哲学は、真理とは真逆の負の指針で、サタンが人々を腐敗させるために使用しているものです。この指針に従い生活すると、人々はより嘘つきで、狡猾で、自己中心的で、卑劣になっていくより他ありません。彼らは、真の人間たらしめるこれらの特性を徐々に失っていきます。サタンの哲学は人を陥れ、損害を及ぼします。私は、二度とこの哲学に沿って生きていきたくはありません!これらすべてのことを認識した私は、ホストファミリーの兄弟姉妹に祈りに関する真理について伝えました。彼らが祈りの意味と重要性を理解すると、交流会でも進んで祈りを行うようになり、彼らの状態が変化しました。

   この状態の変化を目の当たりにし、私は、サタンの哲学に従い暮らすことはあらゆる意味で有害であることを学びました。これから、私は全身全霊で真理を追求し、私が採用してきたサタンの哲学に沿った行動をつぶさに検証し、この哲学に沿って暮らすのを止めることを誓います。私は神、そして神の言葉に私の心を支配し、コントロールしていただきたいと思います。真理が私の心の主であり、私がすべての行動において神の言葉に即して暮らしていけますように。