賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

金のために命を危険にさらした日々に別れを告げる

2020-05-01 12:00:43 | 信仰生活

   もし神によって救われなかったら、私は今もなおこの世を漂い、

   罪の中でもがき苦しみ、何の希望もなく生きているだろう。

   もし神によって救われなかったら、今もなお悪魔たちに踏みつけられ、

   罪の快楽に耽り、人間が生きる道がどこにあるのか知らずにいるだろう。

  全能神は私に憐み深く、神の言葉は私に呼びかける。

   神は私に御声を聞かせ、私を御座の前に引き上げる。

   私は日々神の言葉を食べ飲みし、聖霊の働きを楽しむ。

   私には分かる。人類の堕落は余りに深いから、我々はほんとうに神の救い

   必要とする。

   (『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「もし神によって救われなかったら」より)

 

   この美しい旋律の賛美歌を聞くたびに、私は神への感謝の気持ちで一杯になります。神にお金中心の泥沼の生活から救って頂いたおかげで、私はもはや死に物狂いで働かなくなり、お金のために命まで危うくする生活に別れを告げたのです…

 

 

奮闘-心身共に疲弊

   私は家が貧しく、小さい頃は友人や親戚にばかにされ、蔑まれていたので、「大人になったらお金をたくさん稼いで偉くなって、みんなを見返してやる」とひそかに決意していました。大人になってからの私は、お金の稼ぎ方を学ぶために、よく人に食事をおごって、その筋に詳しい友人を増やしました。ある時、友人たちが飲み過ぎて他の人と喧嘩になりました。私は喧嘩を止めようとして目を負傷し、入院することになりました。その時から友人たち全員が離れて行き、私は大変落胆しました。治療に多額の費用がかかるため、家族の借金がかさみました。私はそれで大きなストレスを抱え、夜も眠れないことが多く、夜中に起きて川辺まで行って泣き叫ぶこともありました。この拝金主義の社会の中では、人の社会的地位が持っているお金の額で測られることを、私は残酷な現実から一層実感しました。そのため、「絶対に大儲けして、この卑しい身分を変えてやる」と再び決心したのです。

   後に私は、「海外に働きに出ればたくさん稼げる」という話を聞きました。それはかなりのリスクを伴いました。けれどもその時はお金のことしか頭になかったので、海外に出ることを決意します。ある時、外国のある漁業会社と労働契約を交わす際に、「従業員が漁業中に命を落とした場合、当社は五万元の補償金を支払う」という条項を見ました。この条項を読んで気持ちが沈み、「僕はまだ29歳だ。戻って来れなかったら誰が妻と子の面倒を見るんだろう」と思いました。しかし、こうも考えました。「海外に働きに出なかったら、いつ借金を清算して好きな生き方ができるんだ。リスクがあってもやってみよう。もし本当に戻れなくても妻と子に五万元残るのだから、やってみる価値はある」。それで私は身の回りの整理を済まして出稼ぎに行きました。

   2000年12月のある日、私は漁船に乗って、アルゼンチンとウルグアイまで漁に出ました。海が激しく荒れ狂っていたため、いつ波に飲み込まれてもおかしくない状況で、私は非常にストレスを感じ、少しも気を弛めずにいました。その時同僚の乗組員が、漁網に足が絡まったと同時にいきなり押し寄せた波にさらわれてしまい、一瞬のうちに私の目の前で姿を消してしまったのです。これを見て、私はあまりのショックと恐怖に冷汗を流し、こう思いました。「本当に金のために命を売る仕事だな。僕もいつこんな事故に遭うか分からないんだ。でも背に腹は代えられない。どんなに危なくても仕事はしないと。金ができて初めて自立して人によく見てもらえるんだ」。

   こうして私は、この機会に恵まれてよかったと感じるようになり、じっと苦痛をこらえて、この仕事を4年間続け、やがてお金をたくさん稼ぎました。無事に家に帰ったその日は非常に興奮し、「やっと貫禄が付いたぞ」という気分でした。帰国後、私はまず家を思い切り改築し、それから様々な家電製品を買いました。親戚も隣人も以前の友人たちも皆、私を見る目が変わり、お世辞を言ったり、頼まなくても家に来て手伝いを買って出たりします。私は自分自身を誇らしく思い、お金を持つことが確かに良いことであり、お金が全てだと一層感じました。しかし、それでも満足せず、もっと稼ぎたいと思ったのです。

   2008年3月、私は叔父の勧めで韓国のゴム工場で働くようになりました。ゴムの臭いは非常にきつく、体の健康にとても有害でしたが、稼げればいいんだと、気にしませんでした。一日24時間分の仕事をすることもあり、鼻血が出ても働くのをやめる気はありませんでした。それを見た叔母に「进(ジン)取(チュ)、そんなに働いちゃだめよ。体が大事なんだから。健康じゃないとお金も稼げないわよ」と言われました。叔母の言う通りでしたし、私も仕事を休みたいとは思いました。しかし、一日でも休むと稼ぎも少なくなります。それで私は休むことを思い止まり、「若くて体力があるうちに稼がないと。家に帰る頃には、状況はもっと良くなっているし、家族は村の誰よりも楽ができるはずだ」と思いました。

   2011年に、妻と子供が韓国で合流してくれました。私はゴム工場の仕事を辞め、掘削機の外郭を作る工場で妻と共に働き始めます。工場は給料が良くて安定しており、仕事にも不自由しませんでした。私たち夫婦は毎日午前8時から午後11時まで働き、残業もし、週末も休みません。一ヶ月働いて七百万ウォンを超える額をもらいました。私は受け取ったお金を見るととても嬉しくなり、仕事がどれほど大変で疲れても大いにやりがいがあると感じました。その時は血糖値が下がっており、その結果で怒りや疲れや空腹さえもできません。それでもお金を稼ぐことに躍起になるあまり、自分の健康を全く気にかけませんでした。仕事先に砂糖菓子をいくつか持参し、低血糖の症状を感じるとすぐに菓子を食べて症状を抑えるようにしました。

   2014年3月、私の健康は悪化し、体の右側全体にいつも汗をびっしょりかきました。妻がインターネットで調べ、「脳血栓症の前兆だわ。病院で診てもらわないと」と言いましたが、私は気にも留めませんでした。症状が仕事の妨げになるとは思いませんでしたし、病院で治療を受けるにはお金がかかります。けれどもある朝起きると、突然足が少ししびれているのを感じました。妻には仕事をせず病院に行くように勧められました。

   しかし「今日は日曜日だから、働いたら給料が倍もらえる」と思い、妻の勧めに耳を傾けず、いつも通り出勤しました。その日の仕事中に、手足がますますしびれを感じるようになるなどとは、全く想像しなかったのです。その時になって初めてパニックになり、病院に行くため急いで主任に早退を願い出ました。病院に駆け込んだ時には足の感覚がなくなっていました。医者に車椅子に座るように言われましたが、誰かの助けなしには車椅子の所まで動けませんでした。CTスキャンを受けた後、医者にこう言われました、「結果を見るとどうも動脈に血栓があり、体の右側全体の細胞が二割ほどなくなっています。すぐに治療しないと車いすの生活になり、将来話すことも書くこともできなくなります」。医者の言葉は、澄んだ空から落ちた雷のように響き、私はすぐに体がぐったりするのを感じます…

   入院し、ベッドに横になったまま病室の他の患者さん達が苦しんでいるのを見た私は、突然とても悲惨な気持ちになりました。そして自問し続けました、「僕はまだ若い。まだ44歳なのに、どうしてこんなことになったんだ。金を稼げば人に褒めてもらえる、人生がどんどん幸せになると思って、人生の半分を信じられないほど必死で働いて過ごしたけど、まさか体の半分が麻痺して寝たきりになるとは思わなかった。これから一生車椅子で過ごすのか。どうすればいいんだ」。

   考えるほど落ち込み、お金のため、群を抜くためだけに体を壊したことを本当に後悔しました。更に残念だったことに、入院中に、同じく韓国で働いていた叔母と従弟が見舞いに来てくれたものの、慰めの言葉とお金を少し残ってさっさと出て行きました。その上、私が家族で一番近い存在だった一番上の姉さえも、仕事の忙しさを言い訳に、面倒を見られないと言うのです。親類の冷たさにはため息を禁じえず、「お金のせいで人は非情になって家族のことも気にかけなくなるのか」と悲嘆にくれました。

   数日後、私の健康は徐々に回復し始めました。医者からは、退院して自宅療養してもいいが、重労働は控えるようにと言われました。自宅療養中は、自分の人生の目的をたちまち失ったように感じて、毎日何をすべきか分かりませんでした。その間、何度も自問しました、「僕は金があるし、知人はみんな僕を見る目が変わったし、妻も子も側にいるのに。どうして空っぽな気分で、人生の目標もなくなったんだろう。人は一体何のために生きているんだ。金を稼ぐことだけが僕の人生の目的なのか。このまま何の目標もなく余生を過ごすことになるのか」。私の心の中の質問は数えきれないほどでしたが、誰からも答えを得られませんでした。しばらくして、私の状態は少し回復しました。家であまりにも退屈していたので、まだ回復しきっていない体を引きずって、働き始めました。

 

神の愛-苦尽甘来

   2016年10月に、私の2番目の姉が教会から楊(ヤン)という姉妹を私の家に連れて来て、二人は私たち夫婦に終わりの日の全能神の働きについて証ししてくれました。二人の交わりを通して、神は万物を創造し、万物の支配者であること、私たちの運命は全て神の手の中にあり、神は人類を創造して以来ずっと私たちを導き養い、見守っていてくださることが分かりました。しかし私にはまだ分からないことがありました。神はこれまでずっと私たちの運命を定め、支配し、見守ってくださっていますから、私たちは幸福で喜びに満ちているはずです。ではなぜ私たちは病気や苦痛で悩むのでしょう。この苦しみはどこから来たのでしょう。それで私は彼女たちに自分が困惑していることを話しました。楊(ヤン)姉妹は私に神の御言葉の次の箇所を見せてくれました。「出生、死、病、老いといった人生の苦しみは、どこから来るのでしょうか。人々がこれらのことを経験する理由はなんでしょうか。創造時にはなかったものではないか。ではどこから来たのか。人がサタンに誘惑されて堕落してからであり、肉の苦しみ、悩みや虚無感、世の悲惨さと言ったものが含まれます。サタンは人を堕落させ、その後、人を苦しめるようになったのです。すると人は益々堕落し、病は重くなり、苦しみは深刻になっていきました。益々空虚になり、悲劇の中、生きる気力もこの世の希望も失せていきました。つまり、苦しみはサタンによるもので、人がサタンに堕落させられて後にもたらされたのです。」(『キリストの言葉の記録』の「神がこの世の苦しみを受けることの意義」より)

   それから楊(ヤン)姉妹は次のように語ってくれました、「初めに、神はアダムとエバを創り、彼らをエデンの園に置かれました。彼らは神の御言葉に耳を傾け、神に従い、崇め、神の配慮と加護の下、病気も不安も苦痛もない伸び伸びとして幸せな暮らしをしました。後に、サタンの言葉に耳を傾け、サタンに誘惑されて堕落した時点で神を裏切ります。それ以来、人類は神の配慮と加護と祝福を失い、サタンの支配下で生きるようになりました。そして、サタンに堕落させられ害を与えられるようになり、ありとあらゆる病気や苦痛に見舞われるようになったのです。

   数千年後、サタンは学校教育、親による教化、有名人や偉人の影響、ありとあらゆる悪しき流行などを使って、「我が運命は我が手の中」、「群を抜け、一頭地を抜け」、「天上天下唯我独尊」、「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」、「人間は金銭のために身を滅ぼし、鳥は餌のために身を滅ぼす」といった考えを私たちに無理やり吹き込んでいます。私たちは皆これらの考えや見解通りに生き、皆、神の存在と神の主権を否定します。私たちの性質はますます傲慢で不遜、利己的で卑劣、不正直で狡猾で、よこしまで貪欲になっています。お金、評判、地位、楽しみを得るため、自分の目的を達成するために、私たちは互いに欺き合い、争い、恥を知らずにおだて合い、媚びへつらい、陰謀を仕掛け合い、騙し合い、卑劣な手段も使って…

   こうして私たちは損得中心になり、用心深くずる賢い生き方をし、心身ともに疲弊し、耐え難い苦痛を感じています。そこからありとあらゆる病気や、苦痛、空虚感が私たちの魂の中に生じるのです。やがて、人生に方向性や目的がないように感じるようになり、人生の意味や価値が何であるかがわからなくなります。肉に溺れ、飲み食いや道楽にふけるようになる者もいます。刺激を求めて麻薬を服用したりしますが、束の間の楽しみの後で、再び空しく感じます。痛みから解放されるために自らの命を絶つことを選ぶ者さえいます…これは、私たちがサタンに堕落させられて神を否定し、神を避けるようになった結果です。

   姉妹の交わりを聞いて、私は、私たちが病気や苦痛を抱えているのは、サタンに堕落させられたからであることがついに分かりました。私たちは、もし神の御言葉に耳を傾け、アダムとエバが最初にしたように神に従うならば、神の配慮と加護の下で幸せに暮らせるのです。神の御言葉によって長年の疑問が解決され、私は神に選んで頂いたことに感謝しました。その後、私たち夫婦は喜んで全能神の働きを受け入れました。

   その後、私たち夫婦は教会生活に加わり、神の御言葉をよく一緒に読みました。神の御言葉を読むほど、私は心が一層明るくなりました。そして、人類を救うための神の六千年の経営(救いの)計画、サタンが人類をいかに堕落させているか、人類の最後の結末と終着点、人生で求めるべきことなど、真理の様々な奥義について少し理解するようになりました。神の御言葉によって潤され養われた私は、神が人類を造られた際に願われたのは、私たちが神の御前に来て御言葉に耳を傾け、自分たちの未来と運命を神の手に委ね、神の主権と采配に従うことだと理解しました。

   更に、神が終わりの日に表される御言葉は、サタンの狡猾な計略を全て暴露しており、私たちは真理を理解することによって、サタンの考えや見解のどこが間違っているかを明確に知ることができます。こうして初めてこれらの考えに頼って生きることをやめ、自らをサタンの支配と束縛から完全に解き放ち、神の御前で解放され自由に生きることができるのです。私は集会にどんどん参加するうちに、真理をある程度理解するようになり、心の中の空しさと苛立ちは知らず知らずのうちに消えました。心の奥深くに、私は得も言われぬ喜びを感じ、これが神の祝福だと知りました。

   ある集会で、次の御言葉を読みました。「『地獄の沙汰も金次第』。これは社会動向ですか。これは、皆さんが挙げたファッションや美食の社会動向と比較すると、もっと悪いものではありませんか。(そうです。)「地獄の沙汰も金次第」はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりに伝えられ、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。人はこの格言を受け入れない状態から、それに慣れ親しんでいく状態に移行したので、現実生活を知るようになったとき、格言を暗黙のうちに徐々に認め、その存在を認知し、最終的には一人ひとりが格言に承認印を押したのです。この過程は、サタンが人間を堕落させる過程ではありませんか。……皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。(感じます。)人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。人々はもっと金を得るために自分の尊厳や高潔さを犠牲にしていませんか。多くの人が、自らの本分を尽くして神に従う機会を、金のせいで失っていませんか。これは人にとって損失ではありませんか。(損失です。)この方法と格言を用いて人間をここまで堕落させるサタンは邪悪ではありませんか。これは悪意に満ちた策略ではありませんか。この広く流布している格言に反対する状態から最終的にそれを真理として受け入れる状態に移行するにつれて、人の心は完全にサタンの掌中に落ち、そのため気付かないうちにこの格言により生きるようになります。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身5」より)

   神の御言葉に照らして自己反省し、私は自分があれほど苦しんで生きていた理由はサタンに弄ばれ傷つけられていたためだとついに悟りました。サタンによって植え付けられた「金が第一」「地獄の沙汰も金次第」「人間は金銭のために身を滅ぼし、鳥は餌のために身を滅ぼす」といった格言通りに生き、「金があれば大手を振って歩けるようになるし、人々から高く評価してもらえ、勝ち組として生きられる」と信じていました。そのため、もっとお金を稼ぐためなら、どんなに危険で心身を消耗させる仕事もしました。自分の健康を顧みず、ある種の機械のように、一晩中残業までして働き、自分の命を無駄な危険にさらしてまで稼ごうとしたのです。お金のために命を売っていたと言えるでしょう。そしてあのような結果になったのです。

   私はお金を手にし、人の賞賛と評価を得ましたが体を壊しました。病気になって始めて、お金や評判や地位があっても苦痛は全く和らぐことはないし、ましてや満たされて幸福で喜びに満ちた暮らしなどできないと悟りました。それどころか、それらのせいで私は空虚で混乱した人生を送り、人生で何を求めるべきか、人生の意味が何なのかも分からなくなったのです。歩く屍のようで毎日が動揺と苦痛でした。今までの人生で歩んできた道は実に悲しく辛いものであり、それは全てサタンによって堕落させられ傷つけられた結果だったと知りました。

   神の救いがなければ、私は今もサタンによる害を受けボロボロにされながら生きて、金のために奔走し、お金と地位の奴隷のままで、体を壊して命も危うくし、死ぬまでサタンによって残酷に傷つけられていたでしょう。私は思いました、「今僕は、金も名声も富も、サタンが人を堕落させ傷つける手段だとやっと分かった。こんなものの中には、サタンの狡猾な計略と、人を堕落させて貪ろうという悪意が隠されているんだ」。その時、サタンが人を傷つけ堕落させる手段をある程度見極めることができ、神の主権に進んで服従できるようになり、「金や名声や富のために必死になるのはもうやめよう」と思いました。

 

転換―新生への出航

   それ以来、私はもはやお金を稼ぐことばかりを考えることはなくなりました。むしろ時間があればいつも兄弟姉妹と一緒に神の御言葉を読み、神の御言葉についての集会と交わりに行きました。しかし昼間は仕事でひどく疲れていたので、集会に出て神の御言葉を読むといつも眠くなり、多少不安になりました。特に、集会の中で兄弟姉妹が自分たちの本分を果たした時の収穫を語っているのを聞くと、私は不安でうらやましくなりました。自分の神への信仰のあり方が不十分で、これではいのちの成長が遅れてしまうと感じたのです。ある時、ディボーションをしていると、次の御言葉が目に止まりました。「歳月人を待たず、である。神への信仰から益を得ることができるのは、食糧や衣服などよりも、なによりも大切なものとして神の信仰に取り組んだ場合のみであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身10」より)

   御言葉を読むと、私は神を信じるとはただ口先で神がいることを認めたり、集会に出たりすることではないと理解しました。そうではなく、神の御言葉を熟考し、真理を求め、教会で本分を果たし、御言葉をもっと実践し体験し、神を自分と同様に知ることを求め、御言葉の理解を深め、神の御心と人に対する要求を理解することなのです。そうする者だけが、神を信じ、神に従う者です。思い起こせば、私は長い間神を信じておらず、仕事が忙しく、集会に出たり神の御言葉を読んだりする時間があまりなかったため、神の働きを経験する機会が少なかったのです。もっと真剣に真理を求めなかったら、どうして真理をもっと理解して神の救いを得ることができるでしょうか。「これじゃだめだ。真理を熱心に求め、もっと時間をかけて真理を身に付け、御言葉を実践して体験しなきゃ」と思いました。

   後になって、私は妻とこの問題について話し合いました。私は余裕ができるようにもっと楽な仕事を探そうと考えました。主任に仕事を辞めたいと話した時、まさか同意されないとは思ってもいませんでした。主任に「君がやめなければ、君のどんな要望にも応えるように何とかしてやるから」と言われ、私は「残業はしたくありませんし、週末は休みたいです」と答えました。まさか主任がこんな条件に簡単に同意してくれるとは想像もしていませんでした。以来、私はもっと集会に出て神の御言葉を読む時間ができました。ある日、私はこれらの御言葉を目にしました。「神の存在もなく、神を見ることもなく、神の統治も知らなければ、毎日は無意味で、無価値で、惨めである。どこで何をしても、人の生き方と目標への追求は終わりのない悲しみと深刻な苦痛しかもたらさず、回想するに堪えない。創造主の統治、その指揮と采配を受け入れ、真の人生を求めて初めて、人は徐々に悲しみや苦痛から解き放たれ、人生の虚無感を払拭できるのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身3」より)

   神の御言葉を熟考すると、お金のために命を危うくしていた年月を思い出さずにはいられませんでした。神の主権を知らず、サタンの格言に従って暮らしていたため、盲目的にお金と評判と地位を追求し、大いに悲しみと苦痛を感じ、幸福を全く見いだせませんでした。また、富は私たちの外にある物質であり、病気になれば、いくらお金を持っていても、命は助からないし、苦痛は少しも減らないことを本当に理解しました。サタンはお金と名声と富を使って私たちを誘惑し、私たちの貪欲な心をギュッとつかむことで、私たちが神の主権に服従できず、頑固に神に逆らい、神の配慮と加護を避けるようにします。こうして私たちはサタンに支配され、傷つけられ、踏みにじられていきます。今の私は、もはや自分の運命と戦うことも、お金のために命を売ることも望みません。それは本当の人生ではないのです。神の主権と采配に服従し、神に満足して頂くために生き、神に証しをするという被造物の本分を果たすことによってのみ、私たちは自分たちの空しく辛い人生を取り除き、価値と意味のある人生を生きることができるのです。

   神の愛に報いるために、私たち夫婦は福音を広める人々の仲間入りをしました。今では、私は毎日、兄弟姉妹と共に福音を広め、証しをしています。非常に充実した生活を送り、心の中がとても平和で喜びを感じています。私の精神は全く新しい姿になりました。私を知っている人は皆、私が若く見えると言いますが、これは神の祝福によるものです。神の救いのおかげで、サタンの束縛と害から真に脱却し、幸せな人生を送れるようになったことに感謝いたします。


真の幸福を見つけた

2020-04-25 16:21:19 | 信仰生活

   私はごく普通の農家に生まれました。裕福ではなかったものの、父と母は互いに愛し合い、私のことを大切にしてくれました。家庭生活が幸せで、私たちが祝福されていたのは間違いありません。やがて成長した私は自分にこう言い聞かせました。

   「私も自分に優しくしてくれる夫を見つけて、幸せな家族を築かないと。。それが一番大切なんだから。豊かになろうとは思わない。夫と愛情豊かな関係を築き、穏やかな家庭生活があればそれでいいのよ」

   夫とは共通の知り合いを通じて出会いました。最初こそ、とても背が低かったので好きではなかったのですが、父と母は彼に好印象を抱きました。そして私に、「この人は優しい心の持ち主だから、お前のことを大事にしてくれるよ」と言いました。確かに、人と誠実に接しているのはわかりますし、自分の家族も大切にしてくれる人のように見えました。それで私も、「少しくらい背が低くてもいいわ。私のことを大事にしてくれればそれでいいのよ」と思いました。こうして私は結婚に同意し、1989年に結婚しました。結婚後、夫は私に優しく接し、大切にしてくれました。私も心を込めて夫を気遣い、いつも夫のことを考えました。娘2人を授かってからは、夫がなんの心配もなく仕事に行けるよう、私は家で家事に専念しました。やがて、娘2人が進学のため町を出ることになったので、この子たちが学校に通うあいだもそばにいられるよう、近くの場所に部屋を借りました。自分でなんとかできる限り、私は一度も家族のことで夫を煩わせませんでした。つらいことがあったり、疲れたりすることもありましたが、私たちの夫婦関係はお互いへの愛と気遣い、そして配慮に満ちていて、私たちは穏やかな生活を送っていました。自分の生活は本当に幸福だと思っていたのです。

 

 

   当時、夫の給料は日々の出費をまかなえる程度で、。我が家の生活は多少大変でしたが、私は決して旦那に文句を言いませんでした。夫と妻は人生の喜びも悲しみも分かち合うべきだと思っていたのです。しかしその後、夫の職場の財務状況が悪化し、それまでの半分の給料しかもらえないまでになって、子どもたちの学費を払うのも難しくなりました夫のストレスを軽くしようと、私は親戚から頻繁にお金を借りるようになりましたが、内心では「この困難は一時的なもので、時間が経てば状況はよくなる」と思っていました。ところが、長いあいだお金を借り続ける羽目になったので、私たちの借金はどんどん増えてしまい、2人とも大きなストレスを抱えるようになりました。2013年、夫は海外に出稼ぎに行くことを思いつきました。それを聞かされた私は、夫がいなくなることに気乗りしなかったのですが、「この人が2、3年海外に行ってお金を稼いでくれれば借金をいくらか返済できるし、家庭の状況もよくなるわ。それに子どもたちは育ち盛りだし、いい生活をさせてあげたい」と考えました。そこで家族のために、夫が海外に出稼ぎに行くことに賛成たのです。

   夫はカンボジアに行って3年間滞在しましたが、その間、私は家で子供たちと年老いた両親の世話をしました。最初、夫はよく電話をくれるなど、家族を大事にしていることを示し、仕送りもしてくれました。しかし時間が経つにつれて夫からの電話は少なくなり、しまいには電話をかけることも仕送りをすることも滅多になくなりました。私は夫に何か起きたのではないかと心配になり、娘たちを連れて夫に会いに行きました。カンボジアに着くと、旦那が無事で健康だとわかったので、私はとても安心しました。カンボジアを訪れるのはこれが初めてだったので、3人ともしばらく夫と一緒に過ごし、それから中国に戻ろうと考えていました。しかし、夫と一緒に外出するたび、彼を知る人たちが私を変な目で見るのです。 私たちはこの国の言葉を話せなかったので、その意味はわかりません。それから一週間後、夫が何の前触れもなく、見知らぬ子供を腕に抱えて私に会いに来ました。そしてその子に、「さあ、叔母さんに挨拶するんだ」と言うではありませんか。そのとき、私はどういうことか訳がわからず、ただ呆然と見つめていました。夫に訊いてみると、この子は彼がカンボジアで出会った別の女性との間に生まれた子供だというのです。私は何も言えなくなるほど腹が立ち、自分が間抜けのような気がしてすっかり途方に暮れました。その怒りをぶつけようとしたところ、夫はとても穏やかにこう言いました。

   「こんなの普通だよ。ここでは沢山の人がやってることなんだ!」

   夫がそう言うのを聞いて、私は全身が震えだすほどの怒りを覚えました。長年にわたって私を愛してきた夫が、こんな冷たく無情なことを口にして、こんな恥知らずなことをしてしまうなど、考えてもいなかったのです。私は怒りに任せて夫の顔を2度激しく平手打ちしました。私にとって、夫の裏切りは青天の霹靂でした。この事実を受け入れるなど、とてもできません。私はすっかり麻痺してしまい、床に座り込んでひたすら激しく泣きました。そして何度も自分にこう問いかけました。

   「この人はどうして私にこんなことをするの?私が知る夫はどこに行ってしまったの?この人は私に永遠の愛を誓ったけれど、その誓いも優しさも気遣いもすべて嘘だったっていうの?私は自分のすべてをこの家族に捧げてきたのに。お金やいい物をねだったことすらないわ。でもいまは……」

   私はとてつもない屈辱を感じて心の奥底で傷つき、自分がひどい扱いを受けていると思いました。このまま生き続けるなどとても無理なような気がしたのです。

   その後、私は毎日涙で顔を濡らしていました。その女も、あの子も憎かったのです。そして夫に対し、離婚して娘たちを中国に連れ帰り、この「家族」とやらから離れるつもりだと告げました。しかし驚いたことに、夫は離婚に同意しないだけでなく、あの女から離れるのも嫌だというのです。その後わかったのですが、私の家族の何人かは、夫が別の女と付き合い、子どもをもうけたことを以前から知っていて、その間ずっと私に隠していたのです。そのとき、私は生きる上での尊厳を奪われたと、ますます強く感じました。自分は家庭を切り盛りすることに心を捧げてきたのに、そのお返しに裏切られ、騙されるなどとは想像すらしていませんでした。それだけでもすでに十分つらいのに、本当に許せなかったのは、夫の知り合いが全員、私を変な目で見ることでした。その人たちは私の陰口さえ言っていたのです。そもそも私を裏切ったのは夫で、私の家庭を滅茶苦茶にしたのはその女なのに、いまの他人の目には私が出しゃばってきたと映っていました。そのとき感じていた苦痛を言葉にするなど到底できません。一日一日があたかも一年であるかのようにゆっくり過ぎ、私は10キロ以上も体重を減らしました。

   絶望に身を委ねていたまさにそのとき、全能神による終わりの日の救いが私に届きました。隣に住むリンチンさんという人がそれまでの出来事を聞いて私の家にやって来て、その福音を私に説いたうえで、「信仰をおもちなさい。神があなたを助けてくださるわ」と言ってくれたのです。しかし、無神論的な教育を受けて育った私のような人間が、一瞬のうちに信仰をもてるはずもなく、何も答えませんでした。その後、リンチンさんが再び話をしに来てこう言いました。

   「神の御言葉をお読みなさい。苦しみからあなたを救えるのは神だけなのよ……」

   彼女の言葉がどれも誠実そのものだったので、私は少し心を動かされ、再び拒否するのは恥ずかしいことだと思いました。そこで『言葉は肉において現れる』という本を受け取ったのですが、それを開いたところ、次の一節が目に留まりました。

   「全能者のいのちの供給から離れた人類は、存在の目的を知らないが、それでも死を恐れている。支えもなく援助もないが、人類は依然として目を閉じようとせず、自らの魂を感じることもない肉の塊として頑なにこの世における下劣な存在を引きずっている。あなたはこのように何の希望もなく生き、他人も何の目的もなく生きている。伝説のあの聖なる者だけが、苦しみにうめきながら彼の到来を待ち焦がれる人たちを救う。…あなたが疲れているとき、この世の荒廃のようなものを感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見守る者がいつでもあなたが来るのを抱擁して迎えるからである。」 (『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より)

   神による心のこもった御言葉を読むうちに、私は大声で泣きだし、神は本当に人類を理解していらっしゃると感じました。夫の裏切りのせいで死にたくなりましたが、自分にはその勇気もなければ、そのような形で死ぬことを望んでもいませんでした。人生の目標と方向性を失い、自分を保つことさえどうでもよくなっていました。しかし神の御言葉を読むと、人生に希望があって自分の心が安らぎを見つけられたような気がしました。夫には裏切られましたが、私は神にすがることができます。独りではないのです。全能神はこうおっしゃいました。

   「この世の荒廃のようなものを感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見守る者がいつでもあなたが来るのを抱擁して迎えるからである。」

   私は傷ついていたし、自分を気遣ってくれる人が誰もいなかったので、進んで神にすがろうと思いました。私は神の抱擁を必要としていたのです。毎日がとても苦しくつらいので、そのようなままで生きるのは耐えられません。神は人類をとてもよく理解していらっしゃるので、必ずや私をお導きになり、この苦しみから逃れさせてくださるはずだと思いました。そこで私はリンチンさんと一緒に神の御言葉を読み、神を讃える讃美歌を憶え始めました。すると彼女はこう言いました。

   「大変なときは神に祈って御言葉をお読みなさい。神は私たちの傷ついた魂を癒やしてくださるわ」

   私はそのとおりにしました。そして全能神教会の兄弟姉妹が撮影した音楽動画や讃美歌動画を見ていると、心の中で幸せが湧き上がってきました。特に『カナンの地にある喜び』という動画を見たときは、兄弟姉妹の歌と踊りに合わせて自分の心が踊っているかのような気がしました。心の憂鬱と苦痛が徐々に消えてゆき、ようやく顔に笑みが浮かぶようになりました。そして突然、これがまさに私の望む家族であり、真の幸福は兄弟姉妹と一緒でしか見つけられないと感じたのです。そこで私は全能神教会に加わり、兄弟姉妹と教会生活を送るようになりました。

   その後、私は神による次の御言葉を読みました。

   「サタンが社会動向を利用して人間を堕落させることです。この社会動向には様々なものがあります。『それは衣服のことですか。最新ファッションや化粧品、ヘアスタイルやグルメに関することですか』などと言う人がいます。社会動向とは、そうした物事に関することですか。それらも社会動向の一部ですが、ここでそうした物事については取り上げません。ここでは、社会動向が人間にもたらす考えや、社会動向が世間における人間の行動にどう影響するか、そして社会動向が人間にもたらす人生の目標や人生観についてのみ話し合います。社会動向は、人間の精神状態を支配し、影響を与えることがあるので、極めて重要です。こうした社会動向には、それぞれに人間を継続的に堕落させ、良心、人間性、理知を失わせ、人間の倫理や人格をますます低下させる邪悪な影響があり、それゆえ現在、大部分の人々に誠実さや人間性、良心、さらには理知さえ欠如している状態にまで達しているとさえ言えるほどです。…社会動向が席巻すると、その創出者となるのはごく僅かな人たちです。その人たちは、ある種の行動を始めたり、ある種の考え方や物の見方を受け入れたりして始めます。しかし大部分の人々は、無意識のうちに、そうした社会動向に継続的に汚染され、捕らわれ、魅惑され、やがてそれを知らず知らずのうちに、無意識のうちに受け入れるようになり、それに呑み込まれて支配されるようになります。こうした社会動向で、心身の健全さが欠如し、真理とは何かを知らず、肯定的なものと否定的なものの区別が出来ない人間は、そうしたサタンに由来する社会動向や人生観、価値観を次々と進んで受け入れてしまいます。この種の人々は、どのような人生を送るべきかに関してサタンが教えることや、サタンにより「授けられた」生活の道を受け入れます。彼らには強さ、能力、またことさらに拒否する意識が欠乏しているのです。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 6」より)

   神によるこの御言葉を読んで、「こんなの普通だよ。ここでは沢山の人がやってることなんだ!」という夫の言葉が頭に浮かびました。社会の悪しき潮流がいかに人々を呑み込んで堕落させるかを、神の御言葉は述べていますが、夫の考え方やものの見方はそこで明らかにされていることの実例ではないでしょうか。中国を離れる前、夫は家族の面倒を見て、私と子供たちを大事にしていました。しかし、出稼ぎに行ってからわずか3年間で、まっしぐらに社会の悪しき潮流に従うようになってしまい、一番近い人たちを裏切ってしまったのです。そして今日の社会に目を向けてみると、愛人でいることを恥とも思わない女性が数多くいます。そうした人たちは、それはむしろノウハウを知っていることを意味するのだと考えているのです。また多くの男性も、「英雄色を好む」などという悪しき考えに毒されています。彼らはそのように考えて恥じることなく不倫してしまうのです。それを恥ずかしいことと思わず、それどころか自慢すべきことだと思っています。夫は私との離婚を望まない一方で、あの女とも別れたがっていません。それは、夫がこのような悪しき考え方と見方に支配されているということではないでしょうか。神の御言葉を読んで、実際には誰もが被害者なのだということがわかりました。サタンが私たちに植え付けた悪しき考え方によって、全員が惑わされてきたのです。私たちが道徳も羞恥心も失うほど堕落させられたのは、それが唯一の理由です。私は「自分勝手な欲望を満たすことで、人は何を得られるのだろう。本当に幸せを得られるのだろうか」と不思議に思いました。それがわかると、夫もあの女も自分より幸せだとは思いません。そのうえ、あの子はなんの罪もない被害者なのです。私たち家族全員が被った苦痛は、ひとえにサタンによる堕落と害悪の結果ではないでしょうか。そして自分自身のことを考えると、神の救いが私のもとに届いていなかったら、私もまた社会の悪しき潮流によって腐敗していたことでしょう。つまり、夫は別の女を見つけたし、私と付き合ってくれる男もたくさんいるだろうから、自分も同じように別の誰かを探していただろうと思ったのです。まさにサタンに呑み込まれようとしていた私を救ってくださった神に感謝いたします。私が神の御前に出てそのご加護を受けるのを、神は許してくださいました。さもなければ、私はこの社会の悪しき潮流によって破滅していたでしょう。

   その後、私は次の神の御言葉を読みました。

   「神の本質は聖なるものなので、あなたは神によってのみいのちに通じる明るい正しい道を歩むことができ、神によってのみ人生の意味を知ることができ、神によってのみ真の人間性を生きることができ、真理を獲得し、知ることができ、神によってのみ真理からいのちを得ることができます。人間が悪を避けるのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことができるのは神だけです。神以外に、これ以上苦しまないよう、辛苦の海からあなたを救い出すことができる人や物はありません。このことは、神の本質により決まっています。無私にあなたを救うのは神自身のみであり、あなたの将来や運命、人生に究極的に責任を負うのは神のみであり、神はあなたのためにあらゆる物事を手配します。これは、被造物や非被造物のいずれも成し得ないことです。被造物や非被造物に、このような神の本質を持つものは存在しないので、あなたを救い、導く能力のある人や物は存在しません。これが人間にとっての神の本質の重要性です。」 (『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 6」より)

   神の御言葉から、私は人類に対する神の愛とお気遣いを感じることができました。また、サタンがありとあらゆる社会の潮流によって私たちを堕落させ、危害を加えようとも、神が私たちの救いを諦めたことは一度もないことも理解するようになりました。神はいつも静かに私たちをお守りになり、私たちが神の御前に出てその救いを受け入れられるよう、あらゆる種類の状況を用意なさっているのです。夫に裏切られたあと、自分が憤りと苦しみのうちに生きていたことを振り返ると、神のご配慮とご慈悲がなければ、また神の御言葉によって慰められ、そして励まされることで、サタンが人類を堕落させるために使う策略や狡猾なたくらみを見破り、サタンの悪しき潮流が私たちをいかに毒しているかをはっきり見極めることができていなければ、私は憤りと苦痛の状態の中で永遠に生き続けていたでしょう。そこから逃れることもできず、さらにはただ心の憎悪を解消するため、自分を完全に滅ぼすことさえしていたはずです。この経験を通じ、私は神の愛を体験しただけでなく、サタンの堕落と害悪から人類をお救いになれるのは神だけであり、私たちをいのちの光の道へとお導きになれるのも神だけであることを本当に実感するようになりました。あの苦痛の淵から私を救ってくださった全能神に感謝いたします!

   最近、私は神の御言葉をさらに読んだことで、真理を少しは理解するようになり、多くの問題を見抜けるようにもなりました。もう夫のことも、あの女のことも憎んではいません。どのような人生を送りたいとしても、彼らは自由に選べるのです。また、親戚や友人に対しても穏やかに、かつ冷静になることができます。私たちはみなサタンによって堕落させられ、一人残らずその被害者なのですから、自分の家族を責めることももうありません。現在、私は兄弟姉妹と頻繁に集会に参加しており、そこで神の御言葉を読み、交わりを行ない、自分の個人的な経験を伝え合っています。神の御言葉から日々収穫を得て、心の中で安らぎと喜びを感じ、生活は希望に満ち溢れています。私を人生の正しい道に導き、本当の家を与えてくださった全能神に感謝を捧げます。ここは私が真の幸福を見つけた場所であり、私は永遠に神に付き従うことだけを願います!


私が幸せな人生を取り戻すのを可能にしたもの

2020-04-19 22:15:47 | 信仰生活

   現在は、人々が身体的魅力やスタイルの良さをとても気にする時代です。私は美しい顔とほっそりとした体つきで、何を着ようと、人々は私に振り返っていました。私の周りの人々は、スタイルが良く、美人であると言って私を褒め、羨ましがっていました。夫もとても優しくしてくれていました。そのため、私はとても自信がありました。どこに行っても、私は頭を高く挙げ、背筋をぴんと伸ばして歩きました。私は他人からの賞賛を得るために自分自身を見せびらかせていました。心の中で、「スタイルが良く、顔が良い女性は、自分自身の人生を書き換えることができる。」と考えていました。

 

 

   しかし、考えてもいなかったのですが、子供を産んだ後、私は太り始めました。徐々に、夫は私のことが嫌いになり、私のお腹が出ていて、足が太いと言うようになりました。私は水を飲んでも太り、私は不格好なまでに太っていると言って、皮肉な冗談を言う人さえいました。これらの言葉を聞いて、私はとても嫌な気分になりました。頬を叩かれたかのように顔が熱くなりました。かつては、私が外出すると、人々は私の美しさを褒めていたのに、今では誰もが私のことをからかいます。まるで、天国から地獄に堕ちたようでした。このものすごい落差は、私のプライドをずたずたにしました。心の中がひどく傷付いていました。ある時、夫と買い物に出かけました。デパートで夫のズボンを見ていると、2人の店員が私の後ろで、「あの男の人はとても若々しくてハンサムなのに、どうしてあんなにでっぷりと太った女性といるのかしら。」と小声で囁いているのが聞こえました。この批判を聞いて、私は怒り心頭で、ズボンをカウンターに置くと、踵を返してその場を去りました。私は涙が溢れ出るのを止めることができませんでした。私は、「最近は、人々が美しい顔とスタイルの良さにのみ価値を置いている。美人でなく、スタイルも良くない女性は、社会で立つ瀬がない。」と思いました。そこで、私は、「子供が離乳したら、ダイエットしよう。私のことを笑った人たちに羨望させ、嫉妬させてやる!」と決意しました。その後、友人が、「すっかり太ってしまったあなたの姿をご覧なさい。現在は、とても多くの男の人が若い愛人を持っています。あなたがこのまま太り続け、痩せようとせず、ある日、旦那さんが浮気し、愛人を持つようになったらどうするのですか。」と言いました。このような言葉を聞き、私の心はさらに惨めになり、強い焦りを感じました。私は、「私のスタイルが変わっていなかった頃は、夫は私の言うことを何でも聞いてくれた。私が太ると、私のことを嫌いになり始めた。もし、友人の言うとおりになったら、それは悲惨だ。そんなことが起きるのを許す訳にはいかない。」と思いました。私はとても不安になりました。その頃は、夢の中でさえ、夫が他の女性と駆け落ちする夢を見ていました。このため、体重を落とすことが最重要課題だとさらに感じるようになりました。子供が離乳すると、知人に聞いたり、インターネットで調べたりして、効果的に、短期間で痩せる方法を探しました。ダイエット専門家にさえ相談しました。彼らは、「痩せたければ、お金を払う必要があります。あなたのような既婚女性は、特に、体重に気を付ける必要があります。あなたはまだ若い。年を取ってから体重を落としたいと思っても手遅れです。スタイルはあなたの自信になります。あなたのスタイルが良くなってこそ、ご主人の心を掴んでおくことができます。」と言いました。専門家の言うとおりでした!女性はスタイルが完璧である時にのみ、100%の自信を持ち、他人の心の中にある自分のイメージを回復することができます。そこで、ためらうことなく減量計画を実行開始し、痩せるための“秘密のレシピ”を探しました。

   ある時、私の妹が、近所の人が痩せ薬を飲み、1ヶ月に約15kgも痩せたと言いました。それを聞いてとても興奮し、それについて調べ、その痩せ薬を自分のために購入して欲しいと妹に頼みました。妹は、「お姉さん、すべての薬には副作用があります。その薬には絶対に副作用がありますよ。気を付けたほうが良いです。」と言いました。これを聞いて、少し不安になりました。その薬には、私の健康を害する何らかの副作用が本当にあるかもしれないと怖くなりました。しかし、私は、「私のスタイルが良かった頃は、夫も周りの人も、こぞって私を褒め、羨ましがっていた。しかし、私が太ると、私に会うすべての人が皮肉や冗談を言ったり、侮辱したりする。その落差はあまりにも大きい。思い切って決断しよう。この薬が私の体に危険であるかどうかはどうでも良い。痩せさえすれば、他のことは重要ではない。」と考えました。そうして、私は痩せ薬を飲み始めました。通常、1日1錠飲むべきところを、より早く結果を出したいばかりに、服用量を増やしました。痩せ薬の刺激により、夜は、約2、3時間しか眠れなくなりました。頭は膨張したような感じがし、目は痛く、動悸が激しくなりました。また、毎日適切な食事を採るのを止め、きゅうりやトマト、スイカなど、脂肪率を下げる果物や野菜のみを食べるようになりました。1ヶ月に2回、具の入っていない麺のみを食べました。栄養と睡眠の両方が不足していたため、少し目眩がするようになりました。しかし、ダイエットして元のほっそりとした体型を取り戻すことができるのだと思えば、これは大した苦しみではないと感じました。決意が成功に導くのです。しばらくして、毎日のように、友人がくれた素敵なドレスを着てみるようになりました。最初のうちは、頭しか入らなかったのですが、1ヶ月もすると、楽に着られるようになりました。私は幸せな気持ちで中庭に立ち、自分自身をうっとりと眺めていましたが、突然、目の前が真っ暗になり、その場に倒れてしまいました。これを見た夫は怒って、「美しくなるために、あなたは命を捨てている!」と言いました。しかし、私は彼の言葉を無視しました。どうであっても、私は痩せたのです。1ヶ月の苦しみは無駄ではありませんでした。その後、私は意図的に可愛いドレスを着て、外出するようになりました。私の体重について冗談を言っていた人々に、この痩せた体を見せたかったのです。近所の人々が私を見ると、もちろん、驚いて、「わぁ!どうやってそんなに早く痩せたのですか。減量が本当に成功しましたね!」と言いました。彼らは、再び、羨望と嫉妬の混じった目で私を見るようになりました。この頃、夫はかつてのように皮肉を言うことはなくなり、私への態度も良くなりました。彼は私に微笑みさえ見せ、「あなたは痩せると本当に美しくなります!」と言いました。これらの言葉を聞き、私の虚栄心は再び満たされました。痩せたいという気持ちは、一層強くなりました。まるで薬物のように中毒になっており、止めたいと思っても、止めることができませんでした。私のスタイルは完璧ではないとまだ思っており、もう1箱痩せ薬を買いました。しかし、私が希望しているスタイルまで痩せた時に、苦しみが始まるとは全く考えてませんでした。

   ある朝起きると、全身に赤く小さな発疹ができており、それは頭や耳にまでできていました。私はすぐに、母と一緒に検査のために病院に行きました。医師は、難治性の皮膚病である乾癬だと言いました。これは、完治させることはできず、薬によりできるだけコントロールするしかない病気でした。私の免疫力が低下し、抵抗力がなかったため、体の中の毒素が一掃されず、血流の中に残ってしまったことが原因でした。ダイエットにより、私を見た誰もが私から距離を保とうとするような皮膚病を罹患することになるなど、全く想像していませんでした。この対価はあまりにも高く付きました。それから、頭から爪先まで、強い痒みを伴う赤い斑点ができました。夫も私を忌み嫌い、私から距離を置きました。さらに、私も外出したくなくなり、嘲笑の的となるのが怖くなりました。心の中ではひどい辛さを感じ、毎日泣いていました。私は自分のスタイルを見せびらかすために減量しようとしました。それなのに、今では、見せびらかすことができないだけではなく、自分自身に問題さえ引き起こしてしまいました。他の人はタンクトップに短パンを着ることができるのに、私は全身の斑点を隠すために、全身をしっかりと覆う必要がありました。私はとても後悔しましたが、過ぎたことであり、後戻りすることはできませんでした。私の皮膚疾患を直してくれる医師を求めて探し回ることしかできませんでした。しかし、どの薬も一時的にコントロールするのみで、完治させることはできませんでした。さらに辛かったのは、痩せ薬は依存性があり、皮膚疾患により、痩せ薬の服用を止めると、たちまち太り始めました。人々からの嘲笑や、家族からの冷遇や嫌悪は、とても私を苦しめ、自殺したいとさえ思うようになりました。私は常に、完璧なスタイルを求め、痩せることで自分自身の運命を変えたいと願ってきました。しかし、痩せることができなかっただけではなく、この皮膚病を罹患し、自分自身にひどい損害を与えてしまいました。周りの人の中には、減量のために、不眠症や心臓疾患、拒食症を患った人や、さらには、美しくなるために胃がんになり、命という対価を払った人さえいました。これらすべてのことに私は困惑し、「私は何のために、こんなことをしたのか。人からの賞賛を得るためだけのことだったのか。ここまで自分の体を傷付けるだけの価値が本当にあったのか。」と考えました。

   その後、全能の神の終わりの日の働きを受け入れる幸運に恵まれました。集会で、私の減量プロセスについて姉妹達に話すと、1人の姉が全能の神の次の聖句を読んでくれました。「あなたがたの気質、器、外観、背丈、あなたがたが生まれた家族、あなたの職業、結婚、すなわちあなたの全て、あなたの髪や肌の色、あなたが生まれた時間に至るまで、すべてはわたしの手により定められたものである。今日、あなたをわたしの前に来させたのも実際、わたしの定めによることは言うまでも無く、あなたが毎日行うこと、日々出会う人々でさえわたしの手で定められたものである。自分を混乱させてはならない。冷静に進みなさい。」(「キリストが最初に発した言葉と証し」より)この姉は、「どのような結婚をし、どのような家族を持つか、どのような外見になり、どのような人種で生まれ、いつ太り、いつ痩せるかということを含め、すべてのことは神により事前に定められています。それは、誰かや何かが変えられることではありません。神が私達に与えるものは最善で、それらすべてに意味があります。それにもかかわらず、私達は神の統治や神が定めた運命に従うことができず、神が授けてくれたすべてのものは私達の心に反していると常に感じています。私達は、常に、完璧なものを追い求め、神の統治に反対し、神が与えてくれたすべてのことを変えようとします。そのため、私達は自分自身を傷付け、自分自身にひどい苦しみをもたらしています。私の働くグループにいるXXさんをご覧なさい。彼女は美しさを求め、唇の整形手術を受け、神経をダメにしてしまい、今では、唇の形がおかしくなっています。減量のために脂肪吸引手術を受け、手術中に命を落とす人さえいます。これらの人々がこのような病気にかかった理由は、彼らが神の権威と統治を理解していなかったためです。これは、彼ら自身で自分の運命を変えようと無駄な努力をした苦い結果なのです。」と言いました。

   神の言葉とこの姉との交流を通し、私は、どのような結婚をし、どのような家族を持ち、どのような外見で、どのようなスタイルになるかは、すべて神次第であることが分かりました。神は既にこれらのことを定めていました。それは、私が希望したからと言って変えられるものではありません。しかし、私は神の統治を全く理解していなかったため、減量により、自分自身の運命を変えようとしました。その結果、私は多額のお金を使い、ひどい苦しみに耐えたにもかかわらず、結果として、自分の運命を変えられなかったばかりか、頑固な皮膚疾患にかかり、それにより毎日苦しむ羽目になったのです…。私は本当にあまりにも愚かで無知でした!その後、兄弟姉妹と教会の生活に参加し、神を称賛する賛美歌を歌い、神の言葉について話し合い、私達のそれぞれの経験や目撃したことを共有し合いました。兄弟姉妹とかかわる中で、兄弟姉妹はとても質素な装いをしていることに気が付きました。彼らは身体的魅力やスタイルの良さを追求していません。彼らは神が彼らに与えたものをすべて受け入れ、それに服従し、リラックスし、気楽に暮らしています。彼らは互いに助け合い、サポートし合いながら、誰をも公平に扱っています。彼らは外見やスタイルの違いにより、誰かを特別扱いすることはありません。そのことは、私に慰めと解放感を与えました。私は、自分自身の運命を変えるために、減量に頼ることができないことにも気が付きました。1人ひとりの人生は神の手中にあり、私は神の統治と采配に服従しなければなりません。

   その後、次のような神の言葉を読みました。「それは、誰かがあなたに『あなたの顔立ちは美しい。鼻筋が僅かに短いが、それを直せばあなたは国際的な美人になるだろう』と言うようなものである。整形手術を望まなかった者は、この話を聞いて心が動くであろうか。(動くであろう。)それならば、この話は誘惑する力があるだろうか。この誘惑は、あなたにとって魅力的であろうか。この誘惑は、拒み難いであろうか。(拒み難い。)神はこのようなことを言うであろうか。(言われない。)神の言葉に、現在検討している話のようなものが少しでもあるであろうか。(ない。)それはなぜであろうか。神は自身の心をそのまま述べるであろうか。人は神の言葉により神の心を理解できるであろうか。(理解できる。)しかし、蛇が女に話した時、あなたは蛇の心を理解できたであろうか。(理解できなかった。)己の無知故に、人間は簡単に蛇の言葉に惑わされ、騙され、誘導されていった。あなたは、サタンの意図を理解することができたであろうか。サタンの言葉の裏にある意図を見抜くことができたであろうか。サタンの策略と抜け目ない計画を見抜くことができたであろうか。(できなかった。)サタンの口調は、どのような性質を示すものであろうか。この話から、サタンのどのような本質が分かるであろうか。(邪悪な本質が分かる。)邪悪ということだが、サタンは狡猾であろうか。おそらくサタンは表面的にはあなたに微笑みかけるか、全く無表情であろう。しかし、サタンは胸中で、いかにして自分の目的を果たすかを計画しており、あなたはその目的を知ることができない。そしてあなたは、サタンの様々な約束や、サタンが語る利点に惑わされる。あなたは、そうした約束や利点を良いものであると判断し、サタンの話す内容が神が述べる話よりも役立ち、重要であると感じる。このような状態になった時、人間は服従する囚人となるのではないか。(その通りである。)それでは、サタンが用いる手口は極悪非道ではないのだろうか。あなたは深みにはめられ、沈んでゆく。何をすることもなく、サタンのふた言で、あなたはその手口にはまり、サタンに従わされてしまう。こうしてサタンの目的が達成される。そうではないだろうか。(その通りである。)こうした意図は邪悪ではなかろうか。これがサタンの元来の姿ではないか。(その通りである。)サタンの話から、人間はその邪悪な動機と醜悪な姿、その本質を知った。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 4」より)神の言葉による啓示で、私は、外見の良さを求めるのはサタンの策略であることが分かりました。サタンは私を騙すために嘘や誤った考えを使います。表向きは、私自身のためであるかのように、とても理に適い、有益なように聞こえるため、私は知らないうちにこれらに騙され、支配されています。たとえば、「紳士が欲望するのは美しい女性」「女性の資産はそのスタイルと顔」「スタイルが良ければ、周りの人から称賛され、夫から愛され、素晴らしい人生が待っている」などの言葉です。私は、常に、これらのサタンの嘘に騙され、これらの嘘に鼻面を引きずり回されていました。私は、スタイルが良いことによってのみ、夫の心を掴み、他人から称賛と高い評価を得ることができると心から信じていました。私の虚栄心を満たし、私自身の欲望の目標を達成するため、私自身の健康を害する薬を使用するのでさえためらいませんでした。しかし、最終的に、それが私にもたらしたものは、病気の苦しみと、振り払うことができない辛さだけでした。その時になってようやく、人々が世俗的なトレンドに従い、肉のために生きると、サタンの誘惑と苦難に苦しむことになることに気が付きました。同時に、神の言葉だけが人々に真理を理解させ、サタンの策略を見破らせ、サタンの欺瞞や危害から人々を救うということも分かりました。徐々に、私はサタンの嘘に背を向け、これらの痩せ薬や食べ物に頼らなくなりました。他人が私を見ようが、私を批判しようが、夫がどのように私を扱おうが、気にならなくなりました。その代わり、神が私のために用意してくださった運命を信じ、神の言葉に従い生活していました。毎日、規則正しく食べ、頻繁に神の言葉を読み、真理を追求し、神の創造物として本分を尽くしていました。すると、予想もしていなかったことに、健康を回復し、全身には斑点がほとんどなくなりました。神よ、ありがとうございます!これは、すべて私への神の愛であることを知っています。サタンの策略にかかることなく、神の愛と保護のもとで生きていけるよう、神の前に私を導いてくださったのも、真理を授けてくださったのも、判断力を授けてくださったのも神です。私の霊は解放され、自由になりました。私には、人生で求めるべき適切な目標があり、あんなに辛い状態ではもう暮らしていません。

   私の減量プロセスについて思い返すと、それは、本当に全く困難で危険なことでした。私はもう少しで死ぬところでした。神の愛と保護、そして神による救済がなければ、この邪悪な傾向から抜け出せず、未だに完璧なスタイルを頑固に追い求め、サタンによる苦しみと誘惑の中にいたことでしょう。これらすべてはサタンにより引き起こされたことであり、サタンが私の虚栄心を使って、私を困惑させ、誘惑し、騙し、それにより、私は深く沈み込み、その罠にかかり、抜け出せずにいたことを理解させてくれたのは神の言葉でした。私を目覚めさせてくださった神の言葉のお陰で、もう自分自身のスタイルも、他人が私をどのように判断するかも、気にならなくなりました。その代わりに、神が要求する真の人間らしさを全うし、神の承認を得られるよう、真理をただ追い求め、神の言葉に従って生き、神の統治と采配に服従しています。このように生きることはとても幸せで満ち足りた気分にさせてくれます。しばらくして、夫は私の病気が回復し、私の精神的見解が良くなり、人生に対する態度がポジティブで楽観的なものになり、教会のすべての兄弟姉妹が善良で正直な人々であるのを目の当たりにし、私の体重を理由にして私を冷たくあしらうことはなくなり、私に優しくなりました。神の言葉は私の人生を上向きにしてくださいました。そのことを神に感謝します。私の人生は、今、幸せで一杯です。教会の生活に参加し、兄弟姉妹と自分の本分を尽くすことで、とてつもない解放感と自由を感じます。自分自身を神の手中に委ね、神の統治と采配に服従してのみ、最高の幸せを得て、最も美しい人生を生きることができるのだと、気が付きました!


神の愛のみが真の愛である

2020-04-01 22:12:17 | 信仰生活

   神はこう仰いました。「数千年にわたり腐敗し続けてきた中国国家は、現在まで存続してきた。ありとあらゆる害毒が、らい病のように随所に拡散している。人間関係を見るだけで、人間にどれほど大量の害毒があるかを理解するに十分である。そうした密閉されて害毒に冒された領域で御業を行うことは、神にとって極めて困難である。人々の人間性、習慣、行動方法、人生や人間関係で表現されるあらゆる物事は、すべて信じられない程に破壊され…」(『言葉は肉において現れる』の「道 (6)」より)神の御言葉の御啓示により、サタンの堕落は人々の関係全てを異常なものと化してしまうのだと分かりました。なぜなら、全てがサタンの人生観に基づいており、それには何の真理も含まれていないからです。神の御救いを受けていなければ、私は依然として盲目で、感情も騙されたままであったでしょう。しかし、神の働きを受けた私は、“お互いを助け合う” ことの本質を理解して、友情、愛、そして家族間の愛情のあり方を知ることができたのです。私は、神の御言葉のみが真理であり、神の御言葉をつらぬいてのみ、サタンの支配から抜け出すことができ、真理に従って行動してのみ、有意義な人生を送ることができるのだと分かりました。

   私の両親は共にキリスト教徒だったのですが、当時、イエスを信仰していた私達は多くの恵みを授かりました。特にビジネスにおいて、神は物質的な安楽を沢山お与えくださいました。私の親戚の大多数は私の両親ほど裕福ではなかったので、私の両親は金銭的にも、物質的にも彼らの面倒を見ていました。私の親戚は私の両親をとても尊敬しており、自然と私にも同じ姿勢でした。私はこのような恵まれた環境で育ったのです。私の友人達と親戚はとても素晴らしい人達で、私の家族が何か必要であれば、快く助けてくれるものだと思っていました。

   1998年の事です。私達家族は全員で全能の神の働きを受け入れたのです。そして、神の祝福を授かりたいという希望と、厳しい業界でビジネスを展開していたということを理由に私達は家業を辞めることにしたのです。友人と親戚の中には、“お前達が何年もかけて成長させてきたビジネスなのに、辞めてしまうなんてもったいない”、と言って家業を続けるように説得してくる人達がいました。私達はこれ以上いらない程に稼いだから辞めるんだろうと、私達のいない所でこそこそ言っている人達までいたのです。これを聞いて悲しくはなりましたが、それでも私達はビジネスを辞める決意をしました。全能の神の働きを受け入れたと言っても、私は依然として人々の堕落については全く解っていませんでした。それ故に、私は、心の中では依然としてこの世俗的な世界を手放せずにいたのです。私はよく仲の良い友人や親戚達と一緒に食べたり、飲んだりして、楽しく遊んでいました。私は気前よくお金を使うので友達が沢山でき、非常に “重要” だった私は、同窓会、パーティ、クラスメートや友人達の誕生日会や結婚式、その他の集まりには必ず招待されていました。その上、毎週日曜日には、ガールフレンドを迎えに行っては見送り、頻繁にデートをしました。当時私は、教会で週に3回ある集会を一度も逃したことはありませんでしたが、依然として神の御言葉を理解しておらず、私の心も変わらぬまま世俗をさまよい続け、神への信仰は規制による束縛のように感じました。しかし、神は私が真理を理解できるような環境をお作りくださったのです。人々の関係は共通の関心に基づくもので、それには本当の気持ちや愛などといったものは存在しないとお示しになりました。

   家業を辞めた後、私の両親は自宅の修理を行い、私の妹と私の授業料を納める必要があったため、僅か数年後には家の貯金がほぼ底をついてしまったのです。そして、両親から収入を得ていた私の出費も減っていきました。私は、結婚式や集まりにはその規模に関係なくできるだけ参加しないようにし始めたため、私の友達の輪も次第に小さくなり、友人達の目から見た私の存在もその重要性を失い始めたのです。貧しかった友人や親戚の運気が改善したとたん、彼らは私達から遠ざかっていきました。この時、私は他の人達の心の中にはもはや存在していないと感じたため、私にとっての精錬の期間となりました。特に、私のガールフレンドは、私が以前ほど気前よくお金を使わなくなったため、私からどんどん距離を置くようになり、2001にはついに私と別れて、他の人と付き合い始めてしまったのです。

   それを知った時、私は事実として受け入れられなかったのです。感情を露わにはしなかったものの、この知らせはナイフが心臓に刺さったかのように辛いものでした。私は浮気をしたことなどなく、彼女のために費やした努力も誠実な動機によるものでした。なのにどうして、私は彼女に裏切られるようなことになったのでしょうか?5年間続いた彼女との関係もこんな形で幕を閉じたのです。私は彼女を忘れることができずに、この痛みを心の奥深くに埋め込んだのです。それ以降、私は、誰かがこれについて触れるたびに嫌な思いをしました。どうしてこのような事が自分に起ったのか、私には理解できませんでした。そして、ある日、私はこの神の御言葉の一節を目にしたのです、「殆どの人々がサタンの汚れた地で生活し、サタンに嘲笑されている。サタンはあの手この手で人間を悩ませ、人間は死にかけの状態となり、人生の浮き沈みや人間の世界の苦難を経験する。サタンは、人間を弄んだ後、人間の運命に終止符を打つ。したがって、人間は一生を朦朧とした状態で過ごし、神が人間のために用意した良き物事を享受することは決して無く、その代わりにサタンにより傷めつけられ、破滅させられる。現在、人間は無気力かつ無関心な状態となり、神の働きに留意する気は全くない。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(1)」より)神の御言葉による御啓きは人間のいのちを忠実に描写しています。恋の病にかかり、“ロマンチックな恋” の幻想的な世界を過ごした時期を振り返ってみると、私は脱出不可能な罠にかかっていたのです。これらはサタンが人を欺くために仕掛けた罠であり、人々を捕まえては目標を持たずに、神の働きに気付こうとする意思すら持たずに生きて行かせるための計略であったとは、全く知りませんでした。私は自らを神の信者と称してはいましたが、友情と愛について頭を悩ませ、苦労した日々を沢山過ごしました。私の状況が変わっていなければ、依然として “永遠の愛の誓い” であったり、“忠実な友人” を信じ、決して脱出できなかったでしょう。ガールフレンドと分かれたことをきっかけに、私はクラスメート全員との関係も断ちました。騒々しい環境から出たことで、私は心を落ち着かせ、神への信仰に専念することができたのです。私は集会の場で兄弟姉妹達と交流するようになり、私の傷ついた心が徐々に元気を取り戻していったのです。私は長い間忘れていた喜びを感じとり、もはや喪失感はなく、苦しみの中を生きることもなくなったのです。外部からの邪魔が入らないため、私は心が落ち着いた状態で集会に集中することができたのです。私は神への信仰にますます興味を持つようになり、それ以降、自分の本分を尽くし始めたのです。

   私が神を信じていることを知った親戚達は、窮まるところを知らずに邪魔をしてきたのです。神を信じるなんてこんな若い私がすることではないというのが親戚の考えだったのです。母方の叔母は頻繁に頼み事をしてくるようになり、父方の叔母は彼女と一緒に商売をしようと言ってきたり、育ての母までもが(自分に息子がいないから)赤ちゃんが生まれてもその子の面倒を見るからと言って、結婚させようとしてくるのです。御婆ちゃんは泣きながらこう言いました:“あなたの親が神を信じるってことには反対じゃないけど、人生の半分を働いて、あなた達が生きて行く道を開くために全てを注ぎ込んだんだから、のんびりさせてあげなさい。あなたは子供を作ることと、自分のキャリアに集中しなさい。そして御婆ちゃんは、私の父が貧困の中で育ったこと、父がゼロから出発したこと、沢山辛い思いをしたこと、どれだけ一生懸命に働いたかということ、私が恵まれた環境で育ったこと、そして私が理想的な目標を持てていないことについて説明し出したのです。皆が突然私を“心配”してくれたことはとても嬉しく思いました。しかし、私は混乱しました。なぜなら、皆が言っていたことは正しくて、皆が私にとって一番良いことを望んでくれていたように思えたからです。しかも、皆は私の一番近い親戚だから、私を傷つけるようなことはするはずがありません。若い時に何かをやり損ねていたとしたら、私は年を取った時どうなるでしょうか?私は精錬の中を生きていたのです。これは精神的な戦いだと分かってはいましたが、私にはもう戦い続ける気力が残っていませんでした。集会の場で、リーダーが私にこの神の御言葉の一節を見せてくれました、「数千年にわたり、中国人は奴隷生活を送ってきたため、考え方や観念、生活、言語、態度、行動が大いに制限され、少しも自由がなかった。数千年にわたる歴史により、霊と活気を備えていた人々は疲弊して霊のない屍のような状態になった。多くの人々がサタンの大形肉切り包丁の下に置かれ…外側からは、人間は高等『動物』のように見えるが、実際には汚れた悪魔と共生している。そうした人間を世話する者は居らず、サタンが常に待ち伏せする中で暮らし、罠にかかり、そこから逃げ出すことは出来ない。そうした者は、居心地のよい家で愛する者と共に幸福で満たされた生活を送っていると言うよりも、陰府に住み、悪魔と取引し、悪霊と付き合っていると言うべきであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(5)」より)私は、神の御言葉による御啓きと兄弟姉妹達との交流を通じて、私の親戚達が、表面的には親戚であるかの様に見えると同時に、彼らの言葉が私の肉の要求と一致しているものの、彼らの思考、観念、いのち、言葉遣い、振る舞い、そして行動はサタンの堕落によって拘束されているのだと気が付きました。私の親戚は全員が未信者なのです。彼らが持つ観点の全て、および彼らが口にすることは全てサタンから来ているものであり、皆が求めるものは全てが肉の利己的な欲求なのです。この中に真理と合致しているものは何一つありません。真理と識別を全く兼ね備えていない私がこれ以上彼らと関わりを持つのは私をどんどん堕落させるだけです。これから得られるものは何もないのです。彼らは単に私を破滅へと導くのです。当時、私は、兄弟姉妹達が頻繁に語っていた “未信者は全員が悪魔である” ということについてある程度は理解していましたが、完全には把握できていませんでした。その後、神は、私が家族の絆の真の本質を知ることができる環境をご用意してくださったのです。

   私の家族は常にホストファミリーで、2005年のある日、ある悪人による報告のせいで、私の両親と兄弟姉妹数人が大きな赤い竜に捕まってしまったのです。私の実の姉は、逃げようとした時に溺水しそうになりながらも何とか生き延び、神の御加護のおかげで命は助かりました。私の両親と私の家族宅で滞在していた兄弟姉妹達は拘束され、罰金を科されてしまい、全員が拷問を受けて怪我を負ったのです。この知らせを聞いた私は、感情を抑えられず、自分の本分を尽くすほどの勇気を持てませんでした。私は、“こんな時は何が何でも実家に戻るべきだ。両親は私を育ててくれた。今は二人が大変なことになってるんだから、何もできないにしても様子を見に行って安心させてあげるくらいの事はするべきだ”と思ったのです。 それで、私は両親に会いに行くために電車に乗り(私と同じく神を信仰している)父方の叔母の家に直行しました。その時点で、両親の傷はまだ癒えていませんでした。私はとても気の毒に思い、目から急に涙が溢れ出したのです。私は自分の両親が屈辱をうけたような気分になりました。その時、両親が私にこの話をしてくれました:大きな赤い竜から逃げようとした時、私の実の姉が(12月のある日の日没後に)川に飛び込んだのです。水面は彼女の首の高さまであり、川の流れは強く、野草が彼女の足に絡まりつき、彼女の靴は泥沼にはまっていたのです。これを考えると、彼女が川の反対側までたどり着いたのは全く不可解なことだったのです。神が奇跡的に彼女をお守りくださったに違いありません。そうでなければ、考えたくもないような結果になっていたことでしょう(この数日前に40代の男性が深みにはまり、強い流れにのまれて命を落としていたのです)。後に、私の実の姉は年配の姉妹宅に隠れ、この姉妹が私の姉に着替えを出してくれたのです。その時、私の姉は泣きながら自分の濡れた服を乾かし、この姉妹はそれ以外にも私の姉の世話をしてくれたのです。数日後、私の姉はこの姉妹の家ももはや危険な状態にあると知り、私の父方の叔母宅へと移動してそこで隠れたのです。 彼女は日中に私達の教会のリーダーに私の家族の状況を知らせるために手紙を持って行きました。しかし、彼女が戻ると、私の母方の叔母の下の娘がが彼女にこう言ったのです、“ねえ、どうして戻って来たの?もう出て行ったと思ってたのに。とっくに布団をたたんでしまったわよ。” その時、私の姉は、母方の叔母はこれに巻き込まれたくないから彼女をそこに住ませたくないのだと思い、泣きながらその家を出て、他に行くあてがなかった彼女は拘束されるリスクをおいながらも家に帰ってきたのです。私の両親は、解放された後に私の姉が溺水しかけたことや母方の叔母が彼女を家から追い出したことを知ってとても怒りました。しかし、私の母方の叔母はいかにも自分が正しいと確信しているかのような口調でこう答えたのです、“その通りよ。私達は巻き込まれたくなかったのよ。あなた達が拘束されたのは自分達が招いたことじゃない。あなた達は完璧な人生を送っていたのに、自分達でめちゃくちゃにしたんじゃないの。あなた達のせいで人が1人殺されそうになったんだから!” 大きな赤い竜が私の家族を拘束し、いのちの危険にさらされている時に、安心を感じられることが最も大切だという時に、私の一番近い親戚が、過去私と一番距離が近かった人達がこのような非人道的なことを言ったり、残酷なことをするなんて思ってもみませんでした。 こんなことが出来る人達だったと知ってとても悲しくなりました。過去に沢山助けてあげた人達は誰も私達の様子を見に来たり、慰めてくれようともしませんでした。私達と一番良い関係にあった人達は、私の両親と道端で顔を合わせても話しをしないどころが、私の両親をよけて歩くようになったのです。以前は私達に会釈して挨拶してくれた人達の中には私達を無視して陰口をたたくようになってしまった人もいました。私達の兄弟姉妹達のみ、夜になると私達の所へ足を運んでくれて、一緒に交流してくれたのです。自分の家族がこのような悲惨な状態に陥ることになるとは思ってもみませんでした。私は、又しても、精錬の状態に追い込まれ、神を裏切ることを心の中で考え始めたのです。後に、私は神の御啓きを受け、私の兄弟姉妹達が話していた “人々の関係は共通の関心のみに基づいており、お互いを利用し合うことを目的に築かれた関係では、家族と友人もお互いをただ助け合うだけなのです” という事を実際に体験したのでした。私は更に、自分の両親が言っていた大きな赤い竜に拘束された経験から得たことについて振り返ってみました。例えばこれです:大きな赤い竜が私の父親を革製のむちで打った時、お父さんは大した痛みを感じることがなく、ベルトが粉々になった、と言う事。私の姉は彼女の体験した事は全く怖くなかったと言いました。12月のことであったにもかかわらず、水から出た時も寒くなかったと言うのです。神が彼女に特別に力と自信をお与えになっていたのです。大きな赤い竜によって拘束されたことで、彼らの信仰がより確固たるものとなり、強さも増したのです。私の父親は、以前は神の御言葉を信じずに、むしろ大きな赤い竜の崇拝者であったけれども、今回の出来事で大きな赤い竜は単なる悪党集団で、私達の家にあった金目の物なら何でも奪い、殺人者や放火魔よりも、神を信じ、律法に従う信者達を拘束したがる盗賊であることが分かったと言っていました。 私は、私達は皆、神のリーダーシップの下で生き、私達が体験することは全て神の主権と采配の一部であり、いかなる者でも他人を助ける力は持っておらず、家族間の愛情は私達を神から遠ざけるだけのものであり、人々がお互いを助け合えるものは肉にかなうものに限り、真理とは合致していないということを理解して恥ずかしい思いをしました。“両親の肉に苦しんで欲しくない” といった思考は、両親のいのちの為にならないだけでなく、両親が救われることの為にもならないのです。人が何を必要とするかは神のみが知り得ることであり、神は誰よりも人を愛しているのです。私はこの神の御言葉の一節を目にしました、「神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。神のいのちは、天や地が激変する間も永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。」(『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より)神の御言葉と実相を通じて、私は神のいのちの力の異例さと偉大さを、神は常に私達の中に生きておられるということ、常に人類を御導きになり、御力をお示しになっているということ、そして人はそれぞれが神の立案される采配の中を生きているということを体験しました。神の御言葉を受けて、自分がどれだけ小さく、情緒的なつながりがどれだけささいな事であるかを知ったのです。私は、自分の家族が直面した苦難に対して何をすることができたでしょうか?彼らを守り、気を遣い、危機を乗り越えさせてくれたのは神だったのではないでしょうか?人から人への愛が、神から人への愛を超えることは可能なのでしょうか?これと同時に、私は神の御言葉の裁きを受けたのです、「あなたがたのうち、私のために全てを費やし、捧げることが本当に出来る者は、誰であろうか。あなたがたは皆、心が中途半端で、考えが堂々巡りし、自宅のこと、外部の世界のこと、食べ物や着る物の事を考えている。あなたがたは私の前で行動しているという事実に反し、あなたがたの心の中では、依然として自宅に居る自分の妻子や両親の事を考えているが、それは全てあなたがたの性質であろうか。あなたがたは、なぜそうした物事を私の手に委ねないのか。あなたがたは私を十分に信じていないのであろうか。それとも、あなたがたに対して、私が不適切な采配をすることを恐れているのか。あなたがたが常に自宅を恋しがるのはなぜか。そして他の誰かを恋しがるのは、なぜか。あなたがたの心の中で、私は何らかの位置づけがされているであろうか。それでも、あなたがたは私にあなたがたを統べ治めさせ、全てを占めさせるなどと言っているが、それは全くの偽りである。あなたがたのうち、心から教会のために在る者は、何人居るだろうか。あなたがたのうち、誰が無我になって現在の王国のことを考えているだろうか。あなたがたは、このことを熟慮する必要がある。」(『言葉は肉において現れる』より)私は、心の中で依然として自分の家族のことを気遣っていたことを知りました。神を信じていなかった私は、依然として自分の家族のことを神にお任せすることができなかったのです。私は、真理の中を生きておらず、神の家で自分の本分を尽くしてはいても、自分の家族のことを頻繁に心配して、神に自分の心にお入りいただくことを拒んでいたのだと知ったのです。私は何よりも神を尊敬し、自分の本分を忠実に尽くすということができませんでした。私はサタンにより騙され、苦しめられていたのです。私は、これらの “不幸な” 出来事が起こっていなかったら、決して物事を明確に見極めることができなかったでしょう。この神の御言葉による讃美歌はまるでこの事について歌っているかのように思えます、「人間の生活の状態について、人間は、まだ真の人生を見出しておらず、世界の不公平、荒廃、惨めな状態を見通しておらず、そのため災いが降りかかることがなければ、大抵の人は、まだ母なる自然を信奉し、『人生』の味わいに夢中になっていることだろう。これが世界の現実ではないのか。これが、わたしが人間に語っている救いの声ではないのか。なぜ、人間の誰一人、真にわたしを愛さないのか。なぜ、人間は刑罰と試練の中でだけわたしを愛し、わたしの守りを受けている時には、誰もわたしを愛さないのか。」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』より)これらの状況が明らかにしてくれた事がなかったら、私は決して人々の間の関係を本当に理解することができずに、依然として家族の絆、愛情、友情にコントロールされたままとなり、脱出する術がないままこういった物事を追い求め続け、これらに騙されては苦しめられ、無知のまま幸福を感じていたことでしょう。“大惨事” に襲われていなければ、私は依然として邪悪で世俗的なトレンドを追い続け、自分の卑しさを知ることはなかったでしょう。神の刑罰と裁きを受けていなければ、私は決して真理を授かることがなく、人生の正しい道を歩むこともなかったでしょう。神の御救いは、私が二度と “人生” を堪能することがないようにしてくださったのです。私は、これを全て理解した時、神を心から信じて、神がお与えくださった愛に応えられるよう真理を求める決意をしたのです。

   2007年に、私が自分の本分を尽くしに故郷に戻った時、共に信仰に参加した兄弟が社会の闇と悪を見抜けなかったがために、俗世間の誘惑に屈し、神を裏切り、神の家族から去って行ったことを知りました。彼の両親と兄弟姉妹達が繰り返し彼と交流を行い、留まるように説得しようとしたのですが、彼は頑固にも首を振り神の家族に戻ることを拒否して、俗世間に帰る選択をしてしまったのです。その後、間もなく、彼はこれら俗世間のトレンドの落とし穴にどんどん深入りしていったのです。彼はハンサムで高収入を得ていました。なので、彼は多くの女性と関係を持つようになったのです。最終的に、彼は殺害されてしまい、彼の臓器は売られてしまったという知らせを聞きました。彼の両親が彼の体を見ることは二度とありませんでした。この知らせを聞いて、私は可哀想に思いましたが、同時に私は、俗世間のトレンドを追い求めることの悲惨な結末も目にし、それ以上に、私の両親が私に俗世間に戻ることを止めさせようとしていたのも、神が御遣いになっていたことであったと知ったのです。これにより、私は神の御心遣いと御加護を体験することができ、この世界で大金を持つということは自身の破滅に繋がる下り坂であるということを理解できたのです。神はこう仰いました、「人間は何と哀れであろうか。自分が育った大地が悪魔の大地であることや、自分を育てた者が自分の敵であり、自分を傷つける者であることを、どうして人間が知り得ようか。しかし人間は全く目覚めない。人間は、飢えと渇きを十分に満たしたので、自分を育ててくれた「両親」の「厚情」に報いる用意をする。人間とは、そうしたものである。現在、人間は、自分を育てた王が自分の敵であることを、未だに知らない。地には死者の骨が散在し、悪魔が絶え間なく浮かれ騒ぎ、「暗黒の陰府」で人間の肉をむさぼり食い続け、墓で人間の骸骨と共に居て、いたみ切った人間の身体が残されていればそれを食べようとうぬぼれた努力をしている。しかし、人間は無知なままであり、悪魔を敵として扱ったことが無く、むしろ心から悪魔に仕えている。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(9)」より)私は、神の御言葉を通じて真理を知り、サタンが人類を堕落させる方法を知りました。私は、最終的にはその悪質な本質が人々を飲み込み、神の時にかなったお救いがなければ私もこの邪悪で世俗的なトレンドに飲み込まれ、その中に埋もれてしまう運命にあったと知ったのです。 これを理解した私は、神に心から感謝の念をお伝えし、神を讃えたました。私は神の慈しみ、恵み、御加護のおかげで今日までやってこれたのです。

   私が神の家族として自分の本分を尽くすようになってから数年が経ち、そこでは神の愛を感じることができました。私がどこで自分の本分を尽くしていようとも、神はいつもそこにいて、私の面倒を見てくださるのです。私の兄弟姉妹達ともまるで本当の家族のように仲良くしています。お互いを利用し合ったり、利益の取引などはしていません。私の兄弟姉妹達はとても誠実で、私達の堕落がお互いに顔を出すことがあっても、お互いが心を開き、自分自身について分かっていることを話し合うようにしているので、私達の間に恨みや警戒心はないのです。私達はお互いを助け合い、愛しあっています。それぞれを同じ目で見なし、貧乏であるとか、金持ちだからと言って特別扱いすることはありません。私は健康に問題あるので、頻繁に病気になりますが、私の兄弟姉妹達はとても思いやりがあるので、手厚く看護してくれるのです。この中で、私とこの兄弟姉妹達の間に血の繋がりはなくても、彼らは実際の親戚よりも近い存在であることを実感したのです。そして、私達は、神の御導きを受けながら全員で真理を追い求め、自分達の本分を尽くそうと努めています。

   ここ数年の間に経験したことによって、私は、神の御心を徐々に理解できるようになっただけでなく、神が私に対して行ったくださった働きはお救いの働きと愛情であり、神の仰る御言葉は真理であり、それ以上に私達のいのちを御救いになる御言葉であることを知りました。これらの真理が私にとっては神からの最高のお気遣いと御加護となったのです。これらの御言葉から逸脱したり、これらの御言葉が与えてくださる根拠を基に物事を見ていなければ、私は自分自信を破滅させてしまうでしょう。私はサタンにより深刻に堕落させられていたため、神の御言葉の意義を真っすぐに捉えることができなかったのです。それ故に、神は私に恵みを与えるため、私を完全にするため、そして私が神の御言葉を理解できるようにするために、私のニーズに合わせて多種多様な状況、人々、問題、出来事をご用意してくださったのです。私は、経験した苦難と試練の渦中でこれらの神が仰る御言葉は全てが真理であり、人類が必要とするものなのだと無意識のうちに認識したのです。それは人類がいのちを授かり、普通の人としてのいのちを生き抜けるようにしてくださるだけでなく、人生の正しい道をも指し示してくださるのです。それは、神が真理であり、正しい道であり、いのちであるからなのです。神の御言葉はこうあります、「わたしは、人間にはただ、わたしの言葉の内容とわたしの言葉の本来の意味とを受け入れる以外のことは何も求めない。わたしの言葉は単純であるが、その実体は複雑である。人間はあまりに小さく、あまりに鈍くなっているからだ。わたしが肉の体でわたしの奥義を直接明示し、わたしの心を明らかにしたとき、あなたがたは、まったく気づかない。あなたがたは、その音を聞いても、意味は理解しない。わたしは悲しみにうちひしがれる。わたしは肉の体をもっているが、肉の職分の働きはできない。」(『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「九番目の言葉」より)私は神の御言葉に神の感じておられる緊急性と悲しみを見ました。神の仰る御言葉は全てが真理であるものの、人類は霊的背丈が低すぎて、麻痺しずぎているために、神の御心を気にもかけておらず、神を憂鬱感な気分にさせてしまっているのです。私は神にご安心していただき、共に協力し合いたいと思っています。私が理解できていない真理は多くありますが、真理を追い求め、自分の本分を尽くしていれば、神は私が神の御言葉を理解できるように御啓きと御光を与えてくださるでしょう。 私の内には依然として清めが必要なドラクが多く存在しています。私は神の働きだけでなく、神の裁きと刑罰、そして付随する苦難と精錬をもっと沢山受ける必要があります。しかし、神は人に多くを求めている訳ではないのです。私が神の御言葉の実相を受け入れることのみを御求めになっておられるのです。

   以前、私が神の信仰を始めたばかりの時、私は神の御言葉を愛していなければ、大切にしてもいませんでした。しかし、神が私にご用意してくださった状況と長年に渡って授かった精錬のおかげで、私は神の御言葉を富として見るようになったのです。しかし、これらの状況が起っていなければ、私は決して神の御言葉を真の意味で理解することはなかったでしょう。私は神を讃え、神に感謝いたします!神が私を御救いくださったのです。神からのいのちの御言葉が私の目を覚まし、サタンの支配下で騙されながら生きていた私を救済してくださったのです。私は、神の御言葉の中に、いのち等の真の意味を知ることができたのです。私は、神は常に人類に対して気を遣われ、常に人類を見守られ、保護されて来られたのだと知り、更に、人類は神の御言葉の供給、育み、注ぎ、支援を受けることから離れられない、そして神のみが真理であり、正しい道であり、いのちであると理解し、神を通してのみお救いを受けることができるのだと知ったのです。神の御言葉が今日まで私を御導きくださったのです。私は神の御言葉を自分のモットーとし、この先歩む道の目印とし、自分の行いの指針にしたいと思います。ああ、神様!あなたは私を御救いくださいました。私はあなたの御言葉で目覚め、堕落の道を歩むまずに済んだのです。私は残りの人生をこのままあなたに従いながら歩み、絶対にあなたのもとから離れたくはありません。私の決断がいかなる状況でいかなる困難や苦難を招こうとも、私はあなたの足跡をたどりながら、あなたと共に歩み、あなたに安心していただきたいと思っています。私は、これから常に、永遠に、最後まであなたに従って生きていきます。


どのように男女関係の誘惑に勝利したか(第二部)

2020-03-26 23:22:43 | 信仰生活

   ワン・ウェイの件でサタンの誘惑に陥ることのなかったジンルは、二度とワン・ウェイに会ってはならないということも分かっていたが、あの晩の出来事と自分に対するワン・ウェイの熱い告白は、映画の一場面のように繰り返しジンルの心に甦ってきた……

   そしてワン・ウェイから再び電話があると、ジンルの心は僅かに揺れた。「もう二度と二人では会わないわ。でも今まで通り、友達ではいられる。自分が節度を持ってしっかりしていれば、大丈夫なのよ。」そう考えて、ワン・ウェイからの電話に出て、しばらくおしゃべりをした。そんな事をしているうちに、ジンルはワン・ウェイがまた電話をしてくるだろうかと考えるようになり、それを楽しみにするようになっていった。ワン・ウェイが電話してくる度に、自然な対応をしようとジンルは自分を落ち着かせた……そんなことが続くうちに、ワン・ウェイからの電話は以前より頻繁になった。ジンルはワン・ウェイとの会話が終わって電話を切った後、いつも心が穏やかでなくなり、心が痛み、自分のしていることが神の心に沿わないのではないかと感じた。ジンルの心の痛みと不安は、正に神がジンルに対してあの時の教えを思い起こさせ、非難しているのだと気づいた。ジンルはすぐに神の前に出て祈った。「ああ神様!私はワン・ウェイとこのようなことを続けるべきではないと分かっています。でも自分の気持ちがコントロールできません。罪に向かっている自分をどうすることもできません。ああ神様!このようなことを続けてあなたを悲しませたくありません。ああ神様!どうか私を助けてください!」

   その後ジンルはいくつか神の言葉を読み、自分を苦しみから解放する言葉を見つけた。「あなたたちはみな、罪と放蕩の場所で生活している。あなたたちは皆みだらで罪深い人々だ。今日、あなたたちは神を見ることができるだけではなく、もっと重要なことは、刑罰と裁きとを受け、こんなにも深い救い、つまり、神の最大の愛を受けているのだ。……あなたたちは、どうやって生活し、どのように生きていくのかを知らず、また、あなたたちは、このみだらで罪深い場所に住み、みだらで汚れた悪魔であるが、神は、あなたたちがいっそう堕落してゆくのを望まない。また神は、あなたたちがこのような汚れた場所で生活し、サタンの思うままに踏みつけられるのは見るにしのびない。あるいは、あなたたちがハデスに落ちてゆくままにすることなど望まない。神はただあなたたちの群れを獲得し、完全に救いたいと願っている。……」(「征服の働きの内幕(4)」より)。 説教と交わりの中で次のように書かれていた。「情欲に溺れた人たちが最終的にどうなるか、あなた方はもう知っていますね。大抵の場合、どうなるでしょうか。呪いを受けるでしょうか。何か良いものは生まれるでしょうか。そこに一生平安はないのです。情欲がもたらすものは混乱とトラブル、それは耐え難い苦しみです。向こう見ずに結婚相手を求めたり異常な求め方をしたりする者に幸せな結末があるでしょうか。良い結果が出ることなどなく、結局は呪いを受けるのです。軽々しく扱うことではありません。」(『いのちに入ることに関する交わりと説教』(VII)から「どのような人が神に完全にされるか」より) 「あなたがある特定の異性にみだらな思いを抱いた場合、その問題にどう対処するでしょうか。考えてみてください。あなたは最低限、結婚というものを尊重しなければなりません。もし相手に夫や妻がある場合、相手の結婚生活を尊重しなければなりません。相手の結婚生活の妨げになってはなりません。相手を尊重するということは、自分自身を尊重するということで、他の人たちを尊重することができないのであれば、自分自身も尊重できないのです。他の人たちを尊重するならば、自分自身も尊重するのです。もしあなたが結婚を尊重しないならば、あなたは人間性に欠けていることになります。もしあなたが結婚を尊重することができるならば、そして、他の人を愛し尊重することができるならば、その相手を傷つけることはしません。もし誰かがあなたに言い寄っても拒否することができるならば、あなたは適切に対処しているのです。そのような誘惑に負けないようにするには何が必要でしょうか。それは真理であり、あなたが真理を持ち合わせているならば、そのようなことをはっきりと知ることができます。この問題の本質をはっきりと理解して初めて、あなたは、自分の行動がどう相手を傷つけるか、相手の心がどう痛手を負うか、相手の人格をどこまで傷つけたかを知ることができ、そうして初めて、そのような行動を避けることができるのです。そのようなみだらな考えや思いが浮かんでも、あなたはいつでもそれを拒否することができ、そのようなものに興味を持つこともなくなり、注意を向けることもなくなります。あなたの心はそのようなものに揺れることはなくなるからです。(『いのちに入ることに関する交わりと説教』(VI)から「現在の教会に広がる三つの問題の解決に焦点を置く」より)

   神の言葉と交わりの言葉を熟慮する中で、ジンルは、自分がサタンの狡猾な策略と本質、そして情欲にまかせるままにした場合にもたらされる害と結果を見抜くことが出来なかったために、抜け出せない感情の渦の中に落ちてしまったのだと知った。

   そのことを思い返してみて初めて、ジンルは「愛は素晴らしい」「愛し合っていれば最後には結婚する」、「永遠を求めるより今を幸せに生きろ」、「愛することは罪ではない」といった考えを洗脳させていたのはサタンであり、サタンが、美しい愛を夢見るようにさせ、道徳や良心に制限されずにワン・ウェイのことばかり考えて連絡を取り合うようにさせて引き込まれていき、罪の中を生きて自分のしていることが過ちだと思わずに罪の喜びを求めるようにさせたのだと気づいた。

   ジンルは自分の周りで不倫問題を抱えている何人もの人々、そして愛人を抱えている何人もの男性のことを考えた。一時の欲を満足させても、結局家族の争いや結婚生活の破滅を招き、時には三角関係が原因で殺人にまで発展するのだ。昨今の動きが広がっているが、大学で、公共の集会や情報公開の場で、メディアを通じて急速に広がっている。有名人や知識人が一夜だけの関係を持ったために非難され、信用を失い、みだらな関係の代名詞のようになってしまった人もいる。特に中国政府の当局者の多くは妻と愛人がいて、その多くは政治的に対立する者たちが不倫問題を利用して陰謀を企て、それによって重罪人として投獄されたりもしている。ジンルは、不倫関係に陥る人達はただ自分の情欲を満たすためだけにそのようなことをしていることをはっきりと理解していて、それは否定的なことであり、邪悪なことであり、人を泥沼に陥らせるだけのものだと分かっていた。賭け事で損をするともう一度やりたくなってしまう人たちが、最後には家族を経済的崩壊へと陥らせ、家族がばらばらになってしまうのと同じように、情欲に溺れる人々は一度そのような関係を持つと、同じことを繰り返すようになり、遂には姦淫の罪から抜け出せなくなるのだ。そのようにして最終的に彼らは自分たちの体を破壊し、将来どこまでもその問題を引きずり、生きる気力を失って自ら命を絶つ人さえいる。それだから、ジンルは情欲に任せていることは良くないと感じた。罪深いことで、天からの罰と怒りを招くことだと思った。そして人を破滅の道に引き込むことであると。そしてジンルは、サタン的哲学と理論は全て妄想であり偽りであり、真実ではなく、人を騙し、サタンが人を堕落させる道具であり、不倫に関わる男女の間に本当の愛はないことを理解した。もし本当の愛があるならば、その人には人間性があり、相手を敬い、結婚というものを敬い、相手を傷つけることは一切しない。不倫をする人間はみな互いの情欲をもてあそび、相手を利用しているのだ。ジンルがそれを理解した時、神の前に出て、こう祈った。「ああ神様!サタンの毒に侵されて生きる結果がどのようなものかやっと理解できました。これ以上サタンの毒に侵されて肉の欲の中に生きたくありません。ワン・ウェイと連絡を取り合いながら生活することは誠実さも品格もないものです。私はこんなことを続けることであなたの名前を辱めることなどしたくありませんし、クリスチャンとしての証しを失いたくありません。私に神様を畏れる心を与え、真理の原則を貫いて肉を捨て、危険を知った時にはそれを避け、神様の栄光のために真の人間の姿を生きる者とさせてください。」

   ある日ジンルがスクーターで教会へ向かっていると、ちょうどワン・ウェイが車で通りかかった。ワン・ウェイはジンルを呼んだ。ジンルは答えたかったが、その瞬間に神様からの言葉と神の前での自分の祈りを思い出した。ジンルはこのままの状態を続けることはできないと分かっていたので、車の中のワン・ウェイを見ただけで何も言わなかった。ジンルはスクーターを止めることなく走らせていくと、ワン・ウェイが着いてきて、クラクションを鳴らした。心の中でジンルは神に祈り、サタンの策略から自分を守り、クリスチャンとしての証しになるようにと祈った。すると、ジンルの心は静まった。ジンルはワン・ウェイに言葉を返すこともしなかった。どうしたらワン・ウェイから逃げられるか、それだけを考えた。分かれ道に来たとき、ジンルはワン・ウェイが一方へ曲がるのを見て、急いで反対方向に向かってスクーターを走らせた……

   ジンルはその後何度もワン・ウェイと路上で出会ったが、ワン・ウェイに対する態度を変えることはなかった。すると神はジンルに道を開いてくださった。ワン・ウェイに会う時はいつでも、ワン・ウェイが誰か知り合いにばったり会ったり、渋滞だったりして、ジンルに近づくことはできなくなった。ジンルはその後ワン・ウェイと接点を持たずに済むようになった。ジンルはケータイ番号を変え、二人はその後会うことも話すこともなくなった。

   このような経験を思い起こし、ジンルは次の事を本当に理解するに至った。この誘惑だらけの世界では、日々サタンからのさまざまな誘惑に直面する。真理を持たない私たちはそのような誘惑を見分けることができず、サタンの毒によって生きてしまい、邪悪な世の流れに流されるままになり、罪に陥って抜け出せず、サタンに騙され傷つけられてしまう。サタンの様々な誘惑と巧みな策略を見抜きたいと思えば、神様の前に出て神様の言葉を身に付け、より多くの真理を理解し、肯定的な事と否定的な事の違いが分かるようにし、サタンの巧みな策略を完全に理解し、誰に会っても、どのような物事に直面しても、神様の言葉にしたがって物事を見、神様の言葉と一致して物事を行い、行動に原則が伴うようにする他に道はなく、そのようにして初めて、サタンの誘惑に陥らなくなる。神様の次の言葉にある通りだ。「人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にある。それは、人類にとって最も有益で役立つ真理である。それは、あなたがたの体に必要な薬であり、糧であり、正常な人間性を回復させる助けになるものであり、人間が備えているべき真理である。あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちは一層早く開花するであろう。また、あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、真理は一層明らかになる。あなたがたの霊的背丈が成長するに従って霊的世界のことをもっと明瞭に理解し、より力を得てサタンに勝利するであろう。」(「真理を理解したらそれを実行せよ」より)

   ジンルは胸が一杯になって大きく呼吸し、そして思った。「神様が御言葉をもって私を救い、助けてくださらなかったならば、私はとっくに人間のあるべき姿を失って堕落し、誠実さも品位もないまま、不倫関係に陥るような酷いことをしていたわ。家庭のある人と関係を持ち、愛人になっていたんだわ。家庭を崩壊させた者のレッテルを貼られ、堕落した人生を生き、良心の呵責に苦しみながら残りの人生を生きることになっていたんだわ。」ジンルは心から神に感謝し、讃美した。ジンルは以前のような平穏な生活を取り戻し、教会で喜びを持って自分の本分を尽くし、神の言葉による裁きと清めを受け入れ、真の幸福の道をしっかりと歩んでいる。全ての栄光は神にあれ!