賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

自分の唯一の主として神を受け入れることが、救いを得る第一歩である

2020-03-23 23:20:58 | 聖書の奥義を開く

 

   神の権威に関する真理は、全ての者が真剣に取り扱い、心で経験して理解すべき真理である。なぜなら、こうした真理は全ての者の人生、過去、現在、そして未来と関係があり、また人生において全ての人間が通らなければならない重要な節目、人間の神による統治に関する認識、そして神の権威に対して取るべき姿勢と関係があり、必然的に全ての者の終着点と関係があるからである。したがって、こうした物事を知り、理解するには、一生涯の努力が必要となる。神の権威を深刻に捉え、神による統治を受け入れた時、人間は、神の権威は実在することに次第に気付き、理解する。しかし、神の権威を認めず、神による統治を受け入れなかったならば、何年生きていようとも、神による統治に関する認識は少しも得る事が出来ないであろう。神の権威を真に知り、理解しなかった場合、終着点に到達した時に、それまで何十年神を信じていようとも、人生において見せるべきものが全く無く、神による人間の運命の統治に関する認識は必然的に皆無となる。それは非常に悲しいことではなかろうか。したがって、人生の道をどの程度進んで来たか、現在何歳であるか、残りの旅路がどの程度あるかを問わず、まず神の権威を認め、それを深刻に捉え、神が自分の唯一の主であるという事実を受け入れる必要がある。神による人間の運命の統治に関する明瞭かつ正確な認識と理解を得ることは、全ての者にとって必須の経験であり、人生を知り真理を得る鍵となるものであり、また全ての者が直面する、避けることの出来ない、神を知る上での生活と基本的な経験である。この目標を達成する近道を通りたいと思う者がいるかもしれないので、その者に言っておくが、それは不可能である。あなたがたの中に、神による統治から逃れたい者がいるかも知れないが、それはなおさら不可能である。神は人間の唯一の主であり、神は人間の運命の唯一の主である。したがって、人間にとって自分の運命を決定し、支配することは不可能である。その者の能力が如何に優れていても、その者は他人の運命に影響を与えられず、ましてや指揮したり、予定したり、制御したり変更することは出来ない。人間のすべてを支配するのは、唯一の神自身のみである。なぜなら、人間の運命に対する統治を担う唯一の権威があるのは神のみであり、したがって創造主は人間の唯一の主だからである。神の権威は、人間だけでなく、人間には見えない創造物以外の生き物や、惑星、宇宙の統治も担う。これは異論の余地の無い、実在する事実であり、人間や物が変えられない物事である。もし、物事の現在の状態に不満であり、自分には何らかの特別な技能や能力があると考え、運が良ければ現状を変えたり現状から逃れられたりすると考えている者がいたり、人間の力で自分の運命を変えたい、他人よりも卓越し、名声と富を得ようとしている者がいたとすれば、その者に言っておくが、その者は自分で物事を困難にし、問題を買って出て、墓穴を掘っているのだ。遅かれ早かれ、その者は自分が選択を誤っていること、無駄な努力をしていることに気付くであろう。あなたの運命に立ち向かう志と願望、大それた行動は、あなたを取り返しのつかない状態へと続く道へと導き、そのために辛い代償を払うこととなるであろう。今はその結果の重大性が分からないかも知れないが、神が人間の運命の主であるという真理を一層深く経験し、認識するにつれ、わたしが言うこととその真意が徐々に分かるであろう。あなたに真の心と霊があるか、あなたが真理を愛する者であるかは、神による統治と真理に対して、あなたがどのような姿勢を取るかにより決まる。そして必然的に、その姿勢により、あなたが神の権威を真に知り、理解しているかが決まる。人生において神による統治と采配を感じたことが無く、ましてや神の権威を認め、受け入れたことなど無いのであれば、あなたは全く無価値であり、あなたが選んだ道と選択肢が原因となって、神が嫌い捨てる対象となることは間違い無い。しかし、神の業により、神からの試練と神による統治を受け入れ、神の権威に服従し、徐々に神の言葉に関する真の体験を得る者は、神の権威に関する真の認識と神による統治に関する真の理解を得て、真に創造主に従う者となるであろう。真に救われるのは、そのような者だけである。そうした者は、神による統治を知り、それを受け入れたため、そうした者の神による人間の運命の統治の認識と、その統治への服従は真正かつ正確である。そうした者が死に直面した場合、そうした者は、ヨブのように死を恐れない精神を得て、個人的な選択や願望無く神の采配と計画に従うことが出来るであろう。真に創造された人間として、創造主の許へと還ることができるのは、そうした者だけである。


第二の日、神は権威により水と天、そして人間が生活する上で最も基本的な空間を造った

2020-03-22 13:15:21 | 聖書の奥義を開く

   次に、2番目の聖句を検討する。「神はまた言われた、『水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ』。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。そのようになった。」(創世記1:6-7)神が「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」と述べた後、どのような変化が起きたであろうか。聖句には、「神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。」とある。神が言葉を述べてこの業を行なった結果は、どのようなものであっただろうか。その答えとして、この聖句の最後の部分に「そのようになった。」とある。

   これら2つの短い文では、壮大な出来事が記録され、素晴らしい場面が描写されている。その場面とは、神が水を支配し、人間が存在することのできる空間を創造するという、途方も無く大規模な業の様子である。

 

   

   この場面では、水と天が一瞬にして神の前に出現し、それが神の言葉の権威により分けられ、神が述べた通りに上下に分けられた。つまり、神が創造した天が水の上一面を覆っていたのみならず、その上にある水を支えていた。ここで人間は、創造主が水を移動させ、水に命令し、天を造る壮麗な光景と神の権威の力を、息を呑み、茫然と見ていることしかできなかったであろう。神は、自身の言葉と力、そして権威により、驚異的な業を、再度成し遂げたのである。これは創造主の権威の力ではなかろうか。ここでは、聖句により神が行なった業を説明する。神は言葉を述べ、その言葉により、水の中に天が創造された。同時に、この空間において壮大な変化が発生したが、それは普通の感覚での変化ではなく、何ものでも無い物が何かしらの物に変化するという、ある種の代替のようなものであった。それは創造主の考えから起こり、創造主の言葉により何ものでも無い物が何かしらの物へと変化した。さらに、その後は創造主の心により創造物が存在し続け、創造主の心に従って移動し、変化し、更新された。この聖句では、創造主による創造の2番目の業について説明されている。この聖句は、創造主の権威と力を表現するものであり、また創造主による誰も実行したことのない業を説明したものである。この日は、創造主が世界を創造してから2日目であり、この日も神にとって素晴らしい日となった。神は光の中を歩み、天を創造し、水を造って支配した。この日もまた、神の業、権威、そして力が駆使された。

   神が言葉を述べる以前に、水の間に空は存在したか、というと、無論そのようなことは無い。それでは、神が「水の間におおぞらがあって」と述べた後は、どうであろうか。神が意図した物が現れた。つまり、神が「水と水を分けよ」と述べると、水の中に大空が出現し、水が二つに分かれた。こうして、神の権威と力により、神の言葉に従って新たに創造された2つの物が出現した。これらの新たな2つの物の出現について、どう感じるであろうか。創造主の力の偉大さを感じるであろうか。創造主が持つ独自の尋常ではない力を感じるであろうか。こうした力の強さは、神の権威に起因し、神の権威は神自身の表出であり、また神自身独自の特徴でもある。

   この聖句から、神の独自性に関する深遠な感覚があなた方に与えられたであろうか。しかし、これだけでは甚だ不十分である。創造主の権威と力は、この説明を遙かに超えるものである。神の独自性は、単に被造物には無い本質が神にあることのみではなく、神の権威と力は尋常ではなく、無限であり、全てのものに優り、越えるものであることにも由来し、そして何よりも、神の権威と、神の中にある物事や神の存在は、命を造り、奇跡を起こし、壮大かつ並外れた瞬間を引き起こし、それとともに神が創造した命を支配し、神が起こした奇跡や造った一分一秒のすべてを支配することが可能であることに由来するものである。

 

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信仰の無い人々の生死の周期

2020-03-20 23:00:34 | 聖書の奥義を開く

   それでは、まず信仰の無い人々の生死の周期の話をする。ある者が死ぬと、その者は霊界の執行官により取り去られる。それでは、その者の何が取り去られるか、というと、それはその者の肉体ではなく、魂である。その者の魂が取り去られると、死んだばかりの者の魂を受け付けることを専門とする霊界の部局に辿り着く。(注:死者が死後最初に行く場所は、死者の魂にとって未知の場所である。)魂がこの場所へと持ち込まれた時、役人が最初の検査を行い、名前や住所、年齢、その者が生涯に行ってきた物事が確認される。死者の生前の行動は、全て帳簿に記録され、それが正確であることが確認される。それらの確認が完了した後、その者の生前の態度や行動により、罰を受けるか、人間として再び肉体を与えられるかが判断される。これが第一段階である。この第一段階は恐ろしいであろうか。この段階はそれほど恐ろしいものではない。なぜなら、この段階では、その者が暗く馴染みの無い場所に到着するだけだからである。それほど恐ろしいものではない。

 

 

   第二段階では、その者が生前多くの悪業を行った場合、あるいは多くの邪悪な所行があった場合、その者は刑場へと連れられて罰せられる。こうした者が連れて行かれるのは、明白に人間を処罰する場所である。人間がどのように罰せられるかに関する具体的な内容は、その者が生前犯した罪や、邪悪な所行を行った回数により異なる。これが第二段階で最初に行われる事である。その者が生前行った物事や邪悪な所行が原因となって、その者が罰を受けた後に再び受肉して物質世界に再び生まれたとき、一部の者は引き続き人間となり、別の一部の者は動物となる。つまり、ある者が霊的世界に戻った後、その者は、自分が行った悪業のために罰せられた上、その悪業のため、その後再び受肉する際に、人間では無く動物となる。こうした者が生まれ変わる動物の範囲には、牛、馬、豚、犬などがある。一部の者は空を飛ぶ鳥や、アヒル、ガチョウなどになる。こうした者が動物として生まれ変わった後に死ぬと、霊的世界に還り、従前と同様に、その者の行いに基づいて霊的世界において人間として生まれ変わるかどうかが決定される。

   大部分の人々は、邪悪な行いが多すぎるため、また罪が深すぎるため、生まれ変わった時に7回から12回は動物となる。7回から12回とは、恐ろしいことではないか。あなたがたにとって、恐ろしいことは何であろうか。人間が動物となるとは、恐ろしいことである。人間にとって、動物となって最も辛い事柄は何であろうか。言葉が無く、単純な考えしか無く、動物が行う行動しか出来なくなり、動物の食べものを食べ、単純な精神を持ち、動物の身振りによる言葉を用い、直立歩行や人間との意思疎通が不可能となり、人間の行動や活動は動物と全く無関係である。つまり、動物となると、あなたがたは生き物のうち最低の存在となり、それは人間であることよりも遙かに辛いことである。これが、邪悪な行動を多く行い、深刻な罪を犯した者に対する霊的世界の罰の一側面である。罰の重さに関しては、人間がどのような動物となるかで決定される。たとえば、豚となるのは、犬となるよりも良いであろうか。豚の生活は、犬の生活よりも良いであろうか、それとも悪いであろうか。間違い無く悪いであろう。人間が牛や馬になった場合、豚よりも良い生活を送ることが出来るであろうか。(良い生活を送ることが出来る。)あなたがたには、選択肢がある場合、好みがあるようである。猫になった者は、比較的快適であろうか。猫になるのは、馬や牛になるよりも大幅に快適であろう。様々な動物から選択できるとしたら、猫を選ぶのが快適であろう。なぜなら、殆どの時間を怠けて寝て過ごすことができるからである。牛や馬になると、労働が比較的多いので、人間が牛や馬に生まれ変わった場合、勤勉に働く必要があり、それは重い罰のように思われる。犬になるのは、牛や馬になるよりも僅かに良いであろう。なぜなら、犬は飼い主と親しい関係にあるからである。さらに、現在、多くの人々が犬を飼い、3年、5年経つと犬は人間の言うことの多くを理解するようになる。犬は飼い主の言葉を数多く理解できるので、飼い主の事を十分理解し、飼い主の気分や要求に合わせることが出来る。したがって飼い主は犬の扱いを向上し、犬の食べ物や飲み物も向上し、犬に痛みがある場合には比較的手厚く看護される。したがって、犬は幸福な生涯を送るのではなかろうか。ゆえに、犬になるのは、牛や馬になるよりも良い。こうして、ある者の罰の重さが、その者が何回動物に生まれ変わるか、どのような動物として生まれ変わるかを決定する。これについては理解したであろう。

   一部の人々は、生前に犯した罪の回数が多すぎるため、7回から12回、動物に生まれ変わる罰を受ける。十分な回数の罰を受けて霊的世界に戻った時、こうした人々は別の場所へと連れて行かれる。この場所の様々な魂は既に罰を受け、人間として生まれ変わる準備をしている種類のものである。この場所では、どのような家庭に生まれるか、生まれ変わった時にどのような役割を担うかなどにより、それぞれの魂が分類される。たとえば、この世に生まれた時に歌手となる人々は他の歌手達と一緒にされ、この世に生まれた時に実業家となる人々は他の実業家と一緒にされ、人間として生を受けた時に科学研究者となる人々は、他の科学研究者と一緒にされる。魂が分類された後は、丁度現在の人々が電子メールを送信する時のように、それぞれ異なる時期に送り出される。これで生死の周期の一巡が完了するが、極めて劇的である。ある者が霊的世界に到着したその日から、その者に対する罰が終わるまで、その者は何度も動物として生まれ変わり、そしてその者が人間として生まれ変わるよう準備される。これがその過程の全てである。

   それでは、罰を受け終えて動物として生まれ変わることが無くなった者は、すぐに物質世界へと送られて人間となるであろうか。その者が人間となるまでには、どの程度の期間を要するであろうか。こうした者が人間になる頻度はどの程度であろうか。[a]これには、時期的な制限がある。霊的世界で発生する事柄には、それに関連する時期的な制限と規則が適用されるが、それは数値で説明すれば、理解できるであろう。短期間のうちに生まれ変わった者については、その者が死んだ時に人間として生まれ変わる準備が行われる。その期間は、最短で3日である。その期間が3ヵ月の人々も居れば、3年の人々も、30年の人々も、300年の人々も、3000年の人々も居る。それでは、こうした時期的な規則について、どのようなことが言えるであろうか。またその規則の詳細はどのようなものであろうか。人間の世界である物質世界への魂の到来は、必要性に基づくものである。それは、その魂がこの世で担う役割に準じたものである。人々が普通の人間として生まれ変わった場合、大部分の人々が極めて短い期間を経て生まれ変わる。なぜなら、人間の世界には、こうした普通の人々に対する差し迫った需要があるからである。そうしたわけで、こうした人々は、3日後に、死ぬ前の家庭とは全く異なる家庭へと送られる。しかし、この世の中で特別な役割を担うべき人々も居る。「特別な」というのは、人間の世界には、そうした人々に対する大きな需要は無く、そうした役割を担うために必要とされる人々は、それほど多く無いので、そうした人々が生まれ変わるのは300年後となる場合もある。[b]すなわち、こうした魂は、300年に1度、あるいは3000年に1度、この世に現れる、ということである。それは何故だろうか。それは、300年間あるいは3000年間、そうした役割は人間の世界で必要とされず、したがってそうした魂は霊的世界のどこかに留められているからである。たとえば、孔子は中国の伝統文化に甚大な影響を及ぼした。あなたがたは皆、孔子のことを知っているであろう。孔子の出現は、当時の人々の文化、知識、伝統、思想に大きな影響を及ぼした。しかし、そのような人間は、それぞれの時代に必要とされることは無く、したがって孔子は霊的世界に留められ、300年、あるいは3000年にわたって待機した後に生まれ変わる必要がある。人間の世界では、孔子のような人間を必要としていないため、孔子は何もせずに待機している必要があった。なぜなら、孔子のような役割は極めて少なく、孔子のような人間がなすべきことは少ないので、孔子は殆どの期間、霊的世界のどこかで、何もせずに留められ、人間の世界で孔子が必要となった時に送られる必要があったからである。霊的領域における時間的な規則はこのようなものであり、大部分の人々がそれに従って生まれ変わる。普通の人間か特別な人間かを問わず、霊的世界には、人間の生まれ変わりの処理に関する適切な規則と慣行があり、そうした規則と慣行は神に由来し、神から送られたものであり、霊的世界の執行官その他の存在により決定されたり管理されたりするものでは無い。これで、あなたがたはこのことを理解したであろう。

   あらゆる魂にとって、生まれ変わった後に担う役割、その魂の生涯における役割、その魂が生まれる家庭、その魂の人生がどのようなものかは、それ以前の人生と密接に関連している。様々な人々が人間の世界に現れ、人々が担う役割や行う任務も異なる。それでは、その任務とは何であろうか。一部の人々は、負債返済のために現れる。つまり、前世において他人からの借入額が多すぎた場合、その負債を返済する。その一方で、債権回収のために現れる人々も居る。こうした人々は前世において様々な事柄で騙されて金銭を巻き上げられたので、霊的世界に到着した後、霊的世界による公平に基づいて、その生涯で債権を回収することが許可されている。一部の人々は、恩返しをするために現れる。すなわち、死ぬ前に前世で誰かの厚意を受け、生まれ変わってその恩を返す素晴らしい機会を与えられる。その一方で、命を奪うために生まれ変わった人々も居る。それでは、こうした人々は誰の命を奪うのであろうか。それは、前世でそうした人々を殺した者の命である。つまり、各人の現在における人生には、前世との密接な関連性があり、断つことの出来ないつながりがある。すなわち、各人の現在における人生は、前世により大きく影響される。たとえば、チャン氏が生前に巨額の金銭をめぐってリー氏を騙したとする。チャン氏はリー氏に負債があるであろうか。負債がある場合、当然リー氏はチャン氏の負債を回収すべきである。したがって、両氏の死後には解消すべき負債が残されるが、両氏が生まれ変わった時、チャン氏が人間として生まれ変わった時、リー氏はどのようにしてチャン氏の負債を回収するであろうか。回収方法のひとつとして、リー氏がチャン氏を父として、その息子となって生まれ変わり、負債を回収するというのがある。それが現在の人生において実現されることがらである。リー氏の父親チャン氏は多くの収入を得るが、息子のリー氏がそれを浪費する。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、息子のリー氏がそれを消費してチャン氏を「助ける」。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、決して十分ということは無く、何故か、最終的には常にその息子が父親の金銭を、様々な事柄や方法で使う。チャン氏は不思議に思う。「いったいどうなっているのだ。なぜ、私の息子は常に問題を起こすであろうか。他の人々の息子が立派なのは何故だろうか。私の息子は野心が無く、役立たずで収入を得られず、常に私が金銭的支援をしなければならないのは何故だろうか。私は息子を支援する必要があるので支援するが、私がいくら金銭を渡しても、息子には常にそれ以上の金額が必要となるのは何故だろうか。息子がまともに働けないのは何故だろうか。息子が怠惰で飲み食いをしては風俗や賭博に明け暮れるのは何故だろうか。一体どうなってしまっているのだろうか。」チャン氏は暫く考える。「それは、前世において私には息子に借りがあるからではないだろうか。そうだ、前世において私には息子に借りがあるからというのは、あり得る。それならば、借りを返そうではないか。これは、私が借りを完済するまで終わることがないであろう。」やがて、リー氏が債務を回収し終え、40代、50代になって、突然目覚める日が来るであろう。「自分の半生では、何も善い行いをしなかった。父が稼いだ金を、すべて浪費してしまった。私は善人になる必要がある。私は決心した。私は正直に、正しい生活を送り、二度と父を悲しませない。」リー氏は、なぜこのように考えるのであろうか。突然リー氏が変わり、向上するのは何故であろうか。それには何か理由があるであろうか。その理由とは何であろうか。実は、それはリー氏が債権を回収し終えたことが、その理由である。これについては、因果関係がある。話の発端は、両氏が生まれる前にまで遡り、両氏の前世における経緯が現在の人生にまで持ち越されているので、どちらも相手を責めることは出来ない。チャン氏が息子に何を諭しても、息子は一切聞こうとせず、真面目に働こうとはしなかったが、負債が返済された日には、息子を諭す必要は無く、息子は自然と理解した。これは簡単な例だが、当然この他にも類似する事例が多数ある。それでは、この例から何が分かるであろうか。(両者は善良で無ければならない。)両者は悪業を行ってはならず、悪業には、それに対する報いがあるということである。信仰の無い者は、お分かりの通り、悪業を数多く行い、その悪業に相応する報いがあるであろう。しかし、こうした報いは自主的なものであろうか。報いのある物事には、すべてその背景と原因がある。あなたは、誰かに対して金銭関連で不正を行っても、自分には何も起こらないと思うであろうか。金銭をめぐって誰かを騙し、金銭を騙し取った後に、あなたには報いが無いと思うであろうか。何も起こらないということは、有り得ない。自分のした事は、必ずめぐりめぐって自分に還ってくる、というのは完全に正しい。つまり、神の存在を信じるか如何を問わず、誰もが自分の行動に対する責任を負い、その行動による結果と対峙しなければならない。ここで挙げた簡単な例では、チャン氏が罰を受け、リー氏が償還を受けているが、これは公平であるか、というと、公平である。人間がこのような行動を取った場合、そのような結果となる。それでは、このことは霊的世界の管理と無関係であるか、というと、このことは霊的世界の管理と不可分の関係にある。神を信じない、信仰の無い者であっても、その存在は、誰も逃れることの出来ない天の命令や規則の対象となる。いかに人間の世界において地位が高い者であっても、この事実から逃れられる者は居ない。

   信仰の無い者は、しばしば目に見える物全てが存在し、目に見えない物や人間から遠く離れた物は存在しないと考える。信仰の無い者は、「生死の周期」も「罰」も存在しないと考えたがり、良心の呵責無く罪を犯し、悪業を行い、その後罰を受け、動物に生まれ変わる。信仰の無い者のうち殆どの者が、この悪循環に陥っている。それは何故であろうか。それは、こうした人々は、生きる物全ての管理に対し、霊的世界が厳格であることを知らないからである。信じるかどうかを問わず、この事実は存在し、神の目により確認される物事の範囲から逃れられる人や物、天の命令や神の規則によるきまりや制限から逃れられる人や物は存在しない。したがって、あなたがた各人に、この簡単な例について話をする。神を信じるかどうかを問わず、罪を犯し、悪業を行うことは認められず、そうした行動には報いがある、ということは、絶対的である。金銭をめぐって他人に対して不正を行った者が罰せられる時、その罰は公平妥当であり、かつ義である。こうした典型的な行動は、霊的世界において神による規則と天の命令により罰せられ、いわんや強姦や強奪、詐欺や欺き、窃盗や強盗、殺人や放火など、重篤な犯罪や邪悪な行いに対しては、それにも増して様々な重さの罰の対象となる。それでは、こうした様々な重さの罰には、どのようなものがあるだろうか。その期間により重さが決まる罰もあれば、様々な方法で重さが決まる罰、生まれ変わるときの行き先で重さが決まる罰もある。たとえば、一部には、口汚い人がいる。ここで「口汚い」、とは何を意味するであろうか。それはしばしば他人に暴言を吐いたり、汚い言葉を使ったり、他人を罵倒するような言葉を使うことである。汚い言葉により示される事は何であろうか。それは、その人の心が汚れていることを示す。他人を罵倒する汚い言葉は、しばしばそうした人々が口にするが、そうした汚い言葉には、厳しい報いが伴う。そうした人々が死んで相応の罰を受けた後、口の利けない人として生まれ変わる可能性がある。一部の人々は生前極めて計算高く、他人を利用することが多い。そうした人々の手口は、極めて周到であり、他人を傷つけることを数多く行う。こうした人々が生まれ変わる時、知能や精神に障害がある者として生まれ変わる可能性がある。一部の人々は、他人のプライバシーを頻繁にのぞき見て、見るべきでは無い内情を見たり、知るべきでは無い事柄を知ったりすることが多々あるが、そうした人々は、生まれ変わると全盲者となる可能性がある。生前は短気で喧嘩をすることが多く、邪悪な行いを多数行った者は、それに準じて身体障害や手足の不自由を持って生まれ変わったり、背むしや斜頸となったり、肢体不自由になったり、一方の足が他方よりも短くなったりする。こうした人々は、この場合、生前に行った邪悪な行動の程度に基づいて、様々な罰の対象となっている。それでは、斜視の人々が居るのは何故だと言えるだろうか。斜視の人は多数居るであろうか。現在、斜視の人々が多数いる。そうした人々は、生前に目を使いすぎたり、悪業が多すぎたりしたために斜視となって生まれ変わり、重篤な場合は全盲者となる。斜視の人々を見るのは気持ちの良いものだろうか。斜視の人々は好印象を与えるであろうか。こうした人々は、顔立ちが美しく、肌がきれいで色が明るく、目が大きく二重だが、残念ながら片方の目が斜視となっている。斜視の人々は、どのように見えるであろうか。斜視はその者の表情に全面的な影響を与えるのではないか。こうした影響を受けている人々は、どのような人生を送るであろうか。斜視の人々は、他の人と会う時に「私は斜視だ。あまり頻繁に他人を見てはならない。他人に自分の目を見られたくない。私は前にかがんで話をする必要がある。相手の顔を見てはならない。」などと考えるであろう。斜視は、その人の物の見方や、相手の顔を見る能力に影響を与える。この点について、斜視の人々は目の機能を喪失していないだろうか。こうした人々の前世における行き過ぎた行為は、それにより贖われていないだろうか。したがって、こうした人々は、その次の人生では、従前ほど悪業を行わなくなる。これが報いである。

   一部の人々は、生前には他の人々と仲良くできて、自分の周囲の人々や家族、友人、同僚やその関係者に対して親切な行為を多数行う。こうした人々は他人を助け、思いやりと配慮を与え、金銭的に支援し、他人はこうした人々を高く評価するが、こうした人々は、霊的世界に戻った時、罰を受けることはない。信仰の無い人々が何らかの方法で罰を免れるということは、その人々が極めて善人であったことを意味する。こうした人々は、神の存在を信じず、蒼天のみを信じる。こうした人々は、天に自分達を見守る魂があると信じているが、こうした人々が信じるのはそれが全てである。それでは、その結果はどうなるであろうか。こうした人々は極めて行いが良い。こうした人々は親切で思いやりがあり、最終的に霊的世界に戻ったとき、霊的世界ではこうした人々を極めて厚遇し、こうした人々はやがて生まれ変わる。それでは、こうした人々はどのような家庭に生まれるであろうか。その家庭は裕福では無いものの、家族生活は平和であり、家族の者同士は調和し、平穏で幸福な日々を送り、皆幸せで良い生活を送るであろう。こうした人々が成人すると、多数の息子と娘を授かり、大家族となって、子供達は皆才能に溢れて成功し、子供達とその家族は幸運に恵まれるであろう。そして、こうした結果は、その者の前世と密接に関連している。つまり、死後に生まれ変わって行く先まで、ある者の人生全体、すなわち、男になるか、女になるか、またその者の使命や将来の人生で経験すること、障壁や、どのような祝福を享受するか、誰に出会うか、何が起こるかについては、誰もそれを予測したり、回避したり、逃げ隠れしたり出来ない。すなわち、あなたの人生が決定された後は、あなたに何が起こるかについて、どれほど懸命に、またどのような方法を用いてそれを避けようとしたとしても、霊的世界で神により定められた人生の進路を外れることは決して出来ない。なぜなら、生まれ変わった時、あなたの運命は既に決定されているからである。それが良いか悪いかを問わず、全員がそれに直面し、前進し続ける必要がある。これは、この世に生きる者全員にとって不可避な問題であり、それよりも現実的な問題は存在しない。これらのことは全て理解できたであろう。

   それを踏まえて、あなたがたは、信仰の無い者の生と死の周期について、神が極めて正確で厳格な検査と管理を行っていることを理解できるであろうか。まず、神は霊的世界における様々な天の命令や規則、組織を定め、そうした天の命令や規則、組織が宣言された後、それらは霊的世界の様々な役務を担当する者により、神が定めた通り厳密に施行され、敢えてそれらに違反する者は居ない。したがって、人間の世界における人間の生死の周期、そしてある者が動物として生まれ変わるか、人間として生まれ変わるかについては、その両方に法則が存在する。これらの法則は神に由来するため、敢えてそれに背く者は居らず、背くことが出来る者も居ない。人間が見ることの出来る物質世界が規則正しく秩序が保たれているのは、こうした神の統治と法則のためである。人間が全く見ることの出来ない別の世界と平和に共存し、そこで調和して生活出来るのは、こうした神の統治のためであり、これらは全て神の統治と不可分のものである。肉にある魂の命が死んだ後も、魂には命があるとすれば、神の管理が無かったとしたら、その魂はどうなるであろうか。その魂は様々な場所をさまよい、様々な所に入り込んで、人間の世界の生き物を害することすらあるであろう。こうした危害は人間だけでなく、植物や動物も対象となるが、最初に害を受けるのは、人間であろう。こうした魂が管理されておらず、人間に危害を加え、極めて邪悪な物事を行ったとしたら、霊的世界にこうした魂の適切な処遇も存在するであろう。事態が深刻な場合、その魂はやがて消滅し、破壊されるであろう。可能であれば、どこかに置かれた後に生まれ変わるであろう。つまり、霊的世界における様々な魂の管理は、様々な段階と規則に従って命じられ、実施されている。人間の物質世界が混沌としたものとならず、物質世界の人間が正常な精神と分別を持ち、肉体にあって秩序ある生活を送っているのは、こうした管理があるために他ならない。人間がそうした通常の生活を送ることによって初めて、肉体にあって生活する者は繁栄し、何世代にもわたって繁殖を続けることができる。

   ……信仰の無い人々について、神の業が基づく原則は、善良を讃え、邪悪を罰するものであるだろうか。神の業には原則があることを理解したであろうか。あなたがたは、原則があるということを理解できるであろう。信仰の無い人々は、実際に神を信じて居らず、神の指揮に従わず、神の統治を認識しておらず、ましてや神を認めることなど無い。さらに深刻なことには、こうした人々は神を冒瀆し、神を呪い、神を信じる者に対して敵意を持っている。こうした人々は、神に対してそのような姿勢であるが、こうした人々に対する神の統治は、神の原則から逸脱することが無い。神は、神の原則と性質に従い、こうした人々を規則的に管理する。神は、こうした人々の敵意をどのように見なすか、というと、それを無知とみなす。そうしたわけで、神はこうした人々すなわち信仰の無い人々の大部分を、1回動物として生まれ変わらせられる。それではあなたに尋ねるが、神は信仰の無い人々をどのように見ているであろうか。(家畜として見ている。)神の目から見ると、こうした人々は、家畜の類いである。神は家畜を管理し、人間を管理するので、神はこの種の人々に対しても同じ原則がある。こうした人々に対する神の管理とこうした人々に対する神の業においても、やはり神の性質と神の万物支配の法則が存在することが分かる。これで、あなたがたはわたしが今話をした信仰の無い者を神が管理する原則における神の統治を理解したであろうか。神の義なる性質を理解したであろうか。(理解した。) あなたがたは神の統治と神の性質を理解した。つまり、神が取り扱う物が、万物のうち何であれ、神は神自身の原則と性質にしたがって業を行う。これは神の本質である。神は、こうした人々を家畜とみなすことで神が定めた規則や天の命令に何気なく反することは、決して無い。神は全く秩序を乱すことなく、原則に従って業を行い、神の業はいかなる要素にも影響されることが一切なく、業が何であるかを問わず、すべて神自身の原則に従うものである。これは、神には、いかなる創造物も持ち得る事の無い、神自身に特有の本質があるという事実により判断される。神は、神が造ったあらゆる物や人間、生き物について、その取り扱い、それに対する姿勢、経営、管理、支配について、誠実で、責任を持っており、決して不注意でいることはない。神は善良な人々に対して慈悲深く親切であり、邪悪な人々に対しては容赦ない罰を与える。そして様々な生き物については、人間の世界における、その時々の必要性に従い、時宜を得た規則的な方法で、適切な采配を行うので、そうした様々な生き物は、それぞれが受け持つ役割に従い、秩序をもって生まれ変わり、秩序をもって物質世界と霊的世界の間を行き来する。これは、人間が理解し、知るべきことである。

   生き物の死、すなわち物理的な生命の終焉は、その生き物が物質世界から霊的世界へと移動したことを示す一方、物理的な生命の誕生は、生き物が霊的世界から物質世界に来て、その役割を負い、果たし始めるということを示す。それが生き物の出発であるか、到着であるかを問わず、そうした出発と到着は両方とも霊的世界における業と不可分である。ある者が物質世界に到来した時、霊的世界において、その者が生まれる家庭、その者が現れる時代、時期、そしてその者が担う役割に関して、その者に適した采配と定義は、神により既に完了されている。そうしたわけで、その者の生涯全体、その者の行動や、その者が進む方向性は、霊的世界における采配に従い、一切の誤り無く進行してゆく。その一方で、物理的な生命が終焉を迎える時、そして終焉のかたちと場所は、霊的世界においては明瞭で認識可能である。神は物質世界を支配し、また霊的世界を支配し、また神は通常における魂の生死の周期を遅延させることは一切無く、ある魂の生死の周期に関する采配において誤ることも一切無い。霊的世界の当局に仕える執行官は、それぞれ神の指示と支配に従い任務を遂行し、なすべき事を行う。そのため、人間の世界では、人間が認識するあらゆる物質的現象は秩序があり、混沌は一切存在しない。こうしたことは、すべて神の秩序ある万物支配と、神の権威による万物支配のおかげであり、神の支配下にある物事には、人間が生活する物質世界のほか、人類の背後にある目に見えない霊的世界がある。そうしたわけで、人間が良い生活を望み、好ましい環境を望むのであれば、物質世界全体において与えられることに加え、誰も見ることが出来ず、人間のためにあらゆる生き物を統治し、秩序のある霊的世界においても与えられる必要がある。ここまでの話で、神が万物の生命の源である、と言った時の、「万物」に対する意識と知識が増えたのではないだろうか。


神の権威により、第一の日に人類の昼と夜が生まれ、確立した

2020-03-19 00:28:05 | 聖書の奥義を開く

   それでは、最初の聖句を検討する。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。」(創世記1:3-5)この聖句では、創世における神の最初の行動が描写されており、神の過ごした最初の日と、その日に昼と夜があったことを説明している。しかしこの日は特別であった。神は万物に対して光を造り、さらに光と闇を分けた。この日、神は言葉を述べ始めているが、神の言葉と権威は隣り合わせに存在していた。神の言葉により、神の権威が万物の前に示され、神の力が万物に及んだ。この日以降、神の言葉、神の権威、神の力により万物が創造され、確立され、神の言葉、神の権威、神の力により、それらのものが機能し始めた。神が「光あれ」と言った時、光が生まれた。神は大仕事に取りかかったのではなく、神の言葉により光は創造された。その光は、神が昼と呼ぶ光であり、現在も人間が生活の中で依存する光である。神の命令により、その本質と価値は変わることがなく、消滅することもない。その存在は、神の権威と力を示すものであり、また創造主の存在を示し、その身分と地位を繰り返し確認するものである。その光は無形でも架空でもなく、人間が見ることのできる、実際の光である。その「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、」空虚であった世界に、最初の具体的なものがその時生み出された。その「具体的なもの」は神の言葉により生み出され、神の権威と言葉により、創造された万物のなかで最初のものとして出現した。その後間もなく、神は光と闇が分かれるよう命じた。神の言葉により、全てが変化し、完了した。神は、その光を「昼」と呼び、闇を「夜」と呼んだ。その後、神が創造しようとする世界に最初の夜と最初の朝が造られ、神はそれが第一の日であると言った。この日は創造主による万物創造の初日であり、創造の始めであり、創造主の権威と力が、創造主が創造した世界に示された最初の時であった。

 

   

   これらの言葉により、人間は神の権威と、神の言葉の権威、そして神の力を見ることができた。こうした力は、神のみが持つものであり、したがって神のみがそうした権威を持ち、神がそうした権威を持っていたため、神のみがそうした力を持っている。人間や物がこうした権威や力を持つことができるであろうか。何か答えが思い当たるであろうか。神以外に、造られた物あるいはそうでない物で、そのような権威を持つ物はあるだろうか。そうした物の例を、他の書籍や出版物で見たことがあるだろうか。天と地などのすべてを造った人物の記録は残されているだろうか。そうした物は、聖書以外の書籍や記録に登場しない。無論、これらの言葉は、神の壮大な創造に関する権威と力のある唯一の言葉であり、聖書に記録され、神のみが持つ権威と身分について述べた言葉である。こうした権威や力は、神独自の身分を象徴するものであると言えるであろうか。これらの権威や力は神のみが持つものであると言えるか、というと、そう言えることに何の疑念の余地も無い。この権威と力は、創造された物やそれ以外の物のいずれも持つことのできないものである。これは神自身だけが持つ特徴のひとつであろうか。あなた方は、それを目の当たりにしただろうか。これらの言葉により、人間は、神が唯一の権威と力を持っていること、そして至高の身分と地位にあることを、迅速かつ明瞭に理解することができる。あなた方は、以上で伝えた内容に基づいて、あなた方が信じる神が唯一の神自身であると言えるであろうか。

 

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ヨブがその生き方で生み出した価値

2020-03-18 00:04:45 | 聖書の奥義を開く

   試練の後のヨブ

   (ヨブ記42:7-9)ヤーウェはこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。あなたがたはわたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、ヤーウェが彼らに命じられたようにしたので、ヤーウェはヨブの祈を受けいれられた。

   (ヨブ記42:10)ヨブがその友人たちのために祈ったとき、ヤーウェはヨブの繁栄をもとにかえし、そしてヤーウェはヨブのすべての財産を二倍に増された。

   (ヨブ記42:12)ヤーウェはヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。

   (ヨブ記42:17)ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

 

 

   神は神を畏れ悪を避ける人々を大切にし、愚かな人々を卑しめる

   ヨブ記42:7-9では、神はヨブを「わたしのしもべ」と呼んでいる。この「しもべ」という言葉に、神にとってヨブがどれ程大切であったかが表されている。神はヨブをさらに高尚な名前で呼ぶことはなかったが、ヨブを大切に思う神の心は呼び名と関係がなかった。「しもべ」はヨブに対する神のあだ名であり、「わたしのしもべヨブ」と繰り返し言っている神の言葉から、ヨブをどれだけ喜んでいたかが分かる。神が「しもべ」という言葉の持つ意味を語ったことはなかったが、次の聖句で神が語った言葉から神がどのように「しもべ」を定義していたかが分かる。神は最初にテマン人エリファズに言った。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。」この言葉を通して、ヨブが神からの試練を受けた後のヨブの言動を神が全て受け入れたことを初めて公に示し、ヨブの言動が正確で正しいことを公に確かなものとした。エリファズと他の人々のことを神は怒っていた。なぜなら、彼らの話は間違っていて、不条理であり、また、ヨブも彼らも同じように神の現れを見ることも神の語る言葉を聞くこともなかったが、ヨブは神に関する正しい認識を持っていた反面、彼らは盲目的に神を想像し、神の心に背き、何をするにも神の忍耐を試したからである。結果として、神はヨブの言動の全てを受け入れたが、他の人々にたいしては怒りを感じた。彼らの中に、神を畏れることを現実的に見ることができないばかりか、彼らの言葉の中に神を畏れることを聞くことが全くなかったからである。そのようにして、神は彼らに次のような要求をした。「それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。」ここでは、神はエリファズと他の人々に、罪の贖いとしてすべきことがあると述べた。彼らの愚行はヤーウェ神に対する罪であり、自身の犯した過ちの償いとして全焼のいけにえを捧げなければならないと述べた。全焼のいけにえを捧げることは頻繁にあったが、ここでの全焼のいけにえは、ヨブに対して捧げられたというところが他の全焼のいけにえと異なる。ヨブは試練の中にあって神に対して証しとなっていたため、神に受け入れられた。一方ヨブの友人達は、ヨブが試練を通る中で明らかにされていった。つまり、彼らの愚行故に神に責められ、神の怒りを引き起こした。そのため彼らはヨブの前で全焼のいけにえをささげることで神に罰せられなければならないのである。その後、ヨブは彼らに対する神の罰と怒りを静めるために祈った。この出来事における神の目的は、彼らを恥じ入らせることであった。彼らが神を畏れ悪を避けることをせず、ヨブの高潔を非難したためである。ここで示されることのひとつは、神は彼らの行いを受け入れていないと言っていると同時に、ヨブを喜んでいるということである。そしてもうひとつは、神に受け入れられることにより、人は神の前に引き上げられるということである。愚行により人は神に嫌われ、愚行は神の怒りを引き起こす。そのような者は神の目には低く卑しいものであるということである。これが神による2種類の人間の定義であり、この2種類の人間に対する神の姿勢であり、2種類の人々の地位や価値に対する神の明確な説明である。神はヨブをしもべと呼んだが、このしもべは神に愛されており、他の人々のために祈り、その人々の過ちを赦す権威を与えられていた。このしもべは神と直接話すことができ、神の前に出ることができ、その地位は他のだれよりも栄誉あるものであった。これが神の言う「しもべ」の意味である。ヨブは神を畏れ悪を避けたために特別な栄誉を与えられた。他の人々が神のしもべと呼ばれなかったのは、彼らが神を畏れ悪を避けることをしなかったからである。神のはっきりと異なったふたつの態度は、2種類の人々に対する態度である。すなわち、神を畏れ悪を避ける者は神に受け入れられ、尊いが、神を畏れず悪を避けることのできない愚か者は神の好意を得ることはできず、しばしば神に嫌われ、責められる。彼らは神の目に卑しい者たちである。

   神はヨブに権威を授ける

   ヨブは友人達のために祈るが、ヨブの祈り故に、神はヨブの友人達をその愚かさに従って扱うことをしなかった。つまり、神は彼らを罰することも報いることもしなかった。それは何故か。神のしもべであるヨブの祈りが神の耳に届いたからである。神はヨブの祈りを受け入れたゆえ、彼らを赦したのである。ここで何が分かるだろうか。神が誰かを祝福する時、神は多くを報い、それは物質的なものに限定されない。彼らに権威も与え、他の人のために祈る権利を与える。そしてその者の祈りを聞いた神は、彼らの過ちを忘れ、赦す。これが正に神がヨブに与えた権威である。ヨブの彼らへの責めをやめるようにという祈りを通して、ヤーウェ神は愚かな彼らを恥じ入らせた。これは勿論エリファズ達に対する神の特別な罰であった。

   ヨブは再び神に祝福され、二度とサタンに責められることがなくなった

   ヤーウェ神の言葉の中に、「あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかった」という一節がある。ヨブが語ったこととは何であったのか。これはここで既に議論した内容でもあり、ヨブ記の中でヨブが語ったとされる何ページにもわたる多くの言葉を指している。これらのページに記録されたヨブの言葉の中で、ヨブは神に対して一度も不平や疑念の言葉を発していない。彼はただ静かに結果を待った。ヨブのこの姿勢はヨブの神に対する従順であり、その姿勢とヨブの神に対する言葉により、ヨブは神に受け入れられた。ヨブが試練に遭い、苦難を経験する間、神はヨブの傍らにいて、たとえ苦しみが神の存在により軽減することはなくても、神は自身の望むものを見ることができ、聞きたいと望んだ言葉を聞くことができた。ヨブの言動のひとつひとつが神の目と神の耳に届いた。つまり、神はヨブの言葉を聞き、ヨブの態度を見た。これが事実である。当時、その時代にあっての神に対するヨブの知識と思いは今日の人々の持つそれらほど具体的ではないというのが事実であるが、その時代にあって、神はヨブの言動の全てを認めた。なぜなら、ヨブの態度と考え、そしてヨブが現したものと明示したものは、神の要求を満たしていたからである。ヨブが試練に遭っている間、ヨブの心の思いと決心は神に結果を示すものとなり、それは神にとって満足できるものであった。その後神は試練を勝ち抜いたヨブの試練を取り除き、ヨブに再び試練がふりかかることはなかった。ヨブは既に試練に遭い、その中で揺らぐことなく立ち続け、サタンに完全に勝利した。神は彼にふさわしい祝福を与えた。ヨブ記42章の10、12節に書かれているように、ヨブは再び祝福を受け、それは最初の祝福を上回るものだった。この時サタンはヨブのもとを去り、再びヨブに話しかけたり働きかけたりすることはなかった。ヨブが再びサタンに妨害されたり攻撃されたりすることはなく、神がヨブを祝福することを叱責することもなかった。

   ヨブは人生の後半を神の祝福の中で過ごす

   当時の祝福というものは、羊、牛、らくだ、その他物質的なものに限られてはいたものの、神がヨブに与えたいと思ったものはそれを遙かに越えるものだった。神が当時ヨブに与えたいと思った永遠の約束がどのようなものであるかは記録されているだろうか。ヨブを祝福した神は、ヨブの最後に言及することはなく、神の心にヨブの存在は大きかったが、要するに神はヨブに対する祝福を見極めていた。神はヨブの最後を告げなかった。これはどういう意味か。当時、神の計画は人間の最後を公示するところまでに達しておらず、神の働きの最後の段階に入っておらず、よって神が人間の最後を語る事はなく、人間に対して物質的な祝福を与えるに留まったのである。つまり、ヨブの人生の後半は神の祝福の中にあり、周りの人達にとってヨブはそれまでと違う存在となったのである。それでもヨブも他の普通の人達のように年齢を重ね、皆と同じようにこの世に別れを告げる日が訪れた。「ヨブは年老い、日満ちて死んだ。」(ヨブ記42:17)と書かれている通りである。この「日満ちて死んだ」とはどのような意味だろうか。神が終わりの時を宣言する以前の時代、神はヨブの寿命を決めた。ヨブがその年齢に達した時、神はヨブをこの世から自然に去らせた。ヨブの二度目の祝福から彼の死までの間、神はヨブに更なる試練を経験されることはなかった。ヨブの死は神にとって自然なものであり必要なものであり、極めて普通のことであった。それは裁きでも非難でもない。ヨブが生きている間、彼は神を崇拝し、畏れた。つまり、ヨブが死んだ後に彼がどのような最後を迎えたかに関して、神から何の発言も説明もなかった。神は自らの原稿に対して思慮深く、その言葉と働きの内容と原則は、自身の働きの段階に沿っており、自身が働く期間に沿っている。ヨブのような人間の最後は神にとってどのようなものなのだろうか。神は何らかの決意をしただろうか。勿論決意した。人間がそれを知ることがないだけである。神はそれを人間に知らせたいとも、知らせようとも思わなかったのである。このように、表面的には、ヨブは年老いて死んだ。ヨブの生涯はそのようなものであった。

   ヨブがその生き方で生み出した価値

   ヨブは価値ある人生を送っただろうか。ヨブの人生のどこに価値があっただろうか。ヨブが価値ある人生を送ったと言われるのは何故だろうか。人間にとってヨブの価値はどのような意味があるだろうか。人間的な観点から言うと、ヨブは神が救いたいと願う人間を現していた。サタンと世の人々の前で、神への証しに堅く立っていたからである。ヨブは神に造られたものとしての本分を尽くし、神が救いたいと願う全ての人々の模範となり、型となり、そうすることで、神に信頼していればサタンに勝利することが間違いなく可能であることを示したのである。では神にとってのヨブの価値は何だったのか。神にとってのヨブの人生の価値は、ヨブが神を畏れることができ、崇拝することができ、神の業を証しし、神のする事を讃え、神に慰めと喜びを与えることができたことにあった。そしてまた、ヨブは死を迎える前に試練を経験してサタンに勝利し、サタンと世界の人々の前で神への証しに堅く立ち、人々の中にあって神を褒めたたえ、神の心に慰めをもたらし、神が望む結果を見ることができようにし、希望を持つことができるようにしたことが、神にとってのヨブの人生の価値であった。ヨブの証しは、人が神の証しに堅く立つことができることの前例となり、神によって、神が人間を管理する働きのなかで、サタンを辱めることができることの前例となった。これがヨブの人生の価値ではないだろうか。ヨブは神の心に慰めをもたらし、それによって神は栄光を受ける喜びを味わうことができ、神の経営(救いの)計画にとって素晴らしいスタートとなった。この時以来、ヨブという名前は神を褒めたたえる象徴となり、サタンに対して勝利する人間の象徴となった。ヨブが生涯貫いたものとサタンに対する勝利は神に永遠に尊ばれ、ヨブの完全さと正しさ、神に対する畏れは後の時代に尊ばれ、模範となるだろう。傷のない、輝く真珠のようにヨブは神に尊ばれるだろう。そして人間にとっても、ヨブは尊ばれる価値ある人間なのである。