賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

霊的世界とは何であろうか

2020-03-17 23:23:08 | 聖書の奥義を開く

   それでは、霊的世界について話をしよう。霊的世界とは何であろうか。わたしが簡潔に説明する。霊的世界とは、物質世界とは異なる重要な場所である。それでは、わたしがそれを重要であると言う理由は何であろうか。これについて詳細に話をする。霊的世界の存在は、人間の物質世界と不可分の関連性がある。霊的世界は、神による万物の統治のうち人間の生死の周期において重要な役割を担い、この役割がその存在が重要である理由のひとつである。霊的世界は五感で認識できない領域であるため、それが存在するかどうかを正確に判断できる者は存在しない。霊的世界における出来事は人類の存在と密接に関連し、そのため人間の生き方もまた霊的世界から甚大な影響を受ける。これは神による統治に関連するであろうか、というと、関連する。こう述べると、わたしがこの事項について話をする理由を理解できるであろう。霊的世界は神による統治と管理に関連するから、というのが、その理由である。このように、人間が見ることのできない世界における天の命令や律法、統治組織は、物質世界におけるどの国家の法令や組織よりも遙かに優れており、この世界に生きるもののうち、そうした命令や律法、統治組織に背いたり濫用したりしようとする者は、一切居ないであろう。これは神による統治と管理に関連するであろうか。霊的世界には、明確な行政命令と、明確な天の命令、規則がある。様々な段階と領域において、執行官は厳密にその任務と規則を遵守する。なぜなら、執行官は天命に背いた時の報いが何か、神がどのように邪悪を罰し、善良に報いるか、神がどのように万物を統治し、支配するか、そして神がどのようにして天の命令と憲章を実施するかを明確に理解しているからである。これらの事柄は、人間が住む物質世界と異なるであろうか、というと、大いに異なる。霊的世界は、物質世界とは全く異なる世界である。天の命令と規則があるため、霊的世界は、神による統治、支配、そして神の性質と神が持っているものや神であるものに関連する。この話を聞くと、あなたがたはわたしがこの事項について話す必要性が大いにあると感じないであろうか。霊的世界の秘密について知りたいと思わないであろうか。霊的世界の概念は、これまで述べた通りである。霊的世界は、物質世界と共存し、同時に神による支配と統治の対象となっているものの、神による霊的世界の統治は、神による物質世界の統治よりも遙かに厳格なものである。詳細に関しては、まず霊的世界がどのように人間の生死の周期の働きに関与しているかという問題を取り扱う必要がある。なぜなら、この働きは、霊的世界の存在の働きの大きな部分だからである。

 

   

   すべての人間を3つの類型に分類する。最初の類型は、信仰の無い人々で、信者以外の者である。これらの者を、信者以外の者という。信者以外の者のうち、大部分は金銭のみを信じ、自分自身の利益のみを追求し、物質主義的であり、物質世界のみを信じ、生死の周期や、神性、幽霊に関する噂は信じない。こうした人々を、信者以外の者と分類し、それを最初の類型とする。2番目の類型は、信仰の無い人々以外で、様々な宗教の信者の人々である。人類のうち、こうした信者を、数種類に大別する。この種の人々は、ユダヤ教徒、カトリック教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒の5種類に分類される。信者には、これらの種類がある。3番目の類型は、神を信仰する人々であり、あなたがたに関連する類型である。この種の信者は、現在神に付き従っている人々である。この種の信者は、神の選民と、奉仕者という2種類に区分される。そうしたわけで、これらの主要な類型は明確に区別されている。これで、あなたがたは、心の中で人間の類型と階層を明確に区別できる。最初の類型は、信者以外の人々である。信者以外の人々がどのような人々かは、既に述べた。信者以外の人々の多くは、蒼天を信じ、風、雨、雷は、すべてこの蒼天により支配されていると信じ、穀物の植え付けや収穫の際にこの蒼天に依存しているものの、神の信仰の話になると、反感を抱く。これは神の信仰であると言えるであろうか。こうした人々は信仰の無い人々に含まれる。神を信仰せず、蒼天のみを信じる人々は、すべて信仰の無い人々である。神を信仰することも、神に付き従うことも無い人々は、すべて信仰の無い人々である。2番目の類型は、5大宗教に属する人々であり、曖昧な神を信仰する人々である。3番目の類型は、終わりの日に受肉した実践の神を信じ、神に現在付き従っている人々である。それでは、わたしが全ての人間をこれらの類型に分類したのは、何故だろうか。(それらの類型の人々には、それぞれ異なる終着点と終末があるからである。)それは側面のひとつである。それは、こうした異なる人種や類型の人々が霊的世界へと還る時、人々はそれぞれ異なる場所へと向かい、生死の周期に関する異なる法則の対象となるからであり、そのことが、わたしが人間をこうした3つの類型に分類した理由である。

 

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七の七十倍赦すこと 主の愛

2020-03-15 22:55:32 | 聖書の奥義を開く

   1.七の七十倍赦すこと

   そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」(マタイによる福音書18:21-22)

   2.主の愛

   イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」(マタイによる福音書22:37-39)

 

七の七十倍赦すこと

 

   これら二つの聖句のうち一方では赦しについて、他方では愛について、それぞれ述べられている。この二つの問題では、正に主イエスが恵みの時代に遂行することを望んでいた業に焦点が置かれている。

   神が受肉した時、神は業における特定の段階、すなわちこの時代に特定された業と、神が表出することを望んでいた性質を携えていた。この時期に人の子が行った業は、すべて神がこの時代に行うことを望んでいた業を中心とするものであった。神が行った業がそれよりも多いことも少ないことも、決してなかった。神が述べた言葉と行った業は、いずれもこの時代に関連するものであった。神がそれを人間の言葉で人間的に表出したか、神性的な言葉で表出したかを問わず、いずれの方法であったか、またいずれの観点であったかを問わず、神の目的は、神が遂行したいと考えた業、そして神の旨は何か、神の人間に対する要求は何かを人間が理解するのを助けることであった。神は様々な観点から様々な方法を用いて、神の旨と、人間を救う神の業を人間が理解するのを助ける場合もあった。そうしたわけで、恵みの時代には、主イエスが人間の言葉で神が人間に伝えることを望んでいた事柄を頻繁に表出した。さらに、神が普通の案内役の観点から、人々と会話し、人々が必要としていた物事を授け、人々が求めた事柄について人々を支援していることも確認できる。こうした方法による業は、恵みの時代以前の律法の時代には見られなかった。神は人間に対して一層懇意かつ哀れみ深くなり、また形式と方法の両方において実践的な結果を一層多く達成できることが可能となった。「七の七十倍」人を赦すという表現は、この点を十分に明示するものである。この表現の数値により実現された目的は、主イエスがこの旨を述べた時点で、イエスの旨を人々が理解できるようにすることである。主の旨は、人間は、一回や二回ではなく、七回でもなく、七の七十倍、他人を赦すべきである、ということであった。「七の七十倍」とは、どのような考えであろうか。それは、人間に赦しを自分自身の責任、人間が学ぶ必要がある事柄、そして守るべき道とさせることである。これは単なる表現に過ぎないものの、この表現は重要な点として機能した。この表現は、人間がイエスの言葉の意味を深く理解し、適切な実践方法を見出し、実践における原理と基準を見出す上で役立った。この表現は、人間は、赦し、すなわち無条件で、無制限に、しかし寛容な姿勢と他人に対する理解をもって赦すことを学ぶ必要がある、ということに関して、人々がそれを明瞭に理解する上で役立ち、そのことに関して、人々に正確な考えを与えた。主イエスがこう述べた時、イエスの心には何があったであろうか。イエスは本気で七の七十倍と考えていたか、というと、そうではない。神が人を赦す一定の回数というものがあるであろうか。ここで述べられている「回数」に強い関心を抱き、その数値の根拠と意味を真に理解することを求める者が大勢居る。こうした者は、主イエスがこの数値を述べた理由を理解したがるが、それはこうした者が、この数値には深い意味があると考えているからである。実際には、この部分は神による人間的な表現に過ぎない。含意や意味は、すべて主イエスの人間に対する要求に即したものである必要がある。神が受肉していなかった時、神の言葉が完全な神性から発せられたものであったため、人間は神の言葉の多くを理解していなかった。人間には理解できない霊的領域において言葉が表出されていたので、神の言葉の観点と背景は人間にとって見えないものであり、到達不可能なものであった。肉を持つ人間にとって、霊的領域に立ち入ることは不可能であった。しかし神が受肉した後、神は、人間の観点から人間に対して語り、この対話は霊的領域を超えた。神は、神の神性の性質、旨、姿勢を、人間が想像できる物事、生活の中で見たり遭遇したりしていた物事により、人間が受け入れられる方法を用い、人間が理解できる言葉で、また人間が把握できる知識で表出することにより、人間が神を理解し知り、人間の能力の範囲内かつ人間に可能な程度で、神の意図と神が求める基準を理解できるようにすることが可能であった。これが、人性における神の業の方法と原則であった。神が肉にあって業を行う方法と原則は専ら人性により達成されたが、そうした方法と原則により、神性から直接業を行う事では達成できない結果が実際に得られた。神の人性による業は比較的具体的であり、真正であり、対象が特定されているものであり、また方法は格段に柔軟であり、形式においては律法時代よりも優れたものであった。

   ここからは、主を愛し、隣人を自分と同様に愛することについて取り上げる。これは、神性において直接表出されたものであったかというと、明らかにそうではない。これは、人の子が人性として述べたことである。「隣人を自分と同様に愛せよ。他人を愛すことは自分自身の命を大切にすることと同じである」などと言うのは人間のみであり、このような言い方をするのは人間のみである。神はこのような話し方をしない。少なくとも、神性の神にはこの種の言葉がない。なぜなら、神の人間に対する愛は、神の中にある物事や神の存在の自然な表出と顕現であり、そのため神の人間に対する愛を統制する上で、神には「隣人を自分と同様に愛せよ」といった信条は不要だからである。神が「わたしは自分を愛するのと同様に人間を愛する」などと言っているのを聞いたことがあるであろうか。愛は神の真髄と神の中にある物事や神の存在にあるからである。神の人間に対する愛と、神による人間の扱い方、そして神の姿勢は、神の性質の自然な表出であり、啓示である。神は、隣人を自身と同様に愛すために、そうしたことを意図的に特定の方法で行ったり、意図的に特定の方法や倫理規則に従ったりする必要はない。神にはこの種の真髄が既に存在するからである。このことから何が分かるであろうか。神が人性で業を行った場合、神の方法、言葉、真理はすべて人間的方法で表出される。しかし、これと同時に、人々が神の性質、神の中にある物事や神の存在、神の旨を知り、理解できるように、これらの事柄が人々に対して表出される。人間が知り、理解したことは、まさしく神の真髄と神の中にある物事や神の存在であり、それらにより神自身に固有の身分と地位が示される。つまり、受肉した人の子は神自身に固有の性質と真髄を、最大限かつ出来るだけ正確に表出する。人の子の人性が人間と天の神との意思疎通や相互交流の障害や障壁とはならなかったのみならず、その人性は実際のところ、人間にとって創造主とを繋ぐ唯一の経路であり、架け橋であった。この時点で、あなたがたは、主イエスが恵みの時代に遂行した業の性質や方法と、現在における業の段階の間に多くの類似性があると感じないだろうか。現在における業の段階でも人間の言葉が大量に使用されて神の性質が表出され、この段階では人間の日常生活における言葉と方法、そして人間の知識を大いに使って、神自身の旨が表出される。神が受肉した後、神が人性の観点から言葉を述べているか神性の観点から言葉を述べているかを問わず、神の言葉と表出の方法は、すべて人間の言葉と方法を媒介としている。すなわち、神が受肉した時は、神の全能と知恵を理解し、神の真の側面全てを知る上で、あなたにとって最高の機会である。神が受肉して成長している間に、神は人間の知識、常識、言葉、人性における表現方法の一部を理解し、学習し、把握した。受肉した神は、神が創った人間から生まれたこれらの物事を持っていた。これらの物事は、神の性質や神の神性を表出する際に、受肉した神の手段となり、神が人間の中で人間の観点から人間の言葉で業を行った際に、これらの物事により、神は業を一層適切であり、真正であり、正確なものとすることが出来た。これらの物事により、人々にとって、神の性質や神の神性が近づきやすいものとなり、一層容易に理解され、したがって神が望んでいた結果が実現した。神にとって、こうして肉にあって業を行った方が、より実践的ではないだろうか。それは神の知恵ではなかろうか。神が受肉し、神の身体が、神が望む業を遂行可能になった時に初めて、神が、地にあって神の性質や業を表出し、そして人の子として神の務めを正式に開始することができた。このことは、神と人間との間に、もはや淵が存在しないこと、神はほどなくして使いによる意思疎通を行わなくなり、肉体を持った神自身が、神が望んでいたあらゆる言葉と業を表出できることを意味するものであった。またこのことは、神が救う人々は神の近くにあり、神の経営の業が新たな領域へと入ったこと、あらゆる人間が新時代を迎えようとしていることを意味するものでもあった。


ヨブは神の名を称え、祝福を受けるか災いに遭うかは考慮しない

2020-03-14 11:25:08 | 聖書の奥義を開く

 

   ヨブ,神の名前を称え,祝福を受ける,災いに遭う聖書の中のヨブの物語では語られていない事実がひとつある。それが今日のテーマである。ヨブは神を見たこともなければ自分の耳で神の言葉を聞いたこともないが、ヨブの心には神の居場所があった。ヨブの神に対する態度はどのようなものであったのだろうか。先ほど読んだように、「ヤーウェのみ名はほむべきかな」というものであった。ヨブは神の名を無条件に、無制限に、理屈抜きに称えた。ヨブは神にその心を捧げ、神に自身の心を支配してもらった。ヨブの考えたこと、決心したこと、心に計画したことは神の前に明らかにされ、隠されることはなかった。ヨブが神に敵対することはなかった。彼は神に対して何かしてほしいあるいは与えて欲しいと願ったことは一度もなく、神を崇拝しているからと言ってなにか途方もない報いを期待することもなかった。神に対して取り引きの話をしたり、神になにかを要求したり、命令したりするようなことはなかった。ヨブが神の名を称えたのは、すべてを支配するその偉大な力と権力故であり、祝福を受けたからとか、災いに遭ったからというものではない。ヨブは神が人々に祝福をもたらすか災いをもたらすかに関わらず、神の力と主権は不変であり、故にその人の状況に関係なく神の名は褒めたたえられるべきだと信じていた。神の主権故に人は祝福されるのであり、人に災いが降りかかるのもまた、神の主権故である。神の力と権威は人間のすべてを支配し計らう。様々な人間の富は神の力と権威の現れであり、人がどう見ようと、神の名は褒めたたえられるべきである。ヨブはそれを自らの人生で経験し、悟ったのである。ヨブの考えたことと行なったことのすべてが神の耳に届き、明らかにされ、それは神に重要なものと見なされた。ヨブの認識と、ヨブがそのような心の持ち主であることを神は大切に思った。ヨブの心は常に、どこにいても神の命令を待ち、自分にいつ何が起ころうとも、すべてを歓迎した。ヨブが神に何かを要求することはなく、彼はひたすら神の計らいを待ち、神の計らいを受け入れ、向き合い、従った。ヨブはそれを自身の本分とし、それこそ神がヨブに望んでいたものである。ヨブは神を見たこともなく、神の言葉を直接聞いたことも、命令や教えや指導を受けたこともなかった。今日の言葉で表現するならば、真理に関して神から何の啓きも導きも、施しも与えられていなかったヨブがそのような知識と姿勢を持つことができたのは、神にとって尊いことであり、ヨブの表現したものは神にとって十分であり、称賛に値する証しであり、神はそれを大切に思った。ヨブは神を見たこともなければ直接神の教えを聞いた事もなかったが、ヨブとヨブの心は、神の前で難しい理論を説いたり豪語したりいけにえを捧げたりはするけれども神の真の認識を得たことはなく、心から神を畏れたことのない人々の心より遙かに尊かった。ヨブの心は純粋で神から隠れておらず、正直で優しい人格の持ち主であり、義と正しいものを愛した。そのような心と人格を持ち合わせた者だけが神の道に従うことができ、神を畏れ悪を避けることができる。そのような者が神の主権を知ることができ、神の権威と力を知ることができ、神の主権と采配に従うことができるようになる。そのような者だけが真に神の名を褒めたたえることができる。それはその者が、神が祝福を与えるか災いをもたらすかを見ておらず、すべては神に支配されていることを知っており、人間が思い煩うのは人の愚かさ、無知、理不尽さ、そして神がすべてのことにおいて主権を握っていることへの疑いと神への畏れのなさが原因であることを知っていたからである。ヨブの知識は正に神が求めていたものであった。それではヨブはあなたより素晴らしい理論的知識を持っていただろうか。当時の神の業と言葉は僅かで、神に関する認識を獲得するのは容易ではなかった。神の業を経験しておらず、神の声も聞いておらず、神の顔も見ていないにも関わらず、ヨブがそれだけのものを達成したのは見事である。ヨブは神に対してそのような態度でいることができたのは、彼の人間性と彼が追い求めたもの故であり、それは今日の人々にはないものである。「ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にない。」と当時神が言ったのは、そのような理由からである。神はその当時すでにヨブをそのように評価しており、ヨブをそのような人と結論付けたのである。神の言ったことが今日でも真実であることは言うまでもない。


神は様々な地理環境の境界を定めました

2020-03-13 23:16:48 | 聖書の奥義を開く

   本日は、こうした神が人間と万物に与えた律法により、どのようにして人類が育まれているかについて話をする。それでは、この主題はどのようなものであろうか。この主題は、こうした神が万物に対して与えた律法が、どのようにして人間を育んでいるか、ということである。これは極めて大きな主題なので、いくつかの部分に分け、それらの各部分をあなたがたに分かりやすく説明するため、ひとつずつ話をする。この方法であれば、あなたがたにとって把握しやすくなり、徐々に理解できるであろう。

 

 

   まず、神は、万物創造時に、山、平野、砂漠、丘、河川、湖沼の境界を定めた。地上には山、平野、砂漠、丘、そして様々な水域が存在するが、これらは何であろうか。これらは地形ではなかろうか。神は、様々な地形全ての間に、境界を定めた。境界の設定といった場合、それは何を意味するだろうか。それは、山や平野、砂漠、丘にはそれぞれ領域、範囲ないし一定の面積がある。さらに、河川や湖沼などの水域にも一定の水量がある。つまり、神が万物を造った時、神は全てを明確に分割した。神は、ある山の半径が何キロメートルであるか、その範囲はどのようなものかを、既に決めていた。また神は、ある平野の半径が何キロメートルであるか、その範囲はどのようなものかも決めていた。様々な物を造った時も、神は砂漠の範囲、丘の範囲やその割合、そしてそれらの境界が何により定められるかなどの事柄を、全て決めていた。神は、河川や湖沼を造った時に、それらの範囲を決めた。それらの物には、全て境界が存在する。それでは「境界」とは何を意味するであろうか。つい先ほど、万物に対する律法が、いかにして万物に対する神の支配により定められているかに関して話をした。たとえば、山の範囲と境界は地球の回転や時間の経過により広がることも狭くなることも無い。山の範囲と境界は固定されている。この「固定されている」というのが神の支配である。平野に関する範囲や、何がその境界となっているかについては、神により固定されている。平野には境界があり、平野の中央に、勝手に土が盛り上がることは無い。突如として平野が山になることは無い。ここで言う律法と境界は、このことを指す。砂漠に関しては、その役割や地形、位置などについては、ここでは話をせず、境界のみについて話をする。神の支配の下では、砂漠の範囲もまた拡大することは無い。なぜなら、神は砂漠にその律法と範囲を与えたからである。砂漠の面積、役割、砂漠の境界にある物、所在地などは、神によって既に定められている。砂漠はその範囲を超えることも、移動することも、勝手に面積が広がることも無い。河川や湖沼の水流には秩序があり、水流は継続しているものの、河川や湖沼の水はその範囲から出たり、境界を越えたりすることは、嘗て無かった。河川や湖沼は、すべて秩序をもって、それぞれ流れるべき単一の方向に流れている。神の支配の律法下において、勝手に干上がったり、あるいは地球の回転や時間の経過が原因で方向を変えたり、流量を変えたりする河川や湖沼は存在しない。こうした事柄は、全て神が掌握しており、神の支配下にある。つまり、神によって造られ、人間の世界にある万物には、それぞれ固定された場所、地域、そして範囲がある。すなわち、神が万物を造った時に、万物の境界が定められ、その境界は勝手に変えたり、更新したり出来ない。ここで「勝手に」、とは何を意味するであろうか。それは、天候や気温、地球の回転速度などが原因で、こうした境界がやみくもに移動したり、拡大したり、変形したりすることは無い、ということである。ある山を例に挙げると、その山には、特定の高さ、特定の裾野の面積、特定の標高、特定の植生がある。これは全て神により計画され、計算されたものであり、高さや面積は勝手に変わることが無い。平野については、人類の大部分が平野に住んでおり、気候の変化により平野の面積やその存在価値が変わることは無い。こうした様々な地形や地理環境に含まれている物事は神が造ったものであり、そうした物事でさえも、勝手に変わることは無い。たとえば、砂漠の構成要素、その下にある鉱床の種類、砂漠の砂の量、色、厚さなどは、勝手に変わることが無い。こうした物事が勝手に変わらないのは、何故であろうか。その理由は、神の支配と管理である。こうした神が造った様々な地形や地理的環境の中では、あらゆる物事を、計画された秩序ある方法で神が管理している。そうしたわけで、これら全ての地理的環境は、それを神が造ってから数千年、数万年後の現在も依然として存在する。こうした地理的環境は、依然としてそれぞれの役割を果たしている。ある期間に火山が噴火したり、地震が発生したり、地面が大きく動くことがあるが、それでもなお神は地形がその機能を喪失することを許さない。人間が享受し、見ることのできるこれら全てが地球上で秩序をもって存在することができるのは、ひとえにこのような神の管理とそれらのものに対する神の支配、そして律法を掌握しているからである。それでは、神はなぜ、地上にある全ての地形を、このような方法で管理するのであろうか。その目的は、様々な地理的環境で生存している生き物全てが安定した環境を得られること、それらの生き物全てが安定した環境の中で継続して生活し、増えることが出来るようにすることである。移動出来るものと出来ないもの、鼻孔で呼吸するものとそうでないものなど、こうした全ての生き物が、人間の生存のための、独自の環境を構成している。何世代にもわたって人間を育むことが可能であり、また人間が何世代にもわたり継続して平和に生存することが出来るのは、こうした環境のみである。

   今わたしが話した事から分かったことは何であろうか。神の万物支配における神の律法は、極めて重要である、ということである。この律法に従って育つ全ての生き物の前提条件は何であろうか。その前提条件は、神による支配である。全ての生き物がこの支配に従って、それぞれの役割を果たしているのは、神の支配があるからである。たとえば、山は森を育む。そして森はその森に棲む様々な鳥や獣を育み、守る。平野は人間が作物を栽培するために用意された場所であり、また様々な鳥や獣のために用意された場所でもある。平野では、大部分の人間が平らな地面で生活することができるので、人間生活に便宜がもたらされる。また、平野には、広大な草原が含まれる。草原は地球の植生である。草原は土を守り、草原に棲む牛、羊、馬を育む。砂漠もまた、その役割を果たす。砂漠は人間の住む場所では無く、その役割は多湿な気候を乾燥させることである。河川や湖沼の水流は、人間の飲料水として便利であり、またあらゆる生き物の水の需要のために存在する。人間は、水が流れている所であれば、どこでも飲料水を得ることができる。様々な地形に対して神が定めた境界は、こうしたものである。こうした神が定めた境界のため、様々な地形により様々な生存環境があり、そうした生存環境は様々な鳥や獣にとって好都合であり、鳥や獣に生存空間を与える。このようにして、様々な生き物の生存環境の境界が発展した。次に話をするのは、このことである。

 

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神が人類のために備えられた肉類、水源、薬草

2020-03-12 22:31:11 | 聖書の奥義を開く

   穀物や果物、野菜、様々なナッツ類などは、すべて植物性の食料である。それらは植物性の食料であるものの、人体の必要性を十分に満たすだけの栄養素が含まれている。しかし、神は「これだけ人間に与えれば十分であろう。人間はこれだけ食べていればよい。」などとは言われなかった。神はそうした食料に留まらず、人間にとって一層美味しい食料を用意した。その食料とは何であろうか。それは、人間が毎日の食卓で食べたいと思う、様々な肉や魚である。肉や魚にも種類が多数ある。魚は全て水中で生活している。魚肉は、食感が地上で育った生き物の肉とは異なり、また人間に様々な栄養素を供給できる。魚の性質もまた人間の体温の高低を調整可能であるので、魚は人類にとって極めて利点が多い。しかし、美味しいものは、食べ過ぎてはならない。それは次の言葉にある通りである。「すなわち、神は人間に対して適切な時に適切な分量を与えるので、人間は季節や時期に従って恒常的かつ適切にそうした食料を享受することができる。」家禽にはどのようなものがあるだろうか。ニワトリ、ウズラ、ハトなどである。アヒルやガチョウを食べる人々も多い。神は、神の選民に対して必要なものを備えたが、律法の時代において、神は人々に要求事項を示し、特定の範囲を定めもした。この範囲は、個人の好みと理解に基づくものである。こうした様々な種類の肉により、人体に様々な栄養素が供給され、タンパク質や鉄が補給され、血液の栄養素が増し、筋肉や骨が強化され、エネルギーが増加する。要するに、人間が用いる肉の調理方法や食べ方を問わず、肉は味覚と食欲の向上に有効であり、また空腹を満たす。肉は人体に必要な日常的栄養素を供給するということが最も重要な点である。それが、神が人間に食料を与えた時点における神の心であった。植物性の食品と、肉が用意されているというのは、豊富で潤沢ではないだろうか。(そのとおりである。)しかし、人間は、神が人間のための食料を用意した時点における、神の元来の心が何であったかを理解する必要がある。それは、こうした物質的食料を、貪欲にむさぼることであっただろうか。人間が物質的食欲に耽溺するようになったら、どうなるであろうか。人間は栄養過剰になるのではないか。栄養過剰は、人体に様々な疾病を引き起こすのではないか。神が造った自然の律法に反することが良くないことに間違い無く、そのために、神は適切な時期に適切な分量を分割され、様々な季節の折々において、様々な食料を享受できるようにした。これが最適な方法である。たとえば、酷暑の夏を過ごした後、人間の身体には、大量の熱、病気の原因となる乾燥や湿気が蓄積される。秋が来ると、多くの果実が熟れ、人間が果物を食べると、その湿気は解消される。同時に、牛や羊は逞しく成長するので、人間はその肉を栄養補給として食べるとよい。様々な肉を食べた後、人体はエネルギーと熱を得て、冬の寒さに耐えるのに役立つので、冬を無事に乗り越えることができる。人間のために、いつ何を用意するか、いつ何を生長させるか、結実させるか、熟れさせるかといったことは、全て神により管理され、遙か昔に、神が極めて正確に取り決めた。しかし、人間は神の心を理解しない。これが「神が人間の日常生活に必要な食料を用意される方法」に関する事項である。

 

 

   様々な食料のほか、神は人間に対して様々な水源を与えている。人間は、食事の後に水分を摂る必要がある。果物を食べるだけで十分であろうか。人間は果物を食べるだけでは耐えられず、また季節によっては果物が無い場合もある。それでは、人間の水分に関する問題は、どうすれば解決できるであろうか。神は、その解決策として、湖沼、河川、泉など、地上や地中に多数の水源を用意した。これらの水源は、汚染や人間による処理や危害が無い場合、飲むことができる。人間の物理的身体による生命のための食料に関し、神は極めて正確で、精密で、適切な用意を行ったので、人間の生活は豊富であり潤沢であり、何も不足していない。これは、人々が感じ取り、認識可能な事柄である。さらに、動物であるか植物であるか草であるかを問わず、万物の中には、神が造った、人体の負傷や疾病を癒やすために必要とされる植物もある。たとえば、あなたがたが火傷した場合には、どうするであろうか。水で洗えばよいであろうか。布を探してそれを巻けばよいだろうか。そのようなことをすれば膿が溜まって菌を散らすであろう。たとえば、あなたがたが裸火や熱湯で火傷してしまった場合には、どうするであろうか。水ですすげばよいであろうか。たとえば、発熱したり、風邪をひいたり、肉体労働で負傷したり、悪いものを食べて胃腸の病気になったり、生活習慣や感情的な問題から、脈管病や精神疾患、臓器疾患などの疾病を患った場合、それぞれの疾病に応じた治療法がある。血行を促進して血行不良を改善する植物、痛みを緩和する植物、止血する植物、麻酔効果のある植物、正常な皮膚の回復を促進する植物、鬱血を解消する植物、解毒する植物などもある。要するに、これら全ての植物を日常生活で使用できる。これらの植物は人間にとって利便性があり、人体に必要な場合のために神が用意したものである。神により人間が偶然発見できるようにされた植物もあれば、特殊な現象により発見された植物もあり、神が用意した特定の人間により発見された植物もある。そうした発見の後、人間はそれを伝えて多くの人々がそのことを知るようになる。このように、神によるこうした植物の創造には、価値と意義がある。すなわち、これらの物は全て神に由来し、神が人間の生活環境を造った時に用意し、植え付けられたものである。これら全ての植物は、極めて必要性が高い。このことは、神が天と地、そして万物を造った時に、神の配慮が人間の配慮よりも優れていたことを示すものではないだろうか。あなたは、神が行った様々な業を見る時、神の実践的側面を感じることが出来るだろうか。神は隠れて業を行った。この世界に人間が現れる前、神が人類と接する前に、神は既にこれら全てを造り終えていた。神が行った業は、全て人間と、人間の生存のためのものであり、また人間の存在のために配慮されたものであるので、人類は、神が人類のために造った、このような豊富で潤沢な物質世界で生活することができ、食料や衣料に懸念すること無く、不自由無く幸せに生活することができる。人間はそうした環境の中で継続的に繁殖し、生存してきたが、神がその全てを人間のために造ったことを理解できる者は、それほど多くない。サタンは、それら神が造ったものを、自然により造られたものであると偽っている。

 

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