賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神が人類のために造った基本的な生活環境-気温

2020-03-03 11:24:30 | 聖書の奥義を開く

   2番目の物事は、気温である。気温が何かは誰でも知っている。気温は、人間の生存に適した環境に備わっていることが必要とされるものである。摂氏40度を超える場合など気温が高すぎる場合、人間の生活は極めて過酷なものとなる。そうした気温は、極めて体力を消耗させるものではなかろうか。摂氏零下40度を超える場合など気温が低すぎる場合はどうであろうか。それもまた人間には耐え難いであろう。したがって、神はそうした気温の範囲設定時に、極めて正確であった。人体が適応可能な気温の範囲は、基本的に摂氏零下30度から摂氏40度までである。これが南部から北部までの基本的な気温の範囲である。寒冷地域では気温が摂氏零下50度程度に達することもある。そうした地域は、神が人間の居住を許可している地域ではない。そのような寒冷地域が存在するのは、何故であろうか。その存在にも、神の知恵と意図がある。神は、人間がそうした地域付近に行くことを禁じている。神は暑すぎる地域や寒すぎる地域を保護している、すなわち神はそうした地域に人間が居住する準備をしていない。そうした地域は人間のための地域ではない。神が地上にそうした地域を存在させているのは何故だろうか。神がそうした地域に人間が居住するのを許していないのであれば、神がそうした地域を造ったのは何故であろうか。そこには、神の知恵がある。つまり、人間の生存環境のための基本的な気温もまた、神により適宜調整されたものである。気温にも法則がある。神はこうした気温の維持に役立ち、気温を制御する物事を造った。この気温を維持するために用いられている物事は、何であろうか。まず、太陽は人間に温もりをもたらすが、暑すぎると人間は耐えられなくなる。地球上には、太陽に近付くことができる物はあるであろうか。(無い。)それは何故であろうか。それは、太陽が熱すぎるからである。その物は溶けるであろう。したがって、人間から太陽までの距離についても、神は特定の処置を実施した。神には、その距離についても基準を設けている。また、地球には南極と北極がある。南極と北極には、何があるだろうか。南極と北極は一面の氷河である。人間は氷河の上に住めるだろうか。氷河上は人間生活に適しているだろうか。(適していない。) 適していないので、氷河へは行かない。人間が南極へも北極へも行かないので、氷河が保護され、氷河は、気温を制御するという氷河の役割を果たすことができる。分かるであろうか。南極と北極が無く、太陽が常に地球を照りつけているとしたら、地上の人間は熱で全員死滅してしまうであろう。神が気温を制御するのに用いるのは、この2つだけであろうか。神が人間に適した気温を制御するのに用いるのは、この2つだけでは無い。それ以外に、野原の草や森の木々や植物など、様々な生き物も存在する。こうした生き物は太陽の熱を吸収し、太陽の熱エネルギーを合成して、人間が生活する気温を調整する。また、河川や湖沼などの水源も存在する。河川や湖沼の表面積は、人間が決めることの出来るものでは無い。誰かが地球上の水の量や、水の流れる先、方向、水量、流れる速度を制御できるであろうか。誰もそうした事柄を制御できない。それは、神のみぞ知る事柄である。地下水や、人間が見ることのできる地表の河川や湖沼などの様々な水源もまた、人間が生活する気温を調整することができる。それ以外にも、山や平野、峡谷や湿地など、様々な地形が存在する。こうした様々な地形それぞれの表面積や規模により気温を制御することができる。たとえば、ある山の半径が100キロメートルである場合、その半径100キロメートルの範囲には、100キロメートル分の効果がある。そうした神が地上に造った山地や峡谷の数についても、神が十分に考慮したものである。つまり、神の創造物ひとつひとつの存在について、それぞれに経緯があり、それぞれに神の知恵と計画が含まれている。たとえば、森と植生について、その地域面積や規模を制御できる人間や、森と植生を最終的に決定できる人間は居ない。森と植生がどの程度の水や太陽の熱エネルギーを吸収するかについても、それを制御できる人間は居ない。これらの物事は、全て神の万物創造時に、神により計画された物事の範囲に含まれる。

 

 

   また、そうした適切な気温の環境において人間が生活できるのは、その全ての側面についての神の周到な計画、検討、采配のおかげである。したがって、太陽など人間が見るあらゆる物、南極や北極など人間が頻繁に話を聞く物、地上や地中、海中の様々な生き物、森その他の植生の面積、水源、様々な形態の水域、そうした水域の淡水や海水の量、さらに様々な地理的環境を用いて、神は人間の生存のための常温を維持している。これは絶対である。また、そうした適切な気温の環境において人間が生活できるのは、神の周到な検討のおかげである。そうした環境は寒すぎることも暑すぎることも無い。人体が順応出来る気温を超えるほど暑い場所は、間違い無く神が人間のために用意した場所では無い。気温が低すぎて寒すぎる場所、すなわち人間が到着して数分で凍えてしまい、話が出来ず、脳が凍り、思考不可能となり、息が詰まるような場所も、神が人間のために用意した場所ではない。人間がどのような調査を行うことを望んだとしても、現状を革新したい、あるいはこうした制約を打破したいと考えたとしても、人間がどう考えるかを問わず、人体が順応可能な限界を超えることは決して出来ない。人間は、こうした神が人間のために設けた限界を解消することは決して出来ない。神は人間を創ったので、神は人体が順応可能な温度について最も深く理解している。人間はその温度について知っているであろうか。(知らない。)知らないと言えるのは、何故であろうか。人間はどのような愚行を行って来たであろうか。北極や南極に常に挑んでいる人々は、これまで多数居なかったであろうか。そうした人々は北極や南極へ向かい、その地を占有して定住して開発することを常に望んでいる。これは自滅的行為ではないだろうか。(自滅的行為である。)仮にあなたが南極と北極を完全に調査したとしよう。しかし、あなたがそうした気温に順応できたとしても、南極や北極の生活環境や生存環境を変えることが、人類に何らかの利益をもたらすであろうか。南極や北極の氷が全て溶けたとしたら、あなたは満足であろうか。それは信じがたいことである。それは愚かな行為である。人間には、生存できる環境があるが、素直にそこで静かに誠実に留まっていることが出来ず、生存不可能な場所へ行かずには居られない。それは何故であろうか。人間は適切な気温の中で生活することに飽きている。人間が享受した祝福が多すぎるのである。また、この通常の生活環境は、人類によってかなり破壊されて来たので、南極や北極へ行って更なる破壊を行ったり、ある種の「先駆者」となることができるよう、何らかの「活動」を行ったりする。それは愚かではなかろうか。そうした人間の祖先であるサタンの指揮下において、そうした人間は次から次へと愚かな行動を続け、神が人間のために造った美しい住処を、見境無くみだりに破壊してゆく。それはサタンの業である。さらに、地球上における人類の生存が多少危うくなったのを見て、月へ行ってそこに住む方法を模索し、月に住めるのであれば地球から脱出しようとする者も大勢居る。だが結局月に欠如しているものは何であろうか。(酸素である。)酸素無しで人間は生存できるであろうか。(生存できない。) 月には酸素が無いので、人間が居留できる場所ではないが、人間は相変わらず月へ行きたがる。これは何であろうか。(自滅行為であり、悩み事を招く行為である。)それは自滅行為であろう。月は空気の無い場所であり、気温も人間の生存に不適であるので、月は神が人間のために用意した場所では無い。

   つい先ほど話をした気温の問題は、人間が日常生活で接することの出来る問題で、「本日は素晴らしい空模様で、気温は23度である。好天快晴で空気は爽快だ。新鮮な空気を吸い込もう。太陽が光り輝いている。日の光が降り注ぐ中で、身体を伸ばそう。良い気分だ。」あるいは「本日は非常に寒い。手を出すと、すぐ冷たくなるだろう。寒いから屋外に長時間居てはならない。身体が冷えないうちに帰宅しよう。」というような会話を交わす。気温は全ての人間が体感できるものであるが、この気温がどのようにして現れたか、あるいは人間の生活に適した気温を制御しているのは誰かについては、誰も考えない。本日明らかにしようとしているのは、この問題である。気温には、神の知恵が含まれているであろうか。気温には、神の業が含まれているであろうか。(含まれている。)人間の生活に適した気温の環境は、神が造ったことを考えると、気温は神が万物に恵みを与えるひとつの方法だろうか。実際、それはひとつの方法である。このことにより、神が万物に恵みを与え、管理していることは、真に現実的なものであることが分かるのだ。

 

もっと注目: 讃美歌


山上での説教・主イエスの喩え・戒律

2020-03-02 22:33:36 | 聖書の奥義を開く

   1.山上での説教

   1)八福の教え(マタイによる福音書 5:3-12)

   2)塩と光(マタイによる福音書 5:13-16)

   3)律法(マタイによる福音書 5:17-20)

   4)怒り(マタイによる福音書 5:21-26)

   5)姦淫(マタイによる福音書 5:27-30)

   6)夫婦の離縁(マタイによる福音書 5:31-32)

   7)誓い(マタイによる福音書 5:33-37)

   8)目には目を(マタイによる福音書 5:38-42)

   9)敵を愛す(マタイによる福音書 5:43-48)

   10)施しに関する指示(マタイによる福音書 6:1-4)

   11)祈り(マタイによる福音書 6:5-8)

   2.主イエスの喩え

   1)種まきの喩え (マタイによる福音書 13:1-9)

   2)毒麦の喩え (マタイによる福音書 13:24-30)

   3)からし種の喩え (マタイによる福音書 13:31-32)

   4)パン種 (マタイによる福音書 13:33)

   5)毒麦の喩えの説明 (マタイによる福音書 13:36-43)

   6)宝の喩え (マタイによる福音書 13:44)

   7)真珠の喩え (マタイによる福音書 13:45-46)

   8)網の喩え (マタイによる福音書 13:47-50)

   3.戒律

   イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」(マタイによる福音書22:37-39)

   ここではまず、「山上での説教」の各部分について検討する。これらの部分が関連する事柄は何であろうか。これらは、律法の時代の規律と比べて、格段に向上され、より具体的で人間生活に近いものである、と確信を持って言える。現代の言葉で話をすると、人々の実際の行動に一層関連性が高くなる。

 

 

   次に挙げる事項について、その具体的な内容を検討する。八福の教えは、どう解釈すべきか。律法について知るべきことは何か。怒りは、どのように定義すべきか。姦淫する者を、どのように扱うべきか。夫婦の離縁について述べられていることは何か、夫婦の離縁に関する規則には、どのようなものがあるか、夫婦の離縁が出来る者、出来ない者は、それぞれ誰か。誓い、目には目を、敵を愛する、施しに関する指示などは、それぞれどのようなものか。これらは、すべて人間の神に対する信仰の実践、神に付き従うことにおける全ての側面に関連するものである。これらの行動の一部は、現在にも当てはめることができるが、現在における人間に対する条件よりも、基本的である。これらは、神への信仰のなかで、人間が直面する極めて基本的な真理である。主イエスが業を始めた時から、神はすでに人間のいのちの性質に対する業を開始していたが、それは律法に基づくものであった。これらの事項に関する規則や言葉は、真理と関連性があるだろうか?無論大いに関連性がある。従前の規律、原則、そして恵みの時代の説教は、すべて神の性質と、神の中にある物事、神の存在、そして真理と関連するものである。神が表出される事柄が何であろうと、また神がそれをどのように表出しようと、どのような言語を使われようと、その基礎、その起源、そしてその出発点は、すべて神の性質と神の中にある物事、神の存在の原則に基づいている。この原則から外れることは一切ない。したがって、現在では、こうした言葉が多少浅薄とも思えるが、それが真理でないとは言えない。なぜなら、これらの事柄は、恵みの時代において神の旨を満たし、人間のいのちの性質の変化を実現する上で、人間に不可欠なものだからである。この説教のなかで、真理から外れたものがあると言えるかというと、決して言えない。これらの事項は、神の人間に対する要求であるので、いずれも真理である。これらの事項はすべて、行動のしかたについて神から与えられた原理とその範囲であり、神の性質を示すものである。しかし人間は、その時点におけるいのちの成長の度合いに基づいて、これらの事項を認めて理解することしかできなかった。人間の罪は未だに解決されていないため、主イエスはこれらの言葉を与え、こうした単純な教えをその範囲内で活用して、当時の人々に対し、どのような行動を、どのように行うべきであるか、どのような原理に基づいてどのような範囲で行動すべきか、どのように神を信じ、どのようにして神の要求を満たすべきかを伝えることしか出来なかった。これらの事項は、すべて当時の人間の霊的背丈に基づいて決定された。律法に従って生活していた人間にとって、これらの教えを受け容れることは容易ではなかったので、主イエスの教えは、その範囲内である必要があった。

   次に、「主イエスの喩え」に含まれる事柄を検討する。

   まず1つ目は、種まきの喩えである。これは極めて興味深い喩えである。種まきは、人間の生活の中で一般的な事柄である。2つ目は、毒麦の喩えである。穀物を栽培したことのある者と大人は、毒麦とは何か理解できるであろう。3つ目は、からし種の喩えである。からしとは何かについては、皆知っているであろう。知らない場合は、聖書を読めば分かる。4つ目の、パン種の喩えに関しては、大部分の者が、パン種は発酵に用いられるものであることを知っている。パン種は人間が日常生活で用いるものである。それ以降の6番目の宝の喩え、7番目の真珠の喩え、8番目の網の喩えは、すべて人間の生活から採り上げられたもの、つまりこれらの喩えは、すべて実生活に由来するものである。これらの喩えは、全体としてどのような考えを示すものであろうか。これらの喩えは、神が普通の人間となり、人間と共に生活し、通常の生活で用いられる言葉を使用し、人間の言葉を用いて人間と意思疎通し、人間に必要な物事を授けている、という考えを示している。神が受肉して人間の中で長期にわたって生活したとき、人間の様々な生活様式を経験し、目の当たりにした後、そうした経験は、神が、神の神性の言葉を人性の言葉へと変換する際の参考となった。無論、神が生活の中で見聞きした事柄により、人の子の人間としての経験は豊富なものとなった。神が一部の真理や、神の旨を人間に理解させることを望んだ時、神は上記と類似の喩えを用いて、神の旨や神の人間に対する要求について人間に伝えることが出来た。これらの喩えは、すべて人間生活と関連しており、人間生活に無関係の喩えは一切ない。主イエスが人間とともに生活した時、イエスは農民が作物の手入れをしているのを見、毒麦とは何か、パン種とは何かを知っていた。またイエスは人間が宝を好む事を知っていたので、宝と真珠の喩えを用いた。さらにイエスは漁師が網を投げるのを頻繁に見るなどしていた。その他の喩えについても同様である。主イエスは、こうした人間生活における活動を見、またそうした生活を経験していた。イエスは通常の人間と全く同様に、人間が食べる1日3回の食事など、日々繰り返される活動を経験していた。イエスは一般的な人間生活を自ら経験し、その他の者の生活を見た。イエスがこうした事柄を目の当たりにし、自ら経験したときに考えたのは、どうすれば良い生活を送れるか、どうすれば一層自由で快適な生活が送れるか、といったことではない。神が実際の人間生活を経験した時、主イエスは、サタンの腐敗に支配されサタンの領域で生活し、罪の中で生きる人々の困難、悲惨さ、そして悲しさを目の当たりにした。イエスが自ら人間生活を経験している時に、イエスは腐敗の中で生きる人々がいかに無力であるかを経験し、また罪の中で生き、サタンや悪による拷問のなかで迷う人々の悲劇を見て、経験した。主イエスがこれらの事を見た時、主はこれらの事柄を神性で見たであろうか、それとも人性で見たであろうか。神の人性は実際に存在し、それは極めて鮮明であった。神はこれらの事を経験し、見ることが可能であり、無論神の真髄と神性によってもまたそうした事柄を見た。つまり、キリスト自身、人間であった主イエスがそれを見、見た事柄のすべてが、神が肉にあって行った業の重要性と必要性を自身に強く感じさせた。イエス自身は、受肉して行う事柄に対する責任が極めて重大であることや、神が直面する痛みがいかに残忍であるかを知っていたものの、罪の中にある哀れな人々を見、そうした人々の悲惨な生活や、律法に基づく力ない奮闘努力を見た時、神は一層深い悲しみを感じ、人間を罪から救うことに対する切望が強くなっていった。イエスが直面する困難がどのようなものであれ、また神が感じる痛みがどのようなものであれ、罪の中で生きる人間を贖い出そうという神の決意は次第に強固なものとなっていった。この過程において、主イエスは、自身が行う必要のある業と、自身に託された物事を、一層明確に理解した、と言えるであろう。またイエスは、自身が行う業を完遂させたいという希望を徐々に強めていった。人間のあらゆる罪を負い、人間を贖い、そうすることで人間が罪の中で生きることがなくなり、罪のためのいけにえにより自身が人間の罪を忘れることができるように、そしてそれにより人類の救いの業を一層進展させたいという思いを、徐々に強めていった。主イエスは、心のなかで、自らを人類に進んで捧げ、自らを進んで犠牲にした、と言えるであろう。またイエスは進んで罪のためのいけにえとなり、十字架にはり付けになり、この業を完遂することを望んでいた。イエスが人間生活の悲惨な状態を見た時、一分一秒も遅れることなく、早急に自身の使命を成し遂げることを、一層強く求めた。神がこうした喫緊の必要性を認識した時、神は自身の受ける痛みがどれほど酷いものか、どれほどの恥辱に耐えなければならないかなどとは考えていなかった。イエスの心にあったのは、自らを捧げ、罪のためのいけにえとして十字架にはり付けられる限りにおいて、神の旨が実行されて新たな業を始めることが出来る、罪の中にある人間生活、罪の中に存在する人間の状態が全く別のものに一変する、という確信のみであった。イエスの確信と、実行を決意した業は、人間の救いに関連するものであり、イエスの唯一の目的は、神の旨を遂行して業の次の段階を開始出来るようにすることであった。この時主イエスの心にあったのは、そのようなことであった。

 

 

   受肉して生活していた神は、通常の人間の人性を持ち、通常の人間と同じ感情と理性を持っていた。神は幸福とは何か、痛みとは何かを知っていたので、神がそういう生活を営んでいる人間を見た時、人間に教義を与えたり、施したり教えたりするだけでは、人間を罪から抜け出させることは出来ず、また人間を戒律に従わせるだけでは、人間の贖罪は不可能であり、人類の自由と、人類に対する神の赦しは、自身が人類の罪を負い、罪深い肉の似姿となるという代償と引き換えにしか得ることが出来ない、ということを、強く感じた。そうしたわけで、罪の中にある人間の生活を主イエスが経験し、目の当たりにした後、イエスの心には、人類を罪の中で苛まれる生活から抜け出ることが出来るようにするという強い願望が生まれた。この願望により、出来るだけ早く人類の罪を負って十字架にはり付けられる必要がある、というイエスの感情が強くなっていった。イエスが人間と共に生活し、罪の中にある人間の生活の悲惨さを見聞きし、感じた時の主イエスの思いは、こうしたことであった。受肉した神には、人間に対してこのような旨を持ち、神はこの種の性質を表出して示すことが出来たが、こうしたことは、普通の人間にも出来るであろうか。普通の人間がこうした環境で生活した時に見る物事は、何であろうか。人間は何を考えるだろうか。普通の人間がこうした事柄に直面した場合、問題を高い視点から検討するか、というと、そのようなことは決してない。受肉した神の外観は人間と全く同じであり、人間の知識を学び、人間の言葉で話し、時には人間と同じ方法や表現で考えを表現されるものの、人間に対する見方や物事の真髄に対する考え方は、イエスと腐敗した人間では、決して同じということはない。イエスの視点と、イエスの立場の高さは、腐敗した人間が得ることの出来ないものである。なぜなら、神は真理であり、肉となった身体にも神の真髄が存在し、イエスの考えや、その人性で表出される考えもまた真理であるからである。腐敗した人間にとって、イエスが肉にあって表出する事柄は、すべて真理と生命の提供である。これらのものは、ひとりだけではなく、人間全体に与えられているものである。腐敗した人間にとって、心の中で自分に関連する人々の数は僅かであり、心にかけて気遣う他の人の数は僅かである。大災害が発生したとき、人間が最初に心配するのは自分の子供、配偶者、両親のことであり、比較的博愛的な者でも、せいぜい親戚や親友だけであり、それ以外の者のことは決して心配しない。人間は、つまるところ人間であって、人間の目線の高さからしか物を見ることが出来ない。しかし、受肉した神は、腐敗した人間とは全く異なる。受肉した神の身体がいかに普通で慎み深いものだったとしても、あるいはいかに多くの人間に見下されたとしても、人間に対するイエスの旨と態度は人間が抱くことの出来ないものであり、だれも真似することの出来ないものである。イエスは、常に神性の視点で、創造主の立場から人間を見る。イエスは神の真髄と心によって人間を見る。イエスが通常の人間の立場で、腐敗した人間の目線で人間を見ることは決して出来ない。人間が人類について考える時、人間は人間の視点で見て、人間の知恵や規則、理論を基準として用いる。これは人間が人間の目で見ることが出来る物事の範囲内であり、腐敗した人間が成し得る範囲内である。神が人類について考える時、神は神の視点で見、神の真髄と神の持っているものとその存在を用いて人間を見る。この範囲には、人々が見ることの出来ないものも含まれているという点が、受肉した神と腐敗した人間では全く異なる。この相違は人間と神の異なる真髄により決定され、人間と神の身分や立場、そして物を見る視点を決定するのは、この真髄の相違である。あなたがたには、主イエスの中に、神の表出と顕現が見えるであろうか。主イエスが行なった業と言葉はイエスの公生涯と神の経営の業に関連するものであり、それはすべて神の真髄の表出と顕現であると言えるであろう。イエスには人性の発現があったが、イエスの神性の真髄と神性の顕現を否定することは出来ない。人性の発現は、真の人間の発現であろうか。イエスの人性の発現は、本質的に、腐敗した人間の発現とは全く異なる。主イエスは受肉した神であり、仮にイエスが本当に腐敗した普通の人間であったとしたら、罪の中にある人間の生活を神性の見地から見ることが出来たかといえば、そのようなことは絶対に出来なかったであろう。これが人の子と通常の人間の差である。

   神が受肉して人間の中で生活した時、神がその身体で経験した苦難には、どのようなものがあるであろうか。それを真に理解する者が居るであろうか。一部の人々は、神は大いに苦しみ、イエスは神であるにもかかわらず、人々は神の真髄を理解せず、イエスを人間として扱い、それが原因でイエスは感情を害し、不当な扱いを受けていると感じた、神の苦難は甚大であった、と言う。また別の人々は、神は汚れも罪もなかったが、人間と同様に苦しみ、人間と同様に迫害、中傷、侮蔑に苛まれ、また自身に付き従う者の誤解や反抗にも苛まれた。その苦難は計り知れない、と言う。あなたがたは、神を真に理解していないと考えられる。実際には、人々の言う苦難は、神の真の苦難とはみなされない。なぜなら、それよりも大きな苦難があったからである。それでは、神自身の真の苦難とは何であろうか。受肉した神の真の苦難とは何であろうか。神にとって、人間が自身を理解しないことは苦難とはみなされず、また、人々が神に関して何らかの誤解を抱いたり、神と考えなかったりすることも、苦難とはみなされない。しかし、人々は往々にして、神は極めて大きな不当性に苛まれたに違いない、また受肉した神は神性を人間に示して人々に神の偉大さを見せることが出来ず、神は普通の人間に身をやつしていたので、神は苦しい思いをしたに違いない、と感じる。人々は、神の苦難について自分たちが理解できることを心で感じ、様々な形で神に共感し、しばしば苦難を称賛さえする。実際には、神の苦難に関する人々の認識と、神が実際に感じたこととの間には、相違点と隔たりがある。神の霊であるか受肉した神であるかを問わず、神にとって、そうした苦難は真の苦難ではなかった、これが真実である。それでは、神の実際の苦難は何であろうか。ここでは、受肉した神の観点からのみ、神の苦難について議論する。

   神が受肉し、普通の人間になり、人間の中で人々と共に生活していた時、神は人間の生活における方法や律法、哲学を理解できなかったであろうか。こうした生活における方法や律法は、神にとってどう感じたであろうか。神は心の中で強い嫌悪感を抱いたであろうか。神が強い嫌悪感を抱いたのは何故だろうか。人間の生活における様式や律法とは何であろうか。それらはどのような原則に基づくものであろうか。それらは何に基づくものであろうか。人間の生活における様式や律法等は、すべてサタンの理論、知識、哲学に基づいている。この種の律法に基づいて生きる人間には人間性も真理もない。こうした人間は全員真理に逆らい、神を敵対視している。神の真髄について検討すると、神の真髄は、サタンの理論、知識、そして哲学とは正反対であることが分かる。神の真髄は正義、真理、聖さその他の肯定的な事柄の真実で満たされている。こうした真髄を持ちつつ、人間の中に生きていた神の心は何を感じたであろうか。それは苦痛ばかりではなかろうか。神の心は苦痛を感じ、その痛みに気付いて理解する人間は誰も居ない。神が直面し、見聞きし、経験する全ての物事が、人間の腐敗、邪悪、そして真理に対する反逆と反抗である。人間に由来する全ての物事が、神の苦難の原因である。つまり、神の真髄は腐敗した人間とは異なるため、人間の腐敗が神の最大の苦難の原因となる。神が受肉した時、神は、神と共通の言葉を持つ人間を見つけられることが出来るであろうか。人間の中に、そうした者を見つけることは出来ない。こうした意思疎通や対話を行うことの出来る者を見つけることは出来ないのであれば、神はどのような気持ちであろうか。人々が語り合う物事、好む物事、追求する物事、望む物事は、すべて罪と関連し、邪悪の傾向がある。神がこうした物事に直面するのであれば、それは神の心にとって刃のようではなかろうか。こうした物事に直面して神の心は喜んだであろうか。神は慰めを見つけることが出来たであろうか。神と共に生活していた者たちは、反逆と邪悪に満ちていたのであるから、その心が苦しまずにいられようか。この苦難は、いかに甚大だったであろうか。また誰がそれを懸念したであろうか。誰が注意を払ったであろうか。そして誰がそれを理解できたであろうか。人々が神の心を理解する術は全くない。神の苦難は人間がとりわけ理解不可能な事柄であり、人間の冷淡さと愚鈍さにより、神の苦難は一層深まる。

   キリストの窮状に頻繁に共感する人々が居るが、それは「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない。」と述べる聖句があるからである。人々がこれを聞いた時、人々はそれに共感し、それは神が堪え忍んだ大いなる苦難であり、キリストが堪え忍んだ大いなる苦難であると考える。しかるに、それを事実という観点から見た場合、実際にそうした状況であろうか。神は、そうした問題が苦難であるとは考えない。神が肉の問題の不当なことに対して悲しんだことも、人間に対して神に対する何らかの代償を要求したこともない。しかし、腐敗した生活や腐敗した人間の邪悪、人間がサタンに支配されていること、サタンの捕らわれの身となり逃れることができないこと、罪の中で生きる人々が真理とは何かを知らないことなど、人間の全てを神が目の当たりにする時、神はこうした罪のすべてに耐えることが出来ない。人間に対する神の強い嫌悪感は日ごとに増していくが、神はそれに耐えねばならない。これが神の甚大な苦難である。神は自身に従う者に対して心の声や感情すらすべて表出することが出来ず、神に従う者のなかに、神の苦難を完全に理解できる者は居ない。誰ひとりとして、神の心を理解し、慰めようとすることさえしない。神の心は、毎日、毎年、そして幾度となく、この苦難に堪え忍ぶ。このことから何が分かるであろうか。神は、神が授けた物事に対する見返りを人間に要求してはいないが、神の本質が原因となり、神は人間の邪悪、腐敗、罪を見過ごすことが全く出来ず、強い嫌悪と憎しみを感じるので、神の心と身体は終わることのない苦難を受ける。あなたがたは、このことが理解できるであろうか。あなたがたの中に真に神を理解できる者は居ないので、おそらく誰も理解できないであろう。時が経つにつれ、あなたがたは徐々にこのことを経験することができる。


神が人類のために造った基本的な生活環境-音

2020-03-01 16:05:05 | 聖書の奥義を開く

   3番目の物事は、音である。音もまた、人間の通常の生活環境に備わっていることが必要とされるものである。音は、神が万物を造った時に出現した。その時、神は音を極めて周到に造った。それは、神にとって、そして人間の生存にとっても、極めて重要なものである。神が音の問題を周到に扱わなかったとしたら、人間の生存に対する大きな障壁となっていたことであろう。そうした状況は、人間の身体と生活に著しい悪影響を及ぼし、人類がそのような環境で生存することが不可能となっていたであろう。また、あらゆる生き物がそうした環境では生存できないと言えるであろう。それでは、音とは、どのようなものであろうか。それは、音である。神は万物を造り、万物は神の手の中で生きる。神の目から見ると、万物が動き、生きている。神は万物を創造し、万物の存在には、それぞれ価値と意義がある。つまり、万物には、すべてその存在の根底に必要性がある。しかし、神の創造物には、それぞれ命がある。万物はそれぞれ生きており、動いているので、必然的に音を発する。たとえば、地球も太陽も、そして月も自転している。万物のいのちと動きからは、常に音が発生する。地上にある物もまた常に繁殖し、成長し、動いている。たとえば、山の基盤は動いており、移動しており、海中の生き物はすべて移動し、遊泳している。こうした生き物や万物は、神の目から見ると、全て継続的かつ恒常的に運動している。それでは、こうした密かな拡張、成長、運動により、何が発生するだろうか。力強い音である。地球以外のあらゆる惑星もまた継続的に運動し、惑星上の生き物や有機体もまた継続的に拡張し、成長し、運動している。つまり、いのちのある物やいのちの無い物は、神の目から見るとすべて継続的に動いており、いのちのある物が全て動いている時、それらの物は同時に音を発生させる。神はこうした音についても取り扱っている。それは何故か。あなたがたはその理由を知っているはずであろう。あなたがたが航空機に近付いた時、航空機の轟音は、あなたがたにどのような影響を与えるであろうか。(私達は難聴になる。)その音は人間の聴覚を損傷させるであろうか。人間の心臓はその音に耐えきれるであろうか。(耐えきれない。) 心臓の弱い人間は耐えきれないであろう。無論、心臓の強い人間であっても、その音が長期化すると耐えられないであろう。つまり、音の人体に対する影響は、それが耳であるか、心臓であるかを問わず、各人にとって極めて甚大であり、音量が大きすぎる音は人間に危害を与える。したがって、神が万物を創造し、万物が正常に機能し始めた時、こうした音すなわち運動する物の音に、神は適切な処置を施した。こうしたことも、人間のための環境を造る時に、神にとって必要な配慮のひとつであった。

 

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   まず、地上にある大気圏により音が消され、制限される。また地面の間にある空間すなわち土壌の隙間の大きさによって音が変化し、影響を受ける。さらに様々な地理環境が重なり、それも音に影響を与える。つまり、人間の耳や心臓が耐えることの出来る環境で人間が生存できるように、神は特定の方法を用いて音の一部を消している。さもなければ、人間の生存にとって音が大きな障害となり、音は生活上大問題となるであろう。これは大問題である。つまり、神は地面と大気、そして様々な地理的環境を造った時、極めて特定的であった。こうした物事すべてに神の知恵が含まれている。こうした事情に対する人間の理解は、それほど詳細である必要は無い。理解する必要があるのは、こうした物事に神の業が含まれて居るということのみである。神の万物創造は、まさに人間生存のためのものであった。さて、あなたがたに尋ねるが、音を変化させる神の業は必要であったであろうか。あなたがたは、神がこの業を行う必要性を感じることが出来るであろうか。神が行った業は、音を極めて正確に変化させることであった。神はこの業を行い、人間の生活環境と通常の生活を維持した。この業は必要だったであろうか。(必要だった。)この業が必要であるとすると、その観点から見て、神はそうした方法を用いて、万物に全ての必要を与えたと言えるであろうか。神は、人間の身体が静かな環境で極めて正常に生活出来るように、また人間に障害が無く、普通に存在して生活出来るように、人類のためにそうした環境を造り、そして与えた。これは神が人間に全ての必要を与える方法のひとつではないだろうか。(その通りである。)神が行ったこの業は極めて重要であろうか。(重要である。)その業は是非必要であった。それでは、あなたがたはその業に対して、どのように感謝しているであろうか。あなたがたは、それが神の業であると感じる事が無く、当時それを神がどのように行ったかを知らなかったとしても、神がこの業を行う必要性を感じることが出来るであろうか。こうした業に神が注ぎ込んだ知恵や配慮、そして思いを感じることが出来るだろうか。(出来る。)それを感じる事が出来れば、それでよい。それで十分である。人間が感じることの出来ない物事や、見ることの困難な物事で、神が行った業は多数ある。今わたしがこう述べるのは、単に神の業に関する情報をあなたがたに与え、あなたがたが神を知ることが出来るようになるためである。こうした手がかりにより、あなたがたは神の業を一層理解することができる。

 

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神が人類のために造った基本的な生活環境-気流

2020-02-28 22:44:05 | 聖書の奥義を開く

 

   5番目の物事は何であろうか。5番目の物事は、各人に深く関係している物事であり、それ無しでは、この物質世界で人体が生きて行けない物事でもある。それは気流である。「気流」とは、おそらくあらゆる者が理解する言葉であろう。気流とは何であろうか。あなたがた自身の言葉で説明して欲しい。(気流は空気の流れである。)そのようにも説明できるであろう。空気の流れを「気流」と呼ぶ。その他の説明する方法があるだろうか。「気流」という語は、何を意味するであろうか。気流とは、人間の目に見えない風である。またそれは、気体の運動形態のひとつでもある。それも正しい。しかし、ここで話をする気流とは、何であろうか。わたしが述べればすぐに分かるであろう。地球には、山や海などがあり、地球が回ると全てが回転し、回転時の回転速度がある。あなたがたが回転していると全く感じない場合であっても、地球は間違い無く回転している。この回転により、何が発生するであろうか。人間が走ると、何が発生するであろうか。走ると耳に風を受けないだろうか。(受ける。)その通り。人間が走った時に風が発生するのであれば、地球が回転した時に風が発生しないということは、有り得ない。地球が回転する時、万物は運動している。万物は運動し、一定の速度で回転しているが、それと同時に地上の万物は継続的に繁殖し、展開している。したがって、一定速度で移動すると、当然気流が発生する。これが気流である。この気流は人体に何らかの影響を及ぼすだろうか。(及ぼす。)影響を及ぼすであろう。地球全体が平野であったとしたら、地球と万物が一定の速度で回転した場合、人体は極めて小さいので、風力に耐えることが出来ないであろう。台湾と香港は、両者とも台風に見舞われる。台風はそれほど強力では無いが、台風に見舞われると、人間は立っていることが出来ず、風の中を歩くのに困難を感じる。1歩進むのも困難である。これは、気流が人間に影響を与える形態のひとつである。地球全体が平野であったと仮定すると、地球が回転した時に発生する気流は人体が耐えうるものでは無い。その気流に対処するのは、極めて困難である。この場合、気流は人間に危害を及ぼすだけでなく、人間を破壊してしまう。このような環境では、誰も生存出来ないであろう。そうしたわけで、神は様々な地理的環境を用いて、こうした気流を解消し、気流の方向や速度、威力を変え、緩和させる。山、山脈、平野、丘陵、盆地、峡谷、高原、川など、様々な地理的環境が見られるのは、そのためである。神はこうした様々な地理的環境を適用して気流の速度、方向、威力を変化させ、それによって気流を適切な風速、風向、風力へと変化させるので、人間は通常の生活環境を得ることができる。こうしたことを行うのは、人間にとって困難であると思われるが、神にとっては容易である。なぜなら神は万物を監督しているからである。神にとって、人間に適した気流のある環境を造ることは極めて単純かつ容易である。したがって、こうした神が造った環境において、万物のそれぞれが不可欠である。つまり、万物には、すべてその存在に価値と必要性がある。しかし、サタンと腐敗した人間は、こうした思想が無い。サタンと腐敗した人間は破壊と開発を続け、むやみに山々を平野へと換え、峡谷を埋め立て、そこに高層ビルを建て、コンクリートジャングルを造り出そうとする。人類が幸福に生活し、成長し、神が人間のために用意した、人間に最適な環境において人間が幸福な毎日を送ることが、神の願いである。人間の生活環境を扱う時に神が決して不注意でないのは、このためである。人間の生活環境と身体が自然条件に起因する障害の影響を一切受けず、人類が正常に生活し、繁殖し、万物と調和して共に正常に生活できるように、神は気温から空気、音、光にいたるまで、精緻な計画を立て、精緻な采配を行った。こうした事柄は全て神により万物と人間に与えられたものである。

 

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ヨブの証によって、後の世代に警告と啓きが与えられる

2020-02-27 00:34:31 | 聖書の奥義を開く

   神がある人を完全に自身のものとする過程を理解すると、神がヨブをサタンに渡したことの目的と意味も理解するようになる。ヨブの苦しみが理解できずに悩むことがなくなり、新たな意味を見出すのである。自分達も同じ誘惑に遭わなければならないのだろうかと心配することはなくなり、神からの試みを拒絶しなくなるのである。ヨブの信仰、従順、サタンに勝利したことの証しは、人々にとって大きな助けとなり、励ましとなる。ヨブを通して、自分自身の救いの望みを見出し、信仰と神への畏れによってサタンを打ち負かし勝利することが可能であることを見出すからである。神の主権と采配に従い、全てを失っても神には背かない決意と信仰があるならば、サタンを辱めてサタンに打ち勝つことができると知るのである。また、たとえ命を失っても、証しに固く立つ決意と忍耐力だけがあれば、サタンを怯えさせて退散させることができるのも知るのである。ヨブの証しは後の世代への警告である。つまり、後の世代がもし、サタンを打ち負かすことができなければ、サタンの非難と妨害から逃れることはできず、サタンの虐待と攻撃から抜け出すこともできないという警告である。ヨブの証しは後の世代に啓きを与えた。それにより、人々は、完全で正しくさえあれば、神を畏れ悪を避けることができることを教えている。つまり、神を畏れ悪を避けるならば、力強く生き生きとした神への証しを持つことができる。そして力強く生き生きとした神への証しを持つことができれば、サタンに支配されることはなく、神の導きと守りの中に生きることができる、そうして初めて真に救われるのだということを教えているのである。救いを求める者はだれでも、ヨブの人格とヨブの人生における追い求め方を見習うべきである。ヨブがその人生全てをどう生きたか、試練の中でどう振る舞ったか、神を畏れ悪を避ける道を追求する者たち全てにとって、それは大切な宝である。

 

 

   ヨブの証が神に慰めをもたらす

   もしわたしが今ヨブを愛すべき人間だと言ったなら、あなたはその意味を理解することはできず、わたしの言葉の背後にある感情も理解できないかもしれない。だがもしヨブと全く同じ試練かそれに似た試練をあなたが経験し、逆境に直面し、神があなたのためだけに用意した試練を通り、その試練のただ中にあってあなたのすべてを捧げ、屈辱と困難に耐え、サタンに勝利して神の証しとなることがあれば、その時にはわたしの言う意味がよく分かるはずである。あなたはヨブよりもはるかに劣っており、ヨブが愛すべき人物で、見習うべき人物だと感じるだろう。その時になれば、ヨブが語ったこの言葉が今の時代に生きる堕落した人間にとってどれほど重要であり、ヨブの成したことが今日の人間にとってどれほど達成が困難であるかが分かるだろう。ヨブと同じことを達成することの難しさを感じることが出来たならば、神がどれほど心配するか、そしてそのような人々を獲得するために神がどれほどの代価を払ったか、人間のために神がしたこと、費やしたものの尊さを理解するだろう。ここまでの話を聞いて、ヨブに対する正しい理解と評価が得られたであろうか。あなたにはヨブは真に完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であると映るだろうか。ほとんどの人が、もちろんそのように映っていると言うことを信じている。ヨブの行動やヨブが示したことは、人間にとってもサタンにとっても否定できない事柄だからである。ヨブがサタンに勝利したことをそのような事柄は力強く証明しているのである。ヨブによるこの証しは、神に受け入れられた最初の証しである。それ故、ヨブがサタンの誘惑に勝利して神に証しを立てた時、神はヨブに希望を見出し、神の心はヨブによって慰められた。天地創造の時からこのヨブの時代までを通じて、神が慰めを真に感じ、人間によって慰められるとはどのようなことかを知ったのは、このヨブによる経験が初めてである。この時神は、自身に対して真の証しを立てるものを初めて見ると同時に、獲得したのである。

   ヨブの証しとヨブのいくつかの側面に関する学びを通して、大半の人々が自身の進むべき道に対して計画が立てられると信じている。それと同時に、心にある不安や恐れが少しずつ消え、心身ともに穏やかになり、心安らかになっていくことと信じている。