賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神は人間のために用意した様々な植物性の食料

2020-03-10 00:41:39 | 聖書の奥義を開く

   ここまでは、全体的な環境、すなわち神が世界を創造した後に人間のために用意した、人間の生存に必要とされる条件について話をした。5つの物事について話をしたが、この5つの物事が、全体的な環境である。次に話す内容は、肉にある人間全員の生活と密接に関連する事柄である。それは、肉にある人間の生活に一層よく当てはまり、則した必要条件である。それは、食料である。神は人間を創り、適切な生活環境に置いた。その後、人間には食料と飲料が必要であった。人間には、そうした必要性があるので、神はそれに必要なものを用意した。したがって、神の働きの各段階と神の行なうひとつひとつの業は、空虚な言葉ではなく、実際に行われたものであることが分かる。食料は人間の日常生活において不可欠であろうか。(不可欠である。)食料は空気よりも重要であろうか。(それらは等しく重要である。)それらは等しく重要である。両者は人間の生存と人間生活の維持継続に不可欠な条件と物事である。空気と水のどちらの方が重要であろうか。気温と食料のどちらの方が重要であろうか。それらはすべて等しく重要である。人間はそのいずれも欠くことが出来ないので、人間は選択できない。これは現実的な問題であり、人間が選択できるものではない。あなたは知らないが、神は知っている。あなたがそれらの物事を見た時、あなたは「食べ物無しでは死んでしまう」と感じるだろう。しかし、あなたが造られた直後にそのような状況の中に置かれた場合、あなたは食べ物が必要だということを知っているであろうか。あなたは知らないだろうが、神は知っている。あなたが空腹になり、そして木が実を付け、地面に穀粒があるのを見た時、はじめてあなたは「そうだ、食べ物が必要だ。」と意識する。あなたの喉が渇き、水を飲みたいと思った時、はじめて「水が欲しい。水はどこにあるだろうか。」と意識する。あなたは目の前に泉があるのを見つけ、それを飲む。そして「これはとても美味しい飲み物だ。これは何だろう。」とつぶやく。それが水であり、水は神が人間のために用意したものである。食料については、1日3食摂るか、2食にするか、あるいは4食以上にするかは問題ではなく、要するに、食料は人間の日常生活に不可欠なものである、ということである。食料は人体の正常な生存を維持するために必要なもののひとつである。それでは、食料は主として何に由来するであろうか。第一に、食料は土に由来する。土は神が人間のために最初に用意したものであった。土は、木や草だけでなく、様々な植物の生存に適している。神は人間のために様々な穀粒の種と食料、そして栽培に適した土を用意し、よって人間に食料を与えた。そうした食料には、何があるだろうか。あなたがたは、これについて明確に理解している必要がある。第一に、様々な穀粒がある。穀粒には何があるだろうか。小麦、粟、キビ、米など、殻のついているものである。禾穀類にも、様々な種類がある。禾穀類には、大麦、小麦、オート麦、蕎麦など、南部地方から北部地方まで様々な種類がある。様々な地域での栽培に適した、様々な種類が存在する。また、米にも様々な種類がある。南部には南部特有の様々な種類の米があり、穀粒が長く、粘り気が強すぎず、南部出身の人々に適している。南部は気候が比較的温暖なので、インディカ米などといった種類の米を食べる必要がある。米は粘り気が強いと食べ難く、食欲を失うので、粘り気は強すぎてはならない。北部の人々が食べる米は、比較的粘り気が強い。北部は気候が常に寒冷なので、粘り気の強い米を食べる必要がある。それに加えて、様々な種類の豆がある。豆は地上で成育する。また、ジャガイモ、サツマイモ、タロイモなど、土中で成育する豆もある。これらが、様々な穀類と人間の日常の食料や飲料として必要なものである。人間は様々な穀類を用いて麺、蒸しパン、米、ビーフンなどを作る。また、人間はジャガイモを食べ、ジャガイモやサツマイモを使って主食を作る。南部の人々が食べることが多いタロイモも主食とすることができる。神は、こうした様々な種類の穀類を人間に対して豊富に与えた。それほど多くの種類が存在するのは何故であろうか。そこから神の意図を見出すことができる。理由のひとつとして、東西南北で異なる土壌と気候に適合するため、ということがある。またもうひとつの理由として、これらの穀類に含まれる様々な成分が、人体の様々な成分と一致する、ということがある。人間が自分の身体に必要とされる様々な栄養素を維持するためには、こうした様々な穀類を食べることによるほか無い。北部の食料と南部の食料は異なるものの、両者には相違点よりも共通点の方が多い。これらの食料は、人体の通常の必要性をすべて満たし、人体の正常な生存を維持することが可能である。このように、各地において豊富な種類が生産されている理由は、人体の必要がこれらの食料で供給されているからである。人間は、人体の正常な生存を維持し、通常の人間生活を実現するために、土中から発育した様々な食料により共有されるものを必要とする。この点は理解できるであろうか。(理解できる。)ジャガイモは北部で生長する。北部のジャガイモは極めて高品質である。人々が食べる穀類が無い場合、ジャガイモはそうした人々の主食となり得るので、そうした人々は1日3食を維持できる。ジャガイモもまた、食料として供給することが出来る。サツマイモは、品質がジャガイモに劣るが、それでも人間はサツマイモを食料として1日3食を維持することができる。穀類が食べられない状態の時、人間はサツマイモで空腹を満たすことができる。タロイモもサツマイモと同様にして利用できる。つまり、神は人間に対して大いに配慮していた。神が人間に与えた様々な食料は、単調ではなく、極めて幅広い。シリアルを食べたければ、シリアルを食べることができる。「麺類が嫌いだから米を食べたい」と言う者が居るかも知れないが、そうした者は米を食べることができる。米には穀粒が長い米、短い米など様々な種類があり、それら全てが人間の味覚を満たせるであろう。したがって、こうした穀類を食べる場合、その者の食べ物に対する好き嫌いやこだわりが極端に激しく無ければ、人間は栄養不足にならず、老いるまで健康に生活出来ることが保証されている。それが、神が人間に食料を与えた時の当初の心であった。人体にはこうした食料が不可欠である。これは現実ではないだろうか。(現実である。)人類は、こうした現実の問題を解決出来ないが、神は既にその問題について十分に検討し、対策を完了している。遠い昔に、神は人間のための物事を用意し、それを豊富に用意した。これは事実である。

 

 

   神が人間に与えたのは穀類だけではなく、野菜もある。米を食べ、食事が米だけの場合、栄養が不足するおそれがある。そこで、野菜を炒めて小皿の料理を2種類ほど作ったり、野菜を組み合わせてサラダを作って付け合わせにしたりすれば、野菜に含まれるビタミン類や複数の微量元素その他の栄養素により、人体に必要とされる物を自然に補給することができる。人間は、主な食事以外に、果物を食べることも出来るだろう。時折、人間が追加の水分やその他の栄養素、異なる味を必要とする場合も、野菜や果物を摂取することができる。野菜や果物も、北部、南部、東部、西部で土や気候が異なるので様々な種類のものがある。南部の気候は暑すぎるので、果物や野菜の大部分は清涼な種類のもので、食べた時に人体の熱を冷ますことができる。一方、北部では果物や野菜の種類が比較的少ないが、それでも北部地方の人々が十分楽しめる種類が揃っている。そうではないだろうか。(その通りである。)しかし、近年における社会的発展やいわゆる社会的進化、東西南北の各地方を結ぶ交通機関や通信の改善により、北部の人々も、南部地方の果物や特産品、野菜を一年中食べることができる。これにより、人々は食欲や物欲を満たすことができるものの、人体には知らないうちに様々な危害が及ぶ。それは、神が人間のために用意した食料には、南部地方の人間に適した果実や野菜などの食料と、北部地方の人間に適した果実や野菜などの食料があるからである。つまり、ある者が南部地方で生まれた場合、その者には南部地方産の食料が極めて適している。神がこれらの野菜や果物などの食料を用意したのは、南部地方には特有の気候があるからである。北部には、北部地方の人々の身体に必要とされる食料がある。しかし人間は非常に食欲があるため、知らぬ間に社会的発展の波に呑まれ、そうした法則に反してしまう。人間は現在の生活が向上したと感じるものの、こうした社会的発展は潜在的な危害を一層多くの人体に加える。神はこうしたことが実現されるのを求めておらず、こうしたことは、神が食料、果物、野菜など万物を人間に与えた当初に意図していたものでは無い。これは、人間が自然の法則に反し、科学の進展を実現したことにより発生したものであり、神とは無関係である。

   神が人間に与えた物事は豊富であり、各地域に独自の特産物があった。たとえば、ナツメという名称で知られる紅棗が豊富な場所もあれば、クルミや落花生などのナッツ類が豊富な地域もある。こうした物質的な物は、人体が必要とする栄養素を供給する。しかし、神は季節や時期に従って物を供給し、かつ適切な時期に適切な分量を与える。人類は物理的な快楽を求め、貪欲であるため、神が人間を創った時からの人類の発展の正常な法則に反しやすくなっている。例としてサクランボを挙げるが、サクランボは皆知っているであろう。サクランボの旬はいつだろうか。(6月である。)サクランボは6月頃に収穫される。通常の条件下において、サクランボが出回らなくなるのはいつ頃であろうか。(8月である。)人々は、サクランボが出回り始める6月から8月の2ヵ月間のうちにサクランボを食べ始める。サクランボが新鮮な状態であるのは、2ヵ月間のみであるが、科学的手法により、人間はその期間を12ヵ月、あるいは来年のサクランボの旬の時期まで延長することが可能になった。これは、サクランボは年間を通して存在するということである。この現象は正常であろうか。(正常ではない。) それでは、サクランボを食べるのに最適な季節はいつであろうか。それは、6月から8月までの期間である。この期間以外は、サクランボを如何に新鮮な状態に保ったとしても、サクランボの味は同じではなく、人間の身体が必要とするものではない。期限日が過ぎた後は、どのような薬品を使用しても、自然に栽培された状態にすることは出来ない。さらに、薬品が人間に与える危害は、解消したり変化させたりすることは、誰も出来ないものである。この点は理解できるであろうか。現在の市場経済は、人間に何をもたらすであろうか。人々の生活は向上しているように思われ、どこへ行くにも交通の便は極めて良くなり、人々はあらゆる種類の果物を、四季を問わずに食べることができる。北部の人々は、バナナなどの食料や南部の特産品や果物を頻繁に食べることができる。しかし、こうした生活は、神が人間に与えることを望んだ生活ではない。こうした生活は、人類の科学的進歩により実現された。市場経済が人体に与える物事は、自然な発展の正常な法則に反している。市場経済がもたらしたのは、危害と災害であり、幸福ではない。この点は理解できるであろうか。(理解できる。)

   考えてみて欲しい。ブドウは市場で四季を通して売られているだろうか。(売られている。)通常ブドウが新鮮な状態であるのは、収穫後の極めて短い期間のみである。ブドウを翌年の6月まで取っておいた場合、それは依然としてブドウであると言えるだろうか。それは生ゴミであると言えるのではないか。そのブドウは、ブドウ元来の成分を既に失う一方、ブドウの薬品含有量が増えている。1年経過すると、ブドウは新鮮でないのみならず、栄養素も既に失っている。ブドウを食べるとき、人間は「本当に嬉しい。本当に満足だ。30年前、この季節にブドウが食べられただろうか。食べたくても食べられなかっただろう。なんと素晴らしい生活だろう。」などと感じるであろう。これは本当に幸福であろうか。興味があるのであれば、薬品で保存されたブドウを調べて構成成分と、その構成成分が人間に有益であるかどうかを確認すればよい。律法の時代を振り返ってみよう。イスラエルの人々がエジプトから出た時、神は道中でうずらとマナを与えた。神はイスラエルの人々がうずらとマナを保存することを許したであろうか。(許さなかった。) 一部の人々は偏狭で翌日に無くなることを心配し、多少残しておいた。「後で必要になった時のために残しておこう。」すると、どうなったであろうか。翌日には、それが腐っていた。神は、イスラエルの人々に、予備として残しておくことを許さなかった。なぜなら、神は既に、ある用意をしていたからであり、その用意によりイスラエルの人々は飢えないことが保証されていたからである。しかし、人々は確信が持てず、常に少しだけ残しておくことを望んだ。なぜなら、人々は「神の業は信頼できない。それは見ることも触ることも出来ない。今後のために少しだけ残しておいた方が良い。自分で何とかしなければ、誰も助けてくれないから、先を見越しておく必要がある。」と考えたからである。お分かりの通り、人間にはそうした確信も、神に対する真の信仰も無い。人間は常に将来のために少しだけ残し、神が人間のために用意した物事の根底にある配慮と思いを、決して理解できない。人間はそれを感じることが出来ず、神を疑い、「神の業は信頼できない。神が与えるか、与えるならそれは何時か、誰も知らない。私が空腹であるのに神がそれを与えなかったとしたら、私は飢えるのではないか。栄養が不足するのではないか。」などと言うのが常である。人間の確信が如何に少ないかが分かる。


人間生存のために神が作った最も基本的条件から、神が人類に与えるものが分かります

2020-03-09 22:40:48 | 聖書の奥義を開く

   人間の生存のためのこれら五つの基本的条件を神が取り扱った方法から、神が人類に与えるものが分かりますか。(はい。)つまり、神は人間生存のための最も基本的条件を作ったのです。同時に、神はこれらを管理し、制御し、人間が存在するようになって数千年を経た今も、依然として継続的に人間の生活環境を変化させ、人類にとって最善かつ最適な生活環境を与え、人間の生活が普通に維持されることができるようにしています。これはいつまで維持されるでしょうか。言い換えるなら、どれくらいのあいだ神はそうした環境を与えるでしょうか。神がその経営(救い)の働きを完了するまでです。その後は、神は人類の生活環境を変化させます。それは同様の方法によるかもしれませんし、あるいは異なる方法によるかもしれませんが、今人間が真に知る必要のある事は、神は人類に必要なものを与え続け、人類の生活環境を管理し、保存し、保護し、維持しているということです。神の選民がこのように普通に生活し、神の救いと刑罰、そして裁きを受けることができるのは、こうした環境のゆえです。神の支配のおかげで万物は存続し、また神がこうして与えているおかげで全人類は進歩を続けています。

 

 

   たった今わたしが話をした部分は、あなたがたに何か新たな考えをもたらしましたか。あなたがたは、今では神と人類の最大の違いを感じますか。それでは、万物の支配者は誰ですか。それは人間ですか。(いいえ。)それでは、万物の取り扱い方における神と人間の相違が何かを知っていますか。(神様は万物を支配して取り決められ、人間はそのすべてを享受します。)あなたがたはこの意見に賛成ですか。(はい。)神と人類の最大の相違点は、神は万物を支配し、すべてを与えるということです。神は万物の源であり、人間は神が与える万物を享受します。つまり、神が万物に与えるいのちを人間が受け入れる時、人間は万物を享受するということです。人類は神の万物創造の成果を享受するのに対し、神は主です。それでは、万物の立場から見ると、神と人類の相違点は何ですか。神は万物の成長様式を明瞭に見ることができ、万物の成長様式を制御し、支配します。すなわち、万物は神の目の中にあり、神の監視範囲内にあります。人間には万物が見えますか。人間に見えるものには制限があります。それを「万物」と呼ぶことはできません。それはただ人間の目に見えるものに過ぎません。もし人間が山に登ると、人間に見えるのは、その山です。その山の反対側にあるものは見えません。人間が海岸へ行くと、人間に見えるのは目の前にある海ですが、その対岸の海がどのようであるかは知りません。人間が森に辿り着くと、人間には自分の周囲と目の前にある植物が見えますが、その先に何があるかは見えません。人間は高い場所、遠い場所、深い場所を見ることができません。人間に見えるものは、目の前にあるものと、視野の中にあるものだけです。人間が一年間の四季の様式や万物の成長様式を知っていたとしても、万物を管理したり支配したりすることはできません。その一方、神の万物の見方は、あたかも神が自ら製作した機械を見るようなものです。神はそれぞれの部品について熟知しているのです。その原則が何か、その様式は何か、その目的は何かについて、神はこれらのことすべてを明白に知っています。それゆえに、神は神であり、人間は人間なのです。たとえ人間が科学や万物の法則の研究を続けたとしても、それは依然として限界のある範囲内であり、その一方で神は万物を支配しています。それは人間にとって無限です。もし人間が神が行った極めて小さな何かを研究したならば、生涯を研究に捧げても、何ら実質的な成果を達成しないことがありえます。もしあなたが知識や学習した事柄を用いて神を研究しても、神を知ることも理解することも決してできないのは、このためです。しかし、もし真理を求め、神を求める道を用い、神を知ろうとするという観点から神を見つめるのならば、やがて神の業と知恵が随所にあることを認め、また神が万物の主、そして万物の生命の源であると言われるのはなぜかを知るでしょう。そうした認識をさらに得れば得るほど、神がなぜ万物の主と呼ばれるのかを一層理解するでしょう。あなた自身を含めた万物、すべてのものは、神から安定した施しを間断なく受け取っています。また、あなたはこの世界で、人類の只中に、万物の存在を支配し、管理し、維持するこのような力と本質をもつことのできるのは、神を除いて存在しないことを明らかに感じることができます。あなたがこうした理解を得る時、あなたは神があなたの神であることを真に認めるでしょう。あなたがこの点に達する時、あなたは神を真に受け入れ、神をあなたの神であり主であるとしたのです。あなたがそうした認識を得、あなたのいのちがそのような点に達した時、神はもはやあなたを試したり、裁いたりせず、またあなたに対して要求しなくなります。なぜなら、あなたは神を理解し、神の心を知り、神をあなたの心の中で真に受け入れたからです。このことは、神の万物支配と管理に関するこれらのことを伝える重要な理由です。このことは、人々により一層の認識と理解を与えるためであり、単にあなたに神の業を認めさせるだけでなく、それについてのさらなる実践的な認識と理解を与えるためです。


神が人類のために造った基本的な生活環境-光

2020-03-08 23:46:17 | 聖書の奥義を開く

   4番目の物事は、人間の目に関する事柄、すなわち光である。光は極めて重要である。あなたがたが眩しい光を見た時、そしてその光がある程度の光度に達した場合、あなたがたは盲目になる。つまるところ、人間の目は、肉の目である。肉にある目は損傷に耐えられない。太陽の光を敢えて直視する者が居るだろうか。(居ない。) 直視してみたことのある者は居るだろうか。試しに直視した者が一部に存在する。サングラスをかければ、直視することが出来るであろう。直視するには、道具の助けが必要となる。道具が無ければ、人間は敢えて裸眼で太陽を直視しない。人間には、太陽を直視できる能力が無い。神は、人間に明るい光を与えるために太陽を造ったが、神はこの光も操作した。神は太陽を造った後、太陽をそのまま放置して無視していたということは無い。「人間の目が太陽に耐えうるかなど関係ない。」などということは、神は決してなさらない。神は極めてきめ細やかに業を行い、あらゆる側面を考慮する。神は、物を見ることができるように、人間に目を与えたが、同時に人間が見ることの出来る光度の範囲も設けた。光量が不足すると、人間の目は見ることができない。人間が目の前にある自分の手を見ることが出来ないほど暗い場合、人間の目は機能しなくなり、役に立たない。人間の目は光量が多すぎる場所に耐えられず、その場合も何も見えなくなる。したがって、人間の生活環境において、神は人間の目に適した量の光を与えた。この光は、人間の目に損傷を与えない。さらに、この光は人間の目の機能を停止させることも無く、この光により、人間が見るべきもの全てを明瞭に見ることが出来ることが保証されている。神が太陽と地球の周囲に適量の雲を加えたのは、このためであり、また空気の濃度も人間の目や肌を負傷させる光を除去することが可能である。こうした事は相互に関連している。さらに、神が造った地上の色彩もまた太陽光やその他の光を反射させ、人間を不快にする光量の一部を除去する。こうしたわけで、人間は、屋外を歩く場合や生活する時に、色の濃いサングラスを常時着用する必要が無い。通常の条件下では、人間の目は視界内の物を見ることが可能であり、光により妨害されることは無い。つまり、この光は眩しすぎることも暗すぎることも無い。光が暗すぎる場合、人間の目は損傷し、間もなく目が機能しなくなり、使えなくなる。光が明るすぎる場合、人間の目はそれに耐えきれず、30年から40年、あるいは40年から50年後には、その目を使えなくなる。つまり、この光は人間が見るのに適しており、光による目の損傷は、神の様々な手段により最低限度に抑制されている。光が人間の目に利益をもたらすか、問題をもたらすかを問わず、光は人間の目を人間の寿命に達するまでの期間にわたり耐用可能とするに十分である。そうではないか。(その通りである。)神はそのことを極めて周到に考慮していたであろう。しかし、サタンすなわち悪魔が業を行う時は、そうしたことは一切考慮しない。サタンは、何かが人間に危害を加えるかどうかなど、全く気にしない。サタンは生態環境に危害を加える業を多数行って来ており、人間は現在その一部を理解するようになった。光は眩しすぎたり、暗すぎたりして、人間の感情を全く考慮していない。

 

 

   神は視力、聴力、味覚、呼吸、感情など、人体の全側面について考慮し、人間の生存のための順応力を最大限に発揮させているので、人間は普通に生活を続けることができる。神が造った、こうした既存の生活環境は、人間の生存に最適かつ最も有益な生活環境である。こうしたことはとりわけ重要ではなく、すべて至って普通であると考える者も居るであろう。音、光、そして空気は、人間が生来持っているもの、生まれた時点から享受出来るものと感じるものである。しかし、人間がこれらのものを享受する陰で神が行った業は、あなたがたが知る必要のあることである。簡潔に言うと、これらのものを知る必要があると感じるかどうかを問わず、神がこれらのものを造った時、神は配慮し、計画を立て、一定の概念を持っていた。神は単純に、何気なく、あるいは何も考えること無しに、そうした環境の中に人間を置いたわけではない。わたしが話をした物事は、いずれも大したことが無いと考えるかも知れないが、わたしの考えでは、神が人類に与えた物事は、いずれも人類の生存に必要なものである。こうしたものには、神の業が行われている。

 

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神が人類のために造った基本的な生活環境-空気

2020-03-07 22:41:07 | 聖書の奥義を開く

   

 

   まず、神は人間が呼吸できるように、空気を造った。この「空気」は、人間が日常生活において常に接している空気ではないのか。この空気は、就寝中も含めて、常時人間が依存している物ではないだろうか。神が造った空気は、人間にとって計り知れないほど重要なものである。空気は人間が呼吸するとき毎回必要不可欠であり、命そのものに不可欠な物である。感じることのみ可能であり、目に見えない、この空気という物質は、万物に対する神の最初の賜物である。空気を造った後、神はそれで業を終わりにしたであろうか。これについては、人間の想像を超える側面が多数ある。空気を造った後、空気の正確な濃度や量を、人間の生存に応じて供給する必要があった。濃度については、まず酸素含有量の問題がある。これは物理学の問題である。神が空気を造った時、神は何を考えていたであろうか。神が空気を造ったのは何故であろうか。また神の理由付けはどのようなものであったであろうか。人類には空気が必要であり、呼吸する必要がある。まず、空気の濃度は、人間の肺に対応する必要がある。あなたがたのうち、空気の濃度を知っている者は居るだろうか。空気の濃度は、人間が知る必要のあるものでは無い。空気の濃度を知る必要は無い。その概要について知るのみで十分である。空気の濃度について、正確な数値を把握する必要は無い。まず、神は、人間の肺による呼吸に最適な濃度で空気を造った。空気は人間の呼吸に適したものにした。つまり、空気は、呼気時に身体を害さない濃度である。これが空気の濃度の根本となる概念である。空気の成分は、概して人間に無害であるので、肺や身体に危害を与えることは無い。神はそうしたこと全てに配慮する必要があった。神は、人間が呼吸する空気は円滑に人間から出入りする必要があり、また吸い込んだとき、空気の成分と分量は、血液や肺や身体内部の排気が適切に代謝されるものである必要があり、また空気には有毒な成分が一切含まれていないものである必要があると考えた。こうした2つの基準について、わたしはあなたがたに大量の情報を与えることを望んではおらず、神が万物を造った時、それぞれについて最良の物とするため、神には特定の思考過程があったということを、あなたがたに知らせたいだけである。空気中の粉じん、土中の粉じんや砂、泥、空から舞い落ちる粉じんの含有量についても、そうした物質を除去ないし分解する方法に関し、神には計画があった。神は、粉じんが多少含まれて居ても、それが人間の身体や呼吸を阻害することなく、また粉じんが人体に危害を加えない大きさとなるようにした。神による空気の創造は神秘であっただろうか。(神秘であった。)それは、神が口から空気を吐き出すだけの、簡単な作業であっただろうか。(そうではなかった。) どれほど単純な創造物であっても、そこには神秘や神の心、神の考え、神の知恵が見られる。神は現実的であるだろうか。(現実的である。)つまり、単純な物を造る時でも、神は人類のことを考慮していた。第一に、人間が呼吸する空気は汚染されておらず、毒性が無く、人間の呼吸に適したものであり、人間に危害を与えず、またその濃度は人間の呼吸に合わせて調整されている。人間が呼吸する空気は人間の身体に不可欠である。したがって人間は制約や懸念なく、自由に呼吸することができる。人間は普通に呼吸可能である。空気は神が最初に造ったものであり、人間の呼吸に不可欠なものである。

 

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神が隠されていてもヨブの信仰は揺るがない

2020-03-06 00:11:32 | 聖書の奥義を開く

ヨブは神のことを聞いて知っていた

   (ヨブ記9:11)「見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない。」

   (ヨブ記23:8-9)「見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない。」

   (ヨブ記42:2-6)「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。

 

 

神がヨブに自身を現さなくてもヨブは神の主権を信じた

   この言葉が言わんとすることは何か。ここにはある事実が含まれることに気が付いた者はいるだろうか。まず、ヨブはどのようにして神がいることを知ったのか。そして彼はどのようにして天と地とあらゆるものは神によって支配されていると知ったのか。ふたつの聖句にその答えを見つけることができる。「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」(ヨブ記42:5-6)。この言葉から、ヨブが直接神を見たというより、言い伝えから神を知っていたということが分かるが、そのヨブが神の道を歩み始める中で、神が自分の人生の中において実際に存在し、すべての中に存在することを確信するようになる。ここには否定できないひとつの事実があるが、それは何であろうか。神を畏れ悪を避ける道を進んでいたヨブだが、神を見たことは一度もなかった。この点で、ヨブも今日の人間も同じではないだろうか。ヨブは神を見たことがなかったということは、ヨブは神について聞いてはいたが、神がどこにいるのか、どのような存在か、何をしているのかといった主観的要因に関しては知らなかったのである。客観的には、ヨブは神に従い、神はヨブに現れたこともなく語ったこともない。これは事実ではないか。神がヨブに語ることも何らかの命令を下すこともなかったが、ヨブは神の存在を知っており、すべてのものとヨブが耳にした言い伝えに神の主権を認識しており、その後に神を畏れ悪を避けるようになった。そのようにしてヨブは神に従うようになったのである。ヨブがどれほど神を畏れ悪を避けても、どれほど高潔でも、神がヨブに現れることはなかった。次の箇所を読むと、ヨブは「見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない」(ヨブ記9:11)と言った。つまり、ヨブは神が近くにいるのを感じたかもしれないし、そう感じなかったかもしれないが、とにかくヨブは神を見たことはないということである。神が自分の前を通り、或いは行動し、人を導くのを想像したことはあったが、実際にそれを見たことはない。神は人間が予想しない時に来る。神がいつ来るのか、どのに来るのか、人には分からない。人には神が見えないからである。そのような訳で、神は人からは隠されているのである。

神が隠されていてもヨブの信仰は揺るがない

   次の聖句でヨブはこう言っている。「見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない」(ヨブ記23:8-9)。ヨブの経験の中で神がずっと隠されていたことがこの記述から分かる。神は公然とヨブの前に現れることもなく、ヨブに言葉を語ることもなかったが、ヨブは神の存在を確信していた。目には見えなくても、神は自分の前を歩いていたり、傍らで行動していたりし、自分のすぐ側で支配していると信じていた。ヨブは神を見たことはなかったけれども心から信じ続けることができた。これは他の誰にもできなかったことである。なぜ他の人たちにはそれができなかったのだろうか。神はヨブに語ることも現れることもなかったのだから、ヨブが本当に信じていたのでなければ、耐え続けることも、神を畏れ悪を避ける道に固く立ち続けることもできなかったであろう。そうではないだろうか。ここに書かれているヨブの言葉を読んでどう感じるだろうか。ヨブの神に対する完全さと正しさと義が真実で、神を過大評価しているからだとは思わないだろうか。神はヨブに対して他の人々と同じように扱い、ヨブに現れたり語ったりすることはなかったが、それでもヨブは神に高潔であり続け、神の主権を信じつづけ、更には神を怒らせたかもしれないという恐れから全焼のいけにえを頻繁に捧げて祈ったのである。神を見ないままに神を畏れたヨブに、ヨブがいかに善なるものを愛したか、いかにその信仰が堅く本物であったかが分かる。神が自分から隠されているからといってヨブは神の存在を否定することはなく、神を見たことがないからと言って神への信仰を失ったり神に背いたりすることはなかった。それどころか、すべてを支配するという神の隠れた働きに神の存在を認識し、神の主権と力を感じたのである。神が隠されているからと正しさを捨てることもなく、神が一度も現れたことがないからと神を畏れ悪を避ける道から外れることもなかった。ヨブは神が公然と現れてその存在を証明して欲しいと願ったことはなかった。すべてのものにおける神の主権を知っており、他の人々にはない祝福と恵みを自分が受け取っていると信じていたからである。神はヨブに隠されたままであったが、だからと言ってヨブの神への信仰が揺るいだことは一度もなかった。そのような訳で、ヨブは他の人々が得たことのない報い、つまり神からの承認と神からの祝福を得たのである。

 

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