賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書物語ーイエスは信じないトマスに現れる

2020-05-24 22:51:07 | 聖書の言葉

弟子たちに現れる

   その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

 

 

イエスは信じないトマスに現れる

   十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

   イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。


聖書の言葉-道であり、真理であり、命である・ヨハネによる福音書 14章6節

2020-05-08 22:35:50 | 聖書の言葉

   聖書の言葉

   イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」。

   ヨハネによる福音書 14:6

 

   我々みな主イエスが受肉したキリスト、天の神様が肉となって地上に来られたことを知っています。キリストが神様の霊の化身だからこそ、神性の本質を備えています。神様の霊は全能と知恵、神様の性情、神様の持っているもの、神様であるものは全てキリストと一になっています。そのために主イエスがこう言われました「わたしは道であり、真理であり、命である。」我々に神様の本質は真理、道、命であることを教えています。

   恵みの時代のことを振り返し、主イエスが地上に来られ、多くの真理を発し、主に憐れみと慈しみの性情を発し、我々に天の国に入る要求、どのような人が神様に喜ばせる人か、十字架につけられて全人類を贖う働きを完成することを教わっています。主イエスの言葉と働きから私たちは神様であるものを認識することができ、神様が愛で、人類に対する憐れみと慈しみに満ちていることが分かりました……これこそ神様だけが真理を発し、神様だけが真理、道、命なのです。御言葉が言われた通りです。「このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」

   そのために、私たちは「キリストが真理、道、命である」ことが認識できたら、終わりの日に私たちは主イエスが再臨することを証ししているのはみな偽もので、主の現れを罪定めにすることはなく、偽キリストに惑わされる恐れもなく、なぜなら偽キリストは真理、道、命ではなく、彼は人に道をもたらすことができず、うそつき、人を欺き惑わずしかでないからです。

 


聖書の言葉ーわたしの羊は私の声に聞き従う・ヨハネによる福音書10章27節

2020-04-06 11:45:15 | 聖書の言葉

  聖書の言葉

   わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。

ヨハネによる福音書10:27

 

   主イエスのこの言葉は私たちに神様を認識し、主の再来を迎える現実的な道を示し、それは神様の声を聞き分けることです。主イエスが来られて働きをなさる時、ペテロ、ヨハネ、サマリアの女とナタナエルなどのように、主イエスの語った言葉、主イエスの行いを通して、主イエスが権威と力を持っているそのお方であり、主イエスが預言の中に預言された来たるべきメシアであることがわかり、それによって主に付き従い、主イエスの救いを得られたのです。しかし、それら宗教パリサイ人、律法学者は主イエスの権威と力を持っている言葉を聞いたが、彼らは自分の観念と想像によって神様を決めつけ、メシアと呼ばない限り神様ではないと思い、また主イエスに抵抗し、主イエスを十字架につけ、神様の性質を侵害し、イスラエル破滅へとつながりました。この歴史の教訓は私たちに、主の再来を迎える肝心なところは、神様の声に耳を傾けることを重視すべきであることを教えています。聖書にはこう書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう。」(ヨハネの黙示録2:7)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)このことからわかるのは、終わりの日に主が再来され言葉を語って私たちに戸を叩くのです。もし私たちは聖霊が諸教会に告げる言葉を尋ね求め、神様の声を聞くことができれば、神様の出現を迎え、子羊の足跡をたどったのです。まさに神様が言われた通りです。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは『神は真理であり、道であり、いのちなのです』という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。」


聖書の言葉ーあなたは終わりの日の教会の荒廃の根源を知っているのか

2019-12-23 19:07:24 | 聖書の言葉

  聖書の言葉

   ヤーウェ神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。」

アモス書8:11

 

   感得:この聖句は人が霊的飢え渇き、否定的となり弱くなっている状態の中で生き、教会の荒廃の根源の原因になることを言いました。重要なことは、人が神様の言葉と働きを尋ね求めず、さらに神様の言葉を聞かず、神様の言葉の供給を失い、飢饉の中に陥ったのです。当時律法の時代の末期の神殿が荒れ果てる時の光景みたいです。なぜなら、神様がすでに神殿から離れ、つまり主イエスが神殿の外で言葉を語り贖いの働きをなさい、神様の新しい働きが展開したら、聖霊は神殿の中で働かず、主イエスの働きを維持するのです。それら主イエスに付き従う人々は、いのちの生ける水の供給を得られ、霊に満たされ、聖霊の働きの平安と喜びを享受することができました。しかも、それは先祖代々神殿の中で神様に仕えた祭司、律法学者、パリサイ人、またそれらのユダヤ人は、彼らはただ律法に固執し、主イエスの言葉と働きを拒否し、いのちの供給を得られず、聖霊の働きを失って、飢饉の中に生き、神殿は強盗の巣になったのです。彼らは主イエスに従わないだけではなく、主イエスの働きに抵抗し、罪に定め、主イエスを冒涜し、最終的にローマ政府と結託して、贖いの働きをなさる主イエスを生きたまま十字架に釘づけにし、凶悪犯罪を犯し、神様に呪われてしまったのです。

 

 

   今の宗教界を見てみましょう。ある牧師と長老、説教者は集会の時に、聖書の知識、神学理論を少し解説して、自己顕示し、自分を証し、人々に自分を崇拝させます。しかし、主の道を守らず、主の御言葉を言い伝えず、少しも主を証し、崇めることがなく、兄弟姉妹が聖書の働きと言葉を尋ね求めることをも導かないため、兄弟姉妹がいのちの生ける水の供給を得られなくなり、皆否定的となり弱くなっている状態の中に生き、信仰と愛が冷め、多くの人は世界の邪悪な流れに従い、金銭や名利、肉の享受を追い求め、罪のはかない歓楽にふけ、罪の中に生きていて抜け出すことができず、罪の深い淵に落ち、当時の神殿の荒廃の光景が再現しています。私たちは思わずこう考えます。今主の再来の預言はすでに実現され、主の再来を迎える肝心な時ですが、私たちは聖霊の働きを失って主の臨在がなくなり、これは本当に容易に主に見捨てられるでしょう。それでは、私たちはどのようにして主の足跡に付き従い、聖霊の働きを得られ、いのちの生ける水の供給を得ることができるのでしょうか。主イエスの言葉を思い出しました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14:6)「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)主の言葉から私たちは、キリストは真理、道、いのちであり、神様の羊は神様の声を聞くことがわかりました。私たちは神様の足跡に付き従い、神様の出現を迎えたいなら、パリサイ人の信仰を失敗した教訓をくみ取り、終わりの日の主の再来の言葉と働きに対して、私たちは神様を畏れ敬う心を持って尋ね求め考察し、神様の声を心に留めれば、主の再来を迎える機会を得られ、いのちの生ける水の供給と注ぎを得られるのです。まさに神様が言われた通りです。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」


どのように聖書を正しく取り扱うべきか

2019-12-06 22:27:50 | 聖書の言葉

聖書は神様の働きを記録された本である

   聖書は、キリスト教の唯一の宝典であり、旧約聖書と新約聖書二つの主要な部分が含まれ、主に神様が行った二つの段階の働きを記録されており、一つはヤーウェ神が律法の時代での働き、もう一つは主イエスが恵みの時代での働きです。



   旧約聖書は、神様が律法の時代で行った働きを記録されています。「創世記」から「マラキ書」までは、ヤーウェ神が律法の時代での働きのすべての記録です。旧約時代では、神様は二つの働きを行い、一つは創造の働き、神様が言葉によって天地万物を創造され、言葉が話されるやいなや、すべてのことが成し遂げられ、言葉と事実は同時に起こります。もう一つは神様が律法を発布され人間の生活を導く働きです。最初の人間はどうやって生活するかを知らず、ヤーウェ神はモーセを用いて律法と戒めを発布され、人間の生活を導かれます。律法の導きの下で、人間は罪とは何か、どのように戒めを守るべきか、どのように神様を礼拝すべきかなどを理解し、神様の導きがある生活を送り始めました。

   新約聖書は神様が恵みの時代での働きを記録されています。主イエスは、受肉して人々の間に来られ、天国の福音をもたらし、人々に悔い改めの道を伝え、私たちは主イエスがなさった働きを受け入れて、神様に罪を告白し、悔い改めれば、罪が赦され、律法違反によって死刑を宣告される危険を免れました。主イエスが働きの間に多くの奇跡やしるしを行い、例えば、風と荒浪をなぎにさせ、五つのパンと二ひきの魚で五千人を満腹させ、死者を復活させたなど、人々に豊かな恵みをもたらしました。主イエスの働きは主に四つの福音書に記録され、私たちは四つの福音書を読んでこそ、主イエスがキリストであり、受肉した神様であることを認識できます。主イエスは私たちを贖うために、十字架で釘づけにされ、私たちに神様の憐れみと慈しみの性質、神様の人類に対する本当の愛を認識させます。

   それ以外に、聖書の黙示録は神様が世の終わりになさる働きを預言されています。ヨハネの黙示録にはこう書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。」(ヨハネの黙示録2:7)「大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』。 」(ヨハネの黙示録14:7)この二つの聖句から、私たちは主が戻って来られる時に、言葉を語り裁きの働きを行われ、神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れてこそ、神様の終わりの日の救いを得られて、天国へ引き上げられることが分かりました。

   聖書を読むことを通して、私たちは神様のなさった働きを理解でき、神様の全能と支配、奇しき業に対して本当の認識を少し得られ、神様の私たち人類への愛、私たちを救う意図に対しても少し認識でき、心から神様に感謝すると共に、一生涯を神様に付き従い、神様を愛することを願っています。確かに聖書は私たちが神様を認識する仲介です。

聖書の言葉はすべて神様の言葉ではない

   ヤーウェ神の言葉、主イエスの言葉は聖書に記録されているが、ヤーウェ神と主イエスの言葉の他に、一部は預言者の預言と神様に使われた人の経験と認識があります。神様の言葉は真理であり、正しく間違いないが、人の言葉には人の意志の混じり、或いは誤差があることを免れません。例えば、弟子マタイが記録した主イエスの系図、主イエスがアブラハムの子孫、ダビデの子孫、ヨセフの子(マタイによる福音書1:1−16)であったと述べているが、主イエスは自分がダビデの子孫であることを認めません。(マタイによる福音書22:41−45)主イエスは聖霊によって身ごもられ、受肉した神様であり、どうして系図があり得ようか。またマタイによる福音書に記録したペテロが主を三回に渡り否定したことと、マルコによる福音書に記録したことと違いがあります。(マタイによる福音書26:75、マルコによる福音書14:72)そして、聖書にはベビがエバを誘惑する言葉、サタンの言葉、ロバがバラムへの言葉があり、そのため、私たちは聖書に対して純粋に受け入れ、聖書の言葉を皆神様の言葉として取り扱ってはならず、もし聖書の言葉を神様の言葉として取り扱えば、これは私たちの間違いです。

聖書の著者は人である

   聖書の著者は約40名余り、これらの人は預言者、使徒、弟子などいます。聖書の中に、ヤーウェ神の言葉、主イエスの言葉、及び神様が直接預言者に啓示された言葉を除き、残りは皆歴史の記録と人の経験と認識です。例えば、新約の四つの福音書は一部の著者は本人が主イエスの教えを聞いた後に記録したもの、一部は伝道者の説教により、本人が考察した後に書いたもの、神様が直接彼たちに啓示されたものではありません。(ルカによる福音書1:1−2)そのため、聖書の著者は人であり、神様ではありません。

まとめ

   上記の交わりを通して、私たちは聖書の一部が神様のなさった働きを記録した書籍であることを認識でき、聖書の言葉はすべて神様の言葉ではなく、中には人の言葉があり、聖書の著者は神様ではなく、人です。そのため、私たちは正しく聖書を取り扱い、聖書を神様として取り扱ってはなりません。