賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ぶどう園の労働者のたとえー私は主の御心を理解している

2019-12-01 22:29:34 | 聖書の言葉

   ある晩、私は神様に祈ってから机に向かい、イエス様が(マタイによる福音書20:1~16)で語られたたとえ話を読みました。その話では、天の御国が労働者を雇うぶどう園の主人にたとえられています。労働者たちがぶどう園に入るのが朝一番であれ、午後であれ、晩であれ、賃銀は同じであり、最初に来た労働者たちはこのことを知ると主人に不平を言いますが、主人はこう答えます。「自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか。 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」(マタイによる福音書20:15-16)。聖書のこれらの行を読んで、私は眉をひそめ、こう思わずにはいられませんでした。「神様への信仰を長いあいだ実践し、主のために多くのものを捨てて費やし、長年骨折って働いている者たちは、あとに来た者たちよりも多く報われるべきだと言うのは理に適っている。しかし聖書には、先に来る者も後から来る者も賃銀は同じだと記されている。これは神様が後から来る者たちを意図的にえこひいきされているのではないか」。私はこれらの御言葉にとても混乱しました。これらの御言葉を語られた主の御旨がどういうものか分からなかったのです。



   ある日、私は同じ教会の信者とばったり出会い、話す中で、自分が長年困惑していた疑問について語りました。すると彼はこう言いました。「私もそのように誤解していたんだ。最近まで神様の御心を理解していなかったけれど、ある本を読んで真理のこの側面が分かるようになった」彼はそう言いながらその本を鞄から出し、私にある一節を読んでくれました。「あなたが神の言葉をどれほど聞き、真理をどれほど受け入れることができて理解し、現実をどれほど生き、どれほど多くの成果を得ていようと、一つの事実がある。神の真理と道といのちは一人ひとりに進んで授けられ、それは誰にとっても公平である。ある人が長く神を信じ、別の人がそれより短い期間しか神を信じていないからといって、神が前者をひいきすることはなく、年齢、外見、性別、生まれた家庭、家庭環境などのために、違う接し方をすることもない。誰もが神から同じものを得る。神は誰かがより少ないものしか得られないようにしたり、より多くのものを得られるようにしたりはしない。神は誰に対しても公平で公正である。神は適切なときに適切な分だけ人間に糧を与え、彼らが飢えたり、寒い思いをしたり、喉が渇いたりしないようにして、人間の心が必要とするものをすべて満足させる」(「人間は神の経営計画における最大の受益者である」より)

   読み終わると、彼はこう続けました。「長いあいだ主を信じ、主のために自分をもっと費やした人たちが、それより短い期間しか主を信じず、主のために自分を費やすのがより少ない人たちと同じ報いしか受け取らないのであれば、神様はえこひいきをされているのではないかと、私も昔は思った。しかしその一節を読んで、ようやく神様についての誤解が解けたんだ。実際のところ、神様は一人ひとりを公平に扱っておられ、新しい信者であろうと長年神様を信じてきた者であろうと、家庭環境がどうであろうと、がいけんがどうであろうと、誰一人えこひいきなさることはない。神様はいつも各人の必要に応じて糧を与えてくださる。神様が人類を救う働きをなさりながら人に授けてくださる真理も同じで、また同様に、神様は私たち一人ひとりのために環境と機会を采配してくださる。私たちが最終的に真理を獲得できるか否かは、私たち自身が真理を愛して求めているか、主の御言葉を実践できるか否か、そして主の御心とお求め通りに本分を尽くせるかどうかにかかっている。もし真理を愛さず、真理を求めなければ、私たちは神様に託されたことを御心通りに行うことができないし、自分の観念に合致しない事柄に遭遇すると神様の御心をじっくり考えようとも探し求めようともせず、自分の頭で物事を分析して、おそらく神様を誤解して責めさえするだろう。そのようなことをする者は、たとえ長年神様を信じて大いに骨折って働いても、結局は何も得られず、真理を獲得するために神様から授かる機会を失いさえするだろう。神様の目から見て、このような人々は悪を行う人であり、神様に淘汰され懲罰されるしかない。一方、神様を信じてきた期間がまだ短くても、真理を渇望して探し求める心の持ち主もいる。彼らは自分に何かが起きたとしても、常に神様に祈って真理を求めることができ、ひとたび神様の御心を理解すれば、御言葉に従って実践することができる。このような人は神様に従っているから、堕落した性質が少しずつ変わり、真理を獲得し、正常な人間性を生きる。このような人が良き終着点を得るんだ。

   私は、神様がイスラエル人をエジプトからカナンに向かって荒野へと導かれたとき、人々に尊敬されていたあの強壮な男たちと背の高い『戦士たち』が、神様の御心を求めるどころか神様を責めたこと、そして結局は荒野で死んだことを思い出した。しかし一方、まったく従順で、神様の御言葉に従って実践し、神様の指揮と采配に従った女と子供たちは、最後には良きカナンの地に入った。また、ユダヤ教の祭司長や律法学者やパリサイ人は聖書に精通し、律法を熟知しており、中には福音を広めるために地の果てまで旅をし、自分たちは誰よりも長く神様を信じ、骨折って働いてきたとか、誰よりもメシアを迎えて神様に選ばれる資格があるのだとか思い込む者もいた。しかし、主イエスがおいでになって働きをなさったとき、彼らは主イエスの御言葉に権威と力があることを知っていたが、頑固で傲慢だった。自分たちの立場を捨てて真理を求めるのを拒み、神様の新しい働きを受け入れず、自分たちの聖書の知識を駆使して主の新しい働きを断罪し、それに反抗しようとさえした。挙句の果てには、自分たちの立場と生活を守るために主を十字架に釘付けにし、その結果、主に呪われ懲罰されることになった。しかし、主によって選ばれた弟子たちや、主に従ったユダヤの人々や、イスラエル以外の諸国民は、パリサイ人よりも神様を信じてきたが短く、聖書の知識も彼らと同じほどはなく、パリサイ人のように骨折って働いた経験も、地の果てまで旅をして福音を伝えた経験もなかったが、皆それでも神様を畏れる心があった。そして真理を渇望して探し求めたため、主の救いを受けた。

   以上のことから、誰がもっとも長く神様を信じたか、あるいは誰が最も費やし、骨折り、働いたかに基づくことで、神様の報いと祝福を得る資格が誰にあるのかを判断できる、という見方は真理と合致しないことがわかる。これは誤った考え方なんだ。神様がこれらの外面的な要素に基づいて報いと懲罰を与えたり、人々の結末を決めたりされることは絶対にない。むしろ、私たちが神様を信じることで真理を得たか否か、私たちが神様の御心を行なう者であるか否かをご覧になる。それはこの本で言われている通りだ。「わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない」(「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より)「人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に従う限り、神は最も義であるから、人間に対して不公平なことは決してしないと言う。人間が最後まで神に従ったならば、神は人間を見捨てられるであろうか。わたしは全ての人間に対して公平であり、全ての人間をわたしの義なる性質によって裁くが、人間に対する要求には適切な條件があるので、全ての人間は、わたしの要求することを達成しなければならない。わたしは、あなたの資格がどれほど幅広いか、立派であるかということには気を留めず、あなたがわたしの道を歩んでいるか、真理を愛し渇望しているかどうかだけを考慮する。」(「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)

   これらの二節は、神様が人間を判断なさる基準と、神様の人間に対する態度をはっきり説明している。神様は義にして聖なる性質をおもちであり、一人ひとりに対して公明正大でいらっしゃる。人を地位の高低や年功、信じてきた期間の長さや、受けてきた苦しみの大きさをご覧にはならない。むしろ、人が真理を求めているか否か、神様を愛し、神様に従う心があるか否か、万事において神様の御心を考慮し満足させられるか否か、そして神様への信仰によって最終的に真理を獲得するか否かを見ておられる。神様を信じる私たちのうち、牧師であれ長老であれ一般信者であれ、真理を渇望して探し求める謙虚で従順な者は、その一人ひとりが神様の啓きを受け、後からぶどう園に来た者たちのように神様の祝福を受けることができる。長いあいだ神様を信じていても真理を求めるどころか邪説にしがみつき、自分の観念や想像の中で生き、自分の年功や資格を誇示する者は、どれほど苦しみを受け、どれほど自分を費やし、どれほど資格があっても、結局は真理を得られず、皆淘汰されるだろう。これは不変の事実であり、神様の義なる性質によって決められたことだ。

   彼の交わりを聞いた私は、神様の働きがいかに自分の観念と合致しなくても、神様は依然として義であって、私たちは神様がなさることに選り好みをしたり疑念をもったりしてはならず、自分の観念を捨て、求め、従うべきなのだと理解するようになりました。それはまさにヤーウェ神がおっしゃったとおりです。「ヤーウェであるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」(エレミヤ書17:10)また箴言15章3節には「ヤーウェの目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている」とあります。神様は私たちの心と思いを見ておられ、私たちを徹底的に理解されており、誰が真に神様を信じ、誰が真理を愛し、誰が偽善者で真理を憎むかを一番よくご存知です。神様が私たちの結末を決められる基準は、私たちがどれほど長く神様を信じてきたかや、どれほど多く働きを行ってきたかではなく、むしろ私たちが本質的に真理を愛するか否か、また神様への信仰を通して最終的に真理を獲得するか否かなのです。これは実に適切です。いまや私は、神様はぶどう園に先に来る者も後から来る者も賃銀を同じにすることで、後から来る者をえこひいきなさったという自分の観念が誤りだったことを知っています。

   私の心にあったこの謎を解いてくださった神様に感謝いたします。神様にすべての栄光あれ!


イエスが十字架につけられた時に言われた「すべてが終わった」は何を表しているのか

2019-11-30 21:55:42 | 聖書の言葉

   イエスが十字架の上で『すべてが終った』と言ったのは、人類を救う神の働きが完了したという意味であったと多くの兄弟姉妹は信じています。しかし、本当にそうだったのでしょうか。イエスが『すべてが終った』と言った本当の意味は何だったのでしょうか。この記事は主イエスの十字架上の『すべてが終った』という言葉の本当の意味を明らかにします。どうぞお読みください。




   午前七時、ワン・シュゥは娘フイ・ミンの家へと急いでいました。つい三十分前に牧師のツァンが家に来て、彼女の娘と義理の息子が東方閃電を受け入れたと伝えたのです。これはワン・シュゥにとって大きな驚きでした。彼女はこう思いました。「東方閃電のメンバーは、主イエスが戻られ、御言葉を表し、人を裁き清める御働きをされているという証しをしている。でも主イエスは十字架に掛けられたときに『すべてが終った』とはっきり言われた。これは神様の人類を救う御働きがすでに終わったことを示している。新しい段階の働きをされるために主が戻られるなどということがあるだろうか。娘と婿は聖書にかなり精通していて、真剣に真理を追求している。思慮深く識見があるから、盲目的に決定を下したはずがない。なぜ東方閃電を受け入れたの。一体どうなっているの」ワン・シュゥは非常に困惑し、できるだけ早くその理由を知りたかったので、急いでそのフイ・ミンの家に向かいました。

   三十分後、ワン・シュゥは娘の家に到着しました。中に入るとすぐにワン・シュゥは単刀直入に娘に聞きました。「ツァン先生が明け方にやって来て、あなた達が二人とも東方閃電を受け入れたと言ったけど、本当なの?」

   書斎で読書をしていたリ・ジュンは義母の声を耳にし、部屋から出てきました。フイ・ミンは母親の表情がやや険しいことに気付き、その手を取って座りました。そして微笑みながら言ったのです。「そうよ、お母さん。私達は東方閃電を受け入れたの。最近、リ・ジュンも私も全能神の御言葉を読んでいて、全能神の御言葉は神様の六千年の経営計画(救い)の奥義、神様の受肉の奥義、神様の三段階の御働きの奥義、終わりの日に神様は人を清め救うためにどのように裁きの御働きをされるのか、人類の最後の終着点などの神様による人類の救いの全ての真理と奥義を明かしているということがわかったの。全能神の御言葉を読めば読むほど、それが真理で力と権威があり、神様の声であると感じるの。お母さん、私たちが本当に長い間待ち望んでいた主イエスは受肉した全能神として戻って来られたのよ。お母さんも勉強してみたら」

   ワン・シュゥは娘の話を聞くと、少し表情を柔らげて言いました。「フイ・ミン、私たちの教会は今では荒れ果てる。だからもし聖霊の働きがある教会を探しに行っても、引き止めないわ。でも東方閃電は主が戻られて、人を裁き清める段階の御働きをされていると説いている。どうしてそんなことがあり得るの?主イエスが十字架に掛けられた時、『すべてが終った』とはっきりおっしゃったでしょう。これは人類を救う神様の御働きが終わったことを意味してるのよ。私たちが主に罪を告白して悔い改める限り、私たちの罪は赦されるのよ。主が戻ってこられたら、すぐさまに私たちを天国へ引き上げてくださるわ。主が新しい御働きをされることはないのよ。これは牧師の先生や長老方もお説教でよく仰ってることだわ。それなのに、どうして忘れてしまったの?どうして東方閃電の道を受け入れるなんてことができるの?」

   リ・ジュンは微笑み、言いました。「お義母さん、私たちは今までずっと宗教界の牧師や長老に従って、十字架に掛けられた主イエスが『すべてが終った』と言われた意味は、人類を救う神の御働きが終わり、主が戻られたときにはすぐに私達を天国に引き上げてくださり、新しい御働きはされないということだと信じてきました。でもこれは主の御言葉の本来の意味に合ってますか?神様の御働きの事実に合ってますか?主イエスが十字架の上にいらっしゃったとき、ただ『すべてが終った』と言われただけです。人類を救う神様の御働きが完全に終わったとはおっしゃっていません。それなのに牧師や長老は主イエスが語られたこの言葉をもとに、神様の御働きはもう終わったので主が戻られても新しい御働きはされないと決めつけています。これは、あまりに主観的な主張ではありませんか?ただ自分たちの希望に合わせて主の御言葉を解釈しているだけじゃありませんか?お義母さん、考えてください。主イエスが『すべてが終った』と言われたのが人類を救う神様の御働きが終わったことを意味するのなら、主が戻ってこられたとき、羊と山羊を、麦と毒麦を、忠実なしもべと悪いしもべを分けるという預言を成就するお働きをどうやって達成なさるのでしょうか?主イエスはこのような預言もされています。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)『わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう』(ヨハネによる福音書12:48)』そして、ペテロの第一の手紙4:17には『さばきが神の家から始められる時がきた』と記されています。これらの御言葉は、主が戻ってこられたときに真理を示し裁きの御働きを行われることを明確に伝えています。もし牧師や長老の理解に従って、主イエスが十字架上で『すべてが終った』と言われたのは主はそのときに人類を救う御働きを終えられ、新たに御働きになる必要はないという意味だとしたら、これらの預言はどうやって成就するんですか?真理を示して裁きの御働きをするために戻るという主の預言は何の意味もないということになりませんか? そう考えると、宗教界の解釈は主の御言葉を否定し、終わりの日の主の救いを否定していることになりませんか?だから、主イエスが十字架の上で『すべてが終った』と言われたからといって人類を救う神様の御働きが終わったとは断言できないと思います。それは私達の想像であって、主の意図に沿いません。私達が自分たちの希望に沿って神様の御働きを制限するのなら、神にいどむことになりますよ!」




   ワン・シュゥはリ・ジュンの取り上げた聖句について思いめぐらし、考え込んでしまいました。「そうよね。何年も牧師や長老の言うことだけに耳を傾けて、十字架の上で『すべてが終った』と言われた主イエスが意味されたのは、神の人類を救う御働きが完成し、決して新しい御働きはされないということだと信じてきた。でも、娘と婿がたったいま引用した主の預言は、主が戻られたときに、真理を示し裁きの御働きをされると確かに言ってる。そうだとすると主が『すべてが終った』と言われたとき、正確には何を意味されたの?」そんなことを考えながら、ワン・シュゥは二人に自分の困惑を話しました。

   ワン・シュゥが真理を求め始めたのを見て、二人は明るく微笑み、フイ・ミンが根気よく話しました。「お母さん、主イエスが十字架の上で『すべてが終った』と言われたとき、実は恵みの時代の贖いの御働きが終わったと言われたのよ。私達が主イエスの御働きを受け入れ、主に罪を告白し悔い改める限り、私達の罪は赦され、主に祈ることを許され、主がくださる豊かな恵みと真理を謳歌することができるの。これは主イエスが贖いの御働きをされることで成し遂げられ成果です。ただ、主イエスの贖いの御働きが終わったからと言って、人類を救う神の御働きが終わったわけではないわ。一緒に全能神の御言葉を二節ほど読んでみましょう。そうするともっとよく理解できるから」そう言って、フイ・ミンは寝室から『言葉は肉において現れる』という本を持ってきました。彼女はそれを開き、読み始めました。「人にとって、神の磔刑は神の受肉の働きを終結させ、全人類を罪から贖い、神がハデスへの鍵を握るようにした。誰もが神の働きは完全に成し遂げられたと考えている。実際は、神にとっては、働きのほんの一部が成し遂げられたにすぎない。神は人類の罪を贖っただけである。人類を征服しておらず、ましてや人の中のサタンの醜さを変えていない。そのため神は「人となったわたしの肉体は死の苦しみを経験したが、それは受肉の目標のすべてではなかった。イエスはわたしの愛する子で、わたしのために十字架にくぎで打ちつけられたが、イエスはわたしの働きを完全には終了しなかった。その一部を行ったに過ぎない」と言う。」(「働きと入ること(6)」より)「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。」(「受肉の奥義(4)」より)

   読み終えると、フイ・ミンは次のように話しました。「全能神の御言葉はとても明確よ。主イエスによって行われた贖いの御働きは、人類を救うという神様の御働きの半分だけを完了させたの。私達の罪は主イエスの贖いを通して赦され、もはや明らかな罪を犯さないし、外見では良い振る舞いをするけれど、罪の束縛を完全に解いたわけではないのよ。私達は傲慢で慢心して、利己的で卑劣で、インチキしてごまかそうとする堕落した性質に支配されている。自分の利害や威信を守るために嘘をつき、人を騙す。自分よりも優れている人を見ると、嫉妬してその人の言うことなんか聞こうともしない。利益を脅かす人がいるとそっくり仕返しをしたいくらいに憎む。それに私達は世の中の邪悪な潮流に従い、富に固執し、虚栄心に満ち、名声と幸運を欲しがる。自然災害や人災が降りかかったり不幸なことが起きると、神様を誤解して非難し、自分の観念や想像をもとに神様の御働きの良し悪しを決めたり非難したりする。こんな振る舞いは、主を信仰して罪は赦されても、サタン的な本性と堕落した性質は私達の中に深く根付いたままだということを証明しているわ。これこそ私達が罪を犯し神様に逆らう根本原因なのよ。罪深い本性をなくさない限り、罪を犯して神様に反抗したり、神様を裏切って対抗しようとする自分自身を抑制することはできない。聖書の神様の御言葉ははっきりしているわ。『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。』(レビ記11:45)また、ヘブライ人への手紙第12章14節には、『きよくならなければ、だれも主を見ることはできない』と書かれているじゃない。神様は聖なる方であり、天国に汚れた人間が入ることはできない。こんなにしょっちゅう罪を犯し神様に逆らう私達が神様の顔を見る資格があるのかしら。神様が天国へ導いてくださるほどの価値がどうして私達にありえるの?だから、私達の罪の根本的原因を解決するために、神様が終わりの日に戻られ御働きの新しい段階を遂行なさる必要があるのよ。そこで初めて私達はサタン的な堕落した性質を捨て去り、神様の清めと救いを得ることができるのよ。これは聖書の預言を成就することでもあるの。『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。』(ペテロの第一の手紙1:5)

   話が終わるとフイ・ミンは『言葉は肉において現れる』のあるページを開いてワン・シュゥに言いました。「お母さん、全能神の御言葉を二節を読んだらもっとよく理解できると思うわ。神様の御言葉・・・

   「あなた方のように贖われたばかりでまだ変化しておらず、神によって完全にもされていない罪人が、神の心に沿うことができるだろうか。未だに古い自分のままのあなたは、確かにイエスによって救われ、神の救い故に罪人とは見なされなくなったことは事実であるにしても、それであなたが罪も汚れもないという証拠にはならない。あなたが変化していないのであれば、どうして聖いものとなれるのか。あなたは心の中の不純さ、自己中心、悪意にまみれながら、イエスと共に降ることを望んでいる――あなたはそこまで幸運ではない。あなたの神への信仰は一段階抜け落ちている。どうにか贖われたというだけで、あなたは変えられてはいないのである。あなたが神の心に沿うためには、神が直接あなたを変え、清める働きをしなければならない。贖われただけでは、聖さを獲得することは不可能である。このように、あなたには神の素晴らしい祝福を共有する資格はない。神による人間経営の働きの一段階、人を変え、完全にするという重要な段階が抜け落ちているからである。それ故、贖われたばかりの罪人であるあなたは、神の財産を直接相続することはできないのである。」(「呼び名と身分について」より)「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(「序文」より)

   娘が読むのを聞いて、ワン・シュゥは無意識のうちにうなずき、考えました。「この言葉には権威がある。主イエスは贖いの御働きをされただけで、私達の罪は赦されたにもかかわらず罪深い本性は清められなかったのか。一日中罪の中に生きているのも不思議じゃない。罪の束縛を解きたくて、いくら祈って自分を抑えようとしてもできない。もし罪の束縛から脱したいなら、神様が別の段階の御働きをなさる必要が本当にあるようだ」

   リ・ジュンが立ち上がって、ワン・シュゥに水を注ぎながら、言いました。「お義母さん、全能神の御言葉はなぜ神様が終わりの日に裁きの御働きをされるのか、その御働きによって成し遂げられる結果をはっきりと説明しています。主イエスの贖いを受けて私達の罪は赦されましたが、サタン的な本性はまだ内に深く根付いており、神の祝福を受け継ぐ資格などありません。そのような堕落した人類として私達が必要とするので、神様は主イエスの贖いの御働きを土台にして終わりの日にもう一段階の御働きをされるのです。その御働きにおいては神様は人を裁き罰するために御言葉をお使いになり、私達の罪深い本性は消滅し完全に罪から救われるのです。終わりの日の神様の裁きの御働きを受け入れることによってのみ、私達はサタンによる堕落についての真理がわかり、神様に反抗するサタン的な本性を知り、神様の義でありと不可侵の性質を体験し、神を畏れる心をもつようになるんです。そして、私達は神様の御前にひれ伏し、自分を憎み、肉に背いて真理を実践するようになるでしょう。そのようにして、私達は徐々にサタン的な性質の束縛を解き、清め変えられ、救いと完成を得て、真に神様に従い神様を愛する者になることができるんです。その時初めて、人類を救うという神様の経営計画が完成し、すばらしい御働きが成し遂げられます。これはヨハネの黙示録の次の言葉を正確に成就します。『すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルファでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。』(ヨハネの黙示録21:5―6)

   リ・ジュンとフイ・ミンの話はワン・シュゥには驚きで、彼女の耳には新鮮でさわやかに響きました。そしてこう考えました。「二人の話は聖書と主の御言葉に一致している。明瞭そのものだわ。主が真理を示し裁きの御働きをされるために戻ってこられることこそ私達に必要なことで、それが私達は完全に罪から救われ、神様の救いを受けて完成され、真に神様を愛し従う者になれるように行われる…」

   フイ・ミンは頭を下げて何も言わない母親を見て、母親の腕を優しく揺すぶりながら「何を考えているの、お母さん」と聞きました。

   ワン・シュゥは表情を和らげて頭を上げ、リ・ジュンとフイ・ミンを見て笑顔で言いました。「驚いたわ。全能神の終わりの日の御働きを受け入れて間もないのに、そんなに多くの真理を理解しているなんて。今日のあなた達の話を聞いて、私も少しは理解できたようだわ。主イエスは人類を贖う御働きをされただけで、それは人類を救う神様の御働きの一部でしかないのね。主イエスの御働きを受け入れても、私達は罪を赦されるだけで、罪深い本性はまだ消滅していないので自分を抑えきれないで罪を犯したり神様に反抗するのね。神様にお目見えしたり、主に天の国に導いていただく資格などないわね。私達が罪の束縛を解きたいなら、まだ神様に再び来ていただいてもう一段階御働きを、裁きと清めの御働きをしていただかなきゃいけないのね」

   フイ・ミンとリ・ジュンはワン・シュゥの言うことを聞いてとても嬉しくなり、神に感謝し続けました。

   娘と義理の息子が幸せそうなのを見て、ワン・シュゥは自分をとがめて言いました。「ああ、牧師や長老が言っていたことを聞いていた何年のもあいだ、私は主イエスが十字架の上で『すべてが終った』と言われたのは、人類を救う神の御働きが完了したという意味だと信じてきた。そして主が戻られ私達を天国へと引き上げてくださることを心から願っていた。ついに、全能神教会が主が戻られたことを証していると聞いたけど、それを追究したり調べたりせず、自分の観念と想像に固執して、主の道を守るようにあなた達に助言しようとして、大きな過ちを犯し終わりの日の神様の救いを受けられないところだった。自分の観念や想像だけで神様の御言葉を解釈し、神様の御働きに取り組んでも、いつなんどき神に反抗したり、神様の救いを受ける機会を自ら逃したりするだけね。徹底的に清められて天の国に入りたいのなら、終わりの日に神の裁きの御働きを受け入れなければならいということがわかったわ!でも、終わりの日の神の裁きの御働きがどう人を清め、変えるのかはあまり知らないから、終わりの日の全能神の御働きを探求して勉強を続け、御言葉を読んでいこうと思うわ!」

   「神に感謝!全能神教会の兄弟姉妹が明日ちょうど集会を開くから、私達と一緒にお話を聞きに行かない?」とフイ・ミンが言いました。

   「そうするわ」

   「神に感謝!」

   外では太陽が明るく美しく辺りを照らし、時折ワン・シュゥ一家の喜びに満ちた話し声が窓から聞こえてきました…


聖書に述べられている「勝利を得る者」とはどういう意味か

2019-11-28 22:01:12 | 聖書の言葉

   主を信じるすべての人は主の心にかなう人、勝利を得る者になりたく、十四万四千人の勝利を得る男の子の一人になりたいです。勝利を得る者が言及される時、ある兄弟姉妹がこう言うかもしれません。「わたしたちが主の御名を守り、主のために労苦し働き、さまざまな迫害、患難の中で主の証しのために立つことができれば、勝利を得る者になることができ、主が戻られる時、天の国に携え上げられることもできます」と。わたしたちのこのような観点は一体正しいでしょうか。十四万四千人の男の子、すなわち勝利を得る者とは一体どういう意味でしょうか。



   わたしたちは聖書の数節を見ましょう。「また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて……」(黙14:1)。「……彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(黙7:14)。「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(黙7:17)。「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」(黙3:12)。預言からわたしたちが分かりますが、十四万四千人の勝利を得る者は大きな苦難を通って来た者で、彼らは玉座の中央におられる小羊の牧養を得たので、真理の実際を持つようになり、彼らは自分の「衣」を洗い清め、すなわち神にきよめられ、それゆえに神の新しい聖なる都に生きて、神の特別な恩顧を享受するようになります。つまり「勝利を得る者」は、主を信じた後、苦しみを受け、代価を払い、主の御名を守ることができ、迫害、患難の中でも退かない人を指すのではありません。なぜなら、神を信じるわたしたちが神の新しい御名と、神からの命の言葉、真理を得て、わたしたちの中の罪を取り除いて、きよめられ、変わる時こそ、十四万四千人の勝利を得る男の子の一人になる見込みがあります。これで分かりますが、わたしたちの以前の考え方は成り立ちません。長年主を信じたわたしたちは少し捨て、費やし、外側のよい行為が少しあったけれども、このように費やせば、天の国に入るという祝福を得、この世で百倍を受け、後の世で永遠の命を得ることができるのか、といつも心の中で思っています。主を信じるすべての人はいくらかの外側のよい行為があったが、依然として、昼間に罪を犯し、夜に罪を告白するという状態の中で生きていて、きよめられていません。長年主を信じた後、主に対して本当の認識がないばかりか、かえって自分が一番偉いとうぬぼれ、眼中に何ものもなく、傲慢で一人よがりで、兄弟姉妹をさげすみます。うわべでは、主イエスを信じているのですが、いつも心の中に主の位置がなく、心の中で有名人、気高い姿のある人、大言壮語できる人を崇拝しています。わたしたちは人を崇拝し、仰ぎ見て、心の中に人の位置だけがあり、神を畏れる心を少しも持たないのです。うわべでは、主の道に従えと叫びますが、兄弟姉妹には寛容ではなく、忍耐せず、名利、地位のためには、人と互いに腹を探り合って暗闘し、人に嫉妬し、人と論争することさえします。こうして、わたしたちは自分が常に悪いことばかりを心に思い計らっているのを見ました。それは完全にサタンの表現です。こんなわたしたちが勝利を得る者だと言えるでしょうか。だから、わたしたちの観点は間違っているのです。実は、本当の、勝利を得る者は徹底的に罪悪から逃れてきよめられ、神に味方することができ、死に至るまで神に従うことができる人を指します。神の目には、これこそ無垢な人です。聖書に記されているヨブのことを例にあげましょう。ヨブがサタンの試みに打ち勝ち、神の証しのために立つことができるのは、ヨブが一生の中で神を畏れ悪を避け、神の言葉を守り行い、神に対する本当の認識、勝利を得る命を持っていたからです。神がどのように働き、言葉を言っても、彼は無条件に神に従い、絶対に神に忠実でした。サタンがどのように彼を苦しめても、彼は不平を言わず、神に対する本当の信仰を失わず、神の証しのために立つことができました。またたとえば、ペテロは極みまで神を愛し、神のためにさかさまに十字架につけられ、死に至るまで神に従順で、神のためによい高らかな証しをすることができました。これらのことから、わたしたちは彼らこそキリストの精兵、サタンに打ち勝つ人だと見ました。

   ヨハネの黙示録の中の、勝利を得る者である十四万四千人の男の子、すなわち災難の前に神に完全にされる人たちは、神が自ら導かれる特殊な人たちです。それは聖書に書かれているとおりです。「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分らぬ新しい名が記されている」(黙2:17)。ヤーウェ神は「その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」(ヨエ3:2)と言われました。聖書の言葉からこういうことが分かります。世の終わりに、聖霊は自ら声を発し言葉を言って、人に真理を供給されます。賢い乙女は「主が来られた」という叫び声を聞くと、主を迎えることができます。そして主と共に宴席に出ます。すると、主は隠されているマンナ、すなわち神の言葉を彼らに与えられます。彼らはまた新しい名を得ます。神は自ら彼らを牧し、彼らに注がれ、彼らは小羊から真理、命を得、その心が洗い清められる衣のようにきよいです。真理が人の命の実際となったら、人はサタンのさまざまな試みに打ち勝って、神のために勝利を得たという証しをすることができます。彼らはしるしと奇跡を見ることによってではなく、小羊の言葉によって生きています。彼らは神に対して本当の認識と信仰を持つようになりました。だから、彼らは大きな苦難を通って来た人たち、神に完全にされる初穂です。この人たちは神の言っている勝利を得る者であり、神の国に入って永遠の命を受け継ぐことのできる人です。


恋しい人よ、あなたはどこにいるでしょうか

2019-11-27 22:17:53 | 聖書の言葉

   長年主を信じた兄弟姉妹はみなこんな体験があります。聖霊の働きを持ち、神と正常な関係がある時、どんなことをしても神の導きを感じられます。それはある詩歌の歌詞のとおりです。「恋しい人はわたしを奥の部屋に導き入れる。わたしたちが打ち明け話をし始めるときりがなくなる。わたしたちの愛情は死に打ち勝つことができるほど強く、大水によっても覆うことができない」。

   以前、わたしと主の関係は非常に親密でしたが、いつごろからか、わたしは祈りの中で神の臨在を感じられなくなり、聖書を読む時に啓き、光がなく、無味乾燥だと感じるようになりました。集会に参加しても享受がなく、いつも新鮮味のない話をしました。困難の中にある時、主が助け、支え、供給してくださることなど問題外です。わたしは助けがないと感じ、恐れ慌てました。主を信じる以上、主に頼らなければならないから、主との関係がなくなったら、主を信じることにおいて行き詰まるのではありませんか。主の来られる日に突然主の臨在を失ったので、わたしは荒野に捨てられた子供のように恐れ慌てました。

   主との関係を回復するために、わたしは祈りに励み、しかも断食して祈ることさえし、積極的にさまざまな聖書の勉強会に参加し、集いに励み、またあちこち訪ねて、聖霊の働きのある教会を探しました。ところが、わたしはどの宗派も荒廃し、干からびているのを見ました。ある教会は表面的にはにぎやかで、信徒たちが会食したり旅行したりし、彼らの建てた教会堂も非常に立派です。でも牧師は道を説く時、やはり新鮮味のない話をします。牧師は聖書の物語を語らなければ、霊的な教理、或いはだれも分からない神学理論を語ります。信徒たちが聞いた後、彼らの霊の中は依然として干からびていて、主の臨在がありません。ある信徒たちは世界の潮流に従い始めて、物質的なもの、肉体的な享受を追い求めるようになり、「不信派」になってしまいました。ある人たちはただ宗教的儀式を守り、毎週一回、教会堂へ礼拝に行き、めったに聖書を読みません。全収入の十分の一をささげるのは、主から平安、落ち着きを得るためにほかなりません。ある人たちは嫉妬し、論争し、主の言葉を実行できません。兄弟姉妹の信仰、愛が次第に失われました。




   困惑して、苦しく感じる時、わたしは何度も主の前に出て祈りました。「愛する救い主イエスよ! あなたはわたしの避難所、わたしの足のともしび、わたしの通り道の光です。主よ、今わたしは非常に弱く、非常に困惑します。わたしを救ってください。わたしがどうすれば、もう一度あなたの懐に帰り、あなたとの関係を回復することができるでしょうか。主よ、暗やみにいるわたしを救い、わたしに力を加え、わたしがこれから先の道を歩むのを導いてください。……」と。

   ある日、長年会っていなかった昔の同級生は突然わたしを訪問しました。そしてわたしたちは、なぜ世の終わりに教会が荒廃したかについて討議しました。討議する時、わたしたちはマタイによる福音書第24章12節に「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」と書かれているのを見ました。この箇所を読んだ後、わたしは「不法がはびこる」の「不法」が具体的に何を指すかを知らなかったのです。昔の同級生はこのようにわたしに話しました。「『不法がはびこる』の『不法』が具体的に何を指すかを知りたいなら、わたしたちは律法の時代の末期を顧みなければならない。当時、ユダヤ教の祭司長、律法学者は神殿の中で神に仕えていたけれど、神の意志に背いて、勝手なやり方で行ない、神殿を、牛や羊や鳩を売る『強盗の巣』に変えた。彼らは神の戒めを守らず、神に劣ったいけにえをささげていた。地位、生活の道のために、彼らは聖書の知識をもって説教し、教理を語り、宗教的儀式を行なって信徒を惑わし、束縛し、自分の道へそれて行き、神に敵対していた。これらの不法なことはみな人が見られる事実だ。だから、主イエスは恵みの時期の救いの仕事を展開された時、次のように彼らを暴露し、叱責された。『律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている』(マタ23:27-28)。『イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」。更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」』(マコ7:6-9)

   主イエスがパリサイ人の『七重の災い』のゆえに彼らを罪定めされたことから、偽善的なパリサイ人のすることなすことはみな神に逆らい、神に敵対するものだと分かった。彼らはうわべでは祖先の言い伝え、律法を宣べ伝えるけれど、神の律法、戒めに背き、陰でやもめの家を食い物にし、預言者と義人を殺すのだった。彼らは神の言葉、神の道を証しせず、ただ祖先の言い伝えを守り、人が自分を重く見、仰ぎ見るようにし、人をみな自分の前にもたらした。特に主イエスが現れて働かれた時、彼らは主イエスの発表された真理に不服を唱え、地位、生活の道を守るために信徒を籠絡し、コントロールし、狂おしげに主イエスに逆らい、主イエスを罪定めしていた。これは、彼らの奉仕が神に逆らい、神の意志に逆らうものであることを十分に証明している。ユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人が神に逆らい、神と敵対していたので、聖霊は神殿の中で働かなくなり、神殿は荒廃してしまった」。

   律法の時代の末期、ユダヤ教が暗やみの中に落ち込んだのは、ユダヤ教のリーダたちが神の戒めを守らず、神に逆らい神と敵対して、聖霊の働きを失ったからだという、昔の同級生の言葉によって、わたしは今日の宗教界が暗やみの中に落ち込んだ原因は、律法の時代の末期の宗教界が暗やみの中に落ち込んだ原因と同じであるかもしれないと知りました。

   昔の同級生は続けて話しました。「神殿が荒廃したもう一つの原因は、主イエスが受肉して地上に来て、さらに新しい、さらに高まる仕事を展開されたことだ。わたしたちが知っているように、主イエスは来て働かれた時、天の国の福音を宣べ伝えるだけでなく、また多くのしるしや奇跡を行なわれた。例えば、五千人を五つのパンと二匹の魚で満腹させたとか、ラザロを死人の中から復活させたなどだ。これらは神の権威と力を完全に明らかにした。真心をもって真理を求めるすべての人は、主イエスが一般の人と違うと分かり、主の言葉と働きを通して、主イエスが来たるべきメシヤだと知った。例えば、当時主イエスにつき従った弟子たちは主の声を聞き、主の働きを調べることによって、神の働きの歩調についていけた。……」。昔の同級生の言葉を聞いているうちに、こういう場面がわたしの目に浮かんできました。夕方のガリラヤの海のほとりで、ペテロは釣りざおを手にして、さびしそうに座ていました。こうした時、主イエスは彼のそばに来て、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタ4:19)と言われました。それ以後、ペテロは主イエスにつき従いました。主イエスと付き合っている中で、彼は主イエスの言うことなすこと、そして聖霊の啓きを通して、主イエスが、生ける神の子だと認識しました。彼はまたシカルという町で、サマリヤの女が主イエスの説いた道を聞いた後、自分の水がめを置いたまま町に行き、主イエスの名を証ししたことを見ました。さらに、彼はヨハネ、マタイ、ピリポ、ナタナエルなど、多くの人が主イエスの行なったこと、主イエスの説いた道を聞いたので、次々に律法の下から出てきて、主イエスの働きの歩調についていけたことを見ました。「だが、ユダヤ教のリーダたちは自分が主の働きを調べないのに、かえってさまざまなデマをまき散らして信徒を惑わし、ローマ政府と結託して主イエスを迫害し、最終的に主イエスを十字架につけてしまった」という古い同級生の言葉で、わたしの考えが現実に戻りました。そのとおりですね。当時のユダヤ教は神の働きの歩調についていけないので、聖霊の働きによって淘汰されて、神の贖いを失いました! 今はすでに世の終わりの末期ですから、わたしたちはいつでも主の再来を見ることができます。神の働きを認識していなくて、聖霊の働きの歩調についていけないなら、わたしたちはユダヤ教と同じ結末を得るのではありませんか。

   ここまで考えてきて、わたしはすぐ昔の同級生に心の中の心配事を話しました。すると、昔の同級生はアモス書の次の二箇所を見せてくれました。「また、刈り入れにはまだ三月もあったのに、わたしはお前たちに雨を拒んだ。ある町には雨を降らせ、ほかの町には雨を降らせなかった。ある畑には雨が降ったが、雨のない畑は枯れてしまった。二つ三つの町が水を飲むために、一つの町によろめいて行ったが、渇きはいやされなかった。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる」(アモ4:7-8)。「見よ、その日が来ればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモ8:11)。昔の同級生は「ここの『ある町』は聖霊の働きのある教会を指し、『ほかの町』は聖霊の働きのない教会を指す。神が大地に飢えを送るのは、真心をもって神を信じ、真理を愛する人に雨のない畑を離れて雨のある町を探すように強いるためだ」と言いました。「今、どの宗派も荒廃している。聖霊の働きのある教会、雨のある町はどこにあるのか」とわたしは言いました。昔の同級生は続けて言いました、「七年間の飢饉に遭う時、ヨセフのところにだけ、食べるものがあるのだった。飢饉の災いを逃れるために、人はみなやむを得ず真理の道を探した。神は生ける水の泉で、人の享受できる、涸れることのない泉がある。神は『わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう』(黙21:6)と言われた。聖霊の働きのある教会、雨のある町には、きっと生ける命の水の供給、聖霊の働き、神の言葉、神の導きがある。このような教会に聖霊の働きがあるので、信徒たちの信仰と愛は回復され、彼らは祈る時に聖霊の啓き、照らし、神の臨在があり、神の言葉を読む時に光があり、神の働きを経験することによって、神、および人自身の腐敗した本性に対してますます認識を持つようになる。それゆえ、彼らは次第に自分の野蛮さと不従順を恨み始めるようになり、神に帰服して、本当の、神に従う心、神を畏れる心、神を愛し礼拝する心を持つようになります。だから、わたしたちが『雨のある町』を探したいなら、どの教会が聖霊の働きを持ち、神の新しい働きを証しし、神の現在の言葉と働きを経験するか、彼らが真理を証ししているか、命において成長したか、彼らの性質が変わったかなどを見なければならない。このいくつかの面を確かめることができれば、聖霊の働きのある教会を見つけることができる。聖霊の働きのある教会を見つけたら、神の現れを見つけたことになる」。

   主に感謝します!これらの聖書の言葉を調べ、昔の同級生の言葉を聞くことによって、わたしは律法の時代のユダヤ教が聖霊の働きを失った根本原因を知りました。その原因は二つあります。第一の原因は、神殿の中で不法がはびこって、ユダヤ教のリーダーたちが神の意志に背いて勝手なやり方で行ない、神の戒めを守らず、聖書を間違って解釈し、人を籠絡し、コントロールし、惑わし、人を聖書の知識の中に導き入れ、神からますます遠く離れ、神殿を、宗教的儀式を行なう場所に変えてしまい、その結果神殿の中で、神に逆らう偽善的なことがますます多くなる、ということです。第二の原因は、神がすでに人の必要に基づいて仕事を発展させ、主イエスがすでに神殿の外で贖いの仕事をしたので、主イエスの働きの歩調についていける人たちがもう一度聖霊の働きを得て、光の中に生きて、主に再会するようになり、観念、想像をかたくなに守って、主イエスをメシヤとして受け入れない人たちが暗やみの中に落ち込んで、神の救いを失ってしまった、ということです。

   律法の時代の末期の神殿が荒廃した原因を知った後、わたしはヨハネの黙示録の一言、「この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く」(黙14:4)を思い出しました。これは、主がわたしたちが聖霊の働きのある教会を探すのを導く言葉だろう、とわたしは思います。


敬虔にヤーウェに仕えるパリサイ人はなぜ、主イエスに逆らったのか

2019-11-26 18:50:10 | 聖書の言葉

   わたしはキリスト教家庭に生まれ、16歳から主に仕えています。教会の中で、わたしは合唱をリードします。25歳で神学院を卒業した後、神に仕える道を正式に歩みました。わたしは、一生主に仕えることが最も光栄なこと、最も意義のあることだと思い、また、以前神に遣わされた人を羨んでいます。特に「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『よい知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです」(ロマ10:15)というパウロの言葉を見た時、わたしは神に仕えるすべての人は神に油塗られ、遣わされる者、神の代弁者、神に対して最も認識がある人だと思っていました。だから、わたしは心の中でいつも一種の優越感があり、わたしが神の奉仕者として神によって選ばれ、定められた人で、わたしの理解する真理は一般の信徒より多く、神に対するわたしの認識も多いと思っていました。わたしはまた、わたしより年上の牧師、長老を崇拝し、彼らのように多く働き、多く費やし、苦しみを多く受けることを極力追い求めていました。その後、わたしの仕事の範囲がますます大きくなり、わたしの導く人がますます多くなるので、わたしは自分はすでに主を認識し、すでに聖書の中のすべての真理を理解し、自分は神に喜ばれる人になったと思ってしまいました。

   ある日、わたしは主イエスがパリサイ人を呪われる時、次のように言われたのを見ました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。……やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。……律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだが飲み込んでいる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。……先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」(マタ23:13-14、23-26、32-33)。



   主イエスのパリサイ人を呪われる言葉から、主イエスがパリサイ人を恨んでいて、彼らを憐れまないということが分かりました。パリサイ人を扱う時の主イエスの中から流露される性質は、主イエスにつき従うすべての人がめったに見ない神の義なる性質の一面だ。パリサイ人はユダヤ教のリーダで、神殿、会堂の中でヤーウェ神に仕える人、律法に精通していて、直接神に仕える人でした。なぜ彼らはこれらの悪行を行なったのでしょうか。なぜ彼らは主イエスがヤーウェ神から来た者だと分からなかったのでしょうか。なぜ彼らは主を認識しなくて主に逆らったのでしょうか。なぜ主は彼らに呪いの言葉を発されたのでしょうか。わたしはこれらの問題でひどく戸惑いを感じていました! このために、わたしはいつも主に祈り、また多くの材料を調べました。歴史文献と聖書を調べることによって、わたしはパリサイ人は民数記第23章9節に述べられている人だと分かりました。そこにこう書かれています。「わたしは岩山の頂から彼らを見、丘の上から彼らを見渡す。見よ、これは独り離れて住む民、自分を諸国民のうちに数えない」。彼らは断食して祈ること、全収入の十分の一をささげること、清めの規定を重んじ、安息日やさまざまな祭りを守り、神はきよくて唯一であり、イスラエルの民はヤーウェ神に選ばれた民だと思っていました。彼ら自身は律法を厳守し、またいつも律法をもって民を教えていました。彼らは民の心の中でかなり高い位置を占めていました。民は、パリサイ人が敬虔にヤーウェ神に仕える人、最も神に良しとされる人だと思っていました。

   関連資料を見た後、問題が解決されていないばかりか、かえっていっそう戸惑いを感じました。パリサイ人が非常に律法に精通していたので、当時の人は彼らが非常に「よい」と思い、彼らを崇拝していました。それなのに、なぜ彼らは主イエスの言葉を理解しなかったのですか。それだけでなく、彼らの「敬虔」は偽善的なものだと主イエスは罪定めされました。これで分かるように、パリサイ人は長年神に仕えたが、神を認識することができず、神に良しとされることもできず、かえって主イエスに逆らって、主から呪いを受けました。この中に求めるべき真理があります!

   わたしは聖書にこう書かれているのを見ました。「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう』。……この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」(ヨハ11:47-48、53)。これらの言葉をよく考えることによって、わたしはこういうことを発見しました。パリサイ人が主イエスを殺そうとしたのは、民がみな主イエスにつき従うのを恐れていたからです。民が主イエスに聞き従うなら、神殿の中で彼らの説く道を聞く人がいなくなり、こうして彼らは民の心の中の位置を失ってしまいました。だから、彼らは民を彼らの権威の下にコンロトールし、すべての民の間での自分たちの権威、地位を守るために主イエスを殺そうとしました。ここまで考えてきて、わたしはパリサイ人が実に残忍だと感じます。十戒の中に「殺してはならない」と書かれているのに、彼らはおおっぴらに戒めに背きました。彼らは神を畏れる心を持ちませんでした。彼らがヤーウェ神に仕えるのは、人に神を証しして、人を神の前にもたらすためではなく、自分の地位のためであり、神に仕えるという手段で人心を籠絡するためでした。彼らがどんなに律法に精通しても、彼らの説いた道がいくらすばらしくても、彼らの目的は自分をひけらかし、自分が人に重く見られるようにすることです。道理で主イエスは「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」(マタ23:5)と言われたわけです。主イエスの言葉からわたしは分かりましたが、パリサイ人のしたすべてのことは神の戒めを守るためではなく、人に見せるためでした。例えば、彼らはわざと大通りの角に立って長い祈りをしました。断食する時、彼らは断食していることを人に見せようとして、わざと顔を見苦しくしました。彼らはまた、にぎやかな大通りで施しをし、善を行なうようなことをして見せました。彼らは「念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない」という昔の人たちの言い伝え、宗教的儀式をさえ厳守していました。実は、パリサイ人はささいなことにばかり考えをねて己を偽るのでした。そのため、主イエスは彼らを偽善的なパリサイ人だと言われました。彼らが長年神に仕えたのに、神に逆らった原因は、彼らの奉仕の意図、目的が正しくなかったからです。彼らが神に仕えるのは、神のみこころを行なうためではなく、外側のよい行ないによって人を惑わすためであり、自分の地位のためでした。だから、彼らは神に仕えたが、神を認識できず、なおさら神に良しとされることができず、かえってますます神の要求を達成できなくなり、最終的に神に罪定めされました。

   わたしはまた主イエスがこう言われたのを見ました。「ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。……わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか」(ヨハ8:40、46)。主イエスの言葉から分かりますが、パリサイ人は主イエスの口から出た真理を受け入れることができませんでした。彼らは律法に精通していたが、神の道を愛さず、むしろ聖書の言葉によって自分を装い美化しました。彼らは自分を装い美化するほど、ますます傲慢になりました。だから、彼らは「メシヤの再来」に関する預言に対する彼らの理解は正確だと堅く信じ、またそれによって主イエスを罪定めしました。「メシヤの再来」については、聖書はこう言っています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザ9:5-6)。パリサイ人はこの預言の文字どおりの意味によって、このように考えていました。権威が来たるべきメシヤの肩にあるから、メシヤは来られる時、きっとダビデのように彼らの王となり、しかも彼らを導いてローマ人の支配を翻し、彼らを、ローマ人に圧迫され、苦しめられることから救われる、メシヤが彼らの王となるから、彼はきっと王宮に生まれ、しかもその容貌が非凡で、その才能が群を抜いている、と。でも、預言の成就は彼らが想像したのと大いに違います。主イエスは王宮にではなく、飼い葉おけの中に生まれ、高官や貴族の家にではなく、普通の貧しい大工の家に生まれました。彼の容貌は非凡ではなく、普通でした。いっそう彼らの観念に反することは、主イエスが彼らが想像したように彼らの王となって、彼らを導いてローマ人の支配を翻したことがなく、かえって彼らに容赦し、忍耐し、敵を愛するように教えられることです。彼らはまた聖書の言葉をかたくなに守って次のように言いました。「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある」(イザ7:14;9:6)。しかし、主が来てなさったことは、パリサイ人が想像したのと違います。来たるべきその方は処女から生まれたのだと預言されていますが、パリサイ人の見た主イエスには両親がいました。メシヤがベツレヘムに生まれたと預言されていますが、パリサイ人の目には、主イエスがナザレ人であり、彼らはガリラヤに預言者が現れたことがないと言っていました。聖書に来たるべきその方はインマヌエルと呼ばれると預言されていますが、来られた方の名はイエスでした。だから、パリサイ人から見れば、主イエスはきっと来たるべきメシヤではありません。主イエスが来てなさった仕事は旧約のヤーウェ神のなさった仕事と完全に異なります。主イエスは神殿に入らず、また律法を守らず、安息日を守りませんでした。当時の人は、主イエスが律法を廃棄し、主イエスのなさったことがヤーウェ神の教えに合わないと思い、また、主イエスは神の子と自称したと言っていました。主イエスの働きには彼らの想像に合うところが全然ないから、彼らはイエスが彼らの待ち望んでいる来たるべきメシヤだと認めず、主イエスの働きを受け入れようとしませんでした。彼らはただ聖書の文字と、自分の頭の中で想像している神を信じ、聖書の文字に反する神のすべての新しい働き、彼らの頭で想像している神らしからぬすべての新しい働きを耐え忍ぶことができませんでした。主イエスには彼らの想像しているメシヤらしいところが全然ないので、宗教の上層部のこれらの指導者は主イエスが彼らの待ち望んでいるメシヤではないと思い、またあの手この手で主イエスに逆らい、主イエスを罪定めし、主イエスの伝えられる道を誹謗し、最終的に「イエスが神の名をみだりに唱え、律法を守らない」という理由で主イエスを十字架につけ、そのためこの上なく大きな罪を犯しました。

   神の啓き、導きに感謝します。パリサイ人が長年神に仕えたのに、神に逆らった原因は、わたしはやっと分かりました。第一に、彼らが神に仕えるのは、天の父のみこころを行なうためではなく、自分の私欲のためでした。第二に、彼らの性質があまりにも傲慢なので、真理を受け入れられず、聖書の言葉に対する自分の理解をかたくなに守り、またそれによって主イエスを罪定めしました。第三に、彼らはただ聖書の文字、教理、規定と宗教的儀式を守っていました。彼らは外側の偽りの敬虔があるが、神の言葉と神の道を守りませんでした。彼らは地位と、名誉と、他人におだてられ、崇拝されることとを追い求め、地位を享受していました。主イエスはパリサイ人の歩む道と、彼らの本質をさらけ出して呪われました。こうして、わたしたちは神がどんな人が好きなのか、どんな人を恨むかを見ました。それは神の義なる性質を明らかにしました。パリサイ人が神に仕えるのに、神に逆うという面の真理を理解することによって、わたしは神に仕える人はみな神に対して最も認識がある人だと思わなくなります。わたしたちが神に対して認識を持つかどうかは、神に仕える過程の中で天の父のみこころを行なうことを追い求めるかどうかにかかっています。パリサイ人はただささいなことを重んじ、戒めの実質を守りませんでした。パリサイ人のさまざまな言動を思い返しているうちに、わたしは長年主イエスに仕えた多くの人もこのような言動があることを発見しました。彼らはいつも愛をもって訪問し、信徒のための神への祈りをし、ある時生活が苦しい信徒に小さな助けを与えます。しかし他人の意見が彼らの意見に反し、彼らの利益にかかわると、彼らは少しも譲歩しません。例えば、同労者たちは献金の使い方について意見が合わない時、教会はすぐ分裂します。このような時、ほんのわずかな利益でも争わなければならないと言えます。ある同労者がほかの同労者が人に顔向けできないことをするのを見て、相手を暴露するとしたら、彼は相手の敵になり、こうして、この両者はしのぎを削って争うようになります。彼らは主の意志を求めず、またどのように天の父のみこころを行ない、主の言葉を守るべきかを追求しません。彼らが教会の仕事をするのは、ただ地位、生活の道を追い求め、人に自分を崇拝させ、自分の野心、欲望を満足させるためです。ここ数年来、宗教界の教会が分裂し、宗派が林立していることは潮流になりました。これは、牧師、長老が傲慢で独りよがりで、自ら王と称しようとすることの真実な表れです。この時、わたしは講壇に立って多くの人に道を説くことは優越感のあることだと思わなくなり、自分の主への奉仕の生活を改めて反省します。二千年が過ぎたが、今の講壇の上には、まだどのくらいの現代のパリサイ人がいるでしょうか。