賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書を読む:賢いサマリアの女

2019-11-11 21:56:05 | 聖書の言葉

   サマリアの女の物語は、多くの人がよく知っています。サマリアの女は水をくみに行った時、彼女から飲み物を求める主イエスに出会いました。主イエスとの対話によって、彼女は主イエスが預言の中の来たるべきメシアだと分かりました。

   一人の普通の女はそんなに多くの聖書の知識を持たず、また宗教の上層部の人に接触しなかったが、神の声を聞き分けられました。わたしたちはこれに驚嘆せずにはいられません! 主イエスが特別に彼女に情けをかけたからですか、それとも彼女に何かの秘訣があるからですか。主イエスは地上で三年半働かれました。その間に、多くの人は主と接触したことがあり、主イエスも多くの人を慈しまれました。しかし、主イエスがメシアだと分かった人は何人いましたか。では、サマリアの女はどのようにして主イエスがキリストであることを知りましたか。

 

 

 

    聖書にこう記されています。「イエスが、『行って、あなたの夫をここに呼んできなさい』と言われると、女は答えて、『わたしには夫はいません』と言った。イエスは言われた。『「夫はいません」とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ』。女は言った。『主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています』。イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない』。女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます』。イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである』。……女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません』」(ヨハ4:16-26、28-29)。

   あなたには五人の夫がいたという主イエスの言葉は、サマリアの女の心を揺り動かしました。それは彼女がひそかに行ったこと、だれも知らないことだからです。そのため、彼女はこの人が普通の人ではなく、預言者だと分かりました。そして、彼女は自分の心の中の分からない問題を話し出しました。この問題はすなわち、どこへ行って神を礼拝すべきか、神を礼拝する場所が山なのか、それともエルサレムなのか、一体どのように神を礼拝すべきかということです。すると、主イエスは彼女に、神を礼拝する場所が山でもエルサレムでもないと教え、また彼女に「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」とはっきりと教えられました。サマリアの女はこれらの言葉を聞いた後、それは神の声だと分かりました。なぜなら、神だけが人の分からないすべてのことを人に教えられるからです。そういうわけで、彼女は主イエスが預言の中の来たるべきメシアだと分かりました。これも、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハ10:27)という主イエスの言葉を成就しました。神の羊だけが神の声が分かります。

   サマリアの女の言葉から分かりますが、彼女が主イエスはキリストだと分かったのは、彼女がただ何句かの預言を根拠としているからではなく、彼女が神の言葉に権威と力があることを認識しているからです。主イエスが彼女に五人の夫がいたと言われる時、彼女はこれらのことはいかなる人も話し出せず、神だけが人の心を探ると知っていました。しかも、神は人の心の必要を供給することができます。当時の人々はどのように神を礼拝すべきかを知りませんでした。主イエスは一言で問題を解決し、また神を礼拝することにおける実行の道を指し示されました。

   だから、サマリアの女はすぐ水がめを下に置いて町に行って主を証ししました。サマリアの女は賢いでした。なぜなら、彼女は主の言葉をまじめに聞いたため、主イエスがキリストだと分かったからです。わたしたちも賢いサマリアの女のように神の言葉に留意すべきです。そうしてこそ、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハ10:27)という主イエスの要求を達成することができます。


用心しろ!霊的に盲目になるな

2019-11-08 21:49:27 | 聖書の言葉

   主イエスがこう言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(ヨハ9:39)。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(ヨハ9:41)。




   わたしは聖書のこの二箇所の言葉を読むたびに、疑問に感じます。「見える者は盲目な罪人になりますが、見えない者はかえって見える者になり、罪を持たなくなります。このことはどんな人の身に実現するだろう。主イエスのこの言葉をどのように理解すべきですか」と。この疑問を解決するために、わたしは多くの牧師と長老に尋ねました。しかし、彼らは聖書の文字どおりに解釈することしかできませんでした。彼らの言葉を聞いた後、わたしは何が何だかわけが分かりません。わたしも疑問を持って多くの霊的な著作を読みました。でも答えを見つけませんでした。

   偶然の機会に、わたしはある伝道者と知り合いになりました。彼と交流することによって、わたしの心の中の長い間の疑問は解決されました。

   当時、この兄弟は根気よくわたしの問題に解答しました。彼は次のように話しました。「わたしたちがこの言葉の中の真理を理解したいなら、主イエスが盲人をいやしたということから話さなくてはなりません。聖書には、ある盲人が主イエスにいやされたと記されています。彼は肉眼が何も見えないが、良心が依然として存在し、霊的な目が依然として明るいでした。当時、主イエスは伝道し、働き、多くのしるしを行われました。それはユダヤ全地にセンセーションを巻き起こしました。ある日、この盲人は幸いにして主イエスに出会いました。彼は主に対する信仰によって、主に彼の目をいやすように求めました。それで、主イエスは彼の願いをかなえてやり、その場で彼の目をいやし、彼の目が見えるようにされました。この盲人は主イエスの権威と力を身をもって体験したので、主イエスが神から来られた方であり、キリストだと確信ました。そして、彼は『生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです』(ヨハ9:32-33)」と言いました。彼のこの言葉は聖書に記されていて、現在まで伝わっています。

   主イエスが盲人をいやしたことから分かるように、『神はこの世を裁く時、見えない者が見えるようにされる』の中の『見えない者』は、主にいやされた盲人のような人を指します。病気にかかった病人が医者の治療を至急必要としているのと同じように、ひどくサタンに苦しめられた人は神の救いを切に望んでいます。彼らは自分が貧しく、かわいそうで、盲目で無知だと知っているので、光、真理の到来をいっそう渇望します。神が来て働かれく時、彼らは虚心に真理を求めることによって、神の出現と神のすばらしいみわざを見、神の働きの歩みについて行けました。それは主イエスが言われたとおりです。『心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである』(マタ5:3)。『義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる』(マタ5:6) 。『だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる』(マタ7:8)。だから、虚心に神の出現、働きを求める人、神の声を聞いたら神につき従う人はみな神の救いを得ました。主イエスは彼らの罪を赦して、彼らが罪を持たなくなると言われました。

   では、目が見えるが、罪人になった者は、どんな人を指しますか。実は、これらの人は、自分が何かも知り、何もかも分かると思っている人です。彼らはいつも自分の観念、想像によって神とその働きを判断します。彼らは神を畏れる心を持たず、虚心に真理を求めず、そのため神の啓きを得られません。これらの人の心が暗く、彼らこそが本当の盲人だと、神は思っておられます。例えば、主イエスが現れて働かれた時、神殿の中でお高くとまっている祭司長、律法学者、パリサイ人は自分は聖書を熟読したので、神に対して最も認識があると思っていましたが、かえって明らかにされた、神に逆らう反キリストになりました。

   目の見えない人と違って、目の見えるパリサイ人は受肉した主イエスを認識できませんでした。彼らは盲人よりもっとかわいそうで憎らしいです。当時、主イエスは働き、道を説き、多くのしるしや奇跡を行われました。それはユダヤ全地にセンセーションを巻き起こしました。そのため、多くの人は主イエスを信じ、彼の追随者になりました。しかし、パリサイ人は聖書の中の文字の教理と宗教的観念をかたくなに守っていました。彼らは、イエスの説かれた道がどんなに優れていても、どんなに実際的であっても、彼がメシアと呼ばれなければ、彼がきっとキリストではないと思っていました。彼らは、権威、力のある主イエスの言葉、働きを自分の目で見て、心の中で恐れおののくけれど、主イエスがキリスト、メシアだと認めませんでした。これは、『それは、「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず……」ようになるためである』(マコ4:12)という主イエスの言葉を成就しました。

   パリサイ人は自分の観念と想像、自分の傲慢で独りよがりな本性によって葬り去られました。彼らは神が受肉して働いた時代で生きていたが、主イエスの働きと言葉を調べず、また狂おしげに主イエスを罪定めし、逆らいました。彼らは主イエスの働きを受け入れないだけでなく、また他人が主に立ち返るのを阻止しました。そのため、多くの臆病で定見のない民は彼らに惑わされ、コントロールされてしまって、真理の道を受け入れ、主の足跡に従う勇気を失ってしまい、しかもパリサイ人と一緒に神に逆らい、主イエスを十字架につけました。最終的に、この人たちは神に懲罰され、報復され、国の滅亡のつらさを味わいました。

   主に対する信仰を持っている盲人と傲慢で独りよがりなパリサイ人とをこのように比べれば、なぜ主イエスが自分の目が見えると思う者を、目の見えない、罪を持つ人だと言うかが分かりました。恵みの時代においても、世の終わりにおいても、自分が最も聖書を理解し、神を認識すると思っている人は傲慢な人です。彼が反省せず、虚心に真理を求めず、聖霊の働きと神の言葉、声に留意しないなら、彼は永遠に霊的に盲目な人であり、永遠に神の啓き、導きを得、神の足跡に従うことがなく、永遠にサタンの権威の下に生きていて罪悪に縛られ、コントロールされます」。

   この兄弟の言葉を聞いた後、わたしは非常にうれしくなり、彼との交流によって分かったことは自分が主を信じた後の、最も大きな収穫だと感じました。実は、主イエスの言っている盲人は、目の見えない盲人を指すのではなく、神の言葉と働きによっては神を認識し、神の救いを受けることができない人を指します。聖書に記されている、盲人とパリサイ人のそれぞれ異なった言動と結末は、神の義と信実を明らかにしました。

   わたしは歴史の教訓を戒めとするべきです。だから、わたしは心の中でひそかに自分に言い聞かせました。「世の終わりに主の再来を迎える上では、パリサイ人のように自分の観念と想像を守り、思い上がってはいけず、賢い乙女のように神の声に留意し、虚心に真理を求めるべきです。そうしてこそ、神の足跡に従い、主の再来を迎え、天の国の中に携え上げられることができます」と。


「モーセが人をカナンの土地の偵察に遣わした」ことによって考えさせられること

2019-11-06 21:18:54 | 聖書の言葉

   聖書の旧約にこう記されています。「モーセは主の命令に従い、パランの荒れ野から彼らを遣わした。彼らは皆、イスラエルの人々の長である人々であった」(民数記 13:3)。「イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。『我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない』。」(民数記13:32-33)。「共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った」(民数記14:1)。



   これらの聖句は、モーセはイスラエル人を導いてエジプトから出た後、カナンの地に向かい、モーセはイスライルの十二部族の長たちに、カナンに行って状況を探るように命じました。彼たちはそこに着いた後、ヨシュアとカレブ以外のほかの十人はそこに住んでいる人の体が強健で力も強いのを見て、非常に恐れていました。そこで、この十人は戻って悪く言いふらしたため、イスラエル人は悪い情報を聞いて、至るところ泣き叫ぶ声、モーセが彼たちを導いてエジプトから出るべきではなかったと文句を言ったことを記載されています。

   しかし、ヨシュアとカレブは心の中で神の位置があるので、衣を引き割き、イスラエルの人々の共同体の全会衆に訴えました。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」(民数記14:7-9)。

   しかし、当時多くのイスラエルの民は多数の人の流す悪い情報を信じるだけで、ヨシュアとカレブからのよい知らせを信じず、彼ら二人がイスラエル人を死亡の地に導き入れようとするとさえ思っていて、石で彼らを打ち殺そうとしました。

   ヤーウェ神はモーセに言われました。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたしは、疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう」(民数記14:11-12)。最終的に、悪い情報を流す人たちはみな疫病で死に、悪い情報を信じた人たちは荒れ野で倒れて死にました。

   このことから思わず次のことを連想させます。旧約聖書の中にはメシアが来られると預言されていますが、メシアが来られた時、悪い情報を流す陣営とよい知らせを伝える陣営という二大陣営が現れました。

   ユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人は主イエスに大きな権威と力があるのを見たが、主イエスの働きが律法の範囲を超え、彼らの観念、想像にかなわないので、はばかりなく主イエスに関するデマを飛ばし、主イエスを誹謗し、裁き、冒涜しました。こうして、彼らは悪い情報を流すという役割を果たしました。ユダヤの民は彼らの流す悪い情報を信じたため、彼らと一緒に悪を行い、主イエスを十字架につけました。彼らの悪行は神を怒らせました。最終的に、彼らは神に懲罰されました。しかし、主イエスの弟子たちは主イエス付き従いました。彼らはローマ政府の残酷な迫害を受けたけれど、命を惜しまずに主の福音を宣べ伝えていました。あの時、よい知らせを伝える人が少なかったにもかかわらず、神の働きは成就して、地の果てまで宣べ伝えられました。最終的に、よい知らせを伝える人たち、およびよい知らせを聞いて信じる人たちはみな神の祝福を得ました。

   これらの歴史から分かりやすいですが、神様の働きが人類に臨む時に、その都度に二つの陣営が現れ、一つは悪い情報を流す陣営で、もう一つはよい知らせを伝える陣営なのです。よい知らせを伝える人が少なくて、悪い情報を流す人が多いです。同時に多くの人は真理を持っていないので、善悪、是非をはっきり見分けることができず、いつも多数の人の流す悪い情報を信じて、少数の人の伝えるよい知らせを拒絶します。しかし、善には善の報いがあり、悪には悪の報いがあります。すべての世代の中で、悪い情報を流す人たち、および弁別力を持たなくて悪い情報を信じる人たちは当然の懲罰と当然の報いを受けましたが、よい知らせを伝える人たち、および神様に関するよい知らせを信じる人たちは神様の祝福を得ました。

   私たちは歴史を振り返って自問して見ましょう。これに似てることを私たちの前に置くとすれば、私たちは悪い情報とよい知らせを見分けられますか。私たちはどう選択すればよいでしょうか。


永遠の命に至る道はあなたが見つけたのか

2019-11-04 22:16:09 | 聖書の言葉

   主を信じる人は誰でも、神だけが永遠のいのちの道を持っていることを知っています。主イエスはこう言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。……」(ヨハ14:6)。ヨハネの黙示録第22章1節から5節にこう記されています。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」。わたしたちが知っているように、ここの「世々限りなく」は、「永遠の命」を意味し、永遠に生きて、死を味わわないことを意味します。神だけが永遠の命があります。神だけが人の命の源です。神だけが永遠の命に至る道があります。わたしたちが神を見つけたら、命の源を見つけたことになります。本当にこのとこしえの「永遠の命に至る道」を得たら、死の脅威を恐れなくなります。では、わたしたちはどうすれば永遠の命に至る道を得られますか。



   聖書を読んだことのある人はみなこのことを知っています。神があの時人を造ったのは、人が地上で彼を表現し、彼の栄光を現し、万物の主人になるためです。神は人の寿命を定めていませんでした。神はただアダム、エバに「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われました(創2:17を参照)。これで分かりますが、あの時人が神の言葉を聞いて善悪の知識の木の果実を食べなかったなら、死ななかったのです。しかし、アダム、エバはサタン(蛇)に誘惑されたので、神の言葉に違反して善悪の知識の木の果実を食べました。そのため、彼らは神に呪われました。神はアダムにこう言われました。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。……お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る」(創3:17、19)。わたしたち人類は罪を犯したため、永遠の命を失ってしまいました。こうして、死がこの世に臨みました。それは、ロマ6章23節に「罪が支払う報酬は死です」と書かれているとおりです。アダム、エバは神の言葉に違反して罪を犯した後、神にエデンの園から追い出されました。こうして、彼らは死を恐れるようになりました。つまり、わたしたちはサタンに堕落させられた後、神の栄光を失ってしまい、サタンの権威の下に生きるようになり、サタンの姿を生かし出しました。このままでいけば、わたしたちは最終的に罪の束縛のゆえに死にます。神は自らの手で造られた人類が罪の中に死ぬのを見るに忍びなくて、人類を救うという計画を始められました。それは、わたしたちが最終的に徹底的にサタンの権威から逃れてきよくなり、神が人に与えられる約束――永遠の命――を受け継ぐ資格を得るためです。これで分かるように、最初の人は永遠の命があったが、ただ罪を犯したため、永遠の命を失いました。

   わたしたちが罪を逃れて永遠の命を再び得るためには、神は人類を救う仕事を始められました。神はまず、律法を発布して人の生活を導くという仕事をなさいました。彼はモーセを通して戒め、定め、規定を発布して人に守らせました。それは、当時の人類がどのように地上で生活するかを学び、罪とは何か、どのようにヤーウェ神を礼拝すべきか、どのように安息日を守るべきか、何かの罪を犯せばどんないけにえをささげるべきかを知るためです。これは、神の人類を救う手始めの仕事です。神の律法の時代の仕事は人に罪とは何かを分からせましたが、人類はサタンに極めて深く堕落させられたので、全然罪悪から抜け出すことができませんでした。律法の時代の末期に、人類は律法を守ることができなくなって、絶体絶命の窮地に陥りました。なぜなら、律法を守ることができなくなったら、石で打ち殺され、天から下される火によって焼き殺されるからです。そういうわけで、神は律法の時代の仕事の基礎の上で恵みの時代の仕事をなさいました。恵みの時代で、自ら受肉した神の、罪のないきよい肉体は十字架につけられて、人の罪を担い、人の永遠の罪祭になりました。わたしたちが主イエスを信じ、主に悔い改め、罪を告白すれば、罪の赦しを得ることができ、律法を犯すため死に処せられるという危険を脱することもできます。これは、主イエスのなさった贖いの仕事によってもたらされる効果です。主イエスが「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ3:16)と言われましたが、それはただ神が人に与えられる約束です。なぜなら、わたしたちの中にやはり堕落した性質があり、わたしたちがまだ罪の束縛を逃れていなくて、わたしたちが昼間に罪を犯し、夜に罪を告白するという状態がまだ続いているからです。もしわたしたちがそのような状態にとどまるなら、依然として神からの永遠の命を得られません。だから、わたしたちは続けて神の働きについて行き、続けて神の働きを経験する必要があります。わたしたちの中の堕落したサタン的性質がきよめられて、変わる時こそ、わたしたちは永遠の命を得られます。こうして、わたしたちは聖書に預言されている「神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川」(黙22:1を参照)を得ました。ここの「命の水の川」は小羊の玉座から流れ出るのです。それは、神が世の終わりに人に命の道を与えること、すなわち、神が世の終わりに、わたしたちを罪の束縛から徹底的に救い出すという仕事をすることを、示しています。わたしたちが小羊の玉座から流れ出る生ける命の水を得てこそ、本当に永遠の命を得ることができます。

   ヨハネの黙示録にこう預言されています。「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」(黙21:6)。「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(黙7:17)。「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」(黙2:29)。主イエスはこう言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ4:14)。以上の聖書の言葉から分かるように、神は世の終わりに来られる時、よりよくわたしたちを救い、きよめるためにまた声を発し、言葉を言われます。神は初めであり、終わりです。世の終わりに、聖霊は諸教会に語って神の民を牧し、供給されます。わたしたちが神から供給される生ける命の水を求め、受け入れることができれば、新しい命、永遠の命を得られます。なぜなら、神は真理、道、命であり、神こそが人に命を供給できるからです。これで分かりますが、神が世の終わりに言葉を言い、働くのは、神の、永遠の命に至る道をわたしたち人類に与えるためであり、わたしたち人類に真理の道、命の道を得させるためです。真理がわたしたちの命となったら、わたしたちは永遠の命を得ました。永遠の命を得た人が死を恐れることがあるだろうか。さまざまな災難が臨む時、このような人は神に守られています。それは聖書に「あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない」(詩91:7)と書かれているとおりです。どんな災いも命を得た人に臨みません。だから、真理、命を得た人は永遠の命を得た人です。


エチオピアの宦官が福音を受け入れたことによってもたらされる啓示

2019-11-03 21:41:24 | 聖書の言葉

   聖書にこう記されています。「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財政の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。




   すると、「霊」がフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、『読んでいることがお分かりになりますか』と言った。宦官は、『手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう』と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。彼が朗読していた聖書の個所はこれである。『彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ』。宦官はフィリポに言った。『どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか』。そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか』。フィリポが、『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は、『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた。そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた」(徒8:26-38)。

   以上は、エチオピアの宦官が主イエスの福音を受け入れる過程の記録です。わたしたちが知っているように、当時このエチオピアの宦官は地位、名望が高く、しかも敬虔なクリスチャンでした。彼はエルサレムに礼拝に来て、帰る途中でフィリポに出会いました。フィリポが彼に読んでいることが分かるかと聞いた時、彼は自分の身分と聖書の知識を鼻にかけず、また高慢ではなく、自分の身分と地位を考慮せず、謙虚にフィリポに教えてもらいました。フィリポが彼に主イエスの働きを告げ知らせる時、彼は自分の観念を守って逆らったり、罪定めしたりすることなく、単純で従順な心をもって主イエスの働きを受け入れました。

   このことから分かるように、エチオピアの宦官は神を信じる上で、真理を渇仰する心を持っていました。彼は真理を理解するために、進んで自分を低くしました。最終的に、彼は彼の真理を求める態度のゆえに、主イエスの救いを得ました。

   だが、当時律法を守っているパリサイ人たちはそうではなかったのです。彼らは聖書をすらすらと暗唱でき、海と陸を行き巡ってヤーウェ神の律法を宣べ伝えていましたが、保守的で主イエスのなさった新しい仕事を受け入れようとせず、自分たちの観念、想像をかたくなに守り、全然真理を求める心を持ちませんでした。彼らは自分たちの地位と生活の道を守るために極力主イエスの働きに逆らい、主イエスの働きを罪定めし、最終的にローマ政府と結託して主イエスを十字架につけました。そのため、神に呪われ、懲罰されました。以上から分かるように、主の到来に対する人の態度が違えば、人の得る結末も違います。

   今、世の終わりはもう来ました。主イエスはかつて、彼がまた来ると約束されました。しかもヨハネの黙示録に「わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て」(黙14:6)と預言されています。ここから分かるように、主は再来される時、永遠の福音を地上に住む人々に告げ知らせられます。だから、わたしたちは目を覚まして待つべきです。もしだれかが再来される主イエスの働きと言葉を宣べ伝え、証しするなら、わたしたちはエチオピアの宦官に倣って、謙虚に真理を求めるべきです。そうしてこそ、世の終わりの救いを得て、主と共に宴席に着くことができます。それは聖書に預言されているとおりです。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙3:20)。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(マタ5:6)。「心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタ5:3)。わたしたちの地位が高くても低くても、わたしたちの神を信じる時間が長くても短くても、わたしたちが宗教的観念を捨て、謙虚に真理を求めさえすれば、神の啓き、導きを得て神の足跡に従うことができます。そうなったら、神の世の終わりの救いを得ました。