賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

なぜ主イエスは安息日に弟子たちが麦の穂を摘んで食べることを許されたのか

2019-11-18 10:42:31 | 聖書の言葉

   「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた」(マタイによる福音書12:1)。

   以前この節を見た時、なぜ主イエスが安息日に外出なさったか、なぜ彼が麦畑を通られた時、弟子たちに麦の穂を摘んで食べることを許されたか、全然分かりませんでした。律法の規定によれば、安息日にすべての仕事を止めて神を礼拝すべきであり、勝手に外出したり、勝手に活動したりすることが許されていません。主イエスのこのような行動は、当時のパリサイ人の目には、律法を犯すものでした。では、主イエスはなぜそうなさったのですか。主イエスは一体当時の人に何を教えたかったのですか。



   その後、わたしは主にある兄弟姉妹たちとこの問題について討議しました。主の導きの下で、わたしたちはとうとう問題の真相が分かりました。この真相はこうです。主イエスが受肉して人の子となって働かれる前に、神はずっと聖霊の働きという方式によって人類を導かれていました。腐敗した人類は肉眼凡胎であって、直接ヤーウェ神の啓示を得られるモーセとほかの預言者たち以外にいかなる人も直接神の意志と神の人に対する要求を理解することができません。だから、神が律法を定め、発布することの意義は、当時の人に彼の意志と要求を伝えて、彼らに律法と戒めを守れば神の祝福を得られ、律法と戒めに違反すれば律法によって罪定めされ、神によって呪われることを分からせることです。神は律法と戒めによって、人が地上で合理的な、秩序正しい生活を送るのを導かれました。それは、人が律法と戒めを守ると同時に、神を本当に畏れるためでした。そうなったら、サタンに腐敗させられた人類は罪悪によって食い尽くされることはなくなり、律法の拘束を受けて、正常な人の持つべき生活を送るようになりました。

   神は受肉して人の間に来て働いた後、直接声を発し、言葉を言って人の必要を供給することができ、直接彼の意志と、彼の人に対する要求を言い表すこともできます。例えば、当時主イエスにつき従う弟子たちと民はどんな難題があっても、直接主に求めることができました。主は彼らの実際の必要によってその場ですぐに解答することができ、直接明瞭に実行の道を指し示すこともできました。なぜなら、主イエスのすべての言葉、彼のなさったすべてのこと、彼の出されたすべての要求は神自身から出るものだからです。それは、「わたしは道であり、真理であり、命である。……」(ヨハネによる福音書14:6)と主イエスが言われたとおりです。だから、神自身は人類に現れた後、律法の文字、規定に基づいて働く必要がなく、時間、空間、地理、人の観念、想像によって束縛されることはありません。こういうわけで、主イエスが安息日に外出し、また空腹になった弟子たちに麦の穂を摘んで食べることを許すという行為は、当時の人に彼の到来がすでに律法の時代を終わらせ、贖いの時代の新しい仕事を開いたことを告げていました。

   主イエスの当時の働きは人の観念にかないませんでしたが、真心をもって神を信じ、真理を愛するすべての人、例えば弟子ペテロ、ヨハネなどは観念、想像に縛られたり、束縛されたりせず、主の働きと言葉のゆえに、彼が主だと確信し、しかも動揺せずに主につき従い、主を証ししました。しかし、ユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人たちは主の働き、言葉の中から真理を求めないばかりか、かえって律法の文字、規定によって主イエスを、律法と戒めを守らない者と罪定めし、そうすることで神の新しい仕事に逆らいました。パリサイ人は口では神を信じると言っているが、実は自分の観念、想像の中の神、聖書の文字の中に限定されている神を信じていたのです。神はただ律法を発布する神だ、神の働きはただ律法の範囲内にあり、律法を超えたら神の働きではなくなると、彼らは思っていました。彼らは観念が陳腐でかたくなで、本性が傲慢で独りよがりであって、死んでも真理を求めず、真理に頭を下げませんでした。そのため、彼らは人の世に来て人類を贖う主イエスを十字架につけ、許すことのできない大悪を犯しました。主イエスは彼らを彼らの「七重の災い」によって罪定めし、しかも彼らを徹底的に捨て、淘汰されました。これは周知の事実です。以上から分かるように、神の働きは永遠に新しく、決して古くはなく、真理を求め、真理に従う、神の働きについていける人はみな神に救われる人であり、神の働きの歩調についていけず、観念、想像を固守して神を罪定めし、神に逆らう人はみなパリサイ人の子で、必ず神の働きによって明らかにされ、淘汰されます。これは前人が残した歴史の教訓であり、また現代のわたしたちと未来の人が心に銘記すべき戒めです!


なぜ主イエスは安息日に働かれたのでしょうか

2019-11-17 21:32:07 | 聖書の言葉

ヤーウェ神が人に安息日を守るように要求されました

   旧約聖書には、ヤーウェ神が律法と戒めを発布してわたしたち人類に守らせたことが記されています。安息日を守ることは、人の遵守すべきことの一つです。第四の戒めはこう言っています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出20:8-11)。ヤーウェ神は万物創造の七日目を安息日と定められました。この日、人はみな手元のすべての仕事を止めて神を礼拝し、神にいけにえをささげ、太鼓をたたき、竪琴を奏でて神を賛美すべきです。安息日に勝手に外出してはならず、いかなる仕事もしてはなりません。民が安息日を守らなかったら、他人に石で打ち殺されました。祭司が安息日を守れなかったなら、ヤーウェ神は天から火を下して彼を焼き殺しました。これで分かるように、律法はわたしたち人類が厳しく遵守すべきです。



主イエスは安息日に働かれました

   ヤーウェ神は人に安息日を守るように要求されました。でも新約の四福音書には、主イエスが働かれた時安息日をお守りにならなかったことが記されています。例えば、マタイによる福音書第12章1節にこう書かれています。「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた」。ルカによる福音書第14章1-5節にこう書かれています。「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。『安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか』。彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。『あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか』」。この二箇所から分かりますが、主イエスは働かれた時、安息日をお守りませんでした。彼は安息日に病人の病気をいやされました。しかも安息日に弟子たちを連れて麦畑を通られた時、弟子たちが麦の穂を摘んで食べてもお責めになりませんでした。これで分かるように、主イエスは律法の下のイスラエルの民のために一つの新しい道を開かれました。

なぜ主イエスは安息日に働かれたのですか。主の意図が何でしたか。

   主イエスは「人の子は安息日の主なのである」(マタ12:8)と言われました。主イエスが安息日に働いたのは、わたしたち人類が神は安息日の主で、すべてのことは神に決められるということを知るためでした。神はヤーウェと呼ばれることができ、律法、戒めを発布することもでき、主イエスと呼ばれて、しるしと奇跡を行ない、十字架につけられて罪祭となることもできました。彼は神殿の中で働くことも神殿の外で働くこともでき、律法を発布することも律法を廃棄することもでき、預言者たちに彼の言葉を伝えさせることも、受肉して人の子となって自ら人類を贖うこともできました。しかも彼はイスラエルで働かれた後、贖いの福音を宇宙の果てにまで宣べ伝えることができました。……神にあっては、いかなる制限や禁忌もありません。神がいつ働くか、どのように働くか、どこで働くかということに融通性があります。神は自分のしたいようになさるのです。

   主イエスが安息日に働いたのは、主は新しい仕事をもたらしたということ、また、わたしたちがもはや定め、規定を守らず、もはや神殿に行って神を礼拝せず、どんな時どんな場所でも心と誠実さをもって神を礼拝し、しかも主イエスから与えられる豊かな恵みを享受するために、主はわたしたち人類を律法の束縛から導き出すだろうということを、わたしたち人類に知らせるためでした。主イエスの言葉と働きからわたしたちが分かりますが、神の道は生きているのであって、死んだのではなく、一定不変でもありません。神は永遠に新しくて、古くなることがない神です。だから、神はいつまでも新しい仕事をなさるのです。主イエスが力と権威に満ちているのだから、彼の仕事はいかなる人、事、物にも束縛されず、いかなる敵勢力にも阻まれません。ローマ政府とユダヤ教全体がどのように迫害し、罪定めし、かき乱しても、主イエスの贖いの福音は依然として世界各国に宣べ伝えられました。聖書のこの節を見た後、あなたはどんな認識を持っていますか。


なぜ主イエスは普通の姿で人の間で働かれたのか

2019-11-16 23:10:57 | 聖書の言葉

   わたしは牧師で、主のために長年働き、道を説きました。しかし、主イエスがこの世に来て働かれる時、なぜ普通で平凡な人の姿を取られたのかという疑問はずっとわたしの心底にあります。主イエスの容貌が平凡なので、多くの人は彼が神ご自身であることを否定します。多数の人は彼を普通の人と見なしてしまいます。特に祭司長、律法学者、パリサイ人はそうです。彼らは主イエスを神として扱うどころか、かえって主イエスがただ貧しい大工の息子だと論断し、主イエスが悪霊のかしらの力で人の病気をいやし、悪霊を追い出すのだと中傷し、主イエスが神ご自身であることを極力否定しました。「もしわたしがその時代に生まれたら、どのように主イエスを扱うのか、それらの人のように主イエスの平凡さのゆえに彼を評価し、否むだろうか」と、わたしは自問せずにはいられません。これらを考えた後、わたしは自分がどうなるか分かりません。よく考えてみれば、わたしがいま主イエスをわたしの救い主として受け入れることができるのは、主イエスの贖いの仕事がすでに成就し、主の聖なる名が広範囲にわたって証しされたからです。もし主イエスの働きの時代に生まれたら、わたしも当初のパリサイ人と同じように主イエスの普通の容貌のゆえに主に逆らうかもしれません。それで、わたしは困惑してしまいます。「神が最高至上なのに、なぜ普通で平凡な姿を取ってこの世に来て働かれるのか。神が帝王の家に生まれて、偉大な姿、偉人の風格があるとしたら、人は容易に彼を受け入れるのではないか」と。わたしは長い間この問題に困惑しています。

   この問題は、わたしがいくら考えても分かりません。わたしは何度も聖書を調べ、また多くの本を読みました。聖書を読み、真理を求め、祈ることによって、わたしは主イエスが普通の姿でこの世で働かれることは意義のあることだと分かりました。わたしはまず、聖書にこういうことが記されているのを見ました。東方の三博士は彼らの想像、観念のゆえに、メシヤが王宮に生まれるはずだと思っていました。彼らは王宮に行ったが、生まれた主イエスが見つかりませんでした。彼らの予想に反して、主イエスは飼い葉桶に生まれ、ユダヤのベツレヘムのある大工の家に生まれ、しかも普通の人の姿を取られました。神はそんなに偉大ですが、普通の人の姿を取られました。このことから分かるように、神の本質はへりくだり、控え目に振る舞うことであり、神は地位があるが、うぬぼれず、自分をひけらかして人に崇拝させることは全然しません。しかしわたしたちは虚栄的であって、人の外見を見、偉大な姿を崇拝するだけで、神の本質と、神の美、善という面とを認識することを重んじません。考えてみましょう。人が想像しているように、主イエスが本当に王宮に生まれ、しかも偉大な姿があるなら、あらゆる人はどうなっただろう。そうであれば、神に逆らうユダヤ人、律法学者、パリサイ人たちは主イエスの普通の姿のゆえに主に逆らうことはなくなります。逆に、彼らはきっと主イエスについて行きます。それでは、彼らの偽善的な、神に逆らう本性の本質はどうして明らかにされることができるでしょうか。それだけでなく、地位の低い人たちは主イエスの偉大な姿と高い地位のゆえに、神は雲の上の存在だと思ってしまいます。こうして、それらの普通の民は容易に神に近づくことができず、また容易に主の救いを得ることができません。



   ここまで言う時、わたしは主イエスが普通の姿で人の間で働くということの中には神の知恵が隠されていると認識しました。神は全地を見渡すことができるので、神を信じる人は多いが、真心をもって神を信じ、真理を渇望する人はほんのわずかだと知っておられます。そういうわけで、神は、ご自分が平凡で普通の人の姿で現れることによって、真心をもって神を信じ、真理を渇望するすべての人を選び、救われるのです。主イエスはこう言われました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハ10:27)。真心をもって神を信じ、真理を渇望するすべての人、例えば、弟子ペテロ、ヨハネ、アンデレ、ナタナエルと一部の民は主イエスの道を聞いたため、それは主の声だと分かり、主に立ち返りました。聖霊は真心をもって神を信じず、真理を渇望しない人たちに対して働かれませんでした。彼らは当初のパリサイ人たちと同じで、まさに主イエスの働きによって淘汰される人でした。神がこのようにすれば、あらゆる人は明らかにされました。なぜなら、真理を求め、渇望する、聖霊の働きについて行ける人は神のどの段階の働きの中にも神の求めておられる人ですが、聖霊の働きについて行けない人は聖霊の働きによって淘汰される人です。こうして、善人と悪人という二種類の人は容易に分けられることができます。これはまさに神の知恵です!

   これらが分かった後、わたしは気持ちがすっきりしました。しかも、主イエス・キリストが普通の姿を取って働くのは、へりくだり、控え目に振る舞うという神の本質をわたしたちに認識させ、わたしたちと神の間の隔たりを縮め、わたしたちに主イエスの言葉の中から真理の供給と牧養を得させるためだけでなく、真理を愛さず、いつも外見によって神を限定する、神に対する漠然とした想像に満ちている人を明らかにするためでもあると知りました。こうして、わたしは神がどのように仕事をしても、その仕事の中に神の意図、知恵があることを見ました。この面の真理を求めることによって、わたしは大きな収穫を得ました。これからは、わたしはパリサイ人の教訓をくみ取らなければならず、主イエス・キリストの外見によって、彼が神ご自身ではないと断定してはならず、ペテロ、ナタナエルのように、主の言葉を通して神の声かどうかを弁別すべきです。そうすれば、神を罪定めし、神に逆らうという間違いを犯すことはなくなります。

   神の啓きに感謝します。すべての栄光を天におられるわたしたちの父に帰します!


日曜日に関しては、わたしたちは何問正しく答えられるか

2019-11-13 11:37:12 | 聖書の言葉

一、一週間には何日ありますか。

   こう聞かれたら、皆さんはきっと口をそろえて、「もちろん七日あります。これはだれも知っていますよ。聞く必要がないのではありませんか」と答えます。


二、週の初めの日はいつですか。

   多くの人は考えもせずに、こう答えるでしょう。「もちろん月曜日です。なぜなら、土曜日、日曜日連続して休んだ後、さまざまな職業の人々は一週間の仕事を始め、月曜日ごとに、学生たちが授業に出始め、労働者たちが出勤し始めます……。これらの事実は、月曜日が週の初めの日だと証明するのではありませんか。月曜日は週の始まりではありませんか」と。


   だが、クリスチャンたちは「以上の答えは正しくありません。週の初めの日は日曜日です」と言います。

   だれが正しいかについては、わたしたちはしばらく結論を下しません。まず次の問題を見ましょう。


三、カレンダーの中の毎週の初めの日は本当に月曜日ですか。

   ある人たちは自分の見方を堅持し、「月曜日は週の初めの日です。これは間違いのないことです」と思うかもしれません。では、わたしたちはやはり事実によって問題を説明しましょう。




   カレンダーを見る時、多くの人はびっくりして言うでしょう。「なんと、一週間の七日はこのように配列されるのだ。なぜ月曜日を一番目とせず、日曜日を一番目とするのですか。これはどういうことですか。月曜日は週の初めの日ではないのですか」と。

   しかしクリスチャンたちはこう答えます。「カレンダーの配列にはいわれがあります。それは、わたしたちの想像、観念のとおりに配列されるのではなく、主イエスの働きとは関係があります! 聖書にこう書かれています。『さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った』『この方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ』(マタ28:1、6)。これで分かりますが、週の初めの日は主イエスの復活した日であり、カレンダーの中の日曜日でもあります。なぜなら、安息日は現在の土曜日であり、また週の第七日、すなわち最後の日です。こういうわけで、カレンダーの中の日曜日、すなわち週の初めの日は一番目とされました。それで、月曜日は週の第二日となります。その他はこのとおりに類推すればよろしい……」。


四、なぜ日曜日に全人類がみな休むのですか。

   ある人たちはこう言うでしょう。「日曜日は休日です。わたしたちは何日も連続して仕事をし、非常に忙しいです。だから、日曜日に休み、リッラクスし、或いは私用を片付けるべきです」。

   この問題に関しては、あるクリスチャンたちはこう言います。「わたしたちが知っているように、わたしたち罪人たちを救うためには、主イエスは十字架につけられました。三日後、彼は復活されました。主を信じる人はわたしたちに対する神の救いの恩恵を記念するために、日曜日に主日を守ります。日曜日に休むのは、物見遊山をするためではなく、主を礼拝するためです。実は、日曜日を週の初めの日とするのは、わたしたちが週の初めに神を礼拝するためであり、どんなことをしても心の中で神をあがめ、神に決めさせるためです。そうしてこそ、神の祝福を得られます。例えば、キリスト教を国教とする国々は世界ではかなり強大です。これらの国はさまざまな面で神に祝福されたため、神を礼拝しない国よりさらに多くのものを得ました。そうなるのは、彼らが神をあがめることができるためです。これは、日曜日に全人類がみな休む原因です!」

 

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神の性質の中には、慈しみ、憐れみだけがあるのか

2019-11-12 20:45:02 | 聖書の言葉

   わたしたちが知っているように、律法の時期の末期、人は極めて深く腐敗して、律法を守れないため、律法によって罪定めされ、死刑にされるという危険な状態にありました。受肉した主イエスはわたしたちの罪を担うために、十字架につけられてわたしたちを罪の中から贖い戻されました。彼はわたしたちの罪を赦し、またわたしたちに豊かな恵みと祝福を与えられました。そのため、わたしたちは神が永遠に人を愛し、永遠に慈しみ、憐れみ、簡単に怒らないと思っています。神の性質の中に慈しみ、憐れみだけがあるとでも言うのですか。神に対するわたしたちのこのような認識は一面的ではありませんか。では、わたしたちは神のなさった、律法の時期と恵みの時期の仕事を通して、神のどんな性質がわたしたちが認識していないかを見てみましょう。




   わたしたちは旧約の律法に関する記録を通して次のことを知りました。ヤーウェ神の律法の時期の仕事は、律法を発布し、地上での人の生活を導き、人に律法、戒めを守らせ、人に罪とは何か、どんな人が神に祝福されるか、どんな人が神に呪われるかを知らせることです。律法、戒めに背いたすべての人は神の性質を犯したため、罪定めされ、死刑にされました。ヤーウェ神が言われたように、「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう。……これらの呪いは、ことごとくあなたに臨み、付きまとい、実現して、ついにあなたを滅びに至らせる。……」(申28:15、45)。これで分かるように、神が律法の時期に発表されたのは激しい怒り、呪いという性質です。しかし恵みの時期に、わたしたちは主イエスが人を愛していて、人類を贖うために十字架につけられて人の罪を担ったのを見ました。当時、人々は主イエスは肉体の中で現れて、贖いの仕事をする神自身であることを認識せず、ユダヤの民はみな彼を見捨てました。ところが、主イエスは極めて大きな愛と寛容、忍耐をもって人の間で働いておられました。主イエスは兵卒たちにむち打たれた時でさえ、父なる神が彼らの無知を赦してくださるようにと祈られました。こうして、わたしたちは神が恵みの時期におもに慈しみ、憐れみという性質を発表するのを見ました。では、わたしたちは主イエスが働かれた時、神が威厳、激しい怒りという性質を発表したかどうかを見てみましょう。主イエスはエルサレムの神殿に入った時、神殿が売り買いをする場所になったのを見られました。すると、彼は両替人の台や、鳩を売る者の腰掛けをひっくり返し、神殿の中の牛や羊を追い出し、しかも彼らが神を礼拝する神殿を強盗の巣にしてしまったと責められました。このような時、神は威厳、激しい怒りという性質を表現されました。彼は神殿の中の盲人や足の不自由な人がそばに寄って来るのを見た時、彼らをいやされました。このことから、わたしたちは神の慈しみ、憐れみを見ました。さらに、ヤーウェ神に仕える祭司長、律法学者とパリサイ人が神の言葉を守り、神の発布された戒め、掟によって神に仕えた時、神殿の中がヤーウェ神の栄光で満ちていて、ヤーウェ神が彼らと共にあり、神の霊が彼らの間で働き、神の慈しみ、憐れみも彼らに伴っていました。律法の時期の末期になって、ユダヤ教のリーダーたちは律法に背いて劣ったいけにえをささげ、いけにえを盗み食いし、昔の人たちの言い伝えについてだけ話し、神の戒めを捨てました。彼らは民を導いて宗教的儀式を守り、口先で神を礼拝していたが、心の中に神の位置がありませんでした。自分の地位と飯の種を守るためには、彼らは民が神に対する認識を追い求めるのを導かないで、ただ聖書の中の、文字の教理を説教していました。だから、主イエスが来て働かれた時、彼らは神の民を神の前にもたらすどころか、かえって主イエスに逆らい、主イエスを罪定めし、人が神に立ち返るのを妨げ、阻止しました。だから、主イエスは「七重の災い」をもって彼らを呪い、罪定めし、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と言いました。こんな時、威厳、激しい怒りという神の性質が現されました。最終的に、ユダヤ教のリーダーたちは主イエスは預言の中の来たるべきメシアであり、キリストの現れであることを認識していないので、主イエスを十字架につけ、神の義なる性質の中の激しい怒りに触れました。そのため、イスラエル国が紀元七十年滅びました。主を裏切ったユダは神の性質を犯したため、体が真ん中から裂けて、死にました。これらのことから、わたしたちは神の威厳、激しい怒り、そして神の義なる性質の不可侵性を見ました。

   聖書に記されている物語の中から、わたしたちは神が異なる人に対して異なる性質を発表するのを見ることもできます。わたしたちはみな次のことを知っています。サウルはイスラエル人の初めての王でした。最初は、彼はヤーウェ神の命令に従い、神の言葉に基づいて実行し、神の道を守っていました。そのため、ヤーウェ神の霊は彼と共にあり、彼は神に祝福されて、いつも戦いに勝ち、神の慈しみ、憐れみも常に彼に伴っていました。しかしアマレクを討つ時、彼は神の敵アマレクに属するものを一切滅ぼし尽くせという神の命令に従いませんでした。むしろ彼は自分の意志によって羊の群れと牛の群れの最も良いものを引いて来ました。そして、それらを神への供え物にしようとすると言いました。そのため、サムエルは「聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(サム上15:22)という神の言葉を彼に伝えました。サウルは神の言葉に従うことができないため、聖霊に捨てられ、神の導きを失いました。こうして、彼はもはや勝ち戦をすることができなくなりました。それ以後、彼は苦しみと恐怖の中で生きるようになりました。サウルが神の言葉に聞き従う時、神は彼と共にありました。だが、彼が神の言葉に違反して自分の意志によって事を行う時、神の怒りは彼に臨みました。神の祝福を失ったサウルは弱くなり、無力になりました。最終的に、戦に負けたため自殺しました。このことから、わたしたちは神がこんな時威厳、激しい怒りという性質を表現したのを見ました。

   わたしたちはまたダビデ王のことを見てみましょう。ダビデは小さい頃から羊を放牧していました。かつて石投げ紐と石一つでペリシテ族の巨人に打ち勝ちました。王とされた後、何度もすぐれた手柄を立てました。彼は戦いに出るたびに、ヤーウェ神に依り頼んで相手に打ち勝ちました。彼は神の道を行い、神に畏れを抱いていて、神の言葉に聞き従うのでした。神の霊も常に彼と共にありました。だから、彼が得たのはヤーウェ神の祝福です。それによって、わたしたちは慈しみ、憐れみという神の性質を見ました。しかし、彼はヘト人ウリヤの妻バト・シェバをわがものにするために、ウリヤをアンモン人の剣で殺しました。そしてウリヤの妻バト・シェバを娶りました。ヤーウェ神がダビデの行った悪いことを見たため、威厳、激しい怒りという神の性質は彼に臨みました。ヤーウェ神はダビデを呪って、剣がとこしえに彼の家から去らないようにされました。その上、バト・シェバが生んだダビデの子も死にました。ダビデの息子さえもダビデを殺そうとして追跡しました。このことから、わたしたちは威厳、激しい怒りという神の性質の不可侵性を見ました。そういうわけで、ダビデは一生をかけて神に悔い改め、しかも死ぬまでにほかの女に近づきませんでした。

   以上の事例から、わたしたちは神の性質の中に慈しみ、憐れみもあれば、威厳、激しい怒りもあること、また、神が異なる人に対して異なる性質を発表し、神の性質が人の言動、人の行為、人の心の奥底の神に対する態度に基づいて発表されることを見ました。わたしたちがさっき述べていたダビデを例に挙げましょう。彼が心の中で神に依り頼み、神の言葉に聞き従い、神の道を行う時、神は慈しみ、憐れみという性質を表現し、神の霊も彼に伴っていて、彼に祝福を与えられました。しかし彼が神の目に悪とされることをし、神の道を行わず、神の言葉に違反する時、神の威厳、激しい怒りは彼に臨みました。わたしたちはこれで分かりました。神の慈しみ、憐れみは神の言葉を聞き、神の道を行い、神を畏れ、悪を避ける人に与えられ、神の威厳、激しい怒りは神の言葉に違反し、神の道を行わず、神を畏れる心を全然持たず、神の目に悪とされることをするすべての人に臨みます。神の慈しみ、憐れみと威厳、激しい怒りはすべて神の義なる性質の表現です。彼の義なる性質は、いかなる人も犯してはなりません。すべての良い事物のゆえに、神は慈しみ、憐れみという性質を発表されます。罪悪や神に逆らうことのゆえに、神は激しい怒りを放たれます。だから、人がどのくらいの代価を払っても、どのくらいの苦しみを受けても、どのくらいの仕事をしても、神の怒りに触れ、神の言葉に違反し、神に逆らい、背いたら、神は彼を嫌悪し、またご自分の義なる性質を表現します。わたしたちが神の性質に対する本当の認識を持ってこそ、自分を、神の性質を犯すことから守ることができます。