賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書の中の災いの前に携挙されるとは何を指しているでしょうか

2020-06-09 23:34:23 | 信仰生活

   信仰ステーションの兄弟姉妹:

   私たちはいま終わりの日の最終段階にいますが、あらゆる種類の災害がますます大規模になっているという報道を目にしました。災いの前に自分が携挙されるかどうか、災いの前に自分が勝利者にされるかどうかは、私にとって鍵を握る問題です。何があろうとも主の御名を守り、主のために一生懸命働き、いかなる艱難に遭っても後戻りしない限り私たちは勝利者になれるというのが、これら二つの問題に対する私の意見です。そうすれば災いが訪れたとき、私たちは空中に引き上げられて主にお会いし、主のお約束を享受できるのです。しかし中には私の意見に疑問を投げかける人がいて、あんなことやこんなことをいまや成し遂げた人がいるとか、さらには、災いは大規模になりつつあって多種多様な災害がすでに降りかかっているけれど、いまだに誰一人として空中に携挙されるのを目撃されていない、などと言っています。携挙されるというのは、本当に空中へと携挙されることを意味しているのでしょうか。それに勝利者にされるというのは、これらのことを成し遂げるだけでいいほど単純なものなのでしょうか。私にはそれがまったくわからず、あなたの意見を伺いたいと思います。お返事お待ちしています。

   ショウギョウ

 

   ショウギョウ姉妹:

   自分が完全には理解していない問題について追求したり話し合ったりできることは、神様の御心にかなっています。主に感謝いたします。

   災いの前に携挙されるかどうか、災いの前に勝利者にされるかどうかは、私たちが天国に入れるかどうかに直接関係しています。しかし、最後に勝利者につくられ、天国へ携挙されることを望むなら、まずは携挙されることが一体どういうことなのか、勝利者につくられるとはどういうことなのかを理解しなくてはなりません。それを話し合うため、この二つの問題を以下のように分けました。神様が私たちを導いてくださいますように。

1.「災いの前に携挙される」ことは何を意味するのか

   災いの前に携挙されることが何を意味するのかを理解したければ、まずは携挙されることが何を意味するのかを知らなければなりません。携挙されるというのは、主がお戻りになるとき、私たちを空中に引き上げて主に会わせてくださることだと考える人がいます。それは(テサロニケ人への第一の手紙第4章17節)でパウロがこう述べたからです。「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」しかしこれは主が意図なされたことでしょうか。この言葉はパウロ自身が言ったに過ぎず、主イエスがそうおっしゃったのでもなければ、聖霊がそのような証しをしたわけでもないので、主の意図を表わしていることはありえません。私たち全員が知っているとおり、はじめに神様は土を使って地上に人類をお作りになり、ご自身が地上にお作りになったすべてのものを管理させるとともに、ご自身を崇拝して讃えるようお命じになりました。さらに神様ははるか昔、自分は地上に神の国を築いて人間とともに地上にとどまり、世の国々はすべてキリストによって統治される国になるとはっきり告げられました。それは黙示録で次のように預言されているとおりです。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして…」(ヨハネの黙示録21:3)「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」(ヨハネの黙示録11:15)したがって主はお戻りになるとき、人々を空中に引き上げて主に会わせてくださるのではなく、地上に御国をお築きになるのです。神様が私たちに用意してくださった終着点は地上にあるからです。さらに、もし私たちが空中に引き上げられたとしても、そこで生き延びることはできないはずです。ゆえに、携挙されるとは天に携挙されることだという考えは、真理とも神様の働きの事実とも合致していません。それは私たちの観念と想像の産物に過ぎず、行きすぎた願望なのです。

   では、携挙されるとは何を意味するのでしょうか。ここで神様の御言葉の一節を読みましょう。そうすれば理解できます。それは次の一節です。「引き上げられる」とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることではない。これは大きな間違いである。「引き上げられる」とは、わたしの予定と選びを指しているのだ。それはわたしが予め定め、選んだすべての人々を対象としている。長子、子ら、または民の地位を得た者は皆、引き上げられた人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者は、わたしの前に引き上げられる人々である。これは絶対に真実であり、決して変わらず、誰も反論することはできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に携挙されるだろう。」

   この一節から、引き上げられるとは低い場所から高い場所へと引き上げられることを意味するのではなく、むしろ神様によって予め定められ、選ばれた人を指していることがはっきりとわかります。予め定められるとは、時代に先立ち救いを獲得するよう神様によって予定された人を指し、選ばれるとは、神様の足跡に従い、神様の御前に出てその新しい働きを受け入れられるよう予定されている人を指しています。それが引き上げられることの意味です。私たちがよく知っているとおり、律法の時代の末期、主イエスは新段階の働きをなさるべく来られました。当時、ペテロ、ヨハネ、マタイ、ヤコブなどはみな主イエスの宣べ伝える説教を聞いたので、律法を捨てて主に従い、かくして神様の御前に引き上げられました。同じく主イエスは、自分は終わりの日に戻り、人間のあいだに来て彼らを救うべく言葉を話し働きを行なうとおっしゃいました。それは主イエスがこうおっしゃったとおりです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書16:12~13)「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書12:48)「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた」(ヨハネの黙示録20:12)以上の御言葉から、主イエスは終わりの日にお戻りになるとき、私たちにおっしゃるべきことがまだたくさんあり、ご自身の御言葉を表現して裁きの働きをなさることがはっきりわかります。私たちは神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れることでのみ、本当に神様の御前へと携挙されることができるのです。

   したがって、その言葉が暗示するとおり、災いの前に携挙されるとは、大いなる災いの前に神様が人の姿をとって再びこの世界へ来られ、行なうべき働きをなさること、そしてそのときに主のお戻りを喜んでお迎えすることでのみ、私たちは災いの前に携挙されるということを意味しています。

   ここまで、災いの前に携挙されることが何を意味するのかを話し合いました。次は災いの前に勝利者にされることが何を意味するのかを話し合いましょう。

2.「災いの前に勝利者にされる」とは何を意味するのか

   災いの前に勝利者にされることが何を意味するのかを理解する前に、まずは勝利者とは何かを理解する必要があります。それは文字どおり、勝利する人たちの集団です。神様を信じる人全員が知っているとおり、サタンは神様の敵であり、ゆえに私たちは勝利しなければなりませんが、そのことは間違いなく、私たちがサタンに勝利しなければならないことを意味しています。したがって、勝利者とはサタンに勝利する人たちの集団を指しています。しかしサタンに勝利するとは何を意味するのでしょうか。私たちの祖先アダムとエバがサタンに誘惑されて以来、人類はずっと罪の中で生き、傲慢、うぬぼれ、利己心、卑劣、不正、欺瞞といったありとあらゆる堕落した性質で満たされてきました。私たち一人ひとりは残らずそれらに束縛され、そのような害毒に頼って生きていると言えます。したがって、サタンに勝利するとはサタンの束縛や足かせを振り払い、私たちをむしばむサタン的な害毒を完全に取り除き、もはやそれらによって生きることがなく、その代わりに神様の御言葉を聞いてそれによって生きることができるという意味です。そのようにして私たちは勝利者と呼ばれることができ、私たちの罪が真に清められるとともに、光の中で生きて神様のお恵みにふさわしくなれるのです。それは黙示録に記されているとおりです。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」(ヨハネの黙示録7:14)「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」(ヨハネの黙示録22:14)「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない」(ヨハネの黙示録3:12)「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」(ヨハネの黙示録21:7)「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった」(ヨハネの黙示録14:4~5)また神様の御言葉は次のように述べられています。「災害の前に完全にされる者たちは神に従順である。彼らはキリストに拠り頼んで生活し、キリストを証しし、キリストを崇める。彼らは勝利した男児たちであり、キリストの良き兵士たちである。」

   これらの御言葉から、勝利者とは大いなる艱難を乗り越える人だということがわかります。そのような人たちは神様の御言葉の裁きを経験し、自分の堕落した性質がすっかり清められ、神様への服従という現実を自分のものにしており、神様の国に入って神様のお約束を享受します。言い換えると、勝利者になることは主への信仰において苦しんだり、代償を払ったり、主の御名を守ったりできることでも、艱難が生じたときに後戻りしないことでもありません。そうではなく、神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れ、自分の罪を清めていただくことを意味しているのです。しかし私たちの現在の汚れと堕落のうち、どのくらいが清められたでしょう。私たちはいまだに傲慢、うぬぼれ、利己心、卑劣、不正、欺瞞といった、自分の堕落した性質をまったく取り除いていません。神様が祝福してくださるときは神様に服従できますが、好ましくないことが起きると思わず神様を責めかねません。自分よりも見事に説教を行なえる人を見ると、その人に対する嫉妬と憎悪が自分の中に生じます。自分の利益に関する出来事があると、不正に走り正直でなくなることがあります。これらはいくつかの例に過ぎません。したがって、災いの前に携挙され、勝利者にされることを望むなら、災いが訪れる前に神様による終わりの日の働きを受け入れ、神様の御言葉の裁きと刑罰を経験し、サタンの堕落した性質を残らず振り払い、神様の御言葉によって生き、キリストを讃え、万事においてキリストの証しをし、神様に従い神様を崇拝しなければなりません。そうして初めて、神様によって勝利者にされたと考えられるとともに、神様のお約束を受け継いで神様の国に入る資格を得るのです。

   ショウギョウ姉妹、「災いの前に携挙される」「災いの前に勝利者にされる」とはどういう意味かについて、ここまで交わって、あなたは少し理解できたでしょう。しかし、本当に災いの前に神様によって勝利者にされたいなら、より多くの真理を理解することが必要です。例えば、いったいどのように主イエスの再来を迎えれば、災いの前に携挙されるか、どのように神様の終わりの働きを経験すれば、神様によって勝利者にされるかなどです。もしあなたはさらに尋ね求めて理解したいなら、私たちに連絡して一緒に探求し交流することができ、或いは私たちとオンラインで交流することもできます。

   信仰ステーション


キリスト教が2000以上の教派に分裂していることは何を表しているのでしょうか

2020-06-08 00:30:55 | 信仰生活

  信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さん、こんにちは

   全世界で、イエス様の信者たちは多くの教派に分かれてしまっています。中国本土だけでも、信仰義認派、カリスマ派、呼喊派、大賛美派、三班僕人派、真イエス教会等が存在しています。私にはこれが理解できません。私たちは皆、主イエス様を信仰し、同じ聖書を読んでいるのに、どうしてこれほど多くの教派が現れるのでしょうか?このような形で主を信仰していて、私たちは主に良しとされることができるのでしょうか?

   リー・メン

 

   リー・メン姉妹、こんにちは

   あなたの疑問は実に現実的な問題に関連するものです。ほとんどの兄弟姉妹もこれには困惑しています。真理のこの一面について、まずは様々な教派がどのようにして誕生するのかについて話したいと思います。

   異なる教派は聖書における人々の偏った理解および彼らの傲慢な本性が原因で誕生しています。

   キリスト教は主イエス様の働きにより生まれ、元々は主御自身が導き牧養されていたということは、私たち主の信者全員が知っています。当時の信者は正しい道からそれることがなかったため、分裂は起っていませんでした。しかし、主イエス様が天に上られ、主の弟子と使徒たちが息絶えた後、異なる教派が少しずつ出現するようになったのです。どうしてこれらの教派が形成されたのでしょうか?神の御言葉を見て、これを理解していきましょう。神はこう仰いました。「人々は長年の間聖書を研究し、まことに多くの解釈を編み出し、多くの労力を費やしている。彼らはまた、聖書について数多くの異なった意見をもち、それについて果てしなく議論しており、現在では二千以上の教派が形成されている。」

   神の御言葉より、異なる教派が形成される主な理由は主を信仰する人々が聖書に関して各々の偏った理解を持っているからだということが分かります。主イエス様は十字架に磔にされる働きを成就された後に去っていかれ、その後に主イエス様の信者たちが主の福音を伝道し始めたということは私たち全員が知っています。しかし、神の信者たちは聖書の教えに関する純粋な理解を持っていないため、その多くが聖書に関する各々の偏った理解を教会を設立するための教義とし、それを固持してしまっているのです。例えば、ある信者たちは、「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙10:10)、という言葉を受けて信仰義認派を築きました。他には主イエス様の、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書4:17)、という御言葉に執着し、「悔改め派」が主の御心に最も則したものだと思い込んでいる信者たちもいます。各教派それぞれが聖書に関して偏った理解を持っています。さらに、人々は傲慢さ、うぬぼれ、独善性、自尊といったサタンの性質を持っています。彼らは自分たちに才能と博識があり、自分たちの持つ聖書の理解のみが純粋なもので、それだけが正しいと思っています。従って、彼らは他人の意見を強く拒み、または非難し、聖書の教えを解説して自己顕示するのです。彼らは人々を自分たちの周りに引き寄せて、独自の教派を立ち上げます。教派はこのようにして誕生します。2000年にも渡り、クリスチャンは異なる教義を持っていることが原因で、絶えず討論を行い、新教派が形成されてきました。彼らはお互いを攻撃し、軽蔑し、議論し、そして除外するために決して一つに団結することができない。このようにして1つの教会が2000以上の教派に分裂していったのです。これより、異なる教派の設立は人間が引き起こしているということが分かります。これは主イエス様が要求されていることでなければ、全く神の御心に沿ってもいないのです。

   宗教団体で神を信仰する人々は人々によって罠にかけられ、人々を崇拝し、人々に従い、真理を理解することや、神を知ることは決してありません。

   異なる教派が形成される原因を考えると、宗教指導者たちは誰もが神に仕えるために主の教えに従う代わりに、聖書に関する各々の理解を頼りに働き、説教していることが分かります。ならば、彼らの働きの本質は一体どのようなものなのでしょう?このような教派に属して神を信仰したら、どのような結果が伴うのでしょうか?神はこう仰っています。「たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。」

   神の御言葉から、宗教指導者たちと牧師たちは皆、神学的知識と教義に頼って働きと説教を行っているということが分かります。彼らは神への信仰において信者たちが持つ多種多様で不適切な考えや、信者たちの堕落を解決してくれることはありません。例えば、異なる教派間における攻撃や口論が起こる中で、牧師たちは皆自分たちの意見が正しく、他の教派の意見は間違っていると強く主張します。彼らは決して自分たちの逸脱や誤りを顧みることはなく、自分たちが傲慢な性質を表していることすら分かっていません。そして、彼らは信者たちが神を知ることを手伝うために神の御心を伝えることも全くありません。代わりに、彼らはいつも現実的な問題を避け、ただ単に中身のない理論を語っているだけなのです。彼らの交わりは罪の束縛を取り除くこととは全く無関係で、彼らはただ自分たちの才能、そして自分たちがどれだけ恵まれているか、さらには各々の神学的知識と理論を誇示したいだけなのです。信者は長い間牧師たちの言うことを聞いていると、必然的に彼らに影響されてしまいます。彼らは牧師たちの才能と牧師たちが非常に恵まれていることに憧れを持ち、牧師たちが雄弁で会話が上手なことに感銘を受け、自分たちも牧師たちのように豊かな聖書の知識を修得し、巧みに会話ができ、福音を伝え説教できさえすれば、他人の羨望と称賛の的になれるのになと思ってしまうのです。この結果、彼らは神の御言葉を実践することには注意を払わなくなり、神の御旨を見出そうともしなくなり、ただ単に儀式と規則に従うだけになってしまうのです。このように、宗教団体の信者たちは、律法の時代末期に神殿の中で神を信仰していた人たちと同じように、聖霊の導きを受けることができないのです。これ故に、彼らは何年神を信仰しても、真理を理解することも、神を知ることもできず、彼らの性質が変わることもないのです。従って、宗教の中で神を信仰するという本質は人間の指導者たちを崇拝しているに過ぎず、真に神に従っているということではないのです。

   宗教から離れ、神の働きについていき、神の御前に立ち返りましょう。

   聖書には次の節が記録されています。「終りの日に次のことが起る。ヤーウェの家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき…」(イザヤ書2:2)

   神はこう仰っています。「あらゆる宗教、あらゆる宗派の人々全てを、唯一の神の支配の下に集める……あなたがどの宗教に属していようと、最終的にあなたは皆神の支配の下に従うのである。神自身だけがこの働きを実行できるのであって、それはどの宗教の代表にも不可能である。世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって……万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。」

   神の御言葉より、終わりの日の末期には、全ての宗教が1つとなり、全人類が神の家に立ち返るということが分かります。終わりの日に、神は人類を救う一段階の働きを実行する必要があり、それによって神の顕現を心から切望する人々全てが神の御声を聞き、それぞれの教派を去り、神の御前に立ち返れるようになるのです。この働きは神御自身以外の者が行うことはできません。神は私たちを創造し、導き、さらには栄光に輝く終着点へと連れていくことがおできになり、これは神の権威の象徴であると同時に神の唯一無二な性質の象徴でもあり、いかなる教派の指導者や聖職者でも代わって行うことはできません。世界には2000を超える教派が存在していますが、その全てが人間によって設立されています。神の羊たちはついに教派から歩み去り、創造主の支配下に戻り、そうすることで全ての教派が1つとなります。これが、終わりの日に神が達成することを意図される働きです。牧師と長老たちがどれだけ高い地位にあったとしても、彼らは皆、サタンに堕落させられた人間なのです。彼らは自分を救うことすらできないのに、他人を救えるはずがありません。万物を支配される唯一の真の神のみが私たちをサタンの被害から救い、神の御前に導くことがおできになります。今は終わりの日が到来し、イエス様がお戻りになられたと、多くの人々が証ししています。私たちは観念を捨て、宗教を去り、終わりの日の神の働きと御言葉を探さなくてはなりません。これは、賢明な人がする選択です。

   以上が僅かですが私たちの見解です。少しでもお役に立てば幸いです。もし他にも質問がございましたら、またお気軽にお知らせください。

   敬具

   信仰ステーションより


クリスチャンとして、正常な教会生活は極めて重要である

2020-06-07 22:45:36 | 信仰生活

   こんにちは、信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さん、

   私は日中の仕事でとても疲れてしまい、夜はよく眠れません。結果的に、予定の時間に集会に出ようという気が起きなくなっています。束縛されたくありません。私に霊的な必要があった時に、兄弟姉妹を探しておしゃべりすればそれでいいのではないか、と思っています。この問題の原因は何なのでしょう。どのように解決すべきですか?

   アンジーン

   こんにちは、アンジーン姉妹、

   予定の時間に集会に出席する気が起きず、霊的な必要を感じた時だけ、積極的に兄弟姉妹を求めておしゃべりをすればよいのではないか、ということでした。そのように考えるのは、神を真に信じるとはどういうことか、集会の重要性とは何かを理解していないからです。真理のこの側面は、神様から称賛されるような信仰を持つことができるかどうかに直接関係しているため、非常に重要です。この点について、私がどのように理解しているかを少しお話します。お役に立てれば幸いです。

 

 

神様を真に信じるとはどのような意味か

   最初に神様が人間を創造された理由は、人間が地上で神様を称え、礼拝するためであったことを私たちは皆知っています。主イエスは言われました。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。」(マタイにによる福音書22:37-38)主の信じる者として、信仰と神様への礼拝、そして神様と正常な関係を持つことを最優先にすべきです。集会、祈り、真理を語り合うこと、賛美歌を歌うこと、そして神様を讃えることが、神様との正常な関係を確立する方法です。クリスチャンとして、最低これらを必ずやるべきです。神様の言葉はこう言っています。「『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」(「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より)「神の心において、自分の信仰が認められたことの無い人々がいる。換言すると、そうした人々の信仰を神が称賛しないため、そうした人々が神に付き従う者であることを、神が認めない。……こうした者は、神に対する信仰を、一種の余暇活動の趣味として捉え、神を単なる精神的な支えのように扱っている……神は、こうした人々のことを、どう思うであろうか。神は、こうした人々を、信者以外の者とみなす。」(「神の性質と神の業の結果を知る方法」より)ここから分かるのは、もし、私たちの神様への信仰が単に口頭で認め、心の中で信じることのみから成っていて、真理を追い求めず、神様の言葉を経験したり実践したりせず、信仰を精神的な支えや趣味としてとらえているのであれば、真に神様を信じているとは言えません。神様はこの手の信仰を称賛しません。神様の真の信者たちは、頻繁に神様の御前に出て、よく神様に祈り、よく神様の言葉を読み、集会に何度も出席し、神様の言葉から来る真理に対する理解を深めるべきです。同時に、神様の言葉を実際の生活に適用させ、経験し実践しなければなりません。信者たちは毎日起こることは神様によって支配され、定められていると信じています。これが特に当てはまるのは、彼らが自分の考えとは異なる何かに遭遇した時、そしてそのことが自身の堕落した性質を明らかにしている時です。彼らは神様の御前に出て、神様の言葉に従って自分自身と向き合えます。彼らは神様が定めた環境の中で学ぶべき課題、実践に移すべき真理を求めることができます。その後、彼らは神様の要求に従って実際にそれを実行し、サタン的な堕落した性質を投げ捨て、正常な人間性を生き、最後には、神様に対する真の認識、神様への従順、神様への愛を達成するのです。この方法によって神様の働きと言葉を体験する時にのみ、神様を真に信じるということが成り立ちます。このようなやり方で神様を信じて初めて、私たちは神様の承認を得られます。反対に、私たちの信仰に神様との正常な関係、集会への定期的な参加、祈り、真理を語り合うこと、そして、神様の言葉を実践に移すことが含まれていないならば、もし、空き時間だけの信仰であるならば、もし、数年間神様を信じても、堕落した性質がまったく変わらず、神様を真に理解しないならば、未信者の信仰と変わりがありません。神様はそういった信仰を信仰とは認めません。もし私たちの信仰がこのようなものであるなら、最後まで信じたとしても、神様の承認と救いは得られないでしょう。

教会生活は不可欠です

   予定の時間に集会に出席する気が起きないなら、教会生活の重要性を理解していないと言えます。実は、教会生活は神の言葉を語り合い、真理において理解を深めて成長する生活であり、それはまた聖霊の働きを体験し、神様の愛を享受する生活でもあります。真理を理解し、真理において成長し、神様の救いを得ることは、聖霊の働きなくしてはまず達成できない成果です。互いに仕え、施し合い、本分を尽くして神様に対して証しとなる教会生活を通してのみ、容易に聖霊の働きと神様の清めと救いを得られるのです。言い換えれば、信仰の面で神様の承認を獲得することと、神様の救いを達成することは、正常な教会生活と密接に関係しているのです。聖書は言っています。「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」(ヘブライ人への手紙10:25)主イエスは言われました。「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18:19-20)ここから分かるのは、教会生活を生きることは、クリスチャンである私たちに対する神様の要求のひとつであるという事実です。私たちの素質には限りがあり、真理を受け取る器官も備わっていませんから、神様の言葉の真理と奥義を理解するのは非常に困難です。文字面ばかり追っていても、神様の意図と人間に対する要求をほとんど理解していないでしょう。しかし、教会生活に参加し続け、兄弟姉妹と一緒に祈り、神様の言葉を読み、理解したことや経験を語り合うなら、聖霊による啓きと照らしを得ることができます。私たちはさらにたくさんの光と報いを得て、神様の意図と要望をはっきりと理解していくでしょう。実践の道ももっと明らかになるはずです。特に、神様の言葉を理解しなかったり、さまざまな困難に直面したりした時、兄弟姉妹が一致して神様を求め、祈るならば、私たちを通して聖霊が働かれ、真理を理解している兄弟姉妹を通して私たちを潤し、導いて下さいます。そうすれば、神様の言葉の隠された意味を理解することができ、真理を知る私たちの問題や困難は全て解決します。教会生活で多くの問題を解決すればするほど、もっとたくさんの真理を理解し、得ることができます。そうすることで、私たちは二度と混乱したり問題を抱えて生きることはなくなります。私たちの人生は楽になり、解放されます。神様の意図と要求に従って、遭遇する状況にも取り組んでいくことができます。次第に神様の言葉が、状況の対処に使える原則や指針になります。聖霊の導きの下で神様を信じる正しい道に踏み出せるのです。

   教会生活に参加しないならば、時々自分だけで祈ったり、神様の言葉を読んだりしている状況ならば、聖霊の働きを得ることは非常に限られてしまいます。聖霊の働きなしでは、真理を理解できず、真理の現実に入って行くこともできないでしょう。困難や問題にぶつかった時は、神様の意図を理解しないがゆえに、対処法も真理の実践方法も分からないという事態が頻繁に起こります。自分自身の観念や想像に頼って物事を行うなら、神様の意図を妨害するばかりでなく、神様の性質に背くことになってしまいます。神様による救いはもちろん、聖霊の臨在も失うのです。神様の言葉はこう言っています。「あなたは、自分の霊的生活が正常ではない場合、神の現在における業を理解できず、そうした業が自分の観念と全く相容れないものであると常に感じ、神に進んで付き従っていても、内部の推進力が欠如している。したがって、現在において神がどのような業を行っていても、人間は協力する必要がある。人間が協力しなかった場合、聖霊はその業を行うことが出来ない。また人間に協力精神が無ければ、聖霊の業を得ることがほとんど出来ない。……人間が神に協力せず、より成長することを求めなければ、神は人間が従前持っていたものを奪うであろう。人間は内心常に楽な方に貪欲で、既に用意されているものを楽しむことを好む。人間は全く代償を払うことなく、神の約束を得ることを望む。こうしたことは、人類の突飛な考えである。代償を払わずにいのちを得るなどと言うが、それほど容易なことが一体あるだろうか。ある者が神を信じ、いのちにおける成長と性質の変化を求めているのであれば、その者は代償を払い、神が行う業が何かを問わず、常に神に付き従う状態に達する必要がある。それが、人間がすべき事である。その全てに規則として従っていたとしても、それを頑なに遵守せねばならず、いかに試練が大きくても、神との正常な関係を手放してはならない。あなたは祈りを捧げ、教会生活を維持し、兄弟姉妹と共に居ることが出来る必要がある。あなたは、神が自分を試すときでもなお、真理を求める必要がある。これが霊的生活のための最低限度である。」(「あなたは神への忠誠を保たなければならない」より)神様の言葉から、私たちにとって正常な霊的生活が非常に重要であることが分かります。祈り、神様の言葉を読み、集会に出席することのすべてが霊的生活を構成しています。これらを守れなければ、聖霊の働きを得られないでしょう。私たちの心が神様に従いたいと願っても、信仰を持つことはできません。ですから、仕事がどれほど忙しくても、肉体的に疲れていても、神様との正常な交わりを失ってはいけないのです。最低でも、正常な霊的生活を維持する必要があります。神様の御前で生活し、問題に遭遇した時は真理を求め、実践しなければなりません。そうすることによってのみ、私たちの霊的ないのちは確固たるものになります。そうして初めて、問題に遭遇した場合に取り得る道が与えられるのです。

神様の御前に生き、神様の保護を受ける

   主イエスは言われました。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11:30)主は私たちが楽に、自由に生きることを望んでおられます。主は私たちがこの世のことにまみれて苦しむ姿を見たくないのです。ならば、仕事で疲れすぎているために集会に出席する気が起きないのはなぜでしょうか。実は、そのような考えはサタンから来ています。その考えの中にはサタンの悪の陰謀が含まれています。神様は言われています。「神が人間に対して行いたいことはサタンが破壊しようとすることであり、サタンが破壊したいことは人間を通してすべて表れる。……サタンによる人類の破壊も明確に示される――彼らはますます堕落させられ、その状態はだんだん落ち込んでいく。あまりにも悲惨になると、サタンに捕らえられることもある。」(「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十五章」より)サタンは神の敵です。あらゆる面で神に敵対し、頻繁に私たちの弱点を狙い、攻撃してきます。サタンに堕落させられた私たちの内側はサタンの毒に満ちています。私たちは富を愛し、栄誉や地位、肉の楽しみを愛します。富や栄誉のためであればどんな努力もし、それを手に入れるためならどんな代価も払います。ですからサタンはそのような堕落した私たちの性質を利用して肉欲に溺れさせ、神様との正常な関係性を阻害し、私たちを神様から離れさせ、神様を裏切らせ、最後に私たちを呑み込むという目的を達成します。もし私たちがいつも肉の欲望を満足させ、神様に頻繁に近づかないならば、いとも簡単にサタンの罠にはまってしまい、この世の邪悪な波に流されて、遂には神様の思いに背いて神様に嫌われるようなことまでするようになってしまうでしょう。集会は私たちが神様に近づく機会です。神様と私たちの距離を縮めてくれて、神様の前で生きるようにしてくれて、神様の検証を受け入れ、神様の配慮と守りを受けるようにしてくれます。神様との関係が正常になれば、霊的にも鋭くなり、神様が好まれる物事と嫌われる物事が見分けられるようになります。何か問題に直面しても、神様の側に立つ事ができ、肉の好みに従って神様に反することや拒絶することはありません。結果的に私たちは更に神様からの祝福を受けることができます。ですから、私たちが神様に認めて頂いて救いを得る上で、教会生活はとても重要です。信仰が弱く、状態が正常でない時は、もっと頻繁に神の御前に出て、神に祈り、神に頼らなければなりません。教会生活から離れないことです。同時に、神を満足させるという決意を神の御前固めるべきです。このように神と協力する時、サタンの陰謀は私たちに何ら影響を及ぼさず、サタンは慌てふためいて消え失せます。神との関係性がいったん正常になれば、集会への出席を束縛だとは感じなくなります。反対に、集会に出席することは、神と親しくなり、神の愛を味わう方法だと思うようになるでしょう。

   神の導きに感謝します!アンジーン姉妹、ここで今日の私たちの交わりを終わりにします。今日お伝えした内容が役に立つことを願っています。分からない点があれば、それについて一緒に話し合いましょう。

   信仰ステーション

   編集者から:今日の「ディボーションでの交わり」を読んで、神様を心から信じるということ、そして教会生活の意味がわかりました。また、定期的に集会に出席することが、神様を信じて救われるという極めて重要な点に直接関連していることから、とても大切だということが分かりました。引き続き、私たちの福音映画『神への信仰』も是非ご覧になってください。神様に称賛されるような信仰を一緒に求めていきましょう。


神の救い-健康のために、しっかりと体を休めてください(オーディオブック)

2020-06-05 00:18:06 | 信仰生活

   私が学生だった頃、村の人々の多くはアパートに引っ越し、車を所有していましたが、私の家族は未だに瓦ぶきの家で暮らしていました。従って、私は大きくなったら裕福になろうと一生懸命に働く決心をしました。その数年後、私は荷物をまとめ、新しい場所を目指して電車に乗り、明るい将来に向かって奮闘し始めました。

   「急げ!急げ!」、作業場で監督が大声を出し続けました。スタッフは全員が出来るだけ急いで仕事をしていました。私は片手で顔の汗を拭き、もう片方の手でドリルを掴みました。そして、私は次の工程が始まる前に、前かがみになって腰をマッサージしました。

   「ジエ、急げ!急げ!もたもたするな!業務終了の時間だぞ!」トレイいっぱいの段ボールを片付けて、資材供給係が頭の高さまで山積みになった資材を運び入れてきたその時、監督の声が梱包作業場から聞こえてきました。私はつま先立ちして沢山の箱を下に降ろしました。私はもうクタクタでした。しかし、ペースダウンして一息つこうとすると、いつも仕事をしろと駆り立てる監督の声が聞こえてきました。3000個の箱を目の前に、私は頭を下げて嫌々ながらも働き続けました。夜になると、私の指は頻繁に痛みました。私は、「最も辛い苦しみを乗り越えた者こそが最高の人間なんだ。だから今は我慢するしかない。金持ちになれば全てが上手く行くんだ」、と自分に言い聞かせました。

   ある日、私は作業場のミーティングが終わって帰ろうとしていた時、突然気を失って床にうずくまってしまいました。監督が私に気が付いてこう叫びました、「ジエ、どうしたんだ?何があったんだ?」頭が重くなり、私はとても気分が悪くなりました。しばらく時間が経って少しだけ気分がましになりました。しかし、私はこれを真剣に受け止めませんでした。自分はエネルギーにあふれる若者だと思っていたからです。

   より高い給与を手にしたかった私は機械販売会社で仕事を見つけ、倉庫管理者として働きました。私は何千という製品の受け取り、出荷、および保管の担当をしました。私は基本給以外に残業代も稼ぎました。更に多くのお金を稼ぎたかった私はほぼ毎晩のように得意先情報を更新して遅くまで働きました。

   新製品が増える中、倉庫内の通路は資材でいっぱいでした。結果的に、私の労働時間は8時間から10時間、10時間から12時間へと増えていき、12時間以上になった時さえありました。職場からの帰宅途中、私はいつも静まり返った夜の中を1人で歩きました。しかし、私は給与カードの貯金が増えて行くことを考えると、この疲れと疲労を忘れることができました。私は近い将来自分の家と車を手にする日を心に描きました。

   ある日、私は重い資材を引っ張っていると、突然動悸と胸内苦悶を感じて呼吸困難に陥りました。医者に診てもらうと、私は不整脈と診断されました。医者は私にこう言いました、「体をしっかり休めて、普通の生活をしてください。でないと、重病になったら合併症を患いますよ。」これは私の不健康な体調に対する警鐘でした。しかしながら、私は医者の言うことを聞かず、実際に重病になるまでは考えないようにしようと思いました。こうして、私はお金、家、そして車を手にしようと懸命に働き続けました。

   ある日、職場で、私の同僚であるシアさんが勤務中に心筋梗塞で倒れ、病院に救急搬送されました。彼は過労が原因で病気を患い、命を落としかけたのです。これを目撃した私は同じことが自分にも起こるのではないかと心配になりました。私は自分にこう問いかけました、「お金は本当にいのちよりも大切なのか?健康を損なったら、何のためにお金を稼ぐというんだ?」私は毎日、仕事を終えて帰える途中、ある路地の交差点を曲がって帰宅しています。しかし、生死を分ける交差点ではどの道を選ぶべきなのでしょう。私は初めて寂しくなり、絶望し、困惑しました。私は精神的にも、肉体的にも疲れ切っていたのです。私は残りの人生をこのような形で生きるのでしょうか?

 

 

   私が困惑し、絶望していた時、神の福音が私に届いたのです。神はこう仰りました:「『地獄の沙汰も金次第』はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりに伝えられ、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。…この格言について誰かがどれほどの経験があるかにかかわらず、これが誰かの心に及ぼすことのある否定的な効果は何ですか。(人は金銭を重んじます。)皆さん一人ひとりを含め、この世にいる人々の人間的性質を通して、何かが明らかにされました。これはどのように解釈されますか。それは金銭崇拝です。それを誰かの心から排除するのは困難ですか。極めて困難です。サタンによる人間の堕落は相当に徹底的なようです。サタンがこの社会動向を用いて人を堕落させた後、それは人にどのように表れますか。皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。(感じます。)人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。」

   そして私はこう理解しました:「『この世は金しだい』や『金が第一』というのはサタンの人生の規則であり、それは私の人生観を堕落させ、私を騙して裕福になることを私が人生の目的にするように仕向けていたのです。私はこういった影響と考えの影響下で、お金は全てを意味し、お金があれば他人よりも偉くなり、変化をもたらし、自分の家族に敬意を表すことができると信じたのです。従って、私はより沢山のお金を稼ぐためだけに頻繁に残業をし、汗水たらして働き、疲れ果てていても、病気になっても休みを取りませんでした。神はシアさんに起こった出来事を使って、お金のために健康といのちを犠牲することは愚かなことであると私に注意を促してくださったのです。主イエス様はこう仰りました:「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マタイによる福音書 16:26)。いのちに比べたら、お金など口にするにも値しないのです!お金は一時的に肉体的な快楽を与えてくれるだけで、健康を取り戻してはくれないのです。従って、私はお金のためだけに生きるべきではないのです。

   これを理解した私はお金を追い求めることを以前ほどは熱望しなくなりました。その後、私は集会に参加し、神の御言葉を読み、神を讃えながら讃美歌を歌うようになり、これらを自分の人生の必要不可欠なものにしました。私は心の中で今まで感じたことがないある種の確信と平安を手にしたのです。私は裕福になる欲望を手放そうと試み、沢山働くことをさほど重要視しなくなりました。週末には少し休みを取るようになりました。こうして、私は次第に体調が少し改善していきました。しかし、同僚たちが過労して高い給与を稼いでいると聞いた時、私は又しても躊躇しました。何を選択すべきか?お金のために残業するのか、それとも健康のために体をしっかり休めるのか?

   その後、私は神の御言葉のこの節を読みました:「こうした状態から自由になるための非常に簡単な方法がある。それは、自分の従前の生活様式や、従前における人生の目標と訣別し、従前の生活様式、哲学、追究、願望、理想を概括し、分析して、それを神の旨や人間に対する要求と比較し、そうした従前の物事すべてが、神の旨や要求と矛盾していないか、人生の適切な価値をもたらすか、自分を一層深い真理の理解へと導くものであるか、人間性と人間らしさによって生きるようにさせるものかを確認することである。人々が追究する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査分析すると、創造主が人間を創った時点における創造主の元来の旨に適合するものがひとつも無いことが分かるであろう。そうした目標や生活様式は、全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離すものであり、人間を陥れて地獄へと導く罠である。このことを確認した後の作業は、従前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神に自分の人生を采配してもらい、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢に惑わされず、神を信仰する者となることである。」

   私は神の御言葉を熟考しながら、何度もうなずいてこう考えました:「神の御言葉はとても現実的だ。過去に、「お金が第一」というサタンの考えが心の奥底に根付いていた私はそれを人生のモットーとし、続けて残業し、もっとお金を稼ごうと自分の時間、自由、そして健康を犠牲にしていた。しかし、私は神を信仰し始めて以来、やっと普通の生活が送れるようになったんだ。だから、以前の生き方に戻るのは愚かなことではないだろうか?神は人々の運命を支配し、用意されている。これ故に、富は人々が努力して手にできるものではないのだ。神の御心は私が普通の仕事環境で規則正しい日常業務に就けるよう、私がお金のために生きるという人生観を手放すようにすることなのだ。私は神の主権と御采配に従うことを学びます。」

   それ以降、私はスケジュール通りに働き、定期的に休みました。徐々に、私の体は強くなり、見た目も増々改善していきました。私はとても嬉しくなり、以前よりも効率的に働けるようになりました。私の心も、心配したりパニックに陥るのではなく、豊かさと平安を感じるようになりました。後に、会社はどういう訳か私の所属する部門の給与調整を行いました。私は仕事量が減っても、給与は上がっていたので、富は人々の努力で手に入るものではなく、神に予め定められているものだと確信させてくれました。神の主権と御采配に服従せずにサタンの人生観を持って生きるのは辛いことです。対照的に、神に従い神の御言葉を指針にして生きることを選ぶ人は真の平安と喜びを得ることができるのです。

   お金のために疲れ果て、健康を犠牲にする生活から私を救ってくださった神に感謝いたします。皆さん、健康のために、どうかしっかりと体を休めてください!


人生の意味とは。ある漫画家の体験の答え

2020-04-13 21:44:30 | 信仰生活

   ある日、ニュースを見ていると、台湾のある有名な漫画家がたった51歳で急死したことを知りました。その知らせを聞いた時の気持ちは複雑でした。彼は漫画業界では傑出した人で、数多くの優れた作品を生み出していました。多くの人の羨望と憧れの的で、富も名声もありました。そんなにあっさり亡くなるとは思いもしませんでした。「どんなに有名でも、どれだけの地位があっても、死んでしまったら何になるのだ」とため息をつかずにはいられませんでした。それから、私自身の30年の漫画家人生を思い起こしたのです。…

 

青年の頃の夢

   私は幼少の頃から漫画を描くのが好きで、本当に熱中し努力を重ねていました。25歳の時、幸運にもある漫画家と直接会い、彼がたくさんのファンに囲まれてちやほやされているのを見ました。大変うらやましく、「いつかこの人のようなスターになりたいな」と思いました。技量をプロの域にまで上げるには一生懸命努力し続ける必要があることは承知でしたが、代償を惜しまなければ必ずその日が来ると信じました。この思いが原動力となって、10年以上の間この道に没頭しました。技量向上のための参考として優れたグラフィックノベルを入手するのに給料の数ヶ月分の数万元をかけることもためらいませんでした。

   家計は苦しくなりましたが一向に構いませんでした。腕を磨くためによく午前二時、三時まで描き、眠くてたまらなくなった時は少し仮眠を取りましたが、目を開けてすぐに考えることは、そのとき作業中のものをどのように仕上げるかでした。毎日、10時間以上いつも同じ姿勢で作画を続けたので、首や肩、背中、右手が頻繁に痛み、指が変形までして、視力が悪化するようになりました。それでも成功のためなら、ただ歯を食いしばって耐えました。自分の漫画が人から賞賛を得ると有頂天になり、もう人気漫画家になっていい車や豪邸のある自分を夢想していました。しかし現実の生活ではただの冴えない会社員であり、有名になるチャンスなどありませんでした。描くのがどれだけうまくても、稼ぎはいつまで経っても知れたものだろうと思うと、本当に悲しくなり落胆しました。

 

夢のための奮闘、毎度のスランプ

   何とか前に進もうと、私は仕事を辞めてアジアで最大手の出版社に就職しました。そこが多くの有名な漫画家の登竜門だったからです。そこで働くことでいい機会を得れば、自分も名が売れるかもしれないと思ったのです。ある時、ある漫画出版社の社長が、現地の作家による漫画の雑誌の刊行を決定し、才能のある人材を探しにうちの会社に来ることになりました。私はその話を聞くと興奮して何日も眠れませんでした。この機会は天からの贈り物であり、ついに自分の才能を発揮して脚光を浴びるチャンスが巡って来たと思いました。このことではかなり思い悩みました。漫画のコンセプトから素材、プロットに色付けまで、検討に検討を重ねました。他の漫画もかなりの数を参考に読んでみました。日中は仕事があったので、毎晩徹夜で作業し、数日経ってやっと最終作品ができました。希望に溢れて私は上司に会いに行きました。ところが、驚いたことに考えが衝突し、口論になり、上司の機嫌を損ねてしまったのです。結局、上司は同僚の作品を選び、私の有名になるという望みは打ち砕かれたのです。

   それ以後、私は猛烈に憤り、その時の自分の思慮の足りなさを後悔しました。しかし絶望はしませんでした。自分の漫画を持ち込みにその出版社に戻ったのです。グラフィックノベルの編集者に作品を大変気に入ってもらい、社内漫画家の一人になりました。その後間もなく、ある脚本家と共にグラフィックノベルの制作の担当になり、それに全てを注ぐ準備を整えましたが、その制作の成功が私が機嫌を損ねた上司の手に委ねられることを後になって知りました。私の気持ちは激しく交錯しました。自分の過去の行動を後悔し、自分の作品がどんなに優れていても上司の目に適うことは決してないだろうと悟り、あきらめるしかありませんでした。漫画家になるチャンスをまたしても失ったことに本当に落胆し、あまりに衝動的だった自分自身を憎みました。あのことがなかったら、その機会が出世への一歩だったかもしれません。夢の実現のために長年苦労と努力を重ねても失敗ばかりなことを思うと、絶望に満ちました。言葉にならないほど苦しく、先がとてつもなく陰鬱になったと感じました。

   希望が打ち砕かれたことでひねくれた私には、描くことがしばらくとても苦痛になり、ペンと紙を見るのも嫌でした。しかし、漫画家になるという夢をそれだけの理由であきらめたくなかったので、描き続け、描き続け、描き続けました。数年が経ち、私は作品を様々な出版社に持ち込みましたが、それは海に小石を落とすようなもので、失敗の度にひどく心が痛み、ますます憂鬱になりました。よく川のそばに一人で座り、車や人が行き来するのを見ました。途方に暮れ、どうすればいいのか分からなかったのです。なぜあんなに一生懸命働き、全身全霊を捧げたのに、うまく行かないように運命づけられていたのか。ただそうならないように決まっていたのか。有名になれないように予め決められていたのか。なぜ人生はこんなにも厳しいのか。

   いつも調子の悪い私を見た家族には、夢を諦めるよう何度も何度も勧められました。けれど私は、「あれほど時間と金をかけ、体を壊してまで何年も頑張って来たのに、そう簡単に諦められるか」と感じました。全く諦める気はなかったので、ひたすら描き続けましたが、60代になっても無名のまま、失望で胸が潰れそうでした。元同僚の作品が店頭に並んでいるのを見る度に、妬ましくて辛い思いをしました。自分の作画は彼らに負けないと思うものの、30年以上を漫画に費やしたのに何も世に出せなかったのです。何もかも静かになった夜中に、自宅で自分の漫画を見回して、一層絶望と苦痛を感じました。「この才能はどうしてこんなに無駄になったんだ。どうして有効活用する機会がなかったんだろう」とよく自問せずにはいられませんでした。それでも、有名になりたいという願望は檻の中の獣のように落ち着きがなく、たとえかすかな希望しかなくても私は一生懸命働いて挑戦し続ける覚悟でした。

 

でこぼこ道の果て、そして神の御前に

   2017年、私はあちこちで情報を集め、アメリカとヨーロッパではグラフィックノベルの需要がかなり高いことを知りました。それで、欧米のどこかの国に行けば有名になってたくさん稼げるかもしれないと思いました。元気を取り戻した私は、欧米で一般的な漫画のスタイルを学び始めます。しばらく経って、ようやく作品を準備すると私はとても嬉しくなり、海外の出版社に作品を送ることを計画していました。ちょうどその時、終わりの日の神の救いが私に訪れたのです。私はそれを受け入れましたが、それでも漫画を完成させるのに常に没頭していました。それで心に平静を保つことができず、神の御言葉を真剣に読んでいませんでした。神の前に立ち返ったのは別の壁にぶつかってからだったのです。

   ある日、次の神の御言葉を目にしました。

   「人の運命は神の手によって掌握されている。あなたは自分自身を掌握することはできない。いつも自分自身のことであくせく動き回っているのにもかかわらず、人は自分自身を掌握することができないままでいる。あなたがもし自分の前途を知ることができ、自分の運命を掌握できるなら、それでもあなたは被造物だろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終著點に連れて行くこと」より)

   私は神の御言葉を思案し、大いに目が覚めました。私たちの運命は全て神の支配下にあり、神の手に委ねられていると悟ったのです。私たちはただの被造物ですから、自分で自分の運命を変えることはできません。明日何が起こるのかも分からない私たちに、どうして自分の運命の主になれるのでしょうか。私は過去30年間を思い返してみました。有名な漫画家になるためにたゆまず奮闘しましたが、スランプが相次ぎました。成功はいつも手が届きませんでした。ということは、私には自分の運命を掌握していないということではないのか。実際には、神は私たちが人生においてどんな仕事に就き、どんな成功を収め、どんなキャリアに進むかをとうの昔に決定されていたのです。しかし私は神の支配を理解していませんでした。群を抜こうとし、傲慢にも神の支配から脱せられると考え、自分自身の能力と勤勉に頼り続けました。その結果、自己も肉体も精神を完全に消耗し、戦傷に悩まされ、絶えず苦痛を背負って暮らしていました。

 

私の苦しみは求めるものを誤った結果だった

   後に、私は神の御言葉を読みました。「実際には、人間の理想が如何に高尚であったとしても、また人間の願望が如何に現実的であり、適切であったとしても、人間が成し遂げたい事、求める事は、二つの言葉と不可分な関連性がある。その二つの言葉は、人間それぞれの生涯にとって極めて重要であり、サタンが人間に吹き込みたいことです。その二つの言葉とは、何でしょうか。そのひとつは「名声」で、もうひとつは「利得」。二つの言葉とは、名声と利得です。サタンは極めて温和な方法、人間の観念に極めてうまく適合する方法を用います。その方法には、全く過激さが無いのです。人間は、無意識のうちにサタンの生き方や生活の規則を受け入れるようになり、人生の目標や方向性を決定し、またそうすることにより無意識のうちに人生の理想を持つようになります。そうした人生の理想は、どれほど高尚な響きがあったとしても、名声や利得と複雑に関連している建前に過ぎません。偉人や有名人のみならず、全ての人々が人生において従う全ての事柄は、「名声」と「利得」のふたつだけに関連するものです。そうではないですか。人間は、名声と利得を手に入れれば、それを利用して高い地位や莫大な富を堪能し、人生を楽しむことができると考えます。名声と利得を手に入れれば、それを悦楽の追求と不徳な肉の快楽に利用できると考える。人間は、自分が求める名声と利得のために、無意識ではあるが率先して、自分の心身や所有する全ての物事、将来、運命をすべてサタンに引き渡します。人間はこの引き渡しにあたり、実に一瞬たりとも躊躇することが無く、それを奪回する必要性を省みることも一切ありません。このようにして人間がいったんサタンを頼りにし、サタンに忠義を尽くしたなら、人間は自分自身を支配していることができるでしょうか。無論できません。こうした人間は完全にサタンに支配されます。彼らはすっかり泥沼に沈み込んだのであり、そこから抜け出すことは一切不可能です。」(『唯一の神自身6』より)

   神の御言葉に私は深く感動し、そこで明かされたことから、自分が有名な漫画家になりたいと絶えず思い、そのために必死で働いていたのは、サタンに惑わされて堕落していたからだと悟りました。名声と利益に縛られていたのです。教育や有名な偉人の影響により、私たちは「生きては傑人,死しては優れた鬼とならん」「頭角を現すは人の道」「人は高い所を目ざし,水は低い所に流れる」といった誤った考えを植え付けられてきました。

   その結果、私たちは群を抜いて人を追い越すことを正当な目標と思い誤り、「名声と地位があって、人に尊敬されて取り巻かれ、注目の的とならなければ人生に意味と価値はない」と思い込んでいます。私は有名な漫画家になるのに30年もの時間とエネルギーを費やしたことを何とも思わず、貯蓄を全て注ぎ込んだだけでなく、かなりのエネルギーを費やし健康まで危うくしました。作品の持ち込みの失敗はその度に大きな打撃で非常に苦痛を感じ、迷って優柔不断になり、あきらめようかと思ったものの、有名になることの栄光を考えたとたん、そこから抜け出せなくなっていたのです。

   私は精一杯漫画の道を歩み続けました。神の救いが私に訪れた時でさえ、まだそれに向ける心がなく、それどころか、私は無我夢中で名声のために死に物狂いで働き続けました。それはまた別の障害物が私の前に立ちはだかるまででした。その時初めて、名声と富を追求するというサタンの考えに自分が支配され、踊らされていると悟ったのです。私はその考えの操り人形に過ぎず、そのためにどんな代償でも払い、全てを費やし、サタンの手の中でもてあそばれていたのです。それから私はまた有名人のことを考えました。彼らは広く知られていて、評判も良く、人々に囲まれて称賛されているからといって、心の中は安らいで満たされていたわけではありません。むしろ一層空しさを感じ、悲観的になって世の中にうんざりして、自ら命を絶っています。

   多くの人は名声を得る前にしっかり足を地に着けていることができていますが、成功して有名になると心の空虚さが増し、退廃し堕落しました。飲み食いやどんちゃん騒ぎにふけり、肉体を満足させ欲望に身を任せる人もいれば、刺激を求めて麻薬に手を出し、犯罪に走って人生を棒に振る人もいました。名声のためだけに自分の体を売って、人格と尊厳をすっかり失った人もいました。このおかげで、群を抜こうとすること、人の称賛と人気を求めることは人生の正しい道では全くなく、真の幸せな人生をもたらせないと私は一層はっきり悟ることができました。そうすることはますます邪悪になって堕落するだけであり、たとえ手に入っても、空虚さと苦痛でしかありません。これはサタンが人類に危害を加える悪しき手段の一つなのです。

   このことを全て悟った私は、突然心の中に光を感じ、もはや有名になることにそれほど執着もせず取りつかれてもいませんでした。それは正に神の私への救いのおかげです。もし神の御言葉の暴露がなければ、名声と利益の追求が自分に与えた害を自覚できず、サタンに弄ばれ傷つけられたままであったでしょう。今の私は新しい人生設計を立てる必要があり、一文の得にもならない名声と利益はもはや求めていません。

 

新たな方向性を見出だす

   「忘れ去ろう」と言うのは簡単でしたが、いざ実行するとなると、本当はあまり気がすすまないことがわかりました。結局、私は30数年も血と汗と涙を漫画に捧げたのです。しかし、名声と利益の追求が自分にもたらした全ての苦しみを思い出すと尻込みしました。それで、私は祈りの中で神の御前に出て、前に進み、この追求の束縛から解き放れるように導いてくださるようにお願いしました。私は後に「唯一の神自身 3」における神の次の御言葉を読みました。

   「人々が追求する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査し、注意深く分析すると、創造主が人類を創った時の創造主の本來の意図と一致するものがひとつも無いことが分かります。それらは全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離し、人間を墮落させて地獄へと導く罠です。このことを確認した後の作業は、以前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神による採配に委ね、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢をもたない神を崇拝する者となることです。」「ある者が、人生は創造主による統治を体験し、その権威を知る機会であり、その者が創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機會であると考えているのであれば、その者は必然的に正しい人生の見通しを得て、創造主により祝福され、導かれた人生を送り、創造主の光の中を歩み、創造主による統治を知り、創造主の支配に服従し、創造主の奇跡の業と権威の証をするものとなる。」

   神の御言葉は正しい道と求めるべき方向性を私に示してくださいました。名声と利益の追求による苦痛から自分を解放するために、私は以前の誤った目標と人生観を捨て去り、名声と利益はサタンが人類を堕落させるためのやり方の一つであると悟らなくてはなりませんでした。人に好かれ尊敬されるように他人より秀れ、有名になろうとするのをやめなければならず、そうではなく自分の人生を神の手に委ね、自分の進路に関しては神の支配と采配に従わなくてはならなかったのです。善良で堅実な人にならなくてはならず、全てのことにおいて創造主の権威を受け入れ、経験して知り、被造物の一つとしての自分の本分を果たすことに専念し、神に与えられた使命を成し遂げなければなりません。それだけが人生における価値であり、最も意味のある人生を送るための道です。

   過去には、私は神の御心が分からず、それどころか名声と利益のためだけに30年以上も骨を折ってきました。人生の方向性を失い、サタンに弄ばれて大変苦しみました。今や神の御言葉に実践の道を示されたので、二度とサタン的な邪説と思考に基づいて生きることは決してしません。神は私たち人間のために万物を創造し、私たちにいのちを吹き込んでくださいました。そして終わりの日に、神は再び人類のもとで働き、人類を救うために肉となられました。私は神が授けられたもの全てを享受する被造物なので、良心と理知を持ち、神の愛に報いるために神の御前にて私の本分を果たすべきなのです。神は私に描く力をお恵みくださったのですから、私はその賜物を用いて創造主に証しをし、神に満足していただくために生きるべきです。ひとたびこれを理解すると、私の心はかなり明るくなり、それからどのような道を進むべきであるのかが分かりました。

 

被造物として基準を満たそうとすることのみが価値と意味ある生き方

   ある日、ディボーション中に神のこの御言葉を目にしました。

   「あなたがたが邪悪と堕落の地から離れ、邪な集団と離別するならば、その時、あなたがたの考え、霊、そして心が虐げられたり堕落させられたりすることは無くなるであろう。あなたがたが清らかな場所へ来て、神の御前に来る時、それは大いなる恵みではなかろうか。……宇宙の万物や地球に住む数十億の人間のうちのひとりとして、こうした自らの本分を尽くし、責任を果たすことに自らを捧げることによって創造主の業の証しに立つ機会を得られる者は何人居るであろうか。誰がこうした機会が得られるであろうか。そうした者は多数居るであろうか。そうした者は全体の何割であろうか。(1万人に1人である。)1万人に1人居るであろうか。いや、それよりも少ないであろう。とりわけ、あなたがたは習得した知識を用いて自らの本分を尽くしている。これは極めて有意義である。これは極めて大いなる祝福ではなかろうか。あなたがたは、特定の人間の証しに立っているのでも、些細な活動に参加しているのでも無い。あなたがたが仕えているのは、創造主である。何と素晴らしい事であろうか。……全ての創造物のうち、ここに居る諸君以上の恵みを授かっている者や集団は一切存在しない。他人は何のために生きるであろうか。他の者は、輪廻のため、そして地の刺激のために生きる。あなたがたは何のために生きるであろうか。あなたがたは、創造物として自分の本分を尽くすために生きる。そのように生きることは貴いことではなかろうか。それは極めて貴い。」(「自らの真心を神に捧げた後に真理を得ることができる」より)

   私は神の御言葉を読んで非常に感動し、神に選んで頂き、神の家族の楽園へ導いて頂いたことに感謝しました。神は御言葉をもって、私を潤し養い、啓き導いてくださり、そのおかげで私はサタンが人類を堕落させ傷つける戦術を見極められます。私は二度と名声と利益のためにあんなに苦い努力をすることはありません。教会では、兄弟姉妹に何か困ったことがあるといつでも誰もが真理について交流し合い、辛抱強くその人を支え、助けていることを見てきました。兄弟姉妹の間に争いや誤解が生じても、皆が純真で率直で、思っていることを打ち明ける誠実な人々です。これは私にこの上ない自由と解放をもたらしました。

   非常に多くの兄弟姉妹が熱心に自らの本分を果たし、神の国の福音に全てを捧げています。自らの本分を果たす過程で、彼らはますます真理を理解するようになり、神に関する認識が次第に増し、自分たちのいのちにおいて急速に前進しています。この様子を見て私は彼らを立派に思い、自分の本分を果たせることも楽しみにしていました。その後、作品を海外の出版社に持ち込むことを完全にあきらめて、教会で福音漫画を制作することを学び始めました。神の導きにより、素早く習得しました。今では自分のこの強みを神の証しをするために使えることを非常に光栄に思います。実体験から学んだのは、名声と利益を求めることをやめ、神の支配と采配に従い、被造物の本分を果たし、神の配慮と指導の中で生きることでした。こうして初めて私の心は本当に落ち着き、安らぐのです。このような霊的な喜びと平安は、物質的な楽しみや名声や利益で代用できるものでは決してありません。

   人生は短く、光陰矢の如し、全ては儚いのです。一日も無駄にできません。私は自分の本分を果たす上で、真理を追求し、神の権威を理解して自分のサタン的で堕落した性質を捨て、真に神に従って崇敬する者になることを目指します。神に感謝します。