賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神様の恵みにより私は金銭に優る富を持っています

2020-04-07 12:50:25 | 信仰生活

   編集者注 もしあなたの近くに裕福になりたいけれども上手くいかずに苦しんでいる人がいたならば、その人が苦しみから逃れられるためには、どのように助けるべきでしょうか。ここに書かれているのは、まさにそのように苦しんだシュン・シンの経験です。彼女は今では金銭的損得を冷静に考えることができるようになり、金銭以上に価値のある富を見出しました。彼女はどのように苦しみから脱出したのでしょうか。そして、金銭より価値のある富とはなんでしょうか。彼女の物語にその答えを見出しましょう。

 

 

裕福になろうとあがき続ける

   子どもの頃に貧しさゆえに惨めで辛い経験をした私は、一生懸命勉強して将来はお金持ちになり贅沢な生活をし、周りの人達に称賛され尊敬されるようになろうと決心しました。十年以上の辛い勉強の末にやっと入学できたのは三流の大学でしたが、それでも落胆はしませんでした。一生懸命働けば、裕福になれると信じていたからです。

   大学卒業後、私は英語教師の仕事に就きました。二年間働いてきた同僚の給料がほんの二千元余りと聞いた私は、きっぱりと退職しました。その後、販売の仕事に就くために上海と青島の訓練学校に行きました。毎日朝から晩まで電話で営業活動をし、懸命に努力した結果、私の月収は一万元近くにまでなりました。もっと業績を上げようと思っていたちょうどその時、学校のリーダーシップが変わり、理由もなく私はクビになりました。仕事を辞めたくはありませんでしたが、残念に思いながら職場を去るしかありませんでした。

カナダ移住後、再び金銭欲が湧く

   結婚後、私は夫とともにカナダに移住し起業しました。当時妊娠中だった私は、働くことができなかったため、教会の礼拝に出席しました。初めて教会を訪れた時、牧師が私を大歓迎してくれましたが、私が裕福ではないと知ると、私を無視し、裕福な人達ばかりを歓迎し、その人達にへつらいました。牧師の態度を見て、私はますますお金の重要さを確信しました。誰もがお金第一の今の時代、お金さえあれば何でも手に入れることができる。そしてお金がなければ、どこに行っても見下される。だから私はもっと稼いで、私を見下げる人を見返そうと再度決心したのです。

   長男を出産後、私は収入を得るために働き始めました。どんなに大変な仕事も厭いませんでした。その後再び妊娠し、その頃の私は身体的にとても弱っていました。それにもかかわらず、もっと収入を増やそうと、産後1ヶ月で友人と輸入代行業を始めました。私は商品の知識を増やそうと一日中ケータイを見ていました。授乳中も販売スキルやネットでのプロモーション方法などを調査しました。毎日長時間ケータイを見続け、夜遅くまで作業したせいで、目があまりにも痛くなり、目を開けることすらできず、背中も凝って痛みました。それでもお金を稼ぐためにはやめる訳にはいかず、ベッドに横になったまま仕事をしました。仕事ばかりになってしまった私には、子育てのための余力はありませんでした。ある時、長男は私の手からケータイを奪うと地面にたたきつけ、一日中ケータイを見ているだけで少しも自分達のことを構ってくれないと言って怒りました。それでも私は申し訳ないとは思いませんでした。良い生活を提供してやれないのなら、子供と一緒に過ごす意味がないと思ったからです。お金が全ての世の中に住んでいるのだから、たとえお金が全てを叶えてくれる訳ではないにしても、お金なしでは何もできないのです。より良い生活を楽しみ、周りの人達に尊敬され称賛されて堂々と生きていくにはお金以外にはないのです。子供達のことがどんどんおろそかになっていることが分かり、このことで苦しく感じたものの、相変わらず輸入業務に没頭しました。

   その後私は、更に収入を増やそうと、直販の仕事をパートタイムでしました。しばらく熱心に働くと、ある程度の収入になり喜びました。人と話すときには以前より声が大きくなり、両親に送金する自分を誇らしく思いました。お金を持っているのはいい気持ちでした。更に成績が良く、何万という月収を得て贅沢で良い暮らしをしているアップラインの人たちを見ては、自分も更にダウンラインを増やせば、そのうちあの人たちのようになれると思いました。けれども事は私が思うようには進みませんでした。一年かけてダウンラインを十人育成しましたが、誰も私と一緒に働きたくなかったため、私は振り出しに戻らざるを得ませんでした。それは私にとってとても悔しい挫折でした。その一年間一日中働いてダウンラインを訓練したのに、なぜそんな結果になったのでしょうか。

救いが訪れても無視

   そのとき、終わりの日の神の福音が私に伝えられたのです。お金を稼ぐことにばかりあくせくし、惨めな生活になっていた私を見た兄弟姉妹たちが、私にこのように話してくれました。「私たちが人生で持つ富は神様によって前もって決められていて、自分の努力で変えられるものではないのです。主イエスは言われました。『何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。』(マタイによる福音書6章25-26節) 神様は私たちを創られ、息を吹き込まれ、神様の配慮と守りの下で生きるために必要なものは全て与えて下さいます。私たちが将来を思い煩ったり心配したりする必要はないのです。普通に働いていれば、十分な衣類も食料も手に入ります。私たちは皆、お金もうけのことだけを考え、残業したり時間外に働いたりして、結果的に神様に近づく機会、集会で神様の声を聞く機会を逃し、疲れ切った体で倒れてしまう人がいるのを見ています。神様は私たちが手に入るだけの衣類と食べ物で満足するよう願われますが、サタンは私たちを堕落させようとします。私たちの心をお金で支配させ、どこまでもお金を稼ぎたくなるようにし、飽くなき欲求をあおります。これはサタンの策略以外の何ものでもありません。自分の飽くなき欲求を捨てて神様のご計画と采配に従って初めて、私たちは安らぎと解放を得ることが出来るのです」兄弟姉妹のこの言葉を聞いて思いました。「あなた方の言うことには知恵があるけど、お金が全ての今の世の中でそのような考えでいれば、昔のような惨めな生活をするしかなくなるんじゃない?いや、私にはやっぱりもっとお金が必要よ。」こうして私は、終わりの日の神の福音を受け入れはしたものの、相変わらず直販の仕事に全力を注ぎました。朝起きるとまず広告を配信したり、顧客のメールに返信したりという生活でした。霊的な成長のために費やす時間は全くありませんでした。祈る度に、自分達夫婦を大きな富で祝福してくださいと神様にたのみました。これが私の神様への信仰の有り様で、集会中にこっそりと直販の広告を掲示するほどでした。

神様の御言葉が明らかにするサタンの策略

   私の状況を知った兄弟姉妹は、ある集会で神様の御言葉を私に見せてくれました。「『地獄の沙汰も金次第』はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりに伝えられ、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。人はこの格言を受け入れない状態から、それに慣れ親しんでいく状態に移行したので、現実生活を知るようになったとき、格言を暗黙のうちに徐々に認め、その存在を認知し、最終的には一人ひとりが格言に承認印を押したのです。この過程は、サタンが人間を堕落させる過程ではありませんか。……サタンがこの社会動向を用いて人を堕落させた後、それは人にどのように表れますか。皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。(感じます。)人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。人々はもっと金を得るために自分の尊厳や高潔さを犠牲にしていませんか。多くの人が、自らの本分を尽くして神に従う機会を、金のせいで失っていませんか。これは人にとって損失ではありませんか。(損失です。)この方法と格言を用いて人間をここまで堕落させるサタンは邪悪ではありませんか。これは悪意に満ちた策略ではありませんか。」(「唯一の神自身5」より)

  神様の言葉を読んだ後、ある姉妹が言いました。「かつて私は、どうして全人類がお金を崇拝し、時間もエネルギーも全て注いでお金を稼ごうとするのか、身体を壊してまでやり続けるのか、お金のことで争い合い、騙し合い、激しくぶつかり合い、殺し合いまでしてしまうのか分かりませんでした。けれども神様の御言葉を読んで、お金はサタンが人間を堕落させて害を与えるための策略なのだと知りました。サタンはこの世をあらゆる無神論の学説や偉人や有名人の書籍や物語で溢れさせ、『金が全てではないが、金がなければ何もできない』、『先立つものは金』、『誰であれ金をくれる人には逆らえない』といった観念を吹き込んで、私たちに人生でお金は何より大事だと思わせ、お金さえあれば何でも手に入ると思わせ、周りの称賛を得て何でも好きなことができ、成功すると思わせるのです。そしてお金がなければ周りから軽視され、見下され、社会に居場所がなくなると考えさせます。このような間違った考えを受け付けられた私たちは、時間もエネルギーも全てお金のために注ぎ、他のことは全てそっちのけで、健康すら犠牲にしてお金を稼ごうとし、お金の奴隷になってしまうのです。神様の救いを受け入れても、尚も際限なくお金を追い求め、真理を求めたり神様を礼拝することには興味をもたず、神様の被造物としての本分を果たすことはできず、神様の加護や守りからは遠く離れてサタンの支配下で生きるのです……」

   その姉妹の言葉は私の心にストレートに響きました。お金を崇拝するこの社会で尊厳をもって生き、人から尊敬され、自分の言葉に耳を傾け尊敬させるには富が必要だと私は常に信じてきたので、大きな富を求めることは正しいと思ってきました。学校を卒業してからは色々な仕事をし、収入になるならばどんなに難しいことも粘り強くやり抜きました。息子が生まれてからは、自分の弱い身体を気にせずベッドの上で輸入の仕事を続けました。お金を稼ぐためにほぼ全ての時間とエネルギーを仕事に費やし、それが原因で私と子供達のあいだには距離が生まれ、時には子供たちが私を無視するほどになっていました。神様の救いが訪れた時、それを大切にせず、兄弟姉妹が神様の御心を語ってくれても、私のお金に対する欲望は全く変わりませんでした。集会中に直販のメッセージを送ったり、祈りの中でさえも、もっとお金儲けさせてくださいと神様にお願いしていました。私はお金を稼ぐことは正しいといつも思っていましたが、神様の御言葉を読んでから、そのような考えや観念はサタンから来るのであり、サタンがそれを使って人々に害を加えて堕落させようとしているのだと知りました。サタンはそのような観念を私たちに吹き込むのは、サタンは私たちにお金や贅沢な暮らしを求めて虚栄心を満足させるためにいつも忙しくなるように仕向けたいからです。私たちがエネルギーを使い果たして神様の配慮と守りから遠ざかるようにさせ、私たちを支配し害を加え、お金のために私たちが命さえ落とすことをサタンは願っているのです。これまで自分がどれだけお金のために働いてきたか、どうして若いうちに目を痛め、背中を慢性的に痛め、子供達からどんどん離れてしまったかを思いました。その全ての背後にある闇の力はサタンだったのではないでしょうか。

   姉妹はこうも言いました。「今の社会、貧しい人達は何とかお金を得るためにどんな事でもしよう、すべてを犠牲にしようとします。一方では、人の上に立つ人や裕福な人、有名人は、資産があり贅沢な生活を送っていても、心の中は空しく生きている人もいて、中には自殺してしまう人もいるのです。それを見れば、お金は一時的な安堵と楽しみを与えてくれるだけで、お金持ちの人達はどんどん堕落し、金遣いが荒く贅沢になり、そして一時の楽しみが過ぎれば空虚と苦痛しか残らないことがわかります。私たちが神様の前に出て潤され、御言葉を頂いて真理を理解しなければ、人類を堕落させるサタンの策略を見抜くことは決してできず、どこまでもお金に縛られ続け、最後にはサタンにもてあそばれて害を受けるだけなのです。」

   その姉妹の話を聞いて思いました。「その通りだ。神様は今日、真理を表されていて、人類を救う働きをされ、私たちがサタンの堕落と支配から完全に逃れて神様の配慮と守りを得るようになさっている。私が終わりの日の救いを受けるために選ばれたのは幸運だった。もし私が真理ではなくお金を追い続けるのならば、いつの日か裕福になったとしても、神様の救いの働きが終わるとき、それが何になるのだろう。大災害がやって来れば、全て無になってしまうのではないのか。イエス様が言われた通りだ。『人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。』(マルコによる福音書8章36節) それを理解した時、もうこれ以上お金ばかりを追い求めてサタンに惑わされたくありませんでした。直販の仕事では、ダウンラインを増やすためには全ての労力を費やさなくてはならないと考えていましたが、それでは子供達の世話をしたり集会に出席したり本分を尽くしたりする時間がありません。そこで直販の仕事は止めて、代行購入の仕事だけをする事にしました。それによって、時間にかなり余裕ができました。

神様の采配に従い、神様の祝福を見る

   それからしばらくして、私はパートナーのひとりに問題があることに気づきました。彼女は真面目に仕事をせず、よく顧客に間違った商品を送っていました。それが原因で、私たちの顧客サービスの成績が落ち続けました。問題解決しようとしても彼女は私を無視し、売り上げは落ちて行きました。どうすることもできず、私は彼女とそれ以上仕事を続けられないと判断し、仕方なく全顧客と5つ星のWeChatの店舗を手放しました。すでに顧客数は五~六千人に達していたので、続けていればそれまでにないほどの収入を得ることができ、衣食の心配などすることなく、誰もが私を見直したであろうことを考えると切ない思いがしました。でも止めなければなりませんでした。いずれにせよ良いパートナーを見つけることはできそうにないのですから。それはまるで砂地獄にはまってしまい、ズルズルと沈んでいき、抜け出せないかのようでした。どうすることもできない苦しみの中で、私はひたすら神様に祈り導きをお願いするしかありませんでした。

   私の状況を知ったある姉妹が、神様の御言葉を二節教えてくれました。 「ある者が追究する職業、ある者の生業、ある者が生涯にわたって蓄える富は、その者の両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められている。」(「唯一の神自身 3」より) 「人の運命は神の手で管理されている。あなたは自分自身を管理することはできない。いつも自分自身のことで忙しくしているのにもかかわらず、人は自分自身を管理することができないままでいる。あなたがもし自分の将来を知ることができ、自分の運命を管理できるなら、あなたは被造物だろうか。」(「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より)

   これらの神様の御言葉を読んだ私は、とっさに理解しました。私は被造物に過ぎず、私の将来や運命、生活は全て神様の御手の中にあるのです。私がどう生計を立てていくか、生涯どれくらいの収入を得るのかは神様が予めお決めになっています。にも関わらず、神様がいかに全てを支配されご計画されるかを私は本当には理解していなかったため、全力で金銭を追い求め、金銭の損得を心配し、WeChatショップを諦めた時にはとても苦しくなり、将来どうして存続していけるのかと不安になるほどでした。私は不安と苦しみの中で生きていました。たとえ自分の将来がどうなるか分からなくても、神様が私に相応しいご計画を持っておられると信じ、勇気をもって将来を神様に委ねなければならないのです。その事が分かった私は、ずっと気持ちが楽になりました。私は自分の仕事、人生を神様に委ね、これから進むべき道を神様に導いていただきますと祈りました。

   その後、私は神様の御言葉を読む時間が増え、兄弟姉妹とともに集会に出席し、お互いの経験や理解を分かち合いました。子供達のことも神様に委ねました。毎日、子供達と御言葉を読み、讃美歌を歌っているうちに、子供達との関係も改善されました。更に私を驚かせたのは、私が仕事のパートナーと別れた後、主人の仕事が急速に上向きになったことです。神様のご計画が本当に素晴らしいことがわかり、私の心は神様への感謝でいっぱいになりました。

真理を理解して神様の御言葉によって生きることは私の最大の富

   その後、私は次の御言葉を読みました。「人々が追究する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査分析すると、創造主が人間を創った時点における創造主の元来の旨に適合するものがひとつも無いことが分かるであろう。そうした目標や生活様式は、全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離すものであり、人間を陥れて地獄へと導く罠である。このことを確認した後の作業は、従前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神に自分の人生を采配してもらい、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢に惑わされず、神を信仰する者となることである。」(「唯一の神自身 3」より)神様の御言葉を読んだ私は、これまで自分が歩んで来た道を思い返してすすり泣きました。神様が全てを支配されていることを知らず、お金を稼いで裕福になることばかりを考え、結局自分も子供達も苦しんできました。もし神様が救って下さらなかったならば、お金の砂地獄にどこまでも深くはまり、お金しか見えなくなって神様から遠ざかるばかりで、最後にはサタンの餌食となっていたでしょう。神様は私を救って下さり、御言葉をもって私を導き、サタンの策略を打ち破るようにして下さいました。そして、お金を使って人々を神様の配慮と守りから引き離し、支配し害を与えようとするサタンの邪悪な意図がはっきりと見えるようにし、これから進むべき正しい道が見えるようにして下さいました。私は間違った追究を捨て、未来の人生を神様に委ね、神様のご計画と采配の全てに従いたいと思うようになりました。神様の御前に出て御言葉に従って生きて初めて、真の安らぎと解放を得て、心の平安と喜びを本当に感じることができるのだと心から思いました。

   今では、教会で本分を尽くし、神様の導きの下で生活しています。安らぎと平安、安心と解放を感じます。私は人生で最も価値のある富を得ました。それは、真理を理解し、神様の御言葉によって生き、創造主の愛と救いを得ることです。神様に感謝します!


クリスチャン結婚:結婚生活を救う“秘密”(その1)

2020-03-11 11:11:07 | 信仰生活

——神が私の結婚を救いました

リー・クアン

 

   私が子供の頃、父と母はいつも口論し、母は父からの暴力や虐待に苦しむことがよくありました。母は心の中にあまりにも多くの憎しみを抱いていたため、かなり若くして亡くなりました。その後、私は、「私が大きくなり、自分の家族を持つようになったら、妻には優しくし、幸せで平和な家庭を築こう。両親の結婚の失敗は繰り返すまい。」と決意しました。

 

 

   1995年、私はレストランに機器の取り付けを行なうエンジニア部の部長として働いていました。当初、私は起業家となりお金を稼ぎ、賢く優しい妻を見つけ共に幸せになれば、それだけで十分だろうとだけ考えていました。しかし、しばらくして、他部の部長と一緒に、レストランやフットスパ、カラオケバー、ホテルを始めとする他のエンターテイメント施設を訪れることが多くなりました。この頃、彼らは、「妻と愛人を持て!」「一度も愛することがないよりは、人を愛し、愛に破れる方が良い」「人生は90年しかない。若いうちに精一杯生きろ」「これぞ男の生き方だ。食べて、飲んで、結婚したくない奴などいるものか」「我が国は経済の急成長を約束しており、あらゆるエンターテイメントビジネスを躍進させている。そのため、私達は熱意を持ってこれに応えるべきだ。中国人である私達は、ナイトライフでもやるべきことをしなければ、中国政府をがっかりさせるぞ!」とよく言っていました。彼らの影響を受け、時間と共に、彼らに従いナイトライフの快楽に参加するようになり、それが楽しいことだと考えるようになりました。

   2000年後半に、私は結婚しました。当初、私と妻の間には深い感情的なつながりはありませんでしたが、仲良く、互いに理解しながら暮らしていました。しかし、私の仕事のために、ソーシャルイベントや複雑な個人的関係を保つ必要があり、独身時代のようにパーティに参加し続けていました。私は快楽的な生活を送り、毎晩、夜遅くによろめきながら帰宅していました。このような生活が2年続き、妻はついに、私の帰宅時間が遅いのは一生懸命仕事していたからではなく、どんちゃん騒ぎしていたためであることを突き止めました。それ以降、妻は私に対して冷たくなりました。私達は自分のことを別々に行ない、話すことはなく、互いに理解や配慮を見せることは全くありませんでした。私達は互いから気持ちが離れてしまいました。私達の関係がひどくぎこちないものになったことを目の当たりにし、結婚が破綻してしまったのではないかと、私は不安になり、眠れなくなりました。この行き詰まり状態を克服したいと思い、私は友人に助けを求めました。ある友人は、「あなたの男友達は、手足同様、あなたの一部です。しかし、女性はファッション以上のものではありません。あんまり心配する必要はありません。彼女を押さえ込んでいれば、上手くいくでしょう。」と言いました。聞いているうちに、この友人の話は尤もだと思い、「妻にレッスンを学ばせてやる必要がある。妻に自分の権威を認めさせ、自分に服従させる必要があり、これにより、私のやり方に嫌な顔を2度とすることはなくなるだろう。」と考えました。そこで、友人が言ったとおりに実行しました。帰宅すると一切妻を手伝わず、奴隷のように自分に仕えさせました。妻が作った食事を給仕させ、それを私が食べてから、別の用件を言いつけるために怒鳴り散らしました。可能な限り尊大かつ強い自分を演じました。月の生活費も細かく記録させ、私がそれを確認するまで、1銭たりとも妻に渡すことを拒否しました。しばらくして、自分の権威が確立できなかったばかりか、私達の関係がさらに冷え込んだことに気が付きました。この方法が功を奏さなかったのを見て、妻と心を割って話し合おうとしました。しかし、私が2言話す前に、私はどんちゃん騒ぎをするばかりで、家にお金も入れないなど、長年の恨みを晴らそうと、私を非難し始めました。そして、私達は口論し始め、険悪な状態でその場を離れました。口論した後、私は毎回、辛さと悲しさでぐったりしました。夫婦が共通言語を話さないなら、一緒の家族でいることは敵と暮らすようなものです。何かを言おうとすると、口論になるのです!この頃はやり過ごすのが大変でした。この状態を継続し、苦痛を長引かせるぐらいなら、離婚した方が良いように思えました。いずれにしても、この恥を表に晒したくなかったので、自分自身の自尊心と、子供達のため、…しかし、何よりも、私が常に抱いてきた幸せな家族を持つという夢を捨てきれなかったため、悲惨な結婚生活を継続していました。しかも、そもそも悪かったのは私です。ですから、修復する必要があるのも私でなければなりません。

   友人は私がとても惨めな気分でいるのを見て、私が妻や子供達と精神的なつながりが持てるよう、感情や結婚に関する本を読むことを勧めてくれました。そこで、私は妻と2人の子供を連れて本屋、動物園、モールなどへ連れて行き、彼女の実家の家族に何かを買ってあげるようお金を渡し始めました。友人と外出する回数は徐々に少なくしていきました…このようにすることが破綻した結婚生活を救う方法だと考えました。しかし、妻はそれでも不満げで、私に冷たい態度を取っており、これについて私には何もできることがありませんでした。親しい友人の1人に、妻と話して、解決して欲しいと頼みましたが、その友人は、「こう言うことは時間がかかるものです。」と困惑顔で言いました。

   それから間もなくして、機器取付会社を設立し、仕事のコツを学ばせるために、義理の弟を招きました。私は、「自分は、ステータスも稼ぎもある男だ。これで妻の虚栄心を満たすのには十分なはずだ。その上、妻の弟の世話までしている。これで私達の関係は修復するに違いない。」と考えました。しかし、それでも、私の予想に反して、私達は頻繁に喧嘩し続けていました。妻は従業員の前で私がきちんと家族の面倒を見ていないと言って、私の欠点をあげつらいました…。この口論をそれ以上聞いていることはできなかったので、いくらかのお金を置いて、別の建設現場に向かうことにしました。離れることを妻に伝えるために、彼女の前に来ると、彼女はうろたえており、私はひどい気持ちになりました。私には全く理解できませんでした。夫婦は過去の問題を思い悩んではならないとよく言いますが、なぜ、私達の間はこんなにひどく対立してしまったのでしょうか。なぜ、私達は顔を見る度に、口論し合い、互いに冷たい態度を取り合ってしまうのでしょうか。どうして、私達は互いにとって辛い状態を招き、私達の家をこのような混乱した状態にしたのでしょうか。私達はこの状態で、4、5年暮らしてきました。私達の関係を修復するために本当に何もできなかったのでしょうか。夫婦としての私達の関係は日ごとに悪くなっており、私の仕事でのプレッシャーは蓄積していき、私は食べることも寝ることもできなくなりました。私は、疲労困憊してしまいました。額には深いシワが刻まれ、かつてはがっしりしていた体格も、65kgにまでしぼんでしまいました。物事が危機に陥ると、この苦しい人生から解放されるために死を願うことさえありました…。しかし、その時には、可愛い2人の子供達のことを思い浮かべ、すべてを投げ出すことはできないと思い返しまいました。そして、終わりがないことが確実な苦しい人生の中にとどまっていました。

   人々が限界に達すると、神が現れます!2008年3月、全能の神の終わりの日の働きを受け入れる幸運に恵まれました。全能の神の教会に行ってから、神の言葉を頻繁に読み、教会の生活に積極的に参加するようになりました。兄弟姉妹が話す真理や、彼らの経験話に耳を傾けることにより、無意識のうちに、家族や結婚に関するいくつかの真理について理解するようになり、人類の運命について、新たな理解をするようになりました。私の心に重くのしかかっていた不安やストレスは大幅に軽減されました。それまで感じたことのない幸せを経験し始め、全身がよりリラックスし、くつろいだ状態になりました。ある集会の時、ここ数年の辛さと困惑について心を開いて話すと、兄弟姉妹は神の次の聖句を私に読んでくれました。「この世界の創造以来、わたしは人々からなるこの群れを予め定め、選ぶことを始めた。すなわちそれは、今日のあなたがたである。あなたがたの気質、器、外観、背丈、あなたがたが生まれた家族、あなたの職業、結婚、すなわちあなたの全て、あなたの髪や肌の色、あなたが生まれた時間に至るまで、すべてはわたしの手により定められたものである。今日、あなたをわたしの前に来させたのも実際、わたしの定めによることは言うまでも無く、あなたが毎日行うこと、日々出会う人々でさえわたしの手で定められたものである。自分を混乱させてはならない。冷静に進みなさい。」(「キリストが最初に発した言葉と証し」より)神の言葉を通して、私は、「私の人生の道や軌跡は神が事前に定めていた。私の家族、結婚、妻、そして子供達は神の采配により私に授けられたものであり、創造物として、神が支配する計画を受け入れ、それに服従する必要がある。さらに、私の結婚で今日まで歩んできた道は、私自身の行動によるものだったが、家族や結婚の痛みを離婚や自殺により逃げようとしていた。これは、人類の問題解決方法を適用し、神が支配する計画から逃げようとしていただけではないのか。私はとても愚かだった。最終的に私の結婚がどうなるかは神の手中にあり、家族に関連するすべての事項について神を頼り、計画の責任を神に委ねる必要がある。」ということを理解しました。神の心を理解すると、とても安心し、心にあった痛みが大きく軽減されました。

   ある日、次のような神の言葉を目にしました。「ひどく汚れた国に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のために進んで何かを投げ出そうという者は一人としておらず、進んで神に従う者は一人としておらず、さらには神の出現を進んで探し求める者も一人としていない。それどころか、人はサタンの支配下で快楽を追求しているだけで、泥の地で肉体の堕落にふけっている。」(『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より)全能の神の言葉は、人類の苦しみの原因を暴露し、私のすべての苦しみの原因はサタンの堕落によるものであることを明らかにしました。私はサタンの支配下にあり、邪悪な社会的トレンドの影響を受けていました。私は、「妻と愛人を持て」と言う邪悪なサタンの見方で暮らしていました。快楽を楽しむ中で、私はサタンの罠にはまり、本物の人間らしく全く見えないほどに堕落していました。ソーシャルライフを送ることを装い、邪悪な社会的トレンドに最初に心が惹かれた時、そして、私の放蕩やどんちゃん騒ぎが、私達の間に終わることのない対立をもたらし、互いの心が離れた関係にさせたかを思い出しました。その後、私と妻の関係を改善するために、「あなたの男友達は、手足同様、あなたの一部です。しかし、女性はファッション以上のものではありません。彼女を押さえ込んでいれば、大丈夫です。」と言う友人の“親切な助言”を求めました。彼の「彼女を押さえ込め」と言う言葉は、偏執的優越心を衝撃的な形で表現したものに過ぎませんでした。それは、効果がなかったばかりか、それにより状況は悪化しました。私は、これらのサタンの見方により物事を解決しようとしたため、家族生活はバラバラになる瀬戸際で、私は肉体的にも精神的にも疲れ果ててしまいました。私は言い尽くせないほど辛い状態にあり、自殺さえ考えるようになりました。しかし、今の私にははっきりと分かります。サタンはこれらの方法で私を罠にかけ、堕落させ、私の結婚と家族を破綻させ、私に邪悪で悲惨な人生を送らせていました。サタンの邪悪な目的は私を食い尽くすことでした。サタンは本当に欺瞞と悪意の塊です!

   一度サタンの策略を見破ると、邪悪なサタンの考えを完全に断ち、神の言葉に従って行動することを決意しました。また、妻も神の救済を受けられるよう、できるだけ早く妻に福音を伝えたいとも思いました。


山上の垂訓の中の「心の貧しい人」とはどのような人を指しているのでしょうか

2019-12-24 23:48:02 | 信仰生活

   ある日のディボーション中に、次のような主イエスの御言葉が目に留まりました。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイによる福音書5:3)私は聖書を置くと、この言葉を思い巡らしました。「主は心の貧しい人を喜ばれ、祝福される。そして天国は彼らのもの。でも心の貧しい人ってどんな人のことなんだろう。外見は謙遜で柔和、周りの人に愛情深い人のこと?」私はしばらくこのことを考えていましたが、光を見つけることはできず、午後まで考え続けました。ちょうどその日は集会のある日だったので、そこで私はこの疑問を兄弟姉妹と話し合うことができました。

 

心の貧しい人とは外見は謙虚で柔和、愛情深い人のことか

   私はその集会で自分の疑問を投げかけました。私の話を聞いていたファン兄弟が言いました。「外見上は謙虚で柔和、愛ある人のようだという理由で、その人が心の貧しい人だと判断することはできません。むしろその人が神様にどのように対応し、真理に対してどのような態度を取るかを見なければなりません。それがこの問題を検討する正しい方法です。外見は謙遜で柔和、人に愛情深く見えても、心の中は傲慢で自己中心で、真理に従えない人もいます。そのような人は、神様の働きが自分の観念と一致しなければ、真理を求めることに興味を示さないばかりか、おごりから自分の考え方に固執して神様の働きを拒み、反発し、非難や反抗さえします。そのような人がどれほど謙虚であっても、心の貧しい人ではありません。彼らは当時のパリサイ人同様、よく庶民に向けて聖書の言葉を解釈し、シナゴーグや通りにわざとらしく立って長い祈りを朗誦したり、慈善活動をしたり、通りに立って立派な行いをしたり、外見的にはとても謙虚で柔和で愛ある人々のように見えます。しかし主イエスが来られた時、彼らは全く真理を探し求めようとはせず、それどころか自分達の観念や想像に頼り、主イエスがメシアと呼ばれなかったという理由でキリストではないと主張したのです。そして神様の働きを旧約聖書に限定し、主イエスの言葉と働きを旧約聖書を越えていると非難することで、主イエスの言葉と働きを否定したのです。そればかりか、パリサイ人は主イエスを神様の出現とは認識しませんでした。彼らは主イエスはただ普通の人でしかないと決めつけ、「この人は大工の子ではないか。母はマリヤ・・・ではないか」(マタイによる福音書13:55)などと言いました。パリサイ人は、主イエスの言葉に権威と力があり、主イエスが多くの奇跡や不思議を行なわれるのを見ましたが、それでも謙虚に求めることをせず、それどころか特に傲慢で真理に従うことができず、自らの観念に固執し、偽証するものとなり、噂話をでっち上げ、主イエスを激しく非難し冒瀆したのです。最後にはローマ政府と共謀し、憐れみ深い主イエスを十字架にかけ、筆舌に尽くしがたいほどの罪を犯し、神様に罰せられたのです。このことから、人が外見上どれほど謙虚で柔和、愛ある人のように見えても、もし神様と真理に本当に従順でないならば、その人は心の貧しい人などでは決してないことが分かります。そのような人は偽善者なのです。その人の謙虚さは偽りであり、他人への愛もまやかしなのです。全ては欺きであり嘘であり、皆に称賛され高く評価されようとして騙そうとするものなのです。そのような人は外見は謙虚で忍耐強く、愛あるように見えても、その心の中は偽りと悪意、邪悪に満ちており、彼らの本質は偽善者なのです」

   ファン兄弟の話を聞いて、人が謙虚で柔和に見えるかどうかでその人が心の貧しい人かどうかを決めつけるのは正しい事ではないこと、一番重要なのはその人の神様への対応の仕方や真理に対する姿勢なのだと言うことが分かりました。パリサイ人は謙虚で柔和のように映り、良い行いもしましたが、主イエスが来られて働かれた時には謙虚に求めるどころか自分の観念と想像に固執し、主イエスを激しく拒み非難し十字架にかけたのです。そのような人間がどうして心の貧しい人と呼ばれることがありえるでしょうか。彼らは明らかに傲慢で尊大であり、神様の敵だったのです。

心の貧しい人とは、心の貧しい人が現わすものとは何か

   ファン兄弟は続けました。「傲慢な性質を持っていながら真理に従うことができる人もいます。そのような人は神様の働きが自分の観念と一致しない場合、自分を二の次にして謙虚に求め、真理を理解するとすぐにそれを受け入れて従います。そのような人は真に心の貧しい人で、謙虚な人でもあります。ちょうどナタナエルについて聖書に書かれているようにです。ピリポが主イエスの事を彼に証言しようとした時、ナタナエルは自分の観念と想像に頼り「ナザレから、なんのよいものが出ようか」と言いました。けれども主イエスが彼のことを、「見よ、あの人こそ、本当のイスラエル人である。その心には偽りがない」と言われた時、ナタナエルはイエス様に「どうしてわたしをご存知なのですか」と尋ねました。イエス様は答えて、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」と仰いました。ナタナエルは答えました。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(ヨハネによる福音書1:45-49参照)。ナタナエルはメシアがナザレで生まれたはずはないと信じていたために、初めのうちは主イエス様について観念があったものの、自分の考えに執着することなく謙虚に求めて主イエスの言葉に注意深く耳を傾けたことが分かります。主イエスがいちじくの木の下にいる自分を見たと仰るのを聞いた時、ナタナエルは主イエスは全能であり全てをご存知で、自分の心と魂を調べることがおできになる方で、普通の人とは違うと感じました。そしてナタナエルは自分の観念を手放し、主イエスが預言されたメシアであると認識し、主イエスを受け入れ、主の救いを受けたのです」

   ヂャン兄弟はうなずいて言いました。「そうです。ナタナエルのように謙虚に求める態度で神様と神様の働きに対応し、主イエスの言葉を受け入れて従うことができる人は心の貧しい人です。主イエスの福音を受け入れたエチオピアの宦官のことも思い出します。聖書にはこうあります。『宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕』(使徒行伝8:34-37)エチオピアの宦官には権力と地位がありましたが、それらのものに全く影響を受けていませんでした。エルサレムで礼拝した後の帰路、宦官はピリポに会いました。彼は自分の地位や聖書の知識ゆえに自分が人より優れていると考えることもなく、傲慢でも尊大でもありませんでした。かえって謙虚な態度でつつましく求め、ピリポから主イエスの話を聞くと、その方がキリストだと信じ、喜んで主イエスを救い主として受け入れたのです。そのような人が心の貧しい人なのです」

   ファン兄とヂャン兄の話を聞いて、私もその通りだと思いました。私は言いました。「つまり、心の貧しい人は頑固な人ではありませんね。心の貧しい人は神様から出たものには、自分の観念に合うかどうかに関わらず謙虚な姿勢で向き合います。そしてひとたび真理を理解したなら、自分の観念を捨てて神様の働きを受け入れて従うことができます。そのような人は純粋で正直で、真理を切望する心を持っています。神様はそのような人を愛されます。主に感謝します!私は遂に心の貧しい人とは外見が謙遜で柔和な人ではないこと、そして最も重要なことに、神様を畏れる心を持ち、全てのことにおいて謙虚に求め、真理に従い、気まぐれに神様の働きを制限してしまわない人だということが分かりました」

   続けてヤン姉がこう言いました。

   「ええ、心の貧しい人は神様を畏れる心を持っています。そして神様の働きが自分の人間的な観念と一致するかどうかに関わらず、自分のことを二の次にして謙虚に求めることができます。これこそが心の貧しい人で、そのような人だけが天国に入る資格があります。外見は謙虚であってもその本質が傲慢で真理を受け入れない人は、ひとたび神様の働きが自分の観念と一致しないならば、裁き、反抗し、非難し始め、謙虚に求めたり探ったりすることが全くできず、最終的には神様に嫌われ憎まれるのです。そのような人は天国のほんの一部もあずかることはありません」

   兄弟姉妹の交わりを聞いた後、私は突然聖書の中のヤーウェの言葉を思い出しました。「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、ヤーウェは心を見る」(サムエル上16:7)。そしてこう言いました。「私たちは人を見る時その人の外見だけを見ますが、神様は人の心と本質を見られます。以前の私は識別力に欠けていたため、誰かが善いことをしたり柔和で優しそうに見えると、その人は謙虚だと考えました。でも今こうして考えていると、この観念が愚かなことかが分かります」

   ファン兄は言いました。「アーメン!主の啓きと導きにより、今日このような理解を得ることができました。今、主イエスの『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである』という言葉を読むと、更にはっきりと分かるようになりました。私たちはすでに終わりの日の最後の段階にいます。主の再臨を歓迎する重要な時です。私たちが心の貧しい人となり、全てのことにおいて謙虚に求め、真理を受け入れて真理に従うことはそれゆえにずっと重要なことで、それによって私たちは主に喜んでいただき、主の再臨を歓迎できるのです。主イエスの言葉を思い出してください。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)。そしてヨハネの黙示録3章20節ではこう預言しています。『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう』。また、黙示録2章7節では、次のように預言しています。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。これらの聖句から、終わりの日に主が戻られる時には、主はさらに語られ、全ての真理と奥義を私たちに語られることが分かります。どこかの教会が主が戻られて語られていると証言したり、誰かが主が戻られたと証言したりするのを聞いたならば、私たちは自分の観念を捨てて、これらの言葉が自分の霊的必要を満たし、実際の問題を解決し、実践の道を示してくれるかどうかを謙虚に求めるべきです。それが神様の声であり真理の表現だと確信したならば、私たちは真理を受け入れて神様の働きに従うべきです。このようにすることで、私たちは確かに主の再臨を歓迎することができるのです。そうせず、謙虚に求める姿勢をもたず、自分の観念に合わないものは一切求めることも探ることも拒むのであれば、神様に反抗するパリサイ人の道を歩む危険性があり、主の再臨を歓迎する機会を逃すことになります。これは大変な悲劇となるでしょう」

   私はうなずきながら言いました。

   「アーメン!私たちが心の貧しい者であり、謙虚に真理を求め、神様の声や真理の表現を聞いたと確信した時にそれを受け入れて従うならば、真に思慮深いのです。私は謙虚に求め、神様の声に耳を傾け、主の出現を歓迎する者でありたいです」

   「神様に感謝します!」

   「今日の交わりは素晴らしい!本当に聖霊の啓きと導きからのものです!」


どんな祈りは効果に達することができるか

2019-08-01 15:11:12 | 信仰生活

 信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

 こんにちは!少し前、姉が私に主イエスの福音を説いてくれました。教会に加わったあと、毎日主に祈る必要があると言われたのです。そのとき、私は混乱しました。どうして毎日主に祈る必要があるのでしょうか?神様は私の祈りをお聞きになるでしょうか?こうした疑問を私と分かち合ってくれませんか?

 林麗

 姉妹林麗:

 こんにちは!主のお恵みとご慈悲のおかげで、私たちは主の家へと戻るために世界から選ばれました。私たちは主の新しい信者なので、なぜ祈る必要があるのか、神様が私たちの祈りをお聞きになるかどうか、理解していないのは当然です。私も最初はあなたと同じように混乱していました。その後、兄弟姉妹とのやりとりや助けを通じて、祈りの意義を理解し、神様の御心にかなうためにどう祈るべきかを知りました。それからというもの、私の困惑はきれいになくなりました。ここで私自身の理解を少しお話ししましょう。それがあなたの助けになることを願っています。

 最初に、なぜ神の信者は祈らなければならないのかをお話ししましょう。私はインターネットで一つの文章を読みました。

 「神が人類を創造し、霊を与えた後、もし彼らが神を呼び求めなければ、彼らは神の霊と繋がることができず、したがって天からの『衛星テレビ放送』は地上で受信できないように神が定めた。神がもはや人々の霊の中にいなければ、他のものが入り込める空席が残され、そこにサタンが入り込む機会をつかむ。人々が心から神と繋がれば、サタンはただちにパニックに陥り、大急ぎで逃げ出す。人類の叫びによって神は彼らに必要なものを与えるが、初めから彼らの中に『住む』ことはない。神は彼らの叫び求める声によっていつも援助するだけで、人々はその内面の力から忍耐力を得るので、サタンは思うままに人の心に入って『遊ぶ』ことはしない。このように、人々が常に神の霊と結びついていれば、サタンは混乱を引き起こしに来ようとはしない。サタンが混乱を起こさなければ、人々のすべての生活は正常であり、神はまったく妨害なしに彼らの中で働く機会を得る。こうして、神が行いたいと思うことは人間を通して達成することができる。」

 その文章から、神様の信者が祈らなければならないのは、神様を呼び求め、神様との正常な関係を築くにあたって、祈りがそれを実現する方法の一つだからだ、ということがわかります。私たちが心から神様に祈り、心を開いて自分たちの困難や困惑を神様に訴えるとき、神様は私たちの真の心をご覧になり、私たちの欠点や求めに応じて私たちを啓発し、困難から導いてくださいます。サタンは普通、神様と私たちの関係を破壊するため、様々な環境や人々を利用して私たちの心をかき乱し、私たちを悪い状態に陥れ、霊的に無力感を覚えさせます。こうしたとき、私たちが真心を込めて神様に祈り呼び求めるなら、神様は私たちを導いてサタンの罠を見破り、神様の御心を理解できるようにしてくださいます。こうして、サタンは私たちに影響を及ぼす機会を持たなくなります。そして私たちは正常な状態に戻り、聖霊の働きを獲得し、神様の存在を享受するのです。加えて、祈りは私たちの信仰を高めることができます。とりわけ、試練や苦難が降りかかるとき、私たちは祈りを通じて神様への完全な信仰を持ち、神様の慈愛と素晴らしさを感じ、かくして神様を愛し満足させる心を生み出せます。たとえば、無神論者の中国共産党による逮捕や拷問に直面したとき、真に主を信じる多くの兄弟姉妹はまったく無力感を覚えたでしょう。しかし、信仰と強さを求めて神様に祈ることで、ついに中国共産党の拷問に打ち勝ち、神様の証しをしました。ゆえに、私たちキリスト教徒一人一人が祈りを学ぶことはとても重要なのです。一定の期間祈らなければ、私たちは心の中に神様の居場所を持たず、そのことは私たちが神様との関係を断ち切ったことを意味します。結果として私たちは聖霊のご指導とお導きを失い、サタンの領域に戻り、暗闇に陥ることになるでしょう。神様が私たちを祈らせるのは、私たちがいかなる時も神様のご配慮と保護の下で暮らせるようにするためです。これが私たちに対する神様の愛なのです。

どんな祈りは効果に達することができるか

 神様は本当に私たちの祈りをお聞きになるでしょうか。それは、私たちが心を込めて誠実に神様を崇めているかどうかによります。主イエスはかつて言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネによる福音書4:23-24)。この御言葉から、主が信実の本質を持っておられること、神様が誠実な人を好まれることがわかります。よって、私たちは祈るときに心から話し、自分の本当の考えや困難を神様に伝え、神様の御心と啓発を探し求めるべきなのです。こうすることでのみ、神様は私たちの祈りをお聞きになります。これとは対照的に、神様を騙すためにきれい事を言ったり、祈りのたびに同じ決まり文句を繰り返すだけなら、あるの言葉を暗唱するためだけに神様の御前へ赴くのと一緒です。そのように祈るなら、私たちは不誠実であり、神様への畏れを持っていません。たとえとても素晴らしい言葉を述べたとしても、それらは本音ではありません。神様は私たちの祈りを受け入れず、ましてお答えになることはないでしょう。例として、最初期のファリサイ人による祈りを取り上げましょう。彼らは、神様に忠実に仕え、ユダヤの人々を神様の前に連れてきますと祈りましたが、実際には自分自身のたくらみを実行し、自分たちを崇めさせるためにユダヤの人々を連れてきました。このことから、ファリサイ人が完全に偽善者であることがわかります。よって、私たちは正直な心をもって神様に祈り、自分の心の中にあることを神様に語らなければなりません。そうすることでのみ、神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。

 一方、私たちの祈りの内容が神様の御心にかなっていれば、神様は私たちの祈りに答えてくださいます。例として、聖書に記録されているソロモン王の話を取り上げましょう。ソロモン王が各時代を通じて最も賢明な王になれたのは神様の祝福のおかげです。国家の王として、ソロモン王は自分の肉体のためにお恵みや祝福を求めたり、祈るときに神様と取引したりはしませんでした。その代わり、神様に祈り、神様の民を統治する助けを求めたのです。ソロモン王の祈りは神様への配慮からなされたものであり、神様を満足させるためのものでした。こうした祈りは神様に受け入れられ、認められます。神様はソロモン王に十分な知恵を授け、最も豊かで賢明な王となされました。

 今日、私たちの祈りも同じようであるべきです。私たちの祈りが神様の御心とお求めにかなっていれば、神様は聞いてくださいます。主イエスはこう言われました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイによる福音書6:33)。神様はご自身の御心にかなう祈り、心から神様に服従する聡明な人々の祈りをお聞きになります。では、どのような祈りが神様の御心にかなっていて、どのような祈りがかなっていないのでしょうか。ここでいくつかの例を簡単に取り上げます。神様の御言葉が理解できないとき、私たちは神様の御心とお求めを理解できるよう、聖霊の啓発とお導きを探し求めるべく祈り、神様の御言葉の真理を理解するよう努めるべきです。教会で真に神様を信じる兄弟姉妹が消極的になったり弱くなったりすれば、神様の御心を理解して消極的な状態を克服するよう、私たちは祈ります。こうした祈りは神様の御心にもかなっています。兄弟姉妹の誰かが迫害などの困難に直面しているとき、私たちは神様に祈り、彼らが神様の証しをするようお導きになることを求めます。それは、神様が彼らを通じて栄光を得られるようにするためです。こうした祈りは神様に認められます。私たちは様々な苦難や試練に見舞われたとき、真心を込めて神様に祈り、私たちをお導きになり、不満を言わせないよう神様に求めるべきです。それは、 私たちが神様の証しをできるようにするためです。私たちは、被造物として自分の本分を尽くし、神様の福音の働きを広める能力を求めて祈るべきです。神様の御心を知るため、神様を満足させるべく真理を実践するため、そして神様の御心を実行するために行なわれるこれらの祈りはすべて神様に認められ、答えられます。

 神様のお答えを得られない祈りはどのようなものでしょうか。たとえば、大金を稼げるように祈る人がいます。よい仕事を見つけられるよう神様に手助けを求める人もいれば、ふさわしい結婚相手を用意してくださるよう神様に祈る人もいます。こうした祈りは自分自身の利益のため、あるいは自分の肉体を満足させるために行なわれるものなので、どれも神様の御心にかなっていません。神様の働きは人間をお救いになることに集中しています。祈ることが私たちの救いと矛盾し、何ら役立つものでなければ、神様に認められません。例を挙げると、私たちはこの世でより多くの金を得るために、自分を祝福してくださるよう神様に祈ります。こうした時、神様が私たちの祈りを聞き入れて百万長者にしてくださるなら、私たちの心は金で占められるでしょう。私たちはそれでも神様を信じる心を持つでしょうか。しまいには金のために神様を裏切るでしょう。ゆえに、神様はこうした祈りをお聞きになりません。

 姉妹林麗、私たちの神様は信実です。私たちの祈ることが神様に受け入れられる限り、神様は答えを与えてくださいます。はるか昔、神様はこうおっしゃったからです。「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイによる福音書7:8)。神様の御言葉のこの一節から、神様の信実と素晴らしさがわかります。私たち全員が神様のお約束と祝福を得られるよう、神様は望んでおられます。

 他に質問やわからないことがあれば、いつでも私たちに連絡してください。一緒に神様を探し求めましょう。神様の御言葉のお導きがあれば私たちの問題はすべて簡単に解決できると、私は信じています。


教会の人間関係-4つの原則を把握すれば他人との付き合いが楽になる

2019-07-31 16:51:23 | 信仰生活

 多くの人にとって、他人の相手をすることは極めて大きな問題です。私たちは実生活において多くの人々に遭遇します。波長の合う人がいれば、合わない人もいます。私たちはクリスチャンとして、周りの人々をどう扱うべきでしょう?主の御心に従うには、主のどのような要件を実践するべきなのでしょう?私は真理の本にこれらの疑問の答えを発見した上に、この本に記されている通りに振る舞っていると、自分自身の人間関係が本当に解決しました。なので、私は自分の実体験に基づく理解を皆さんにお話したいと思います。

第1に、私たちは個人的な感情と好みにまかせて振る舞うのではなく、皆を平等かつ公平に扱うべきです


 主イエス様はこう仰りました:「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書 5:46-48). 主の御言葉は、私たちはクリスチャンとして次に挙げることをしてはならないと明確に仰っておられます:「自分の利益となるものをもらえる時だけ人々と正直に接し、傷つけられたら無視をする。気質の合う人たちと出会えば距離を縮め、気の合わない人たちは差別して遠ざける。高い地位に就く人または大きな権力を持つ人の機嫌を伺い、地位や権力のない人はのけ者にして見下す。」こんなことをしていては、私たちは未信者と同じで、主の信者と呼ばれるに相応しくないのです。

教会,人間関係,他人との付き合いが楽になる

 例えば、私たちは自分たちと気質の合う人に自分の欠陥を提起されても受け入れられますが、自分たちの好きじゃない人にされると、それに耳を傾けずに自分たちのことを正当化し、反感を抱えて葛藤を感じたり、攻撃することすらあります。これは、私たちが感情と好みにまかせて振る舞っていること、そして人々に不公平であることを示しています。これは主の御心と一致していません。私たちは主を信仰しているのだから、主に従って自らを愛するように他人を愛するべきです。人が自分たちと気質が合う合わないに関係なく、彼らが普通の兄弟姉妹もしくは教会の指導者であろうとなかろうと、私たちは彼らを騙したり、彼らに対して偏見を抱いたりせず、誠意を持って、かつ公平に彼らを扱い、寛大な心、辛抱強さ、そして愛情を持つべきです。こうしてこそ、私たちは主の御心に沿うことができるのです。

第2に、私たちは他人の欠点と堕落を正しく扱うべきで、恣意的に他人のことを説明したり非難するべきではありません


 主イエス様はこう仰りました:「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイによる福音書7:1-2)。主イエス様は、もし他人が罪過や堕落を明らかにすることがあっても、私たちは彼らのことを恣意的に非難したり、説明したりすべきではないと教えてくださりました。聖書を読んで主イエス様がどのように罪過を取り扱いになるかを見てみましょう。パリサイ人が不貞の女性を主イエス様の前に連れて行って、主イエス様が彼女をどのように取り扱われるかを見ようとしたことがありました。律法によると、この女性は石打の刑で殺されるところでしたが、主イエス様は彼女を非難せず、これ以上は罪を犯さないようにと彼女に仰っただけでした。この実例より、主イエス様は人間の弱さを特に憐れんでくださることが分かります。私たちが罪過を犯しても、心からそれを悔い改めさえいれば、主は私たちをお許しくださり、変化を遂げる時間と機会を与えてくださります。従って、私たちは他人の欠点や堕落を正しく扱い、成長の可能性を探りながら他人を評価するべきです。これは当然と言えるでしょう。サタンのような堕落した性質にまかせて他人を扱い、他人に厳しい要求を課し、些細なことに時間を浪費し、恣意的に他人を非難し定義していたら、それは主の御心に沿っていないし、私たちは間違いなく他人と普通の関係を持つことはできないでしょう。

 例えば、私たちの教会には消極性と弱さが原因で決して時間通りに集会に参加しない姉妹がいました。私は彼女と何度も交流しましたが効果はありませんでした。私はこれにとても腹を立てて、彼女は神の誠実な信者ではないと決めつけていました。So, これ故に、私はもう彼女を支えるのも、彼女に気を配るのも止めてしまいました。その後、私は聖書にこう記されているのを目にしました:「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」(ローマ人への手紙14: 3-4)。私はこれを読んでとても恥ずかしくなりました。私が否定的で弱気で挫折していた時に、私がしっかり立っていたれるようにと神が兄弟姉妹を動かして私のサポートをさせてくださったことを振り返りました。これと同様に、今私はあの姉妹が家族や世俗的なことのごたごたが理由で時間通りに集会に参加できないことを知っているのだから、彼女を優しく支えてあげるべきなのです。しかし、私は彼女の生活を心配したり、気に掛けたりせず、彼女を冷たくあしらい、彼女のことを神に誠実でない信者だと決めつけていたのです。私はとても邪悪で思いやる気持ちを全くもっていませんでした。私のとった行動は基本的に主の御旨に適っていなかったのです。私はこう気が付いた後、神の前に行って自ら犯した罪を告白し、それを悔い改め、姉妹を支え続け、愛情を持って彼女と交流し、自分の実体験を彼女に話す決意をしました。交流を何度か行った後、彼女は定期的に集会に参加するようになり、教会の仕事をするようにもなりました。この経験を通じ、私は、神が人間を救う働きをなさる間、私たち信者がどのような弱さと欠点を持ち、どのような種類の堕落を示そうとも、神の誠実な信者であり、神の前で悔い改めができる限り、神は私たちに変化を遂げる機会を与えてくださるのだと理解しました。従い、私たちは愛情をもって他人を助け、許し、そして皆を神の要件に従って扱うべきなのです。私たちは他人を恣意的に定義したり、非難したりしてはならないのです。他人をこのように扱うことのみが公平であり、主の御心と合致しているのです。

第3に、私たちは他人を過大評価も過小評価もせず、他人の長所を発見して自らの欠点を補うことを学ぶべきです。


 聖書にこの記述があります:「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。」(ピリピ人への手紙 2:3-5)。兄弟姉妹と触れ合う時、私たちには自分たちに一定の能力があり力量と才能も少しあるからといって才能がない、または愚かで力量が乏しい人たちを見下していたら、私たちはサタンの性質である傲慢さを表していることになります。主イエス様はこう仰りました:「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイによる福音書 23:12)。私たちは謙遜して他人の長所を生かしながら自分たちの欠点を補うためべきです。こうしてのみ、神は私たちに満足してくださり、私たちのいのちも継続的に成長していくのです。

 加えて、私たちは人の愚かさや賢明さ、力量の良し悪し、貧乏なのか裕福なのかに関係なく、他人に対して偏見を抱いたり、自分の好みにまかせて彼らを扱うべきではないことを知っておかなければなりません。私たちがどのような外見をしていても、どのような力量、長所、そして才能を持っていても、それは神から事前に定められているものであるため、私たちが他人のあら探しをするべき理由などはありません。神が人を救われるかどうかはこのような外面的なことで決まるものではありません。従って、私たちはこのようなことを気にするべきではないのです。むしろ、私たちは皆の欠点を正しく扱い、他人を尊重することを学ぶべきなのです。

第4に、私たちは他人が自分の考えと合わない行為をしているのを見ても、先ずは他人の問題には注目せず、自分たちを知ることを学ぶべきです。


 主イエス様はこう仰りました:「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイによる福音書7:3-5)。他人と触れ合う上で、小さな衝突はつきものです。私たちはむやみに他人に執着したり、善し悪しにこだわったり、他人を責めようとせず、自分自身の問題を見つけることを学ぶべきです。自らを知れば、他人に対する偏見は自然と脇に置くことができるでしょう。

 私はこの経験は沢山してきました。例えば、私がペアを組んでいた姉妹が、私は教会の仕事で何の責任も担っていないと言いながら私の欠点を何度も指摘してきたことがありました。私はこれを神から受け入れなかっただけでなく、彼女は私を意図的に虐め、面倒な状況を作り上げていると思ったのです。私はこれが理由でこの姉妹に対して先入観を持つようになり、彼女と教会の仕事をするのが嫌になりました。その後、私は探求により、私が他人のアドバイスを拒否していたのは自分のサタンのような傲慢な性質に支配されていたことを知りました。同時に、私はこう気が付きました;「実際に、私が毎日のように遭遇する人々、出来事、そして物事は神が私を変えて救うために用意してくださっているのです。あの姉妹が私にとって面倒な状況を作り上げていた訳ではなかったのです。私は神の行いを受け入れ、姉妹と調和を取りながら協調できるように自分を脇に置き、姉妹の正しいアドバイスを受け入れ、前向きに心を開いて彼女に自分の堕落を見せることを学ぶべきなのです。」これは教会の仕事に有益なことで、私たちが真理を得られるようにしてくれます。こうして、私は神の要求通りに実践し始めました。私はこの姉妹もまた自分自身の欠点を知っているとは思っていませんでした。ついに、私たちは精神的に繋がり、以前のようにまた調和がとれるようになったのです。

 上述した4つの原則は私の実体験に基づく理解です。神の教え通りに皆を扱って、周囲の人々に利益をもたらすことができてこそ、私たちは真の人間らしさを貫くことができ、神を讃え、神の証言をすることができるのです。