賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

うつ病を克服する方法を見つけましょう!

2019-06-15 22:47:11 | 信仰生活

私の家族がうつ病になりました

   うつ病はここ数年で広く知れ渡るようになりました。官僚、有名人、学生、または賃金労働者など、多くの人々がそれに悩まされています。以前、私はニュースでその言葉を目にしたことがあるだけで、まさか自分の家族がそのえじきになるとは思ってもいませんでした。

   私の娘はかつて幸せな家庭をもっていました。私の義理の息子は散髪屋を経営する社交的で友好的な男性でした。彼は収入はさほどありませんでしたが、競合圧力もほとんどなく、気楽な生活を送っていました。しかし、子供が生まれた後、彼らは家計をやりくりすることができなくなってしまいました。私の義理の息子は友人の多くが車を持っているのを見て嫉妬で溢れていました。生活の質を改善させようと、彼は自分の店を閉店して、大きな美容院に働きに行きました。そこで足掛かりを築こうとした彼は朝から夜まで働き、夜の12時頃まで帰宅しないことがよくありました。彼は頻繁に自腹で中国や韓国に行って上級者向けの勉強会にも参加していました。なぜなら、彼の職場では常にスキルアップして客を引き付け、その客を維持していないと、解雇されることを逃れられないからです。日が経つにつれ、私の義理の息子は憂鬱になり、口数も少なくなり、あまり笑顔を見せなくなってしまいました。従業員は全員が月6万元以上の売上目標を達成することを会社から義務付けられていて、そのノルマを達成できない人は月例会議の際に全員の前でテーブルを3度はい回り、犬のように吠えさせられるんだと彼は口にしていたことがありました。笑い者にならないようにと、彼の同僚の中には自分のお金を足して売上目標を達成している人たちもいました。社内では、口が達者で上司にこびる人たちが昇格していました。私の義理の息子は上司の行動を嫌っていたので、決してお世辞を言いませんでした。これ故に、彼は上司から強い風当たりを受けていたのです。このようなプレッシャーの中で、彼はそこで働くのが嫌になってしまいました。しかし、同僚の多くが家や車を持っていることを考えると、彼は辞める訳にはいきませんでした。この結果、彼は精神的葛藤に陥り、それから抜け出せなかった彼は徐々に口をきかなくなり、怒りっぽくなったのです。その後、彼の状態は更に悪化していき、死ねば問題は全て解決するなどといったようなことを頻繁に口にするようになり、彼は私の娘に子供を育てて欲しいとまで頼んでいました。これを知った私たちは検査を受けさせようと彼を病院に送り、彼は精神科医にうつ病と診断されたのです。彼が病院にいた時、私はうつ病患者の大多数はオートローン、住宅ローン、仕事または感情的な理由で病を患っていた若者であったことを知りました。その中にはいい成績をとるプレッシャーが原因でうつ病に罹っていた10代の学生すらいました。活動的で明るい生活を送っているべき若者がどうしてうつ病などに罹っているのか、私は理解できませんでした。



現代の若者はどうしてうつ病の中を生きているのでしょう?

   後に、私はインターネットで偶然ある報告結果を見つけ、そこには中国におけるうつ病発症率は世界平均を上回っていると書かれていました。うつ病患者の数は9000万人に及び、毎年10万人以上が自らの命を絶っています。あるアンケートによると、職場や就職のプレッシャー、そして若者の精神状態が最も深刻であり、彼らは世間、住宅、そして子育てに関することから相当なプレッシャーを感じているとのことでした。このようなプレッシャーが緩和されずに長期間続くと、若者はうつ病になりやすくなってしまうのです。この報告書を読んだ後、私はこう思いました:「この現代社会で、一体どうしてこの若者たちはこのような苦しみとうつ病の中で生きるはめになってしまったのでしょう?」

うつ病の根源

   ある日、私の通う教会からワン姉妹が私の自宅にやってきました。私の困惑を知った彼女はハンドバッグからタブレットを取り出して、神の御言葉のこの節を読んでくれました:「サタンが人間を虜にし、支配するために使用するものは何ですか。(名声と利得です。)サタンは名声と利得を用いて人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにします。人間は名声と利得のために努力し、名声と利得のために苦労し、名声と利得のために恥辱に耐え、持てる全ての物事を犠牲にし、名声と利得のためにすべての判断と決断を下します。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかけます。足かせは人間の身体に付けられ、人間はそれを外す力も勇気もありません。したがって人間は、無意識のうちに足かせをかけられた状態で極度の困難の中を歩んでゆきます。この名声と利得のために、人間は神を避け、神を裏切り、ますます邪悪になります。人間はこのようにして世代を追うごとにサタンの名声と利得により破壊されてゆきます。」。 姉妹はこれらの御言葉をまとめてこのように交流してくれました、「若者はどうして激しいプレッシャーをかけられながら生きて、うつ病に罹っているのでしょう?それはサタンが名利を使って人間を閉じ込め操っているからです。それは、一旦名利を手にすれば、高い地位と大きな富を取得し、他人を見下ろすように生活し、全ての人から尊敬されると私たちに誤解させているのです。それは私たちが名利を全力で追い求めるようにするために、このような高い理想を抱かせるのです。その結果、私たちはこのサタンの思考の中に捕まって逃げられなってしまいます。そして、自分たちの目標や理想を手にすることができないと、私たちは困惑と苦しみに陥り、そこから抜け出すことができなくなるのです。あなたの義理の息子さんも同じです。彼は車や家を所有している人たちに嫉妬し、他人から尊敬されるためにそれらを手にしたいと思ったから、それらを求めて苦労しながら努力して、苦しい生活をしていたのです。しかし、彼は目標を達成できなかったので、苦しみに陥りました。生活面と精神的なものを組み合わせたプレッシャーの中、彼は常に神経が張り詰めた状態にあり、それが彼を精神的に参ってしまう直前まで追い込みました。そして、彼はこの苦しみから脱出するために死にたいとすら思ったのです。これより、若者は誰もがサタンの植え付ける人生観を指針として生活し、成功と他人の上を行くことを追い求め、名誉、利益、そして地位を求めて人生を過ごすということが分かります。彼らは望みを叶えることができないと、落ち込んで死にたいとまで思います。この時点で、彼らは抵抗する術なく、サタンから悪の巣窟におびき寄せられてしまっているのです。ついに、サタンは人間を地獄へ連れて行き、人間を虐待し貪り食うという悪質な目的を達成するのです。」

   私は姉妹の交流を聞いた後、サタンが人間を傷つけるために用いる手段はとても極悪非道たるもので、名利は人類を強く束縛するものであると感じました。人生の浮き沈みを経験してきた私たち年寄りですら名利の束縛から抜け出すことができないのに、若者にそれができるはずがありません。そして私は姉妹にこう尋ねました、「サタンは私たちを酷く傷つけるので、それから抜け出す方法はないのでしょうか?」

うつ病から抜け出す方法

   姉妹はこのように私と交流してくれました、「この苦しみを解消したければ、私たちは神の前に行なければなりません。それは、神の御導きがなければ、無知な私たち人間は人間に苦難を与えるというサタンの悪質な動機や策略を見抜くことができず、むしろ依然として名利を追い求めることは適切なことであり、前進する意欲の表れだと思い続けるからです。こうして、私たちは必然的にサタンの害を受け続けるのです。神の御言葉をもって読んでみましょう。そうすればもっと良く理解できるでしょう。『こうした状態から自由になるための非常に簡単な方法がある。それは、自分の従前の生活様式や、従前における人生の目標と訣別し、従前の生活様式、哲学、追究、願望、理想を概括し、分析して、それを神の旨や人間に対する要求と比較し、そうした従前の物事すべてが、神の旨や要求と矛盾していないか、人生の適切な価値をもたらすか、自分を一層深い真理の理解へと導くものであるか、人間性と人間らしさによって生きるようにさせるものかを確認することである。人々が追究する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査分析すると、創造主が人間を創った時点における創造主の元来の旨に適合するものがひとつも無いことが分かるであろう。そうした目標や生活様式は、全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離すものであり、人間を陥れて地獄へと導く罠である。このことを確認した後の作業は、従前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神に自分の人生を采配してもらい、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢に惑わされず、神を信仰する者となることである。』。従って、神の前に行って神の御救いを受けてこそ、私たちは生活の仕方とサタンに植え付けられた誤まった人生観と価値観を変え、サタンの引き起こす苦しい生活を一掃することができるのです。」

   姉妹の交流を聞いた後、私の悲しさは消えていき、私は義理の息子の助け方を知りました。私は、神を心から頼りにして神の御言葉に従って生活していれば、私の義理の息子はサタンの束縛と害から脱出し、うつ病からも抜け出すことができると信じました。なぜなら、神の御言葉は人間にいのちを与え、正しい道を示すことができる真理だからです。

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富と名声の沼を歩いて渡る

2019-06-14 09:51:43 | 信仰生活

   私は騒がしい道を歩きながら行き来する人たちを見ていると、激しい感情に圧倒されました:「人生は短いのに、私たちは一体何のために生きているのかしら?私たちはいわゆる理想とキャリアを求めながら家族を食べさせるために走り回っているわ。喜びと悲しみを沢山経験した後、成功を収めた人や失敗に終わった人を含め、生きる意味を理解できた人はいるのでしょうか?」

   一度私も、素晴らしい人生を手にする夢を持ちながら、自分の理想を根気強く追い求め、富みと地位の間を行ったり来たりしていたことがありました。

   思い返せば、悲嘆しか感じたことがありませんでした…

   私は二十歳だった時に貧乏だった夫と結婚しました。結婚した後、私たちは大変な生活を送りましたが、私は夫が幸せにしてくれると信じていました。他の人たちから見下されないようにと、私たちは一生懸命に働き、いつの日か名声と富を手に入れてもっといい生活が送れることを思い浮かべていました。しかし、この苦労を通じて私が本当に得たものは苦難、辛さ、虚しさ、そして無力感のみでした。

   この物質主義社会で自分たちの地位を確立するため、私の夫と私はビジネスでかなり苦労しました。長期間続いた過労と不安が原因で、私は神経性の頭痛を患い、ほとんど睡眠がとれなくなってしまいました。しかし、私の根強い努力はついに報われました、私たちは30平方メートルの家を手にしたのです。しかし、この喜びと満足感は長続きしませんでした。それは他の人たちの家と比べると、我が家は小さ過ぎたからです。こうして、私たちは更に一生懸命働いて、後に広々として明るい家に引っ越しました。その時、私はとても満足で幸せでした、なぜなら私はやっと以前のように劣等感を感じることなく胸を張って歩けるようになったからです。私はやっと夢にまでみた生活を手にしたと思っていましたが、他の人たちが大きなマンションに住んでいたり、車を運転しているのを見ると、心の中で少し気が転倒し、そのような生活のみ意義があると思いました。自分たちの欲望を満たすため、私の夫と私はビジネスに打ち込みました。しかし、私は最終的に自分たちの所持品を全て失い、良くなり始めていた私たちの生活も降り出しに戻ってしまうとは予想もしていませんでした。人々の冷たい軽蔑のまなざしを見ていると、私は悲しくなりました。そして、私は自分にこう約束しました:「私は失敗には決して屈しないわ。私は人から尊敬されるようにより良い生活を求めて努力する必要があるのよ。」私は復活を遂げるため、積極的にビジネスチャンスを求めました。私たちは眠れない夜を多く過ごし、精神的にも、肉体的にも疲れ果てていました…

   私がちょうど夢にまで見た生活を手にする間際まで来ていた時、良い時も悪い時も常に私と一緒にいてくれた夫が浮気をしたのです。この突然のショックは私の心を引き裂くものでした。私は父親に心配させたくなかったのでこのことは伝えず、兄が自分の夫を肉の成すがままに扱うことも心配になったので、このことは兄にも伝えませんでした。私はこれよりも自分の家庭内スキャンダルが人に知れたらそれが皆の間で噂になって自分の名が汚されることを心配しました。私はひどく落胆してしまい、生きていくのが嫌になりました。しかし、子供のことを考えた私は死ぬことを諦め、ただ単に憤慨と涙を静かにグッと抑えました。

   私は幾度に渡って空を見上げ、ため息まじりにこう嘆きました:どうして私はこんなに運が悪いのでしょう?どうして私は裕福であっても、貧乏であっても、苦しい思いをするのでしょう?そして、人々は何のために生きているのでしょう?

   神が表される真理が私の疑問に対する答えを明らかにされています。神はこう仰ります:「サタンは名声と利得により人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにする。人間は名声と利得のために努力し、名声と利得のために試練を乗り越え、名声と利得のために恥辱に耐え、持てる全ての物事を犠牲にし、名声と利得を獲得して維持するためにすべての判断と決断を下す。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかける。こうした足かせが人間の身体に付けられ、人間はそれを外す力も勇気も無い。したがって人間は、無意識のうちにこれらの足かせをかけられた状態で重度の困難の中を歩んでゆく。この名声と利得のために、人間は神から離れてゆき、神を裏切るようになる。人間は世代ごとに邪悪になり、陰鬱になるので、人間はこのようにして世代を追うごとにサタンの名声と利得により破壊されてゆく。」 (「唯一の神自身6」より)。「人間は、この時点になって初めて、この世に現れた時、最初に理解すべきことは、人間がどこから来るのか、何故生きているのか、人間の運命を支配するのは誰か、人間の存在に施され、それを統治するのは誰であるかを知る。こうした物事が人生における真の財産であり、人間の生存に不可欠な基盤であって、自分の家族を養う方法や、富や名声を得る方法を知る事でも、人々よりも卓越した存在となる方法、一層豊かに生活する方法を知る事でもなく、ましてや他人を超越し、競争に勝つ術を覚えることなどでは無い。人間が生涯をかけて覚える生存のための様々な技能により、物質的な快楽を豊富に得ることが出来るものの、そうした技能は人間の精神に真の平和と慰みをもたらすことは決して無く、むしろ継続的に人間に道を踏み誤らせ、人生の意味を知る機会を全て失わせ⋯」(「唯一の神自身3」より)。 神の御言葉を読み、私は富と名声はサタンが私を縛りつけるために利用していた単なる拘束手段であり、私はこれらを手にしようと常に奔走していたことに気が付きました。私は人々に自分を高く評価させて、より多くの、そしてより大きな物質的快楽を手にするために全力を注ぎ、多くの犠牲を払っていたのです。私の夫と私は貧しかった頃、自分たちの運命を変えようとかなりの苦労を費やしました。私たちがやっとの思いで裕福になった時、私の夫はそれでも堕落していきました。多くの浮き沈みを経験した後、私はこう理解しました:物理的な富がもたらしてくれたのは一時的な満足感と幸せであり、心で感じる真の和みではなかったのです。私は物理的な安楽を手にした時ですら、依然として虚しさと無力さを感じ、沢山苦しい思いをしました。その理由はと言うと、それはサタンが毒を用いて私を操りながら私を堕落させて痛めつけていたからなのです。神は私たち人間を創造され、今までずっと私たちを御導きくださりました。世の終わりに、受肉された神は真理を表して私たちに新たないのちを与えるために来臨されました。私たちは真理を追い求め、そして神の御言葉を貫いてのみ、サタンによる妨害と束縛から抜け出して、私たちの生きる道を見つけることができるのです。その時、私は真理を追い求めて意義のあるいのちを貫くという極めて稀なチャンスを大切にすることを決意しました。

   神はこう仰っておられます:「正常な人、神への愛を求める人として、神の国に入り神の民の一人になることは、あなたがたの真の未来であり、最高の価値と意義を持つ生涯である。あなたがたより祝福されている人はいない。なぜわたしはこう言うのか。神を信じない人々は肉のために生き、サタンのために生きるが、今日あなたがたは神のために生き、神の心を実行するために生きるからである。あなたがたの生涯が最大の意味を持つとわたしが言うのはこのためである。神によって選ばれた人々のこの集まりだけが、最も意味のある生涯を生きることができる。地上の誰もそのような価値と意味のある生涯を生きることはできない。」(「神の最新の働きを知り、神の歩みに従う」より)。3年間の苦労と失敗の末、私は自分の虚しさ、名声、そして富を欲する利己的な欲望を脇に置き、自分の運命を神の御手に委ね、これ以上それを自らの手で変えるということに大それた期待を沿えるのを止めることを学びました。そして、私はかつてない安堵を感じ、長年悩まされてきた病気も治療せずに完治したのです。さらに、神の御言葉の備えを受け、私は普通の人間性を貫き、寛容であり許す気持を持つべきであると理解し、それ故に私は自分の夫を許してあげました。私はまた、実生活において遭遇するものは神が用意してくださっているもので、私が自分の性質を変えて、神を知るための機会であることも知りました。私は神に頼りながら真理を実践する度に、穏やかな気持ちと平安を感じ、神のみが私たちのいのちの源であることに気が付きました。神は、私が普通の人間性を貫き、そして神の高潔さと温厚さを知ることができるようにしてくださっているのです。神への信仰において、私は真理の探求と実践を通じ、もはや虚しく感じることはなくなりました。なぜなら、私は真理を実践することはサタンに背くことであり、創造主からの要求を満たしているということであり、神の基準に沿った人間になれているということだと知っているからです。私はこのように探究すればするほど、増々確信を持って平安を感じられるようになり、このように生きれば生きるほど、増々気骨と尊厳を持てるようになります。私は神に立ち返る道を歩んでいるように感じています。私は肉やサタンのために生きるのを止め、その代りに全能神に注意深く従い、全能神のために生きて行きます。なぜなら、全能神の本質は神性で、美しく、誠実で、永遠に愛して礼拝するに値するからです。

   私は依然として群衆と交わってはいますが、今は開放感と平安を感じており、私はまた、真理を求め神を知る、自分の創造物としての本分を尽くす、そして真のいのちを貫くといった違った目的を持ってもいます。これは私が心で感じる最高の幸せです。人生を通して起こった詳細を全て思い返すと、私は神に対する心からの感謝の意と称賛を口に出さずにはいられません。

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一度救われたら、永遠に救われるというのは本当か

 

 



どんな人が神の救いを得られるか

2019-06-12 21:54:29 | 信仰生活

   日曜日の午前、日がさんさんと照っていて、庭の花がすがすがしい香りを放っていました。「天の上におられるわたしたちの父よ、あなたの御名が聖とされますように。あなたの国が来ますように。あなたのみこころが天で行なわれているように、地でも行なわれますように。……アーメン!」と兄弟姉妹たちの祈りの声が集会所から伝わってきました。

   説教者山下兄弟は説教壇に立て、微笑んで皆さんに言いました。「今日、わたしたちは別のやり方で集会しましょう。皆さんに何かの問題や分からないことがあったら質問してください。わたしたちは一緒に真理を求め、話し合いましょう。そうすれば、雰囲気を盛り上げることができるし、皆さんも負担を持って積極的に交流することができます。そうしてこそ、もっと多くの真理を理解できます。主が準備してくださいますように。アーメン!」。

   すると、席のほうで兄弟姉妹たちは論じ始めました。信徒Aさんは喜んで言いました。「山下兄弟のこのやり方はいいですね。そうすれば、皆さんが互いに交流し合うことができるし、兄弟姉妹の真理を求める心を起こすこともできます。以後毎回このように集会すれば、もっとよい効果を収められるとわたしは思います」。

   この時、井上姉妹は微笑んで言いました。「では、わたしはまず一つ質問を出しましょう! 主イエスが働いている間に、多くのしるしや奇跡を行われました。それはユダヤ全地にセンセーションを巻き起こしました。当時、一部の人は主イエスに従いました。しかし主イエスの働きに逆らい、主イエスの働きを罪定めする人もいました。例えば、神殿の中で神に仕えている祭司長、律法学者、パリサイ人は主イエスの宣べ伝えられた福音を聞いた後、探究せず、調べないばかりか、かえって至る所で主イエスを訴える口実を探し、主イエスの働きを誹謗し、罪定めし、最終的に主イエスを十字架につけました。同様に主イエスの働いた時代で生きていましたが、一部の人は主イエスにつき従うことができ、また一部の人は主に逆らう人になりました。これはなぜですか。一体どんな人が主の救いを得られますか」。

   山下兄弟は少し考えてから言いました。「あなたの質問は非常に重要です。もしわたしたちがどのように神を信じれば成功の道をたどることができるかを知らず、失敗した人の失敗の教訓を総括し、汲み取ることができないなら、いとも容易に、神に逆らう滅亡の道をたどります。兄弟姉妹たち、この質問について交流する前に、わたしは皆さんに一つ質問したいです。主イエスが働いている間に、だれがまず主イエスにつき従うべきですか」。

   すべての信徒はちょっと顔を見合わせてから、「聖書に精通する祭司長、律法学者とパリサイ人です」と答えました。

   山下兄弟はこう言いました。「わたしたちの観念、想像のとおりだとすれば、主イエスは働かれた時、まず祭司長、律法学者、パリサイ人に啓示すべきでした。彼らが神殿の中で神に仕える人であり、しかも聖書に詳しく、毎日人に律法、戒めを教えたから、彼らは主の追随者のはずでした。あなたたちはそう思いませんか」。すべての信徒は「はい」と答えました。彼は続けて言いました。「しかし、事実はどうですか。彼らは主イエスの働きを見た後、探究せず、調べないばかりか、かえって攻撃し、罪定めし、逆らいました。最終的にローマ政府と結託して主イエスを十字架につけました。だが意外にも、なんらの名望、地位もなく、また聖書に詳しくないペテロ、ヨハネ、マタイたちは主イエスの召しを聞くと、すべてを捨てて主イエスに従い、最終的に主の救いを得ました。これで分かるように、神の性質は義で信実で、いかなる人も偏り見ないことです。神が人を救うのは、人の地位の高さ、資格の有無、神を信じている時間の長さによってではなく、人が真理を渇仰し、求める心を持つかどうかによってです」。

   この言葉を聞いた後、すべての信徒は論じ合っていました。ある信徒はこう言いました。「神は本当に義なる方です。神の働きは本当に人の観念、想像にかなわないですね! 人が真理を渇仰し、求める心を持つなら、神はきっと人を救われます!」。

   この時、井上姉妹は何か分かったように言いました。「わたしの想像のとおりだとすれば、祭司長、律法学者、パリサイ人はまず主イエスに従うべきでした。思いがけずそれらの漁師、取税人が主イエスの働きについて行けました。主は本当に義なる方で、いかなる人も偏り見ません!」。

   「では、なぜそれらの人が神の足跡に従うことができたのですか」と山下兄弟は言いました。

   すべての信徒はこの問題が分からず、困惑の表情を浮かべて、互いに顔を見合わせていました……。

   山下兄弟は聖書をざっとめくってみてから、落ち着いて言いまいた。「聖書の物語はわたしたちに答えを教えることができます。例えば、漁をするペテロとアンデレは主イエスの召しを聞くと、網を残して主イエスに従って行きました。同様に漁をすることで生計を立てているヤコブとヨハネは主イエスの召しを聞くと、漁船を残し、父親と別れて、主イエスに従って行きました。収税人マタイは主イエスの召しを聞くと、手元の仕事を捨てて主イエスに従って行きました。主のこれらの弟子たちはみな主イエスの召しを聞いた後、単純に主に従いました。また、サマリアの女は主イエスが彼女の行ったことをすべて言い当てたのを聞いてびっくりし、そして町に行ってすべての人に主イエスがキリスト、来たるべきメシアだと言いました。ニコデモは真理を求める心を持っていたので、夜イエスのところを訪れて、主イエスの教えを聞きました。そのため、神の啓きを得て、主イエスが神から来られた方だと分かりました。これらの人は謙遜な心をもって、虚心に主イエスの言葉、働きを探究し、調べたので、神の啓きを得、神の声を聞き、主イエスが神から来られた方、キリスト、預言されている来たるべきメシアだと分かりました。事実上、主イエスは道を説き、働く前に、だれにも前もって啓示しませんでした。彼は道を説き、働いた後、すべての人が彼の言葉を聞き、彼の働きを見るようにされました。彼がそうするのは、どんな人が虚心に真理を求め、神の出現、働きを渇望する人かを明らかにするためでした。それは主イエスが言われたとおりです。『わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている』(ヨハ10:14)。『わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う』(ヨハ10:27)。『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる』(マタ7:7-8)」。

   この時、井上姉妹は笑顔を浮かべて言いました。「ああ、あなたの言葉を聞いた後、わたしはすっかり分かりました。以前、わたしは地位、名望、賜物のある人たちが最初に神の啓きを得、神の働きの歩みについて行くことができると思っていました。しかし事実はわたしの観念、想像に反撃しました。神は地位、名望、賜物を問題にせず、人の神を渇仰する心を問題にするのです。これはわたしに主イエスの次の言葉を思い出させました。『心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである』(マタ5:3)。『義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる』(マタ5:6)。『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る』(マタ5:8)。主に従う弟子ペテロ、ヨハネ、マタイたちは高い身分、地位を持たず、また聖書に精通しないが、主の召しを聞くと、主に従うことができました。彼らは虚心に主の言葉、働きを探究し、調べ、パリサイ人に束縛されず、すべての暗やみの権威を突破し、すべてを捨てて主イエスに従い、そのため神の救いを得ました。わたしたちは以後ペテロ、ヨハネたちに倣うべきです。主の到来に関しては、観念、想像によらず主の言葉によって判断し、謙遜な心をもって探究し、調べるべきです。そうしてこそ聖霊の啓き、導きを得、神の働きの歩みについて行くことができます!」。

   信徒たちはこの言葉を聞いた後、論じ合っていました。ある信徒はこう言いました。「そうですね。わたしたちの以前のそれらの考えは確かに真理にかなわないです。主の弟子ペテロ、ヨハネは確かにわたしたちの倣うべき者です。神は義で信実です。わたしたちが観念を捨てて、真心をもって調べるなら、神は同様にわたしたちに啓いてくださいます。こうして、わたしたちもペテロ、ヨハネ、マタイたちのように主の出現と働きを迎えることができます」。

   この時、何か考えている様子の井上姉妹は言いました。「わたしはやはり分からないところがあります。あの時、そんなにたくさんの民は主イエスの道を聞き、主イエスの行われたしるしや奇跡を見、しかも道の両側に並んで主イエスの到来を歓迎しました。だが、後で大部分の民はパリサイ人と一緒に主イエスに逆らいました。これはなぜですか」。

   山下兄弟はきっぱりした口調で、落ち着いて言いました。「あなたの出したこの問題はとても実際的です。わたしたちが知っているように、祭司長、律法学者、パリサイ人はみな宗教のリーダー、宗教の上層部の人です。彼らは神を信じている時間が長く、聖書を熟読し、地位、賜物を持っているから、大部分の民は彼らを仰ぎ見、崇拝し、彼らの聖書の知識と神学理論を真理として扱っていました。これらの民は神を信じているが、主イエスの言葉と働きが神から出たものかどうか、人のためになるかどうかについて探究したり、調べたりせず、盲目的に聖書の知識と地位、権勢を崇拝していました。パリサイ人が至る所で主イエスを訴える口実を探し、律法によって主イエスを罪定めした時、大部分の民は弁別力がなかったので、パリサイ人に惑わされてパリサイ人のうそを信じてしまい、しかもパリサイ人と一緒に主イエスに逆らいました。こうして、彼らはパリサイ人の共犯者になりました。その上、彼らは主イエスが彼らの王にならず、彼らを導いてローマ政府の支配を翻さず、また宗教のリーダーたちに罪定めされ、逆らわれるのを見た時、主イエスの言葉と働きを否定しました。当時、彼らがこう思っていました。イエスがキリスト、メシアであれば、彼は王になって、あらゆる人から推戴されるはずだ、彼がキリスト、メシアなら、どうして罪定めされ、見捨てられることがあろうか、と。だから、主イエスの働きが彼らの観念にかなわない時、彼らはパリサイ人の側に立ってパリサイ人のお先棒を担ぎ、主に逆らい、主を罪定めしました」。

   井上姉妹はこれらの言葉を聞いた後、興奮して言いました。「神に感謝します。あなたのこれらの言葉によって、わたしはこういうことが分かりました。すなわち、大部分の民がパリサイ人と一緒に主イエスを罪定めし、逆らうのは、彼らが人を仰ぎ見、崇拝し、権力、地位に束縛され、しかも真理を求めず、全然弁別力を持たず、自分の観念と想像だけによって主イエスの働きを扱ったからです。だから、主を迎える上で、わたしたちは神を畏れる心を持たなければならず、牧師、長老の言葉だけを信じてはなりません。そうすれば、いとも容易に惑わされ、騙されて神に逆らうようなことをしでかします。そうなると、神に懲罰されます」。

   この時、山下兄弟はこう言いました。「そうですね。再来される主の働きかどうかを判断する時、わたしたちは意のままに論断したり、罪定めしたりすることなく、神を畏れる心をもって、虚心に探究し、調べるべきです。こうしてこそ、聖霊の啓き、照らしを得られます。そうなったら、わたしたちは神の働きの歩みについて行き、神の救いを得ることができます!」。

   この言葉を聞いた後、信徒たちは微笑みながら論じ合っていました。ある信徒はこう言いました。「そのとおりですね。今日このように交流しなければ、戻ってくる主を迎えることにおいて、わたしたちもあの時の弁別力を持たない民のように、地位と権威がある牧師、長老たちを崇拝し、自分の観念と想像によって神の働きを扱うはずです! 神は義なる方であって、へりくだり、真理を求める人が好きです。ペテロのような人こそ神に良しとされることができます。そうですね。もしわたしたちがひたすら牧師、長老の言葉に聞き従って、弁別はしないなら、いとも容易に惑われます。わたしたちはペテロ、ヨハネたちに倣って、神を畏れる心をもって真理を求めなければならず、ことに当たっては多く祈り、神の意志を求め、神の声に留意しなければなりません。そうしてこそ、神の足跡に従い、神の救いを得ることができます!」。

   すると、すべての信徒は「神に感謝します。アーメン!」と言いました。


ギャンブラーからキリスト教徒への変身

2019-05-06 19:55:31 | 信仰生活

   競馬で賭けを行なうと言うと、それを怖がって疫病のように避ける人もいれば、ヒバリのように大喜びしていくら賭けても物足りないという人もいます。競馬に対する態度は人によって違います。私もかつてはギャンブラーで二十年以上も競馬をしていましたが、苦さと痛みを味わいました。いかにして競馬のギャンブラーから一人のキリスト教徒になったかを振り返ると、どうしても感情がこみ上げるのを感じずにはいられません……

   当時、私の収入は少なく、家族の経済的負担や資金不足もあってより多くの金を稼ごうと知恵を絞りました。ある日のこと、職場の同僚とおしゃべりしていたところ、彼はこう言いました。「『副収入のない人間は決して豊かになれない。夜、干し草に飢えている馬が決して太らないのと一緒だ』君ももっと稼ぎたかったら、競馬をしたりマーク・シックス・ロトを買ってみたらいい。十ドル分を買えば、それが何十ドルにも、何千ドルにも、何万ドルにも、何十万ドルにもなるんだ……」同僚がそう話すのを聞いていると、私の心は欲望にかき立てられ、金持ちになる夢がすぐに叶うような気がしました。

   競馬を始めたとき、私は二十ないし三十ドルしか賭けず、それで数百ドルから千ドル以上を簡単に儲けていました。私はこう考えました。「競馬で稼ぐのは難しくない。だからもっと賭ければもっと儲けられる。これは金持ちになるいい方法だ」そこで競馬新聞を買い、大儲けするにはどの馬に賭ければよいかを調べるようになりました。働いているときも競馬新聞を持ち歩いていました。一度など、新聞を読みながら機械作業をして注意力が散漫になったために、機械に手を挟まれ負傷するということもありました。数針縫う必要があり、仕事を数ヶ月休まざるを得ませんでした。

ギャンブラーからキリスト教徒への変身

   私がギャンブル中毒になったと気づいた妻は強く反対し、そのことで口論することも頻繁にありましたが、妻がなんと言おうと私は決して聞き入れませんでした。競馬でより多くの金を賭けるために、私は生活費を切り詰めました。バスに乗らず歩いて通勤し、時には食事をとらないでロールパンを買うだけにして、そうして節約した金をギャンブルにつぎ込んだのです。当時は金持ちになるという夢の中で暮らしていました。私は疲れ果てて身体を弱らせ、目はぼんやりと命を失ったように見えることがたびたびあり、両目のまわりに黒いくまが現われるようになりました。同僚たちは時々こう尋ねました。「どうして毎日そんなに疲れているんだ?」「ロールパンばかり食べて、ちゃんとした食事をとらないのはどうしてなんだ?人生を楽しめるように働いているんじゃないか?」私は普通に見えるよう努力するしかできず、こう言うのが精一杯でした。「僕はロールパンが好きなんだ。それに疲れているように見えるのは、息子が夜泣きするのでよく眠れていないせいだよ」

   競馬で儲けるたびに私は大喜びし、勝ち馬を見抜ける目を持っているような気がしました。賭ければ賭けるほど勝つチャンスが大きくなり、より多くの金を稼げる、そう考えた私は大金を得るために、儲けた金を再び賭けました。しかし大金を賭けたとき、思いがけずそれを全部失ってしまったのです。頭が真っ白になり、心がひどく痛むのを感じました。私はこう考えました。「他の誰にも負けないほど競馬を勉強し、確率や傾向を研究したのに!どうしてこんな風になってしまったのだろう?二十年以上も競馬を続けたのに金持ちになっておらず、その代わり大金を失ってしまった」一人になって落ち着いたあと、さらに考えました。「どうしてこんなことを悩んでいるんだろう?どうしてこんなつらい、くたびれるような人生を送っているんだろう?」私は徐々に将来への方向性や目標を失い、毎日無意味にぼんやりしていただけでした。

   2008年の終わりごろ、親戚の一人が神の国の福音を私に説いてくれました。しかし私は、名目上は神様を信じ始めただけで、私の人生は相変わらずギャンブルに費やされたままでした。神様を信じるならギャンブルをやめるべきだと心の中でわかってはいても、どうして競馬中毒から抜けられないのかはわかりませんでした。

   ある集会で、神様を信じ始めたあとも競馬を続けていることを兄弟姉妹に打ち明け、語り合いました。すると姉妹の一人が神様の御言葉を私に読んでくれました。「誰も神の足跡や出現を自発的に探し求めないし、誰も神の配慮と守りのもとで存在することを望まない。むしろ、人は、この世と、邪悪な人類が従う生存の法則に適応するために、進んでサタンと悪しき者の腐敗に頼ろうとする」

   私たちがサタンによって堕落させられたあと、私たちの考えや意見はすべてサタンの生命原理に支配されたことを、私は神様の御言葉によって理解しました。こうしたよくない物事が私たちの命となり、そのせいで喜んでサタンに従い、社会の傾向に従い、そして神様の御前に出向いて崇拝するという考えを持たないようになったのです。私は、「副収入のない人間は決して豊かになれない。夜、干し草に飢えている馬が決して太らない」というサタン的な思想や物の見方のせいで害を受けたこと、自分が競馬中毒になり、金持ちになることしか考えず、食事をしたり働いたりすべき時も競馬の研究をしていたこと、そしてせっかく節約した金を競馬に費やしたことを考えました。それなのに、何年もの年月を経ても金持ちになる夢は実現せず、その代わりに金をすべて失ったのです。さらに私のギャンブルのせいで妻と頻繁に口論し、私の家庭はもはや家庭のようではなくなっていました。それよりつらかったのは、私の心が競馬で一杯だったことです。人生に何の目標も持たず、それにも増して私の心は空虚で苦痛に満ちていました。多くの人々が競馬のせいで借金漬けになり、自分たちの家族を経済的な苦境に追いやり、逃れられない苦痛の中で生きていることを私は思い浮かべ、こう考えました。「サタンが私たちにこの害をもたらしたんだ!」そう気づいたとき、私はギャンブルをやめる決心をしました。

   ギャンブルをやめる決心はしたものの、競馬クラブの馬券売り場の前を通りかかり、馬券を手にしながら盛り上がったり、どの馬に賭けるべきか真剣に考えたりしている群衆を見るたび、私の両手はむずむずし、一度だけ賭けをして失った金を取り戻したいと本気で考えました。しかし、神様の前で決意したことを思い出しました。再びギャンブルをすれば、神様を騙していることにならないだろうか?こうしたことを考えながら、私は心の中で罪の意識を感じていました。しかし結局はいまだ自分を抑えられず、再び競馬をしてさらに多くの金を失ってしまうのです……

   その後の集会で、姉妹の一人が神様の御言葉を私に読んでくれました。「人間はサタンの支配下において全生涯を過ごし、自分でサタンの影響から逃れられる者は一人もいない。人間はみなけがれた世界で、堕落と空虚の中、少しの意味も価値もないままに生きている。彼らは、肉や欲望のため、そしてサタンのために、そうした気楽な生活を送る。彼らの存在には何の価値もない」「あなたは、獣同然の堕落した気楽な生活から抜け出す方法を見出すべきである。あなたは意味のある人生、価値のある人生を実際に生きるべきであり、自分をごまかしたり、自分の人生を玩具のように弄んだりしてはならない…あなたは、どのようにして自分の人生を生きるべきだろうか。あなたは、どのように神を愛し、その愛を用いて神の願いを満足させるべきであろうか。あなたの人生において、これより重要なことはない。あなたは、何よりもそうした大志と根気を持っていなければならず、骨抜きの弱虫のようであってはならない。あなたは有意義な人生を経験する方法を知り、有意義な真理を経験しなければならず、自分自身をそのようにいいかげんに扱ってはならない。あなたの人生は、気付かぬうちに過ぎてゆく。その後、あなたには神を愛する機会がもう一度あるだろうか」

   私はその言葉を慎重に考え、競馬で賭けをすることは人々を騙しそそのかすためにサタンが用いる手段なのだと知りましたが、サタンの誘惑が再び降りかかったとき、私はそれに従うことを余儀なくされ、そしてそれが、「副収入のない人間は決して豊かになれない。夜、干し草に飢えている馬が決して太らない」というサタン的な物の見方の結果だったのです。私は、自分が競馬に夢中になっていたこと、何の目的もなく一日中ぶらぶら歩いていたこと、そして人間らしさを一切持たず普通に働くことも生きることもしていなかったことを考え、こんな風に生き続けていたらますます堕落して神様から離れるだけで、神様の救いを得る機会も失われてしまうとわかりました。とりわけ、「あなたは、獣同然の堕落した気楽な生活から抜け出す方法を見出すべきである。あなたは意味のある人生、価値のある人生を実際に生きるべきであり、自分をごまかしたり、自分の人生を玩具のように弄んだりしてはならない」という神様の御言葉を読んだとき、神様が示してくださったご配慮やお考えに感謝するようになりました。神様は、私がサタンの暗い影響から脱け出し、以前の堕落した生き方を完全に捨て去ることをお望みになっていましたが、私は何度も何度も神様を悲しませていたのです。あまりにも麻痺し、反抗的でした。姉妹の一人は私にこうも語ってくれました。「私たちがどれだけつらい環境や困難に見舞われようと、誠実に神様の御前に出向き、神様に祈り、神様に頼り、神様の御手に自分を委ね、神様が私たちを支配し、すべてを整えてくださるのを認めるなら、神様はいつも私たちのために道を開いてくださいます」神様の御言葉を考え、姉妹の言葉を聞きながら、私は自分の行動の指針を持つようになりました。そして正直な心をもって神様の御前に出向き、神様に誓いを立て、神様の御言葉通りに実践し、ギャンブルへの中毒を断ち切ろうと思ったのです。

   しかし程なくして、私のギャンブル中毒が再び醜い頭をもたげました。良心が私をたしなめたものの、私はこう考えました。「ギャンブルをするのはこれが本当に最後だ。今後は絶対にしない。失った金を最後の賭けで全部取り戻したいんだ」競馬クラブに入って馬券の購入用紙を買ったとき、私の心はひどく不安を感じ、両手の震えが止まらなくなるほど激しく鼓動しました。私は購入用紙をじっと見つめましたが、心の中は真っ白でした。どう記入すればいいのかもわからず、不安のあまり頭がふらふらしました。私にできたのはクラブを離れて一息つき、心の落ち着きを取り戻すことだけでした。心が落ち着いたあと、ギャンブルを諦めたくなかったのでクラブに戻りました。そして賭けをしようとしたところ、私の心はまたも真っ白になりました。手はペンを掴んだまま前後に動きます。私は賭け方がわからず、そうする度胸もありませんでした。そのとき、神様の御言葉が心に浮かびました。「わたしが真の神であり、人間の心の奥底を探る神であることを彼が永遠に忘れないようにする。本音と建前があってはならない。わたしにはあなたがすることは全てはっきりと見えている。他の人を欺くことはできても、わたしを欺くことはできない。わたしにはすべてがはっきりと見えている。あなたは何も隠すことができない。すべてはわたしの手の中にある。」そうだ!私はずっと神様の前で誓いを立てたと思っていたのに、まだギャンブルをやめられていない、それにギャンブルをすることで明らかに神様を騙している!神様は人間の心の奥底を吟味なさいます。私がそうしている間も、神様はご覧になっていました。そして私は、競馬で賭けを行なうのがよくないことだと完全にわかっていながら、それでも繰り返し続けたのです。そうと知りつつ悪事を行なうことで、神様が私をさらに憎まれるようにしていたのです!そこで私は競馬クラブを出るとすぐ、急いで神様の御前に赴き、祈りました。「ああ、神様、サタンのそそのかしと誘惑にこれ以上苦しまず、あなたを頼り、あなたの御言葉に注意を払い、そしてギャンブルを完全にやめられるよう、私に信仰と強さをお与えください。アーメン!」そして私は、断固としてクラブをあとにしました。

   私はしばらく時間をかけて自分のギャンブル問題について神様に祈り、私のために道を開いてくださったことに感謝しました。兄弟姉妹とともに集まり、語り合い、本分を尽くすことを通じて、また神様の御言葉に従って働き、生きることを通じて、私の心は徐々に豊かさと平和を感じ始め、もはや競馬をする時間も欲求もなくなりました。時々昔のギャンブル仲間に出会うと、彼らはこう尋ねます。「最近勝ったかい?一緒に競馬に行こうじゃないか」「誰それがシックス・リング・ロトを当ててね……」そうした言葉を聞きながら、いまだに心の中で欲望が盛り上がるのを感じることもありますが、それはサタンの誘惑でありそそのかしであると気づいていました。それだけでなく、神様のために証しをし、これ以上サタンに騙される人間にはならないと、私はすでに神様に誓ったのです。だから私はこう言います。「僕はギャンブルをやめたんだ。もうやらないよ」

   その後、競馬クラブを通りかかって外に座る数多くのギャンブラーを見ても、以前のように両手がむずむずすることはなくなりました。私はギャンブルをやめた経験を思い返しました。自分自身に頼るだけでは、やめる意志も信仰も持たなかった。しかし神様の御言葉によってギャンブルの本質を完全に理解することができ、神様は私に、競馬をやめる力をお与えになった。

   現在、妻と私は神様の御言葉を頻繁に読み、教会で自分たちの本分を尽くしています。私の精神は完全に新しい見方をするようになっていて、どこに行くときも競馬新聞を持ち歩いていた過去の人生は完全に捨て去りました。神様が新しい人生を与えてくださったのは、真に神様のお恵みのおかげです!


「三位一体」の神に対する最新の認識ができた

2019-05-05 21:49:33 | 信仰生活

   ある日の早朝、窓の外では鳥がさえずり鳴いていました。私は普段通りに起き上がって聖書の勉強をしました。「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。30心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』」(マルコによる福音書12:29-30) という主の言葉を読んだ時、神は三位一体であると、牧師と長老たちが集会でよく言っているのを思い出しました。そして、彼らはまた「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し」(マタイによる福音書 28:19) という主イエスの言葉を引用して、ヤ―ウェ神が聖なる父、イエスが聖なる子、そしてさらには聖霊がいて、この3つの位格が1つになると、三位一体の真の神になると言っているのです。そして私は「神は唯一なる神であると主イエスは仰っていて、神は唯一なる存在であるはずなのに、3の位格からなっているとは一体どういうことかしら」と不思議に思いました。先ほどの節の中で、主イエスは「… 父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し」と仰っているだけで、神が三位一体であるとは仰っていないのです。ならば、三位一体説とは一体何のことなのでしょう。私はとても困惑しました。

   その後、私は小林姉妹のことを思いました。私は「彼女は他の地域の研修から戻られたばかりだし、長年に渡って説教師をされているわ。彼女なら私の困惑を解消できるかもしれない」と思いました。そしてすぐ、私は小林姉妹の家に行きました。そこで私はたまたま彼女の友人で、説教師でもある秋子と出会いました。そして私が三位一体説に関して困惑していることを彼女たちに伝えると、彼女たちは私と温かく交流してくれました。

   秋子は優しい声で私にこう言いました。「惠美子姉妹、あなたが言われた疑問には私も長年頭を悩ませました。でもつい最近、ある書籍を読んでやっと答えが分かったんです。この書籍を一緒に読んでみましょう、そうすればあなたもこの疑問を理解できると思います。小林姉妹、読んでいただけますか?」
   

   小林姉妹は言いました。「分かりました。私も最近この書籍の言葉を幾つか読みました。私は、これらの言葉はとても現実的で、権威と力に溢れていると同時に、その全てが真理であると感じました。これらの言葉はその疑問について明確に答えています。その言葉の節を幾つか読んで差し上げます。『すべての人々が神は唯一の真の神であると言うので、神は一つだけで、誰も意のままに分けることはできない。神は唯一の霊で、唯一の位格である。そしてそれが神の霊である。あなたが言うように、それが父、子、聖霊であるならば、三つの神ではないのか。聖霊は一つの事柄であり、子は別の事柄、さらに父も別の事柄である。彼らは本質の異なる、違った位格であるのだから、どうしてそれぞれが唯一神の一部分でありえようか。聖霊は霊である。これは人にとって理解しやすい。もしそうなら、父はさらにいっそう霊である。父は地上に降臨したことも、肉体になったこともない。父は人の心の中でヤーウェ神であり、確かに霊でもある。では父と聖霊の関係は何か。それは父と子の関係なのだろうか。それとも聖霊と父の霊の関係なのだろうか。各霊の本質は同じなのだろうか。それとも聖霊は父の道具なのだろうか。これはどうしたら説明できるのだろうか。それなら子と聖霊の関係は何なのだろうか。それは二つの霊の関係なのだろうか。それとも人と霊の関係なのだろうか。これらはすべて説明のできない事柄である。彼らがみな一つの霊ならば、三位格の話はありえない。彼らはただ一つの霊を所有しているからである。彼らがはっきり異なる位格であるならば、霊の力も異なるものになり、断じてただ一つの霊になることはできないだろう。父、子、聖霊のこの概念は非常に不合理である。』

   「聖なる父とは何か。子とは何か。聖霊とは何か。ヤーウェは聖なる父なのだろうか。イエスは子なのだろうか。それでは聖霊についてはどうか。父は霊ではないのだろうか。子の本質も霊ではないのだろうか。イエスの働きは聖霊の働きではなかったのだろうか。当時のヤーウェの働きはイエスの働きと同じ霊によって行なわれたのではなかったのだろうか。神はいくつの霊を持つことができるのだろうか。あなたの説明によると、父、子、聖霊の三位格は一つである。もしそうなら、三つの霊がいることになるが、霊が三ついるということは神が三ついることを意味する。となると唯一の真の神はいないことになる。こんな神がどうして神の本来備え持つ本質を持つことができるだろう。神は一つであることを受け入れるならば、神はどうして子を持ち、父であることができるのか。これらはすべて観念にすぎないのではないか。」

三位一体,「三位一体」の神,三位一体說

   小林姉妹がこの言葉を読み上げた後、秋子はこう言いました。「これらの言葉は聖なる父、聖なる子、そして聖霊から成る三位一体説は神を分割しており、それは虚偽であると言っています。神は唯一なる御方です。そして、神は唯一なる存在で、その本質は霊です。だからこそ、三位一体説は事実とは全く異なるものなんです。律法の時代に、ヤ―ウェ神はイスラエルの民に対して神は三位一体であるとは決して仰いませんでした。また、当時神の使いであったモーゼ、イザヤ、ダニエルといった預言者たちも神は聖なる父、聖なる子、そして聖霊から成っておられるとは言っていません。恵みの時代において、主イエスも神が三位一体であるとは一度も仰いませんでした。主の弟子と使徒たちが宣教と働きをしにあちこちを旅して回った時も、彼らは神が三位一体であるという証言はしていません。聖書には『主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる』(ゼカリヤ書 14:9) と書かれています。 そして、主イエスはこう仰いました。『第一のいましめはこれである、「イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である」』(マルコによる福音書 12:29)。神は比類なき御方であり、ヤ―ウェ神は霊であり、主イエスは神の霊が受肉されたお姿であると同時に神ご自身であり、主の本質もまた霊なのです。そして聖霊もやはり霊であります。従って、神は唯一なる真の神であり、個別の存在に分割することなど絶対に不可能なのです。神が三位一体であるという宗教界の考えを信じるとすれば、神がたくさん存在することになるので、神は唯一なる真の神ではないということになってしまいます。だからこそ、三位一体説は聖書に基づくものではないし、まして神の言葉に沿ったものではないのです。これは虚偽であって、完全に人間の観念と想像が作り出したものなのです」。

   この書籍の言葉と秋子姉妹の話しを聞いた後、私はこれは筋が通っている、と感じました。しかし、依然として心の中に疑念を感じた私はこう質問しました。「秋子姉妹、神の言葉は三位一体説を実証していないと言われましたが、私はまだ理解できません。牧師や長老たちも三位一体について説明する時は神の言葉を引用しています。彼らはそれが聖書に記録されていて、主イエスが洗礼をお受けになった後には『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』という天からの声があったと言っています。彼らはまた、主イエスはよく天の神を父と呼び、主は『わたしが父におり、父がわたしにおられる』そして『わたしと父とは一つである』と仰ったと言っています。これらの節には父と子という考えがありますが、これは一体どういうことなのでしょうか」。

   秋子はこれに優しく答えました。「実は、父と子という考えは主イエスが受肉されて、働きをするために地上に来られた時に初めて誕生したものです。惠美子姉妹、あなたは、主イエスが洗礼をお受けになった後に『これはわたしの愛する子、しの心にかなう者である』という天からの声があったと言われましたが、これは神が神ご自身の証言を、受肉された神の証言をする霊の観点からされていたのです。なぜなら、当時の人々は主イエスがキリストであることを知らなかったので、彼らは聖霊による証言を聞く必要があったのです。次に、ヨハネの福音書に書かれたピリポと主イエスの会話を見てみましょう。『ピリポはイエスに言った、‘主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します’イエスは彼に言われた、‘ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである’ 』(ヨハネによる福音書 14: 8-10)。主イエスのことをあまりよく知らなかったピリポは、主イエスは神の子であり、天には父なる神がいると思っていたのです。なので、彼は主に『父を見せてください』と言いました。その時、主は『わたしを見た者は、父を見たのである』そして『わたしが父におり、父がわたしにおられる』と言って彼の誤りを正されました。すなわち、父は子であり、子も父であり、父と子は元々1つであり、かつ1つの霊であるということです。主イエスは主と父は1つであり、1つの神であるということを私たちに明確に伝えるためにそう仰ったのです。主は神に父と子がいると仰っていたのではありません。実際、父と子という考えは、神の受肉によってのみ生まれてものでした。そして、この考えは主イエスが肉として働きをなさった時代にのみ適切なものだったのです。主イエスが去られた後はもう、父と子という考えはありませんでした」。

   私はこれを聞いてどんどん理解していきました。私は興奮しながら言いました。「そうか!主イエスが来られた後に父と子という考えがあったのは事実だったんですね。神は『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』と仰った時は、霊の観点から受肉した自分の証言をされていたということが分かりました。主イエスが『わたしが父におり、父がわたしにおられる』そして『わたしと父とは一つである。』と仰った時は、主とヤ―ウェ神は元々1つであって、1つの霊であって、神は唯一なる真の神であると仰っていたんですね。主に感謝します!これで私は三位一体説はまぎれもなく人の観念と想像であって、それは支持できるものではないと確信しました」。

   私の言葉を聞いた小林姉妹は興奮してうなずきました。

   その時、私の頭にまた他の疑問が浮かびました。私はこう聞きました。「秋子姉妹、小林姉妹、神が主イエスを愛する子とお呼びになった時、神は主イエスが受肉した神であることを霊の観点から証言されていたと言われましたが、それは理解できました。しかし、主イエスはゲッセマネの地にいた時、祈りを捧げる中で天の神を父という名でお呼びになりました。これはどのように理解すればよいのでしょう。お話しを聞かせてもらえませんか?」

   小林姉妹は言いました。「そのの疑問に関してですが、この書籍の言葉がとても明確にしています。この言葉の節をいくつか読んでみましょう。『イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な人として身を装い、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの「人の子」になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたたちが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした。イエスが覚えるようにとあなたたちに教えた主の祈りをまだ覚えているか。「天にいますわれらの父よ……」イエスはすべての人に天の神を父の名で呼ぶよう求めた。そして彼も天の神を父と呼んだので、彼はあなたたちすべてと対等の立場に立つ者の観点からそうしていた。あなたたちは天の神を父の名で呼んだので、このことはイエスが彼自身をあなたたちと対等の立場にあり、神によって選ばれた地上の人(すなわち神の子)と見なしていることを示している。もしあなたたちが神を「父」と呼ぶならば、これはあなたたちが被造物だからではないのか。地上におけるイエスの権威がどんなに偉大でも、磔刑以前はイエスは単に人の子であり、聖霊(すなわち神)に支配され、地上にいる被造物の一人にすぎなかった。まだ自分の働きを完成させていなかったからである。従って、彼が天の神を父と呼ぶのはもっぱら彼の謙虚と従順さからであった。しかし、彼がそのように神(すなわち天の霊)に呼びかけることで、彼が天の神の霊の子であることの証明にはならない。むしろ、それは単に彼の視点が異なっていることであり、彼が別の位格であるということではない。別個の位格の存在というのは間違った考えである。磔刑以前、イエスは肉体の限界に縛られた人の子であり、霊の権威を十分には所有していなかった。そのため、彼は被造物の視点からのみ父なる神の意志を求めることができた。ゲッセマネで「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と三度祈ったときのように。十字架刑に処せられる前、彼はユダヤ人の王にすぎなかった。彼はキリストであり、人の子であり、栄光の体ではなかった。そのため、彼は被造物の観点から神を父と呼んだのである。さて、あなたは神を父と呼ぶ者はすべて子であると言うことはできない。もしそうなら、ひとたびイエスがあなたたちに主の祈りを教えたら、あなたたちは皆「子」になっていたのではないだろうか。まだ納得しないなら、教えて欲しい。あなたたちが父と呼ぶのはだれなのか。イエスに言及しているなら、あなたたちにとってイエスの父は誰なのか。イエスが去ったあと、父と子というこの考えもなくなった。この考えはイエスが肉体になった年月にのみ適切であった。それ以外のすべての状況下では、その関係は、あなたたちが神を父と呼ぶときの創造主と被造物の間の関係である。父と子と聖霊という三位一体のこの考えが有効である時はない。それは諸時代を通じてめったに見られない誤った考えであり、存在しない』。

   すると、秋子がこう言いました。「これらの言葉の内容から、主イエスがゲッセマネの地で捧げた祈りの中で天の神を父と呼ばれた時、主は肉の観点、すなわち、創造物の観点からそう言われていたわけで、それはいわゆる主イエスの謙遜した従順な姿勢の表れであったことが分かります。しかし、多くの人々はこの真理を理解していないがために、主イエスが父なる神に祈りを捧げたからといって、それは主イエスが父なる神の子であり、天の神が聖なる父、そして地上のキリストが聖なる子、さらには神に父と子がいることを証明していると勘違いしているのです。これは全て人々の観念と想像なのです。神の本質は霊であり、霊には年の差というものがないため、神に父と子がいるはずがないのです。主イエスは受肉された神であり、主の本質は霊なのです。主が人間の観点から天の神を父と呼ばれたのは天なる父に対するキリストの従順な姿勢の表れです。従って、いつの時代においても、父と子と聖霊からなる三位一体の話しは存在しないのです」。

   彼女たちの会話を聞き終えると、私は夢から目覚めたような気分になりました。私はまた、牧師と長老たちの広めた虚偽をむやみに聞いていた自分はとても無知であったとも感じました。この宗教指導者たちは本当に極めて悪質なのです。主イエスは彼らについて「彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」(マタイによる福音書 15:14) と仰っています。

   それから、秋子姉妹は、私に書籍のこの節も読むようにと言われました。「神は唯一で、この神の中には唯一の位格しかなく、神の霊は唯一である。聖書に『唯一の聖霊、唯一の神のみがいる』と書かれている通りである。あなたの言う父と子が存在するかどうかにかかわらず、結局は唯一の神のみがあり、あなたたちが信じる父、子、聖霊の本質は聖霊の本質である。言い換えれば、神は一つの霊であるが、すべての上に立つことができるのはもちろん、肉体になり、人々の中で暮らすこともできる。神の霊はすべてを含んでおり、どこにでも存在する。神は同時に肉体の形になり、宇宙中に存在することができる。すべての人々が神は唯一の真の神であると言うので、神は一つだけで、誰も意のままに分けることはできない。神は唯一の霊で、唯一の位格である。そしてそれが神の霊である」(「三位一体は存在するのか?」)。この言葉の内容を通じて、私は更に明確な理解に至りました。「神は霊であり、霊は唯一、そして神を個別の存在に分けることはできません。父と子と聖霊からなるという考えも全く存在しません。神の霊は限りなく広く、全宇宙を満たします。神の霊は、働きの必要性に応じるため、そして人類を救うためだけに、人間として受肉され、神の言葉を話し、神の働きをするために地上に来られたました。これこそが神の偉大な愛なのです」。