賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書の名言ー14節聖書の中の神の裁きに関する聖句・罪を抜け出し天国に入る道を見つける

2020-10-21 22:52:12 | 勝利者の証し

聖書の名言ー14節聖書の中の神の裁きに関する聖句・罪を抜け出し天国に入る道を見つける

    聖書に預言された終わりの日の裁きの働きに関する聖句はたくさんありますが、いったい裁きとは何か、なぜ神は終わりの日にまた来られて裁きの働きをなさるのか、これは私たちが罪の束縛から抜け出して清められ、天国に入ることとの関係は何でしょうか。次の聖句と関連のおすすめを閲読し、裁きの働き及びその意味を理解し、罪から抜け出し天国に入る道を見つけます。

    一、終わりの日の神の裁きの働きに関する預言

    使徒行伝17:31
    1、神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。

    ヨハネによる福音書12:47-48
    2、たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。

    ヨハネによる福音書5:22
    3、父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。

    ヨハネによる福音書5:27
    4、そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。

    ペテロの第一の手紙4:17
    5、さばきが神の家から始められる時がきた。

    ダニエル書7:10
    6、彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。

    ヨハネの黙示録20:11-12
    7、また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。

    ヨハネの黙示録14:7
    8、大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。

    二、神の終わりの日の裁きと天国に入ることとの関係

    イザヤ書2:2-4
    9、終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。

    ゼカリヤ書13:8-9
    10、主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う」。

    ダニエル書12:9-10
    11、彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。 多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。

    ヨハネの黙示録22:14
    12、いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。

    ヨハネの黙示録21:3-4
    13、また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

    ヨハネの黙示録11:15
    14、この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。

関連する真理:
    終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。

    「裁き」という言葉を出せば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉をあなたはたぶん思い浮かべるであろう。それらの言葉の厳しさにもかかわらず、それらは神の人への裁きの言葉ではなく、様々な環境において、つまり異なる脈絡において、神が語った言葉にすぎなかった。それらの言葉は、終わりの日にキリストが人間を裁きつつ語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。

    終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。神の働きが終わる時、生き残ることのできる人は、清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、悪者、義なる人ではないからである。。。悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。


教会音楽「失われた時は二度と戻ってこない」歌詞付き

2020-10-17 22:48:02 | 勝利者の証し

教会音楽「失われた時は二度と戻ってこない」歌詞付き

教会音楽「失われた時は二度と戻ってこない」歌詞付き

目覚めよ!兄弟姉妹たち!
神の日は遅れることがない
時は命、時をとらえることは命を救い
その時は近い
試験なら、落ちたとしても
学び直し、再挑戦できるが
神の日は決して遅れないことを
あなたは知らなければならない

覚えておくように
神のこれらの良い言葉は
あなたを促すためにある
終わりは目前で
災害が近づいている
大切なのはあなたの命か
それとも食べ物や衣服だろうか
今、熟考するべき時が来たのだ

人類は何と惨めで
貧しく盲目で、残酷なのか!
神の言葉は耳のそばを吹きゆく
風のようなものなのか
神の話は無駄だろうか
何故あなたはまだ怠慢なのか
神がこれらを誰に言っているのか
一度も考えたことはないのか?
神を信じなさい
神はあなたの救い
そして全能者なのである
見張り続けよ
失われた時は戻らず
後悔に効く薬はない
神はどのようにあなたに告げるのか?
神の言葉は熟考に値しないのか?
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


聖書の名言「裁き」について

2020-10-14 15:28:36 | 勝利者の証し

聖書の名言「裁き」について

    聖書に次のように記録してあります。「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)では、神様の裁きは何でしょうか。神様の裁きは私たちが天国に入ることとどんな関係を持っているのか。次の本題の聖句はあなたに明らかにします。

    1、神様の終わりの日の裁きに関する預言
    詩篇 96:13
    主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。

    詩篇 1:5
    それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

    使徒行伝 17:31
    神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている…

    ヨハネによる福音書 12:47-48
    たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。

    ヨハネによる福音書 5:22
    父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。

    ヨハネによる福音書 5:27
    そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。

    ペテロの第一の手紙 4:17
    さばきが神の家から始められる時がきた。

    ダニエル書 7:10
    彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。

    ヨハネの黙示録 20:11-12
    また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。

    ヨハネの黙示録 14:7
    大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』。

    2、神様の終わりの日の裁きと天国に入ることとの関係
    イザヤ書 2:2-4
    終りの日に次のことが起る。ヤーウェの家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、『さあ、われわれはヤーウェの山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう』と。律法はシオンから出、ヤーウェの言葉はエルサレムから出るからである。彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。

    ゼカリヤ書 13:8-9
    全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う。

    ダニエル書 12:9-10
    ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。

ヨハネの黙示録 22:14
いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。

ヨハネの黙示録 21:3-4
見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。

    ヨハネの黙示録 11:15
    この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。

関連する真理:
    神様は言われました。「終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。」

    …『裁き』という言葉を聞けば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉と、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉を思い浮かべるだろう。こうした言葉は非常に厳しいものだが、神の人に対する裁きの言葉ではない。こうした言葉は、いろいろな状況、つまりそれぞれ異なる背景で神が語った言葉にすぎず、神が終わりの日に人を裁くときにキリストが語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。

<style type="text/css"></style>

聖書の名言-「知恵」に関する111つの聖句


真の教会とは──どうすればヒラデルヒヤ教会が見つかるのか

2020-09-30 23:39:43 | 勝利者の証し

   世界は今や混乱状態にあり、あらゆる類の災害が人類を襲っています。そして多くの人々が、「主はもう再来されたのだろうか? もしもう再来されたのなら、なぜ私たちは大災害の前に携挙されないんだろう?」と悩んでいます。また、牧師や長老たちがいつも昔ながらの説教をしていたり、信者たちは信仰が冷めて世俗的な流行を追い、主の言葉を生きられずにいたりするのを目にすることもあります。それを見た人々は、キリスト教会は主に見放されたラオデキヤの教会のようではないかと悩むのです。ヨハネの黙示録にあるヒラデルヒヤの教会への手紙には、次のように書かれています。「わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである」(ヨハネの黙示録3:8)。ここから、ヒラデルヒヤ教会の人々だけが、どのような状況においても主の御言葉を守り、聖霊の働きを受けられることがわかります。大災害の前に真に携挙されるのは彼らだけであり、聖霊の働きを受けているこのような教会だけが、唯一の真の教会なのです。中にはこれを現在のキリスト教会の状態と比べて、真の教会を探しに行きたいと思う人々もいます。しかし一方で、教会は繁栄しているし、聖書についての知識を競う会が開かれたりして、あらゆる祝祭日も活気に満ちているではないか、と考える人々もいます。彼らは「これが聖霊の働きというものではないのか。このような教会が真の教会であり、間違いなく携挙されるはずだ」と思っています。どの見方が正しいのでしょうか。真の教会とは何でしょうか。そしてどうすれば、真の教会と偽の教会を見分けられるのでしょうか。今日はこうした問題について、交わりを持ってみましょう。

 

 

真の教会と偽の教会を見分けるための第一原則:その教会では聖霊が働いているか、そして教会員たちは真理を追求しているか

   聖書には次のようにあります。「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」(エペソ人への手紙 1:23)。ヤーウェ神はソロモンに次のように言われました。「今わたしはわたしの名をながくここにとどめるために、この宮を選び、かつ聖別した。わたしの目とわたしの心は常にここにある」(歴代志下 7:16)。そして神の言葉には次のようにあります。「神の働きの各段階において、それに対応する人間への要求がある。聖霊の流れの中にいる者たちは皆、聖霊の臨在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者たちはサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の働きがまったくない。聖霊の流れの中にいる人々は、神の新たな働きを受け入れ、神の新たな働きの中で協力する者である。現在において、その流れの中にいる者たちが協力できず、神に要求された通りに真理を実践できないとすれば、そうした者は鍛錬を受け、最悪の場合は聖霊に見捨てられるであろう。聖霊の新たな働きを受け入れる者は聖霊の流れの中で生き、聖霊の配慮と守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望まない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるだろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな働きを神の名において受け入れる者全てについて、神は責任を負うであろう」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より引用)。

   神の言葉から、その教会は神の礼拝所であり、神によって保たれ、神に認められていることがわかります。真の教会には聖霊の働きがあり、その構成員たちは神の現在の働きを受け入れていて、聖霊の流れの中に生き、真理を追求しています。そのような教会では忠実な信徒たちが、集まって神が現在発している声についての交わりを持ち、聖霊による啓きと光を得て、神の旨と要求を理解し、生活の中で一層の進歩を成し遂げています。彼らは日々の暮らしの中で神の言葉を実践した証しを立てることができます。主イエスが働きを行うために到来されたとき、神を心から信じ主イエス者たちが集まって教会を構成しました。彼らは主が説かれた悔い改めの道を受け入れ、それまでのように律法の拘束を受けることはなくなりました。また彼らは主の言葉に従って行動し、他者に対して寛大さや忍耐強さ、許しを示すようになりました。聖霊の最新の働きによる導きを受けて、彼らの人間性と彼らがその生活の中で生きるものは、一層正しくなっていったのです。また彼らは、主が途方もない苦難と屈辱に耐えて人間のため磔にされ、人類の罪を贖うのを目にし、神の性質が慈悲深く愛に満ちていることを理解しました。そして彼らの信仰はますます強くなったのです。このことから、このような教会には聖霊の働きがあり、それこそが真の教会であることがわかります。逆に、聖霊が働いていない教会は偽の教会です。たとえば律法の時代の末期、主イエスが働きを行うために到来されましたが、そのときに聖霊の働きは変化し、礼拝所は荒廃しました。ユダヤ人の祭司長、書士、そしてパリサイ人たちは、主イエスの最新の働きと言葉を受け入れませんでした。彼らは律法や戒めを守っているようではありましたが、聖霊の働きを受けておらず、最終的には自分たち自身の規則すら守れなくなり、窃盗、殺人、乱交といった背徳行為が蔓延していたのです。礼拝所はもはや神を崇拝する場所ではなく、盗人の巣窟となっていて、金銭のやりとりが行われ、家畜や鳩が持ち込まれ売り買いされていました。では、今日のキリスト教会の状態はどうでしょうか。牧師たちは説教の中でも聖書の知識や教義をいくらか解説できるだけで、聖霊の啓きも光も得ていません。信者たちも真の潤しや滋養を受けられていないのに気づき、否定的で受動的になり、信仰心が冷めてしまっています。集まりはただおざなりに行われ、神の言葉を楽しむこともなく、牧師も長老もまた普通の信者も、ほとんどの場合神の教えを守ることすらできていません。教会では牧師や長老たちが、ますます嫉妬による論争に没頭するようになり、誰が演壇に立つかで争っていて、欲深く、神を畏れる心をまったく持っていません。忠実な信徒の多くは次第に世間に戻って、金を稼ぐため忙殺されるようになり、肉の楽しみばかり求めて、礼拝に参加する人はどんどん少なくなっています。人々が教会へ行くのは、何かのイベントがあるときや食事が供されるとき、または何か大きな危険に直面したときだけです。純粋に真理を求めることはなく、ほとんどの場合ただ楽しいことに参加するか、恵みを得て生活の安寧を確保したいだけなのです。そのような教会は、外部からどれほど活気があるように見えたとしても、淀んだ水たまり以外の何物でもなく、律法の時代末期の礼拝所とまったく同じです。そのような教会では明らかに聖霊は働いておらず、神もその教会を保っていません。

   そのため真の教会と偽の教会を区別するには、まずその教会で聖霊が働いているか、聖霊がその教会を保っているか、人々が神の最新の言葉を読んでいるか、そして神の言葉を読むことでより多くの真理を理解し神への信仰を成長させているか、ということに目を向ける必要があります。教会が神の現在の働きについて行っておらず、聖霊の導きを得ていないなら、信者がどれほど多かろうと、さまざまなイベントを催してどれほど勢いがあるように見えようと、それは偽の教会でしかなく、まもなく神に見放されることになるのです。それは神がヨハネに告げて、ラオデキヤの教会に次のように書き送らせたとおりです。「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」(ヨハネの黙示録 3:15–16)。

   真の教会と偽の教会を見分けるための第二原則:支配しているのは真理か、または偽の羊飼いか

   真の教会と偽の教会を区別する際には、もう一つ重大な原則があります。それはその教会を支配しているものが真理か、または偽の羊飼いかを見定めることです。教会とは真理を求める人々が教会生活を生き神を崇拝する場所であり、心から神を信じる人々、自分の中で聖霊が働いている人々で構成されている教会が真の教会なのです。そのような教会は真理に支配されており、皆が神の言葉を読んで実践し、真理に従っています。そしてその教会は真理を探求する人々によって導かれ、真理の探求者を支えています。神の言葉と真理に逆らう者、悪事を働き教会で逆上するような者は誰でも、拒絶され追放されます。真理を探求する者には聖霊の働きと導きがあるため、そのような人々で構成される教会では神の旨が行われており、そこには神の存在があります。恵みの時代、主イエスが到来されて働き語ったとき、イエスは自ら十二使徒を選び出し、直接ペテロの証人となってペテロを教会の指導者に任命されました。使徒たちは当時の忠実な信徒たちを主の言葉に従って導き、主イエスの救いの福音を伝えました。それによって神の旨が成し遂げられ、主イエスの聖い名は遠方まで広まったのです。

   世の終わりに至った今、主イエスを信じる者たちはさまざまな教派に分かれ、それぞれに独自の指導者を擁しています。しかし聖書では、神が直接そうした牧師や指導者たちの証人となったことはなく、ましてや彼らを指導者に任命したなどとは言われていません。こうした教派の指導者や長老たちの大半は神学校の卒業生で、資格を得て指導者や牧師となるのであり、神の働きを経験する中で聖霊に完全にされ啓発されて立つのではありません。彼らはその働きや説教の中でも、主の言葉を証ししたり賛美したりすることは一切なく、主の旨について説教することもありません。おもに自分自身の才能や素質に頼って働いているため、彼らが話すことは聖書の知識と霊的な理論だけです。彼らは聖書を賛美し聖書を証しして、聖書の言葉を主イエスの代わりとしています。そのような働きは主に逆らうものです。それでどうやって、聖霊が彼らの教会を保つことができるでしょうか。彼らには神に関する真の認識を説教したり、人々を真理の現実に導き入れたりすることはできないのです。知っているのはただ、人々をどうやって規則や教義に導き入れ、道を踏み外させ、破滅へと導くかだけです。さらに彼らは教会の働きの中で、常に自分自身を称賛し、自分自身の評判を築き上げて、注目を浴びようとしています。神の言葉に従って行動したり人々を扱ったりはせず、一番多く寄付する人に媚びへつらい、自分のお気に入りを重要な役職に任命しています。兄弟姉妹たちの中には、真理を理解していない人もいます。そうした人たちは混乱していて判断力がないため、そのような牧師や長老をやみくもに崇拝し、彼らを探し出してはこの世のあらゆる問題について問いかけます。まるで、彼らだけが人々を神の国に導けるとでもいうかのように。こうした信者たちは神を信じ神に従っているように見えても、本質的には実際、そのような牧師や長老たちを信じているのです。特に、教会が荒廃し、より探求心の強い兄弟姉妹たちが聖霊の働いている教会を探して、再来された主が発する声を求めに行こうとすると、牧師や長老たちは全力を尽くしてそれを妨害し糾弾します。彼らは信者たちが自分の支配下から脱するくらいなら、霊的な飢えと渇きに死んでくれたほうがよいと思っているのです。そのような教会は明らかに、真理が支配してはおらず、代わりにそうした偽の牧羊者、反キリスト者、そして聖霊の働きを受けていない邪悪な従者によって管理されています。そのような教会は、もうずっと前に神の性質を侵し、聖霊に見捨てられているため、遅かれ早かれ完全に排除されることになるのです。これは聖書に次のようにあるとおりです。「彼は力強い声で叫んで言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである』」(ヨハネの黙示録 18:2–3)

真の教会を見つけるには

   今日の交わりもここまで来ましたので、おそらくもう皆さんの多くが、宗教界の教会ではもはや聖霊が働いていないことに気づかれていると思います。では、実際に聖霊が働き神が存在している教会は、どうやって見つければよいのでしょうか。その答えを求めるには、歴史をふり返ってみましょう。その昔、主イエスが到来されて働き語られたとき、礼拝所は荒廃していました。それは一面では、祭司長、書士、パリサイ人たちが信者を正しい道に導いていなかったため、聖霊に見捨てられていたのですが、またもう一面では、主イエスが新たな働きを行われていたため、聖霊が礼拝所での働きをやめ、神の歩みに遅れずに付き従っている人々の中で働きを始めていたのです。主イエスに従っていた人々は、主イエスの最新の言葉を聞いて、生きた水の滋養を受け取りましたが、礼拝所に残っていた人々は暗黒へと落ち込みました。そしてそれと同じことが、この終わりの日にも起こっています。宗教は荒廃し、聖霊の働きを得ていないため、私たちは自分で聖霊の発する声を探し求め、子羊の歩みに遅れないようついて行かねばなりません。これは聖書で次のように言われているとおりです。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」(アモス書 4:7–8)。このように、神が到来して新たな働きを開始されると、古い時代の教会は荒廃する運命にあることがわかります。ここに神の旨があります。それは教会の荒廃を通して、私たちが神の歩みを探し求めに行かざるを得なくなるということなのです。災害の規模がますます拡大している今、主の到来の預言はほぼ満たされました。神がすでに再来されており、教会に現れて働きを行われている可能性は非常に高いといえます。神の足跡を見つけることができれば、当然ながら、真の教会も見つかることになります。

   では、どうやって神の足跡を見つければよいのでしょうか。そのことを明確に説明した神の言葉の一節があります。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある」(『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より引用)。つまり、災害の前に携挙される真の教会を見つけたいなら、神の足跡を求め、神の発する声を求め、神の声を聞くことに集中しなければならないということです。これは聖書で次のように言われているとおりです。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録 2:7)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)。

   神の言葉から、主は再来されると、教会に向けて新しい言葉を発されることがわかります。現在、世界中で全能神教会だけが、主が再来されたこと、まず神の家から裁きの働きを行われていること、そして無数の言葉を発し神の経営(救いの)計画のあらゆる神秘を明らかにされていることを証ししています。こうした神秘には、神の三段階による働きの現実の状況や、受肉の神秘、神の名の重要性、聖書の裏話、サタンがどのように人類を堕落させるか、神がどのように人々を救うか、あらゆる種類の人の最終的な終着点、人々がどのように完全な救いを得られるか、などがあります。こうした神秘は、私たちの目が開かれ、見るものを楽しめるようになるようにと、明らかにされているのです。全能神は終わりの日に裁きの働きを行うため到来され、そして全能神教会が生まれたのです。これは恵みの時代に主イエスが働きを行うため到来された後、恵みの時代の教会が生まれたのと同じです。全能神教会は、終わりの日の神の裁きの働きを受け入れ、心から神を信じ、真理を追求する人々で構成されています。この人々は全能神の言葉による潤しと牧羊を受け入れ、神の現在の言葉を読み、主イエスの再来である全能神に祈りを捧げ崇拝しています。この人々は中国共産党の迫害と抑圧を受けており、一部は逮捕・投獄されて、暴力や拷問を受けましたが、それでも断固として全能神に従い、勝利者の証しを立てたのです。彼らは神の言葉の裁きと刑罰とを経て、自分自身のサタン的な性質を知るようになり、真の自責と自らへの真の憎しみを覚えるようになりました。彼らの堕落した性質は変容し、彼らはその堕落した性質が裁きと刑罰を通して清められたという事実について、多くの証しを立ててきました。終わりの日の神の裁きの働きによって、すでに一群の勝利者が生まれていることは確かです。こうした勝利者たちが、災害の前に携挙さる人々であり、神の約束と祝福を受け継ぐにふさわしいのです。全能神が表された本『言葉は肉において現れる』は今やオンラインで広く公開されており、さらに神の選民による経験的な証しのほか、全能神教会が製作したさまざまな映画や動画も、オンラインで豊富に紹介されています。真理を追い求める多くの人々が、全能神の言葉や神の選民による多くの経験的な証しを読んで、全能神とは再来された主イエスであることを確信しています。彼らは神の働きと、真理をどのように実践すべきかについて、新たな理解を得ているのです。そしてこのことから、全能神教会にこそ聖霊の働きがあることがわかります。全能神教会がヒラデルヒヤ教会であり、災害の前に携挙される教会なのです。最近では宗教界全体が荒廃に陥っている中、日毎にますます強くなっているのは全能神教会だけです。世界中で全能神教会の新たな分派が次々に設立され、日々拡大し強化され続けています。これは、神から来るものはすべて繁栄するのだということを示してくれています。

   発生する災害はどんどん大きくなっているため、なんとしても大災害の前に携挙されるヒラデルヒヤ教会を見つけ出さなければなりません。これは神の国に入れるかどうかという重大な問題にも直結しています。神の歩みに遅れずついて行くこと、そして真の教会を見つけ出すことができなければ、私たちは最終的に災害によって一掃され、多くの涙を流し歯ぎしりすることになるのです。この重大な時に、私たちは全能神の言葉に耳を傾け、それが神の声であるかどうかを聞き分けなければなりません。そしてそれが神の声であるとわかったら、急いでそれを受け入れなければなりません。それだけが、子羊の歩みに遅れずついて行くための方法なのです。

   この交わりで、真の教会と偽の教会を区別し、災害の前に携挙される、聖書に預言されたヒラデルヒヤ教会を 見つけるための道が見えたでしょうか。この記事がお役に立ったら、ぜひ友人にも見せてあげてください。より多くの人々が災害の只中で真の教会を見つけられるように、そして彼らもまもなく神の前に携挙されて、神の配慮と御加護を受けることができるように。


死の淵から戻って

2020-09-17 22:26:40 | 勝利者の証し

   2007年、私は突然慢性腎不全になりました。クリスチャンである母と義姉、数人のカトリックの友人はこのことを知ると、みんなで私に会いに来て福音を説きました。主を頼ってさえいれば病気は治ると、母たちは言いました。ところが私は神をまったく信じていませんでした。病気を治せるのは科学的な治療方法だけで、科学で治せないのは不治の病だと思いこんでいたのです。そもそも、この世に科学の力より偉大な力などあるのでしょうか?神への信仰は一種の精神的な支えです。しかも私は公立学校の教師という立派な地位にあり、高等教育を受けて教養があったので、おいそれと神を信じるわけにはいかなかったのです。そんなわけで、私は母たちの勧めに従わず、よい治療をしてくれるところを探しまわりはじめました。二、三年のうちに、自分の住む県と省の大病院をほぼすべてめぐりましたが、それでも病状は改善しませんでした。それどころか悪化する一方だったのです。それでも私は頑として自分の見解にこだわり、科学で何でも変えられる、病気の治療は時間がかかるものだと言い張りました。

   2010年、全能神教会のある姉妹が私のもとを訪れ、神の国の福音を説きました。主イエスが俗世にお戻りになったのは新しい働きをなさるためで、その中には真理を発して人々を裁き清めることも含まれているというのです。神の働きのこの段階は、人類を徹底的に救うことが目的ですが、人類が神に救っていただく最後のチャンスでもあるのですよ、と。私はまだその言葉を全面的に受け入れるつもりはありませんでしたが、これまでの数年間、よい治療を求めて失敗と挫折をさんざん味わったために、以前ほど頑なな態度はとらず、姉妹から説得されるままに神の御言葉の本を受け取りました。けれどもその時点ではもちろん、その本にある御言葉が神によって表された真理だとは信じていませんでした。相変わらず科学だけが自分の運命を変えられるという自説を曲げずに、病状を改善できるのは薬だけだと信じつづけていたのです。やがて食事よりも薬のほうを毎日多く摂取するようになりましたが、それでも改善の兆しはほんのわずかも見られませんでした。姉妹は数えきれないくらい私の家を訪れてくれましたが、私は依然として神を信じることを拒んでいました。そんな状態が一年ほど続いたのです。

   そんなある日、両目の視界が突然ぼやけ、両脚がひどくしびれて歩けなくなりました。医者の話では、数年にわたって大量の薬を飲み続けたせいで中毒が起こり、その結果こうした症状が起きたというのです。最初は県の病院に一週間入院し、その後北京にある軍の病院に移されて一か月治療を受けました。それから同じ北京の、漢方治療で有名な病院に移され、中国の伝統的な治療を受けました。しかしそこで二か月間治療を受けても、病状はまったく改善しませんでした。私の主治医は、この病院を引退した元神経科医長に頼んで私の診察をしてもらうことまでしてくれましたが、病状は少しも改善しませんでした。その後将来の義理の娘から、私のような厄介な難病でも治せると評判の医者が雲南省にいると聞きました。そこから紆余曲折はありましたが、私はなんとか車椅子でそこに連れて行ってもらえました。ところが一か月近く治療を受けても、病状が回復しなかっただけでなく、目と脚のために服用していた薬のせいで腎臓病が悪化する結果になったのです。これでは助からないのではないかとひどい不安に陥った私は、家に帰ることにしました。その後は、腎臓を守るために目と脚の治療と薬を断念しました。

   そのころ、私は絶望のどん底にいました。自分はこんなにも科学を信じきってきたのに、科学は私の病気の治療には完全に無力だった、という思いにたびたび襲われました。科学で治療できるという望みが打ち砕かれると、私はひどく落ち込んで虚脱状態になりました。どのように生きていけばよいのかわかりません。痛みと苦しみでぼんやりする中、私はしばしばとんでもないことを考えました。

   「私はどうしてこれほど多くの病気にかかっていて、しかも薬で治してもらえないんだろう?科学を信じ、科学を信頼し、最善を尽くして最高の治療方法を探したのに、まったく効果がなかった。それどころか、病気は悪化するばかりだわ。ひょっとすると科学は私を本当に救えないんじゃないかしら?この世に神が本当に存在 するんじゃないかしら?すべての人間の運命は、本当に神の御手の中にあるのかしら?」

   こうした疑問についてどんなに考えても、答えはひとつも見つかりません。その時期、私は激痛と苦しみに耐えながら毎日を送っていて、自分が寝たきりで役立たずの病人だと思うたびに、人知れず泣き伏していました。家族に多大な迷惑をかけていると感じ、これ以上重荷になりたくないと思いました。自殺したいと思ったのも一度だけではありません。けれども死ぬのは怖かったのです。そのため私は死の訪れを待ちながら、一日一日をただ漫然と過ごしていました……

 

 

   ある日、全能神教会の姉妹が私のために置いて行った本に夫が気づきました。「あなたは知っていたか。神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを」 という見出しを見たとたん、夫は興味を引きつけられ、次の一節を私のために読み上げてくれました。

   「神の働きはあなたには理解できないことである。あなたの決定が正しいかどうか理解することも、神の働きが成功するかどうか知ることもできないのなら、この普通の人があなたにとって大いに助けとなるかどうか、また、神が偉大な働きを行ったかどうかを運をためしてでもいいから見てみようとしないのか。」(言葉は肉において現れる)

   この短い一節に、私は心を激しく揺さぶられました。とくに「神が偉大な働きを行ったかどうかを運をためしてでもいいから見てみようとしないのか。」という言葉が、繰り返し頭をよぎりました。まるで私の陰鬱な心に一条の光が差し込んだように、生きつづけることへのかすかな望みを見出せたような気がしたのです。私は夫をせきたてて神の御言葉の別の二節を読んでもらいました。そこには、神が御言葉をお使いになって人々を裁き清め、いのちの性質を変えられるという真理が書かれていました。その何もかもが私にとって耳新しいことで、言われていることの意味を完全に理解したわけではなくても、こうした教えが他の人々から聞いている主イエスの福音と違っていることは感じ取れました。そういった人々の言うことはたいてい、どうしたら神のお恵みを得られるかとか、私がひたすら神を信じれば病気は治るといったことだったので、私は信じていなかったのです。けれども全能神の御言葉ははるかに実践的に思えたので、聞けば聞くほどもっと聞きたくなりました。

   それから私は、夫に毎日神の御言葉を朗読してもらいました。この本には、宗教的な人々は神を信じているが神を知らず、神に抵抗までしている、そのような人はしばしば日中に罪を犯して夜に告白すると書かれていました。私はこのことにいっそううなずかされました。というのも、私の母と義理の姉妹二人はみなクリスチャンですが、この神の御言葉通りの生き方をしていたからです。母たちは本当に罪を犯したあとその罪を告白し、その後また罪を犯す、といったことを繰り返していました。私の魂が目覚めたのはその時です。これが本当に神の御声なのかしら?もし神でないなら、その著者はどうして宗教界のことをこれほどまでによく理解しているのだろう?不信心者なら理解などできず、偉人や有名人でもわからず、宗教的な人々さえも自分が神を信じていながら神に抵抗していることに気づいていない。そう考えれば考えるほど、この本の御言葉は人が発せられるようなものではなく、俗世に受肉された神がおっしゃったことなのではないかと思うようになりました。

   それから何日も経たないうちに、最初に全能神の国の福音を説いてくれた姉妹が、私が退院して家に戻ったと聞きつけ、もう一人の姉妹を連れて私の家にやって来て、ふたたび福音を説いてくれました。この時私は、良心が自分に話しかける声に気づきました。

   「私は寝たきりになったけど、この姉妹たちは私を嫌って見捨てるどころか、何度もうちに足を運んで福音を説いてくれた。普通の人にはとてもできないことよ。他の人はとっくの昔に私のことなど忘れてしまったはずなのに」

   このような愛は神に由来するにちがいありません。私の考えでは、それは火を見るより明らかでした。というのも、そうした愛は俗世では決して見つからないものだからです。「困ったときの友が真の友」ということわざの意味を、その日私はしみじみと実感しました。家族が私のそばにいるのは、家族である以上避けられないことです。けれどもこの人たちは私とは赤の他人なのに、下心があるわけでも何か条件をつけるわけでもなく、一年以上も定期的に通って私に福音を伝え、私のような寝たきりの病人のために骨を折り、自分たちの信仰や愛、忍耐強さがいかに素晴らしいかを示してくれました。私は神の愛に心から感動し、それ以降は神の福音を拒む理由がなくなりました。そうして、夫と私は二人で終わりの日の神の働きを受け入れたのです。

   2011年6月、夫と私は全能神教会での教会生活を正式に始めました。私の視力が落ちて自分では読めなかったので、ふだんは夫が私のために神の御言葉を読み上げてくれました。また教会の集会では、兄弟姉妹も神の御言葉を読んでくれました。たまに一人になったときは讃美歌にも耳を傾けました。あとになって私は、神の御言葉の中に自分が病気になり苦しんでいる理由を見出しました。

   「人間の生涯を通して経験する出生、死、疾病、老齢の苦痛は、何に由来するのでしょうか。これらの事が人間に発生する原因は何でしょうか。人間が最初に造られた時、こうした苦痛は人間に発生したか、というと、発生しなかったのではないでしょうか。それならば、こうした苦痛は、何に由来するものでしょうか。肉の苦痛や悩み、虚無感、この世における極度の悲惨さなどの物事は、人間の肉が堕落した後に発生しました。サタンが人間を堕落させた後、人間は一層堕落してゆき、人間の病は深刻になり、人間の苦難は一層激しくなり、人間は空虚感や悲劇、この世で生存し続けることが不可能であることを一層感じるようになりました。人間が感じるこの世に対する望みは減り続けました。この苦難はサタンにより人間にもたらされたものであり、サタンにより人間が腐敗させられ、堕落した後になって初めて発生したものです。… ゆえに、人間が疾病を患ったり問題に見舞われたり、自殺願望を覚えたり、この世のわびしさや人生の無意味さを感じる可能性は、依然としてあります。つまり、こうした苦難は依然としてサタンの支配下にあり、それは人間の致命的欠点です。」(『キリストの言葉の記録』の「神がこの世界の苦しみを経験することの意義」より)

   病気の痛みによる苦しみがあまりにも大きいために、私が生きる意欲を完全に失い自殺したいと思ったことを、神の御言葉はまさしく言い当てていたのです。けれども神の御言葉は、病気の痛みと苦しみはすべてサタンが人々を害する手段なのだとも述べていました。私は最初のうち、神がこのようなことをおっしゃる訳がよくわかりませんでしたが、神の御言葉を読み進むうちに少しずつ、その真理が理解できるようになりました。

   ある日の午後、夫がいつものように神の御言葉を朗読してくれていると、このような神の御言葉が耳に入ってきました。

   「初めて社会科学の考えを持つようになってから、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それからすぐ、科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや人が神を礼拝する充分な余地はなくなり、神を礼拝する好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められていった。人の心の中に神の居場所が無い世界とは、暗く、何の希望も無く、空虚である。… 科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適な暮しは、つかの間の慰めに過ぎない。これらのものがあっても、人は必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探求への欲求や願望を抑えることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけである。人は常に恐怖に怯えて存在し、人類の将来にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からない。人は科学や知識に脅かされるほどになり、自分の中にある空虚感をそれらのもの以上に恐れるようになる。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)

   この御言葉を聞いてやっと、人類の病気と苦しみはすべてサタンからもたらされていると神が言われた理由がわかりました。サタンは知識と科学を用いて私たちを堕落させているのです。サタンは「人間はサルから進化した」、「救世主などいなかった」、「知識で人の運命は変えられる」、「運命は自らの手の中にある」、「科学は人々を救う」、「人間は自然を征服できる」などといった馬鹿げた考えを私たちに詰めこんでいます。サタンはこうした哲学や法則、思想、観念で人類を洗脳しているのです。人々はこうしたものに心と魂を奪われ、知識を妄信し科学を崇めるよう仕向けられています。そして知識で運命を変えられるという妄想を抱いたり、科学を用いてあらゆる難題を解決しようとしたりしているのです。サタンの馬鹿げた考えを取り入れて生活の基盤を形成してきたために、サタンに捕らわれ、縛られ、支配されてきたのです。そして神に由来するものすべてを否定し、神のお気遣いとご加護から遠ざかりはじめているのです。サタンは人形遣いが操り人形をもて遊ぶように人々を操っています。私はそのような形で害されている何百万人の中の一人にすぎなかったのです。私は病気になったとき、科学を信頼して治療を受けました。科学を盲信して崇め、有名病院の専門医なら、最新の技術と近代的な医療設備を用いて病気を治せるはずだと本気で思っていたのです。ところが病状は改善しないどころか、私は死ぬ間際まで追い詰められました。科学がもたらしたのは、非現実的な希望と癒えることのない痛みだけだったのです。科学が私に神を信じさせないせいで、私は繰り返し神に反抗し、抵抗し、その救済を拒みました。ところが私の反抗的な態度にもかかわらず、神は決して私の救済を諦めることなく、御言葉を用いて私を終始導いてくださったのです。かつて私の魂は知識と科学によって抑えつけられていました。その魂を神は少しずつ目覚めさせてくださったのです。一度は死の淵を覗いた私ですが、今は神の御前に出てその救いを得ているのです。

   夫は毎日神の御言葉を読みつづけてくれました。そんなある日、私はこのような神の御言葉を聞きました。

   「神はこの世界を創造し、この人類を創造した。また、それだけではなく、神は古代ギリシア文化ならびに人類文明の設計者でもあった。神のみがこの人類を慰め、神のみが日夜人類のことを思いやる。人類の発展と進歩は神の支配と切り離すことはできない。また、人類の歴史と未来は神の計画から切り離せない。… 人類が良い運命を望むなら、また国家が良い運命を願うなら、人類はひれ伏して神を礼拝し、神の前で悔い改め、罪を告白しなければならない。さもなければ人類の運命と終着点は災難となることは避けられない。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)

   この一節のおかけで、すべての人の運命は神の御手の中にあり、神が人間のいのちの源であることがわかりました。神の御前に出て、神に従い、神を崇めなければ、良い運命はもたらされません。神から離れて神に抵抗し、神を見捨ててサタンを頼りにするとき、その人は自らをサタンに引き渡しています。その結果、サタンに害されて踏みにじられ、果てしない災厄と際限のない苦しみにみまわれることになりますが、人はこのようにして自らを害し、自らに死をもたらすのです。そのとき、私は自分がいかに愚かで盲目で、惨めだったかを思い知りました。知識と科学に対する考え方が毒以外の何ものでもなく、私を堕落させるために使われたサタンの道具にすぎないことを理解したのです。私はこれまで長年にわたり悪魔によって毒されていたのです。今となればそのことが悔やまれてなりません。私は心の底から神への真の憧れを感じました。聖書に記されているニネベの人々のようにふるまい、神の御前でひれ伏し、告白して悔い改めたい、そしてあらゆる邪悪な手段を投げ捨てて、神が与えてくださる導きと糧を受け入れたいと思いました。神に従い神を崇めたいと思った私は、教会による宿泊者受け入れの本分を割り当ててください、と自ら願い出ました。兄弟姉妹との交わりでは、病気のために私を見下したり蔑んだりする人はいませんでした。それどころか私を精一杯助けて支えてくれたので、私はいつも彼らの偽りのない愛に囲まれていると感じていました。

   それからしばらく経ち、病状が依然として改善しないので、私は神に、病気がよくなるようお助けくださいと訴えはじめました。ところが姉妹たちは次のように教えを説いてくれたのです。

   「神は万物の創造主でいらっしゃり、私たちはその被造物です。なので、神にどのように扱われようと、私たちはその計画とはからいを受け入れなければなりません。神に願いごとをすれば、ただ自分の分別のなさをさらけ出すことになります。病人を治したり、悪霊を払ったり、奇跡を行なったりすることが、恵みの時代の神の働きでした。けれども今は神の国の時代で、神の現在のおもな働きは、その御言葉によってすべてを成就し、御言葉を用いて人々の堕落した性質を清めて変えることなのです。神は、人々を神に従い、神に忠実で、神を知り、神を愛する者に変えて、そのような者の集団を次の時代へと導きたいと思われています。神が望まれているのは、神を知るようになった人々が自然に表わす愛と服従です。病気を治していただいた感謝の気持ちから、ご自身に従うことは望まれていません。このような神の御言葉があります。

   「神が人を救う時は、神は彼らに触れ、神の祝福と恵みを通して彼らの心を神に委ねさせることによって救うのだと人々は信じている。すなわち、神が人に触れるのは神が人を救うことである。このような救いは取引によって行われる救いである。神が彼らに百倍のものを授けて初めて、人は神の名の前に服従し、神のために尽くして栄光をもたらそうと努力する。これは人類のための神の心ではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た――このことにうそはない。そうでなければ、神は直接その業を行うために来ることは絶対にないだろう。昔、神の救いの手段は最大限の慈愛と憐れみを見せることだった。神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。今日は昔とはまったく違っている。今日、あなたたちの救いは終わりの日に、各人を種類によって分類する期間に生じる。あなたたちの救いの手段は慈愛や憐れみではなく、人がより完全に救われるための刑罰と裁きである。」 (『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人の救いをもたらす神の心を理解するべきである」より)

   つまり私たちは、自分がどれくらい祝福を望む気持ちに衝き動かされているか、神との関係がどれほど打算的になっているかを分析し理解しなくてはならないのです。また神の御言葉をもっと読んで生活の中でそれを実行し、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、その取り扱いと刈り込み、試練、精錬を受け入れ、自らの堕落した性質の清めと変化を求めなければなりません。あなたの病気が良くなるかどうかは神の御手の中にあり、私たちは神の計画とはからいに従わなくてはならないのです」

   姉妹との交わりを通して、ただ神のお恵みを享受するだけでは、サタン的な性質は変わらないのだと理解するようになりました。終わりの日の神の裁きと刑罰を受け入れてはじめて、自分自身の堕落した性質を一掃し、良心と理知を取り戻し、それにより神の救いを得て神の御心にかなうことができるのです。終わりの日の神の働きを受け入れないクリスチャンはみな、神の豊かなお恵みを授けられていても、いまだに罪を犯して告白することを繰り返しながら生きています。なぜならそれは彼らの堕落した性質が清められていないからです。そのため彼らは神の祝福とお恵みを得ようとしていたずらに歩きまわり疲れ果てています。別の言葉で言うと、彼らは神との取引を望んでいるので、そのため決して神に認めていただけることはないのです。神の御心を理解した私は、病気を治してくださいと神にお願いするのをやめて、その代わりに病状がどうなろうと、神を信じ崇めようと固い誓いを立てました。被造物の一人としての本分を尽くし、真理を追求して神をもっと真剣に知るために探求し、自分の堕落した性質を一掃し、神に満足していただくため真に人間らしく生きようと心に誓ったのです。いったんこうしたことを実践しはじめると、心がとても解放され、病気の痛みに束縛されて制約を受けていると感じなくなり、死も怖くなくなりました。私が望んだのはただ、全身全霊を神に捧げて、神の命令とはからいに従うことだけだったのです。

   その後は兄弟姉妹と頻繁に集まって神の御言葉を読み、真理について交わり、神を讃える讃美歌を歌いました。自分の心がとても豊かになったと感じ、それとともに苦しみが和らいできました。それ以上に不思議だったのは、いつの間にか足の麻痺が弱くなってまた少しずつ歩けるようになり、しまいには車椅子に頼らなくてもすむようになったことです。もっと思いがけないことも起こりました。ある日突然視力が戻ってきて、神の御言葉の本に印刷された文字が読めるようになったのです。私もついに自分の目で神の御言葉が見えるようになったのです!信じられませんでしたが、私は本当に奇跡を経験したのでした。私は言い表せない喜びを感じてその後も欠かさず神に祈り、感謝を捧げて神を讃えました。興奮した口調でこの良い知らせを夫に伝えると、夫は感動をあらわにしました。そして目に涙をためて、何度も泣き叫びました。

   「神様、ありがとうございます、神様、ありがとうございます!」

   そう、それはまさしく現実のことでした。私は神にほんの少し従っただけなのに、神はこの素晴らしい祝福をもたらしてくださったのです。終わりの日の神の働きにたとえ奇跡の御業が含まれていなくても、神の御言葉の権威は神の奇跡の権威をはるかに超越するということを私は深く感じました。神は本当に全能の神で、人々を愛する神なのです!

   ある日夫は、県の病院で私のかつての主治医とばったり出会いました。私の腎臓病の治療はどのように進んでいるか、透析はしているかと医師から訊かれた夫はこう答えました。

   「透析はしませんでしたが、もう病状は改善しています。今は歩けるようになって視力も回復しています!」

   医者は目を丸くして言いました。

   「へえ、そんな奇跡もあるんですね。奥さんはもうしばらく前から透析を受けているものだと思っていましたよ」

   今現在、私は普通に生活しています。親戚や友人、近所の人は必ず驚いてこのようなことを言います。

   「こんなに早く病気が良くなるとは思いもしなかった。肉体的にも精神的にも、どこも悪いようには見えないね!」

   こうした言葉を聞くたびに、私は心の中で神への感謝の言葉を述べます。

   「神様、あなたが私に愛を示し、お救いくださったことは生涯忘れません。あなたのためにできることは何一つありませんが、生涯をかけてあなたに従い、あなたを崇め、あなたの被造物としての本分を尽くして、あなたの愛に報いようと私は心に固く決めています」

   私はかつてひどく堕落していて、はじめのうち神の存在を認めず、たびたび神の救済を拒みました。それなのに神は私の罪を責めなかっただけでなく、本当に素晴らしい方法で私をお救いくださったのです。私は神の慈しみをふんだんに受けていますが、自分がそのようなお恵みにふさわしくないのは承知しています。この強烈で動かしがたい経験から、科学と知識は人を救うことができず、ただ際限のない苦しみや恐怖、死をもたらすだけなのがわかりました。宇宙の万物を創造して支配なさる方のみが、いのちと必要な糧を人間に与えられるのです。神は人類の生存の唯一の基盤であり、人類の唯一の希望と救いです。良い運命を望むなら、神を崇めるしかありません。私は神に、サタンにすっかり騙されて死にかけた私のような者を、サタンの影響からお救いくださったことに感謝しています。神は私を生き返らせ、万物の創造主である神の御前に連れ戻してくださいました。私は今、輝かしいいのちの道を歩いているのです!