賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

あなたと神との関係はどのようなものか

2020-09-14 22:00:18 | 勝利者の証し

   神の信仰においては、少なくとも神と正常な関係を持つという問題を解決する必要がある。神との正常な関係がなければ、神を信仰する意義は失われる。神との正常な関係の確立は、神の存在によって心を鎮めることによって完全に実現される。クリスチャン,悔い改める,神に祈り神との正常な関係というのは、神のいかなる業をも疑ったり否定したりせずに従えるということ、そしてさらに、神の前で善意を持ち、自分を顧みず、何をしている時も、神の家族の利益をもっとも重視し、神の監視を受け入れ、神の采配に従うということを意味する。あなたは何をするときにも、神の前で自分の心を鎮めることができる。たとえあなたが神の心を理解していなくても、本分を尽くし、責任を果たすために全力を尽くす必要がある。神の心が明らかになるまで待ってから、それを実践しても遅くはない。あなたと神との関係が正常になったときには、あなたと人々との関係も正常になるだろう。すべては神の言葉という基礎の上に確立される。神の言葉を飲食することにより、神の求めに応じて行動し、自らの見解を正し、神に逆らったり教会の邪魔になるようなことをしたりしないようにしなさい。兄弟姉妹のいのちに役立たないことはせず、他の人々の役に立たないことを言わず、恥ずべきことをしないようにしなさい。何をする時にも、公正かつ高潔に、神に見られても恥ずかしくないようにしなさい。時として肉体が弱いことがあるとしても、あなたは自己の利益に固執することなく、神の家族に恩恵を与えることを最優先し、義を行う。あなたがこのように行動できるなら、あなたと神との関係は正常になる。

 

 

   あなたが何かをするときには、常に動機が正しいかどうかを吟味する必要がある。あなたが神の求めにしたがって行動できるなら、あなたと神との関係は正常である。これが最低限の基準である。自分の動機を吟味した結果、間違った動機が出てきた場合でも、そのような動機に背を向けて、神の言葉に従って行動できるなら、あなたは神の前で正しい者になるだろう。それは、あなたと神との関係が正常であることを示し、あなたのすることのすべてが、自己のためではなく神のためであることを示すだろう。何かをしたり言ったりするときには、常に心を正して義にかなうようにし、感情に流されたり、自分の意志で行動したりしないようにしなさい。これが神の信徒が自らを律する原則である。人の動機や背丈は小さなことの中に現れる。したがって、神によって全きものとされる道を進むためには、人はまず自分自身の動機や神との関係をはっきりさせる必要がある。あなたと神との関係が正常になって初めて、あなたは神により全きものとなり、そうして初めて、あなたに対する神の取り扱い、刈り込み、訓練、鍛錬が望ましい効果を達成することができる。それはつまり、人々が自分の心の中に神を抱いて、個人の利益を追求せず、個人の将来を考えず(これは肉の思いを意味する)、いのちに入るための重荷を背負って、真理の追求に最善を尽くし、神の業に従うということだ。そうすれば、あなたの追求する目標は正しく、あなたと神との関係は正常である。神との関係を正すことは、霊的な旅を始めるための第一段階であると言える。人の運命は神の手の中にあり、神によってあらかじめ決められており、自分で変えることはできないが、あなたが神により全き者とされるかどうか、神のものとされるかどうかは、あなたと神との関係が正常かどうかによって決まる。おそらく、あなたには弱い部分や従順でない部分がある。しかし、あなたの見解や動機が正しい限り、そして、あなたが神との関係を正して正常な関係にしている限り、あなたには神によって全きものとされる資格がある。あなたが神と正しい関係を持たず、肉のためや自分の家族のために行動するなら、どんなに一生懸命に働いても、何の役にもたたない。あなたの神との関係が正常であれば、すべてがあるべきところに落ち着く。神が見ているのは、あなたの神の信仰についての見解が正しいかどうかだけで、それ以外は何も見ていない。あなたが誰を信じ、誰のために信じ、なぜ信じるか。あなたがこのようなことをはっきり認識し、自分の見識や実践を正すことができれば、あなたのいのちは成長し、あなたはきっと正しい道に進むことができるだろう。あなたと神との関係が正常ではなく、あなたの神の信仰についての見解が逸脱したものであるなら、それによってそれ以外のすべては台無しになるだろう。あなたがどのように神を信仰しても、何も得られないだろう。あなたと神との関係が正常な場合にのみ、あなたが肉に背を向けて、祈り、苦しみ、耐え、従い、兄弟姉妹を助けて、神により多く献身したとき、あなたは神に認められるだろう。あなたのやることが価値や意義を持つかどうかは、あなたの意図が正しいかどうかや、あなたの見解が正しいかどうかによって決まる。近頃の多くの人の神への信仰は、首を捻じ曲げて時計を見るようなもので、その視点はねじ曲がっている。ここを突破できれば、万事が好転する。これが解決されれば万事落着するが、解決されなければ、万事が無に帰す。神の前では行儀よく振る舞うが、見えないところでは逆らってばかりいる人もいる。これはねじ曲がった偽りの現れである。この種の人はサタンの奴隷であり、神を試す典型的なサタンの化身である。わたしの業と言葉にしたがうことができて初めて、あなたは正しい人となる。あなたが神の言葉を飲食し、神に見られても恥ずかしくないことしかせず、公正かつ高潔なことしかせず、恥ずべきことをせず、人々のいのちに害のあることをせず、光の中で生き、サタンに利用されなければ、あなたの神との関係は正常化される。

   神を信じるにあたり、あなたは正しい意図と見解を正さなければならない。あなたは、神の言葉、神の業、神によって作られた環境、神によって証しされた人間、そして実践の神を正しく理解し、正しく扱う必要がある。あなたは、あなた個人の考えにしたがって行動したり、自分でささやかな計画を立てたりしてはならない。あなたは、あらゆることにおいて真理を求め、神の被造物の立場に立って、神のあらゆる業にしたがわなければならない。あなたが神によって全きものとなることを求め、いのちの正しい道に進みたいなら、あなたの心は常に神の前で生きなくてはならず、放蕩せず、サタンにしたがったり、サタンが働く機会を与えたり、自分を利用させたりしてはならない。あなたはあなた自身を完全に神にゆだね、神に支配してもらう必要がある。

   あなたはサタンの奴隷になりたいか。あなたはサタンに利用されたいか。神によって全きものとされるために、あなたは神を信じ、神を追求しているか。それとも、神の業において引き立て役になるのか。あなたは神のものとされて、意味のある人生を生きたいか、それとも、価値のないからっぽの人生を生きたいか。あなたは神に使ってもらいたいか、それともサタンに利用されたいか。あなたは神の言葉と真理で満たされたいか、それとも、罪とサタンで満たされたいか。これを考えて、選り分けよ。あなたは日々の暮らし中で、自分の言った事やした事の中から、神との関係を異常にするようなものを把握し、自らを正し、正しい生き方を選ばなければならない。常に自分の言葉、行動、やることなすこと、考えや思い付きを吟味せよ。自分の真の状態を把握し、聖霊の業の道へ入ること。このようにすることによってのみ、神との正常な関係を持つことができる。自分と神との関係が正常かどうかを測ることにより、あなたは自らの意図を正し、人の本質を理解し、自分自身を理解することができるだろう。これを通して、あなたは実体験に入り、真に自分自身を捨てて、心から委ねることができる。神との関係が正常であるかどうかを経験するような問題において、神によって全きものとされる機会を見出し、聖霊が働いているような状況を理解し、サタンの策略や陰謀の多くを見抜くことができるだろう。このようにしてのみ、あなたは神によって全きものとなることができる。神との関係を正して、神の采配に全て従うべきである。そうすればあなたは、実体験により深く入り、聖霊の業をもっと多く受け取るだろう。あなたが神と正常な関係を持つことを実践しようとするとき、肉を捨てて、神に真に協力することを通じて実践可能になることが多い。あなたは「協力の心なしでは、神の業を受け取ることは難しい。肉の試練を経ない限り、神からの祝福はない。霊が葛藤しない限り、サタンが恥じることはない」ということを理解する必要がある。このような原則を実践しはっきりと理解すれば、あなたの神の信仰についての見識は正されるだろう。あなたがたは現在の実践において、「飢えを満たすために、パンを探す」という見方や、「すべては聖霊によって成され、人が介入することはできない」という見方を捨てる必要がある。このように話す人々はみな、「人はなんでもやりたいことができ、時が来れば、聖霊が働いて、人は肉を克服する必要も協力する必要もなくなり、必要なのは聖霊に人を動かしてもらうことだけである」と考えている。このような見解はすべてばかげている。このような状況では、聖霊が働くことはできない。聖霊の業に対する大きな障害になるのは、この種の見方である。多くの場合、聖霊の業は、人の協力を通して実現される。協力や決意もなく、人の性質を変え、聖霊の業を受け、神から啓示や啓蒙を得たいと思うのは、まったく虫の良い考えである。このような態度を、「自分を甘やかし、サタンを大目に見る」と言うのだ。このような人々は、神と正常な関係を持っていない。あなたは自分自身の中にサタンの現れをたくさん見つけた。そしてあなたの過去の行動の中には、神の現在の要求に反することがたくさんあった。あなたはそれらを今捨てることができるか。神との正常な関係を獲得し、神の意図にしたがって行動し、新たな人となって新たないのちを得、過去の罪を振り返らず、後悔しすぎず、立ち上がって神と協力することができる、そして、やるべき本分を果たす。このようにすれば、あなたと神との関係は正常になるだろう。

   あなたがこのような言葉を読んだ後に、それを単に言葉通り受け止めるだけで、心を動かされなかったら、また、あなたが真剣に神と正常な関係を持とうとしていないなら、それはあなたが神との関係を重視していない証拠であり、あなたの見解はまだ正されておらず、あなたの意図は神のものとされることや神に栄光を帰すことに向けられておらず、むしろサタンの陰謀が蔓延ることや、あなたの個人的な目的を達成することを認める方向に向けられている。クリスチャン,悔い改める,神に祈りこの種の人々は、全て間違った意図や見解を持っている。彼らは、神が何をどのように言おうが無関心であり、何の変化も見られない。彼らの心はまったく畏れを感じないし、恥じることもない。この種の人は、霊のない混乱した人である。あなたは、神のいかなる発言でも、読んで理解したら、実践に移すべきである。あなたがかつてどのように実践しようが(かつてあなたの肉は弱かったかもしれないし、反抗的だったかもしれず、反逆していたかもしれないが)、それは大きな問題ではなく、あなたのいのちが今成長することを妨げることはない。あなたが今日神と正常な関係を持つことができるなら、そこには希望がある。あなたが神の言葉を読むたびに、あなたが変わり、あなたの生活がよい方向に変わったと他の人々も認めるなら、それはあなたが神と正常な関係を持っていること、関係が正されたことを示している。神は、人々の罪を基準にして扱ったりしない。あなたが理解し認識した後、二度と反抗したり逆らったりしなければ、あなたにはまだ神の慈悲がある。あなたがこのことを理解し、神により全きものとなることを求める意志があるならば、あなたの神の前での状態は正常である。何をするときにも、必ずこう考えよ。「私がこれをやったら、神はどう思うか。それは兄弟姉妹にどのような影響を与えるか。」あなたの祈り、交わり、発言、仕事、人々との接触の意図を吟味し、あなたと神との関係が正常であるかどうかを吟味せよ。もしあなたが意図と意見がどのようなものであるか見分けることができないとすれば、あなたには判断力がないということであり、それはあなたが真理を知らなすぎるということを証明している。神の行うあらゆることを明確に理解し、神の言葉にしたがって物事を見て、神の側に立って物事を見ること。このようにすれば、あなたの見解は正されるだろう。したがって、神と良好な関係を築くことは、神を信仰する誰にとっても、最優先事項になる。これは誰もが、最も重要な課題として、また、人生における重要な項目として扱うべきである。あなたのやることはすべて、神との関係が正常であるかどうかに照らして判断する必要がある。あなたの神との関係が正常であり、あなたの意図が正しいならば、それをしなさい。神との正常な関係を維持するには、個人的な利益を失うことを怖れてはならず、サタンが蔓延ることを許してはならず、サタンが自分を操ることを許してはならず、サタンがあなたを笑いものにすることを許してはならない。このようなことを避けようとすることは、あなたと神との関係が正常であることの現れである。それは肉のためではなく、むしろ、魂の平安のためであり、聖霊の業を得るためであり、神の心を満たすためである。あなたが正しい状態になろうとするなら、神と良好な関係を築く必要があり、神の信仰についての自分の見解を正す必要がある。それは、自分を神のものとされ、神の言葉の実をあなたの中に示し、あなたをさらに啓発し啓蒙することを可能にする。このようにすれば、あなたは正しい道に進むだろう。神の現在の言葉を飲食し続けて、聖霊の業の現状に溶け込み、神の現在の求めに従って行動し、古臭い慣習に従う事を止め、物事の古いやり方にしがみつくのをやめ、現在の仕事のやり方に素早く溶け込むようにしなさい。このようにすれば、あなたと神との関係は完全に正常になり、神を信仰するための正しい道に進むだろう。


聖書の中の終末の災害の預言は既に実現された「ノアの日々が来た」

2020-09-11 21:35:39 | 勝利者の証し

 

あらすじ
ノアの時代の人類を振り返りましょう。悔い改めることを考えずに、人はあらゆる種類の邪悪な活動を行いました。誰も神の言葉を聞きませんでした。人々の頑固さと悪は神の怒りを呼び起こし、ついに大洪水の災いに人々は飲み込まれました。ノアの家族八人 だけが神の言葉に耳を傾け、生き延びられました。今日、世の終わりはすでに到来しました。人類の堕落はさらに深刻になってきています。誰もが悪をあがめます。宗教界全体は世界の潮流に従います。人々は真理を少しも愛しません。ノアの時代はすでに到来しました。人類を救うために、人類の中で世の終わりの裁きの働きを行おうと、神はもう一度再来しました。これは神が人を救う最後の時です。人類は何を選べばよいのでしょうか。

これは実話です。四川省の清平镇の住民たちは全能神の国の福音を受け入れることを繰り返し拒否したため、二度の災いを経験しました。汶川大地震の間、全能神を信じる多くの兄弟姉妹たちは神によって奇跡的に保護され、生き残りました。これらの事実は証しを立てられました。神を受け入れ従う人々と神を否定し抵抗する人々です。これらの二種類の人々には、ふたつの非常に異なる結末があります。


刑務所で過ごした青春時代

2020-09-05 23:48:34 | 勝利者の証し

   青春時代は人生の中で最も輝きのある純粋な時期であると人は言います。多くの人にとって、青春は素晴らしい思い出がいっぱい詰まっている時期かも知れません。しかし、私は自分の青春時代を刑務所で過ごすことになるとは想像もしていませんでした。こう言うと私のことを変だと思われるかも知れませんが、私はそれを後悔していません。刑務所内の生活は苦しみと涙でいっぱいでしたが、それは私が人生で受けた最も貴重な贈り物で、それから多くを学んだのです。

 

 

   私は幸せな家庭に生まれ、幼少時代は母と一緒に主イエスを崇拝しました。私が十五歳の時、私と家族は全能神が再臨された主イエスだと確信して、喜んで全能神の終わりの日の働きを受け入れました。

   2002年4月のある日、十七歳の時、私はある姉妹と本分を尽くしていました。午前一時、私たちがホストファミリー宅でぐっすりと眠っていると、突然ドアをしきりに叩く大きな音がして目が覚めました。「ドアを開けろ! ドアを開けろ!」と誰かが外で叫んでいるのが聞こえました。私たちを接待してくれていた姉妹がドアを開けたとたん、警察官数人が突然ドアを押し開け中に入ってきて、「私たちは公安局の者だ」と攻撃的に言ったのです。「公安局」という言葉を聞いて、私は直ぐに緊張しました。

   「私たちが神を信仰しているから逮捕しに来たの? 兄弟姉妹が神への信仰を理由に逮捕され、迫害されてたことを耳にしたことがある。今私にも同じことが起こっているっていうの?」

   その時、私の心臓は激しく鼓動し始め、パニックに陥った私はどうしていいのか分かりませんでした。そのため私は急いで神に祈りました。

   「神様、どうか私とともにいてください。どうか私に信仰と勇気をお与え下さい。何が起ろうと、私はいつも神様への証を立てる覚悟です。それから、神様の知恵と私が言うべき言葉を与え、私が神様を裏切ったり、兄弟姉妹たちを売り渡すようなことをしないようにして下さい」

   祈った後、私の心は次第に落ち着いていきました。私は邪悪警官四、五人が強盗のように寝具、各戸棚、箱、ベッドの下にあった物まで調べ、部屋中を引っかき回すのを見ました。彼らはついに神の御言葉を記した書籍と讃美歌のCDを幾つか発見しました。リーダーが無表情に言いました。

   「このような物を持っているということは、お前たちが神を信仰している証拠だ。俺たちと一緒に来て、陳述するんだ」

   ショックを受けて私は言いました。

   「言うべきことがあるなら、ここで言えます。一緒に行きたくありません」

   彼は直ぐに笑顔を見せて言いました。

   「怖がらなくてもいい。陳述をしにちょっと行くだけだ。すぐここに連れ戻してやる」

   彼の言葉を信じて、私は警官と一緒にパトカーに乗りました。

   このちょっと行くだけというのが、私の刑務所生活の始まりになるとは夢にも思いませんでした。

   私達が警察署の中庭に入ったとたん、この邪悪な警官たちが私にパトカーから降りるようにと怒鳴り始めました。彼らの表情は素早く一変して、急に先ほどまでとは別人になったようでした。私たちが事務所に着くと、体のがっしりした警官が数名私たちの後から入って来て私の両側に立ちました。今や私に対する警官側の優勢が確定すると、邪悪警官集団の長が私に怒鳴りました。

   「お前の名前は何だ? どこの出身だ? お前たちは全員で何人いる?」

   私が答えようと口を開き、まだ話し終えていないうちに彼は飛び付いてきて私をバシッ、バシッと二回引っ叩きました。私はこれに動揺して沈黙してしまいました。私は心の中で思いました。

   「なんで叩くの? まだ答え終わってないのに。どうしてこんなに荒々しくて野蛮で、私が想像していた人民警察のイメージと全然違うの?」

   次に、私の年齢を聞いてきたので、正直に十七歳だと答えると、又しても顔面を二回引っ叩いて、嘘をついていると言って私を叱りつけました。その後、私が何を言おうと関係なしに幾度となく私の顔面を殴りつけ、私は目から火が出て、頭はぐるぐると回り、耳鳴りが聞こえ、顔は痛みで熱くなりました。この時、私はこの邪悪な警官たちは私に質問をするためにここ連れて来たのではなく、単に暴力で私に屈服させたかっただけなのだとやっと理解したのです。私はこの悪質な警官たちと理性的に話そうとしても効果がなく、逆に問題を引き起こすだけだと兄弟姉妹が言っていたのを思い出しました。今やこれを自ら体験した私はそれ以上何を聞かれても一言も喋りませんでした。私が喋ろうとしないことを見て、彼らは叫びました。

   「この馬鹿女が! よく考えろ! でないと正直に話さないだろうからな!」

   こう言いながら警官の一人が私の胸を二回強打したので、私はよろめいて、床に強く倒れ込みました。次に警官は私を二回強く蹴り、私を床から引き上げ、私に跪くようにと怒鳴りました。私は言う通りにしなかったので、膝を数回蹴られました。激痛の波に圧倒された私はドスンと音を立てて倒れ、跪く恰好になりました。警官は私の髪を掴んで無理やり下に引き付けた後、急に頭を後ろに強く引っ張って私に無理やり上を向かせました。警官はさらに私の顔面を二回殴りながら罵り、私には部屋全体が回転しているような感覚しかありませんでした。間もなく、私は床に倒れました。その時、突然、邪悪な警官長は私が手首にしていた時計に気付き、それを物欲しそうに見詰めながら、「それ何だ?」と叫びました。すぐさま、警官の一人が私の手首を掴んで時計を無理やり取り外し、「親方」に手渡しました。このような卑劣な行動を目にして、私は彼らへの憎しみでいっぱいになりました。その後、彼らは更に尋問してきましたが、私はただ黙って彼らを睨み付け、それが彼らの怒りを更に煽りました。悪質な警官の一人がまるで小ぶりの鶏をつまみ上げるかのように私の襟を掴み、床から引き上げて怒鳴りました。

   「おお、お前は大きくて強いんだな。黙ったままの褒美を食らえ!」

   警官はこう言いながら私をさらに二回強打し、私は再び床に殴り落とされました。その時には私は既に体中が耐えられないほど痛く、戦う力はもはらありませんでした。私はただ動かずに目を閉じたまま床の上に横たわっていました。私は心の中で切羽詰まって神に嘆願しました。

「あぁ神様、この邪悪な警官集団がこの先私にどのような残虐行為を働いてくるか分かりません。神様は私の霊的背丈が低く、肉体的にも弱いことをご存じであられます。どうか私をお守り下さい。私はユダのようになって神様を裏切るくらいなら死を選びます」

   祈りを終えたとき、神が私に信仰と力を授けてくださいました。ユダになって神を裏切り兄弟姉妹を売り渡すよりは私は死ぬほうがよいのです。神への証しをしっかりと立てたいのです。ちょうどその時、私の隣にいた誰かが「なんでこの女はもう動かないんだ? 死んだのか?」と言うのが聞こえました。その後、誰かがわざと私の手に足を乗せて強く踏み付けながら、どう猛な声で怒鳴りました。

   「立て! これからお前を別の場所に連れていくからな。そこでも喋らなかったら当然の報いを受けることになるぞ!」

   神が私に信仰と力を下さったので、私は彼らの脅しには怯えませんでした。心の中でサタンと戦う準備が出来ていたのです。

   後に、私は県の公安局に護送されました。取調室に到着すると、邪悪警官の長と他に二名が私を取り囲み、幾度となく尋問し、私の前を行ったり来たりしながら私に無理やり教会指導者と兄弟姉妹を裏切らせようとしました。私が依然として期待通りの返答をしないのを見ると、警官が三人交代で私の顔を何度も繰り返し引っ叩きました。私は何度殴られたか分かりません。私に聞こえたのは殴られる度に真夜中の静けさの中に響き渡るバシッバシッという音だけでした。手が痛くなってきた邪悪な警官は本を使って私を殴り始めました。警官らは私がついに痛みを感じられなくなるまで殴り続けました。私の顔はひどく腫れて麻痺しました。私からは貴重な情報が得られないと分かった邪悪な警官たちは、最後には電話帳を取出して、満足げに言いました。

   「これはお前のバッグから見つけたんだ。お前が何も教えなくても、俺たちはまだ他の方法を隠してるんだ!」

   急に私は心配になりました。

   「もし兄弟姉妹の誰かが電話に出てしまったら、彼らも逮捕されるかもしれない。それから警官が教会を突き止めるかも。そうなったら一大事だわ」

   ちょうどその時、私は神の御言葉の一節を思い出しました。

   「宇宙で起こるすべてのことの中で、わたしが最終的な決定権を持たないものはない。わたしの手の中にない存在などあるだろうか」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第一章」より)

   私は思いました。

   「その通り。すべての物事は神様の御手に調整され取り決められる。電話が通じるか通じないかさえも、完全に神様がお決めになること。私は神様を仰ぎ見て頼りにし、神様の采配にお任せすることをいとわない」

   そこで私は神に繰り返し祈り、兄弟姉妹をお守り下さるよう嘆願しました。その結果、警官らが記載されていた電話番号に一通り電話をかけたものの、呼び出し音が鳴っても誰も出なかったり、電話が全くつながらなかったりしました。ついには、邪悪な警官たちはイライラして口汚い言葉を吐きながら電話帳をテーブルに投げて電話をかけるのを止めました。これは正に神の全能さと統治、そして神の驚くべき御業の実例だったのです。私は神に感謝の意と賛美を示さずにはいられませんでした。

   それでもなお、彼らは諦めず、教会の働きについて私に尋問し続けましたが、私は答えませんでした。これに動揺し憤慨した彼らは私を苦しませるために更に卑劣な方法を思いつきました。邪悪な警官の一人は私に無理やり半分しゃがんだ姿勢を取らせ、私は両腕を肩の高さで伸ばした状態のまま動くことを全く許されなかったのです。直ぐに、私は脚が震えだし、腕を真っすぐに伸ばしていることが出来なくなり、体が無意識のうちに立ち上がってしまいました。警官は鉄の棒を手にして獲物を見つめる虎のように私を睨めつけました。私が立ち上がったとたんに彼は容赦なく私の脚を殴り、あまりの痛さに私は膝をつきそうになりました。次の三十分近くの間、私の脚か腕が少しでも動くと、彼は即座に鉄の棒で私を殴りつけました。私は何度殴られたか分かりません。かなりの時間半分しゃがんだ姿勢を取っていたため、私の両脚はひどく腫れ上がり、まるで骨折したかのように耐え難いほどに痛みました。時間が経つにつれて、私の両脚はさらに激しく震えるようになり、私の歯はガタガタと音を立て続けました。ちょうどその時、私の力が尽きて気絶しそうに感じました。しかし、邪悪な警官たちは、残酷にも猿に芸をさせようとする人のように一方から私を馬鹿にしてあざ笑い、絶え間なく意地悪く嘲笑し、笑い者にしました。彼らの醜く卑しい顔を見れば見るほど、この邪悪な警官たちへの憎しみが強くなっていきました。私は突然立ち上がって大声で言いました。

   「もうこれ以上しゃがみません。どうぞ私を死刑にしてください! 今日私には失うものなんて何もないの! 死ぬことだって怖くないのに、あなたたちが怖いわけないでしょう? そんな大きな体してても私みたいな小さな女の子を虐めることしか出来ないんじゃない!」

   驚いたことに、私がこう言うと、邪悪な警官集団は口汚い言葉をいくつか発して私の尋問を取りやめたのです。その時、私は興奮し、全ての事柄は確かに神の御手に操られているのだと理解しました。私が心の中から恐怖を取り除くと、私の状況もそれに従い変化したのです。私は心の奥底で神の御言葉の意義を心から認識しました。

   「『王の心は、ヤーウェの手のうちにあって、水の流れのようだ、ヤーウェはみこころのままにこれを導かれる』と言われているまさにその通りであって、普通の人間が自分の方向を定められないのは尚更である」(『キリストの言葉の記録』の「神の全能性を知ることでのみ、真の信仰を持つことができる」より)

   今日、神はサタンが私を迫害することをお許しになられましたが、それは私を意図的に苦しめるためではなく、むしろそれを利用して私が神の御言葉の力に気が付き、サタンの暗黒の影響による支配から自由になるように私を導き出し、さらにはこの危険な状況において私が神を頼り、神を仰ぎ見るようにして下さるためであったのだと私は理解しました。

   この邪悪な警官集団は私をほぼ一晩中拷問し続け、彼らが手を休めた時には夜明けになっていました。彼らは私に署名させてから、私を拘束すると言いました。その後、優しいふりをした年配の警官が私に言いました。

   「お嬢さん、あなたは本当にお若い。若い盛りの真っただ中だ。だからすぐに知ってることを全部私たちに言うのが一番です。あなたが釈放してもらえるようにすることを保証します。困ったことがあったら、遠慮なく私に言いなさい。ほら、顔がまるでパンみたいに腫れ上がっていますよ。もう十分苦しんだでしょう?」

   警官がこのように話すのを聞いて、警官が私に何らかの自白させようとしているのだと分かりました。私はまた集会中に兄弟姉妹が言っていたことを思い出しました。邪悪な警察は人を騙すために、あめとむちを使ったり、ありとあらゆる罠をしかけてくることです。これを思った私は年配の警官に言いました。

   「いい人ぶらないでください。あなたも同じ集団の一員じゃないですか。私に何を白状しろって言うんですか? 警察がやっているのは自白の強要って言って、違法の刑罰です!」

   これを聞いた警官は何食わぬ顔で言い返しました。

   「でも私はあなたを一度も叩いてませんよ。叩いたのは他の警官だ」

   私は神の御導きと御加護のおかげで再度サタンの誘惑に打ち勝てたことを感謝しました。

   県の公安局を出た後、私はそのまま直ぐ拘置所に閉じ込められました。正門に足を踏み入れると、そこは電気の流れた蛇腹型鉄条網が上部に施された高い壁に囲まれていて、四方にはそれぞれ監視塔のような物があり、その中には武装警官が見張りをしているのが見えました。全てがとても不吉で恐ろしく感じました。鉄格子を幾つも通り過ぎた後、私は監房に着きました。凍りつくほど冷たい煉瓦のベッドの上には麻のカバーが付いたぼろぼろの布団が置かれ、黒く汚れて刺激の強い悪臭を放っていました。それを見た私は体中に嫌気の波がうねるのを感じずにはいられませんでした。その後直ぐに悲しみの波が続きました。 私は心の中で思いました。

   「どうやったらここで人が暮らせるというの? ただの豚小屋じゃない」

   食事の際、囚人はそれぞれ酸っぱくて半生の小さな蒸しパンしか与えられませんでした。私は一日中何も食べていなかったのですが、これを見て本当に食欲を失いました。それに加え、私は警官たちに殴られたおかげで顔が腫れ上がっていたので、まるでテープで巻き付けられたように張り詰めた感じがしました。食べるのは言うまでもなく、喋ろうとして口を開けるだけでも痛みが走りました。このような環境に置かれ、私はとても憂鬱になり、物凄く不当な扱いを受けていると感じました。実際にこんな所にいて、非人道的な生活に耐えなくてはならないかと思うと、私はとても感情的になり無意識のうちに涙を流していました。ちょうどその時、私は神の御言葉を思い出しました。

   「あなたが、自分の観念に合わないことや自分自身を脇に置かなければならないことに遭遇する時はいつでも、あなたの試練であると言える。神の意志が現される前には、各人に対する厳しい試しの時とはかり知れない試練がある。あなたは、このことをはっきり見ることができるであろうか」(『言葉は肉において現れる』の「真理を実行に移すことだけが現実性を得ることである」より)

   御言葉を熟考していると、神の御旨がわかりました。神はこの状況が私に起こるのをお許しになったのであり、それは神が私に試練を与え、試すことで、私が神への証しを立てられるかをご覧になろうとしていたのです。この邪悪で暗い時代において、運よく神に御引き上げいただいたおかげで神に従うことが出来るようになっていなければ、私はどのような状況に陥っていたか、まだ生きていたかどうかすら分かりません。不当な扱いを受けたと感じ、少し苦しんだことで悲しくなり、それを受け入れることを拒んでいたということは、私が良心と理知を欠いていることを示していました。これに気付くと、私は不当な扱いを受けたと感じるのを止め、苦難に耐えると心の中で決意するようになりました。

   二週間経ち、あの邪悪な警官の長が又しても私を尋問しにやってきました。私が冷静さと落ち着きを保ったままで、何も恐れていない様子を見た警官は私の名前を叫んで怒鳴りました。

   「正直に言え。ここ以外のどこでこれまでに逮捕された? 拘置所はこれが初めてじゃないだろ。でなければ全く怖がらずそんなに冷静で慣れた振る舞いをしていられないだろ?」

   私はこれを聞いて、心の中で神に感謝して、神を讃えずにはいられませんでした。神は私をお守り下さり、私に勇気を下さることで、私が全く恐れずにこの邪悪な警官たちに立向えるようにして下さったのです。その時、心の中から怒りが込み上がってきました。

   「あなたがたは権力を濫用して宗教的信仰を理由に人々を迫害して、理由も無しに神の信仰者たちを逮捕したり、脅したり、傷つけたりしている。あなたがたはこの世の法律も天の掟も守らない。私は神を信仰して、正しい道を歩んでいる。私は法律違反などしていない。あなたがたを恐れる理由もない。私はあなたたちの邪悪な力には屈しない!」

   そして私は反論しました。

   「他の場所は退屈だから私がここに来たがったとでも思ってるの? あなたがたは私を不当に扱って乱暴なことをしたんじゃない! これ以上私に自白を強要したり、私を陥れようとしても無駄よ!」

   これを聞いた邪悪な警官の頭はとても憤慨し、耳から煙が吹き出てきそうな様子でした。警官は叫びました。

   「お前は頑固すぎて喋れないのか。喋る気がないんだろ? お前には三年の刑期をくれてやる。それでお前がいい子になるかどうか見てやる。頑固でい続けられるものならやってみろ!」

   この時までには私の感情は憤慨を超えていました。私は大声で言い返しました。

   「私はまだ若いのよ。三年なんて大したことないでしょ? あっという間に釈放されるわよ」

   邪悪な警官は怒って急に立ち上がり、声を上げて部下に言いました。

   「もう止めた。お前らが代わりにこいつを尋問しろ」

   そして警官はドアを乱暴に閉めて去って行きました。これを見た警官二人はこれ以上私を尋問しませんでした。彼らは私が署名する陳述書を書き終えると部屋から出て行きました。邪悪な警官たちの挫折ぶりを見て、私はとても嬉しくなり、心の中で神のサタンに対する勝利を讃えました。

   二回目の尋問の最中、彼らは作戦を変更しました。彼らは入ってくるとすぐ、私のことを心配しているふりをしたのです。

   「お前がここに来てからもうしばらく経つが、どうしてお前の家族は一人も面会に来ないんだ? お前のことを諦めたに違いない。自分で家族に電話をして、会いに来てくれと頼んでみたらどうだ?」

   私はこれを聞いて、気分が悪くなり、動揺し、思いました。

   「お母さんとお父さんは本当に私のことをもう心配してないのかな? もう二週間になるから、私が逮捕されたことは知ってるはず。私に会いにすらこないで私をこんな所で苦しんだままにしてどうして平気なの?」

   こう考えれば考えるほど、私の孤独感と無力感はどんどん増していきました。私はホームシックで両親が恋しくなり、自由になりたいという渇望は強まりました。無意識のうちに、私の目に涙があふれましたが、この邪悪な警官集団の前では泣きたくありませんでした。私は静かに神に祈りました。

   「あぁ神様、私は今とても惨めで苦しく、とても心細いです。どうか私の涙が流れ落ちるのをお止め下さい。サタンに弱さを見せたくないからです。今、私には神様の御意向が分かりません。どうか私を啓き、導いて下さい」

   祈りを捧げた後、突然ある考えが頭にひらめきました。つまり、これはサタンのずるい計略で、警察は私に両親のことを誤解させ嫌いにさせようとして意見の衝突の種を播いたのです。私がこのショックに耐えられなくなり、神を裏切ることを狙ってのことです。さらに、私に家族と連絡を取らせようとしたのは家族に身代金を持参させ、お金を稼ぐという目的を達成するための罠だったのかもしれません。もしくは、警察は私の家族も全員が神の信仰者であることを知っていて、この機会を利用して私の家族も逮捕したかったのかもしれません。邪悪な警官たちは本当に策略だらけでした。神の啓きを受けていなかったら、実家に電話していたかも知れません。そうしていたら私は間接的にユダになっていたのではないでしょうか? それで私は秘かにサタンに宣言しました。

   「卑劣な悪魔め。私はお前の策略は絶対に成功させないから。これからは、祝福であろうと災難であろうと、私は一人で受けてみせる。家族を巻き込むことは拒否し、両親の信仰や両親が本分を尽くすことをじゃますることも絶対にしない」

   同時に、両親がこの邪悪な警官たちの仕掛けた罠にはまらないように、私に面会しに来ないようにして下さい、と静かに神に嘆願しました。そして私は平然と言いました。

   「どうして家族が会いに来てくれていないのかは分かりません。あなたがたに何をされようと私にはどうでもいいです!」

   邪悪な警官たちは策が尽きて、それ以降はもう私を尋問しませんでした。

   一か月が経ったある日、私のおじが突然面会に来て、私をここから出られるようにしようとしていて、数日後には釈放されるだろうと言いました。面会室から出た時、もの凄く嬉しくなりました。やっともう一度日の明かりを見られ、兄弟姉妹や大切な人たちにも会えると思いました。それで、私は空想しながらおじが私をここから連れ出しに来てくれることを楽しみにするようになりました。毎日、刑務官が釈放時間が来たことを告げる声が聞けるよう耳を澄ましました。期待通り、一週間後に刑務官が私を呼びに来たのです。大喜びで心臓が激しく鼓動し過ぎて胸郭から飛び出しそうになりながら、面会室に到着しました。しかし、私がおじを見ると、おじは顔を伏せてしまったのです。随分してからおじは落胆した声で言いました。

   「やつらは既にお前の件を確定してしまった。禁錮三年だ」

   私はこれを聞いて唖然としてしまい、頭の中は完全に真っ白になりました。私は涙をこらえて、なんとか泣かずにいられました。その後におじが言ったことは何も耳に入ってきませんでした。私は放心状態でおぼつかない足取りのまま面会室を後にしました。両足は鉛がいっぱい詰め込まれたようで、一歩進む度に足が重くなっていく感じがしました。どうやって監房に戻ったか全く覚えていません。監房に着くと、床に倒れ込みました。私は思いました。

   「この一ヶ月以上の非人道的な生活は、その毎日が一年くらいの長さに感じたのに、どうやったらこれを三年間も耐え抜くことが出来るの?」

   これをくよくよと考えれば考えるほど、私の苦しみは増していき、私の将来は増々ぼやけて、果てしなく見えました。これ以上涙をこらえられず、泣き出してしまいました。しかし、私は心の中で誰ももはや私を救い出すことは出来ないと疑いなく分かっていました。私は神を頼りにすることしか出来なかったのです。私は悲しみの中、再び神の前へ行き、神に心の内を明かして言いました。

   「あぁ神様、私は全ての物事は神様の御手の中にあると分かってはいますが、現在は私の心は完全に空っぽになったようです。私は今にも崩れ落ちそうです。刑務所で三年間苦しむのはとても困難になると思います。あぁ神様、どうか御意向を私にお示し下さい、そして私が神様に完全に服従し、勇気を持って降りかかってきたことを受け入れられるよう私に信仰と力を下さるようお願いします」

   ちょうどその時、私は神の御言葉を思いました。

   「すべての人々にとって精錬は耐えがたく、受け入れ難いものであるが、神が義なる性質を人に明らかにし、人に対する要求を公にし、より多くの啓きとより現実的な刈り込みと取り扱いを与えるのは精錬の間である。事実と真理の比較により、神は人自らについてのより大きな認識と真理を人に与え、神の心をより深く理解させ、そうしてより真理に近く純粋な神への愛を人に得させる。それらは精錬を実行する神の諸目的である」(『言葉は肉において現れる』の「精錬を経ることによってのみ、人は真に神を愛することができる」より)

   「終わりの日に、あなたは神に対して証しとならなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで経験しなければならず、あなたの呼吸が止まるまで神に対して忠実であり続け、神に身を委ねていなければならない。これのみが真に神を愛するという事であり、これのみが強く確固とした証しとなるのである」(『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」より)

   神の御啓示と御導きのおかげで、私は自省し始め、徐々に自分の欠陥を発見しました。私は自分の神への愛は不純であり、私は依然として完全には神に服従できていないと気づいたのです。逮捕されて以降、そして邪悪警察との闘いの間、私は勇敢かつ大胆不敵で、拷問を受けている間も涙一滴もこぼさずにいました。けれど、それは私の実際の霊的背丈ではなかったのです。幾度となく私がサタンからの誘惑と攻撃に打ち勝つことが出来たのは、全て神の御言葉がお与え下さった信仰と勇気のおかげだったのです。私はまた邪悪な警察の本質を余すところなく見抜けていなかったことにも気が付きました。私は中国共産党警察は法を順守しており、未成年である私が罪を宣告されることなど絶対になく、重くても数ヶ月間拘置される程度だと思っていたのです。痛みと苦しみにもう少し耐えて、我慢してさえいればこれは終わるだろうと思っていました。自分がここで実際に非人道的な生活を三年も送ることになるかもしれないとは夢にも思っていませんでした。その時、私は苦しみ続けることも神の御計画と御采配に服従することも望んでいませんでした。この結果は私が想像していたこととは違い、それがまさしく私の真の霊的背丈を明らかにしたのです。その時、神は本当に人々の心を奥深くまでお覗きになられ、神の御知恵はサタンの策略に基づいて行使されているのだと初めて気が付いたのです。サタンはこの刑務所生活によって私を痛めつけ完全に弱らせたかったのですが、神はこの機会をお遣いになられて私が自分の欠陥を発見し、自分の不十分な点を認識するようにすることで、私が神に真に服従し、私のいのちがもっと速く前進出来るようにして下さったのです。神の御啓示は窮地から私を導き出して下さり、私に無限の力をお与え下さっていました。私は突然心が明るく満たされ、神の善良な御意図を理解し、もはや惨めに感じなくなりました。私はペテロの例に従って不満を一切言わずに全てを神に御計画いただき、この日以降は何が降りかかってこようとも落ち着いて立向って行く決意をしました。

   この二か月後、私は労働収容所に護送されました。私は評決書を受け取ってそれに署名した時、刑期が三年から一年に減刑されていたことを知りました。私は心の中から何度も何度も神に感謝して、神を讃えました。神はこれら全てのことを御計画なさっており、私はその中に神から私への大いなる愛と御加護を見たのです。

   労働収容所では、私は邪悪警察の更に卑劣で残忍な一面を目の当たりにしました。私たちはとても朝早くに起床して仕事に向かい、毎日作業を情け容赦なく過大に負わされていました。私たちは毎日長時間働き、時には数日間連続で一昼夜ぶっ通しでも働きました。囚人の中には病気になり点滴を必要とした人もいて、点滴が終了したら直ちに作業場に戻って仕事を再開出来るようにと滴下速度を最速設定されていることもありました。これが原因で受刑者の多くは後に治療困難な病気を患いました。仕事の遅い囚人たちは看守から頻繁に言葉の虐待を受けていました。看守の汚い言葉遣いは全く聞くに堪えませんでした。囚人たちの中には労働中に規則を違反して罰を受ける人もいました。例えば、「縄引き」という罰は、地面に跪かされ、両手を背中の後ろで縛られ、両腕を無理やり首の高さまで引き上げて痛め付けるというものです。他には、まるで犬のように鉄鎖で木につながれて、むちで容赦なく打たれる囚人もいました。この非人道的責め苦に耐えられなかった人はわざと餓死しようと試みるのですが、邪悪な看守はそんな囚人の両足首と両手首に手錠を掛け、体を強く抑え付けながら栄養チューブと水分を強引に体内に押し入れていました。看守は囚人たちが死んでしまうことを恐れていましたが、それはいのちを大切にしていたからではなく、囚人の安価な労働力を失うことを懸念していたからです。看守の犯した邪悪な行いは、恐ろしく凶暴でむごたらしい事件同様、本当にあり過ぎて数えきれませんでした。この全てにより、私は中国共産党政府は霊的世界に存在するサタンの地上のおける化身であるのだとはっきり分かりました。それは全悪魔の中で最も邪悪であり、その支配体制下にある刑務所は、名目上だけでなく実質においてもこの世の地獄です。私は尋問を受けた事務所の壁に書いてあった言葉を覚えています。それは、「任意に人を殴ること、または不法な罰に処することは禁じられており、拷問によって自白させることは更に強く禁じられている」です。それにもかかわらず、実際、彼らの行動はそのような規則に公然と反していました。彼らは成人ですらない女の子の私を無慈悲に殴り、不法な罰を加えました。さらに、彼らは私が神を信仰していたというだけで私に刑を宣告したのです。こういったこと全てによって、私は中国共産党政府が平和と繁栄のみせかけを提示する一方で、人々を欺くために用いる策略を明確に理解することが出来たのです。それは正に神の御言葉通りでした。

   「その悪魔は人の身体全体をがんじがらめにして両眼を見えなくし、両唇を堅く封じる。魔王は数千年にわたって現在まで猛威を振るい、幽霊の街を堅固に警備しており、それはあたかも難攻不落の悪魔の城のようである。……遠い昔の祖先はどうだろうか。愛された指導者はどうだろうか。そうした者は皆、神に反抗している。そうした者の干渉により、地にある者すべてが闇と混沌に陥れられたのだ。宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)

   邪悪な警官たちの迫害を経験した後、私は神の仰るこの御言葉の内容を完全に確信し、その時にはこのことに関する実際の認識と体験を自分のものにしていました。中国共産党政府は本当に悪魔的な集団であり、神を憎み神に反抗し、悪と暴力を擁護します。このサタン的体制の下で生きるのは、人間が作った地獄で生きることと何ら変わりません。同時に、私は労働収容所では、人々のあらゆる醜さをこの目で見ていました。口先が上手く看守長の機嫌をとっていた日和見主義で陰険な人の吐き気のするような顔、どう猛に暴力的で猛威を振るいながら弱い人を脅していた人の悪魔のような顔等です。まだ成人としての生活を始めていなかった私は、刑務所で暮らしたこの一年間に人類の堕落をはっきりと目の当たりにしたました。人々の心に存在する欺瞞を目撃し、人間世界がどれだけ邪悪なものになり得るかということに気が付きました。また私は、肯定的なものと否定的なもの、白と黒、是非、善悪、そして偉大なことと卑劣なことを区別することも学びました。サタンは醜く、邪悪で残忍であり、神のみが聖さと義の象徴であられることをはっきりと認識しました。神のみが美と善を象徴され、神のみが愛であり救いであられるのです。神に御見守られ御加護を受け、あの忘れ難き年は私にとってとても素早く過ぎていきました。

   今振り返ってみると、刑務所で過ごしたあの年、私は肉体的苦痛を経験しましたが、神が御言葉で私を導いて下さり、私のいのちを成長させて下さいました。私は神が予めお定め下さった宿命に感謝しています。私が人生の正しい道に足を踏み入れられたことは、神が私にお与え下さった最高の御恵みであり祝福です。私は残りの人生を通して神に従い、神を崇拝して行きます!


真理を理解することでのみ、自らを真に知る

2020-08-24 19:20:26 | 勝利者の証し

   私は常に、外面的な実践が適切であり、何の堕落も人に見せなければ、それが変化であるという意見の持ち主でした。そのため何をするにしても、外面的な実践にひときわ注意を払ってきました。自分の実践が正しいかどうかだけに気をつけ、外面的な行動と実践が適切でありさえすれば大丈夫だと思っていました。刈り込みを受けたときも、自分の実践に間違ったところがなかったかどうかだけを気にかけ、自分の実践の間違いが証明されて初めて納得しました。自分の堕落した本性を認識することについては、それ以上の交わりを受け入れなかったのです。しかし、後に兄弟姉妹から、人は自分の本性を知ることでのみその性質を変えられるけれど、あなたは自分の本性がわかっていないと言われました。兄弟姉妹のその言葉を聞いてからというもの、私は自分の本性を認識するよう努め始めました。誰かが「そのように自分を誇示するのは、あなたが傲慢さという本性に支配されていることを示している」と言えば、「ええ、私は傲慢です。私の本性は傲慢なのです」と答え、別の誰かが「その型破りで気ままな行動は、あなたの邪悪な人間の本性に支配されている」と言えば、「ああ、私の邪悪な本性」とそのまま繰り返しました。それぞれの行動が自分のどの本性に支配されているかをオウム返しに言いさえすれば、自分の本性を知るのは難しくないと思っていたのです。誰かに「その行動はどの本性に支配されたものか」と訊かれたら、「傲慢、邪悪、悪意、ずる賢さ……」と答えるのです。こうした問いかけと返事は空欄を埋めるようなもので、とても簡単に思えました。しかし結局は兄弟姉妹に、あなたは自分の本性を表面的にしか知らないと言われました。そこで、後に自分を認識することについて話した際、「私は余りに傲慢で、際限がありません。私は余りに邪悪で、余りに悪意があります」と言いました。以前の認識に「余りに」という言葉を付け足せば、自分の認識が深まるだろうと思ったのです。私は自分の本性を認識せよという、神の人に対するご要求の意味がわかっておらず、ゆえに自分が堕落をあらわしたときや、人間の本性を暴く神の御言葉を見たときは、規則に従うという観点からしか理解しませんでした。本当に理解して心から知るのでなく、自己認識についての言葉を繰り返すだけの私は、ほとんどオウムのようでした。自分を憎まず、それがいかに危険なことかもわからなかったのです。神の厳しい御言葉を聞いても衝撃を受けず、それどころか気にもなりませんでした。そのため、私の性質は少しも変わらなかったのです。たとえ私が愚かで感覚がなく、素質が劣っていても、神は私を見捨てられず、代わりにいつも私の先に立って私を啓き、私が自分の本性と実質を知り、自分の性質を変化させる道を見つけるよう導いてくださるのです。

 

 

   数日前、私はある兄弟と新しいホストファミリー宅へ引っ越しました。引っ越し後にホストファミリーの年配の姉妹と話した際、その姉妹は以前に迎え入れた兄弟姉妹がいかに堕落を露呈していたかについて語りました。また、その人たちに対する自分自身の考えも話しました。その話を聞いても、私は反応することも心に留めることもせず、その姉妹と真理について交わることもしませんでした。そのようにして時間が過ぎていきました。数日後、私たちと本分を尽くしていた別の兄弟二人が訪れ、数日間そこに滞在しました。その兄弟たちが去った後、姉妹は彼らについての考えを話しましたが、その瞬間、私の心が姉妹に対してこう反応しました。「あなたが言ったことの大半は事実に当てはまらない。すべてあなたの疑いだ。兄弟姉妹が互いに愛し助け合うよう、神は求めておられる。私は真理を実践し、正直であることの真理をあなたと語り合わなければならない」私たちが語り合った二日後、姉妹は私のところに来て、私の言ったどの文章が、そして私のしたどの行為が自分を束縛していたかを告げました。そしてすべての思いを吐き出して泣きました。それを見て、私はこう思いました。「あなたは誰に対しても強い疑いを抱いているが、今度も私を疑っている。それは良くない。あなたが私に偏見をもたないよう、ここではっきり話し合う必要がある」そこで私はその姉妹と率直に話し、彼女が見せた本性と、人を疑って決めつける振る舞いを指摘しました。姉妹はそれを受け入れたように見えましたが、内心では納得していませんでした。それからの日々、姉妹はあれやこれやの病気にかかっていると言いました。それを見て、私はこう思いました。「あなたは内心納得せず、代わりに受け入れる振りをしている。これは偽りであり、欺瞞ではないのか。病気のときに学ぶべき教訓がある。あなたは立て続けに病気になったのだから、反省すべきだ」そう考えていると、私は新たな「重荷」を背負うことになり、再び姉妹と話し合ったうえ、反省して自分を知るようにと言いました。しかし話し合いのさなか、姉妹の顔色は優れず、私の言葉を受け入れる振りさえしませんでした。私は非常に驚き、こう思いました。「こちらがこんなに気遣って手助けし、何度も繰り返し語り合ったのに、あなたは受け入れようとせず、私を疑ってすらいる。あなたは非常に不正直な人だ。あなたが真理を受け入れないなら、他の誰があなたを助けられようか。もういい、私には何もできない。あとはあなた次第だ」私はその姉妹があまりにずる賢いと思い、一切の非難と責任を彼女に押しつけました。つまり、自分こそが真理を実践し、進んで兄弟姉妹を助け、神の御心に配慮するよき兄弟だと信じていたのです。このように、私はこの姉妹に対する思い込みでいっぱいになり、彼女も私の言うことをそれ以上聞かなくなりました。

   私はこのジレンマに直面して自省せざるを得ませんでした。「自分は間違っているのか。姉妹の欠点を見て、思いやって手助けしたのは間違っていなかった。神に頼らなかったのがいけなかったのか。いや、私はあの姉妹と交わる前に毎回神に祈った。自分の実践においても何ら間違ったことはしなかったし、過去に他人を手助けしたときはこんな深刻な状況には陥らなかった。だから、問題はきっとあの姉妹にあり、それは彼女が純真ではないからだ」しかし、こう考えていくと問題があるように感じられました。特に、姉妹が病気で悩んでいるのを見て後ろめたく思いました。私は心の底から姉妹を助けたいと思いましたが、どう協力したらいいのかわかりませんでした。私は神の御前に出向き、その助けを求めるしかありませんでした。そして次の神の御言葉を読みました。「あなたの唇は鳩より優しいが、あなたの心は古代の蛇より悪意がある。あなたの唇はレバノンの女性ほど美しいが、あなたの心はレバノンの女性ほど優しくはなく、カナン人の美しさの比較対象になどならないことは言うまでもない。あなたの心はあまりに欺きに満ちている。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは人格が卑しすぎる」より)この神の御言葉は即座に私の心を打ち、最近自分がしたことや、その背後にある思いを反省せずにはいられませんでした。あの姉妹が他の兄弟姉妹を批判するのを聞いたとき、私は自分には関係ないし、それで自分が困ることはないと思い、反応しませんでした。しかし、私が知っている兄弟二人について偏見を口にしたときは、彼女が誤解しているかもしれないと思ってすぐに話をしました。また、私のそれまでの言動に対する姉妹の考えを聞いたときは、私について他にも思い込みがあるかもしれないと思い、特に注意して話をしました。私は思いやりをもって兄弟姉妹を手助けしていると言いながら、実際は真理でもって他人を納得させ、打ち負かし、口をつぐませ、私を批判して私の利益を侵害させないようにしたかったのです。自分の振る舞いを考えると、それは思いやりではありませんでした。そこに愛の本質などどうしてありえるでしょうか。振り返ってみると、私は最初からあの姉妹に思いやりも配慮も示していませんでした。私の本性はなんと悪意に満ちていたのでしょう。彼女は神の家族に加わったときから自宅を宿として提供しており、一度も不平を漏らしたことがありません。普段、彼女は集会や交わりに参加していなかったので、いのちの経験は浅いままでした。しかし、空いた時間を見つけては進んで神の御言葉を追求し、それを読みました。真理についてもはっきりわかっていなかったので、陰で兄弟姉妹を判断したりその欠点を述べたりすることを、彼らのために負担を背負うことだと考えていました。兄弟姉妹を疑うことを、率直に話すことと勘違いしていただけなのです。何が疑いで何が誇張かまったくわかっていなかったのに、私はその姉妹に対して何の配慮も示しませんでした。彼女の霊的身丈を無視して、自分の利益に関わる限り見境なく反撃し、自分を知るよう彼女に強要しました。私にはなんと理知が欠けていたことでしょう。他人に私の批判を許さないのはなぜでしょう。たとえ他人が口に出さなくても、私の生き方はサタンのそれと同じではないでしょうか。私がしたことはすべて自分のためであり、自分を守るためでした。自分の利益が侵されない限り、他人のことなど構いませんでした。他人の弱さに配慮を示さず、他人が私の話に耐えられたか、私の話が負の効果をもたらしたかなどとは考えませんでした。私の生き方はサタンの堕落した性質に影響されていました。私が人々にもたらしたのは危害と攻撃でした。どうして他人がそれを我慢できるでしょう。私の言動は神に嫌悪を抱かせ、聖霊に私への働きをやめさせました。私の話がどうして効果的であるでしょうか。

   神はこうおっしゃいました。「自分の言葉や行動により自分のほんとうの顔を表すことは、誰にでも出来る。このほんとうの顔がもちろんその者の本性である。もしあなたが、たいへん回りくどい話し方をする者であるならば、あなたには、ひねくれた本性がある。あなたの本性がとても狡猾であるならば、あなたの手口は極めて巧妙で狡賢く、人々をあなたによってとても欺されやすくする。あなたの本性が極めて陰険であれば、あなたの言葉は聞いていて心地良いかもしれないが、あなたの行動はその陰険なやり方を覆い隠すことは出来ない。あなたの本性がとても怠惰である場合、あなたの言う事は、すべて自分のいい加減な性格や怠惰さに対する非難や責任を逃れることばかりを意図とし、あなたの行動は非常に遅く、おざなりで、真実を隠すことにたいへん優れている。あなたの本性が非常に同情的である場合、あなたの言葉は合理的であり、行動もまた真理にたいへん良く則しているであろう。あなたの本性が非常に忠実である場合、あなたの言葉は誠実であり、あなたの行動のしかたは堅実であり、あなたの主人が不信感を抱くようなことはないにちがいない。あなたの本性が極めて好色あるいは金銭に貪欲であれば、あなたの心はいつもそれらのことで一杯であり、無意識のうちに常軌を逸した不道徳的な行動をとり、そのために人々はそれをどうしても忘れることができず、さらには、ひどい嫌悪感を抱くであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(1)」より)人がどのように自分自身を露わにするか、自分の人生をどう生きるかは、その人の本性に支配されるのだと、私は神の御言葉の中で悟りました。内なる本性がどのようなものかによって、外にあらわれる性質がどのようなものかも必然的に決まるのです。もし内側に何か邪悪なものがあれば、行動は邪悪な本性に支配され、決して慈愛を示すことはないでしょう。あの年配の姉妹と話す動機が間違っていた際、私の内側を支配したのは神でも真理でも肯定的な事柄でもなく、サタンでした。私の生き方はサタンの姿そのものでした。ゆえに、私の話は他人に恩恵をもたらさなかったのです。過去にこうした事態に遭遇したならば、外面的な実践に集中したことでしょう。自分は教会を率いていないし、他人と交わるのが上手でないと思い、自分が悪くないことを証明する理由をいくつも探したことでしょう。今日初めて、外面的な実践は決定的な役目を果たさず、むしろ心が正しいかどうか次第だということに気づきました。内なる本質を見つめることは大切です。例えば、他の人を本当に愛しているならば、その人が何を好むかを心の目で見て注意を払い、最後は自分の愛を告白して、その人に愛を感じてもらうでしょう。兄弟姉妹を心の中で愛しているなら、私はもっと注意を払い、彼らの問題にもっと共感を示し、彼らの気持ちにもっと配慮し、正しい行動を取り、適切な言葉と口調で話し合ったでしょう。たとえ他人の問題を解決しなかったとしても、危害はもたらさなかったはずです。私の内側には愛がまったくないので、たとえ外面的な実践が善良で正しくても、私があらわすものは悪意です。神は人類を愛していらっしゃるので、何をなさろうとも、そこには愛のあらわれがあります。神はこうおっしゃいました。「神がこれらのことを言う目的は人々を変え、救うためです。このように話すことによってのみ、神は最善の成果を達成できます。あなたは、神の思いやりのある意図は徹頭徹尾人々を救うためで、それが具現化するものは神の愛です。神の働きにおける知恵の観点から見るか、神の働きの段階や様式の観点から見るか、あるいは神の働きの期間や神の精密な采配と計画の観点から見るかにかかわらず——それはすべて神の愛を具現化します。例えば、誰にでも息子たちや娘たちに対する愛があり、子供たちに正しい道を歩かせるために、人々はみな大きな努力をします。子供たちの弱点を見つけると、穏やかに話せば子供たちは聞こうとせず、変われないだろうと心配し、厳しく話しすぎると、子供たちの自尊心を傷つけ、子供たちは耐えられないだろうと心配します。それゆえ、これはすべて愛の影響下で行われ、多大な努力が費やされます。息子と娘であるあなた方は親の愛を経験したかもしれません。優しさと配慮が愛であるだけでなく、厳格な懲らしめが愛であるのはなおさらです。神は特に人類に対する愛の影響を受け、愛の前提条件の影響を受けます。それゆえ神は堕落した人々を救うために全力を尽くします。神は人々をおざなりに扱わず、むしろその段階に基づいて精密な計画を立てます。時間、場所、声の様子、話し方、そして発揮される努力の大きさについては…、それすべては神の愛を表し、人類に対する神の愛は無限で計り知れないことを十分に説明すると言えます。そして、効力者の試練の只中にあるとき、多くの人々は反抗的な言葉を言い、彼らは苦情を発します。しかし、神はこれらのことについて口論せず、これのために人々を罰しません。神は人々を愛しているので、すべてを許します。もし愛の代わりに憎しみだけが神にあるなら、神は早い時期に人々を断罪したでしょう。神には愛があり、神は口論せず、しかし神は容認し、人々の困難を観察できます。これは、完全に愛の影響下ですべてを行っていることです。」(『キリストの言葉の記録』の「神の人類への愛を理解していますか」より)神の本質は愛なので、神のあらわれもまた愛です。人間に対する神の愛は言葉に表されませんが、実際にはその働きに、その働きの各段階に、その働き方に具現化されています。神が各人にいつ、どのように働くか、その人にどのような人物、物事、出来事を采配するか、そしてどのくらい長くその人を精錬するかは、すべて神の緻密な計画と血のにじむような努力を反映しています。神の実践的な働きのすべてにより、人類に対する神の純粋な愛が例外なく浸透します。神は人間をこよなく愛していらっしゃるので、血のにじむような努力を残らず費やして私たちをお救いになり、私たちの誤解と抵抗に耐え、私たちの愚かさと無知を我慢してお赦しになります。これらのすべてによって、神の偉大さと気高さがわかります。それに比べて、私は醜く卑しいサタン的性質を生きてきました。そのすべてを認識した私は、自分の心の内にある悪しきものを率直にあの姉妹に打ち明けました。そして、私たちの間の疎外感はいつの間にかなくなったのです。心の底から神に感謝します。神に栄光あれ。

   以前、私の自己認識は言葉にとどまっていました。それは決まった手順で学んだ知識であり、神の御言葉の暴露によって自分の本性を認識することはなかったのです。しかし今日、私はその経験のおかげで理解しています。ひとたびサタンによって堕落させられると、その人の本性はサタンの本性となります。言動にせよ思考にせよ、すべて人間の本性に支配されるのです。自分の本性を認識して初めて、自分の堕落した性質に取り組み、それを徐々に変えることができます。自分の本性をまったく認識していなければ、いつの間にかサタンの本性の支配に苦しみ、神に反抗して抵抗することしかできません。そして言うまでもなく、自分の性質を変えることなど不可能です。これから私は、外面的な実践に注意を払い過ぎるという過去の間違ったやり方を改めます。外面的な実践のことで騒ぎ立てないようにし、規則に従うことを自分の本性を知る基礎とはしません。自分の性質をできる限り早く変えて神に救っていただくよう、神の御言葉の啓示を通じて神の裁きと刑罰を正直に、また誠実に受け、自分の本性を知り、それを認識していきます。


マタイによる福音書24:23-24説教:真のキリストと偽キリストの見分け方

2020-08-12 23:26:21 | 勝利者の証し

   今、あらゆる種類の災害が発生し、主の到来に関する聖書の預言の大部分が実現しています。多くの兄弟姉妹は、心の中で主はすでに再来したのではないかと感じ、皆が主を探していますが、聖書のこの節を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」(マタイによる福音書 24:23-24)。そういう人は、誰かが主が再来したと証ししても、その主張を求めたり、調べたりせずに、宗教界に従い、「主が肉となって帰ってきたと説くメッセージはすべて偽物である」という観念に固執します。この場合、私たちは主の再来を迎えることができるのでしょうか。主イエスは、何度も再来を預言していたので、その言葉を主が肉となって再来したと説くメッセージはすべて偽物だという意味にとらえたとしたら、主の再来を否定することになるのではないでしょうか。そうなると、私たちは神に抵抗し、ひどい過ちを犯すことになります。主の再来を待つ時、受け身で警戒ばかりしてはいられません。そうすることで、主の再来を逃してしまうでしょう。主を迎えるためには、聖書に「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(マタイによる福音書 25:6)と書かれているように、積極的に神の声に耳を傾けなければなりません。「ヨハネの黙示録」も「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)、そして「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録 2:7)と予言しています。引き続き油断せず、神の声を聞くことに集中することが主の心意です。誰かが主が再来したと証しをした瞬間、積極的に主の声を求める賢い乙女にならなければなりません。このようにしてこそ、私たちは主を迎えることができるからです。もし偽キリストを警戒して、主が再来した時に扉を閉ざしてしまうばかりなら、窒息するのが怖くて何も食べられなくなるのと一緒ではないでしょうか。その時、私たちは愚かな処女のように、主を迎えることができず、見捨てられ、排除されてしまうでしょう。神の羊は神の声に耳を傾けます。本当に素質と識別力がある人は神の声に耳を傾け、真実を求め、真のキリストと偽キリストを見分けることができ、偽キリストに惑わされることはありません。ですから、今、私たちが何よりも理解すべきことは、真のキリストと偽キリストをどのように見分けるかということです。そうすることによってのみ、私たちは偽キリストの欺きから守られ、主の再来を迎えることができるのです。以下の交わりは、このような真理の側面に関係しています。

真のキリストと偽キリストを見分ける1つ目の方法:キリストを真理、道、いのちとして認識する

   真のキリストなのか偽キリストなのかを見分けるためには、その人が真理を表すことができるかどうか、人の救いの働きを為すことができるかどうかを見なければなりません。神は言います。「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」(「序文」『言葉は肉において現れる』)「受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、そのキリストは神の本質を有し、神の性質を有し、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからである。キリストを自称しながら神の働きを行なえない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、人の間で働きを行ない、それを完成させるにあたって神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は誰でも取って代われるものではなく、地上における神の働きを適切に引き受け、神の性質を表わし、神を十分に象徴し、人にいのちを与えられる肉体である。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストを自称しながら、キリストの本質を何ひとつ有していないからである。ゆえにわたしは、キリストの真偽は人が定められるものではなく、神自身が答えて決めるものだと言う。」(「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」『言葉は肉において現れる』)

  神の言葉は、受肉した神だけをキリストと呼ぶことができると明言しています。キリストは、肉において実現された神の霊、つまり、神が所有するものと神が何であるか、神の性質、神の知恵のすべてが肉において実現されたものです。キリストは神の本質を有し、真理を具現化した存在です。時と場所を問わず人間を牧し養うための真理を表すことができ、キリストだけが人類の贖いと救いの働きを行うことができます。これは紛れもない事実です。例えば、主イエスは肉となったキリストであり、時と場所を問わず真理を表すことができました。人に悔い改めの道をもたらし、人を律法の制約から解放しました。主はまた、私たちが人を愛し、赦す方法を理解するためにいくつか要求をしました。そして私たちの罪を負って十字架にはりつけられました。主イエスがしたすべての働きと、主イエスが語ったすべての言葉、そして人類に対する主イエスの愛とあわれみは、人間が成し遂げることのできなかったことであり、それらは完全に神の身分を表しています。

   一方、偽キリストは、本質的には悪霊であり悪魔です。偽キリストはまったく真理を有さず、ましてや真理を表すことができません。そのほとんどが、極めて傲慢で非合理です。偽キリストは、人が聖書の知識を崇拝していることを知っているので、これを利用して、聖書を誤解したり、文脈から外れた聖書の節を引用したり、人を欺くためにあらゆる種類の不条理な理論を並べたりしているのです。偽キリストの言葉は、人の性質に変化をもたらしたり、神を知ることを許さないだけでなく、人の精神を暗くして落ち込ませます。全人類が求め、調べられるように自分たちの言葉を公表することはなく、識別力のない一握りの人々をひそかに騙すことしかできません。したがって、真のキリストと偽キリストを見分けるためには、まずその本質を見分けなければなりません。神の本質を有するキリストだけが、人類を救い養うための真理を表すことができますが、神の本質がない者は、どんなに知識があっても、どんなに能力があっても、それができません。悪霊と悪魔は、真理を表し、人を救う働きを行うことができません。ただ人を騙して堕落させることしかできないのです。したがって、真のキリストと偽キリストを見分けるためには、キリストが真理であり、道であり、いのちであることを認識しなければならないことは明らかです。それはまさに、主イエスが言われた通りです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書 14:6)彼らは「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」(ヨハネの黙示録 14:4)。

真のキリストと偽キリストを見分ける2つ目の方法:神の働きは常に新しく、古びることなく、ご自身の働きを繰り返さない

   ご存知のとおり、神は常に新しく、古びることはなく、ご自身の働きを繰り返すことはありません。ですから、私たちはこの点に基づいて、真のキリストと偽キリストを区別することができます。まず、神の言葉の一節を読んでみましょう。「この時代に、しるしや不思議を起こし、悪霊を追い払い、病人を癒やし、多くの奇跡を起こせる人が現れて、またその人が再来したイエスであると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。……もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり病人を癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。それを理解しておきなさい。」(「今日の神の働きを知ること」『言葉は肉において現れる』)

   神の言葉から、神は常に新しく、古びることがなく、ご自身の働きを繰り返すことがないことがわかります。神は働きをするたびに、新しい時代を始め、古い時代を終わらせ、より新しく高い段階の働きをもたらします。例えば、ヤーウェ神は、律法と戒めを宣べ伝え、人のいのちを導くという律法の時代の働きを完成しました。主イエスが働きを行うために来られたとき、それまでの働きを繰り返すのではなく、律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始め、人を救い罪を赦す働きをしました。そのような働きをすることができたのは、神ご自身だけです。しかし、偽キリストは神の本質がないので、神の働きをする能力はなく、ましてや、新しい時代を始め、古い時代を終わらせる働きをすることができません。彼らにできることは、神の働きの跡をたどり、神の口調や言葉を真似して、神が過去にした働きを真似ることだけです。偽キリストは人を欺くために、簡単なしるしや不思議をいくつか見せ、神のふりをしています。さらに、偽キリストには何の権威もありません。彼らがどんなに主の真似をしようとしても、例えば5つのパンと2匹の魚で5千人を養ったり、ラザロを生き返らせたりするなど、主イエスが行ったようなしるしや不思議を起こすことはできません。このことが意味するのは、終わりの日の神は、主イエスが以前に行った働きを絶対に繰り返さないということであり、終わりの日に神の働きを真似て、簡単なしるしや不思議をいくつか見せ、病人を癒し、悪霊を追い出して人を欺く者は皆、キリストを装った悪霊、つまり偽キリストであることは間違いありません。こうした理由から、主イエスは次のような警告をしました。「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」(マタイによる福音書 24:24)。

   この交わりから、神のいのちの本質を有するのはキリストだけであり、キリストだけが真理を表し、人のいのちを養うことができるということがわかります。真理を愛し、真理を渇望する者が神の言葉に耳を傾けるとき、彼らは引き寄せられ、神の言葉によって征服されるのです。そのような人々は神に属し、神の声を理解し、キリストを神ご自身として認識することができます。例えば、ペテロ、ヨハネ、他の弟子たちは皆、主イエスの言葉の中で、主イエスがメシアの再来であることを認識して、一人ずつ主イエスに従うようになりました。全能神は今、終わりの日に来ました。そして、まず神の家から裁きの働きを行い、人類を救うためにすべての真理を表します。神の6000年に及ぶ経営の働きの奥義をすべて解き明かし、人間が堕落の事実を知って自分の性質を変える道を見出せるように、人間のサタン的な性質と本質を暴くのです。全能神はまた、神の言葉をどのように実践するか、正しい人間性をどのように生きるかなど多くのことを私たちに教えてくれます。これらすべてが永遠のいのちの道です。全能神によって行われる人類の救いの働きは、神ご自身の働きであり、次のような聖書の預言を正確に実現しています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12–13)。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである」(ヨハネによる福音書 12:47)。

   今、全能神が表した言葉の書「言葉は肉において現れる」は、世界中の真理を愛する人たちが追求し調査できるよう、オンラインで公開されています。神の出現を願う多くの人々は、全能神が表した言葉を読み、それが神の声であると認識し、それによって全能神が終わりの日に再来した主イエスであることを確信するようになりました。彼らは一人ずつ小羊の足跡を辿り、神の御座の前に戻ってきます。これは完全に神ご自身の働きの結果であり、イザヤ書2章2節にあるこの預言を完全に実現しています。「終りの日に次のことが起る。ヤーウェの家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき」。主を迎える際に不可欠なのは、明らかに、神の声に耳を傾けること、そしてキリストを真理であり、道であり、いのちであると認識することに集中することです。私たちは、どこかに神の言葉があると聞いたとき、あるいは誰かが主の再来を説いていると聞いたとき、それを追求し、調査しなければなりません。もし私たちが偽キリストに惑わされることを恐れて警戒を続け、あえて追求したり調べたりせず、全能神、すなわち終わりの日のキリストの救いを受け入れることを拒否するならば、あまりにも愚かではないでしょうか。そんなことをしたら、永遠に終わりの日の神の救いを失うことになるでしょう。