賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

やっと少しは人間らしく生き抜けるようになりました

2019-10-15 22:30:41 | 勝利者の証し

   私は次の神の御言葉を目にする度に厳しく罰せられている気分になります。「人類とはなんと残酷で残忍だろうか!狡猾で陰謀を企て、互いに争い、名声や富の為に争い会い、殺し合う――そのようなことは一体いつ終わるのだろうか。神は何十万の言葉を話したのに、誰も理解しなかった。彼らは自分たちの家族や、息子や娘たちのために、また自分たちの職業や将来、地位、虚栄心、金銭のために、また衣服や、食物、肉のために働いて来た――誰の行動が真に神のためなのだろうか。神のために行動している者たちにしても、神を知る者たちはほとんどいない。自分たちの利益のために行動していない人たちは一体何人いるだろうか。自分たちの地位を維持するために周りの人たちを圧迫も差別もしない人たちは何人いるだろうか。このように、神は数えきれないほど何度も力ずくで死の宣告を受け、数えきれないほど野蛮な裁判が神に有罪判決を下し、もう一度神を十字架に釘づけにした。……」(『言葉は肉において現れる』の「悪人は罰せられなければならない」より)私は自分が真理を求めていなかったこと、自分のパートナーと繰り返し競いながら本分を尽くそうとしていたこと、自分の評価と利益のために他者を抑圧したり、排斥したりしたこと、自分のいのちと神の家族の働きに損害を及ぼしていたことについて振り返ることがあります。神が私を救おうと多くの出来事をご用意してくださったにもかかわらず、私は感度が鈍っており、神の意図を完全に捉え損ねていました。しかし、神は止むことなく私を憐れみに思い、私を救ってくれました。そして、私は何度も繰り返し刑罰と裁きを受け、初めて目を覚まし、私達を救おうとする神の望みを理解し、評価と地位を追い求めることを止め、僅かながらも人間らしく振る舞えるようになりました。



   1999年、私は世の終わりにおける神の働きを受け入れました。当時、私の家族は兄弟姉妹を自宅で接待する本分を尽くしており、私は兄弟姉妹が上手に交流し、神の御言葉を使ってどんな質問にでも答えられている様子を見ました。私達は皆、彼らと関わりを持ちたいと思い、どの様な問題についても率直に話し合いました。私は、「いつか彼らの様になって、兄弟姉妹に囲まれながらこの人達の問題を解決することができたらきっと素晴らしいだろう」と思い、羨ましく思いました。これを目標に、私は教会で自分の本分を尽くし始めました。2007年には、神から引き上げられ、評価を受け、地域リーダーの本分を尽くすことになりました。私の兄弟姉妹は、私の働き対象者の状態が良くない場合や、彼ら自身が問題を抱えている場合、地域で問題がある場合等は私に報告してくれていました。私は働きは自分を中心に行われていて、長年働いてきた価値があったと感じました。これでやっと私は真理の交流を行い、兄弟姉妹がそれぞれ抱える問題の対応に協力できるようになったのです。仕事量は少し多かったものの、私は一生懸命働こうと思っていました。この地位を維持して、自分の虚栄心を満たすために、私は自分の本分を尽くす時は模範的に、肯定的な態度で取り組みました。リーダー達に割り当てられる仕事が何であれ、同労者達がそれを難しいと感じても、協力したがっていなくても、私は常に上手く対応していました。自分が困難を抱えていても、それを表面に出したりはせず、前向きに彼らに賛成していました。理解できないことがあっても、自分のリーダー達から称賛を得られるように理解できているふりをしていました。

   リーダー達に良く思われ、同労者達の中で目立ちたかった私は、この目標を実現させる方法を考え始めました。「一番楽に注目を引き寄せ、自分の能力を証明し、リーダー達の称賛を得られるのは福音の働きにおいてだ。福音の働きさえ上手くこなしていれば、他の働きをそれほど上手く行なっていなくても大した問題にはならないだろう。リーダー達は私を刈り込んだり、取り扱ったりすることはないだろう」と思いました。そして私は働きに取り掛かりました。福音の働きの取り組み方を変え、兄弟姉妹を辛抱強く指導するもの止めました。福音の働きにおける問題を報告する者がいれば、私はその者を刈り込む、または取り扱うようにしました。私は教会リーダー達に結果を出すようにプレッシャーをかけ、しつこく要求するようになりました。結果にがっかりした時は怒ってこう言いました。「どうしてこんなに少人数なんですか。この働きを失っても構わないのですか。来月これよりましな結果が出なければ、あなたを異動させます!」私は兄弟姉妹の霊的背丈を考慮していなければ、真理を用いて彼らの直面していた問題や困難を解決しようともしていませんでした。私は単に、自分の職務を維持する目的のためだけに彼らにプレッシャーをかけて、しつこく要求を課していたのです。結果は直ぐに伸び、私はそれを喜びました。結果が伸びたということは、私が同労者達の間で一番の成績を上げている1人であることを意味し、私はそういう自分に惚れ込む様になりました。その後すぐに、ある兄弟が私達の所に配属されてきました。彼はハンサムで、喋りと交流にとても長けていました。彼は数々の教会に足を運んでおり、兄弟姉妹は誰もが彼の交流を称賛していました。私はこれに動揺しました。「皆が彼の交流を称賛しているということは、私のは良くなかったということだろうか。あの兄弟はここに配属されてこなければよかったのに。」しかし、自分を彼と比べてみると、彼は本当に私よりも優れていました。それでも、私は諦める気はありませんでした。当時、私は評価と利益を気にしていましたが、教会の抱えていた様々な問題には興味がありませんでした。私は自分の服装、喋り方、振る舞い方を気にするようになりました。集会の場では、兄弟姉妹に尊敬されようとして、わざと自分の知恵を誇示するようになりました。時には、私と働くために配属されてきた兄弟を軽くあしらい、私達が交流をしていた人達がどの様な目で自分を見ているかを確認しようとまでしました。私は誤った状態に生きて、自分を救うことができませんでした。私は全てにおいて自分をあの兄弟と比較するようになり、聖霊の働きを完全に失っていたのです。それから間もなくして、私は異動となりました。この知らせを受けた時は、まるで心臓の中をナイフでかきまわされているの様に苦しいものでした。私の面目、地位、将来はどうなってしまうのでしょうか。神は私を裁き、刑罰を与えたにもかかわらず、私は自分の本性を全く解っていなかったのです。それとは逆に、私はリーダー達が別の場所で自分をどう評価するかについて気を揉んでいました。どんな顔で人と接すればいいのでしょうか。私のことを知ってる人達はどう思うでしょうか。サタンの罠にかかっていた私は、リーダーとして本分を尽くしたことを後悔したり、その職務を受けてさえいなければこんなことは決して起らなかったのにと不平を言い始めたのです……。考えれば考えるほど、苦しみが増していきました。神の刑罰を受ける中、私は睡眠不足となり、狂気じみたことを考えるようにもなりました。最終的には、精神が崩壊しそうになり、道の真ん中に横たわって車に轢かれてしまおうと考えたことも数回あったほどでした。この時、私は危険な状態にあり、その状態から自分を解放できなかった私は、神の前に立ち、こう祈りを捧げるしかありませんでした。「ああ、神様、私は今、サタンに騙され、ひどく苦しみながら暗闇の中で生きています。私は今日自分に起こったことを受け入れたくありません。私はあなたの刑罰と裁きから自由になりたいと思います。そして私は不平を言い、あなたを裏切ってしまいました。ああ、神様!どうか私の心をお守りください、私が自分を見つめ直し、理解できるようにしてください、どうか私に情けをお与えください。」この後、私は人の交流を読みました。「神は人に特別な優しさと引き上げを与えることがあります。この者達はリーダーや働き手に昇任し、重要な働きを与えられます。しかし、この者達は神の愛に応えようとしません。この者達はそれぞれの肉のため、地位、評価のために生き、自分達の証を立て、尊敬の念を得ようとしているのです。これらの行為を善行と言えるでしょうか。言えるわけがありません。この者達は神に安らぎをもたらす方法を理解しておらず、神の希望に対する配慮が全くありません。自分達を満足させることだけを求めているのです。この者達は神の御心を傷つけ、悪事のみを働き、神の御心をひどく、ひどすぎるほどに傷つけてしまうのです。神はこの者達が完全になれるようにと、リーダーや働き手に昇任させ、育くもうとします。しかし、この者達は神の希望を全く配慮せず、自分達のためだけに働くのです。神の証を立てるために働いたり、神に選ばれた人々がいのちに入れるように働いたりはしないのです。この者達は自分達の証を立てるために、自分達の利己的な目標を達成するために、神に選ばれた人々の中で地位を獲得するために働くのです。この者達は神に最も抵抗し、神の御心を最も傷つけます。これは神に対する裏切り行為です。人の言葉で表現すると、これは自分のために成された好意に感謝できていないということで、霊的な意味としては、神に抵抗する邪悪な者達ということになります。」(『いのちに入ることに関する交わりと説教II』の「善行を準備す重要な意義」より)この交流はまるで両刀の剣が私の心臓に突き刺さったかの様に辛く、私は厳しく罰せられた気分になりました。私がリーダーに昇任したのは、神の親切心であり、私を引き上げようとしてくださったからであり、それは私が完全になれるようにと、神がなされたことでした。しかし、私は神の意図に対し配慮が欠けており、神の愛に応じる必要があることも知らなかったのです。私は地位と評価のため、自分の証言をするために生きていました。そしてこの本性は神に抵抗し、神を裏切るというものでした。神は私が行なったこと全てを忌み嫌われたため、私の働きを中止させ、神の家族の内では神と真理が支配するのだということを示しました。私は以前求めていたものを振り返ってみました。私はリーダー達と良い関係を保っていれば自分の地位を維持できると思っていました。だからこそ、彼らに頭を下げて、言われること全てに賛成していました。それにもかかわらず、私は自分の兄弟姉妹に対しては厳しく、批判的でした。私はなんて卑劣だったのでしょう!私は地位のためなら何でもしていました。他の人達よりも目立ちたくて自分の兄弟姉妹を利用しようとしました。兄弟姉妹のいのちのために自分の責任を果たすことはありませんでした。私は自分の業務対象者が私を恐れて避ける様になり、心を打ち明けてくれなくなってしまう程にプレッシャーをかけ、しつこい要求をしていました。それでも、私は自省し、自分を見つめ直すことはありませんでした。神が私の元へあの兄弟を送ってくださったにもかかわらず、私はこの教訓を学ぶことに失敗しただけでなく、評価と利益のためにますます奮闘するようになり、自分の肉を露わにし、神には忌み嫌われ、聖霊の働きを失ってしまいました。私が異動となったのは、私に降りかかった神の義だったのです。私に対し実現しうる最高の裁きであり、最高の救いであり、神の偉大な愛だったのです。そうでなければ、私は無意識のうちにキリストの敵の道を歩み進んでいたことでしょう。神は私が罪深い道を歩むのを止めてくれました。私は、自分の追求していたそもそもの目的が間違っていたこと、そしてその問題の解決に集中していなかったことを深く後悔しました。その全てが今日における私の失敗につながったのです。当時、私は、自分の体験について次の讃美歌を歌う度にすすり泣き、涙が顔を流れ落ちました。「あなたの性質を犯した後、私は暗闇へ落ちて行き、サタンによる害を十分に実感しました。私は孤独さと無力さを感じ、自らの良心に非難され、死よりも辛い苦しみを味わいました。その時初めて、私は心にやましさがないことの幸福感を知りました。あなたの善良な意図を見抜けなかった私は、完全になる機会をいくつ無駄にしてきたのでしょう。私の全てを以てしても、あなたの御心を傷つけたおわびをすることはできません。ああ、神よ、実際の神よ、私は昔に戻ってやり直したいです。私の心が度の過ぎた欲望を秘めた状態で、どうして神と心を合わせることができるでしょうか。私は地位に付随する利益が欲しくてたまりません。こんな私が堕落しない訳がありません。私はあなたが望まれることに対して配慮が欠けておりました。あなたに対して消極的で、反抗的でした。あなたに仕えながら、抵抗したり、だましたりもしました。あなたの憐みを受けていなければ、今日私はここにはいないでしょう。私の犯した罪を考えると、死を以てしても私が救われることはないでしょう。私がこう息をしていられるのも、あなたの寛容さのおかげです。ああ、神よ、実際の神よ、私は、自分のためにあなたをこれほど苦しめてしまう様なことをすべきではありませんでした。あなたのいのちの御言葉が私の心に染みて感じます。私はあなたの説教から無限の力を授かり、挫折しても又奮闘することができます、いのちの価値と私を創造していただいた理由も分かりました。あなたから最後の要望を受ける時、私は逃げたりいたしません。私は実際の行動で、あなたが支払った代償の恩返しをしたいと思います。私は祝福を受けようとも、逆境に立たされようとも、見返りを求めることなく、あたなに満足していだたくこと、あなたに自分を捧げること、注意深くあなたに従うことだけを望みます」。(『子羊を従って新しい歌を歌おう』の「神の憐みに再生を授かりました」より)私のこの精錬は1年以上続き、生きたまま皮を剥がされているかのように辛く、生きるか死ぬかといった苦しみを受けたにもかかわらず、私は地位と将来性に対する自分の欲望が弱くなっていることが分かり、この精錬がどれだけ価値のあるものであったかを知りました。

   2012年に、働きの責任者である姉妹が、私とある兄弟をある特定の地域の除去・除名作業に配属しました。私はしばらくの間教会の働きをしていなかったため、理解に欠けている原則がいくつかありました。私は、教会内の問題と、除去・除名業務の本質に影響している問題は解決が若干困難であると感じました。しかしその兄弟は今まで続けて教会の働きをしてきていたので、私の欠けている部分をカバーしてくれると同時に、私が学ぶ必要のあった事を教えてくれました。これは神の愛だったのです。神は私に重荷を課しませんでした。この兄弟は私達の働きを報告し、物事の本質を判断する場合に、ほとんどの交流も行なっていました。私達の業務対象者と対面した時、最初に交流を始めるのもこの兄弟で、時間が経つにつれて私はまるでそこにいないかの様な状態になっていました。その時、私の中の何かが現れてきました。「一緒に働いている時、あなたは交流においては私より優れているけれど、福音の働きでは私の方が上です。どれだけ交流に長けているとしても、あなたには実践面で結果を出す必要があります。除去・除名業務は福音の働きの妨げになってはいけないと兄弟が言ってたではないですか。あなたは喋りまくって、いいところを見せようとしてるだけです。私達は別々に働いた方が無難だと思います。そうしたら、私の強みを発揮することもできます。私は無能ではありません。あなたは私が交流にはあまり優れていないと思っているかもしれませんが、実践的な働きでは私の方が優れています。とにかく、福音の働きは私の強みなんです。」その時、私達は働きの責任者であるあの姉妹から1通の手紙を受け取りました。実務上の理由で、私達は別々に働くことになり、それぞれが地域を1つずつ担当することになりました。私の担当地域における全ての働きの結果は、この兄弟の担当地域の結果ほど良くはありませんでしたが、それでも私は嬉しくて、「私には自分の才能を発揮できる場所ができた。結果がそれほど良くなかったことは気にしなくてもいい。それはこれから改善して、自分の能力を証明しいこう。」と思いました。あの兄弟と別に働くようになって以来、私は自分の仕事に専念するようになり、物事をまとめたり、業務指示について兄弟姉妹と話し合ったり、神の御言葉を彼らと交流するようにまでなりました。そして、状況は改善し始めました。その時、私は、「あの兄弟はどうしているだろう。私よりも良い結果を出しているのだろうか。」と思いました。そして本人に会い、自分は福音の働きで彼よりも良い成績を出していて、自分の方が人数を多く確保できていると知った時、私は密かに嬉しくなり、「私はついにあなたを超えました。何て誇らしいことなんだ。」と思いました。そして、丁度私が喜びに浸っていた時、聖霊が私を「あなたは神の栄光を盗んではいませんか。」と叱責しました。私の心は沈みました。そうです、福音の伝導は神に選ばれた人達全員の本分であり、責任です。しかし、私はそれを評価と利益を得るための手段として捉えていたのです。そして、私達がこの人達を確保することができたのは、私の兄弟姉妹の協力と神の祝福のおかげでした。私には自慢できることなど何もなかったのです。こう考えて思わず赤面しました。私はとても卑劣な人でした。神の神聖さはこのような堕落考えを抱くことを許しませんでした。私は自分の置かれた状況に気が付いた時、正気を取り戻せたことを神に感謝しました。私はもう評価と地位を求めることは止めました。それ以降、私は神の御言葉を読むことに集中するようになり、何らかの事態に直面すれば、それは神からのものとして受け入れるようにし、評価と地位を求める衝動を徐々に弱めていきました。私は自分が持つ神への愛と同労者達の持つ愛とを比較し、お互いの強みを生かし、お互いの弱みを補うようにしました。その後間もなく、私は他の本分を尽くすために昇任したのです。これには驚きましたが、神が私を引き上げてくださったのだと思いました。私は神に満足いただけるよう自分の能力でやり得る全てのことをしようと思いながら、この本分を大切にしました。

   2012年8月、私達の働きの責任者である姉妹と話しをした結果、彼女は私に他の地域で本分を尽くす様に任命しました。その時、私は前向きな姿勢で合意したのですが、私がそこを去る前に彼女は私に、「あの兄弟を送り込んであなたと一緒に働いてもらった方がいいわね。神の家族の働きにとってもその方が良いでしょう…….。」と言いました。彼女に意見を聞かれたので、「それで構いません。彼と一緒に働きます。」と答えました。その後、集会の場で彼と顔を合わせた時、彼は率直に、「私は姉妹達があなたを選んだことに納得していません。あなたは私ほど上手く交流できないくせに!」と言ってきました。この不作法な発言を聞いて、私は非常に動揺しました。この兄弟に対する偏見は振り払ったつもりでいましたが、この発言を聞いた私は、心の中で思わず、「これは本当に残念だ。彼と働くことに合意なんかしなければよかった。彼は私の欠陥を全部知っている。新しい配属部署に着いたら、新人としてもっと歓迎されるものだ。」と思っていました。しかしどうする事もできません。私は苦笑いをして平然を装いながら、「私は交流能力に長けていないかもしれないけど、私はあなたより優れているから最初に選ばれたんだ。信じたくなくても、見ていれば分かる!」と思いました。私達は新しい働きの場へと異動し、私達の本分に専念しました。最初に、業務対象者と対面した時、私は肉に背けるように、調和のとれたパートナーシップを築くために自分を抑制できるようにと祈りを捧げました。私は彼がこの人達とそれぞれの状態について会話しているのを注意深く聞いて、彼のために祈りを捧げました。福音の働きの際は、私が彼らと会話しました。しばらく経った後、私は彼の方が自分よりも分かりやすく会話できていることに気が付きました。業務対象者との集会の際、私は交流の最中は一言も喋りたくなくなってしまいました。私はこの集会が早く終わって欲しくて、どこかへ行ってしまいたくなりました。当時、私達は広い範囲を担当していたので、「別々に働けば、そんなに嫌な思いをしなくて済むだろう」という考えが頭に浮かびました。これを兄弟に打ち明けたところ、彼はこう言って賛成しました。「この地域は広いから仕事が難しい。手分けしても問題ないだろう。」私が業務対象者と単独で対面した時、私は長々と喋り、会話したり、取りまとめたりして、彼らの大きな「重荷」を背負うことができたのです。直ぐに、私は自分の担当業務全てにおいて結果を出すことができました。一方、兄弟はそれほどの好成績を出してはいませんでした。私は自分の知ったことではないと言わんばかりに、何の対応もしませんでした。集会で、私達のリーダーは私達が別々に働いていたことを知り、私達の働きにおける責任と調和のとれたパートナーシップの真理について話をしてくれました。私はこれを受け入れ、別々に働くのを止めても構わなかったのですが、私達はお互いに自分の方が仕事を良く分かっているという口実を使いながら、別々に働き続けました。リーダーから批判されることを恐れた私は、兄弟の担当地域に行って、彼の業務対象者と話をしようともしましたが、自分の担当地域外に足を踏み入れているような気がしてなりませんでした。また、私が上手に交流すれば、それが兄弟の手柄になってしまうように思えました。なので私は、働いているふりだけをして、管理業務があると言い訳をしながら急いでその場を後にしました。兄弟は依然として結果を出せていませんでしたが、私は自分を責めたり、不安に感じたりもしませんでした。私は神を全く畏れておらず、リーダーからの連絡を何度か無視することまでありました。この状況は私達が業務報告書を提出する時期まで続き、それを見た時、私は唖然としました。私の担当地域では多くの人を得ることができていたのですが、私達の担当地域両方を合計した数がとても低かったのです。さすがにこの時は、私も不安になりました。私は自分の能力を示そうと、自分がどれだけ効果的に仕事ができるか、そして自分が福音の働きでは彼より優れていることを示そうとしました。しかし彼の担当地域では、福音の働きが休止してしまいそうな状態にあり、それはどういう状況でも起こしてはいけないと兄弟が言っていました。私は神の御心が現実化されるのを邪魔する障害となっていたのです。私は、この事態の根本原因を見つけ出すために神の御言葉に目を向けざるを得なくなりました。そこで私は神の次の御言葉を目にしました。

   「各自が奉仕する者として、自分が成すあらゆる事で、自己の利益を考えるのではなく、教会の益を守ることができなければならない。互いに密かに攻撃し合い、自分ひとりで行動するようなことは受け入れられない。このように行動する人々は、神への奉仕に相応しくない。このような人の性質はあまりにひどい。人間性のかけらも残っていない。100%サタンである。けだものである。今でさえ、あなた方の間でこのようなことが起こっている。交わりの最中にお互いを攻撃し、意図的にもっともらしい言い訳を探し、顔を真っ赤にして些細なことで言い争う。どちらの者も引こうとしない。お互い相手に心中を隠し、ひたすら相手を観察し、身構えている。このような性質が神への奉仕に相応しいだろうか。あなた方のこのような働きが兄弟姉妹への施しとなり得るだろうか。あなた方は正しいいのちの道に人々を導くことができないだけではなく、実際には兄弟姉妹に自分の堕落した性質を注ぎ込んでいる。あなたは他者を傷つけていないか。あなた方の良心はあまりにひどく、心底腐っている。現実において成長しておらず、真理を実践していない。更に、恥も外聞もなく他の人々に悪魔のような性質を晒しているあなたは、まさに恥知らずである。あなた方に兄弟姉妹を任せているのに、あなた方は彼らを地獄に連れていくのだ。あなたは良心が腐った人間ではないのか。本当に恥知らずである。」(『言葉は肉において現れる』の「イスラエルの民のように神に仕える」より)神の厳しい御言葉が私の本性を明らかにし、私は恥ずかしい思いをしました。私があの本分を尽くすことができたのは神による引き上げと、神の優しさがあったおかげで、神は兄弟姉妹を神の元へ導くことを私に任せていました。それにもかかわらず、私は实际に入らず、真理を実践せず、評価と地位のために神の家族にとって大切なことを無視していたのです。私は1人で働きながら、あからさまに、そして秘かに兄弟と争っていました。今こそ、福音を伝道する時です。神はそれを心から求める人達がすぐにでも神の家族の元に戻ってくることを望んでいます。しかし、私は自分の責任を逃れ、神を愛さず、神の最も切なる希望も配慮せず、真の道を求める人達を神の元へ導いてもいませんでした。私は人々を助けるためではなく、自分の能力を示すために評価や地位といったつまらないものを追い求めていました。私は兄弟が私から遅れを取ることを期待して自分達の仕事における問題を明らかにせずにいました。私はこの兄弟が仕事で自分より優れていた部分があったことを羨望したり、それを無視することすらありました。私は自分を誇示をしたり、自慢したり、兄弟を小さく見せるためのゲームの様に仕事を扱っていたのです。私はあまりにも邪悪で、人間性に欠けていました。神は私の様な人を嫌悪します。私は自らを変えずにどうして神に仕えることができるでしょうか。自分が实际に入れていないのに、どうして兄弟姉妹を神の元へ導くことができるでしょうか。私は泣きながら、神に祈りを捧げました。「ああ、神様!私は間違っていました。これら全ては私の反抗的行為でした。私はあなたの希望を配慮することができず、自分の能力を証明するために兄弟と争い、彼を倒すために自分の良心を無視し、結果的に自分の責任を果たすことができていませんでした。そして、今、福音の働きに支障が起き、私はあなたの前で罪を犯してしまいました。しかし、私はこれを悔い改め、自分を変え、兄弟と共に仲良く働き、福音の働きをより活発にしていくことを望んでいます。もし私が、又しても地位を得ようとすることがあれば、罰をお与えください。どうか私を監視してください、アーメン!」この祈りを捧げた後、私はバスに乗って兄弟の所へ行きました。私は彼と率直に話し合い、自分が神の前で反抗的に振る舞っていたこと、そして自分を良くしていくつもりであることを認めました。私達はそれぞれの見解についても話し合いました。その後、私達は一丸となって神と共に協力し合い、見落としていたことや過失を探し、私自身が収めた成功の経験をまとめ上げ、業務指示に厳密に従いながら私達の仕事上の欠陥を改善しようと取り組み始めました。私達の福音の働きはすぐに改善しました。この経験より、私は神の義なる性情を見ることができました。神の神聖さは、私の内にいかなる腐敗や堕落があることも許しません。私がサタンに欺かれ、自分を救うことが出来なかった時、神は救いの手を指し伸ばし、死にかけていた私を引き戻し、サタンの支配から解放し、私を変えさせてくださいました。私は真理を求め、これ以上反抗せずに、神が私にお任せになる事すべてにおいて完全に忠実でありたいと思います。

   私は神の次の御言葉を目にしました。「あなた方が他の者たちとともに奉仕している中で、あなた方の中の一人でも、『真理のこの側面について、あなたの話が聞きたい。なぜなら、私にははっきりわかっていないから。』とか、『あなたはこの件に関して私より経験豊富です。私になにかアドバイスをいただけませんか』などということは稀であるが、そのようにできれば良いのではないか。他の者たちよりも上の地位にあるあなた方は、多くの真理に触れ、奉仕に関して多くを知っている。教会で協力して働くあなた方がお互いから学び、意思疎通を計り、お互いの欠点を補い合わなければ、どこから学ぶというのだろうか。何か事が起きたならば、お互いに交わり、いのちの益となるものを得るようにすべきである。そしてどのような決定を下す際にも慎重にし、事前に良く話し合うべきである。このようにして初めて、形だけのものではなく、きちんと教会に対する責任を果たせるのである。あちこちの教会を訪問した後は、一同が集まり、気づいた全事項、仕事で遭遇した問題について語り合い、自分が受けた啓きと照らしを分かち合うべきである。このように実践することは奉仕する上で必要不可欠なことである。あなた方は神の働きを目的として、教会の益のために、そして兄弟姉妹を励まして前進させるために、調和をもって協力しなければならない。あなたは相手と協力し、相手もあなたと協力し、互いに誤りを正し、働きが更に良い結果をもたらすようにし、そのようにして神の旨に配慮すべきである。そうすることのみが真の協力であり、このような人々のみが真に霊的に成長することができる。」(『言葉は肉において現れる』の「イスラエルの民のように神に仕える」より)私は、神の御言葉中に、真理に入ることを実践する方法を見い出し、他者と共に神に仕える方法を見出しました。私は、「皆がそれぞれに強みを持ち、神は皆が神の家族の働きにおいてそれぞれの強みを発揮することを望んでいる。そうすることで皆の弱みを補うことができる」という神の希望を理解することができました。あの兄弟と働くことは正に私が必要としていたことでした。私の弱みは真理について語ることにありました。だからこそ、彼の強みを以て私の弱みを補えるよう、神の愛が私と彼とを連携させてくださったのです。しかし、私にはこれが見えていませんでした。兄弟と一緒に働いていた時に、何か分からないことがあっても、私は彼の助けを求めることができませんでした。彼が私と話しをしようとしても、話を聞きたくない時もありました。私は自分のいのちと福音の働きに支障をきたしながら彼とこの地位を争い合っていました。その後、私は理解できないことや、はっきりと分からないことがあれば、「この真理の意味がはっきりしないのですが、これについて一緒に話し合ってもらえますか。」と彼に相談し、真理のこの部分に入ることを実践するようになりました。自分の働きで難しい事があった時も、「これが良く分からないのですが、アドバイスをもらえませんか。」と相談に乗ってもらうようになりました。それ以来、私達は教会に足を運んだ時はお互いから学び、お互いを補い合うようになりました。そして、問題に直面した時は、一緒に話し合い、一丸となって神の御言葉を見つけ、教会の問題解決に取り組みました。私達は霊的なレベルでパートナーとなり、互いを受け入れ、互いのことを大切に思い、互いを理解し合いました。時には、意見の不一致がありますが、兄弟姉妹の命と、神の家族の働きにとって益となることであれば、互いに賛成することができました。面目を失ってしまう様な状況でも、自分達の希望は後回しにすることができるようになりました。私達は共に、幸せに働ける様になり、私達の働きは全ての面において改善を遂げました。

   私は、全能神が裁きと刑罰によって私を変えてくださったこと、そしてサタンの毒と害に気付かせてくださったことに感謝しています。今私は、適切なことを求め、人間らしく生き抜くことができるようになりました。私の内には依然として清めを必要とする堕落した部分が多く存在しおり、私は更なる裁きと刑罰を受ける必要がありますが、神の裁きと刑罰は人類にとって最高の救いであり、神が人類に対して持っておられる真の愛であることが分かりました。私はこういう経験をもっと積んで行きたいと思います。私は、これからの成長を通して、最終的に神に仕えるにふさわしい者になるまで、神の裁きと刑罰を受け続けられることを望んでいます。


霊の束縛を振りほどく

2019-10-09 08:39:40 | 勝利者の証し

   私は傷つきやすく、弱い人でした。神様を信じていなかった頃は、生活の中で起きる物事によく落ち込んだり、動揺したりしていました。こうなる時が頻繁にあり、人生は厳しいものだといつも感じ、私の心には語るべき喜びも幸福感もありませんでした。その痛みは私を絶えず縛り続ける足かせのようで、私はそのせいでまったく惨めでした。全能神を信じて初めて、神様の御言葉の中に問題の根源を見つけ、徐々に足かせからの自由を得ていったのです。

   

 

   私は次の全能神の御言葉を読みました。「人々は自己愛が強すぎるため、その全人生が苦悩に満ちた空虚なものになっている。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第四十六章」より)その時、自分の悲しみの原因が分かったような気がしました。私はあまりにも思い上がっていたのです。他人から少しばかり不快な言葉をかけられたり、横目でちらっと見られたりすることに対し、頻繁に動揺し、痛みを感じていました。取り扱われ、刈り込まれる時は、傷つけられ、悲しいと感じました。自尊心が傷つけられ、面目を失ったように感じたからです。私は人生のこれからの道について心配になりました……これらはすべて、自分の評判、地位、見栄、欲望、将来の終着点について気にしすぎていたことが原因ではなかったでしょうか。これまで、これらが明るみに出るのは、自分の心と頭が多くのことでいっぱいになっているからだとか、心が重いとか、面子を保つことは自分にとって大切なことだとか、自分は表面的な人間だとか考えるばかりで、入りの道という問題を解決してはいませんでした。これは、私があまりにも思い上がっており、サタンの苦しみの中で、それに拘束されながら生きていたということでしょうか。私は静かに心の中で答えを求めました。その後、『闇の権力から逃れよ。そうすればあなたは神のものとされる』という本をパラパラとめくっていると、神様からの次のような御言葉を目にしました。「解き放たれて居らず、何らかの物事により常に支配され、神に心を捧げられない者たちは、サタンに呪縛されたものであり、死の雰囲気の下で生きている。」それを読んで思いました。これこそまさに私の状態ではないか。きっとそうだと思いました。続いて、私は神様の御言葉をさらに読みました。「暗闇の影響から脱するためには、まず神に対して忠実であり、真理を追い求める熱意がなければならない。そうしてはじめて、あなたは正しい状態にあるであろう。正しい状態で生活することが、暗闇の影響から脱する前提条件である。正しい状態にないということは、あなたが神に忠実でないこと、真理を求める熱意が無いことを意味する。これでは、暗闇の影響から脱することは問題外である。人間が暗闇の影響から脱することは、わたしの言葉に基づいているのであって、もし人間がわたしの言葉に従って実践出来なかったなら、そうした人間は暗闇の影響の束縛から逃れることは出来ないであろう。正しい状態の中で生活するということは、神の言葉の導きのもとで生き、神に対して忠実な状態で生活し、神のために誠実に尽くす現実の中で生活し、神を真に愛する状態で生きることである。このような状態と現実の中で生活する者たちは、真理の中に一層深く入るにつれて、次第に変化するであろう。また彼らは、働きが深まるとともに変化して、最終的に神のものとなることは確実であり、神を真に愛するようになるであろう。」(『言葉は肉において現れる』より)これを読んで、私の心は明るくなりました。人間が自身を愛している時、神様と適切な関係をもつことは到底できず、真理を求める心もそれほど崇高なものにはなりません。つまるところ、その思い上がりによってサタンの支配下で暮らすようになり、自滅するのです。神様の御言葉による啓きのおかげで、私は自分の危険な状態に気づき、闇の勢力を打ち破る道があることを知りました。それはつまり、真理を求める心をもち、問題に遭遇したときは神様を仰いで頼り、神様の御言葉をもっと読み、神様の御言葉の中に実践の原則を求め、いつも神様に忠実であるということです。聖霊の働きを得る時、人間の中にある堕落は、真理への入りとともに変わってゆきます。しかし、私はこの側面を無視し、自分の腐敗した性質に自力で受動的に対処しようとするだけで、自分自身を変えるべく聖霊の働きに積極的に頼っていませんでした。自制が一時的にしか続かなかったのも納得できます。この状態を根本から変えていなかったのです。神様の御言葉にも次のように書かれています。「神の前にいればいるほど、神によって完全にされることはそれだけ容易になる。これが聖霊が働く道筋である。これが理解できないのであれば、正しい軌道に乗ることは不可能であり、神によって完全にされることは問題外である。…自らの過酷な働きだけがあり神の働きは一切ない状態に陥る。これはあなたの経験の何かが間違っているということではないのか。」(『言葉は肉において現れる』の「経験について」より)このことを理解してからというもの、私はより意識的にこの道に自分を置き、自身を捨て、自らの感情や考えに注意を払わなくなりました。その代わりに、神様の御言葉についてより考え、自分の行動において神様の御言葉に頼り、正しい状態で生きていけるようにするため、真理を求めることに心を捧げ、熱心に本分を尽くすようになりました。特定の実践においてまったく正しくない行動をしてしまうことも何度かありましたが、光の中で生きる解放感と自由を覚え、聖霊の働きを享受してきました。私は自分の堕落や欠点を認識できただけでなく、速やかにこれを変えようとする決意と、真理を実践する気力を得ることができました。私の外面も変わりました。意気消沈し、落ち込み、生気のない状態でいることはなくなり、心の中に生気と活力があるのです。また、より明るくなって、教会で暮らすことをとても幸せに感じるようになりました。

   もちろん、この方面での私の堕落はあまりに根深く、それらのことを数回実践するだけでサタンの影響を完全に断ち切ることは不可能です。しかし、神様は「闇の影響を断ち切り、光の中で生きる」ことの甘みを味わえるようにして下さり、このことが私の追求において気力と希望を与えてくれました。じっと神様と協調し、神様がお示しになった道を歩み続け、万事において真理を求め、神様の御言葉に即して生きる限り、私は霊の束縛を振り払い、闇の影響を断ち切り、神様のものとしていただくことでしょう。

 

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裁きは光

2019-10-02 22:54:36 | 勝利者の証し

   趙霞申します。私は一般家庭に生まれました。「野生のガチョウは声を残し、人は評判を残す」や、「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」などのことわざの影響により、評判や体面は私にとって、非常に重要なものでした。私がするすべてのことは、人々から称賛、賛辞、尊敬を得ることが目的でした。結婚後、私が自分に定めたゴールは次のようなものでした。私は他の人よりももっと豊かな生活をする。私の年配者への対応や、私の態度や行為について誰にも批判的なことは言わせない。子供を有名大学に入れ、将来有望にすることで、私の体面にさらに輝きを加える。そのため、私は義理の家族とは一切喧嘩をしたことがありませんでした。時に、彼らが私に厳しいことを言い、悲嘆に暮れる時は、私は反抗的な態度を取る代わりに、誰も見ていないところへ行き、泣きました。旧正月やその他の祭日のため、他の人が両親に洋服を買っているのを見ると、私も急いで義理の母親のために洋服、それも最高級の洋服を買いに行きました。親戚が訪ねてきた時は、食糧の買い出しや料理を手伝いました。それを行なうのが少し難しかったり、大変だったりした時も、心から喜んで行ないました。他人よりも裕福ではなくなることを恐れ、私は生後1ヶ月の娘を置いて、職場復帰しました。そのため、娘は母乳を飲むことができず、栄養失調に苦しみ、骨と皮だけになっていまいました。娘の状態は、100回栄養剤を注射しただけで回復しましたが、私は疲労がひどく、毎日背中に痛みを感じていました。状況は難しく、疲れを蓄積させるものでしたが、私は良い評判を得るために、この苦難に耐え、休みなく働きました。数年もすると、私は村で有名な嫁となり、家族は裕福になり、周りの人々に羨ましがられるようになりました。その結果、私の義理の家族、近所の人、親戚、そして友人は全員、私を褒め称えました。周りの人から賞賛や賛辞を受けて、私の虚栄心は大いに満たされました。私は過去数年の苦難は無駄ではなかったと感じ、心の中でほくそ笑みました。しかし、義理の弟が結婚すると、私の穏やかな生活が中断されました。彼の妻はいつも皮肉な調子で私に話し、私が義理の母を大切にするのは、彼女の財産を受け取りたいと言う隠された動機があるからだと言いました。彼女は、義理の母が彼女の家よりも私の家に多くの物を与え、えこひいきしていると年中言うため、私たちはよく口論をしていました。私はひどく悲嘆に暮れ、私の無実を示すため、公衆の面前で彼女と口論したいと思いましたが、それでは私が人々の心に築き上げた良いイメージが壊れていまいます。そのため、私は頑張って自分を抑制し、我慢しきれなくなると、誰も見ていない場所で大泣きしました。その後、義理の妹は調子に乗り、私の家族に分与された土地に住み始めました。これには、私は怒りに震え、何日も飲み食いできなくなりました。彼女とこれについて争いたいとさえ思いました。しかし、そんなことをすれば私の面目を潰し、私の評判に傷がつき、周囲の人が私を蔑むようになると考え、これをすべて飲み込むことにしました。しかし、心の中では、自分を抑えすぎたため、苦悩していました。私は、こんな人生がいつ終わってくれるかも知れず生きていくのはあまりにも辛く、疲れるとこだと感じながら、一日中浮かない顔をし、溜め息ばかりをついていました。

   人は苦しんでいる時こそ、神を見出す契機となります。私が苦しみ、無力感を感じていたその時、全能なる神が私に救いの手を差し伸べてくださいました。ある日、近所の人がこう聞いてきました。「神の存在を信じていますか。」私はこう答えました。「信じていない人がいるんですか。私は神の存在を信じています。」そして、この人は次のように続けました。彼女が信じる神は、宇宙と万物を創造した唯一本物の神であり、当初、人類は神を崇拝していたため、神の祝福を受けて暮らしていた。しかし、人がサタンにより腐敗させられると、神を崇拝しなくなったため、神の呪いを受け、痛みの中で生きるようになった。終わりの日の全能なる神は、人々に真理を授け、苦難の深淵から人々を救い出すために現れた、と。加えて、神を信じてきた彼女の経験についても話してくれました。彼女の話を聞き、私は、信頼できる親友を見つけたと感じ、心の痛みをすべて打ち明けずにはいられませんでした。その後、彼女は、私に神の言葉の一節を読んでくれました。「あなたが疲れているとき、この世の荒廃を感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見張る者はいつでも、あなたが来るのを抱擁して迎えるだろう。彼はあなたのそばで見守っている、あなたが引き返してくるのを待っている。あなたの記憶が突然回復する日を待っている――すなわち、あなたが神から来たという事実、ともかくもどこかで道を失った、道端で気を失った、それから知らずに一人の「父」ができたことが意識にのぼる日を。そして全能者がそこで待っていたということ、はじめからずっとあなたが返ってくることを待っていたということを、あなたが理解することを。」(『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より)神の言葉は、暖かい水の流れのように私の心に流れ込み、苦しく、悲しみに満ちていた心を慰めてくれました。私は涙が流れ落ちるのを止めることができませんでした。その瞬間、母の腕に突如として戻ったように迷子の子供になったように感じました。言いようのない興奮と感情が心の中に湧き上がりました。神が私を神の家に招いてくださったこと、行く場所をなくしていた私に思いやりを示してくださったことに何度も感謝しました。私は心と魂で神に従います!その後、毎日、神の言葉を読み、神に祈り、賛美歌を歌い、神を讃えました。歌は、特にこれは、私の心をリラックスさせました。ミーティングに出席する中で、教会の兄弟姉妹は、血の繋がりはなくとも大家族のようであることを目の当たりにしました。彼らの関係はシンプルかつオープンなもので、理解と寛容、そして忍耐に溢れ、他者に対する焼きもちや対立、悪巧み、建前、そして裏表がありませんでした。裕福なものに愛情を示す一方で、貧しいからと言って差別をするようなこともありませんでした。彼らは、すべての人を誠実かつ平等に扱うことができる人々でした。皆と一緒に神を讃える賛美歌を歌っていると、特に、心が自由になった気がしました。そのため、この愛情に溢れ、暖かく、公正で楽しい教会生活のすっかり虜になってしまいました。私は全能なる神が唯一真実の神であることに確信を持つようになり、最後の日まで神に従う決心をしました。

   神の言葉を読むことで、可能な限り人を救いたいという神の差し迫った願いを理解しました。また、多くの兄弟姉妹ができる限りを尽くして、神の国の福音を伝えようとしているのを見ました。そこで、私も福音を伝える仕事に積極的に参加するようになりました。神の終わりの日の働きは、人を救い、人を変えることが目的です。私を浄化し、変えるため、神は私の腐敗した本性に的を絞り、神の刑罰と審判を行なうと共に、繰り返し、思いやりを示し、救済してくださいました。ある時、私は神の信者になりそうな人の元へ福音を伝えに行きました。彼女がリーダータイプの人だと分かると、神と手を組み、何があろうと彼女を神の前に連れて行こうと決心しました。それは、農繁期でした。彼女は農作業でとても忙しくしていたので、私は彼女の隣で一緒に働きながら、神の終わりの日の働きについての証言を伝えました。3日間連続で彼女の所へ行き、同じように彼女に福音を伝えていると、彼女は神を受け入れるつもりがないばかりか、次のように私に怒鳴りました。「図々しい人だね!信じないって、言っただろう。なのに、説教を止めようとしない。」彼女の言葉が痛いところに突き刺さりました。私は、公衆の面前で何度もひっぱたかれたかのように顔がぼっと熱くなりました。心臓では鈍い痛みが次々に押し寄せています。次のように考えました。善意から、あなたに福音を説くためにここに来て、自分の背中が痛くなるまで自分をすり減らし、あなたの仕事を手伝ってきたのに、あなたは受け入れる代わりに、こんな風に私を扱うなんて、何と心のない人だ!私はひどい屈辱を感じ、もう彼女とは口を利きたくないと思いましたが、それは神の意志にそぐわないと感じ、心の中で静かに祈り、心の痛みを押し殺し、彼女の仕事を手伝いながら、説教を続けました。しかし、どんなに一生懸命彼女に伝えようとしても、彼女の心に訴えることはできませんでした。私は家に帰ると、空気を抜かれたゴムボールのように崩れ落ちました。彼女の言った言葉が何度も頭に浮かびました。それについて考えれば考えるほど、辛くなりました。私はなぜこんなことをしているのだろう。私の善意に対して私が受け取るものと言えば、嘲り、中傷、そして暴言のみ。これは本当にあまりにも不公平だ!こんな風に私を扱った人はいない。福音を伝えることはあまりにも辛く、困難だ!いや。私はもう福音を伝えるために出かけることはできない!このまま説教を続けていたら、私は誰にも顔を合わせることができなくなってしまう。あまりにも不当な扱いを受け、辛すぎるため、もう福音を伝えたくない。そう感じていたその時、神の言葉が私を啓きました。「あなたは自分の肩にある荷の重さ、使命、責任などを理解しているだろうか。あなたは歴史上での自分の使命感を持っているだろうか。…彼らはみじめで、哀れで、盲目で、途方に暮れ、そして暗闇の中で泣き叫んでいる。「どっちに行ったらいいのか」と。光が流星のように突然降りて来て、長年人々を圧迫してきた暗闇の力をまき散らしてくれることをどれほど彼らが待ち望んでいることか。どんなに切に望み、日夜どんなに思いこがれているか、誰が知ることができるだろうか。深く耐え忍んでいる人たちは暗闇の地下牢に閉じ込められたまま、光がひらめく日でさえも解放される望みはない。彼らが泣かない日がいつ来るだろうか。全く安息を与えられたことのないこれらのもろい霊はまことにそのような不幸をこうむっている。彼らは長い間無情なロープと凍ったままの歴史で封印をされてきた。誰が彼らの叫び声を聞いたことがあるだろうか。誰がそのみじめな顔つきを見たことがあるだろうか。神の心はどれほど深く悲しみ、心配しているかを考えたことがあるだろうか。神は自身の手で創った罪のない人類がそのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。何といっても、人類は毒された不幸な人たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者に長い間毒を盛られていたと誰が思っただろうか。あなたは自分も犠牲者であることを忘れてしまったのか。あなたの神への愛で、生き残った人たちを救うために喜んで努力しようと思わないだろうか。自分の肉と血のように人類を愛する神に恩返しするために全力で取り組みたいと思わないだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「将来の使命にどのように取り組むべきか」より)神の言葉のふしぶしに、無知な人々に対する神の懸念、心を悩ませる悲しみ、そして愛が示されていました。神はご自身の手で創造した人々がサタンにより嘲られたり、傷つけられたりするのを見るのが耐えられません。神はすぐにでも人が神の家に戻り、神が人に授けた偉大なる救済を受けるのを身が切られるような思いで待ちわびているのです。しかし、私が伝導しようとする相手からいくつかの厳しい言葉を浴びせられると、私は不当な扱いを受け、攻撃されたように感じ、この困難や苦しみについて不平を言っていました。私は自分の体面を失ったことから、神にはもう協力したくないとさえ思いました。私の良心と理性はどこへ行ったのでしょうか。終わりの日に私たち腐敗した人々を救うため、神は、繰り返し、政府からは追われ、避難され、宗教団体からは放棄され、非難され、冒涜され、中傷され、神の信者からは誤解され、抵抗されてきたのです。神が苦しんできた痛みと屈辱はあまりにも多く、あまりにも大きいものです!それでも、神は人を救うことを諦めず、静かに人の必要なものを供給し続けてきました。神の愛はあまりにも偉大です!神の本質はあまりにも美しく親切です!私の今日の困難は、神が人を救うために耐えてきた苦しみに比べれば何でもありません!私は、私自身も被害者であり、長年サタンに苦しめられてきた人間であることを思い出しました。神が私に救いの手を差し伸べてくださらなければ、私は未だに暗闇の中で、光や生きる希望を見つけられず、苦しげにもがいていたことでしょう。神の救いを受けた私は、屈辱や痛みに耐え、神と協力し、私の本分を正しく尽くし、未だにサタンに傷つけられている無知な人々を神の前に連れてくるため、最大の努力を尽くす必要があります。これは、世界中のどんな仕事よりも価値と意義があり、どれだけの苦しみに耐えなければならないとしても、やりがいのある仕事です。こう考えた時、私は福音を伝えることを辛いことだと考えなくなりました。代わりに、神の国の福音と連携できるなんて、何と幸運なことだろうと感じました。これは私の名誉であり、神を高めることでもありました。私の心は決まりました。福音の働きでどのような困難に遭遇したとしても、私のすべてを捧げ、神を必要としている、より多くの人を神の前に連れて行き、神の心を安心させよう、と。その後、私は、再び福音の働きに身を投じました。

   研修を一定期間受けた後、私の本分を尽くす中で、私にひどい態度をとったり、辛辣な言葉を投げかけてきたりする伝導相手に遭遇しても、正しい方法でこれに対処できるようになり、愛情を持って協力し続けることができました。このため、私は自分自身の変化を感じ、それほど体面やステータスについて気にならなくなりました。しかし、私が人生で必要としていたものに基づき私をテストしようと、神が別の環境を用意すると、再び、その状況をすべて経験することになりました。ある日、教会のリーダーが私に最近の調子をたずねてから、神の最近の意思と実践方法について私に伝えてきました。会話の中で、彼女が本分を尽くすために別の教会に移動になることが分かり、興奮せずにはいられませんでした。彼女が去った後、私は教会のリーダーになるかもしれない。そうしたら、私は本当に適切に協力できるはずだ!密かに幸せな気分でいると、その姉が、私の村にいる別の妹が明日来ることになっていると言いました。それを聞いて、私の心は激しく揺れ動きました。彼女は何のために来るのだろう。彼女が教会の新しいリーダーになるのだろうか。不安が大きくなるのを止めることができませんでした。彼女は私ほど長い間神を信じていない。しかも、彼女は私と同じ村の出身だ。彼女がリーダーになったら私の体面はどうなるのだろう。兄弟姉妹は私について何を思うだろう。彼らは、私が彼女ほど真理を求めていないと間違えなく言うだろう。私はそう考えずにはいられませんでした。夜には何度も寝返りを打ち、寝付くことができませんでした。次の日のミーティングでは、教会の新しいリーダーに誰が選ばれたかを絶対に聞き逃すまいとして、リーダーの言葉の調子や態度にじっと集中していました。彼女が話しながら私と目が合うと、自分がリーダーになれる希望を感じました。私の顔は喜びに満たされ、彼女が言うすべてのことに相槌を打ち、同意しました。一方、彼女が話しながら別の妹の方を見ると、彼女がリーダーに任命されるという確信を持ち、落ち込み、それにより、苦悩しました。それから数日、体面とステータスについてあまりにも悩んだため、不安になり、物事に集中できなくなりました。食欲がなくなり、まるで時が凍ってしまったかのように、時間が経つのが極めて遅いとさえ感じました。教会のリーダーは、私のこの状況を見て、私に神の言葉の次の一節を読むように言いました。「あなたがたは今や信者であり、この働きの段階に関する認識が多少ある。しかし依然として地位への欲望を脇に置いていない。あなたがたは自分の地位が高いと、しっかり追求するが、身分が低いと追求しなくなる。地位の祝福のことを常に考えている。」「あなたがたは現在の段階まで達したが、依然として地位を捨て去れないままであり、いつか地位がなくなり、名前が汚されるのではないかという強い恐怖を感じて、地位について調べ、観察しようと日々奮闘している。…あなたがたの追求がこのようなものであればあるほど、刈り入れる物は少なくなるであろう。ある人の地位に対する欲望が強ければ強いほど、それだけ深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値過ぎる。このような人は地位に対する欲望を完全に捨て去るため、適切な取り扱いと裁きを受ける必要がある。あなたがたが最後までこのようにして追求するならば、何も刈り入れないであろう。いのちを追求しない者は変化させされることは出来ない。真理を渇望しない者は、真理を得られない。あなたは自分の変化の追求といのちに入ることに重点を置かず、度を越した欲望や、神への愛を閉じ込め、あなたが神に近付くことを阻む物事に常に重点を置く。そのような物事があなたを変化させることが出来るであろうか。あなたを神の国へと導くことが出来るであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「なぜ引き立て役になる覚悟がないのか」より)神の言葉の1文1文が私の心を打ちました。神は私の後ろにいて、私の言動をすべて見ていると感じました。私は、ここ2日間の私の考えと行動を自省せざるを得ませんでした。私は、神を求めることに対する私の見方が、「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」や、「野生のガチョウは声を残し、人は評判を残す」などのことわざにあまりにも基づいており、強く影響を受けていることに気が付きました。私は、他人からのさらなる称賛を得るため、常にステータスを求めていました。これにより、体面やステータスに非常に心を悩ますあまり、不安になり、物事に集中できなくなり、食欲を失い、不眠になり、道化師のように馬鹿なことをしていました。このような環境は、私の状況に合わせて神が仕組んだものです。それは、私に示された神の愛でした。今日の神の働きは、私が最終的に救済を得られるよう、私を救うことであり、サタンの暗い影響力から逃れるのを助けることでした。私が真理を求めていた方法は、神の働きや要求にそぐわないものでした。たとえ、最後の日まで神を信じていたとしても、神の承認を得ることはできなかったでしょう。私は何も持たずにいたことでしょう!そこで、私は声に出さず、神に祈りました。「あぁ、神よ!神の働きに従い、神の要求に則して神を信じる正しい道を進みます。また、真理を理解し、私の腐敗した性質を排除できるよう、神の言葉に注力していきます。私がリーダーになろうがなるまいが、真理を求め、神の意思を満たさない私の性質を変えることに関心を向けていきます。」神の意思を理解すると、心が特に穏やかになり、内容に関わらず、それを楽しんで伝えていきました。ミーティングの後、教会のリーダーは、大多数の兄弟姉妹の推薦により、あの妹が教会の新しいリーダーになり、私は彼女の働きと連携することになると告げました。私の心はとても穏やかで、喜んでこれを受け入れ、あの妹と調和を持って働き、本分を尽くしていくことに同意しました。

   今回、神の刑罰と裁きを経験した後、私は体面とステータスにフォーカスするきらいがあることを知り、私の肉を進んで投げ打ち、神を信じ、神の要求に則して本分を尽くしていくことにしました。しかし、サタンの毒は私の中のとても深い場所まで汚染していました。魂の奥底では、サタンの影響によりまだコントロールされていました。サタンの害からさらに私を守るため、神は、再び、私に救いの手を差し伸べてくださいました。ある日、教会のある妹の状態が良くないと伝えられました。そのため、この問題をどのように解決するかについて、私のパートナーであった姉に相談しました。私のパートナーであった姉は気分が優れなかったため、話し合いの後、私は1人で問題を解決することにしました。同日の夜に彼女と話をするため、彼女を探し、問題を素早く解決しました。この時、上層部のリーダーは私が多大なる努力を払ったことに対し私を必ず褒めてくれるだろうと考え、私の心は喜びで輝きました。しかし、私がこの朗報を待っていると、上層部のリーダーがこの妹の状態を理解するための書簡を送ってきました。私は、私への称賛であると考えていたため、喜んで封を開け、書簡を読みました。しかし、書簡は、特に、私のパートナーであった姉に宛てたもので、彼女がどのように問題を取り扱ったかをたずねるものだと分かり、すぐに憤慨しました。問題を解決したのは明らかに私でした。なのに、なぜ、私にそれについてたずねてこないのか。まるで、リーダーの心には私のことなどなく、私は見下されているようだ。私は使い走りに過ぎない。私がどんなに優れた働きをしても、それに注意を向ける人がいないため、私が評価されることはない。それについて考えれば考えるほど、不当な扱いを受けていると感じ、落ち込みました。私は、完全に体面を潰されたように感じました。この時、私のパートナーであった姉が書簡を手にし、ちょうど私に話しかけようとしました。私は自分の感情を抑えることができず、彼女に向かって叫んでしまいました。「上層部のリーダーはこの問題がどのように解決されたかを知りません。ご存知でしょう、私は長年これに精力的に取り組んできたのに、誰も褒めてくれません。そして最後には、あなたがすべての評価を得るのです。皆の目には、私は使い走りにすぎず、補助的な作業をしているだけの人なんです。私がどんなに努力しても、誰も評価してくれません。」そう言うと、私は悲嘆に暮れ、泣き出してしまいました。その時、神の言葉が耳の中に響きました。「3.あなたが大いに努力しているにもかかわらず、わたしがあなたに対して冷淡であったとしたら、曖昧さの中でわたしのために業を行い続けることが出来るであろうか。4.あなたは、何かをわたしのために費やした後に、わたしがあなたの些細な要求を満たさなかったとしたら、わたしに失望し、落胆したり、さらには激怒したり罵声を浴びせたりするであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(2)」より)神の非難の言葉に、私の心はゆっくりと落ち着きを取り戻し、同時にかなり多くのことがはっきりと見えてきました。たった今起きたばかりのことは、心の中で、まるで映画のように何度もリプレイされました。神の啓示により、私の本性があまりにもひどく、危険なものであり、私が神を信じる心や本分を尽くすことは、神を満足させるためや、神の承認を得るためではなく、他の人から称賛や賛辞を得るためだったことを自覚しました。私は希望が満たされないと知るや否や、恨み節でいっぱいになり、私の獣のような本性が噴火し、極めて簡単に神を裏切っていまします。この時、私はあまりにも道を踏み外しすぎた、人間性を欠いていることを自覚しました。私が感じた痛みは心をえぐるようでした。私は悔い改め、神に祈りました。「神よ、私は自分が変わり、体面やステータスはもはや重要なものではなくなったと感じていました。あの妹とも仲良くすることができました。しかし、私は、いつも、人々の間で何のステータスもないように感じており、私の努力が他者に賞賛されなかった時は苦しい思いをしてきました。今日、神の啓示により、再び、サタンのような醜さを露呈してしまいました。神よ、サタンは私の奥底まで本当に腐敗させています。ステータスや評判、見栄。これらすべてが私の足かせとなっています。神が私をサタンの影響から再び抜け出せるよう導いてくださるようにお祈りします。」その後、私は、神の次の言葉を見つけました。「あなた方一人ひとりは、群衆の最高の高みに昇りつめた。あなた方は昇りつめて群衆の祖先となった。あなた方は極めて身勝手であり、心穏やかな場所を求めている蛆虫の間で暴れまわっており、自分よりも小さい蛆虫を貪ろうとしている。あなた方は海底に沈んだ幽霊にも増して心の内に悪意と邪悪を持っている。あなた方は糞の最下層に住み、蛆虫を上から下まで邪魔して心穏やかにさせないようにし、争い合っているかと思えば静かになっている。あなた方は自分の身分も知らないが、それでも糞の中で争い合う。そのような争いから何が得られるのであろうか。あなた方がわたしに対し真に畏敬の念を持っているならば、わたしの陰でどうして争い合うことができようか。身分がどんなに高くても、あなたは糞の中にいる臭く取るに足らない蛆虫であることに変わりはないではないか。あなたは、羽を生やして空を翔ける鳩になることができようか。」(『言葉は肉において現れる』の「落ち葉が土に還る時、あなたは行ったあらゆる悪事を後悔するであろう」より)神の裁きの一語一語が鋭い剣のように私の心をぐさりと突き刺し、私の霊を覚醒しました。私は神を讃え、神の証を立てるために本分を尽くしてきたのではなく、常に他者に自分自身の優位性を見せびらかし、自分自身の証を立て、他の人々が私を賞賛し、尊敬するよう、彼らの中で高い位置に立つことを夢みてきたことに気が付きました。私の心には神を畏れる気持ちがあったでしょうか。私が求めてきたものは、神を裏切った大天使と全く同じものではなかったでしょうか。私はサタンによりひどく腐敗させられた創造物です。神の前で私はゴミ、ウジ虫のような存在です。私は常に神を崇拝し、神を畏れる気持ちを持って本分を尽くすべきでしたが、誠実な働きに従事せず、本分を尽くすことを人に見せびらかし、自分自身の証を立てることのために利用したいと常に思ってきました。神がこれを嫌い、嫌悪感を抱かないはずがありません。神はとても聖く偉大であり、権威とパワーに満ちているにも関わらず、謙虚かつ控えめで、人に神を尊敬させ、賞賛させるために自身の身分を明かすようなことは決してしません。そうする代わりに、神は持てるすべてを使い、人を黙って助け続けています。自分自身を正当化したり、評価を求めたり、人から何かを求めたりすることは一切ありません。神の謙虚さ、気高さ、そして無私の精神により、私自身の傲慢さ、卑しさ、身勝手さを認識しました。私はサタンによりあまりにも深くまで腐敗させられており、神の裁き、刑罰、試練、精錬による救済を強く必要としていると感じるようになりました。そこで、神の前にひざまずきました。「あぁ、全能なる神よ!神の刑罰と裁きを通して、私は自身の反抗的な態度と、神の気高さ、そして偉大さをよりはっきりと認識しました。これから、私は自分の本分を尽くす時に、神を畏れる心を持ち、正しい人間らしく振る舞い、神の言葉を頼ることにより私のサタンのような性質を排除することだけを望んでいきます。」

   神の刑罰と裁きを繰り返し経験した後、私の真理追求に対する見方は少しずつ変わりましたが、私のいのちにおける性質は本当の意味ではまだ変わっていませんでした。より徹底的に私を浄化し、私がいのちの正しい道を歩けるよう導くため、神は再び私を救ってくださいました。その後、私は教会のリーダーに選出され、別の姉と協力して私たちの本分を尽くしていました。私のこれまでの失敗により、私は、教会の働きを正しく実践するにはこの姉と協力する必要があることと常に自戒していました。最初のうちは、この姉と何についても口論になっていましたが、神のお導きを一緒に求めることにより、働きのあらゆる側面で結果を出してきました。しかし、しばらくすると、私はこの姉が素晴らしい内在する性質を持っており、真理の説明が明確で、光を照らす力があり、彼女の能力が私のよりも高いことに気が付きました。ミーティング中、兄弟姉妹の誰もが彼女の話を聞きたがり、問題がある時は誰もが彼女に相談しました。このような状況を目の当たりにし、私は再びサタンの罠にかかり、サタンに嘲りを受けました。この姉はあらゆる面で私より優れており、彼女がどこへ行こうと兄弟姉妹により賞賛されている。何てことだ!私は何があっても、彼女を超え、兄弟姉妹に私も彼女に劣っていないところを示さなければならない。このため、私は毎日ノンストップで教会の中をバタバタと走り回り、兄弟姉妹のためにミーティングを手配し、誰が問題を抱えていようと、その問題解決を手伝うため、その人の所に走って行きました。・・・外から見れば私は忠実で従順であるように見えたかもしれませんが、私の心の中の野心を神の目が見過ごすはずがありません。私の反抗的な態度は神の怒りに触れ、その結果、闇に落ちてしまいました。神の言葉を読む時、いかなる啓示も受け取らず、祈る時には言うべき言葉が見当たらず、ミーティング中には淡々と話しをし、兄弟姉妹とのミーティングを恐れるようにさえなりました。私は体面とステータスに完全に囚われていました。私は、背中に大きな荷物を背負い、プレッシャーから息ができなくなりながら、毎日を何が何だか分からないままに過ごしていました。いくつかの教会の問題を理解することさえできなくなり、私の仕事効率は著しく低下しました。神からのこのような啓示に直面しても、私は自分自身を知ろうとはせず、兄弟姉妹に私の状態について打ち明けたり、問題を解決するために真理を求めたりしようともしませんでした。彼らが私を見下すのが怖かったのです。その後、神の懲罰と懲らしめが私に下りました。私の胃が突然激しく痛み始め、落ち着いて座っていることも、立っていることもできなくなりました。ステータスを得られないことによる不満足感と病気の苦しみにより、生死を彷徨いました。私の問題を知ることを拒否し、教会の働きに協力できなかったため、教会は私を除免し、霊的な献身と自己反省のため家に帰るように命じるより他ありませんでした。私のステータスを失い、まるで地獄行きを宣告されたかのように感じました。感情的に、私は奈落の底まで落ち、すべての体面を失ったのです。私が聖霊の働きを失い、本分を尽くすことができないでいる時に、兄弟姉妹が全員積極的にそれぞれの本分を尽くしているのを見ると特に、心の中がさらに苦しめられました。苦しみの中で、私は自問せずにはいられませんでした。他の人は神を信じ、より多くの真理を理解しているのに、なぜ私は、体面とステータスのために、繰り返し反抗的な態度を続け、神に抵抗したのだろうか。私は、私がつまずいた根本原因を突き止められるよう導いてくださるよう、神に何度も懇願しました。ある日、私は神の次の言葉を見つけました。「特にパウロを偶像化する人々も居る。そうした者は、講演をすることや外部で業を行うことを好む。そうした者は、集まって話し合う事を好み、人々が自分の話を聞き、崇拝し、自分達のところに集まってくるのを好む。そうした者は、他人の心に自分の信望を築くのを好み、他人が自分の像を尊ぶことに価値を見出す。このような行動から、人間の本性に関して分かることは、何であろうか。この者の本性を分析してみよう。こうした者のように、このような行動を取る人間の本性は、どのような本性であろうか。その本性は概括すると、どのようなものであると言えるであろうか。凡人は、その本性を見抜くことが出来ず、行動のみを見ることが出来る。そうした行動とその者の本性の関係は、どのようなものであろうか。その者の本性は、どのようなものであろうか。あなたがたは、それを確認できないであろう。この者がそのように行動する場合、その行動は、その者が傲慢であり自惚れていることを証明するに十分である。この者は全く神を崇拝しておらず、高い地位を求め、他人に対する権威を掌握すること、他人をわがものにすること、他人の心に自分の信望を築くことを望む。これは典型的なサタンの像である。」(『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より)さらに、このことについては、『いのちに入ることに関する交流と教え)』の中でも、次のように書かれています。「サタンの本質と本性は裏切りである。サタンは始まりの時から神を裏切り、神を裏切った後、神が創造した地球上の人を騙し、嘲り、操り、コントロールすることにより、神と同じ立場に立ち、神の国とは別の国を作ろうとした。… あなたがたにも分かる通り、サタンの本性は、神を裏切ることではないだろうか。サタンが人類にしてきたすべてのことを鑑みると、サタンは正真正銘の神に抵抗する悪魔であり、サタンの本性は神を裏切ることであるのが明確に分かる。これらすべては絶対である」(『いのちに入ることに関する交流と教え その1』内、「あなた自身の腐敗した本質を知る方法)」より)これらの言葉を反芻するうち、神を畏れて、震えを止めることができませんでした。私の生き様はまったくサタンのイメージそのもので、私は正真正銘のサタンの化身であり、傲慢で自惚れており、一切神を崇拝していないことが分かったのです。神は教会で本分を尽くし、神を畏れる心を持って、兄弟姉妹を神の前に連れて行き、彼らの心に神の場所を作り、神を畏れさせ、神に従わせることができるように私を引き上げました。しかし、神による引き上げを受けて、私は、神が私に本分を尽くさせようとした意図を察しておらず、兄弟姉妹がいのちに入ろうとするのを助けるという責任を一切感じていませんでした。その代わりに、私は、常に、人々に私に関心を向け、私の話を聞いてもらいたいと考え、その私自身の欲望により、どこへ行こうと、自分自身の名声を築き上げようとしていました。私は能力が高い人に焼きもちを焼いたり、力ある人に嫉妬したりして、頑固にも他者と優位性を競っていました。外目には私は人と競っていましたが、実際に私が競っていたのは神で、ステータスと権力について神と闘っていたのです。これは神の性質を深刻に背くもので、これは、神による懲罰を受けるべき行為です!しかし、神は私が行なったことに対して、私を取り扱うことはしませんでした。神は、ただ、私を裁き、罰し、懲らしめ、そして鍛えました。そして、私が自省し、悔い改めるよう、私からステータスを剥奪しました。神の私への愛がとても深く、とても大きいことを認識しました!私は、心の中で後悔と自責の念を感じずにはいられませんでした。さらに、私の腐敗がとても深いことが本当に嫌になりました。私は神に従いましたが、真理を求めていませんでした。その代わりに、盲目的に、ステータスと体面のために努力していたのです。神の愛と救済に見合う生き方を本当にしていませんでした。自省すればするほど、「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」や、「野生のガチョウは声を残し、人は評判を残す」など、私がよすがとしていたことわざは、サタンが人を腐敗させ、傷つけるために利用していた嘘であったことがよりはっきりと見えました。サタンはこれらのものを利用し、人の魂を麻痺させ、人の心を歪め、人にいのちについて誤った見方をさせ、ステータスや名声、財、体面など無意味なものを追求することに躍起にならせ、最終的には神の道から外れ、神を裏切るように仕向け、これにより、人々が誤謬に従い、そのために働き、サタンの意のままに、被害を受け、傷付くようにするためのものであったことを認識しました。私は、サタンの嘘をよすがとし、いのちについて誤った見方をしていた人間の1人で、傲慢で、自惚れており、横柄で、心の中に神の場所はありませんでした。私は腐敗した状態で暮らし、神を敵として扱っていました。現在、私は神の慈悲を受け、二度と神に反抗することはありません。私は完全に自分を修復し、完全にサタンを捨て、私の心をすべて神に捧げ、神の心を安心させるよう、真の人間のようにいのちを全うしていきます。その後、私はこれからの道をどのように進むすべきか、神の心を満たすためにどのように真理を求めるべきかを模索しました。神様、私を再び導いてくださりありがとうございます。その時、神の言葉を見ました。「今日、たとえあなたが働く者ではなくても、あなたは被造物の本分を尽くせなければならず、神の指揮すること全てに従うことを追い求めるべきである。あなたは神の言うことは何であろうと全てに従うべきであり、どんな試練や精錬でも経験し、たとえ自分が弱くても心の中で神を愛せるはずである。自分のいのちに責任を持つ人は、喜んで被造物の本分を尽くす人といえるし、そういう人の追求への見解が正しいのである。神はこのような人を必要とされるのである。…人は、被造物としてその本分を尽くすこと、そして他の選択肢を持たないで神を愛することを追い求めるべきなのである。それだけ神は人に愛される価値があるのである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益あるいは望みを追い求めてはならない。そしてこれが追求の最も正しい形である。」(『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)まるで灯台のように、神の言葉が私の取るべき道を示し、私の心を啓きました。神は、ステータスがあるか否かに関わらず、どんな環境にあるかに関わらず、人が真理を求めるために最善を尽くし、神による手配や定めに従い、愛を探し、神を満足させることができることを望んでいます。これは、真理を求める最も正しい方法であり、創造物が歩むべきいのちの正しい道です。そのため、私は神の前で決心しました。あぁ、神よ。いのちの正しい道を示してくださり、ありがとうございます。私の過去のステータスは、神からの引き上げによるものでした。ステータスのない今日も、また、神の義によるものです。私はちっぽけな創造物に過ぎません。これから、私は真理を求め、すべての神の定めに従っていくことのみを望んでいます。

   その後、神の言葉を読み、教会での生活を続ける中で、私の状態は、素早く通常状態に戻りました。教会は再び私に適した働きを割り当てました。また、私は、何かが起きるたび、神の意思を探し、自分自身を知ろうとし、それを解決するのに適した神の言葉を見つけることで、本分を尽くすことの真理を求めることに集中しました。体面やステータスが関係する物事に直面する時は、心にある考えがあっても、祈りと神の言葉を通して、真理を求め、自分自身を捨てることで、徐々に、これらのものにコントロールされないでいられるようになり、平穏な心で本分を尽くすことができるようになりました。私ほど長い間神を信じていない兄弟姉妹が重要な権限を任せられた時は、真理を求めることにより、各個人が尽くすべき本分は神によって運命づけられたものであり、私は神の采配に従う必要があるということを理解できるようになりました。その結果、正しい方法でこれを取り扱うことができました。兄弟姉妹が私の本性や本質を取り扱い、これを指摘する時は、私は体面を失ったと感じても、祈りを通して従順になることができました。これは、神の愛が私に降り注いだためで、私のいのちの性質を変えるのに大きく役に立ちました。過去には、体面にあまりにもフォーカスしすぎたため、私のことを見下すのが怖く、誰にも心を打ち明けることができませんでした。今は、神の要求に従い、正直な人間になるために練習を重ね、問題が起きた時は、兄弟姉妹に打ち明けています。これにより、魂の奥底で特に安心と幸せを感じています。これらの変化を目の当たりにし、私は、神の終わりの日の刑罰と裁きの働きにより私にもたらされた変化に対し、神に感謝し、神を賞賛せずにはいられませんでした。

   全能なる神に従うようになり、数年経ちます。思い返すと、サタンの毒が私の魂を侵食していました。私は、長年に渡り、サタンの支配下で生活しており、サタンによる被害を受け、嘲られていました。いのちの価値や意味について、知りませんでした。光を見ることも、真の幸せや喜びを見つけることもできませんでした。不幸の深淵に沈み込み、そこから自分自身を救い出すことができませんでした。現在、神による繰り返しの刑罰と裁きにより、私はサタンの害を排除することができ、安心感と自由を得ることができました。自分の良心と理性を取り戻し、明るく正しいいのちの道で神に従いながら真理を求めるという正しい目標もあります。神の刑罰と裁きを通して、神の無私かつ誠実な愛を真に経験し、祝福を噛みしめ、世俗の人が経験できないような愛を受け取っています。神だけがサタンの不幸の海から人間を救い出すことができ、神の刑罰と裁きの働きだけが人の内部に入り込んだサタンの毒を浄化し、人に真の人間らしくいのちを全うさせ、正しいいのちの道を歩ませることができます。神の刑罰と裁きは光です。これは、神が人間に授けた最大の恵みで、最高の保護で、最も価値のある宝です。全能なる神の言葉も次のように言っています。「神の刑罰と裁きは人間の最高の守りであり、最も素晴らしい恵みであると考えていた。人間が目ざめて肉とサタンを憎むことが出来るのは、神の刑罰と裁きによるほか無い。人間は、神の厳しい鍛錬により、サタンの影響から解放され、狭い人間の世界から解放され、神のいる光の中で生きることが出来る。刑罰や裁きよりも優れた救いは無い。」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)神よ、私を救い、生まれ変わらせるために刑罰と裁きをお与えくださり、ありがとうございます!これからの神を信じる私の道で、真理を追求し、さらなる神の刑罰と裁きを受け、サタンの毒を完全に排除して浄化され、神のことを本当に知り、神のことを正真正銘愛する人となるための努力を惜しみません。すべての栄光は神のものです。アーメン!


私はキリストを見るにはふさわしくない

2019-09-28 23:21:05 | 勝利者の証し

   全能神を信じるようになって以来、キリスト自身による牧養を受けることができ、自らの耳でキリストの説教を聞くことができる兄弟姉妹のことをずっと尊敬しています。心の中では、いつか私も将来キリストの説教を聞くことができたらどれほど素晴らしいかと思っています。もちろん、キリストを見ることはもっと素晴らしいことでしょう。けれど最近キリストの交わりを聞いたことで、私はキリストを見るのにふさわしくないと深く心から感じるようになりました。

   それは「いのちの道に入ることに関する交わりと説教第1~3巻」が発表されたときでした。第1巻を聞いたとき、私は聖霊に使われている人は話がとても上手だと感じました。第2巻で、ある姉妹の話を聞いたとき(これはこれらの交わりがキリストによるものであると誰かが教えてくれる前のことです)、私はこの人は単に聖霊に使われている人より格下のリーダーなんだろうなと想像しました。特に、知識をどのように見るべきかという問題についてこの姉妹が話したとき、兄弟姉妹が熱心に反応するのを聞かなかったので、私の想像は当たっていると確信し、またこの人は聖霊に使われている人ほど話が上手でないと感じたので、注意深く聞いていませんでした。第3巻を聞いた後、聖霊に使われている人の話の後、私は同じ姉妹が「今の兄弟の交わりについて…」と言うのを聞きました。それで私は余計にこの姉妹は聖霊に使われている人より格下のリーダーに違いないと確信したのです。というのも、上司が最初に話し、部下が後で話すのが世間の常だからです。そのため「あとで時間があるときにこれを聞こう」と思いながらスピーカーを切りました。この姉妹が実はキリストであると知った日、私はショックを受け、そしてついに説教の一字一句に真剣に耳を傾けました。

   その後、私は熟考を始めました。私はキリストの交わりを自ら聞きたいと強く願っていたのに、キリストがついに私たちに話しかけたとき、なぜ私は見分けることができなかったのでしょうか。私はこんな状況に関連する神の言葉を飲食し始めました。そして、神がこう言っていたのです。「何人もイエスの真の姿を見、イエスと共にありたいと願っている。兄弟姉妹の中で、イエスの姿を見たい、またはイエスと共にありたいと願わない者はない、とわたしは信じている。あなたがたがイエスをまだ見ていない時、すなわち、あなたがたが受肉した神をまだ見ていない時、あなたがたは、例えば、イエスの姿やイエスの話し方、イエスの生き方などについてよく考えることだろう。しかし、あなたがたが実際にイエスを見たら、あなたがたの考えはすぐに変わるだろう。なぜそう言えるのか。知りたいか。実際、人間の考えは無視できないが、キリストの本質を変えることはもっと許しがたいものだ。あなたがたは、キリストは神仙であり、賢人だと考えているが、キリストが神性な本質を持った人間だと考えている者はいない。それゆえ、朝から晩まで神に会いたいと切望している者の多くは、実際には神の敵であり、神に味方しない者なのだ。これは人間側の誤りではないのか。今でもあなたがたが自分の信念と忠誠心がとても強いゆえにキリストの姿を見るに値すると考えているが、わたしはあなたがたに対して、もっとも確実なものを身につけるように強く説きたい。というのも、過去、現在、未来において、キリストと触れ合う者の多くは失敗したからだ。そのような者たちは皆、パリサイ人の役割を担っているのだ。あなたがたの失敗の理由とは何なのか。それは、あなたがたの観念の中に非常に大きくて立派な神がいるからだ。しかし、実際は人間が望んでいるようなものではない。キリストは特に大きくも立派でもないだけでなく、特に小柄である。キリストは人間であるというだけではなく、それも普通の人間なのだ…それゆえ、人々はキリストを普通の人間として扱うのだ。人々はキリストと共にいる時は好き勝手に振る舞い…あなたがたは既に到来したキリストを普通の人間とみなし、キリストの言葉を普通の人間の言葉とみなしている。それゆえ、あなたがたはキリストからまだ何も受け取ってはいない代わりに、自らの醜さを光にさらしているのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より)神の言葉と比べて、私はキリストの交わりをついに聞いたときに自分の堕落した性質がどのようにはっきり示されたかを考えました。私はキリストの説教と交わりを自分の耳で聞きたいと望んでいたのに、キリストの交わりをついに聞いたときに、気にもとめませんでした。私はキリストをただ普通の人間とみなしていました。これは私がキリストの本質を理解せず、キリストが謙遜し隠していることのすべてを理解せず、キリストについての考えや観念を多くもちすぎていたからです。キリストの交わりはキリストに直接会える兄弟姉妹に限定されていて、他の人々は自らの耳でキリストの交わりを聞くことは許されないに違いないと私は想像していました。キリストの交わりは、キリストが正体を公に発表することを伴うのだろうと私は想像していました。キリストの交わりは、何らかの特別な人のように他の人々とは違う声で、多くの優美な言い回しをもって語られるはずだと私は想像していました。キリストの交わりは兄弟姉妹の興奮した情熱的な歓声に伴われるのだろうと私は想像していました。そして、聖霊に使われている人とキリストが順番に話すのならば、キリストが最初に話し、聖霊に使われている人は最後に話す…私はキリストの働きと言葉を私の想像の境界内に閉じ込めてていました。私はキリストを特別な仕方で想像したからです。事実が私が想像していたことと食い違ったとき、私はキリストを普通の人として、キリストの言葉を普通の人の言葉として扱い、他の人々が交わりから多くを得た一方で、私は何も得られず、傲慢で、思いあがった、真理を軽蔑するサタンのような自らの本性を曝け出し、キリストを拒否し抵抗する者となったのです。

   後になり、私は神の言葉に次のことを見つけました。「あなたがたは常にキリストの姿を見たいと思っているが、あなたがたは自分を過大評価しないように勧める。何人もキリストの姿を見ることができるが、キリストの姿を見るにふさわしい者はただ一人としていない。人間の本性は悪、傲慢、反抗に満ちているため、あなたがキリストの姿を見た時、あなたの本性があなたを破滅させ、死へと追いやる。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より)「真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか…真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より)私があまりにも傲慢で、あまりにも反抗的で、あまりにも俗物で、身分や地位を持っている人たちであればあまりにも容易に傾聴し同意する気になるのに、一方では身分や地位を持たない人々を見下し、そのような人々が真理を語っても聞こうとしないため、神の声を認識することができないのだと、神の言葉により理解しました。交わりを聞いたとき、私は真理に集中せず、真理を得ることを望まず、その代わりに心は臆測と探求に没頭していました。私は傲慢さと反抗、観念と想像だけを暴露したのです。私のように傲慢で、反抗的で、真理を受け入れない者が、私のように信心や真理への渇望がない者が、いったいどうして神の声を聞き、知ることができるのでしょうか。どうして私がキリストを見るのにふさわしいでしょうか。

   この啓示を通して、たとえ私がキリストを見たいと思っても、サタンによる私の堕落があまりに深く、生来私は傲慢で反抗的であり、私には真理がなく真理への愛もなく、キリストの本質を理解せず、ばかげた偏見で判断し、あまりにも多くの観念や考えを持ち、私が信じる神は依然曖昧な神であり、力強く雄弁な姿かたちをしているため、私はキリストを見るにはふさわしくないということをついに理解したのです。そして私が本当にキリストを見ると、私の観念は根を張り、私の傲慢さはいつ芽を出すか知れず、そのため私の反抗的な本性が私を滅ぼすかもしれません。今私は真理を身にまとい、神の言葉において私の堕落した本性とキリストの本質を理解することを求め、キリストを理解し崇拝する人にならなければなりません。


悪意ある弾圧を経験して立ち上がる

2019-09-21 21:36:27 | 勝利者の証し

   わたしは貧しい遠くの山岳地方で生まれ、そこでわたしたちは何世代にもわたって香を焚き、仏を崇拝してきました。その地一帯には仏寺があり、すべての家族はよく香を焚きに行きました。誰も神を信じていませんでした。1995年、わたしの妻とわたしはその地方の別の地域にいて主イエスを信じていました。帰郷してからわたしたちは福音を分かち合い始め、福音を受け入れた人々の数は徐々に増え、100人を超えるまでになりました。ますます多くの人々が神を信じるようになり、地方政府は警戒しました。1997年のある日、警察はわたしを呼び出し、地方警察署に出頭させました。そこでは地方安全保障局長、国家安全保障局長、宗教局長、地方警察署長と何人かの警官がわたしを待っていました。地方安全保障局長は「なぜあなたは神を信じますか。あなたは誰と連絡を取っていますか。聖書はどこから来たのですか。どうして集会のために教会に行かないのですか」と聞きました。わたしは言いました。「人々は神によって創造され、日光、空気、水はすべて神によって創造されました。人々が神を信じ崇拝するのは天と地の法則です。憲法も市民には宗教の自由があることを明示しています。あなたがたはわたしたちが自由に神を信じることをなぜ許さないのですか」。宗教局長は「檻の中の小さな鳥のように宗教上の自由には限界があります。翼と足が縛られていないとしても、かごの中を動けるだけです」と言いました。彼がこうした誤りを話すのを聞き、わたしは憤慨し、怒って言いました。「それなら国家は国民に嘘をついています」。わたしがこう言うのを聞いて、彼らは彼らが間違っていて言うことがないのを知り、わたしをやっと家に帰しました。当時、世の終わりの全能者である神の働きを受け入れた1999年まで、中国共産党政府の信者に対する迫害の本質をわたしは気付いていませんでした。を読み、中国共産党政府のさらに残酷な迫害を経験することで、中国共産党は邪悪な霊であるサタンの具現化であることがはっきりと分かりました。それは聖書の中で言われているように神の敵でした。「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへび…」

   2002年6月28日の朝5時過ぎに扉を激しく叩く音が突然聞こえたとき、わたしは兄弟姉妹と集まりの準備をしていました。わたしたちはすぐに神の言葉の本を隠し、それから扉を開けました。扉が開くと出し抜けに数十人の警官がドッと押し寄せてきました。彼らは電気警棒と銃を手に持ち、わたしたちを力ずくで一ヶ所に集め、しゃがみ込ませ、頭上に手を置かせました。わたしたちを収容した後、村に入った盗賊のように彼らは各部屋に入り、あらゆるものを散乱させました。彼らはわたしたちの寝具と服を取って床の上に投げつけました。過去に組織犯罪や盗賊が略奪や窃盗を行う場面をテレビで見たことがありましたが、「人民警察」がテレビの凶悪な暴君や盗賊のように行動するだろうとは想像もしませんでした。その時、警官たちが神の言葉の本を発見するかもしれないとわたしは非常に恐れ、心配しました。わたしは心の中で絶えず祈り、わたしたちを見守り、保護してくださるよう神に頼みました。祈りの後、わたしは神の素晴らしい行いを見ました。彼らは家全体をくまなく捜し、私物を押収しましたが、神の言葉の本を見つけることはありませんでした。わたしはこれが神の全能性と保護であり、神がわたしたちと共にいてくださると知り、神へのわたしの信仰は増しました。その後、警官たちはわたしたちを警察署に連れて行き、夜にはわたしたちを拘置所に移してわたしたちを閉じ込めました。3日後、警察はわたしたち各々に300元の罰金を課し、それは解放されるためにはわたしたちが支払わなければならないものでした。人々から宗教の自由を奪った無礼で理由のない捕食者のような中国共産党政府の行いを見てわたしは深い憤りを感じ、神の言葉を思わずにはいられませんでした。「この地は数千年にわたり不浄の地となっており、耐えがたいほど汚れ、悲劇に溢れる。至る所に幽霊が彷徨い、欺し偽り、根拠の無い告発を行い、冷酷かつ残忍であり、この幽霊の街を踏みつけて屍の山を残した。腐った屍の悪臭が地を覆って充満しており、その地は堅く警護されている。誰が空の彼方の世界を見ることが出来ようか。…宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)中国のこのゴーストタウンでは、中国の支配政党は「宗教の自由と人権の自由」を促進する理念を掲げていますが、支配政党は遠慮なく神を迫害し、神に従う人々を逮捕し、迫害します。彼らは人々が神を信じ、正しいいのちの道を歩むことを許しません。彼らはすべての信者を一挙に排除しようと切望していました。わたしたちは法律を破ったり、悪事を働いたりしませんでした。わたしたちが行ったのは福音を分かち合って人々が神を知り、崇拝するようになり、闇と苦しみの生活から脱することができるようにすることでした。しかし、中国共産党の警察は売春、殺人、放火、不正、詐欺に関与している邪悪な人々に関心を持つのではなく、わたしたちを逮捕し、投獄し、わたしたちに罰金を科そうとしました。彼らはこれらの邪悪な人々が罰を逃れることを許しました。この事実から、中国共産党政府は神に抵抗し、人々の目をくらまし、人々を騙す悪魔の集団であるとわたしは理解できました。彼らは神の敵でした。

   同じ年の11月28日、数人の兄弟姉妹とわたしは宗派の指導者と福音を分かち合っていました。しかし、わたしたちはある邪悪な人によって通報され、12人ほどの警官がわたしたちの建物を取り囲み、扉を破って建物にはいってきました。彼らは銃と警棒を手に持っていて、叫びました。「動くな。手を上げろ」。警官たちはわたしたちの体を捜し、5000元以上のお金と貴重品を盗みました。彼らは頭の上に手を置き、壁を向いて座るよう命じました。そのとき2人の若いシスターたちは恐れ、わたしは彼女たちに言いました。「わたしたちは何も悪いことをしていません、恐れてはいけません」。わたしがこう言うとすぐ数人の警官がわたしに突進し、拳と足でわたしを投打し、床に打ちつけました。彼らは部屋という部屋をひっくり返し、めちゃくちゃにしました。彼らは村を略奪する盗賊より野蛮で残忍でした。部屋にいたひとりのシスターは出てきませんでしたが、邪悪な警官がひとり急いでやって来て彼女をぎゅっと掴んで引きずり出しました。別の邪悪な警官は、彼女がかなり美しいのを見て体中を触り、性的ないたずらを始めました。シスターはどうすることもできず声を出して泣き、幸いにも家主がちょうどやってきていたずらを止めさせ、シスターは無理強いを免れることができました。このとき、「人民警察は人々のためのものであり、何か問題があれば警察を呼びなさい」とか「警察は人々の後見人」などのスローガンはすべて嘘であることがはっきりとわかりました。こうした邪悪な警官たちは純粋に地元のごろつきと悪党の集団でした。その後、彼らはわたしたちを警察車両に閉じ込め、警察署に連れて行きました。彼らは2日間昼も夜も廊下でわたしたちに手錠をかけ、食べものや飲みものをよこしませんでした。わたしは心でただ絶えず祈り、このような環境で証を立てられるようわたしたちを導かれ、信仰と力を与えてくださるよう神に頼みました。その後、邪悪な警察は同胞を尋問し、答えに満足しないと、何人かの邪悪な警官が彼を地面に突き倒し、別の邪悪な警官が犬の糞を彼の口に詰め込みました。同胞の精神状態はひどく昂っていました。この悲惨な状況を見てわたしの心はひどく動揺し、怒りがわたしの中に燃え上がりました。突進してその警官たちにひどい仕打ちができればと思いましたが、神の言葉がわたしの心を導きました。「私と同様にこの不浄の地に住む兄弟姉妹に対して私は少し同情し、それゆえ赤い大きな竜に対する嫌悪を覚えるようになった。…私達は皆、竜の犠牲である。私が芯から竜を嫌悪し、竜を倒すのを待ちきれずにいるのは、そのためである。しかし、再考するとそれは不可能であり、神に困難をもたらすだけであろう。ゆえに、神の旨を行い神を愛する決意をする、という言葉に戻ろう。…神の旨を行うことで有意義で光に満ちた生涯を送ることだからである。…あなたがたもそうすることを望むであろうか。あなたがたはそのような決意をした者であろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「道 (2)」より)神の言葉によって私は冷静になり、神の言葉を理解しようとする中でわたしは神の心を理解しました。神はすでにこれらの邪悪な悪魔たちを極度に軽蔑しておられ、すぐに悪魔たちをすべて破壊することを望まれますが、世の終わりの神の働きを完了され、わたしたちを完全にされるために、神はサタンの努力を活用される必要があります。神はわたしたちがサタンを見分けられるようにサタンの迫害を使い、それによって、わたしたちは中国共産党政府のひどく不快な顔や悪魔的本質がよくわかります。それによってわたしたちは中国共産党政府を見捨て、関係を断ち、わたしたちの正直な心を神に完全に向けることができます。神の働きで良い結果を得るため、神は中国共産党の気違いじみた追求を常に耐えられています。それだから、創造の一部として救いを得るために少し苦しむべきであるというのはどうでしょうか。神はわたしを啓かれ、信仰と強さをお与えになりました。わたしはキリストに習い、固く決心し、神の心を行い、神を愛そうとします。このとき、サタンの迫害を通して神への証を立てるべく神がわたしたちをお導きになり、守ってくださることのみをわたしは願いました。面目なげにサタンが失敗するように、サタンの罠に反撃すべく神へのわたしたちの愛を使うことができることを望みました。

   3日目の夜、邪悪な警察はわたしたちを地方安全保障局に移し、夜通しわたしたちに尋問しました。副所長は初め、社交辞令を使ってわたしを釣ろうとしました。「率直に言いなさい。あなたには妻、子供、両親がおり、面倒を見る必要があります。さっさと率直に言えば、家に帰れますよ。どうですか」。これらの言葉を聞いた後、わたしは多少その気になり、思いました。「重要でないことを言えば、わたしは立ち去ることができ、ここにいて苦しまなくてすむだろう」。そのとき、わたしは神の言葉によって目覚めました。「しかし、わたしは次のことを明白にしなければならない。患難の時に、わたしに全く忠誠を示さなかった者たちにはもはや憐れみは与えない。わたしの憐れみが与えられるのはここまでだからだ。さらに、わたしは、かつてわたしを裏切った者は誰も好まず、ましてや友の利害を裏切る者たちと係ることを望まない。その人が誰であっても、これがわたしの性質である。」(『言葉は肉において現れる』の「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より)神の威厳ある言葉によって、それはあたかもわたしが返事をするのを待ちながらわたしを見下ろしている神をわたしが見るかのようでした。その結果、わたしはすぐにその思いを払拭し、厳格な義においてわたしは言いました。「ここに来て以来、去ろうとしたことはありません」。邪悪な警官は彼の計略がうまくいかないと知り、元の悪魔のような顔を晒し、そして副所長はわたしの頭の上に豚の排せつ物のバケツを持ち上げ、わたしに注ぎかけるようでした。わたしは彼に言いました。「これは自白を強要するためにあなたが使っている残酷で異常な罰です」。わたしがこう言うのを聞いたとき、彼は突然止め、わたしに豚の排せつ物を注がずにバケツを降ろしました。皮靴を履いている別の邪悪な警官は自分のかかとでわたしの足の親指を踏み、思い切りかかとをぐるぐると回しました。激しい痛みが体全体に伝わり、わたしは痛みで大声を上げずにはいられませんでした。衣服は汗でぐしょぐしょになり、激怒した邪悪な警官はわたしの親指の爪が裂けてはがれるまで踏みつけぐるぐると回し続けました。この時までに、わたしのつま先はすでに切断され、血まみれでした。極度の苦痛の中でわたしは神に叫び続け、神がわたしの心をお守りになり、わたしがサタンに屈服しないよう、わたしが神への証を立てられるよう願いました。悪魔の残酷さはこれ以上のものです。わたしは同胞が尋問から戻って来るのを見ましたが、彼はすでに苦しめられ瀕死でした。彼の全身は傷つき、打撲され、彼は死にかけているように見えました。邪悪な警察は彼が死ぬかもしれないと思い、しぶしぶ彼を解放しました。その後、警察はさらなる尋問のためにわたしの同胞とシスターをひとりずつ連れて市内の特別機動隊に連れて行きました。

   わたしたちが特別機動隊に到着したとき、邪悪な警察はわたしたちの服を無理やりすべて脱がせ、そして手錠をかけ、足かせを付けました。それから彼らはわたしたちに屈辱を与えようと、中庭の周りを3周スキップさせました。その後、彼らはわたしたちを別々に監房に入れました。監房に閉じ込められていたのはすべて殺人犯でした。彼らはことごとく悪魔や怪物のようでした。邪悪な警察は囚人たちにわたしを苦しめるよう命じましたが、神の保護のために、捕虜たちはわたしを虐めるどころか、本当にわたしの世話をしてくれました。4日の後、神を裏切り、兄弟姉妹を売るよう邪悪な警察はわたしを強いましたが、わたしは話そうとしませんでした。彼らは私ともう一人の同胞を連れ中庭に引きずっていき、わたしたちに手錠と足かせを付けました。黒い袋がわたしたちの頭に被せられ、中庭の中央にある木からわたしたちを吊り下げました。残虐行為の熱狂の中で、彼らは木のいたるところにアリを置きました。何千ものアリはわたしたちを噛みながら、ひっきりなしにわたしたちの体を這いまわりました。何千ものアリの拷問は心臓を貫く何千もの矢の拷問と似ていたので、生きるよりも死を魅力的に見せました。わたしは力を振り絞り、わたしの苦しみの中で神が意志と力をお与えになり、神を裏切ることにわたしが抵抗できるよう、わたしの心と霊をお守りくださるよう神に祈るだけでした。この時、神の言葉がわたしの心に現れました。「わたしの栄光が宇宙を満たし、すべての人々がわたしのために最後の苦難に遭う。あなた方にはわたしの旨が分かるだろうか。これがわたしの人に対する最後の要求である。つまり、わたしは全ての人々が赤い大きな竜の前で、力強く、明確なわたしの証しとなれることを望む。最後に彼らがわたしのために自らを捧げ、最後にもう一度わたしの要求を満たすことを望む。あなた方にはこれが本当にできるか。かつてのあなた方はわたしの心を満たすことができなかった。最後の時にこの型を破ることができるか。」(『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「三十四番目の言葉」より)神の言葉によってわたしの心は力で満たされました。わたしたちを救うために神は中国共産党政府によってあらゆる方法で追跡されました。神には枕も家と呼べる場所もありませんでした。今日わたしはキリストと共に苦しめます。これは神の愛であり、わたしのための神の高揚です。わたしが神に栄光を与えることができる限り、わたしは幸せであり死をためらわないでしょう。わたしは神の言葉にすがり、苦しみのあらゆる瞬間を乗り切りました。わたしたちは2日間昼も夜も木の上に吊り下げられました。3日目になると、わたしは本当にもう耐えられませんでした。季節は初冬で雨が降っていて、わたしが着ていたものは裏地のない衣服でした。わたしは裸足で木に吊り下げられ、食べものも飲みものもありませんでした。飢えと寒さの苦しみと耐え難い痛みにより、私は死にたくなりました。わたしができることは全力を尽くして祈ることでした。肉の弱さのために苦しみに対処できず、神を裏切ることを深く恐れました。苦しみのただ中で、わたしは恵みの時代から使徒ステパノを思い出しました。彼は主イエスの福音を広めていたので、群衆によって石打たれ殺されました。死ぬ前に彼の霊を受け入れていただけるよう彼は神に頼みました。それゆえ、わたしは神に祈りました。「ああ神よ、わたしの肉はあまりに弱く、今わたしは耐えられるよりも多くの痛みを受けました。わたしは神がわたしの霊を受け入れられることを望みます。神を裏切るよりもわたしは死にたいからです」。祈った後、最も予期しない奇跡が起こりました。わたしは幽体離脱を経験し、草地に連れて行かれました。青々とした緑の草があちらこちらにあり、牛と羊がまわりにいました。わたしの気持ちはとても悠々とし、神を高らかに賛えざるを得ませんでした。「全能者である神を高らかに賛美しなさい、天と地の万物は神を賛美し、神を賞賛しなさい、すべてが神を賞賛するでしょう。神の天使たちすべてを立ち上がらせ、神を賛美させなさい、天国のあらゆる人々に神を賛美させなさい。宇宙の広がりは神、全能者である神を賛美します。輝く星は神を賛美し、天と地と海は神を賛美します。それらはすべて神を賛美します。山と丘に全能者である神を賛美させ、波と大波に神を賛美させ、高きところの神、全能者である神を賛美させなさい。いと高きところの全能者である神を賛美しなさい、タンバリンと踊りで神を賛美し、神を高らかに賛美しなさい。全能者である神を楽器とトランペットの音で賛美し、シオンの聖なる人々に神を賛美させ、すべての人々に神、全能者である神を賛美させなさい。ああ全能者である神よ、神を高らかに賛美しなさい。雷の轟きは神を賛美し、神を高らかに賛美しなさい。壮大な空は全能者である神を賛美し、息あるものすべてに神を賛美させ、賛美の歌が地の果てを揺るがし、神を賛美しなさい」(「子羊に従い新しい歌を歌え」の「全能者である神を高らかに賛美しなさい」)わたしはこの比類のない喜びに完全に没頭し、自由の境界に住むうちに、木から吊されたことによる痛みと飢えと寒さ、そしてアリの噛み傷の痛みはすべて消えました。わたしが目を覚ましたとき、それはすでに三日目の夜でした。邪悪な警察はわたしを木から降ろしました。わたしは3日間吊り下げられて死んでいないだけでなく、霊に満たされていました。これは本当に神の万能の力と奇跡的な保護でした。わたしは心から感謝し、神を賛美しました。

   4日目に邪悪な警察は再度わたしを尋問し、兄弟姉妹を売るようわたしに強制しようとしました。警官たちはまた、わたしがカルトを信じていると認めさせようとし、わたしに神を裏切らせ、真の道を放棄させようとしました。神の啓きはわたしに神の言葉を考えさせました。「人間が試練を受けている時に弱くなったり、自分に否定的になったり、神の意志や自分の実践の道に明瞭性を欠くのは、普通のことである。しかしいずれにせよ、あなたは、ヨブのように、神の業を信じ、神を否定しないようにする必要がある。」(『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より)神の言葉は真理を実践し、神の証を立てる勇気をわたしに与えました。何があってもわたしは神に抵抗し、神を冒涜することができませんでした。それゆえ、わたしは正々堂々と自信を持って言いました。「わたしは万物を支配する唯一の真の全能者である神を信じます。わたしは邪悪なカルトを信じておらず、あなたがたは真理を歪めて、わたしに罪を着せようとしています」。ひとりの邪悪な警官がこれを聞くと激怒し、長い木製の椅子をつかんで狂ったようにわたしを叩き始め、殺そうとしました。わたしが血を吐き出すまでその警官はわたしを叩きました。わたしの体は麻痺し、床で失神しました。わたしが意識不明になったのを見て、警官たちは冷たい水をわたしにかぶせてわたしを起こし、わたしを殴打し続けました。この悪魔的で非人間的な暴行の間、わたしの胸と背中は完全にあざだらけで、体の内部がかなり傷を受けました。1週間後、尿は血で真っ赤で、右の腎臓はひどく損傷していました(今日でもまだ強い痛みがあります)。1ヵ月後、邪悪な警察は何の証拠も見つけられなかったので偽の資料を作り、わたしに署名するよう強いました。それから警察はわたしを市の拘置所に閉じ込めました。3ヵ月後、警察はわたしを「社会法の執行を破壊する」容疑で起訴し、1年間の労働改造の刑を宣告しました。強制労働収容所でわたしは非人間的な生活を送りました。わたしはいつも空腹で、毎日十数時間働かなければなりませんでした。わたしは刑務所警察に頻繁にいじめられ、侮辱されました。警官たちはわたしに電気警棒を使うか、小さな暗い部屋にわたしを閉じ込めました。神がわたしをお見守りになり保護されなければ、わたしは邪悪な警察によって苦しめられて死ぬことになったでしょう。2003年11月7日、刑は満了し、わたしは地上の地獄から解放されました。

   あの残酷な迫害を経験した後、中国共産党政府の他の発言の中でも「共産党は偉大で、輝かしく正しい」と「中国には宗教の自由がある」という宣言は、実際には公衆を欺き市民を惑わす悪意ある策略の表現そのものであるとわたしは最終的に理解しました。わたしはこの古い悪魔が心の底から大嫌いです。それは社交辞令を話し、極度に邪悪なことをします。世の終わりの神の働きを禁止し、中国を無神論的な場所にするため、遠慮なく信者を追いかけ、虐殺します。その残虐行為の程度はすでにその極みに達し、人々を憤慨させました。尋問の過程で残虐な人々によりどのようにわたしが絶え間なく残酷に拷問され、自白を強要され、むごく苦しめられたかを思い起こします。わたしは幾度も叩きのめされ、神の保護がなければ、わたしはこの残虐な人々に飲み込まれていたでしょう。わたしが極度に弱っていた時、全能者である神の言葉はわたしを絶えず励ましてくれました。「あなたがたは、与えられた祝福を受け入れたことがあるか。あなたがたは、自分に対して結ばれた約束を求めたことがあるか。あなたがたは、必ずや、わたしの光の導きの下、闇の力の拘束を打ち破るだろう。あなたがたは、絶対に、闇のただ中にあって、あなたがたを導く光を失いはしないだろう。あなたがたは、必ずや、すべての被造物の主人となる。あなたがたは、必ずや、サタンの前で勝利者となる。あなたがたは、必ずや、赤い大きな竜の国が滅びるとき、無数の者たちの中で立ち上がり、わたしの勝利を証しする。あなたがたは、必ずや、秦の国にあって、堅固で揺るぎないだろう。あなたがたの耐え忍んだ苦しみによって、あなたがたはわたしからの祝福を相続する。そして、必ずや、全宇宙においてわたしの栄光に輝くだろう。」(『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「十九番目の言葉」より)神の言葉はすがることのできる何かをわたしに与えてくれました。わたしが極度に苦しみ弱っている間、それは神の言葉の啓きと導きをわたしに享受させました。これは、この暗く長い時間を通してわたしが得ることのできた唯一の道でした。わたしは中国共産党政府によって何度も逮捕され、迫害され、わたしの肉は無慈悲な虐待と苦しみにあいましたが、過去に理解できなかった多くの真理をわたしは真に理解し、中国政府の反動的な不正の悪魔的本質をわたしははっきりと理解します。わたしはまた全能者である神のわたしへの真の愛を経験し、神の全能の知恵とすばらしい行いを味わいました。それは神を愛し、満足させるようわたしをかき立てます。今日、これまでと同じくわたしはやはり教会でわたしの本分を尽くします。わたしはいのちの正しい道で神に従い、真理を求め、意味あるいのちを生きようとします。