賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

私はキリストを見るのにふさわしくない

2019-11-19 22:11:59 | 勝利者の証し

   全能神を信じるようになって以来、キリスト自身による牧養を受けることができ、自らの耳でキリストの説教を聞くことができる兄弟姉妹のことをずっと尊敬しています。心の中では、いつか私も将来キリストの説教を聞くことができたらどれほど素晴らしいかと思っています。もちろん、キリストを見ることはもっと素晴らしいことでしょう。けれど最近キリストの交わりを聞いたことで、私はキリストを見るのにふさわしくないと深く心から感じるようになりました。


   

   それは『いのちへの入りに関する説教と交わり第1~3巻』が発表されたときでした。第1巻を聞いたとき、私は聖霊に使われている人は話がとても上手だと感じました。第2巻で、ある姉妹の話を聞いたとき(これはこれらの交わりがキリストによるものであると誰かが教えてくれる前のことです)、私はこの人は単に聖霊に使われている人より格下のリーダーなんだろうなと想像しました。特に、知識をどのように見るべきかという問題についてこの姉妹が話したとき、兄弟姉妹が熱心に反応するのを聞かなかったので、私の想像は当たっていると確信し、またこの人は聖霊に使われている人ほど話が上手でないと感じたので、注意深く聞いていませんでした。第3巻を聞いた後、聖霊に使われている人の話の後、私は同じ姉妹が「今の兄弟の交わりについて…」と言うのを聞きました。それで私は余計にこの姉妹は聖霊に使われている人より格下のリーダーに違いないと確信したのです。というのも、上司が最初に話し、部下が後で話すのが世間の常だからです。そのため「あとで時間があるときにこれを聞こう」と思いながらスピーカーを切りました。この姉妹が実はキリストであると知った日、私はショックを受け、そしてついに説教の一字一句に真剣に耳を傾けました。

   その後、私は熟考を始めました。私はキリストの交わりを自ら聞きたいと強く願っていたのに、キリストがついに私たちに話しかけたとき、なぜ私は見分けることができなかったのでしょうか。私はこんな状況に関連する神の言葉を飲食し始めました。そして、神がこう言っていたのです。「すべての人はイエスの真の顔を見たい、イエスと共にいたいと思っている。イエスを見たいとも、イエスと共にいたいとも思わない兄弟姉妹がいるとはわたしは思わない。イエスを見る前には、つまり、受肉した神を見る前には、たとえばイエスの外観、話し方、生き方などについて、あなたがたはあらゆる考えを抱くことであろう。しかし、ひとたび本当にイエスを見たら、あなたがたの考えはすぐに変わる。なぜか。その理由を知りたいか。人間の考えを見過ごすことはできないというのは本当である。しかしそれ以上に、キリストの本質は人間が変えることを許さない。あなたがたはキリストは神仙であり、あるいは賢人としてとらえており、誰一人としてキリストを神聖な本質をもつ普通の人としてとらえていない。したがって、昼も夜も神に会うことを切望している人の多くが実は神の敵であり、神と相容れないのである。これは人間側の間違いではないだろうか。今でさえ、あなたがたは自分の信心と忠実は十分なので自分はキリストの顔を見るのに相応しいと考えている。しかし、わたしはあなたがたに実際的なものをさらに多く備えるように強く勧告する。これは、過去、現在、未来において、キリストと触れ合う人の多くが失敗したから、また失敗するからである。彼らは皆パリサイ人の役割を演じる。あなたがたの失敗の理由は何か。それはまさに、あなたがたの観念の中に立派で称賛に値する神がいることである。しかし実際は人間が望むとおりではない。キリストは立派でないだけでなく、特に矮小である。キリストは人間であるというだけではなく、ごく普通の人間である。…人々はキリストと共にいるときにキリストを気軽に扱い、…あなたがたは既に到来したキリストを普通の人間とみなし、その言葉を普通の人間の言葉とみなしている。このため、あなたがたはキリストから何も受け取っておらず、代わりに自らの醜さを完全に光にさらけ出しているのである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より)神の言葉と比べて、私はキリストの交わりをついに聞いたときに自分の堕落した性質がどのようにはっきり示されたかを考えました。私はキリストの説教と交わりを自分の耳で聞きたいと望んでいたのに、キリストの交わりをついに聞いたときに、気にもとめませんでした。私はキリストをただ普通の人間とみなしていました。これは私がキリストの本質を理解せず、キリストが謙遜し隠していることのすべてを理解せず、キリストについての考えや観念を多くもちすぎていたからです。キリストの交わりはキリストに直接会える兄弟姉妹に限定されていて、他の人々は自らの耳でキリストの交わりを聞くことは許されないに違いないと私は想像していました。キリストの交わりは、キリストが正体を公に発表することを伴うのだろうと私は想像していました。キリストの交わりは、何らかの特別な人のように他の人々とは違う声で、多くの優美な言い回しをもって語られるはずだと私は想像していました。キリストの交わりは兄弟姉妹の興奮した情熱的な歓声に伴われるのだろうと私は想像していました。そして、聖霊に使われている人とキリストが順番に話すのならば、キリストが最初に話し、聖霊に使われている人は最後に話す…私はキリストの働きと言葉を私の想像の境界内に閉じ込めてていました。私はキリストを特別な仕方で想像したからです。事実が私が想像していたことと食い違ったとき、私はキリストを普通の人として、キリストの言葉を普通の人の言葉として扱い、他の人々が交わりから多くを得た一方で、私は何も得られず、傲慢で、思いあがった、真理を軽蔑するサタンのような自らの本性を曝け出し、キリストを拒否し抵抗する者となったのです。

   後になり、私は神の言葉に次のことを見つけました。「あなたがたはキリストを見たいと常に思っているが、自分をそのように高く評価しないことをわたしは勧める。誰でもキリストを見ることができるが、誰もそうするに相応しくない、とわたしは言う。人間の本性は邪悪、傲慢、反抗心に満ちているため、キリストを見た瞬間にあなたの本性はあなたを破壊し、あなたを死に至らせる。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より)「真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。…真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より)私があまりにも傲慢で、あまりにも反抗的で、あまりにも俗物で、身分や地位を持っている人たちであればあまりにも容易に傾聴し同意する気になるのに、一方では身分や地位を持たない人々を見下し、そのような人々が真理にしたがって語っても聞こうとしないため、神の声を認識することができないのだと、神の言葉により理解しました。交わりを聞いたとき、私は真理に集中せず、真理を得ることを望まず、その代わりに心は臆測と探求に没頭していました。私は傲慢さと反抗、観念と想像だけを暴露したのです。私のように傲慢で、反抗的で、真理を受け入れない者が、私のように信心や真理への渇望がない者が、いったいどうして神の声を聞き、知ることができるのでしょうか。どうして私がキリストを見るのにふさわしいでしょうか。

   この啓示を通して、たとえ私がキリストを見たいと思っても、サタンによる私の堕落があまりに深く、生来私は傲慢で反抗的であり、私には真理がなく真理への愛もなく、キリストの本質を理解せず、ばかげた偏見で判断し、あまりにも多くの観念や考えを持ち、私が信じる神は依然曖昧な神であり、力強く雄弁な姿かたちをしているため、私はキリストを見るにはふさわしくないということをついに理解したのです。そして私が本当にキリストを見ると、私の観念は根を張り、私の傲慢さはいつ芽を出すか知れず、そのため私の反抗的な本性が私を滅ぼすかもしれません。今私は真理を身にまとい、神の言葉において私の堕落した本性とキリストの本質を理解することを求め、キリストを理解し崇拝する人にならなければなりません。


自分の霊的背丈がはっきり見えた

2019-11-10 21:54:18 | 勝利者の証し

   ある時参加した教会のリーダーミーティングで、新たに選出された教会のリーダーの1人が次のように言いました。「私には十分な霊的背丈がありません。この本分を果たすのに、私は適任ではないと感じています。あまりにも多くのことにプレッシャーを感じ、ここ数日は眠れていません…」この頃、私は神様を求める中で重荷を感じていたので、彼女に話しかけました。「すべての仕事は神様によるものです。人間はほんの少しばかり協力するに過ぎません。私たちが重荷を感じるならば、もっと頻繁に神様の前に出て、神様に頼ることで、神様の全能さや知恵を知ることができるでしょう。私たちの仕事で重荷を感じるのは良いことです。けれど重荷が苦悩となるならば、これは障害となり、ネガティブな気持ちを招き、神様を誤解することにさえつながります。」神様のお導きにより、私は自分の伝えたことが特に彼女に光を与えたと感じました。この姉妹も、彼女の心に神様の居場所がいない状態になっていたこと、そして神様に頼るのではなく、自力で行おうとしていたことに気が付き、霊的に成長する道を見つけました。この時、真理のこの側面に対する現実を私が把握していることを証明し、姉妹の問題を解決できたと考え、非常に嬉しくなりました。

  2ヶ月後、教会は私を異動させ、資料の編集にあたらせました。その仕事に携わるようになった当初、私はそれに関係する原則を理解しておらず、編集しなければならない資料を見るたび、消極的になって葛藤を覚えずにはいられませんでした。何も理解していないのに、この本分を尽くす責任だけでなく、これら資料の問題点を明らかにする任務さえ与えられたのです。私がこなせる以上の仕事でした。私は大きなプレッシャーを感じ、気持ちを落ち着かせることができませんでした。また、神様にどう頼れば良いかも分からないでいました。あまりにも不安が大きくなり、三日三晩眠れませんでした。このような状況の中で、とても当惑してしまいました。あの新任の教会リーダーの問題を解決した時、私は真理のこの側面を完全に理解したと感じていました。しかし、自分が同じような問題に直面した時、このような経験の対処方法が分からないのはなぜでしょうか。私は混乱した気持ちと困惑を抱えながら神様の前に出ました。



   

   その後、「働きと入ること(2)」の中で次のような神様の言葉を見つけました:「人間が働きを行い、話をするとき、あるいは霊的日課として祈る時、突如として真理が明瞭になることがある。しかし、実際は、人間が理解したことは単に聖霊の啓きに過ぎず(必然的にそれは人間の協力に関連している)人間の真の背丈ではない。人間が一定期間の経験において真の困難に数多く遭遇した後、人間の真の背丈はこのような状況において明らかにされる。…こうした経験を何周期か経た後になって初めて、霊において目覚めている人の多くが、それが従前における自分の現実ではなく、聖霊による一時的な照らしであり、人間がその光を受けただけであることに気付く。聖霊が人間を啓いて真理を理解させる時、それはしばしば明瞭かつ顕著なもので、前後関係はない。すなわち、神は人間の困難をその啓示の一環とせず、むしろ直接的に真理を啓示する。いのちに入ることにおいて困難に遭遇すると、人間は聖霊の啓きを採り入れ、それが人間の実際の経験となる。」(『言葉は肉において現れる』)この一節を熟考しているうちに、次のことを理解しました。姉妹が問題を解決するお手伝いをした時に私が理解した真理は、神様の光によるものでした。この時、私が神様と協力したために、聖霊の啓示を受け取ったのです。しかし、それは私の本当の霊的背丈ではなく、真理のその側面を把握していたことを証明したわけでもありませんでした。あの時、聖霊が真理を理解するよう私を啓いてくださったのは、それが私の仕事に必要だったからです。そして私が協力することにより、神様は私の仕事での問題や困難を解決するのを助けてくれました。しかし、この点に関して実際に自分で経験するまでは、私の霊的背丈は極めて小さいものでした。ですから、霊的成長において困難に遭遇した時は、聖霊の啓示を受け入れることによってのみ、真理が自分のいのちとなるのです。

   神様の言葉による啓示と導きにより、私は心を落ち着かせ、神様に畏敬の念を抱き、頼りました。そして、資料の編集に関わる原則を慎重に比較検討していくと、私は気付かないうちに神様の啓示と導きを受け取り、資料の中にある問題を徐々に見つけられるようになり、資料を修正する中で考えがずっと明確になってきました。さらに、消極的な気持ちや誤解から段々と自分を解放することができました。

   神様に感謝します。この経験を通して、私は自分の霊的背丈をはっきりと認識し、自分の理解が正しい道から外れていたのを修正することができました。このことにより、聖霊が啓示した真理を理解していることは、真理のこの側面の現実を把握していることを意味するものではないと認識できました。これからは、今以上に聖霊の啓示を実生活に活かし、実践し、成長し、これらの真理が、本当の意味で私のいのちの現実になるようにしていきたいと思います。

 

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私は真の幸福を手にしました

2019-11-05 21:15:33 | 勝利者の証し

   私はごく普通の農家に生まれました。私の家族は裕福ではなかったものの、私の父と母はお互いを愛し合い、私のことも大切にしてくれました。私達の家庭生活はとても豊かで、恵まれていました。私は、大きくなってから、「私も優しくしてくれる旦那を見つけて最高に満足で、幸せな家族を築かなきゃいけないわ」と自分に言い聞かせました。これが一番大切なことでなのです。私は富がなくても、旦那との愛情豊かな関係と平穏な家庭生活さえあればそれでいいのです。


   

   私の旦那とは共通の知り合いを通じて出会いました。私は、彼はとても背が低かったので好きではなかったのですが、私の父と母は彼のことをとても好意的に見ていました。二人は私に、「彼は誠実な人だから、お前のことを大事にしてくれるよ」と言いました。私は旦那がとても誠実に人と接している所を見て、彼が自分の家族を大切にする人のように見えたので、「背が少し低くてもいいか。私のことを大事にしてくれさえすれば、それでいいわ」と思いました。こうして、私は結婚に合意して、1989年に私達は結婚しました。結婚後、私の旦那は私にとても優しく、私のことをとても大切にしてくれました。私の結婚生活はとても満足で、豊かなものでした。私は、旦那が私を大切にしてくれたことを心の中で覚えています。私もまた、彼の事を一心に気遣い、全ての事において彼の事を思いました。私達が2人の娘達を授かった後、旦那に職場で安心してもらおうと思った私は家で家族の世話をしました。当時、私の幼い娘は頻繁に病気をしており、ある時の夜中、彼女は突然熱を出したのです。私の旦那はその時夜勤を働いていたので家にはいませんでした。パニックになった私は自分で娘を病院に連れて行くことにしました。これを知った旦那は家に帰ろうとしてくれました。彼は私にあまり大変な思いをして欲しくなかったのです。私は自分の旦那がこんなに優しくてとても幸せでした。後に、二人の子供は村を出て学校に通うことになりました。子供達が学校に通う間、そばで面倒を見てあげられるように私は泊まる場所を賃借しました。ある程度のことを自分で対応できている限り、私は旦那に面倒を掛けないようにしていました。困難なことがあったり、私が少し疲れている時でも、私達の旦那と妻としての関係はお互いの愛情と支え合いで満ちていました。私はとても恵まれた生活をしていると感じていたのです。

   当時、私の旦那の給料は日常の経費を何とかやりくりできる程度しかありませんでした。私達の生活は少し大変でしたが、私は決して旦那に文句を言いませんでした。私は旦那と妻は人生の喜びと悲しみを分かち合うべきだと感じていたのです。その後、旦那の職場の経済状況が悪化して、旦那は毎月それまでのわずか半分しかもらえなくなってしまったのです。近い将来、私達は子供達の学費を払えなくなっていたでしょう。私は、旦那にかかるプレッシャーを軽減しようと、親戚から頻繁にお金を借りていました。私は、「この困難は一時的なもので、状況はそのうち良くなる」、と思っていました。お金を長い間借り続けていたため、私達の借金はどんどん増えていきました。旦那と私は共に大きなプレッシャーを感じていました。2013年に、私の旦那は海外に出稼ぎに行くことを考え始めました。それ聞いた私は、最初は気乗りしなかったのですが、「彼が2,3年の間海外に出稼ぎに行けば、私達の借金をいくらか返済できるし、家庭環境も改善できるわ」と考えました。しかも、私達は子供達が育ち盛りであったため、良い生活環境を与えてあげたかったのです。家族のためにと思い、私は旦那が海外に出稼ぎに行くことに賛成しました。

   私の旦那はカンボジアに3年間働きに行きました。この3年の間、私は家で子供達と年配の両親の世話をしました。最初は、旦那もよく電話をくれて、家族を大事にしていることを示してくれていました。彼は仕送りもしてくれていました。後に、旦那はどんどん電話をしなくなり、仕送りもとても少なくなっていったのです。ついに、旦那は全く仕送りをしてくれなくなり、家にも滅多に電話をしてくれなくなるほど状況は悪化してしまいました。私は、旦那に何か起こったのではないかと心配になり、娘達を連れて彼の元へ向かったのです。私達はカンボジアに着いて、旦那の無事を確認することができたので、私はとても安心しました。私達はカンボジアが初めてだったので、私は娘達と一緒にしばらくそこに滞在して、帰国するまで旦那と一緒にいる準備をしていました。しかし、家の外で旦那と一緒にいると、旦那を知る人達が私を変な目で見るのです。私達は地元の言語を話せなかったので、彼らが何を言っているのかは解りませんでした。その一週間後、私の旦那が突然、見知らぬ子供を腕に抱え私の前に連れてきたのです。旦那はこの子にこう言ったのです、「早く叔母に挨拶するんだ。」何が起こっているのか分からなかった私はただ呆然と見詰めてしまいました。旦那に聞いてみると、この子供は彼がカンボジアで出会った女性との間に生まれた子供であったことが分かったのです。私は言い表せないくらいに腹が立ち、どうしていいのか分からなくなりました。私が旦那を非難した時、彼は素っ気なくこう言ったのです。「こんなのよくあることだよ。ここでは沢山の人がやってることだよ!」旦那がこう言ったのを聞いて、私は体中が震えるほどに腹が立ちました。長年に渡ってお互いを愛し合ってきた後に、彼がこんなに冷たく無情なことを口にして、こんな恥知らずのことをしてしまうなんて考えてもいませんでした。私は怒りに任せて旦那を2回引っ叩きました。私は旦那の裏切り行為を受けて麻痺してしまいました。旦那に裏切られた事実は予告なしに私をめがけて落ちて来た雷のようでした。彼はこんなことを仕出かすような兆候を見せたことは今まで一度もなかったのです。私はこんなことをした彼を許せませんでした。私は床に座り込んで、血涙を流しました。私は何度も自分にこう問いかけました。「どうして旦那が私にこんなことするの?私の知る旦那はどこに行ってしまったの?彼の永遠の愛の誓い、優しさや気遣いはすべて嘘だったっていうの?私は全てをこの家族に注いでいたのに。旦那にお金や物を欲しいと言ったことすらないのに。」しかし、こうなった今、旦那の裏切りは私にとってとても大きな屈辱で、私にはこのまま生き続ける尊厳がないと感じました。

   その後、私は毎日のように泣きじゃくりました。私はあの女性と子供を嫌いました。私は離婚して娘達を連れて帰り、このいわゆる家族から出て行く決意をしたと旦那に伝えました。私は旦那が離婚に合意しないとも、あの女性と別れたがらないとも思いませんでした。後に、私は、自分の家族の中に私の旦那が他の女性を見つけて、その女性と子供を持っていたことを知っていた人が何人かいたことを知りました。彼らはそのことを私に隠していたのです。私は尊厳を以て生きれていないともっと強く感じるようになってしまいました。私はこの家族のために苦労しながら犠牲を払ってきました。まさかそのお返しに裏切られ、騙されることになるとは全く思っていませんでした。私は心から悲しみました…この裏切り行為はそれだけでとても痛ましいものであったのに、それよりも許し難かったのは、私が旦那とあの女性を知る人達から変な目で見られたり、非難されたりまでしたことでした。元々は、私を裏切ったのは旦那で、私の家庭を台無しにしたのはあの女性でしたが、今となっては、他の人達の目に私が第三者として映っているのです。当時感じた苦しみを言葉で表現することはできません。惨めな思いをしていると時間が経つのは早いもので、私の体重はあっという間に10キロ以上も減ってしまったのです。

   私が完全に落胆していた当時、私は終わりの日における全能の神の御救いと巡り合いました。私の隣人であるリン・チンがこの事態を知った時、彼女は私の家に来て私に福音を説いてくれたのです。彼女は、「神を信じなさい。神はあなたをお助け下さるわ」と言ったのです。しかし、無神論を信じてきた私がそんな簡単に神を信じれるはずがありませんでした。私は彼女に何の返答もしませんでした。その後、リン・チンは再度私にこう言ったのです、「神の御言葉を読みなさい。神はあなたを御救い、あなたがこの苦しみから抜け出せるようにしてくださるわ。」彼女はとても切に話してくれたので、私は感動しました。又しても彼女をはねつけることを恥ずかしく思った私は、代わりに「言葉は肉に現れる」という本のコピーを受け取りました。私はこの本を開き、この節を読んだのです。「全能者のいのちの供給から離れた人類は、自分がなぜ存在するのか分からず、しかも死を恐れている。支えもなく援助もないが、人類は依然、彼らの目を閉じようとせず、仕方なく、霊の目覚めもなき肉体で、この世における下劣な存在のままいい加減に生きようとする。あなたは、このように生きている――何の希望もなく。彼も、このように生きている――何の目的もなく。伝説上のその聖なる者だけが、苦しみにうめき、彼の到来を待ち焦がれる人たちを救うために来ることができる。…あなたが疲れているとき、この世の荒廃を感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない全能神という、見張る者はいつでも、あなたが来るのを抱擁して迎えるだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より)この神の心のこもった御言葉を読んで、私は涙でいっぱいになり、この神は本当に人類を理解されていると感じました。旦那の裏切りに直面した時、私は死にたかったのですが、それを実行する勇気がなければ、そんな形で死ぬ覚悟もできていませんでした。私は人生の方向性と目的を見失い、自分自身を諦めたくもなりました。しかし神の御言葉を読んだ時、私は人生の希望を持てるようになり、私の心も平安を見つけたのです。旦那には裏切られましたが、私は神に頼ることができたのです。私は独りではなかったのです。全能の神はこう仰いました、「この世の荒廃を感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見張る者はいつでも、あなたが来るのを抱擁して迎えるだろう。」私は傷ついていたし、自分を気遣ってくれる人が一人もいなかったので、神に頼る気になれたのです。私は神の抱擁を必要としていたのです。私は、毎日が苦しく、しんどくて、そのまま生きて行きたくありませんでした。人類をとてもよく理解されておられる神は私がこの苦しみから離れられるようにお導き下さったのです。結果、私はリン・チンと一緒に神の御言葉を読み始めました。私達は神の御意図について話し合い、神を崇拝する讃美歌を学びました。私は、「大変な時は、神に祈りを捧げて、神の御言葉を読むの。そうしたら神はあなたの傷ついた心を慰めて下さるわ」、というリン・チンの言葉を受け、彼女の言った通りにしました。私は、全能の神の教会にいる兄弟姉妹達が撮ったミュージックビデオと讃美歌の動画を見て心の中で幸せを感じ始めたのです。私は神の家族のみが本物の愛情を持っており、本物の喜びは自分の兄弟姉妹達と一緒にいてのみ得られるものだと感じました。「カナンの地の幸福」という動画を見た時は特にそう感じました。歌ったり踊ったりしている兄弟姉妹達と一緒になって私の心も踊っていました。苦しみ落ち込んでいた私の心は直ぐに元気を取り戻し、ついには笑顔までが私の顔に戻り始めたのです。私はすかさずこれが私の求める家族なのだと感じました。その結果、私は兄弟姉妹達と過ごす教会での生活を楽しんだのです。

   後に、私は更にこの神の御言葉を読みました。「サタンが社会動向を利用して人間を腐敗させる問題についても、説明が必要であろう。この社会動向には、様々なものがある。一部の人々は、「それは、人間の衣服のことであるか。それは最新のファッションや化粧、ヘアスタイルやグルメに関することであるか。」などと言う。社会動向とは、そうした物事に関することであるか、というと、それらも社会動向の一部であるが、ここでそうした物事については取り上げない。ここでは、社会動向が人間にもたらす考えや、世社会動向が世間において人間の行動にどう影響するか、そして社会動向により人間にもたらされる人生の目標や人生観についてのみ、議論する意向である。社会動向は、人間の精神状態を支配し、影響を与えることがあるので、極めて重要である。こうした社会動向には、それぞれに人間を継続的に退化させ、人間の倫理や性質をますます低下させる邪悪な影響があり、現在においては、大部分の人々に誠実さや慈悲、良心はなく、理性など尚更欠如している状態にまで達している。…大部分の人々は、無意識のうちに、そうした社会動向に継続的に汚染され、捕らわれ、魅惑され、やがてそれを無意識のうちに受け入れるようになり、そうした社会動向に呑み込まれて支配される。こうした社会動向は、心身の健全さが欠如し、真理とは何かを知らず、肯定的なものと否定的なものの判断が出来ない人間に、そうしたサタンに由来する社会動向や人生観、人生哲学、価値観を、次々と進んで受け入れさせる。この種の人々は、どのような人生を送るべきかに関してサタンが述べた言葉や、サタンにより「授けられた」生活の道を受け入れる。この種の人々には強さ、能力、またことさらに拒否する意識が欠乏している。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より)私は神の御言葉のこの部分を読んで、「こんなによくあることだよ。ここでは沢山の人がやってることだよ!」という旦那の言葉を思い出しました。私の旦那の考え方は、サタンの影響を受けた社会の悪質なトレンドが人々を堕落させ、同化させてしまうという神が明らかにされた真理の中で説明されていることではないでしょうか?旦那は、国を出る前は、自分の家族の面倒を見て、私と子供達を大切にしてくれていました。しかし、出稼ぎのために家を出てからわずか3年の間に、彼は社会の悪質なトレンドを完全に従うようになってしまい、自分の家族を裏切ってしまったのです。そこで私は、「現代社会では人の愛人になることは恥ずかしいことではないわ。実際にはよくあることじゃない」と思いました。多くの男性は、「家庭の赤旗は落ちず、色付きの旗は外でそよ風にはためく」、といった悪質な思考に痛手を受けているのです。こうして彼らは恥じることなく不倫してしまうのです。彼らは不名誉なことをしてでも、栄光を手にすることに動機付けられているのです。私の旦那は私と離婚したくないと同時に、あの女性と別れたくもないのです。彼はこのような思考と観念によってコントロールされてしまっているのではないでしょうか?神の御言葉を読んで、私は、「事実上は、皆が犠牲者であり、サタンの邪悪な思考によって騙され、それ故に、私達は道徳と羞恥心を失ってしまうほどに堕落させられている「、ということが理解できました。人々は自分の利己的な欲望を満たして一体何を得ることができているのでしょうか?実際に幸せになっているのでしょうか?私の旦那とあの女性について言うと、あの二人は私よりも幸せだとは思いません。更に言うと、私達の子供達は罪のない犠牲者なのです。私の家族が直面した不幸はサタンによる堕落と害によるものではないでしょうか?私自身について考えても、もし神の御救いに巡り合っていなければ、私も社会の悪質なトレンドにむしばまれていたと思います。私は、旦那が他の女性を見つけたんだから、自分も同様に他の男性を見つけられると思いました。私は間違ってももらい手のない女性ではないのです。私はサタンに飲み込まれそうになっていた時に私を御救い下さった神に感謝しています。神は私が神の前に行って、神の御加護を受けられるようにして下さったのです。そうでなければ、私はこの社会の悪質な潮によって没落させられていたことでしょう。

   私は読み続けていると、この神の御言葉を目にしました、「サタンが人間を腐敗させるとき、あるいは留まることを知らない危害を加えるとき、神は何もせず傍観することも、神の選民を無視したり、見て見ぬふりをしたりすることも無い。…神は、人間の心が蘇ることを求めている。つまり、神がこのようにして人間に対して業を行うのは、継続的に人間の心を目覚めさせ、魂を目覚めさせ、人間がどこから生まれたか、人間を導き、支え、また人間に与え、人間の存在を現在まで維持しているのは誰かを認識させるためであり、創造主は誰であるか、誰を礼拝すべきか、人間はどのような道を歩むべきか、人間はどのようにして神の前に来るべきかを人間に認識させるためである。こうした方法が用いられるのは、人間が神の心を知り、理解し、神による人間救いの業の根拠となる大いなる慈しみと思いを理解するように、人間の心を次第に蘇らせるためである。人間の心が蘇ると、人間は堕落し、腐敗した性質の生活を送ることを望まなくなり、その代わりに神が満足する真理を求めることを望むようになる。人間の心が目覚めると、人間はサタンと完全に訣別できるようになり、サタンによる危害を受けなくなり、サタンにより支配されることも騙されることも無くなる。その代わりに、人間は神の業と言葉に積極的に協力して神の心を満足させ、神に対する畏れと邪悪の忌避を得る。これが神の業の元来の目的である。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より)私は神の御言葉を読んで、サタンがありとあらゆる社会のトレンドを利用して人を堕落させていても、神はその間ずっと人類を救う働きをなされているのだと理解することができました。私達が深く堕落し過ぎていても、神は決して私達を救うことを諦めてはおられなかったのです。終わりの日において、神は人類の魂を呼び覚まし、人類がサタンの邪悪な卑劣さを見抜けるようにするために、また肉となられ、神の御言葉を発して下さったのです。神は、私達が真理を追い求め、堕落したサタンのような性情から抜け出し、サタンから完全に離れ神の元に戻れるようにするために私達を目覚めさせてくださったのです。神の御言葉から、私は、神のみが純粋で聖なる本質を持っておられ、神は悪と邪悪さを御嫌いであり、私達人類全員が神の前に行き、神の御言葉の御導きを受け入れて、光による御啓蒙を手にすることを願っておられるということも理解できました。サタンの悪質な思考は人類の心を堕落させ、人類がそれから抜け出す力を失わせて、人類が少しずつ堕落して行き、飲み込まれていくように仕向けていたのです。神のみが私達を救うことを御出来になるのです。神の御示しになる真理によってのみ、私達は人類を堕落させようとするサタンの悪質な計略と策略を見抜く事ができるようになり、サタンによる害から抜け出す力を持って本当の人間のいのちを得ることが出来るようになるのです。私は全能の神に感謝いたします!全能の神が私を苦しみの底から救って下さったのです!私は神の御言葉を読み、真理を追い求め、最終的には神の御救いを受けられるようになりたいと思っています。

   最近、私は神の御言葉を読み続けている内に、真理を少しは理解できるようになり、多くの状況の中を見抜くことが出来るようにもなりました。私はもう自分の旦那も、あの女性も嫌ってはいません。彼らは自分達の生きたい生活を自由に選ぶことが出来るのです。私の親戚と友人はどうかと言うと、彼らとも落ち着いて接することが出来ています。私はもう自分の親戚を責めることは止めました。なぜなら、私達全員がサタンによって堕落させられた犠牲者だからです。現在、私は頻繁に自分の兄弟姉妹達と一緒に集会に参加しています。私達は神の御言葉を読み、自分達それぞれの体験について話し、共有し合っています。私達は毎日、神の御言葉の恩恵を受けています。私達の心の中には平安と喜びがあり、私達の生活は明るい希望で満ちています。全能の神様、私を人生の正しい道に導いて下さり、そして私に真の家族をお与え下さり、どうも有難うございます。私はここで、本当の幸福を手にすることが出来たのです!私は永遠に神に付いて行きます!


神様の一言一言はその性質の表れである

2019-10-28 22:09:39 | 勝利者の証し

   神様の次の言葉を読む度に私は不安になりました。「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている。わたしの言葉を慎重に熟考するとよい。必ずそれらから多くの利益を得るであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することは極めて重要である」より)私が不安を感じていたのは、神様の性質を理解することが、神様に関する人間の認識と、神様を愛し、神様に喜んでいただこうと求めることの両方にとって、とても大切だからです。しかし神様の御言葉を飲み食いするにあたって、私はいつも神様の性質が抽象的すぎると感じ、どのように認識すればいいのかわかりませんでした。その後、指導者との交わりを通じて、神様が何を好まれ何を嫌われるかはその御言葉から学ぶべきで、それによって神様の性質を理解できるようになるのだとわかりました。続いてしばらくそれを実践したところ、ある程度の成果を挙げることができました。しかしそれでもまだ「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている。」という神様の言葉に困惑を感じ、いったいどう理解すればよいのかわかりませんでした。


   

   ある日、私は次の説教の言葉を読みました。「神様の性質には、神様が所有されているものと神様そのもの、神様の思いや識見、考えや知恵など、様々な側面が含まれます。神様の憐れみと配慮の感情、さらには人類の反抗や抵抗に対する怒りなど、ありとあらゆる人に対する神様の態度を含んでいるのです。神様の各文章には神様の考え、知恵、識見が含まれ、そのすべてに神様の御言葉の背景と源があり、どれも神様の人間への態度を自然と表し、一文たりとも根拠のないものはないので、各文に神様の性質が含まれているのはごく当然のことです。人間の口にする一言一句が人の性質を表すなら、神様の一言一句には神様の性質がはるかに多く含まれませんか。それは容易に理解できるものですが、それを見つけて知ることは人が想像するほど簡単ではありません。神様の言葉を読むにあたって、十分に理解しようとせず、努力を十分傾けず、十分な経験もないのであれば、神様の性質を簡単に知覚することはできず、ましてや理解するなど困難です。そのため、人は神様の御前で自分を静め、心をひたすら神様の御言葉に集中させ、祈りながら御言葉を読み、それを理解しようと努めることが必要なのです。そうすれば神様の御言葉の裏にある考え方の枠組みを見いだせるようになります」(『キリストの言葉の記録』の「全ての教会からの質問への回答」より)。この言葉を読んですべての辻褄が合いました。神様の性質が数多くの要素を含んでいることに気づいたのです。そこには神様が所有されているものと神様そのもの、神様の考えと識見、思考と知恵、そしてあらゆる人に対する神様の態度などが含まれています。さらに、神様の各文章には御言葉の一語一語の背景と源があり、根拠のない文章は一つもなく、神様がなさるすべてのことと、神様がお語りになるすべての文章は、いのちにおける神様の存在そのものを残らず自然に表しています。一方、神様の性質に関する私の理解は、神様が何を好まれ何を嫌われるかだけに限られていました。このような理解はあまりに一方的であり、そのせいで神様の各文章から神様の性質を理解することができなかったのです。これ以外にも、神様の性質を神様の各文章から理解したければ、神様の御前で自分を静め、神様の御言葉を理解しようとすることにもっと努力を傾ける必要があるとも知りました。さらに、神様の御前で祈ってお導きを求め、神様がお語りになった御言葉の裏にある考え方の枠組みと、神様の御業の背景と源を理解することに集中する必要もあったのです。

   私はこれらのことに気付かせてくれた神様の啓きと照らしに感謝し、その後はその側面の実践をして入ってゆくことに集中しました。そんなある日、神様の御言葉の一節を読みました。「この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。誰が任務にふさわしいかは、その働きの性質と重要性とによって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち神の霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊の働きの性質対肉の働きという観点からは、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉とどちらの働きをするかの決定の際の、これが神の判断であった。」(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は受肉した神による救いをさらに必要としている」より)この御言葉を慎重に理解しようとしていると、すごい宝物を発見したかのように感じました。神様の御言葉は、終わりの日にどのような方法で働きをなさるかについて、その時点における神様の考えの進展を示しています。考えが進展する中で、神様が最初に検討なさったのは、どの方法を用いればこの働きにおいて最も人間の益となるのか、人間を救うにあたって成果を挙げるにはどうするのが最善なのか、サタンに敗北を受け入れさせ、それによってサタンを征服し、深く傷つけられた人を完璧な救いへと導くにはどうすべきかということです。考えを巡らせる中で、神様は常に人間のことを気になさり、ご自分の益や安全は決して気になさいませんでした。神様は受肉によって多くの苦難を受けるであろうことをはっきり知りながらも、人類を救うとなると、それは考慮の対象ではありませんでした。その代わりに、神様は人類が必要としているものと、人類の堕落の現実に基づき、終わりの日の働きをなさるために、肉体となる方法を選ばれました。大きな危険を冒して虎の住処の奥へ入り、赤い大きな竜によるひどい迫害と追及に苦しみ、様々な宗教や教派からの虐待と冒涜に耐え、さらには神様に従う私たちからの抵抗、反抗そして誤解にも耐えています。神様が心に負った傷や非難、そして神様が耐える屈辱は、まことに誰ひとり理解することができないものです。神様が表現し、明らかになさることはすべて、いのちにおける神様の存在そのものです。神様の人に対する無私の献身と、人のために払う代価なのです。神様が偉大にして無私でいらっしゃることは、その働きと各文章に自然と現れており、またそれらは神様の素晴らしい憐れみと無私の愛をも象徴しています。人類に対する神様の愛は単なる空虚な言葉ではなく、神がお払いになる実際の代価なのです。その時、神様は本当に偉大で愛しい方だとはっきり感じました。これらの神様の御言葉は以前に読んだことがありましたが、キリストがお語りになった御言葉の背景や、それらが明らかにしたすべてのことは理解しておらず、人類に対するキリストの愛も理解していませんでした。いま初めて、「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている。」という神様の御言葉を真に理解できたのです。

   それまで、私は心を静めたことも、神様の御言葉を理解しようと真剣に努めたこともなかったせいで、今日に至っても神様に対する多くの観念と誤解を抱いたまま、いまだに神様から遠ざかっているほど、神様を理解するたくさんの好機を失ってしまいました。いまようやく、神様の性質を理解したいのであれば、神様の各文章にある真理を真剣に突き止め、求めようとしなければならないことがわかりました。そうすることできっと大きな益を得られます。今日からは、神様の御言葉により多くの努力を集中させ、神様について何らかの認識をもつ人に早くなろうと思います。


生と死の戦い

2019-10-22 22:33:02 | 勝利者の証し

   全能神の御言葉にこうあります。「あなたが肉体に反抗する時、あなたの中では必然的に戦いが生じる。サタンはあなたを肉体に従わせようとし、肉体の観念に従い、肉体の利益を維持させようとする――しかし、神の言葉はあなたの目を開き、心の中に光を当てる。この時、神に従うか、サタンに従うかはあなた次第である。神は人々に真理を実践に移すよう要求するが、それは心の中の問題に焦点を当て、神の心に従っていない考えや観念を取り扱うためである。聖霊は人々の心の内部に触れ、彼らの心の中で神の働きを実行するので、起こることすべての背後には戦いがある。人々が真理を実践するたびに、あるいは神への愛を実践するたびに、激しい戦いがあり、すべては肉体と折り合いを付けているように見えるかもしれないが、実のところ、彼らの心の奥底では生と死の戦いが起こりつつあり――この激し戦いの後、膨大な量の熟考をした後ようやく、勝利か敗北かが決められる。人は笑うべきか、泣くべきかわからない。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)この神様の御言葉を読むたびに、次のように考えたものです。「真理を実践することは本当にそんなに難しいものだろうか。人々が真理を理解していない時は、それを実践することはできない。一度理解したら、神様の御心に則して行動するだけで十分ではないのか。本当に『心の奥底では生死を分ける闘いが起こる』と言うほど深刻なものだろうか。」後に実際に体験するまで、真理を実践することが簡単ではないということを実感できませんでした。神様が言われたことは、事実に完全に則しています。誇張は少しもありません。



 

  少し前のことですが、私は一緒に働いている教会の姉妹が傲慢で、私を見下していると感じ、自分自身が正しくない状態に陥るのを止めることができませんでした。彼女のせいで、あれこれと自分を束縛するようになり、働きにおいてもそれを払拭することができませんでした。何かを言うときにはおとなしくし、何かをするときは慎重にし、しばらくすると、私の言動への彼女の反応を見ずにはいられなくなるほどで、もはや私は自分の働きを担っておらず、完全に暗闇の中で生きていたのです。自分の状態が危険なものであると知りつつも、そこから抜け出すことができないでいました。苦しみの最中、神様に何度も祈り、そのうち私の中に神様の照らしと導きを得ました。それは、「その姉妹と心を割って話し、光の道を見つけなさい」というものでした。しかし、姉妹の部屋の前まで行くと、別の考えが浮かびました。「私の話を聞いて、彼女は何と思うだろうか。私がつまらないことをあれこれ考える人間で、やっかいで、扱いにくい人間だと言うだろうか。」そう思った途端、彼女の何とも言えない目つき、軽蔑したような態度が目に浮かびました。その瞬間に私の勇気は失せて力が抜け、まるで全身が締め付けられたようになってしまいました。神様の言葉によって、再び次のように啓かれました。「話し合えないような私的な問題を沢山抱えているのであれば、暗闇から抜け出すのは困難です。このままの状態を続けたいのですか。」私は静かに自分を奮い立たせました。「勇気を出して、難しく考えず、ありのままを話せばいい。真理を実践することは恥ずべきことでも何でもないのだから。」けれども同時に、別の思いも浮かびました。「何も言わないほうがいい。彼女以外の人達は恐らく私は問題ないと考えている。敢えて話せば、他の人達も私があれこれと考える人間だと考えて、嫌われてしまう。ああ!それなら何も言わない方がきっと良い。」私の心が再び揺らぐと、神様は再び私を導いてくださいました。「誠実な人間であるなら、恥ずかしがったり、恐れたりしていてはなりません。」神様のこの啓示に私は奮い立たされましたが、驚いたことに、僅かばかりの力を得た途端、サタンの考えが再び浮かんだのです。「そんな話をすれば、他の人達もあなたの本性を知ることになり、惨めになるだけだ。」私の心は瞬時に握りつぶされたようになってしまいました。このように、私の心は肯定と否定、白と黒の間で揺れ続けました。私には、はっきりと分かっていました。自分のメンツを守りたいという虚栄心から、話したくないのだ、と。かと言って今のままでは自分の状態は変わらず、自分の働きにも何の益ももたらしません。話してこの問題を解決することのみが私の働きにとって益となり、神様の御心にかないます。けれども彼女が私の気持ちを知った途端に私をもっと見下すようになるかもしれないという考えが浮かんだ瞬間、私は真理を実践する勇気を失ってしまいました。私が自身の醜さについて話したら、もう生きていられない!一瞬、私はひどく動揺し、まるで火に焼かれているかのように心に強い痛みを感じました。これは、まるで生か死かの選択に直面しているかのように難しく、気付かないうちに涙が溢れてきて、できることといえば心の中で神様に助けを叫び求める以外にありませんでした。そして、まさにその瞬間に、神様の言葉が再び私の心に浮かびました。「真理を失うことなく、あるいは偽善や不義を隠すことなく、……若者は暗闇の力の圧迫に屈服することなく、自らの存在の意味を変える勇気を持つべきである。」(『言葉は肉において現れる』の「若者と老人に向けた言葉」より)。神様の言葉により、ようやく動揺する心を落ち着かせることができました。「何があろうと、私はこれ以上、サタンの嘲りの対象ではいられない。これ以上、神様に反抗することはできない。自分自身を捨て、真理を実践しなければならない。」私が勇気を奮い起こし、彼女に会い、心を割って話すと、結果は期待した以上でした。姉妹は私を見下さなかっただけでなく、彼女自身の堕落を告白し、欠点を反省して認め、私に謝ってくれました。そして、これからは問題に遭遇したなら真理について話し合い、互いに理解し合い、真理に従うことを自分たちの原則として、互いの強さから学びあい、弱さを補い合い、ともに教会の仕事をしていこう、と言ってくれたのです。このようにして武器なき闘いが終わりました。問題が解決し、私の心も軽くなりました。あの時の心の中の激しい葛藤と、生か死かの闘いのような苦しみを味わったことを思い返すと、初めて自分のメンツを保つという無意味な問題がいかに深刻だったかが分かりました。私は闇の中を生き、神様に幾度となく呼びかけられていたにも関わらず、自分をそこから解放することができないほど、この問題は私の生き方に染みついていたのです。真理を理解しながらも実践することができませんでした。私は本当に、あまりにも深くサタンにより堕落させられていました。また、真理を実践し誠実な人でいることは簡単ではないことを身をもって体験しました。

   この経験があって初めて、神様の次の御言葉を理解することができました。「真理を実践し、神を愛することを実践する度……心の奥深くで生死を分ける闘いが起こる。」この言葉が人類の堕落した本性について言及しているのは、人間のサタン的な本性が肉体にあまりに深く根付いているからです。人間はその本性にがんじがらめになってしまっており、それが私たちのいのちになってしまっています。私たちが真理を実践する時、そして肉の生活を捨てる時、そのプロセスは生まれ変わるのと同じであり、一度死んで復活するのと同じなのです。それは本当に生か死かの闘いであり、辛い痛みを伴うプロセスなのです。自分自身の本性をよく知らず、苦しんだり対価を払ったりする意志がない時、私たちは決して真理を実践することはできません。かつて私は、真理を実践するのは簡単だと考えていました。それは、自分の堕落した本性について理解しておらず、自分がいかに深く堕落しているかを知らなかったためです。今後、経験を通じてさらに自分自身を深く知り、あらゆることにおいて真理を実践し、自らを捨てていきたいと思います。