賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ヨブについて(2)

2020-02-24 22:50:01 | 職場の人間関係

   ヨブの理性

  ヨブが積んできた経験と彼の正しさ、正直さは、彼が財産と子ども達を失った時にもっとも理性的な判断を下し、最も理性的な選択をしたことを意味する。ヨブのそのような理性的な選択ができたことは、彼が日々追い求めていたものと、神が日々自分にどのような業をなしたかを知ったことと切り離すことができない。ヨブはその正直さ故に、全てのものはヤーウェによって支配されていることを信じることができた。ヨブはその信仰により、ヤーウェ神が全てを支配していることを信じることができた。ヨブはその知識故に、ヤーウェ神の主権と采配に喜んで従うことができた。ヨブはその従順さ故に、益々心からヤーウェ神を畏れるようになり、その畏れが益々悪を避けるようにさせ、結果としてヨブは全き人となった。ヨブの完全さが彼を賢くし、素晴らしい理性の持ち主にさせた。

   この「理性的」という言葉をわたしたちはどのように理解すればよいのだろうか。文字通りの解釈は、理知があり、論理的で分別のある思考ができ、正しい言葉、行動、判断ができ、正しい道徳的な基準を日常的に持っているということである。だがヨブの理性はそれほど簡単には説明できない。ヨブが素晴らしい理性を持ち合わせていたとここで言ったのは、彼の人間性と神の前での振る舞いと繋がっている。ヨブは正直であった故に、神の主権を信じ従うことができた。そしてそれ故に彼は他の人々には獲得し得ない知識を獲得し、その知識により自身に降りかかった状況に関して他の人々以上に正しく物事を見極め、判断し、定義付けをすることができた。そしてそれ故に、他の人々以上に正確に、そしてより深い洞察力をもって自分のすべきことを選択することができ、しっかりと立つべきところに立っていることができた。つまりヨブの行動の背後にある彼の言葉、振る舞い、原則、そして彼の作法は日常的なものであり、明解であり、具体的で、盲目的でも衝動的でも感情的でもなかったということである。何が起ころうとも、ヨブは対処方法を知っており、複雑な出来事であっても何をどのように関連づけて対処すれば良いかを心得ていた。自分がしっかりと繋がっているべきことにどのように繋がっていられるか、更にはヤーウェ神が与えることと取り上げることに対してどう対処したらよいかを知っていた。正にこれがヨブの理性である。財産と息子娘達を失ったヨブが、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」と言うことができたのは、正にヨブのこのような理性があったからこそである。

   激しい肉体の痛みを経験し、身内や友人に非難され、死に直面した時、ヨブは自らの行動によって再びその真の姿を皆に示すことになったのである。

   真実で清く、偽りのないヨブの姿

 

 

   では次の聖句を読もう。「サタンはヤーウェの前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった」(ヨブ記2:7-8)。この聖句はヨブの皮膚が腫物で覆われた時の振る舞いを説明している。当時ヨブは、灰の中に座り、痛みに耐えた。誰も彼の腫物の治療をせず、痛みを和らげようと助けの手を延べる者はいなかった。ヨブは土器のかけらで腫物に覆われた皮膚をかいた。一見これはヨブの苦しみの一段階にしかすぎず、彼の人間性や神に対する畏れとは無関係に見える。当時ヨブは何も語らず、その心情や見解を示さなかったからである。それでもヨブの行動と態度は彼の人間性をそのまま現している。この聖句の前の章では、東に住む全ての人達の中でヨブが最も優れていたと書いてある。2章に入ると、この偉大な人物が、灰の中に座って土器のかけらで自分のからだをかいている。この2つの聖句は実に対照的ではないだろうか。そこにはヨブという人がよく表されている。つまり、それまでの誉れ高い地位と身分にも関わらず、ヨブはそれらのものには全く無関心なのである。地位を周囲がどう見るかなど気にしておらず、自分の行動や振る舞いが地位や立場に影響するかどうかなど心配することはなかった。富や地位に溺れたり、その立場や地位からくる栄光を楽しんだりすることもしなかった。ヨブの心にあったのは、ひたすらヤーウェ神の目に叶う生き方をすることであった。ヨブの真の姿は彼の本質そのものであった。つまり、ヨブは名声も富も愛さず、名声や富のために生きることもしなかった。ヨブは真実で、清く、偽りのない人間だったのである。

   では次の聖句を読もう。「サタンはヤーウェの前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった」(ヨブ記2:7-8)。この聖句はヨブの皮膚が腫物で覆われた時の振る舞いを説明している。当時ヨブは、灰の中に座り、痛みに耐えた。誰も彼の腫物の治療をせず、痛みを和らげようと助けの手を延べる者はいなかった。ヨブは土器のかけらで腫物に覆われた皮膚をかいた。一見これはヨブの苦しみの一段階にしかすぎず、彼の人間性や神に対する畏れとは無関係に見える。当時ヨブは何も語らず、その心情や見解を示さなかったからである。それでもヨブの行動と態度は彼の人間性をそのまま現している。この聖句の前の章では、東に住む全ての人達の中でヨブが最も優れていたと書いてある。2章に入ると、この偉大な人物が、灰の中に座って土器のかけらで自分のからだをかいている。この2つの聖句は実に対照的ではないだろうか。そこにはヨブという人がよく表されている。つまり、それまでの誉れ高い地位と身分にも関わらず、ヨブはそれらのものには全く無関心なのである。地位を周囲がどう見るかなど気にしておらず、自分の行動や振る舞いが地位や立場に影響するかどうかなど心配することはなかった。富や地位に溺れたり、その立場や地位からくる栄光を楽しんだりすることもしなかった。ヨブの心にあったのは、ひたすらヤーウェ神の目に叶う生き方をすることであった。ヨブの真の姿は彼の本質そのものであった。つまり、ヨブは名声も富も愛さず、名声や富のために生きることもしなかった。ヨブは真実で、清く、偽りのない人間だったのである。

   ヨブの愛と憎しみの分別

 

 

   ヨブの人間性に関するもうひとつの側面が、彼と妻との会話に表現されている。「時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』。しかしヨブは彼女に言った、『あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』。」(ヨブ記2:9-10)。苦しむヨブを見た彼の妻は、ヨブが苦しみから解放されるようにと助言した。だがその「善良な意図」はヨブに受け入れられなかった。それどころか、ヨブの怒りを引き起こした。ヨブの妻はヨブの信仰とヤーウェ神への従順を否定し、ヤーウェ神の存在も否定したからである。ヨブにとってそれは耐え難いことであった。ヨブ自身、決して自分が神に反抗したり神を傷つけたりするようなことをせず、言うまでもなく他の人がそのようなことをすることも耐えられなかった。周りの誰かが神を冒瀆したり中傷したりするような言葉を発するのを見て無関心でいられる筈がなかった。だからヨブは彼の妻を「愚かな女」と呼んだのである。妻に対するヨブの態度は怒りと憎しみ、非難と叱責に満ちていた。これは愛と憎しみを区別するヨブの人間性が自然に表現されたものであり、ヨブの正しさの真の現れである。ヨブには正義感があった。その正義感故にヨブは悪が横行するのを憎み、ばかげた異端、愚かな論争、ばかげた主張を忌み嫌い、非難し、拒絶し、大衆に拒絶され、身内や親しい人達に見放された時でも自身の持つ正しい原理と立場を堅く守った。

   ヨブの心の優しさと誠実さ

   ヨブの振る舞いに彼の人間性を幾つか見ることができるのだが、ヨブが自分の生まれた日を呪ったことには彼のどのような人間性を見ることができるだろうか。そのことについて今から検討する。

 

 

   ヨブが自分の生まれた日を呪った理由をたった今説明した。ここで何が分かるだろうか。もしもヨブの心が頑なで愛もなかったとしたら、もしヨブが冷たい人間で感情に乏しく、人間性に欠けていたならば、神が何を望むかと思いやることができただろうか。神の思いを配慮する結果自分の生まれた日を呪うことなどあるだろうか。つまり、ヨブの心が頑なで人間性に欠けていたなら、神が痛みを感じることで苦しんだりしただろうか。自分が神を悩ませたからといってヨブは自分の生まれた日を呪ったのだろうか。決してそのようなことはない。ヨブは心優しかった故、神の心を配慮した。神の心を配慮したので、ヨブは神の痛みを感じた。ヨブは心優しかった故、神の痛みを感じて更なる苦しみを経験した。ヨブは神の痛みを感じた故、自分の生まれた日を憎み始め、自分の生まれた日を呪った。第三者にとって、ヨブの試練にあっての振る舞いは模範的なものである。自分の生まれた日を呪うという行為だけが、完全で正しいヨブに対して疑問が残ったり、評価を変えたりするのである。実はこれがヨブの人間性そのものなのである。ヨブの人間性とは、誰かに封をされたものでも梱包されたものでもなく、修正されたものでもない。自分の生まれた日を呪うことで、ヨブはその心の奥深くにある優しさと誠実さを現したのである。ヨブの心は清い泉のようで、その水は水底が見えるほど透明なのである。

   ヨブについて学んできた訳だが、大半の人々は間違いなくヨブの人間性を大方正しく、客観的な評価をすることができるだろう。だが神が語っているヨブの完全さと正しさに関するより深く、実践的でより高度な理解と認識も持つ必要がある。それらを理解し認識することにより、人々が神を畏れ悪を避けるようになってくれることを願う。


人類に対する創造主の真摯な思い入れ

2020-02-19 23:56:48 | 職場の人間関係

   人々は、神を知ることは簡単ではない、と言うことが多々ある。しかし、わたしは、神を知ることが困難なことは全く無い、と述べている。なぜなら、神は人間が業を目にすることを頻繁に許しているからである。現在に至るまで、神が人間との対話を辞めたことは無い。神が人間から隠れ去ったことも無く、自らが隠れたことも無い。神の心、神の言葉、神の業は、全て人間に対して明示されている。したがって、人間が神を知ることを望む限り、様々な方法で人間は神を知ることが出来る。神は人間をことさらに避けている、神は故意に人間から隠れている、神には人間が神を理解することを許可するつもりが全く無い、などと人間が盲目に考える理由は、人間が神の存在を知らず、神を知ることを望まず、そして何よりも人間が創造主の心、言葉、業などに無関心だからである。事実を述べると、もし誰かが、余暇に創造主の言葉や業について考え、理解し、創造主の心と、その心による言葉に注意を払ったとすれば、神の心、言葉、業は見ることが出来るものであり、明瞭なものであることに気付くのは困難ではない。同様に、創造主は常に人間の中にあり、人間や創造物すべてとの対話を行い、新たな業を毎日行っていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされない。神の本質と性質は、神と人間との対話の中で表出され、神の心と考えは、神の業においてすべて明示されており、神は常に人間と共にあり、人間を見守っている。神は人間や創造物のすべてに対して、落ち着いた声で静かに語りかけ、「わたしは天の上にあり、わたしは万物の中にある、わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある」と述べている。神の手は温かく力強い。神の足取りは軽やかである。神の声は温和で優しい。神の身体はすれ違いざまに振り向いて人類すべてを抱擁する。神の表情は優美である。神は、立ち去ることも、消え去ることも無かった。神は、夜明けから日没まで、常に人間と共にある。人間に対する神の心からの労りと並々ならぬ思い入れ、真の思いやりと愛は、神がニネベの町を救った時にも少しずつ示されていた。特に、ヤーウェ神とヨナの会話では、創造主が創造した人類に対する、創造主自身の同情が露見される。これらの言葉からは、人間に対する神の真摯な思い入れを知ることができる。

 

 

   次に挙げるのはヨナ書4:10~11に記された言葉である。「ヤーウェは言われた、『あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか。』」これは、ヤーウェ神とヨナとの会話における、ヤーウェ神自身の言葉である。この会話は短いものの、創造主の人間に対する思いやりと、ニネベの人々を見捨てることに対する抵抗感に溢れている。この言葉では、神の心の中にある神の創造物に対する神の姿勢と思い入れが表現されており、こうした言葉を人間が聞くことは滅多に無いが、その明瞭な言葉により、神の人間に対する意向が述べられている。この対話は、神のニネベの人々に対する姿勢が示されているが、その姿勢とはどのようなものであろうか。その姿勢とは、ニネベの人々が悔い改める前と後の、ニネベの人々に対する神の姿勢である。神は、それと同じ姿勢で人類を扱う。この言葉から神の心と神の性質を見出すことができる。

   この言葉には、神のどのような心が示されているであろうか。十分に注意して読めば、すぐに神が「惜しむ」という語を用いていることが分かる。この語を用いたことにより、人類に対する神の真の姿勢が示されている。

   語義的には、「惜しむ」という語は様々な解釈が可能である。第一に、愛して守ること、何かを貴く感じることの意味がある。第二に、深く愛慕することの意味がある。そして第三に、傷つけることができない、傷つけることに耐えられないという意味がある。つまり、この語は、愛慕の念と、人や物への愛着の含意がある。この語は、神の人間に対する憐れみと寛容さを意味する。神は人間が一般的に会話する語を用いたが、この語が用いられていることにより、神の心からの言葉と、神の人間に対する姿勢が明らかにされている。

   ニネベの町は、ソドムの人々と同様に腐敗し、邪悪で凶暴な人々で満ちていたのに対し、ニネベの人々の悔い改めにより、神の心が変わり、ニネベの人々を滅ぼさないことに決めた。神の言葉と命令に対するニネベの人々の反応は、ソドムの民の姿勢と比べると極めて対照的な姿勢であり、ニネベの人々の誠心誠意による神への服従と、罪の悔い改め、そしてあらゆる面における心からの行動のため、神は再び、心からの哀れみを示し、その哀れみをニネベの人々に与えた。神の人間に対する報いと哀れみは、誰も真似をすることが出来ない。神の憐れみと寛容さや、神の人間に対する真摯な思い入れを持つことが出来る者は、存在しない。あなたが偉大な人物あるいは超人であるとみなす男性や女性のうち、そうした偉大な人物あるいは超人としての高い立場、崇高な立場から、人類や創造物に対してこのような発言をする人が存在するであろうか。人間のうち、誰が人間の生活状況を自分の手のひらのように熟知できようか。誰が人類の存在に伴う負担と責任を負うことが出来ようか。誰がひとつの町の破壊を宣言できようか。そして、誰がひとつの町を赦すことが出来ようか。誰が、自分の創造物に愛着があるなどと言えようか。それが出来るのは、創造主だけである。人類に対する慈愛を感じるのは、創造主だけである。人類に対する優しさと愛慕を示すことができるのは、創造主だけである。人類に対する変えることのできない真の愛情があるのは、創造主だけである。同様に、人類に憐れみを与え、神の創造物の全てを愛慕することが出来るのは、創造主のみである。創造主の心は、人間の行動ひとつひとつに対し、ときめいたり、傷んだりする。創造主は、人間の邪悪と腐敗に対して怒り、苦しみ、悲しむ。また創造主は、人間の悔い改めと信仰に満足し、寛大であり、喜ぶ。創造主の心は、いずれも人間のために存在し、人間がその中心にある。創造主の存在とその中にある物事は、すべて人間のために表出される。創造主の心は、人間の存在と密接に結びついている。創造主が旅をし、忙しく動き回り、そのいのちのすべてを与え、一分一秒を捧げるのは、人間のためである。創造主は、自らの命を哀れむことを知らないにもかかわらず、自身が造った人間を常に哀れみ、慈しむ。創造主は、自らの全てを人類に捧げる。創造主は、無条件に、かつ見返りを期待することなく、憐れみと寛容さを与える。彼がこうした業を行う唯一の目的は、人間が引き続き彼の前で生きることができるようにし、いのちを受けることができるようにすることである。何時の日か、人間が彼に服従し、彼こそが人間が存在するための必要を施し、全てのもののいのちを与える存在であると認識出来るようにすることである。


神はアブラハムにイサクを捧げるように命じた

2020-02-08 20:13:43 | 職場の人間関係

  アブラハムに息子が与えられ、神がアブラハムに与えた言葉は成就した。これはここで神の計画が停止したという意味ではない。むしろ神の壮大な人間の経営(救いの)計画はこの時点で始まったばかりであり、アブラハムが息子を授かった祝福は神の全経営計画からするとまだ序章といったところである。アブラハムがイサクを捧げた時に神とサタンとの戦いが静かに始まっていたことをその時誰が知っていただろう。

   神は、人間が愚かであるのは構わない――ただ誠実でありさえすれば

   次に、神がアブラハムに何をしたのかを見ていく。創世記22:2で、神は次のような命令をアブラハムに与えた。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。神の言ったことは明確だ。愛するひとり息子であるイサクを全焼のいけにえとして捧げなさいと、神はアブラハムに言ったのだ。今日の基準からしても、神のこの命令は人間が持つ神のイメージにそぐわないものではないだろうか。その通りだ。当時神がしたことの全ては人間の神の観念とは正反対であり、人間に理解できるものではない。人間の観念に従えば、次のように考えるだろう。ひとりの人間が神を信じることをせず、神が言うことが不可能だと考えたとき、神は彼に息子を与えた。息子を与えた神は、後にその息子を捧げよと言う。驚きだ。神は何をしようとしていたのか。具体的な目的は何だったのだろうか。神は無条件にアブラハムに息子を与え、そして今度はアブラハムに無条件で献げ物をするように命じる…これは行き過ぎだろうか。第三者から見れば、単に行き過ぎているだけでなく、何もないところにあえて火種を作るようなものだろう。しかしアブラハムは神の命令が行き過ぎているとは考えなかった。アブラハムは懸念も感じ、多少神に対して疑いを持ったものの、捧げ物をする準備はできていた。ここで、何をもってアブラハムが息子を捧げる意思があったと証明できるだろうか。この箇所で言われているのは何だろうか。原文には次のように書かれている。「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。」(創世記22:3)「彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした」(創世記22:9-10)。アブラハムが手を伸ばし、刃物を息子に振り下ろそうとしたとき、神はそれを見ていただろうか。もちろん見ていた。始めに神がアブラハムにイサクを捧げるように命じた時から、アブラハムが実際に息子を屠るために刃物を振り上げた瞬間までの全ての過程により、アブラハムの心が神に示された。そしてかつての神に対する愚かさ、無知、誤解とは無関係に、この時の神に対するアブラハムの心は誠実で正直であり、神から授かった息子イサクを本当に神にお返ししようとしていたのである。神はそこに自身が望んだアブラハムの真の従順を見た。

 

 

   人間にとって、神のする多くのことは理解しがたいものであり、信じられないようなものですらある。神が誰かの指揮を取ろうとするとき、その指揮はしばしば人間の考えとかみ合わず、生まれた不協和音と理解不能なものごとが人間に対する神からの試練となる。アブラハムはその点、自身の神への従順を示すことができた。そしてそれこそが、神の要求を満たすための最も基本的な条件だったのである。アブラハムが神の命令に従いイサクを捧げることができた時になってはじめて、神は自分が選んだ人間であるアブラハムに対して真の確信を得た。この時はじめて、神は自身が選んだこの人が、自身の約束とその後の経営(救いの)計画になくてはならないリーダーとなることを確信するのである。試練と試みを通らせたが、神は喜び、自身に対する人間の愛を感じ、人間からそれまでにない慰めを得た。アブラハムがイサクをほふろうと刃物を振り上げた瞬間、神はアブラハムを止めただろうか。神はアブラハムがイサクを捧げることを許さなかった。神はイサクの命を奪うつもりは全くなかったのである。ゆえに、神はイサクがほふられる直前にアブラハムを止めた。神にとって、アブラハムの従順は神の試験に合格しており、アブラハムの行いは十分なものであり、神が知りたかった結果は出ていた。この結果に神は満足しただろうか。満足したとも言えるだろう。それが神の望んだ結果であり、求めていたことだ。本当にそうだろうか。状況によって、それぞれ違った方法で神は人を試すが、アブラハムの中に神は期待したものを見、アブラハムの心が真実で、無条件に従順であることを知った。この「無条件」の従順さが、神の求めていたものだった。


神はアブラハムにイサクを捧げるように命じた

2020-02-08 20:13:43 | 職場の人間関係

  アブラハムに息子が与えられ、神がアブラハムに与えた言葉は成就した。これはここで神の計画が停止したという意味ではない。むしろ神の壮大な人間の経営(救いの)計画はこの時点で始まったばかりであり、アブラハムが息子を授かった祝福は神の全経営計画からするとまだ序章といったところである。アブラハムがイサクを捧げた時に神とサタンとの戦いが静かに始まっていたことをその時誰が知っていただろう。

   神は、人間が愚かであるのは構わない――ただ誠実でありさえすれば

   次に、神がアブラハムに何をしたのかを見ていく。創世記22:2で、神は次のような命令をアブラハムに与えた。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。神の言ったことは明確だ。愛するひとり息子であるイサクを全焼のいけにえとして捧げなさいと、神はアブラハムに言ったのだ。今日の基準からしても、神のこの命令は人間が持つ神のイメージにそぐわないものではないだろうか。その通りだ。当時神がしたことの全ては人間の神の観念とは正反対であり、人間に理解できるものではない。人間の観念に従えば、次のように考えるだろう。ひとりの人間が神を信じることをせず、神が言うことが不可能だと考えたとき、神は彼に息子を与えた。息子を与えた神は、後にその息子を捧げよと言う。驚きだ。神は何をしようとしていたのか。具体的な目的は何だったのだろうか。神は無条件にアブラハムに息子を与え、そして今度はアブラハムに無条件で献げ物をするように命じる…これは行き過ぎだろうか。第三者から見れば、単に行き過ぎているだけでなく、何もないところにあえて火種を作るようなものだろう。しかしアブラハムは神の命令が行き過ぎているとは考えなかった。アブラハムは懸念も感じ、多少神に対して疑いを持ったものの、捧げ物をする準備はできていた。ここで、何をもってアブラハムが息子を捧げる意思があったと証明できるだろうか。この箇所で言われているのは何だろうか。原文には次のように書かれている。「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。」(創世記22:3)「彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした」(創世記22:9-10)。アブラハムが手を伸ばし、刃物を息子に振り下ろそうとしたとき、神はそれを見ていただろうか。もちろん見ていた。始めに神がアブラハムにイサクを捧げるように命じた時から、アブラハムが実際に息子を屠るために刃物を振り上げた瞬間までの全ての過程により、アブラハムの心が神に示された。そしてかつての神に対する愚かさ、無知、誤解とは無関係に、この時の神に対するアブラハムの心は誠実で正直であり、神から授かった息子イサクを本当に神にお返ししようとしていたのである。神はそこに自身が望んだアブラハムの真の従順を見た。

 

 

   人間にとって、神のする多くのことは理解しがたいものであり、信じられないようなものですらある。神が誰かの指揮を取ろうとするとき、その指揮はしばしば人間の考えとかみ合わず、生まれた不協和音と理解不能なものごとが人間に対する神からの試練となる。アブラハムはその点、自身の神への従順を示すことができた。そしてそれこそが、神の要求を満たすための最も基本的な条件だったのである。アブラハムが神の命令に従いイサクを捧げることができた時になってはじめて、神は自分が選んだ人間であるアブラハムに対して真の確信を得た。この時はじめて、神は自身が選んだこの人が、自身の約束とその後の経営(救いの)計画になくてはならないリーダーとなることを確信するのである。試練と試みを通らせたが、神は喜び、自身に対する人間の愛を感じ、人間からそれまでにない慰めを得た。アブラハムがイサクをほふろうと刃物を振り上げた瞬間、神はアブラハムを止めただろうか。神はアブラハムがイサクを捧げることを許さなかった。神はイサクの命を奪うつもりは全くなかったのである。ゆえに、神はイサクがほふられる直前にアブラハムを止めた。神にとって、アブラハムの従順は神の試験に合格しており、アブラハムの行いは十分なものであり、神が知りたかった結果は出ていた。この結果に神は満足しただろうか。満足したとも言えるだろう。それが神の望んだ結果であり、求めていたことだ。本当にそうだろうか。状況によって、それぞれ違った方法で神は人を試すが、アブラハムの中に神は期待したものを見、アブラハムの心が真実で、無条件に従順であることを知った。この「無条件」の従順さが、神の求めていたものだった。


カトリック信者の証し-主の再臨をお迎えした

2020-01-04 23:57:16 | 職場の人間関係

エイミー(アメリカ)

  「主とお会いすることは、すべての信者の最大の望みです。主の恵みによって、私は主の再臨をお迎えし、主への感謝の気持ちでいっぱいです」。夜です。明るい月光が窓から部屋に注ぎ込んでいます。灯りの柔らかい光の下で、エイミーは自分が主の再臨をお迎えした体験談をすばやくキーボードを打ちながら書いています。神の彼女への愛と救いを思い、エイミーは立ち上がって静かに窓辺へ行き、満月を見つめながら過去を振り返ります。

教会の荒廃、無力感と混乱

  エイミーは仕事のためにアメリカに来るまで主を信じていませんでした。信仰を得てからの数年間は、どんなに仕事で疲れていても毎週日曜日には必ずミサに行き、神父の説教を真剣に聞きました。主の愛を心で感じ取り、教会の仲間たちとは家族のように助け合い、支え合っていました。しかし時が経つにつれて、説教が決まり文句の繰り返しであることにだんだん気づきました。いつも同じ聖書の知識と神学の話で、新たな照らしなど何もなかったのです。エイミーは何年もの間カトリック教徒でしたが、宗教の規則や儀式をいくつか守る以外には、主の御心が何であるかや、主の言葉にいかに従うべきかについては一切理解していませんでした。霊のいのちのための養いをまったく受けなかったのです。わからないことがあっても神父に相談しようなどとはしませんでした。なぜなら、神父はお金を一番多く寄付した人や地位のある人でなければ評価せず、話をしたがらないことに気づいたからです。彼女のような一般の教区民に対しては、質問に答えてくれるどころか何の関心も示さなかったのです。エイミーをさらに落胆させたのは、ある神父が年長の教区民と意見の相違で衝突し、なんと彼を他の教区民の前で叱りつけたことでした。それ以来、その人は教会に行くのをやめてしまいます。エイミーが知ったのは、神父は表向きは敬虔に見え、いつも霊的な原則の話をし、人には謙虚で辛抱して主の道に従うようにとよく説いているけれど、実生活での行いは全然違い、非常に偽善的だということでした。彼女はまた、教会がまるで世間のようであることにも気づきました。教区民の関係は各人の自己利益に基づいていました。彼らは商品を売り込んで商業を行うために自分たちの人脈を利用することには非常に熱心でしたが、そうでなければ大概お互いに警戒し合い、とても冷たく接していました。エイミーにはそこに愛のかけらも感じられませんでした。教会の無法な側面をますます多く見るにつれて、彼女の最初の熱心さは冷水がかけられたように徐々に冷めていきました。

  やがてエイミーは教会に行く気をなくし、行っても他の人たちのように眠くなることがありました。この事態は変わらず、エイミーは非常に狼狽し、無力感を抱き途方に暮れました。何度も主に祈りましたが、返事はありませんでした。「どうして教会は世間のようになったの。主が私たちと共におられることをどうして感じられないの」と混乱していました。

混乱を解消し、主の再臨を迎える

  2017年12月のある日、エイミーは公園で同級生のスーザンとばったり会いました。スーザンも何年も前から信者です。おしゃべりをするうちに、エイミーは自分の混乱の気持ちを伝えました。スーザンは自分も同じ経験をしたけれど、ある友人の説教を聞いてやっと解決されたと話しました。そしてエイミーを「一緒に礼拝しましょう」と誘い、エイミーは喜んで誘いを受けました。

  寒い12月でしたが、明るく晴れた日で、日差しが暖かく感じられました。スーザンはエイミーを友人の家での説教に連れて行きました。説教者は李(リー)兄弟でした。彼は聖書を熟知しており、彼の交わりは実に啓蒙的でした。エイミーは心が明るくなるのを感じました。それから長い間心の中で鬱積していた混乱を打ち明けたのです。

 「神父や指導者は何も説教することがなく、兄弟姉妹は信仰に欠けていて、私はいのちの糧を少しも得られていないようなのはなぜですか。教会がとても荒れ果てている本当の理由は何でしょうか」。

  李(リー)兄弟はにっこり笑って言いました。

  「エイミー、あなたが取り上げた問題は本当に重要です。それは私たちが聖霊の働きに追いつき、主の再臨をお迎えすることができるかどうかに直接関係しています。私たちが終わりの日の最終段階にあり、宗教において多くの不法行為が起きていることは誰もが知っています。神父や指導者は主の戒めを守っておらず、主の御言葉を実践してもいません。ただ宗教儀式を行い、先代から伝わったこと守っているだけです。教会を宗教儀式を行う場所に変え、自分たちの任務と本分を地位の獲得と生計を立てる道具としてきました。表向きは敬虔で辛抱強く、謙虚に見えますが、本質においては偽善者です。宗教界の神父や指導者はなにかと聖書の知識や神学を広めます。その目的は誇示することです。主を高く掲げたり証ししたりはこれっぽちもしません。主の御言葉と人類への要求を証しせず、完全に主の道から外れて、ただ教区民を自分の元に集めるだけです。宗教界は人間、パリサイ人の支配下に置かれました。神はそれを厭われ、取り除かれました。これが宗教界が荒廃した理由の一つです。もう一つの理由は、聖霊の働きが移ったことです。主はすでに再臨しておられ、終わりの日に新たな段階の働きをなさいました。神は真理を表して、サタンによって堕落した人間を徹底的に救うために受肉して地上に来られたのです。それは聖書で述べられた通りです。

 『さばきが神の家から始められる時がきた』(ペテロの第一の手紙4:17)

 『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう』(ヨハネによる福音書12:47−48)

  これらの聖句では、主は再臨されたとき、私たちが救いと清めを得て天国に入れるように、裁きの働きを行い、私たちの堕落したサタン的な性質を清めて私たちを罪の束縛から救う、と言われています」

  エイミーはこれを聞いて非常に興奮し、「本当なのかしら。主イエスが本当に戻られたなんて」と思い、李(リー)兄弟の交わりを一言も聞き逃さないよう一層熱心に耳を傾けました。

  そして李(リー)兄弟は交わりを続けました。

 「今や再び受肉なさった主イエス、全能神がすでに地上に来られ、私たちが救いを得るために必要な真理をすべて表されました。終わりの日の神の働きを受け入れる人々をすべて清めるために、神の家から始まる裁きの働きをなさったのです。聖霊の働きはそれに応じて、終わりの日の神の働きを受け入れた人たちに移りました。終わりの日における神の裁きの働きを受け入れた人々は、聖霊の働きを得て、神の御前に引き上げられ、子羊の祝宴に出席し、いのちの水に潤され、養われています。宗教の場にはまり込み、終わりの日の神の働きを受け入れることを拒んだ人々は、終わりの日の神の救いを失って、暗闇と荒廃に陥りました。宗教界が現在荒廃しているのはこのためです。旧約聖書に記録されている律法の時代の後期と同じです。かつて神の栄光に満ちていた神殿が荒れ果て、単なる商いの場となりました。強盗の巣となったのです。これは二つの理由で引き起こされました。一つは、神殿内で神に仕えていた宗教指導者が神の戒めを放棄し、神の律法を犯したことです。単に自分たちの宗教伝統を守っただけで、神の御言葉には従いませんでした。神を畏敬する心は微塵もなく、神の道から外れ、神の呪いと懲罰を受けました。もう一つの理由は、主イエスが神殿の外で新たな段階の働きを行われていたことです。主は恵みの時代を開かれ、律法の時代を終えられました。聖霊の働きはすでに主イエスの贖いの働きに移っていたのです。このため、主イエスの働きを受け入れた人々がそれに応じて聖霊の働きを受けたのに対し、神殿内に留まって主イエスの働きに抵抗し、それを非難した人々は、当然捨てられ、聖霊の働きから排除されたのです」

  李(リー)兄弟の交わりを聞いた後、エイミーは言いました。

  「教会は商いの場になっていますし、聖霊の働きはありません。律法の時代の終わり頃の神殿とまったく同じ状況です。それは神父たちが教会を宗教儀式の場に変えたからだと今わかりました。彼らは人々を神の御言葉に従うように導かないで、代わりに教区民を自分たちの元に集めます。これが神の嫌悪を招いたのです。それに、神が今や新たな働きをなさったというのに、私たちは神の歩みに追いついていないからでもあります」

  李(リー)兄弟はうなずき、「これはすべて全能神の御言葉ではっきり説明されています。仰せられていることを読みましょう」と言うと、パソコンの電源を入れて、全能神の御言葉から二節を読みました。

  「神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が飢えており、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より)

  「全宇宙における神のすべての働きは、この一群の人々に焦点を当てている。神はあなたがたにすべての努力を注ぎ、あなたがたのためにすべてを犠牲にした。そして全宇宙における聖霊のすべての働きを取り戻し、あなたがたに与えたのだ。それが、あなたがたは幸運なのだとわたしが言う理由である。さらに神は、自らが選んだイスラエルの民から自分の栄光をあなたがたへと移した。それはあなたがた一団を通して、神の計画の目的を全て明らかにするためである。それゆえ、あなたがたは神の嗣業を受ける者、更には神の栄光の継承者となるのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きは人間が想像するほど簡単か」より)

  李(リー)兄弟は交わりを続けました。

  「全能神の御言葉から、神は全宇宙における聖霊の働きをすべて引き戻され、終わりの日における神の働きを受け入れた人々の中で今や働かれていることを私は理解しました。この人々は神にあらかじめ選ばれており、本当に真の道を求めている人々です。これが、宗教界が聖霊の働きを失い、荒廃した理由です。なぜ神はこうなるようになさったのでしょうか。この荒廃が起こった後、かなりの数の敬虔な真の信者が聖霊の働きのある教会を求めて、神の歩みのしるしを求めて、さまざまな教会に通い始めたことを私たちは皆見てきました。聖霊に導かれて、そのうちの何人かが「神がすでに戻られた」という知らせを聞き、全能神の終わりの日における働きを学び始めました。神の御声を聞き、神の御座の前に引き上げられ、子羊の祝宴に出席したのです。神の御言葉通りです。

  『人々は真の道を求めなければならなくなる』

  『全宇宙における神のすべての働きは、この一群の人々に焦点を当てている……それゆえ、あなたがたは神の嗣業を受ける者、更には神の栄光の継承者となるのだ』

  これは、宗教界におけるこのひどい荒廃には神の御厚意がこめられていることを示しています。これを通して、真理を愛し、神の再臨を切望する真の信仰者たちが荒れ果てた宗教界をすぐに離れ、神の御心を求め、子羊の足跡に付き従い、神の御座の前に立ち返るように、神は強いておられるのです。私たちへの神の愛と救いがここにあります。神はとても心優しいのです。もし聖霊の働きを得て生ける水を経験したいのであれば、宗教指導者による惑わしと束縛から自分自身を解放し、終わりの日の神の働きを求め学ばなくてはなりません。神の現在の働きに追いつくことによってのみ、私たちの魂の暗い状態が解消されえるのです。頑に宗教の教会にしがみつけば、いつまでも暗闇の中で生き、聖霊の働きに取り除かれてしまいます」

  エイミーはこれを聞いて初めて、宗教界の荒廃の背後には神の御心があり、主はそれを用いて私たちがもっと早く聖霊の新たな働きを求め、主イエスの足跡に付き従うようになさっていることを理解しました。その瞬間、「神は私たちを見捨てず、私たちが神の御座の前に立ち戻れるようにあらゆる方法で救おうとなさっている」と悟ると、エイミーは深く感動しました。主の私たちへの配慮と気づかいを、そして責任感と愛を感じたのです。涙が湧き上がるのを止められず、視界がかすみました。

  エイミーは、「終わりの日の全能神の働きのことはよくわからないけど、学んでみる価値のある道だ」と感じました。

  その後、全能神の御言葉を読み、李(リー)兄弟の交わりを聞くことで、エイミーは様々な真理を理解するようになりました。それは、聖書の内幕、神の受肉の奥義、神が人類を救うための三段階の働きからなる経営計画、神が新たな働きの段階ごとに御名を変えられる意義、終わりの日の神の裁きの働きがいかに人々を清め、変え、完全にするか、人類の将来の結末と終着点などです。彼女は今までに理解したことのない多くの真理を理解し、霊における大きな喜びを感じ、「全能神の御言葉は真理であり、権威と力があり、神の御声であり聖霊から諸教会への言葉だ」と心の中で確証しました。全能神こそが再臨された主イエスであり、終わりの日のキリストの出現であると断定したのです。

サタンの妨害、疑念に沈む

  まもなくして、エイミーは自分の子供を姉の家に連れて行ったとき、姉に終わりの日の全能神の働きのことを知っているかと尋ねました。姉は神経質そうに彼女を見つめると、「言っとくけど、東方閃電を信じちゃだめよ」と言いました。次に姉は、中国共産党政府が全能神の教会について捏造したあらゆる噂をエイミーに告げました。それを聞いた後、エイミーはとても真剣に言いました。

  「どんなことでも、自分が分かってないことをしゃべるべきじゃないわ。人の話をただ繰り返さないで。全能神教会のことを理解せずに盲目的に判断したり非難したりしていいのかしら。キリスト教徒として、私たちは神様を畏れる心を持って、言葉を慎むことができるようになるべきよ」

  姉はこれを聞いて機嫌を損ね、厳めしい顔で、「警告してるだけよ。ネットを見て自分で調べなさい」と言いました。姉の真剣な表情を見て、エイミーは「お姉さんの話は本当なのかしら。ネットで見てみないと」と思わずにいられませんでした。実際にネットでは、5月28日招遠市マクドナルド殺人事件を含む、想像していなかった噂をたくさん目にし、怖くなって思いました。

  「招遠事件は本当に中国共産党の話の通りに起こったのかしら。東方閃電の信者には本当にこんなことができたの。私の信仰は本当に真の道なのかしら。間違っていたらどうしよう」

  エイミーは少し困惑しましたが、そのとき、自分で読んだ全能神の御言葉をすべて思い起こしました。それは誰にでも思いつけるような言葉ではありませんでした。確実に真理であり、神の御声でした。神から来たのです。それから彼女は全能神教会の兄弟姉妹との交流での多くのことを思いました。皆がとても敬虔で、純粋で誠実であるのを彼女は見てきました。堕落を明らかにしたり、何か間違ったことをしたりした人は誰でも自己認識のために集会でそれを打ち明け、神の御言葉に従って分析し、神の御言葉の裁きと刑罰を、また兄弟姉妹による刈り込みと取り扱いを受け入れます。彼らには神を畏敬する心がありました。そんな人々にどうして殺人を犯せるのでしょうか。エイミーはそのときの深刻な心の葛藤に直面していました。間違った道を歩んでいないかと恐れましたが、主の再臨による救いのチャンスを逃すことも恐れました。彼女はそこでスーザンに電話して、「5月28日招遠マクドナルド事件の真相を知るために全能神教会で兄弟姉妹と話をしたい」と言いました。

欺瞞を見抜き、決心を更に固める

    集会で兄弟姉妹は、明(ミン)鏡(ジン)火(フオ)拍(パイ)[訳注-YouTubeのニュースチャンネル]の「贾(か)春(しゅん)旺(おう)、全能神教会包囲を指示。第807計画がいわゆるマクドナルド殺人の発端か」と、全能神教会が制作した「五二八山東招遠事件の背後で暴かれた真実」という二本の動画をエイミーに見せてくれました。この二本の動画を見た後、エイミーは中国共産党が広めた噂についてある程度の識別力を得ました。招遠事件は中国共産党が家庭教会と全能神教会を根絶するためにでっちあげた偽事件に他ならず、教会が行なったことでは決してなく、中共がただ教会を陥れるためにしたことであると彼女は知ったのです。李(リー)兄弟が交わりで述べました。

  「中国が独裁政権であり、一党の支配下にあることは周知の通りです。中国の主要メディアは中国共産党の代弁者に過ぎず、特に党の裁判官は中国共産党政府の望み通りに事件を処理しなければなりません。自主性がないのです。中国共産党の裁判所で審理された事件が公平に扱われることがありえると本当に思いますか。私たちは何年もこの国に住んでいました。中国共産党による誤審がどれだけあったかは誰もが知っていると思います。山東招遠事件が法廷で審理されたとき、事件の刑事容疑者は『国が取り締まるのは趙(チャオ・)维(ウェイ)山(シャン)の全能神であり、私たちの全能神ではない』、『私は全能神教会とは関わったことも組んだこともない』と非常にはっきり供述しています。彼ら自身が自分たちは全能神教会の者ではない、教会とは何の関係もないと言ったのです。しかし、中国共産党の裁判官はそれでも彼らの証言を無視し、事実に反して、『容疑者は全能神教会に所属している』と何の証拠もなしに判断しました。裁判官は教会を非難すると決めていたのです。これは中国共産党が意図的に事実を歪め、全能神教会を陥れ、中傷しているのではないでしょうか」

  この兄弟の話を聞いて、エイミーは招遠事件のことを思い返し、なるほどとうなずいて言いました。

  「そうですね。裁判官は事実に基づいて判決を下さなくてはならないのは、法律の基本がわかる人なら誰でも知っていますが、この中国共産党の裁判官はあからさまに事実に反しています。これは本当に怪しいです。招遠裁判が放送されてすぐに多くのネチズンがこの事件のあらゆる不審な点を投稿で指摘したのも不思議ではありません。招遠事件は中国共産党政府が全能神教会を抑圧するために仕組んだのですね」

  趙(チャオ)姉妹が交わりで述べました。

  「中国共産党の歴史を理解している人なら誰でも、中共が宗教信仰や民主化運動、人民の権利の擁護や少数民族の抗議運動を暴力で抑圧するときはいつも、先ず偽の事件を作り世論を扇動し、国民をそそのかしてから、残虐なやり方で弾圧することを知っています。これは中共の常套手段です。誰もが知っている天安門運動と同じです。あれは学生による反汚職、民主化運動として始まりましたが、中共は不審人物を何人か送り込んで学生のふりをさせ、学生のあいだに潜入させました。彼らはただ混乱を起こすために人を殴り、物を壊し、店を略奪し、火事を起こし、軍用車両をひっくり返しました。そしてそれらの犯罪を学生の責任にして、学生の運動が反革命的な暴動だと言ったのです。それは学生を抑圧する根拠として世論を利用するためでした。その後、中国共産党は学生に対して残虐な弾圧戦術を行使し、その結果少なくとも何千人もの学生が射殺され戦車で押しつぶされました。中国と世界に衝撃を与えた天安門広場事件はこうして作られたのです。中国共産党がチベットと新疆の人々の抗議と行進を鎮圧したときも同様です。先ず共産党は数名の人に偽の事件を捏造するように扇動してから、その事件を用いて特定の集団の信用を傷つけ、名を汚します。最後には暴力で抑圧します。これらは共産党が反体制派の根絶のために常に用いる卑劣な戦術です。このことから明らかなように、山東招遠事件は中国共産党が全能神教会を残忍に抑圧し迫害するために世間の論議の根拠を作り出したのであり、共産党は宗教信仰の迫害という重大な罪をまた一つ犯したのです」

  李(リー)兄弟は続けて言いました。

  「それでは、なぜ中国共産党が全能神教会をこのように弾圧し、抑圧しているのでしょうか。それは受肉された全能神が現れて働きをなさり、数百万語もの御言葉、『言葉は肉において現れる』を発されたからです。あらゆる教派における、真理を愛し、光を熱望する人々が全能神の御言葉を読み、『それらはすべて真理であり、力と権威があり、全能神は終わりの日のキリストの出現であり、再臨された主イエスだ』と断定しました。このような人々が次々と終わりの日の全能神の働きを受け入れました。特に近年では、全能神の御国の福音は他の国々や地域にもどんどん広がり、教会の新しい支部が設立されています。ますます多くの人が全能神の御言葉を広め、証しをしています。全能神教会の急速な発展により、中国共産党は慌てふためきました。彼らが最も懸念しているのはキリスト教徒が神の出現と働きを証しすることです。真理が広められるのを恐れ、中国人民が神を受け入れ、全能神の御言葉を通して真理を理解したならば、中国共産党の悪魔的な本質を見抜き、党を完全に拒絶し、壊滅に追いやることを最も恐れています。中国共産党政府が全能神教会を躍起になって弾圧し迫害しているのはこのためです。彼らは教会を陥れて中傷するためにありとあらゆる噂を作り出しただけでなく、機密文書を発布して武装警察や兵士を多数動員し、全国各地の教会とキリスト教徒を躍起になって弾圧し、逮捕し、迫害しました。山東招遠事件は、中国共産党による言いがかりの典型的な一例にすぎません。彼らが手間暇かけて全能神教会に招遠事件の濡れ衣を着せた目的は、教会に対する世間の非難の根拠を築くことで、教会の弾圧と排除を「正当に」行えるようにすることです。それはまた人民をだまし、人々が全能神を否定して神の救いを受け入れることを拒むように扇動するためでもありました。これで人民はいつまでも中国共産党の支配下に留まり、無神論地帯が中国に築かれ、そこでは党が永久に権力を維持して人民を支配しますが、ついには全世界を制すという野望さえ実現することもありえます。中国共産党は天に背き、正しい原則に歯向かい、神の敵であると同時に、真理と正義に敵対しています。しかし、神の知恵がサタンの策略の上に働き、中国共産党によるこの狂った抵抗を通して、サタンの醜い顔が白日の下にさらされました。それで私たちはその邪悪で反動的な本質を見極め、中国共産党が神に抵抗し真理を憎むサタン悪魔であることをはっきりと知ることができます」

  スーザンは言いました。

  「そうです。彼らの隠蔽と欺瞞は長続きしません。暗い雲には太陽を隠せません。嘘はいつも嘘であり、真理にはなれません。中国共産党はここ何年もの間、嘘を捏造しており、あちこちでますます悪名高くなっています。中国共産党の裁判所で審理された訴訟には少しも信憑性がありません。分別のある人なら誰でも彼らの陰謀を見破れます」

  中国共産党の悪しき動機をはっきり知った後、エイミーは憤慨して言いました。

  「中国共産党政府は本当に邪悪で、実に忌まわしいです。どんな卑劣な行動も辞しません。神にそこまで敵対するのなら確実に神の義なる罰を受けるでしょう。ああ、今思えば、私は本当にとても愚かで無知でした。判断力に欠けて、サタンの策略に危うくはまるところでした」

  趙(チャオ)姉妹が言いました。

  「実のところ、話を戻しますと、全能神教会の信者が実際に法律を破ったとしても、それが全能神の出現と働きにどう関係があるというのでしょうか。教会と関係がありますか。カトリック教徒が犯罪を犯したら、それはカトリック教と関係があるでしょうか。それだけの理由でカトリックの神が真の神であることを否定できますか。主イエスの弟子の一人、ユダが主を裏切った時と同じです。だからといって主イエスが真の神ではなかったと疑っていいのでしょうか。宗教を信じる者がどんな犯罪を犯したとしても、どんな法的制裁を受けたとしても、その人の教会とは無関係です。これは一般常識です。全能神の働きが真の道であるかどうか、この方が神の出現であるかどうかを検討したいのなら、肝心なのはその方が表されることが真理であるか、それが神の御声であるのか、その行いが終わりの日に人類を救う働きであるかどうかを判断できることです。これだけが最も重要なのです。全能神が表されることが真理であると断定できる限り、中国共産党と宗教界がどんな嘘や中傷を作り出しても、全能神は依然として真の神です。誰にもこの事実は否定できません。主イエスが現れて働かれた時と同じです。ユダヤ教の指導者たちは主イエスについて多くの嘘を作り上げました。しかし、主の追随者たちは主の御言葉が真理であると知り、主が来たるメシアであると認めました。彼らは嘘の影響をまったく受けず、断固として主に付き従いました。同様に、全能神が表された御言葉がすべて真理であり、神の御声であると私たちが現在断定することができれば、中国共産党が五二八山東招遠事件を何件でっち上げても、たとえそれが百件、千件あったとしても、全能神が真の神であるという事実は覆い隠せません。このことから明白なのは、真の道を学ぶ際には、神の御声を聞き、真理を求め、サタンの嘘と戯言を絶対に聞かないという原則を守らなければならないということです。さもなければ神の救いを失ってしまいます」

  趙(チャオ)姉妹の交わりを聞いた後、エイミーは喜んで言いました。

  「今日の交わりは最高です。おかげで本当に雲が晴れて、澄んだ空が見えます。真の道を学ぶ上で一番大切なことが何なのかが今ではわかります。それは、そこに真理が含まれているか、それが神の御声であるかどうかを確かめることです。これだけが最も肝要なことであり、神の働きや神が表されている真理とまったく無関係なものの影響や妨害を受けるべきではありません。特にサタンの戯言に耳を傾けるべきではないのです」

  真の神と確証し、神の恵みを感じる

  そのような嘘による混乱を経験して、エイミーは「神に抵抗して真理を憎む」という中国共産党の邪悪な本質に関してある程度の認識と識別力を得ました。それらの嘘を捏造する悪しき意図を見極め、もはやそれらにだまされなくなったのです。それ以来、機会があるときはいつも、神の御言葉を読み、兄弟姉妹と集って、真理について交わるようになりました。エイミーは全能神が主イエスであるとすっかり確証したのです。その後、終わりの日の全能神の福音を夫に伝えると、神の御言葉を聞いた後、夫もそれを神の御声と認め、神の家に入りました。

  パソコンの画面で自分の体験談を見て、エイミーは幸せな笑みを顔に浮かべ、さらに書き加えました。

  「今日、迷える羊だった私はついに主をお迎えし、神の家に戻りました。よく兄弟姉妹と共に集会し、神の御言葉について交わり、福音を伝え、本分を果たしています。心がこれまで知ることがなかった落ち着き、安らぎ、喜びを味わっています。神に感謝します」

  編集者注 主とお会いすることは、すべての信者の最大の望みです。主人公エイミーは、喜んで主の再臨をお迎えした後、中国共産党が仕組んだ5月28日招遠市マクドナルド殺人事件による混乱に見舞われました。幸いにも、真理を求めることで、彼女は中国共産党の嘘を見抜くことができました。私たちが主の再臨をお迎えする道は嘘と策略に満ちていますが、その道中で「キリストが真理であり、道であり、いのちである」と断定する限り、私たちはこれらの嘘の惑わしを乗り越えて、主の足跡に付き従うことができます。読者の皆さんに、福音映画「知らぬが命取り」をお薦めします。