賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

クリスチャンは仕事上でどのように効果的に従業員を管理するのか

2019-12-12 11:24:18 | 職場の人間関係

   「上司」という言葉から「厳格な」とか「多くを要求する」といった単語を連想する人はかなりの数に上ると思います。私も上司は部下に厳しくあるべきであり、上司の言葉は法律であるべきだと考えていました。それがスタッフを適切に管理する唯一の方法だと思っていたのです。しかし現実と向き合ったとき、それは決して優れた方法でないとわかりました!

私の厳格な管理方法によって疎外されたスタッフ

   社会に出てから六ヶ月後、私は会社の人材室長に昇進しました。そして自分自身の管理能力を証明すべくチームの業績を向上させようと、部下達に効率的かつスピーディーに仕事をするよう求めました。それができないと、理由がどうあれ、私は彼らに説教をします。スタッフが提出する日報も、誤りは一つも許されませんでした。私の基準に届いていなければ、その人物を叱責するだけでなく、私が満足するまで書き直させるのです。

   あるとき、従業員の一人が報告書をきちんと書けないということがありました。私は彼女にどう書き直すべきか指示したのですが、それでも彼女は正しく書き直せませんでした。しまいに私はノートを放り投げ、こう言いました。「もういい、忘れてくれ。他の誰かにやらせよう。私は君のために待ち続けるほど辛抱強くないんだ」彼女は私の振る舞いに恐怖で震えていましたが、私は気にすることなく、彼女は単に怠け者で、精神力を費やしたくないのだろうと考えました。また別の従業員が私に質問するということがありましたが、それがあまりに簡単なものだったので、私は心底怒って彼女を叱りつけました。「私は君に何回言った?疑問に思ったら自分で考え、答えを見つけるんだ。なぜこんな簡単なことを私に質問するんだ」彼女はうなだれ、「ああ」とだけ言ってその場を離れました。その直後、化粧室から彼女の泣く声が聞こえました。私はほんの少し良心が痛み、自分の管理方法が厳しすぎるのではと感じたのですが、やがてこう考えました。私が彼らに厳しくしなければ、彼らはどのように仕事をうまく成し遂げるのか。だから私はそれを気にとめませんでした。



   それからしばらく経ち、私の厳格な管理方法は社内でよく知られるようになりました。そして新しいスタッフが雇われるたび、誰もが私の部門に配属しないよう支配人に求める有様でした。しかし私の部門は能率的に仕事をしていたため、支配人は私の下に従業員を送り続けました。私の部門に加わった人間はみな不安に満ち、仕事に恐れを感じ、失敗したら私に叱責されると心配していました。彼らは聞こえないほどの小声で話し合い、私が来るのを見るとすぐ自分の席に戻るのです。私はこうした状態を見ていささかお手上げに感じました。私のスタッフは徐々に私の近くを避けるようになり、仕事上必要でない限り私に話しかけようとしませんでした。私は孤独を感じ始め、彼らを不安にさせているのは自分の管理方法のせいだと自覚しましたが、チームをうまく管理するには他に方法がないと考えました。

相次ぐ退職に私は考え直した

   2015年4月、私はスーパーマーケット業界に移り、新しい店舗の店長となって店の業務をすべて担うことになりました。ここでもまた、優秀なチームをまとめて自分自身の指導力を見せつけるべく、私はスタッフに対して商品の補充を素早く行なうだけでなく、秩序正しく、また見た目にも美しく陳列するよう求めました。動きが緩慢だったり私の指示を理解していなかったりすれば、私はこう叱責したものです。「君には脳みそがないのか。どうしたら商品をこのように並べられるんだ。君は自分が何をしているのかわかってないし、誰かに尋ねようともしない。その口は何のためについているんだ」しかし思いもよらぬことに、その店舗で同じ管理方法を用いた結果、業務の効率が向上しなかっただけでなく、平均して月に一人か二人の割合で多数の従業員が退職し始めたのです。六ヶ月以上働き続ける従業員はほとんどいませんでした。

   この管理方法がよい結果を生み出さなかっただけでなく、従業員の相次ぐ退職へとつながっていることに気づいた私は、この問題に対して無力感と孤独を覚えていました。その時点で私はこう考えざるを得ませんでした。私は一生懸命管理しているのに、なぜこんな結果になってしまったのか。私はすっかり途方に暮れてしまい、何をすべきかわかりませんでした。

従業員への怒りの背後にある問題

   その後、私は神様の言葉を読みました。「人間が地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにする。人間は、自分の力を示し、自分の地位や身分が普通の人々とは違うことを他人に知らしめるため、明確な理由なく激怒することさえ多々ある。無論、地位の無い堕落した人間も、頻繁に取り乱す。そのような人間の怒りは、その人間の個人的利益に対する危害によって発生させられる場合が往々にしてある。自分の地位と威厳を守るため、堕落した人間は感情を発散させ、傲慢な本質を露わにすることが往々にしてある。人間は、罪の存在を防御するために突然激怒して感情を露わにし、そうした行動によって、その者は自分の不満を表す。こうした行動は陰謀や詭計に満ちている。人間の堕落と邪悪、そして何よりも人間の向こう見ずな野心と欲望に満ちている。」神の言葉を読んだあと、私が怒りを感じたときに必ずかっとなるのは、サタンの傲慢な性質に支配されているからだということ、それは単に自分自身の地位と名誉を守るためだということを、私はようやく理解しました。店長になったあと、自分が有能であることを証明し、社内でよいイメージを築こうと努力する中で、私は仕事のあらゆる面で従業員に厳しい要求を行ない、彼らがそれを満たせなければ、指導者としての立場から彼らに説教し、腹を立て、勝手気ままに彼らを叱責していたことに私は気づきました。私が腹を立てていたのは単に、従業員が基準に満たない仕事をした場合、自分が優秀な管理者であることを証明できず、社内で面目を失ってしまうからではなかったでしょうか。最初はその管理方法のおかげでいくつかのよい結果を残せましたが、それはまた私のスタッフを大いに締めつけ、彼らとの関係もすっかり冷え込んでしまいました。それは単に上司と部下の関係に過ぎず、私の部門で誰も働きたがらない事態に至ってしまったのです。そしてスーパーマーケットを運営するために同じ方法を用いたところ、従業員の大量離職につながってしまいました。スタッフを管理するために自分の堕落した性質に頼ることで、私の行なったことはすべてスタッフを傷つけ締めつけることになり、またスーパーマーケットの利益も損なうことになりました。私はキリスト教徒として、自分の行動は神を賛美し神の証しをするべきだと考え、自分の立場と利益だけを考えるべきではないと思いました。特に、自分の堕落した性質に頼って腹を立てたり他人を叱責してはならなかったのです。そして私は神に祈り、自分の個人的な野心と欲望を満たすのをやめ、自分のサタンの性質のためにスタッフを気まぐれに叱らない決意をしました。

   そのとき以来、従業員が何かを理解できなかったとき、私は辛抱強くそれを説明するよう努め、彼らの仕事に問題が発生したときは助言や手助けをするようにしました。ときには仕事ぶりがよくないのを自覚させることもまだありましたが、もはやそれについて叱ることはせず、間違いの結果を理解するようはっきり説明するだけにしたのです。いったんそれを理解すれば、彼らは喜んで改善を行ないます。しばらくそれを実行したところ、私とスタッフの関係はもはや緊張したものでなくなり、私は心がより自由になるのを感じました。

他人を公平に扱う方法を学ぶ

   程なくして、私はもう一つの状況に見舞われました。新しい人物が店に雇われたのですが、彼女はさほど優れた能力の持ち主ではありませんでした。私が割り当てた仕事をうまくこなすことができず、何度も訓練を重ねたあとも、彼女は理解できなかっただけでなく、どうするべきか他の人達に訊こうとしなかったのです。私は苛立ちを覚え、こう考えました。「あんな様子で、彼女はどうして仕事を立派にこなせるようになるだろうか。彼女には辞めてもらったほうがいい。そうすれば面倒事が少なくなる」そうした考えが浮かんだとき、私は心から不安を覚えました。そこで神の御前に行って祈りました。「ああ、神様! 私はこの従業員にどうしても我慢できません。辞めてほしいと思っていますが、心から不安を感じています。どうすればよいかわかりません。どうかお導きください」

   後に私は教会の中で、自分の状態について妹に話しました。すると彼女は神の言葉の一節を読んでくれました。また別の言葉も読みました。その後、私は神様の言葉を読みました。「大きいものから小さいもの、そして微小なものまで、創造されたあらゆる生物には、創造主の権威と力により造られなかったものは存在せず、それぞれの生物に固有の、生來の必要性と価値がある。あらゆる生物は、その形狀や構造の相違に関係なく、創造主の権威に従って存在するよう、創造主により造られている。」また「いのちの供給ための説教集」も読みました。「正しく他人と接することができるようになりなさい。つまり、他人を見上げても、また見下してもいけません。他の人が愚かだろうと賢かろうと、素質が優れていようと劣っていようと、金持ちだろうと貧乏だろうと、偏見を抱いて感情に頼ってはいけません。自分の好みを他人に押しつけてはいけませんし、ましてや自分の嫌いなことを他人に強いてはいけません。これは、誰かがしたくないことをその人に押しつけるということではありません。物事を行なうときは、自分に目を向けるだけではいけません。他の人にも目を向け、自分がどう配慮すれば他人のためになるかをもっと学ばなければなりません」。

   それから彼女は次の言葉をみんなと分かち合いました。「神様によって作られたすべてのものには、存在する必要性があります。誰もが自分の長所と固有の価値を持っています。私達一人一人は異なる環境で育ち、異なる能力を有していますが、私達はしかるべき方法で他人を扱い、その人の長所が何かを見いだすためにより多くのことを行ない、その長所を土台として彼らにふさわしい位置を見つける必要があります。丸い穴に四角い釘を打ち込もうとしてはいけません。私達自身の個人的な基準を土台として常に他人を扱ったり、物事を要求したりするのは公平ではなく、それは傲慢な性質から来ています。だから私達は、他人の欠点や短所により同情的で寛容になる必要があるのです。私達は愛の場所から他人を助けるべきです。それが私達の付き合いの中で公平さを達成する唯一の方法なのです」

   私は妹のこの言葉を聞いたあと、神は一人一人を異なるようにお造りになったこと、そして私達がみなそれぞれの長所を持っていることを理解しました。私は他人を見下してはならず、特に自分の要求を押しつけ、彼らにできない仕事を無理強いしてはならないのです。その代わりに、彼らの能力を土台としてふさわしい準備を行ないつつ、他人を尊敬し理解する方法をも学ばなければなりません。さらに彼らを助けるべく、自分にできることは何でもする必要があります。そして私は、あの従業員がまだその立場に長くおらず、それほどなじんでいなかったという事実を考えました。うまく仕事をこなせないのは無理もないことで、それを理解し、彼女にふさわしい仕事を用意すべきであり、あまりに多くのことを要求してはいけないのです。

   その後、私は実際の状況に従って、彼女に単純な仕事を与えました。しばらくそうしたあと、彼女は正直で素直なだけでなく、実に勤勉な働き手であることがわかりました。私が割り当てたことを残らず完了させるため、自分にできることは何でも行ない、ときには自分の仕事を終わらせたあとも、他人を助けようと手を差し伸べるのです。彼女の性格におけるこうした側面は、私自身が持っていないものでした。はじめは自分の傲慢な性質のために、私の基準に届いていないという理由で彼女の解雇を考えたことを思い出しましたが、私はそのせいで彼女が輝く場所を見ることができず、店は本当に素晴らしいスタッフを失っていたことでしょう。私は神の導きに感謝を捧げました!

神の言葉に従って行なうとき、仕事はスムーズに進む

   それからというもの、私はもはや自分の傲慢な性質に頼らず、自分自身の基準を土台として従業員に厳しい要求をしないようになりました。そしてより多くの助言を行ない、どのように自分の仕事を進めるべきか教え始めました。時には従業員が仕事を完璧にこなせないこともありますが、努力を行ないベストを尽くす限り、私は彼らに同情的でいられました。私とスタッフの関係は徐々によくなり、ときにはジョークを交わしたりおしゃべりしたりしています。全員の間にこうした溝はなく、協力して仕事を進める中でより多くの暗黙の理解があるのです。

   数ヶ月後にマレーシアの主要な休日があり、私達は店に大量の商品を受け入れ始めました。私も業務の準備に忙しくなりました。しかし業務の進み具合が緩慢であることがわかり、このままだと在庫が積み上がってしまうのではないか、倉庫が満杯になってしまうのではないかと心配になりました。そうなれば深刻な問題です。私は不安を感じ始め、より素早く働くよう彼らを駆り立てるために、再び自分の堕落した性質に頼る衝動に駆られました。しかし同時に、自分のスタッフが息苦しさを覚えることも心配しました。そこで私は神に祈り、私の心を静めてくださるようお願いした上で、ふさわしい行動を探し求めました。いったん心が静まると、みんながそれぞれの個人的な長所を持っていることを思い出し、彼らが自分の役割をもっともよく果たせるよう、一人一人に最適な場所を用意した上で、適切な助言を与えるべきだと考えました。それを実行したところ、全員が自分の役割をよく果たし、在庫の処理も新しい商品の入荷に間に合ったのです。すべてのことがスムーズに進み、全員が自分の仕事により大きな自信を得ました。私も大いに安心しました。

   この経験を通じ、スタッフとの付き合いにおいて自分の堕落した性質に頼るなら、全員を締めつけるだけでなく、スーパーマーケットの利益も害することがわかりました。私が神の言葉を実行に移したところ、スタッフとの関係が改善しただけでなく、仕事も極めてスムーズに進んだのです。私はこのことから、神の言葉は自分がいかによい人であるべきかの基準であることに気づき、また神の言葉を実行に移すことで私の堕落した性質を変え、正しい人間らしさを生きられると知ったのです。さらに、神の言葉を実行に移すことで神の祝福と導きを得られ、内なる平和と喜びがもたらされることもわかりました。将来、私はさらに真理を追い求め、神の言葉を実行に移すでしょう!


ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意すべきだ

2019-11-15 23:16:35 | 職場の人間関係

   「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」(マタ16:6)

   主イエスはどんな背景の下でこう言われましたか。聖書にこう書かれています。「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。『あなたたちは、夕方には「夕焼けだから、晴れだ」と言い、朝には「朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ」と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない』。そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、『ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい』と言われた。弟子たちは、『これは、パンを持って来なかったからだ』と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい』。そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った」(マタ16:1-12)。

   聖書のこの箇所から、わたしたちは主イエスが弟子たちにファリサイ派とサドカイ派の人々の教えに注意するように教えたということがはっきり分かりました。わたしたちが知っているように、当時ファリサイ派とサドカイ派の人々は教会の上層部の人でした。では、なぜ主イエスは弟子たちにこれらの人を警戒するように教えられたのですか。わたしたちは、主イエスが働かれた時期に、ファリサイ派とサドカイ派の人々がどんなことをしたかを見てみましょう。




   主イエスがこの世に来て働かれた時、人がよりよく彼を認識し、彼の贖いを受け入れるためには、神は盲人が見えるようにし、足の不自由な人が立ち上がって歩くことができるようにし、悪霊にとりつかれている者をきよめ、しかも死人を復活させられました。主イエスは多くのしるしと奇跡を行われました。当時のユダヤの民は、主イエスから多くの恵みと祝福を得、また神の多くのすばらしいみわざを見ました。そのため、彼らは次々に主イエスに追従して彼の道を聞きました。ファリサイ派とサドカイ派の人々は多くの人が主イエスの追従者になったのを見た後、自分の地位、生活の道を守るために、絶えず主イエスを誹謗し、罪定めし、また主イエスに関する多くのデマをでっち上げました。しかし愚昧なユダヤの民はデマを聞いた後、弁別力を持たなくて正しい立場をしっかり守ることができないため、ファリサイ派とサドカイ派の人々と一緒に主イエスを否み、裁きました。こうして、主イエスを罪定めする声がユダヤ教全体に満ちていました。このような背景の下で、主イエスは弟子たちに「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」(マタ16:6)と教えられました。

   主イエスの弟子たちは主の働きと言葉のゆえに、主イエスが来たるべきメシアだと分かり、彼の病気をいやし、悪霊を追い出す力が神の権威から来るのだと信じていました。彼らはファリサイ派とサドカイ派の人々のまき散らしたさまざまな謬論やデマを見破り、動揺せずに主イエスに追従していました。しかし、それらのユダヤの民はファリサイ派とサドカイ派の人々のデマに惑わされたため、彼らと一緒に主イエスを十字架につけました。こうして、ユダヤの民は神に逆らい、神を罪定めした人になりました。最終的に、全民族は国の滅亡のつらさを味わいました。

   聖書にはすでにこう預言されています。「『見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである』。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む物、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる」(黙22:12-15)。聖書のこの数節から、わたしたちは世の終わりに主イエスが再来される時、うそいつわりをでっち上げるようなことがたくさん現れるということが分かりました。では、ユダヤ人の二の舞を演じないためには、わたしたちはどのように「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意する」べきですか。これは、主が戻ることを心から望むあらゆる兄弟姉妹が分からなければならない真理です。

   どのようにファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意すれば、賢いクリスチャンになれるかという話題は、わたしたちは明日、聖書読解シリーズの文章の中で続けて交流しましょう。


サタンの支配を振り払い自由になる

2019-11-14 22:46:36 | 職場の人間関係

   神様を信じる前の私は、何をしようと誰にも遅れをとりたくありませんでした。他人よりも勝ち誇れるのならどんな苦難でも受け入れました。神様を受け入れた後も私の態度は変わりませんでした、なぜなら私は「苦労なくしては利益はない」という言葉を強く信じ、それが私の動機の証明に思えたからです。神様が私に真実を明らかにして下さった時、私はやっと自分がサタンの支配下で生きていた事に気づかされました。



   少し前のこと、教会で私と共に奉仕していた姉妹が指導者のポジションにつく事になりました。その事を聞いて私は落ち込みました。私達は編集者として再任されるまでは二人とも指導者として奉仕していました。そして今その姉妹は再び指導者として無限に成長の可能性がある中で神様に仕えるのに、私は机にむかって孤独に仕事をこなすのです。こんな事をしていて私の将来はどうなるのだろうか?その一方で、「成功へは百万の道がある」という古いことわざを思い出しました。自分のやるべき事を正しくやり遂げる事によって、私自身も成功できるのです。私に必要な事は真理を求めるために、二倍の努力をするという事なのです。もしも私が説教を真理がより上手く伝わるように編集すれば、いつか指導者達は私が真理を理解している事に気付いてくれるかもしれない。そうすれば私は昇進し、未来も同じように明るくなるかもしれない。それに気付いた私は曇り空が晴れたかのように決意を新たにしました。私は仕事に没頭し、その合間には一時も気が緩まないよう、神の御言葉をひたすら読みました。

   ある日、『いのちに入ることに関する交わりと説教』の中にこのような一節を読みました。「神と真理を追い求める事を制限する全てのものはサタンの束縛の一つである。サタンの鎖の一つにでも縛られているのであれば、あなたの人生はすでに彼の支配下にある。」この言葉を聞いた後、自分自身に「私はサタンのどのような支配下で生きているのだろうか?どの毒が私が真理を追い求める事を邪魔しているのだろうか?」と聞かざるを得ませんでした。これらの問いかけをじっくり考えているうちに、自分の今の状況を思い出しました。姉妹が新たな役職についた後、私は消極的にはなりませんでした。私は更に忠実に神様の言葉を読み、神様に祈り、やるべき事を積極的に果たしました。表面上は今まで以上に懸命に真理を求めているようにも見えたが、深く分析すると、私が他人よりも遅れをとる事を受け入れることができたのは、いつかまた前に行けるという願望を抱いたからなのです。ベストの中のベストになりたいという大望が私が消極的にならなかった理由であり、より積極的に真理を求めることができたのですが、私のそのいわゆる真理を追い求めることはただの幻想であり、不純な追求だったのです。自己中心的な結果を達成するため、一瞬の追求をしようとしていたのです。私の神様と過ごした年月を思い起こしてみると、私の全ての犠牲は、「苦労なくしては利益はない」というサタンの毒によって払われたのだという事に気付きました。それによって私は見えない束縛に縛られ、卓越のために努力するようになったのです。すでにポジションがあったのにも関わらず、より高いポジションを求めていた。自分のポジションをなくしたり、前進出来なくなったら消極的にならなかった。真理を求めるために私は犠牲を払う意思があるようにも見えた。しかしながら、それは私が真理を理解し、そのために犠牲を払う意思があったからではなかったのです。単に成功するための犠牲と見せかけていただけだったのです。そこでやっと私の「苦労なくしては利益はない」というスタンスが自分の血管に流れているサタンの毒だったことを理解したのです。私は騙されていたのです。その毒が私の全ての人間らしさを奪ったのです。客観性がなく、私は傲慢で野望的だったのです。このすべてが私自身に起きた事なのです。私の野望は私の向上心の証だと思っていました。私の誰にも遅れをとりたくないという傲慢な考えは自分のモチベーションの表れだと思っていました。サタンの誤った考えを真実だと思い込み、悪い事ではなく名誉な事に見えたのです。このようにサタンに騙されて、善悪の違いがわからなくなるほど私は愚かだったのです。自分がどれだけ哀れだったのか、やっと気付いたのです。そして、どれだけサタンが狡猾で卑劣なのかも学びました。サタンはもっともらしい誤った考えを使い私達を騙して堕落させるのです。私達を迷わせ、彼の人を惑わす計画に私達は忠誠を誓うのです。これらの事は全て私達が知らぬ間に起きるのです。私達は真理を追い求めそのために犠牲を払っていると思っていても、実際は自己欺瞞の中で生きているのです。サタンの毒は本当に強力なのです!神様の啓示が無ければ、自分がサタンによって堕落させられたという真実や、彼の人を惑わす計画にも気付く事ができなかったはずです。神様の啓示が無ければ、私はそのままサタンの支配下で生き続け、そのうち私の全てがサタンに飲み込まれてしまったであろう。

   その時、私は神様の言葉を思い出しました。「神の家で効力者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。」(『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より)神様の言葉がどう振る舞うべきかを示してくださったのです。神様の創造物の一部として、私は無条件に神様を愛して喜んでいただき、心からやるべき事を果たすべきなのです。神様の創造物である者はこのような自覚を持つべきなのです。それを追い求める事は神様の意志に従っているのです。この日から私は真理を求めるためにベストを尽くします。その真理を頼りにサタンの欺きを見破り、支配を振り払うのです。もう私は肉体的な事は追い求めません。その代わりに苦労して誰に知られる事なくても、神様に喜んでいただくために自分のやるべき事を果たします。たとえ最後に何も残らなかったとしても、少しも後悔せずに私はやり続けます、なぜなら私は神様の小さな創造物だからです。創造主を喜ばせる事こそ私の人生の本当の目的なのです。

 

あなたのために神の福音に関するより多くの文章を推薦します


なぜヨナは魚に呑み込まれたのか

2019-11-07 21:28:18 | 職場の人間関係

   ある日、わたしは聖書に関するいろいろな絵を見る時、魚がヨナを呑み込んでいる絵に引きつけられました。そして、わたしは聖書を開いて、ヨナ書にこう書かれているのを見ました。「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている』。しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシュに向かった。

   主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。……さて、人々は互いに言った。『さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう』。……彼らがヨナの手足を捕えて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった。……さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた」(ヨナ1:1-4、7、15;ヨナ2:1)。「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて……主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した」(ヨナ2:2、11)。「主の言葉が再びヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ』。ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。『あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる』。」(ヨナ3:1-4)。

   聖書のこれらの言葉を読んだ後、わたしは「なぜヨナはヤーウェ神の委託を拒絶したのか。なぜ彼は神の言葉に聞き従わなかったのか」と考えていました。だが、わたしはいくら考えてもこの問題が分かりません。

   ある日、わたしは教会の集会の中で、ヨナがヤーウェ神の委託を拒絶したことについての疑問を持ち出しました。当時、ある兄弟はこう言いました。「当時、ヤーウェ神の言葉がヨナに臨んで、彼に大いなる都ニネベに行って神の言葉を伝えるように命じました。しかし、ヨナはそこへ行きたくなかったのです。ニネベの人たちはすべて異邦人で、ヤーウェ神を礼拝せず、また神に逆らう、神が直接彼らを滅ぼせばいいじゃないか、彼らに神の言葉を伝えて何になるのか、と彼はそう思っていました。そのため、ヨナは神の彼に対する命令に従いませんでした。ヨナが不従順だから、災いは彼に臨みました。ヤーウェ神の言葉がもう一度ヨナに臨んだ時、彼はどうしても行かざるを得ませんでした。しかし当時、ヨナは『神がどうせ彼らを滅ぼすんだから、勝手に一言言えばいい』という気持ちでニネベに行ったのです。そのため、ヨナはニネベでただ一言言いました。『あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる』と。ヨナの伝えた神の言葉がこんなに簡単であることからみて、ヨナはニネベの人たちの命のために神の言葉を伝えるのではなく、ただ形式的にそうするのでした。もしヨナがイスラエル人に神の言葉を伝えるなら、彼はきっともっと多くの言葉を言うでしょう。イスラエル人は神を信じる人、神の選民だから。しかし彼がニネベの人たちに伝えた神の言葉はそんなに簡単でした。ヨナの言動から見れば、ヨナは神を畏れる心を持たず、神の願いを顧みず、人を救おうとする神の御心を理解せず、自分の意志だけによって神の託したことをしていました。ヨナは知らなかったのです。神は激しい怒りを発することに決める時、人に悔い改める機会を与えるということ、神は彼の手で造られた人類を滅ぼすに忍びなくて、人が自分の腐敗、不従順を自覚して悔い改めると望んでいるということを。ヨナは神の御心を理解せず、神のなみなみならぬ苦心を理解せず、また、神の義なる性質の中に憐れみがあることを知りませんでした。そういうわけで、彼は神の働きに対して断定的判断を下しました。神の言葉を伝えた後、ヨナは場所を探して小屋を建てて高みの見物を決め込み、神がどのように大いなる都ニネベを滅ぼすかを見てみようとしました。彼はヤーウェ神がきっとニネベの町を滅ぼすと思っていました。だが意外にも、ニネベの人たちが心から悔い改めました。そのため、神は彼らに対する態度を変え、彼らに憐れみを施し、寛容を示し、しかも彼らを滅ぼさないことに決めました。これで分かるように、ヨナは神を畏れる心を持たず、観念、想像だけによって神について断定的判断を下すのでした。ヨナが神を畏れる心を持つ人であれば、彼がことを見透かせない時、或いは神のなさることが彼の観念にかなわない時、彼は『神のなさることは間違うはずがない。神はことを行う上で、きっと原則がある。人であるわたしは愚昧で無知で、霊界に通じることができない。凡人のわたしは神を認識できない』と思うはずでした。もし彼が神に対する観念、誤解を持たなかったなら、彼は神に対する従順さをもって神のなさるすべてのことを扱うことができました。そうだったら、彼は悪を避けることができ、神を裁き、神に逆らうこともなくなります」。

   兄弟の言葉を聞いた後、わたしはやっと分かりました。「ああ、ヨナが神の委託を拒絶したのは、彼が神を畏れる心を持たず、自分の観念、想像によって、神の働きについてみだりに論断し、断定的判断を下し、神の託したことをするからです。ニネベの人たちが異邦人で、イスラエルの神の選民ではない、彼らに神の言葉を伝えて何になるのか、神が直接彼らを滅ぼせばいいじゃないかと、彼は思っていました。だから、彼は神の委託を拒絶しました。それゆえに、彼らは魚に呑み込まれて、三日三晩魚の腹の中にいました」と。

   神の委託に対するヨナの態度によって、わたしたちは人類に対する神の寛容を見ました。ヨナが神に逆らい、神の委託を拒絶したけれど、神は彼に悔い改める機会を与えられました。ヨナが魚に呑み込まれましたが、魚はヨナを傷つけませんでした。このことから分かるように、神は邪悪な事物を恨み、神に逆らい、神の性質を犯す人を懲罰し、しかし人が悔い改め、変わる時、人に憐れみを施し、寛容を示されます。つまり、神の性質の中に、威厳、激しい怒りもあれば、慈しみ、憐れみもあります。

   ヨナのすることなすことは、わたしたちにとってよい戒めとなりました。以上から分かるように、神がわたしたちに対してどのように働いても、神がわたしたちにどんな要求を出しても、わたしたちは自分の考えによって神の働きを論断してはならず、神に従順で、神の意志を求め、神を畏れる心を抱くべきです。そうしてこそ、神の性質を犯さないですみます。「従順が祝福をもたらし、不従順が災いをもたらす」というのはそのとおりです。

 

通読のおすすめ:

聖書を読む4つの原則は、あなたが把握しているのか


ラザロを蘇らせた奇跡の裏に隠された神の御旨とは?

2019-10-07 18:38:07 | 職場の人間関係

   主イエス様を信仰する私たちの兄弟姉妹たちは誰もが恵みの時代に主イエス様が人類に対する贖いの働きをなさったことを知っています。主は私たちに思いやりと寛容をお与えくださり、寛容であり、我慢強くあること、そして悔い改めて告白することを教えてくださっただけでなく、盲目を見えるようにして、足の不自由な者を歩けるようにしたり、らい病患者を癒されたり、5000人を5つのパンと2匹の魚で食べさせたり、ラザロを死から蘇らせる等、多くの奇跡も起こされました。これら奇跡の中には神の権威を表すものがありません。しかし、私はヨハネによる福音書第11章43-44節を読みました。「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、『彼をほどいてやって、帰らせなさい』。」



   私は聖書のこの箇所を読んだ後、当時ラザロが死んでから既に4日も経っており、彼の体は悪臭を放ち始めていたかもしれないのに、主イエス様の一言で彼は死から蘇ったとあるが、この出来事の裏に隠された神の御旨は一体何だったのだろうと思いました。私はこの疑問には長い間頭を悩まされています。私の心の中にあった疑念はある書籍に書かれていた言葉を読むまで解決しませんでした。

1. ラザロを蘇らせたことは主イエス様が受肉された神御自身であることを証明している

   書籍にはこう書かれています:「主イエスがこのような業を行ったことは、この時代において極めて意義深かった。神は受肉していたので、人々は神の物理的存在、神の実際的な側面、わずかな神の側面しか見ることができない。たとえ一部の人々が神の性格や神が持っているであろうと考えられる力を見て理解したとしても、主イエスがどこから来たか、主の真髄は何か、自分達が見る以上にイエスが行うことのできる物事が何かを知る者は誰も居なかった。そうしたことは人類にとって未知であった。こうした事柄の証拠を求め、真実を知ることを望む者が大勢居た。神は、何らかの業を行い、神の身分を証明することが出来たであろうか。それは神にとって極めて容易であった。神はいつでもどこでも、何らかの業を行い、神の身分と真髄を証明することが出来たが、神は計画通りに、段階的に業を行った。神が無分別に業を行うことはなく、神は最適な時期と機会が到来するのを待って、人間が目の当たりにするのが最も有意義な業を行った。こうした方法により、神の権威と身分が証明された。それでは、ラザロの復活は主イエスの身分を証明出来るものであっただろうか。その点について、「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は…出てきた。」という聖句を検討する。主イエスがこの業を行った時に言ったのは、「ラザロよ、出てきなさい」のひと言であった。その後ラザロが墓から出て来たが、これは主のひと言で達成された事であった。」

   この言葉の節を読み、私は、主イエス様が2000年前に働かれ、人間の前に現われた時、主が誰であったかを知る者はいなかったことを知りました。多くの人々が主に対する好奇心と疑念で満ちていました。主に従っていた弟子たちも主の身分には気が付きませんでした。主を先生と呼ぶ人がいれば、主は最も偉大な預言者だと言った人もいました。この事実からすると、その時代に主の真の身分を知っていたのは数人しかいなかったことが分かります。

   主イエス様は御自身の身分を人類に証明するために、死者を蘇らせる奇跡を使って御自身の権威と御力を表し、人間に自分が神自身であることを知らせようとされました。主がこの奇跡を起こされたことを受けて、私は主はお話しになる前に、天の神に祈りを捧げるための何等かの儀式を遵守されたり、祭壇を準備されることは無かったということを知りました。主はただ大きな声でこう言われたのです、「ラザロよ、起きよ。」そして、死後4日も経っていたラザロが墓から出てきたのです。神が一言仰るだけで、ことは成就します。過去に存在した預言者たちも多くの奇跡を起こしましたが、死者を蘇らせるという奇跡はどの預言者でも起こすことはできなかったでしょう。ラザロを死から蘇らせたこの奇跡は主イエス様の身分、すなわち受肉された神であることを証明しました、なぜなら冥界への鍵は神のみが持っておられるからです。私たちがいつ生まれて、いつ死ぬかは神によってのみ決められています。冥界からのしもべを含めた悪霊とサタンは人類の生死を意のままにすることはできません。この奇跡を起こせるのは神御自身のみなのです。

   主イエス様がラザロを死から蘇らせる奇跡を起こされたことによって、私たちは主の身分は神御自身であることを認識し、主の真の身分、そして主の有するものと主そのものにおいて完全に新しい認識を得ることができ、私たちはやっと主を心から信じ、主に付き従うことができるのです。主イエス様が起こされたこの奇跡は極めて意味深いものなのです。

2.ラザロの復活-神の権威の現れ

   書籍にはこう書かれています:「主イエスがラザロを死から復活させる時、主が使った言葉は「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけである。主はそれ以上の言葉を用いなかったが、そのことは何を意味するであろうか。こうした事柄は、死者を復活させることを含めて、神があらゆる事を言葉により実現可能であることを示している。神が万物と世界を創造した時、神はこれらを言葉により創造した。神は言葉で命じ、すなわち権威ある言葉を用い、その言葉通りに万物が創造された。創造は、このようにして行われたのである。主イエスが述べたこのひと言は、天地と万物を創造した時に神が述べた言葉と同じであり、主イエスの言葉には神と同じ権威、創造主と同じ力があった。万物が神の言葉により形成され、存在したのと全く同じようにして、主イエスの言葉によりラザロが墓から出たのである。ラザロの復活は、受肉した身体により証明され、実現された神の権威であった。この種の権威や能力は、創造主と、創造主が形あるものとなった人の子のものである。神がラザロを死から復活させることにより、人間に啓示された知識は、その事実である。」

   この書籍を読んだ後、私はラザロを死から蘇らせたこの奇跡は私たちに主イエス様の真の身分が受肉された神の肉であることを知らせてくれるだけでなく、「主イエス様は外見は平凡で普通に見えても、主の御口から出る御言葉は権利と力を兼ね備えた真理であり、人間の出生と死を意のままにし、万物の生死を支配することができる」ということに気が付きました。

   創世記によると、神は最初に天と地と存在する全てを御言葉によって創造されたことが分かります。その後すぐに、神はアダムを土から創造され、いのちの息を吹き入れになり、アダムは魂のある生きる人間となりました。神は天と地と万物を創造する権威をお持ちであり、人類にいのちの息を吹き入れることがおできになります。万物は神の御言葉によって確立され、そして完全にされます。神の御言葉は人間にいのちを与えることができると同時に、人間を死なせることもできます。神の御言葉は全てを達成することが可能で、さらには人類にいのちを提供することができます。ラザロを蘇らせた奇跡を通じ、主イエス様は、神は肉となられましたが、それでも神御自身のままであられ、唯一なる権威と御力をお持ちであり、そのような御力はいかなる創造物も持つことができないものであることを私たちに知らせてくれています。

   主に感謝します!この書籍を読んでいると、神が有するもの全てと神そのものに関する深い理解を得ることができ、主に付き従う信念もさらに忠実になります。今後は、どのようなトラブルや困難に遭遇しようとも、神が私の護衛であられ、頼みの綱であられると思っている限り、私は自信と力を持つことができるでしょう。主に感謝します!全ての栄光、主にあれ!