賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

病気にかかっている時、クリスチャンは四つの実行を持つべきである

2019-06-27 23:17:05 | 礼拝説教

   以前、母は体が弱くて病気にかかりやすいのでした。わたしが物心ついた時も、家には、もっぱらさまざまな薬を保存している引き出しがあり、しかも引き出しの中に、いつも薬がいっぱい詰めてあったのです。このような環境の中で育つわたしは病気になると、むやみに病気を治療します。病気にかかっている時、わたしは病気が早く治ることを切に望み、他人の言っているよい薬は何でも買います。母が主を信じた後、引き出しの中の薬はだんだん少なくなります。ある時、わたしが風邪薬さえ見つけられません。実は、わたしが言いたいのは、神を信じたら、病気にかかることがなくなり、薬を飲む必要がなくなり、医者に診てもらう必要もなくなるということではありません。では、病気にかかっている時、わたしたちはどんな態度をとるべきですか、どのような実行が正しくて主の心にかなうのですか。経験し、祈り、真理を求めることによって、わたしはわたしたちが次のいくつかの実行を持つべきだと認識しました。




第一に、わたしたちがサタンに腐敗させられた後、罪を持つようになったから、わたしたちが病気にかかるのは正常です。そのため、わたしたちはそれを正確に扱うべきで、不平を言ってはなりません。

   わたしたちは罪の起源を知ったら、病気がどのように生じたかを知りました。わたしたち人類の祖先は神に創造された後、つらさがなく、生老病死苦もありませんでした。サタンがアダム、イブを誘惑して罪を犯させた後、わたしたち人類は生老病死の苦しみを受けるようになりました。今、わたしたちの病気がますます多くなります。しかも、さまざまな病気はますます多くの若者に起こります。幼い子供が胃病を患い、若者が癌にかかることすらあります。さまざまな変な病気がますます多くなり、ますます治しにくくなります。病気の種類、病因が増えることは、この世界がますます邪悪になり、サタンが人類を腐敗させた程度がますますひどくなることを証明しています。この邪悪な暗やみの世界で生きているわたしたちは腐敗していて、罪を持っているので、きっと病気にかかります。だから、わたしたちが神を信じたら、神がきっとわたしたちの病気をいやしてくださるという過分の望みを抱いてはなりません。それは、わたしたちが理知を持たないことの表れです。

   また、わたしたちが分からなければならないもう一つのことは、人が病気にかかるのが正常だということです。わたしたちが五穀を食べた後、さまざまな病気にかかることは、自然の法則です。わたしたち自身が不規則な生活をしたり、汚いものを食べたりしたら、もっと容易に病気を患います。だから、病気にかかっている時、わたしたちは真理の追求をやめてはならず、神に対する不平不満を持ってはならず、もっぱら祈って、神がわたしたちをいやさなければならないと要求するべきではなく、今までどおりに祈り、集会に参加し、神に仕え、心の中で神に近づくべきであり、本当に神に従うクリスチャンになるべきです。

第二に、わたしたちが病気にかかるということに、神のみこころがありますから、真理を求め、神に従うことが非常に重要です。

   病気がサタンから来たものですが、神の許しがなければ、サタンは何もできません。では、なぜ神はわたしたちが病気にかかることを許されるのですか、神のみこころが何ですか。

   わたしたちは被造物であって、見識が狭く、霊界のことを見透かせません。その上、神のみこころはいつも物事の背後に隠されています。そういうわけで、わたしたちは神のみこころを理解しない時、いつも神を誤解し、神の働きを主観的に判断します。今、わたしたちは次のことが分かりました、病気にかかっていて、神のみこころを理解しない時、絶対に主観的に判断してはならず、それは神のわたしたちに対する顧み、守りであり、わたしたちを災難から逃れさせる方法の一つであるかもしれないということが。だから、病気にかかっている時、わたしたちは待つこと、真理を求めることを学ぶべきであり、神がどのようにしても、わたしたちに対する神の愛と救いが変わらないと信じるべきです。神以外に、わたしたちを救うために受肉し、しかも息を引き取るまで十字架につけられた者がいるだろうか。それゆえに、神に従い、神のみこころを求めることが本当に重要です。

第三に、病気にかかったら、神の前で心を落ち着けて、自分にどんな罪過があるかを反省し、そして神に罪を告白し、悔い改めるべきです。

   わたしはある兄弟の次のような経験、証しを見たことがあります。その兄弟は風邪をひいた時に喘息を患いました。そこで、彼は主に彼をいやしてくださるようにと懇願し、また、主から与えられた病気の試練を甘んじて受けると、主に祈りました。でも、彼の喘息はなかなか治りません。病気の苦しみは主に従っていく上での彼の信仰に影響を及ぼさなかったのですが、彼はずっとこの病気に苦しめられていました。一年後のある大集会の中で、一人の兄弟は彼がこんなに若いから、このような病気を患うはずではなかった、彼が自分の言動を反省すべきだ、と言いました。しかも、あの兄弟は二回彼に指導を与えました。それで、彼は自分の言動を反省し始めました。ある日、彼は福音を宣べ伝えた時、聖霊の啓きと導きを得ました。それによって、彼は自分はおおげさな言葉を言い、尾ひれをつけて話す人で、誠実な心がなく、彼のこれらの腐敗した性質は神に嫌われるものだと認識しました。彼が自分の腐敗を認識し、悔い改めたので、その日の夜に彼の喘息が治りました。その時から、彼の喘息が二度と発作を起こさなくなりました。この兄弟の経験した事は、あなたも経験したことがあるかもしれません。病気にかかっている時、確かに学ぶべき学課があります。それは、わたしたちの霊的な命が成長するのを助け、わたしたちを変え、きよめる手段です。

   神はわたしたちをきよめ、救って、わたしたちを腐敗から抜け出させるために、ただ積極的な面でわたしたちを導く、というのではありません。ある時、神はまた病気、苦しみによってわたしたちを精錬し、懲らしめ、このような方法でわたしたちをきよめ、変え、守られます。それは、わたしたちがもっと大きな、神を怒らせる事をするがゆえに、神に見捨てられて、サタンから害を受けることがないためです。だから、病気にかかっている時、わたしたちは神に祈り、神のみこころを探り、自分のどんな腐敗がまだきよめられていないかを反省すべきです。もし、自分は確かに自分の腐敗のゆえに神に懲らしめられたと認識したなら、わたしたちは神の前に出て、本当に悔い改めようとする態度を持つべきです。わたしたちが真心をもって神に立ち返る時こそ、神はわたしたちの祈りを聞き入れます。

第四に、融通のきかない規定を守って、病気を治療しないのはいけません。

   病気にかかっている時、医者に診てもらってもいいし、薬を飲んでもいいです。それは正当なことです。融通のきかない規定を固く守って、治療を遅らせてはなりません。それは間違ったやり方です。もし治療を遅らせて悪い結果をもたらしたのなら、わたしたちは愚かなことをしたことになります。だが、わたしたちは自分がクリスチャンだということを忘れてはなりません。だから、医者に診てもらい、薬を飲む時、自分が神の支配に従うべきだということも忘れてはなりません。わたしたちはこのように祈るべきです。「神よ! 今、わたしが薬を飲み、病気を治療するのは、ただあなたに協力するのです。わたしの病気がいつ治るかは、あなたの手によってコントロールされているのです。わたしはあなたの支配を信じ、あなたの按配に従います」。

   さらに、わたしたちは病気にかかったからといって、真理の追求や、神に対する奉仕、礼拝をおろそかにしたり、祈り、集会に参加するのをやめたり、神に対する信仰を失ったりしてはなりません。病気を治療している時、わたしたちは神のみこころを求め、神のなみなみならぬ苦心を理解すべきです。そうすれば、わたしたちはサタンの試みに打ち勝って、自分が勝利を得たという証しをすることができます。

 

あなたのために聖書の言葉に関するより多くの文章を推薦します


クリスチャンが神を信じる上での四つの実行は、あなたが持っているのか

2019-06-26 21:17:05 | 礼拝説教

   わたしたちすべてのクリスチャンは神に良しとされ、祝福されようとします。では、わたしたちがどうすれば、神に良しとされることができますか。実は、これは少しも難しくありません。わたしたちが神を信じる上での四つの実行を持ちさえすれば、神に祝福され、良しとされることができます。



第一に、神を信じるのに、神の言葉を経験しなければなりません。

   では、神の言葉を経験するとは、どういうことですか。神の言葉を経験するには、どのように実行すべきですか。実は、神を信じるのは、神の言葉を信じるのです。神の言葉は真理であり、神から来たものです。だから、わたしたちはまず神の言葉をよく読み、神の言葉に精を出し、真剣に神の言葉を読み、噛み締めるべきです。そうすれば、聖霊の啓き、照らしを得られるし、また神の言葉を通して神のみこころを理解し、神の性質と働きを認識し、神がわたしたちにどんな要求を出したか、わたしたちがどんな人になるべきか、神がわたしたちのどんな欠点や腐敗をさらけ出したかを知ることができます。こうして、わたしたちは神の言葉を自分に結びつけて、自分の腐敗を認識することができます。例えば、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(マタ5:37)と、主はわたしたちに要求を出されました。主のこの言葉によって、わたしたちはわたしたちが誠実な人になることを追い求め、うそを言わず、尾ひれをつけて話さず、ありのままを言うことが神のみこころだと分かりました。神は誠実な人が好きで、狡猾な人を嫌います。誠実な人こそが神に良しとされます。だから、神の言葉を読む過程も神の言葉を経験する過程です。神の言葉を読むことは、神を信じ、神の言葉を経験する上での第一歩です。こういうわけで、わたしたちは毎日神の言葉を読み、経験しなければなりません。

第二に、神を信じるのに、神の働きを経験しなければなりません。

   では、神の働きを経験するとは、どういうことですか。神の働きを経験することの内容は何ですか。神を信じる上では、わたしたちは神の言葉を読むだけでなく、神から来た試練、精錬、対処、手入れ、懲らしめを経験することも必要です。それゆえ、神はさまざまな人や事、物、環境がわたしたちに臨むようにされます。それは、わたしたちがさまざまな環境の中で真理を求めて、真理の実際に入るためであり、わたしたちの命が次第に成長することができるためです。例えば、わたしたちが真理にかなわないことをすれば、神はわたしたちの身の回りの人、事、物を利用してわたしたちを対処し、懲らしめられます。恵みの時代、神は同じようにペテロを扱うのでした。主イエスが十字架につけられる前に、ペテロは親切心から主イエスを阻みました。すると、彼はすぐ主イエスに厳しく対処されました。主は彼がサタンだと言い、彼に引き下がれと命令されました。神を信じる上では、わたしたちはまたあざ笑われ、誹謗されるはずです。しかも、邪悪な霊や偽キリストはデマを飛ばしたり、人を惑わします。これらのことを、わたしたちは経験しなければなりません。だから、わたしたちに臨むさまざまな試練、精錬は、神のわたしたちに対するテストであり、わたしたちには、神に対する本当の信仰、忠誠心があるかどうか、わたしたちが神の言葉によって生きることができるかどうかを明らかにします。だから、これらの環境、人、事、物がわたしたちに臨むのは、神の働きがわたしたちに臨むのです。わたしたちが神の言葉によって生き、これらの環境の中で学課を学び、暗やみの権威の束縛に打ち勝つとしたら、わたしたちは神の働きを経験したことになります。

第三に、神を信じるのに、自分の腐敗した性質を変えなければなりません。

   わたしたちはサタンに腐敗させられた後、腐敗した性質によって生きるようになりました。だから、わたしたちが神に救われたいなら、わたしたちの腐敗した性質、例えば、傲慢さ、エゴイズム、狡猾さなどを捨て去らなければなりません。わたしたちが自分の腐敗した性質を解決するために神を信じるのでなければ、わたしたちは神の真の信者ではなく、たとえわたしたちが神の多くの言葉を読んだとしても、わたしたちが文字の中の教理を理解しているとしか言えません。なぜなら、わたしたちが真理を実行しておらず、しかも真理がわたしたち自身の問題を解決しなかったからです。こういうわけで、わたしたちが他人に教理を説くことができても、わたしたちは真理の実際を持つ人だと言えません。あの時の律法学者、パリサイ人もそうです。彼らは聖書の知識をたくさん身につけ、また神の多くの言葉を読みましたが、神の言葉の中の真理を理解せず、また自分の腐敗を認識せず、解決しませんでした。だから、主イエスが来て働かれた時、彼らは自分たちの腐敗したサタン的性質のゆえに、傲慢にも神の働きに対して断定的判断を下し、神の働きを批判し、ただ主イエスが旧約聖書の範囲内で働くことを許すだけで、主が旧約聖書の範囲外で働き、神殿の外で働くことを許しませんでした。自分たちの地位、生活の道を守るためには、彼は主を冒涜し、誹謗する言葉をたくさん言い、最終的に主を十字架につけました。主イエスが三日目に復活した後、彼らは偽りの証しをし、うそを言い、人を欺き、人心を買収しました。彼らは神を信じるが、真理を実行しませんでした。だから、主イエスは七重の災いをもってパリサイ人を呪った時、彼らの堕落した行為と、彼らのあくどいサタン的本性をすべて暴露されました。このことから分かるように、何年神を信じても、真理を得なければ、自分がひどく堕落しているという真相を悟ることができず、自分が神を十字架につける可能性が依然としてあります。今、わたしたちの言動を見てみましょう。わたしたちが文字の中の教理を少し理解したら、それを他人に説きます。そのため、わたしたちは働く時、いつも自分をひけらかして、他人が自分を重要視し、崇拝するようにさせます。それは神を高く揚げ、神を証しすることでは決してなく、名誉、地位のために働くこと、自分の経営を行うことです。わたしたちのこのような働きが神の心にかなうことは可能だろうか。だから、もしわたしたちが神を信じる上で正しい道を歩まず、何を追い求めるべきかを知らず、神の言葉を通して自分の腐敗と欠点を認識することを重んじず、全然自分自身の腐敗を解決せず、自分の本当の経験によって他人を助け、支えることはせず、文字の中の教理によって他人を教えるとすれば、わたしたちは現代のパリサイ人になったのではありませんか。そのように神を信じるなら、最終的に成功を収めることができません。だから、神を信じるのに、正確な追求目標を持つべきです。わたしたちが真理に基づいて実行してこそ、神を信じることで成功を収めることができます。

第四に、神を信じるのに神を認識しなければなりません。

   神を信じるが神を認識しないなら、わたしたちが神を信じる人だと言えるでしょうか。だから、神を認識したいなら、神の言葉を経験し、神の働きを経験し、自分の腐敗した性質を本当に認識しなければなりません。そうしてこそ、わたしたちの古い性質を変え、わたしたちの天然の個性を捨て去ることができます。そうなれば、わたしたちは傲慢さやエゴイズムなどの腐敗したサタン的性質の中に生きなくなり、どんなことがあっても真理に基づいて物事を判断し、自分の想像、観念の中に生きません。神の言葉がわたしたちの生活の指針となり、わたしたちの人生観、価値観が変わるとしたら、わたしたちは神に味方することができ、神を愛し、満足させるために生きることもでき、もはや自分を満足させるために生きなくなります。人が神に対する認識を持ったら、神に味方することができます。そうなったら、人は神に救われました。例えば、ヨブ、ペテロ、アブラハムたちは神に対していくらかの認識を持つから、試練の中で神の側に立って物事を判断することができ、全然神に不平を言わず、また自分の利益や得失を考えず、終始一貫神に忠誠を尽くし、神を愛し、満足させました。彼らは神を信じる上で正しい道を歩むから、最終的に神に良しとされました。それゆえ、彼らこそが神の真の信者です。

   だから、わたしたちが本当に神を礼拝する、神の心にかなう人になりたいなら、神を信じる上でのこの四つの実行を行うべきです。そうすれば、わたしたちは神を信じることで成功を収めることができ、最終的にきっと神の真の信者、適格なクリスチャンになって神に良しとされ、祝福されます!

あなたのために神様の名前に関するより多くの文章を推薦します


主を迎えているあなたは主を見たのか

2019-06-25 22:26:29 | 礼拝説教

   最近、一部の信徒はFacebookで書き込みをして、「今はもう世の終わりです。主が戻ることに関する預言がほとんど実現しましたが、なぜ主を迎えているわたしたちは主を見ていないのですか。わたしたちの主を待つ方法に問題がありますか」と聞きました。実は、多数の兄弟姉妹はこの問題が分かりません。この問題については、わたしは少しの浅薄な認識があります。ここで、皆さんとわたしの認識を分かち合いたいです。

   主イエスはわたしたちにこう言われました。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。……」(ヨハ14:3)。「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」(マタ24:30)。二千年来、多くの信徒はこれらの預言を根拠にしていて、主が天の雲に乗って戻って来られると思っています。それゆえ、主にある多数の兄弟姉妹はこの観点を固持し、目を覚まして主の再来を待っています。

 

   預言と言うと、わたしは当時のパリサイ人がメシアの到来を迎えることで犯した間違いを思い出します。あの時、ユダヤ教のパリサイ人はメシアに対する想像に満ちていました。彼らは聖書の中で次のような預言を見ました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザ9:5-6)。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(ミカ5:1)。聖書のこれらの預言、および長年来の、メシアの到来に対するさまざまな想像と推理のゆえに、パリサイ人は主が来られた時、きっとメシアと呼ばれ、きっと富貴の家に生まれ、しかもダビデ王のように彼らを導いてローマ政府の支配を覆すと断定しました。でも、主は彼らの観念と想像にしたがって行われませんでした。そのため、パリサイ人は主イエスを訴える口実をいつも探して、主イエスを罪定めし、冒涜しました。当時、主イエスが多くの真理を発表し、多くのしるしや奇跡を行い、神の権威と力を完全に明らかにしたにもかかわらず。パリサイ人は主イエスの説いた道がどんなに優れているか、主イエスの権威がどんなに大きいかを無視し、主イエスの仕事が彼らの観念、想像にかなわず、主イエスが富貴の家に生まれず、りっぱな容貌を持たず、メシアと呼ばれないという理由で、主イエスを罪定めし、主イエスに逆らいました。最終的に、彼らは真理を恨むという本性のゆえに、真理を発表し、贖いの仕事をする主イエスを無残にも十字架につけました。パリサイ人の痛ましい失敗の教訓によって、わたしたちは預言は絶対に自分の考えによって解説してはならないと分かりました。預言が実現してはじめて、わたしたちはその真意を理解できます。だから、わたしたちは預言に対して正しい態度を取るべきです。

   わたしたちが知っているように、聖書の中で、主が戻ることに関する預言が他にまだ多くあり、「雲に乗って来る」という種類の預言だけがあるのではありません。わたしたちは主の次のような言葉を見ましょう。「見よ、わたしは盗人のように来る。……」(黙16:15)。「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」(マタ25:6)。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(マタ24:36)。多くの人はいつもこれらの言葉を読みますが、次の点を見落としました。「盗人のように来る」という言葉の言外の意味は、ひそかに来るということです。だから、聖書に記されている預言は、主の戻り方が二つあり、一つはひそかに来ることで、もう一つは公に来ることだということを示しています。主が戻ることに関しては、二種の異なった預言があるが、もしわたしたちがただ雲に乗って来る主イエスを待つだけで、「ひそかに来る」主イエスを無視するなら、わたしたちは主の救いを失うかもしれません。

   主イエスが来て働かれた時、次のようなことが起こりました。それは聖書にこう記されています。「そこで、イエスが二人の目に触り、『あなたがたの信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、『このことは、だれにも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった」(マタ9:29-30)。また、ペテロが聖霊の啓示を得て、主イエスがキリスト、生ける神の子だと言い出した時、主は、ご自分のことをだれにも話さないようにと、弟子たちに命じられました(マコ8:29-30、マタ17:9を参照)。これらの事実から分かるように、主の最初の仕事はひそかに行われるのでした。主イエスは十字架につけられて、全人類を贖う仕事を成し遂げ、三日目に死人の中から復活して弟子たちに現れました。この時、主は公に現れ始めました。それ以後、恵みの時代の福音は正式に異邦へ拡大しました。これで分かるように、主イエスの仕事はまずひそかに行われ、それから公に行われるのです。だから、世の終わりに主が戻ることに関する預言の中には、「『盗人』のようにひそかに来る」方式と「雲に乗って来る」方式という二つの方式があることは事実と完全に一致し、この二つの方式は全然矛盾しません。

   あの時のパリサイ人はメシアを待っていたが、主イエスに逆らいました。彼らの失敗の教訓は痛ましいのです。今はもう世の終わりです。わたしたちはどのように主の到来を迎えるべきですか。主イエスはこう言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタ7:7)。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハ10:27)。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(ルカ21:33)。今、わたしたちはこのことを知りました。主が戻ることに関するすべての預言は必ず実現します。そのため、わたしたちは自分の観念を捨てて、主がひそかに働く時、すなわち主が盗人のようにに来る時、彼を認識するべきです。そうすれば、主を迎えているわたしたちは主を見ることができます。わたしたちが主の出現を切望し、求めさえすれば、神はきっとわたしたちに啓き、わたしたちを導いて、わたしたちが彼の足跡を見つけられ、神の働きの歩みについて行けるようにされます。

 

あなたのためにキリストの再臨に関するより多くの文章を推薦します


誠実な人になることを熱望するあなたへの贈り物――四つの実行のしかた

2019-06-24 10:36:43 | 礼拝説教

   今、兄弟姉妹たちはどうすれば誠実な人になれるかという問題に最も関心を持っています。わたしたちが知っているように、主イエスは「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ18:3)と言われました。神の言葉はわたしたちに次のことをはっきりと教えています。誠実な人こそが神の心にかなう人です。わたしたちが子供らしさを持っている誠実な人になってこそ、神に良しとされて、神の国に入ることができます。では、わたしたちがどうすれば誠実な人になれますか。



第一に、まず祈る上で、誠実な人になるための実行をしなければならない。これは誠実な人になる始まりである。

   クリスチャンにとって、祈りは神を礼拝するのに欠かせないものです。考えてみれば、わたしたちは「主よ、わたしは心の中であなたを愛しています! 主よ、あなたの言葉はわたしの足のともしび、わたしの通り道の光です」といつも祈りますが、実際には、多くの時、主の言葉を実行できません。わたしたちが労苦して働くのは将来の冠のためです。わたしたちは自分の前途、運命、結末、最終的な落ち着き先を大事にしていて、全然神を愛さず、祈る時に神を賛美し、たたえますが、試練を受ける時、不平ばかり言い、さらには神を否定し、裁き、冒涜することさえします。ある時、わたしたちは祈りの中で何を言うべきかを知らないので、言葉をむりに探し求めてから、心にもない無意味な言葉を言い、或いは神を賛美する聖書の言葉を暗唱します。しかし、これらの言葉は心からの言葉ではないので、言い終わった後、なんら享受、感動を持ちません。わたしたちは主に、病気にかかった家の者をいやすことを求める時、「主よ、あなたは全能の偉大な医者です。家の者の病気がいやされたら、わたしはあなたにわたしの全存在をささげます」と、聞こえのよい言葉ばかり言いますが、家の者の病気が治った後、自分を神にささげませんでした。

   聖書にこう書かれています。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(ヨハ4:23)。この節から分かるように、神はわたしたちが霊と真理をもって彼を礼拝することを望んでおられます。そのため、わたしたちは祈る時には、神に心を打ち明け、真心をもって神を求め、神に依り頼むべきです。祈る時、言葉数が多いか少ないかは重要ではありません。わたしたちは祈りの中で、心からの言葉を神に話し、心に思っていることをそのまま言うべきであり、隠しだてしたり、偽りを言ったり、美辞麗句を連ねたり、口先だけの賛美をしたり、或いは空約束をして神を欺いたりしてはなりません。神の本質は信実です。わたしたちに対する神の愛は本当のものであり、偽りのものではありません。神は今までずっと彼の信実、真心をもってわたしたちを扱い、わたしたちに率直におっしゃるのです。そういうわけで、神はわたしたちの偽りの祈り、わたしたちの己を偽る祈りを最も嫌います。このような祈りを、神は聞き入れません。だから、わたしたちが誠実な人になりたいなら、まず祈ることから着手しなければなりません。神に祈る時、心に思っていることをそのまま言うべきであり、困難があり、或いは罪を犯したなら、神の前に出て悔い改め、罪を告白するべきです。そうすれば、神の前で裏表のない人になります。これは、誠実な人になる始まりです。

第二に、誠実な人になるには、本当のことを言い、うそを捨てなければならない。これは最も基本的な日常の訓練である。

   箴言の書でこう書かれています。「うそをつく唇を主はいとわれる。忠実を尽くす人を主は喜び迎えられる」(箴12:22)。主イエスもわたしたちにこう言われました。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(マタ5:37)。これらの言葉から分かるように、主はうそを言い、神を欺く人を嫌います。でも、わたしたちは多くの時、日常生活の中で知らず知らずのうちに、自制できずにうそを言いました。例えば、わたしたちは兄弟姉妹と一緒にいる時、自分の直接的な利益と関係のない小さなことだけ話し、自分の犯した大きな罪をなるべく話さず、それを話したら、兄弟姉妹たちに貶され、ばかにされるのではないかと心配します。他人とつき合う過程の中で、わたしたちはある時はメンツや虚栄のためにうそを言い、ある時は自分の肉体の利益のためにうそを言い、またある時は自分の目的を達成するためにうそを言いました。……わたしたちが本当のことを言うことさえできないので、誠実な言葉で言うことなど問題外です。

   では、どうすればうそを解決できますか。わたしたちは事実に基づいて話しをすることを、まず訓練すべきです。言葉を言う上で、自分がうそを言ったかどうかを厳しく検査しなければなりません。どの言葉も事実に基づいて話さなけれならず、絶対に良心に逆らって話してはなりません。わたしたちは厳しくかつ真面目にこのように訓練しなければなりません。こういうわけで、わたしたちは言葉を言う時、自分が間違った意図があるかどうか、自分が自分の利益を守るために話しているかどうか、自分の言葉に混じりけがあるかどうかを反省する必要があります。自分が無意味な言葉、尾ひれの付いた言葉、正確でない言葉を言ったことに気づいたら、厳粛な態度で自分の言葉を扱うべきであり、本当のことを言うことを、訓練し、事実に基づいて話すべきです。もしわたしたちが自分のうそが相手を欺いたと気づいたら、勇敢に事実に直面し、自分の間違いを認めなければならず、神の言葉にしたがって真面目に実行しなければなりません。わたしたちがこのように真面目に自分の言葉、自分のすることを扱うなら、きっと、もはや偽りを言わなくなります。こうして、わたしたちは誠実な人になるという目標に向かって、さらに一歩進めました。聖書にあるように、「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず」(ペテ一3:10)。

第三に、神に忠誠を尽くすべきであり、働く上で精一杯責務を果たすべきである。これは誠実な人の達成すべきことである。

   主イエスはこう言われました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である」(マタ22:37-38)。これは、神がわたしたちに要求する基準、すなわち、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして自分の責任を果たし、神からの委託を真剣に遂行することです。わたしたちは自分は主に忠実な人、主を愛する人だと思い、主のために労苦して働くことに疲れも苦しみも恐れない自分は神の目には、良いしもべだと思っています。だが、わたしたちは自分の次のような言動に気づいていません。わたしたちはうわべでは、主のために働いていますが、心の中でどうすれば仕事をうまくやることができるかを考えず、ただ自分の職務のゆえに、形式的にやらざるを得ません。兄弟姉妹たちが困難にぶつかって、わたしたちに助けてもらう時、わたしたちは聖書の字句によって彼らを励ましたり、教理を説いたりしていいかげんにごまかしてしまい、彼らに実際の道を指し示すことができません。しかも、わたしたちは主のために働く時、責任感がありません。牧師や長老がわたしたちに任務を委ねるなら、わたしたちは人を喜ばせようと働き、どのように神の心を思いやるかを考えません。……わたしたちがこのように働くことは、心を尽くし、思いを尽くして神に仕えることではありません。

   聖書にこう書かれています。「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」(コロ3:22-23)。わたしたちが知っているように、働くのはだれかを喜ばせるためではなく、被造物としての義務、責任を果たすためです。だから、わたしたちは主のために働く時、主に向かって働き、主の言葉にしたがって働くべきで、形式的なことをやってはならず、主のために忠実に仕事をするべきです。そうすれば、主が思っているような誠実な人になれます。わたしたちはそれぞれ自分の得意とするところがあります。例えば、一部の兄弟姉妹は福音を伝えて、多くの実を結ぶことができ、ある人は道を説くことができ、ある人はいつも教会堂を清掃し、集会の時に秩序をを保ちます。……だが、わたしたちが何をしても神の要求に従わなければなりません。神に仕える中で、間違いや欠けたところがあるとしても、勇敢に事実に直面し、他人の助け、指摘を受けるべきです。もし罪を犯したなら、隠しだてしたり、己を装ったり、事実を歪曲して他人に罪をなすりつけたりしてはならず、神に祈って悔い改めるべきです。わたしたちはまた自分の一言一行を厳しくかつ真面目に扱うべきであり、ことを行う時、ごまかしてはならず、少しでも偽りがあってはならならず、神の霊の監視を受けるべきです。……そうすれば、自分が誠実な人になれるという自信が強くなり、しかも自分の奉仕がますます神の心にかないます。

第四に、誠実な人になるには、真に心を神に渡さなければならない。これは最も肝心なことである。

   主イエスはこう言われました。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(マタ15:8)。主の言葉はわたしたちにこう忠告しています。聞こえのよい言葉ばかり言って、心の中に神を持たないのはいけない、最も重要なのは、神に心を打ち明け、真心をもって神を礼拝し、愛することだ、と。よく考えてみれば、わたしたちが神を信じるのは自分の利益を得るためであり、心を神に渡して、神に支配させることはしませんでした。例えば、神に従えと叫びますが、何か起こった時、神のみこころを求めず、自分の意志によって行います。神を愛している、主のために働きたい、一生を主にささげたいと口では言っているが、心の中で神と取り引きしており、もっと大きな褒賞、天の国の祝福を得ようと企んでいます。……わたしたちは依然として自分の意志によって、神を信じる道を歩み、全然心を神に渡しませんでした。

   周知のように、ヨブは神の目には義人であり、彼は心を完全に神に渡し、自分のために考えず、神に何かを求めたことがありませんでした。彼は巨万の家産が奪われ、子女が災いを受けた時でさえ、神を怨まず、かえって「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名がほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と言いました。彼は心を神に渡し、神に無条件に従うため、神に良しとされました。だから、わたしたちが誠実な人になりたいなら、心を神に渡すことを、訓練しなければなりません。心を神に渡すには、次のように実行すべきます。第一に、神を信じる以上、何もかも神に決めてもらい、神のなすがままにゆだね、神に按配されるに任せるべきです。わたしたちは神のすべての按配に従い、何でも神の言うとおりに行うべきであり、絶対に自分で決めてはならず、完全に神に従うべきです。第二に、心を神に渡すというのは、神への奉仕に関することを神に渡して神に管理させるだけではなく、しかも将来の歩むべき道、追い求めるべき目標、および婚姻、家庭についての選択、生活様式を神に管理させ、すなわち人生の中のこれらの重大事を神に渡して神に支配させ、たとえ神の許しがあっても、神のみこころと要求にしたがって選び、絶対に世界の潮流に従わず、また自分の意志に従わず、神を満足させ、神の心にかなうことをすることを原則とする、ということです。第三に、心を神に渡すというのは、あらゆることで神のみこころを求め、何事も神の言葉にしたがって行うということです。それは唯一の実行の原則です。これこそが、完全に神に自分を支配させることです。つまり、何事も真理にしたがって行うべきであり、大きなことであろうと、小さなことであろうと、神の言葉にしたがって扱うべきです。神の言葉だけが真理です。神の言葉だけがわたしたちの命になれます。あらゆることで神の言葉にしたがって実行してこそ、聖霊の働きを得て、神に救われることができます。以上の三つの原則にしたがって実行すれば、心を神に渡すことができます。心を神に渡すことこそが、本当に自分を神にささげることです。これは、誠実な人になるための、最も根本的な実行であり、また聖霊の働きを得る方法です。

   上に述べた四つの実行のしかたは、誠実な人になるには分からなければならないものです。あなたがこの四つの面で努力し、探究し、実行すれば、あなたは神に喜ばれる誠実な人になる機会があります。


神との関係が正常かどうかを判断する三つの基準

2019-06-23 21:52:16 | 礼拝説教

   神を信じるすべての人は、自分が神と正常な関係を築いて、神に認められ、神に良しとされることを望んでいます。しかし、人が神を信じると、神に良しとされることができるというのではありません。パリサイ人のことを例にあげましょう。パリサイ人は神を信じながら、神に逆らうようなことをしていました。彼らは神と敵対関係にあり、神は彼らが神を信じる人だと認めません。この事実から分かるように、神と正常な関係を結ぶことは非常に重要です! では、どのようにわたしたちと神の関係が正常かどうかを判断すべきですか。これはきっと、神を渇望するすべてのクリスチャンがしきりに知りたがることです。

一、神の前で心を静め、真に神と交わるべきである。

   わたしたちが自分は神と正常な関係を持つかどうかを知りたいなら、自分は神の前で心を静め、真剣に神の言葉を読むかどうか、真に神と交わるかどうか、すなわち正常な霊的な生活を持つかどうかを、まず見なければなりません。わたしたちは毎日詩歌を歌い、聖書を読み、毎回欠かさずに集会に参加しますが、でも多くの時、神の前で心を静めなくて、形式的にそうするのです。例えば、わたしたちは神に祈る時、いつも心の中で家庭のことや仕事のことを考え、神に対しては適当にあしらう態度を取ります。わたしたちはいつも聖書を読みますが、でもわたしの目的は神の言葉を通して真理を理解することではありません。わたしたちは、神を信じる人が聖書を読まなければならないと思って、やむを得ず手順に従って、大ざっぱに聖書を読み、全然真剣に聖書の言葉をかみしめず、そのため、なんら啓き、光を得られません。日常生活、仕事の中で、わたしたちはいつも肉の欲するままに行動し、未信者たちと同じように言葉を言い、ことを行います。これらの言動は、わたしたちが心の中に神を持たず、霊の中で真に神と交わらず、また神の臨在を感じられず、いつも弱くなり、無力になり、全然神と正常な関係を持たないことを、証明しています。

   神はこう言われました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)。神の言葉から分かるように、わたしたちが心の中で神に近づき、心を用いて神に触れてこそ、聖霊の啓きを得られます。わたしたちの仕事がどんなに忙しくても、神の前で心を静め、単一で誠実な心をもって祈り、清い心をもって一くさりの神の言葉を読むべきです。そうすれば、神の臨在を感じられ、また霊の中で充実感を得られます。わたしたちは家にいても、どんな場所にいても、神の前で心を静め、心の中で神に近づき、神の愛について黙想し、神の言葉をかみしめるべきであり、どんな困難にぶつかっても、どんなに弱くても、神に真情を打ち明けるべきです。そうすれば、わたしたちは聖霊がわたしたちの毎日の生活を按配し、顧み、守るのを感じることができます。こうして、知らず知らずのうちに、わたしたちが神の愛らしさを感じられるようになり、わたしたちの霊も強くなり、わたしたちと神の関係も親しくなります。

二、自分の意図を是正し、神の監視を受け入れるべきである。

   わたしたちはことを行い、言葉を言う時、自分の意図を是正し、神の霊の監視を受け入れ、神の言葉にしたがって実行しますか、それともすべてのことを自分の意志で行いますか。現実生活の中で、わたしたちは人とつき合うのにも、教会の仕事をするのにも自分の意図、目的があり、自分のすることなすことが神の心にかなうかどうかを考えず、自分に有利なことは何でもやります。例えば、わたしたちが働き、道を説く上で苦しみを受けるのは完全に祝福を得、神と取引するためです。わたしたちは小さな代価を払って大きな祝福を得ようと思い、神のために費やし、犠牲を払うことを、天の国に入るための手段としてしまいました。しかも多くの時、わたしたちは自分をひけらかし、自分が兄弟姉妹たちに重く見られ、指導者たちに高く評価されることを望みます。兄弟姉妹たちの霊的状態が正常でないのを見た時、わたしたちは表面的には彼らを助け、支えるのですが、わたしたちの目的は人を神の前にもたらし、人に神の御心を分からせることではなく、よい評判を残すことです。わたしたちの行ったことは全然神の前にもたらされて、神の監視を受けることができないのに、どうして神に良しとされることができるでしょうか。恵みの時代のパリサイ人のことを思い出してください。彼らは一生の中で労苦し、働き、犠牲を払い、費やしますが、彼らの目的は神を満足させることではなく、すべての人に重く見られること、地位、生活の道を得ることでした。だから、彼らがどんなに多くの苦しみを受けても、神は彼らを良しとしません。神の目には、彼らの行ったすべてのことは神と何の関係もありません。彼らは神を信じますが、神に良しとされず、神に悪を行う人だと言われました。主イエスが言われたように、「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(マタ7:22-23)。ここから分かるように、神はわたしたちの働き、苦しみによってではなく、わたしたちが神を愛し、満足させるかどうかによって、わたしたちが善いか悪かを判断されるのです。もし、わたしたちが神の監視を受けながら言葉を言い、ことを行い、何をするのも真理を実行し、神を満足させるためであり、私利を図らず、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタ22:37)という主イエスの言葉を実行するとすれば、わたしたちの心を探る神はきっと、わたしたちのするすべてのことを喜んで受け入れられます。

三、試練を受ける時、心の中で神を愛することだけを求めるべきである。

   生活の中で不如意なことに会う時、わたしたちは神の御心を求めて、神を愛し、満足させることを追い求めますか、それとも神に対して観念を抱き、神を怨みますか。多くの時、わたしたちは神から来る恵み、祝福を享受することだけを望みます。一旦試練を受けたら、消極的になり、弱くなります。ひどいのになると、試練の中で神を激しく恨み、神と事の是非を論じ、神を誤解する者さえもいます。試練のゆえに、彼らと神の間のみぞがますます深まります。そのため、彼らと神の関係は完全に敵対関係であり、彼らの霊的状態は極めて悪いです。箴言書第17章3節で「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主」と書かれています。実は、神を愛する人であればあるほど、苦難、試練の中で真理を求め、神に依り頼んで、響き渡るような良い証しをすることができます。例えば、ヨブは自分が災いを受けるか、祝福を受けるかを問題とせずに神を信じていました。試練が彼に臨んだ時、彼の巨万の財産が強盗に奪われ、彼の子女たちが災いの中で死に、彼の全身に重い皮膚病ができました。しかし彼は唇をもって罪を犯さず、むしろ神の前に出て神の御心を求め、彼の長年の経験のゆえに、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名がほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と言いました。そのため、彼は神に良しとされ、神のもっと大きな祝福を得ました。アブラハムもそうでした。彼は神の声を聞いた後、身を切られる思いで神に従い、独り子イサクを神に返し、響き渡るような良い証しをしました。そのため、彼は後人に「信仰の父」と呼ばれています。ペテロは一生の中で多くの試練を受けたが、神に不平を言ったことがなく、最終的に、神のためには逆さまに十字架につけられ、神を極みまで愛し、死に至るまで神に従うことができるようになりました。わたしたちの観念と一致しない様々なことが起こる時、わたしたちが彼らに倣って、軽率に結論を下さず、不平を言わず、真理を求め、神の支配と計画に従うなら、わたしたちと神の正常な関係を妨げ、破壊する人、事、物がなくなります。こうして、わたしたちは本当に神の御顔の光の中に生きるようになりました。

   神の働きは霊妙で測りがたいです。神の知恵は尽きることのないものです。神と正常な関係を築くことこそが、わたしたちが霊的な旅を始めるための第一段階です。

 

あなたのためにキリストの再臨に関するより多くの文章を推薦します