賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神との関係が正常かどうかを判断する三つの基準

2019-06-23 21:52:16 | 礼拝説教

   神を信じるすべての人は、自分が神と正常な関係を築いて、神に認められ、神に良しとされることを望んでいます。しかし、人が神を信じると、神に良しとされることができるというのではありません。パリサイ人のことを例にあげましょう。パリサイ人は神を信じながら、神に逆らうようなことをしていました。彼らは神と敵対関係にあり、神は彼らが神を信じる人だと認めません。この事実から分かるように、神と正常な関係を結ぶことは非常に重要です! では、どのようにわたしたちと神の関係が正常かどうかを判断すべきですか。これはきっと、神を渇望するすべてのクリスチャンがしきりに知りたがることです。

一、神の前で心を静め、真に神と交わるべきである。

   わたしたちが自分は神と正常な関係を持つかどうかを知りたいなら、自分は神の前で心を静め、真剣に神の言葉を読むかどうか、真に神と交わるかどうか、すなわち正常な霊的な生活を持つかどうかを、まず見なければなりません。わたしたちは毎日詩歌を歌い、聖書を読み、毎回欠かさずに集会に参加しますが、でも多くの時、神の前で心を静めなくて、形式的にそうするのです。例えば、わたしたちは神に祈る時、いつも心の中で家庭のことや仕事のことを考え、神に対しては適当にあしらう態度を取ります。わたしたちはいつも聖書を読みますが、でもわたしの目的は神の言葉を通して真理を理解することではありません。わたしたちは、神を信じる人が聖書を読まなければならないと思って、やむを得ず手順に従って、大ざっぱに聖書を読み、全然真剣に聖書の言葉をかみしめず、そのため、なんら啓き、光を得られません。日常生活、仕事の中で、わたしたちはいつも肉の欲するままに行動し、未信者たちと同じように言葉を言い、ことを行います。これらの言動は、わたしたちが心の中に神を持たず、霊の中で真に神と交わらず、また神の臨在を感じられず、いつも弱くなり、無力になり、全然神と正常な関係を持たないことを、証明しています。

   神はこう言われました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)。神の言葉から分かるように、わたしたちが心の中で神に近づき、心を用いて神に触れてこそ、聖霊の啓きを得られます。わたしたちの仕事がどんなに忙しくても、神の前で心を静め、単一で誠実な心をもって祈り、清い心をもって一くさりの神の言葉を読むべきです。そうすれば、神の臨在を感じられ、また霊の中で充実感を得られます。わたしたちは家にいても、どんな場所にいても、神の前で心を静め、心の中で神に近づき、神の愛について黙想し、神の言葉をかみしめるべきであり、どんな困難にぶつかっても、どんなに弱くても、神に真情を打ち明けるべきです。そうすれば、わたしたちは聖霊がわたしたちの毎日の生活を按配し、顧み、守るのを感じることができます。こうして、知らず知らずのうちに、わたしたちが神の愛らしさを感じられるようになり、わたしたちの霊も強くなり、わたしたちと神の関係も親しくなります。

二、自分の意図を是正し、神の監視を受け入れるべきである。

   わたしたちはことを行い、言葉を言う時、自分の意図を是正し、神の霊の監視を受け入れ、神の言葉にしたがって実行しますか、それともすべてのことを自分の意志で行いますか。現実生活の中で、わたしたちは人とつき合うのにも、教会の仕事をするのにも自分の意図、目的があり、自分のすることなすことが神の心にかなうかどうかを考えず、自分に有利なことは何でもやります。例えば、わたしたちが働き、道を説く上で苦しみを受けるのは完全に祝福を得、神と取引するためです。わたしたちは小さな代価を払って大きな祝福を得ようと思い、神のために費やし、犠牲を払うことを、天の国に入るための手段としてしまいました。しかも多くの時、わたしたちは自分をひけらかし、自分が兄弟姉妹たちに重く見られ、指導者たちに高く評価されることを望みます。兄弟姉妹たちの霊的状態が正常でないのを見た時、わたしたちは表面的には彼らを助け、支えるのですが、わたしたちの目的は人を神の前にもたらし、人に神の御心を分からせることではなく、よい評判を残すことです。わたしたちの行ったことは全然神の前にもたらされて、神の監視を受けることができないのに、どうして神に良しとされることができるでしょうか。恵みの時代のパリサイ人のことを思い出してください。彼らは一生の中で労苦し、働き、犠牲を払い、費やしますが、彼らの目的は神を満足させることではなく、すべての人に重く見られること、地位、生活の道を得ることでした。だから、彼らがどんなに多くの苦しみを受けても、神は彼らを良しとしません。神の目には、彼らの行ったすべてのことは神と何の関係もありません。彼らは神を信じますが、神に良しとされず、神に悪を行う人だと言われました。主イエスが言われたように、「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(マタ7:22-23)。ここから分かるように、神はわたしたちの働き、苦しみによってではなく、わたしたちが神を愛し、満足させるかどうかによって、わたしたちが善いか悪かを判断されるのです。もし、わたしたちが神の監視を受けながら言葉を言い、ことを行い、何をするのも真理を実行し、神を満足させるためであり、私利を図らず、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタ22:37)という主イエスの言葉を実行するとすれば、わたしたちの心を探る神はきっと、わたしたちのするすべてのことを喜んで受け入れられます。

三、試練を受ける時、心の中で神を愛することだけを求めるべきである。

   生活の中で不如意なことに会う時、わたしたちは神の御心を求めて、神を愛し、満足させることを追い求めますか、それとも神に対して観念を抱き、神を怨みますか。多くの時、わたしたちは神から来る恵み、祝福を享受することだけを望みます。一旦試練を受けたら、消極的になり、弱くなります。ひどいのになると、試練の中で神を激しく恨み、神と事の是非を論じ、神を誤解する者さえもいます。試練のゆえに、彼らと神の間のみぞがますます深まります。そのため、彼らと神の関係は完全に敵対関係であり、彼らの霊的状態は極めて悪いです。箴言書第17章3節で「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主」と書かれています。実は、神を愛する人であればあるほど、苦難、試練の中で真理を求め、神に依り頼んで、響き渡るような良い証しをすることができます。例えば、ヨブは自分が災いを受けるか、祝福を受けるかを問題とせずに神を信じていました。試練が彼に臨んだ時、彼の巨万の財産が強盗に奪われ、彼の子女たちが災いの中で死に、彼の全身に重い皮膚病ができました。しかし彼は唇をもって罪を犯さず、むしろ神の前に出て神の御心を求め、彼の長年の経験のゆえに、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名がほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と言いました。そのため、彼は神に良しとされ、神のもっと大きな祝福を得ました。アブラハムもそうでした。彼は神の声を聞いた後、身を切られる思いで神に従い、独り子イサクを神に返し、響き渡るような良い証しをしました。そのため、彼は後人に「信仰の父」と呼ばれています。ペテロは一生の中で多くの試練を受けたが、神に不平を言ったことがなく、最終的に、神のためには逆さまに十字架につけられ、神を極みまで愛し、死に至るまで神に従うことができるようになりました。わたしたちの観念と一致しない様々なことが起こる時、わたしたちが彼らに倣って、軽率に結論を下さず、不平を言わず、真理を求め、神の支配と計画に従うなら、わたしたちと神の正常な関係を妨げ、破壊する人、事、物がなくなります。こうして、わたしたちは本当に神の御顔の光の中に生きるようになりました。

   神の働きは霊妙で測りがたいです。神の知恵は尽きることのないものです。神と正常な関係を築くことこそが、わたしたちが霊的な旅を始めるための第一段階です。

 

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4つの原則を把握したら、あなたは誠実な人になれる

2019-06-21 22:13:18 | 礼拝説教

   午後の日光が窓を通して斜めに差しこんでいます。わたしは机の前に座り、暖かい日光を浴びていて、とても気持ちがよいです。今、わたしは心ゆくまでブログを書いて、皆さんとわたしのこの間の豊かな収穫を分かち合いたいです。

   主を信じたばかりの時、わたしは「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ18:3)という主イエスの言葉を読みました。主イエスのこの言葉は天の国に入るための基準を明らかにしました。それによって、わたしは単純で愛らしい誠実な人だけが主に良しとされることができ、天の国に入る資格を持つと分かりました。主の御心を理解した後、わたしは現実生活の中でいつも自分の舌を戒めて、自分がうそを言わないようにし、神の考えるような誠実な人になるための実行に励みます。だが、わたしはいつも失敗します。そのため、わたしは誠実な人になることを追い求める上で次第に自信を失っていきました。幸いなことに、わたしはこの間、福音論壇で一人の兄弟に出会いました。皆さんがどうすれば誠実な人になれるかについて交流する時、この兄弟は多くの独特な見解を述べました。それによって、わたしはうそを言わなければ誠実な人になれるという自分の見方があまりに一面的だと認識し、またどう実行すれば誠実な人になれるか分かりました。そして、わたしは意識的に、その兄弟の言うとおりに誠実な人になるための訓練をしました。そうすることによって、大きな収穫を得ました。ここで、それを皆さんと分かち合いたいです。




1.自分の心を神に渡して、神に自分の心を支配させなければならず、どんな事をする時も真理にしたがって行動し、神の監視、神の検査を受け、光の中に生きなければなりません。

   神は「心を探り、そのはらわたを究めるのは主なるわたしである。……」(エレ17:10)と言われました。箴言書に「主の灯は人間の吸い込む息。腹の隅々まで探る」(箴20:27)と書かれています。これらの言葉から分かるように、神は全知全能で、すべてを監視し、わたしたちの思いや考え、一挙一動も神に監視されています。だから、わたしたちが誠実な人になりたいなら、まず自分の心を神に渡して、神に自分の心を支配させ、あらゆることで神の監視を受け入れなければならず、また神に心を打ち明け、神の前で、自分の本当の霊的状態が真理にかなうかどうか、神の心にかなうかどうかを反省しなければなりません。真理にかなうことなら、わたしたちは大胆にすればいい。だが、自分のしたいことが真理にかなわなければ、すぐ祈って自分のよくない意図を裏切り、自分が罪に左右されず、支配されないようにし、神の要求にしたがって実行すべきです。そうすれば、胸中がさっぱりしているようになり、しかもいつでも光の中に生きることができます。例えば、神を信じない親戚や友達に金を儲けないかと誘われれば、わたしたちは心が動き、どうしたらよいか迷います。こういう時、わたしたちは神に祈り、それが真理にかなうかどうかを考えなければなりません。それは真理にかなわなければ、あきらめるべきです。主イエスがこう言われました。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタ6:24)。主のこの言葉は、わたしたちに次のことをはっきり教えています。神に仕えると同時に金を儲けることは神の心にかないません。なぜなら、金儲けは人に神の救いを得させることができず、人が神につき従い、神に仕えてこそ、神に救われることができます。これこそが神の御心です。神の御心を理解したら、わたしたちは神に仕えることを、わたしたちの人生の中の最も重要なことと見なし、衣食に困らない生活に満足し、神に仕えて正しい人生の道を歩むべきです。そうすれば、神に顧みられ、守られることができ、また真の人生を得られます。

   わたしたちは祈る時、神の監視を受け入れるべきです。聖書を読んだり、主のために働いたりする前、或いは集会が始まる前に、わたしたちは祈るべきです。聖書を読んだり、主のために働いたりする時、或いは集会にいる時、わたしたちは神の監視を受け入れるべきです。そうすることは、肉体に背き、真理を実行するのに有利です。それは誠実な人になるための実行の一つです。わたしたちが神の監視を受け入れるなら、肉体に背き、真理を実行する力を持つようになり、たとえ肉体的な苦しみを受けても、真理を実行して神を満足させようとします。わたしたちが神の監視を受け入れるなら、わたしたちは大胆に自分の意志でことを行い、自分の欲するままにことを行うことがなく、むしろ神の御心を求めて、神の要求にしたがってことを行います。こうして、わたしたちは次第に神に変えられ、きよめられました。わたしたちが狡猾なことをし、欺こうとする時に神の監視を受け入れるなら、「神は全能で、すべてを監視しておられる。人のすることなすこと、人の思い、考えを、神ははっきり見ることができる。だから、自分の意志で行い、自分の利益を守るなら、耳をおおって鈴を盗むようなことをし、神を欺くことになる。そうすれば、きっと神に嫌われ、ひどい場合は神の性質を犯すこともある」と意識するはずです。こうして、わたしたちは肉体に背いて真理を実行し、神を満足させる力を持つようになり、また誠実な人になるための実行をして、サタンを辱めることができます。例を一つ挙げます。わたしたちが神への奉仕で疲れていて、肉体に迎合し、怠けようとする時、わたしたちが神の監視を受け入れて、神の前で生きているなら、いいかげんにごまかし、力の出し惜しみをすることが神を欺く行為であり、神を欺くことが神の性質を犯すことだと意識するはずです。そうなれば、わたしたちは知らず知らずのうちに、神を畏れる心を持つようになり、自分の意志にしたがって神を欺き、神を怒らせるようなことをする度胸もなくなり、また主の言葉を実行して、誠実な人になることを追い求め、光の中に生きるようになります。

2.祈る時に真に神と交わって、神に打ち明け話をしなければならず、神との正常な関係を保ち、守らなければなりません。

   主イエスがわたしたちにこう教えられました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)。この言葉から分かるように、神はわたしたちが誠実な心をもって彼を礼拝することを望んでおられます。だから、祈る時、わたしたちは単純で心を打ち明けて神に本音を語るべきです。これも誠実な人になるための実行の一つです。

   では、具体的にどのように実行しますか。わたしたちはまず神に祈って、誓うべきです。祈る時、わたしたちはこう誓いましょう。「神よ、わたしは罪の中に生きている人であり、いつもうそを言います。今後二度とうそを言わないことを、ここに誓います。わたしがまたうそを言ったら、どうかわたしを懲らしめ、懲罰してください。わたしは真人間に生まれ変わり、あなたの心にかなう誠実な人になろうと志を立てました。これからは、本当にあなたに依り頼み、あなたを礼拝します!」と。神に誓った後、わたしたちは祈りの中で本当の話、本音を言うことを、実行し、訓練すべきです。祈る時、心に思っていることをそのまま言うべきであり、どんな困難があっても神に話し、真心をもって神の助けを祈り求めるべきです。このような祈りはとても自然であり、生活と同じほど実際であり、決して見せかけではありません。

   主イエスはかつてこのようにわたしたちに忠告されました。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタ6:7-8)。主イエスの言葉から分かるように、祈る時に繰り言を言い、無意味な言葉を言う人たちは主イエスの気に入らない人であり、主イエスに異邦人だと言われました。祈る時、言いたい言葉がそんなに多くないなら、言葉を無理に探し求めてはなりません。神に祈ることは文章を作ることではありません。神はわたしたちの言葉数の多少を気にせず、わたしたちの言葉は誠実かどうか、心から出た言葉かどうかを重んじます。偽りの祈り、見せかけの祈り、神を欺く祈りは、神に最も嫌われます。心から出るのではない言葉はみな嘘、偽りの言葉、神を欺く言葉です。祈る上で神をごまかし、欺く者はみな狡猾な人です。だから、祈る時、わたしたちは心から出た言葉、誠実な言葉を言わなければなりません。そうすれば、わたしたちの祈りが神に聞き入れられることができ、わたしたちも神との正常な関係を保つことができます。

3.言葉の中にうそ、混じりけがなく、心の中に不実さや欺きがないことを保証し、単純で心を打ち明けるべきであり、また正常な人間関係を築くべきです。

   主イエスはこう言われました。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(マタ5:37)。神の本質は信実、きよさです。だから、わたしたちは事実に基づいて言葉を言い、ありのままを言うべきで、良心に逆らって言葉を言ってはなりません。

   うそを言うという問題を解決したいなら、まず自分のよくない意図を解決しなければなりません。口は心の扉です。多くの時、わたしたちは心の中のよくない意図のゆえにうそを言ったのです。わたしたちがうそを言うのは、メンツや、名利や、地位や、自分の利益などを守るためです。言葉を言う時、わたしたちの意図、目的が正当であれば、わたしたちは神の監視を受け入れて誠実な言葉、心からの言葉を言うことができます。例えば、もし自分が仕事に忙しくて福音を伝えなかったなら、兄弟姉妹たちにこの間福音を伝えて人を得たかと聞かれる時、自分が本当のことを言ったら、兄弟姉妹たちに負担を持たない者だと言われるのではないか、そうなったら面目を失ったのではないかと心配し、兄弟姉妹たちに馬鹿にされないために、良心に逆らって、「福音を伝えたが、ただ人を得ていない」と言います。この場合、わたしたちは神の前に出て、このように神に祈るべきです。「神よ、わたしはサタンに深く腐敗させられました。いつも自分のメンツを守るためにうそを言います。だが、うそを言った後、心が平安でなくなり、兄弟姉妹たちが根掘り葉掘り聞くことを心配し、また、うそがばれて、兄弟姉妹たちに責められ、対処されることを心配します。神よ、わたしに信仰と力を与えて、わたしが自分の肉体に背き、真理を実行し、あなたの願いを顧みることができるようにしてください。兄弟姉妹たちがわたしのことをどう思っても、わたしは自分のメンツを守らず、誠実な人になることを追い求めてあなたを満足させます」と。こう祈ったら、誠実な言葉を言うのに必要な信仰を持つようになります。たとえ、ある時メンツにかかわって本当のことを口に出せないとしても、神に祈り、誠実な人になるための訓練をしさえすれば、神はきっとわたしたちを導いて、わたしたちが真理を実行できるようにさせます。わたしたちがいつもこのようにすれば、正常な人間関係を築くことができます。

4.原則、真理にかなうことをし、公明正大に行動しなければならず、公明正大な人にならなければなりません。

   わたしたちが誠実な人になりたいなら、ことを行うのに原則を持つべきであり、自分の意志にしたがってことを行い、サタン的哲学やサタン的性質によって生きてはならず、何をする時も神の言葉に従うべきであり、あらゆることで真理を実行し、教会の利益を守るべきです。教会の利益を損ねること、兄弟姉妹たちの命のためにならないことは、わたしたちは絶対にしてはなりません。わたしたちは公明正大な人にならなければならず、どんなことをしても神の監視を受け入れるべきです。

   例えば、もし兄弟姉妹たちがわたしたちの利益を損ねるようなことをすれば、わたしたちは「歯には歯を、目には目を」というサタン的哲学のゆえに相手を攻撃しようとします。こういう時、わたしたちは神の前で心を静め、神に祈り、どうすれば正常な人間関係を築くことができるかについての真理に思いを巡らすべきです。では、どうすれば正常な人間関係を築くことができるかについて、神はどう言われましたか。神はわたしたちが互いに愛し合い、隣人を自分のように愛し、神に対する愛をもって兄弟姉妹を扱うことを要求されました。わたしたちが神の御心を理解したら、肉体に背き、神の言葉にしたがって実行すべきです。そうしたら、心が落ち着き、すっきりしました。また例えば、わたしたちが教会の中の同労者たちが互いにねたみ、紛争し、いけにえを盗み食いし、教会の利益を損ねるようなことをするのを見たなら、わたしたちは見て見ぬふりをし、それを自分にかかわりのないことだと思ってはならず、また地位や権勢に束縛されてはならず、断固として神の側に立ち、教会の利益を守るべきです。それでこそ、わたしたちがことを行うのに原則を持つ誠実な人だと言えます。

   以上の四つの原則によって実行すれば、単純で愛らしい誠実な人になれます。こうして、天の国に入ることができます。

   この四つの原則は主がわたしに与えられた特別なプレゼントです。わたしは毎日このように実行し、訓練することによって、とてもよい効果を収めました。今、わたしのうそが以前より少なくなります。そのため、大きな心の安らぎを得ました。神に感謝します!



クリスチャンが達成しなければならない4つのこと―神を信じるには、4つの最も根本的なことをとらえるべきだ

2019-06-20 08:00:00 | 礼拝説教

   主につき従うのには、四つの最も根本的なことがあります。それはわたしたちすべてのクリスチャンが達成しなければならないことです。この四つのことは、神の言葉を読むこと、神に祈ること、本分を尽くすこと、そして神の言葉を実行することです。わたしたちのすべての霊的な生活には、おもにこの四つの面があります。わたしたちの毎日の生活の中にこの四つの面の実行があれば、わたしたちは本当のクリスチャンとしての条件を持つようになります。

第一の重要なことは、神の言葉を読むことです。

   わたしたちは主を信じたその日から、聖書を読んでいます。数十年一日のように聖書を読んでいて、今まで中断したことがありません。では、わたしたちがどのように神の言葉を読めば効果を収めることができるでしょうか。神の一言一言から真理を探り出し、神の意志を求め、注意深く祷読し、かみしめるべきです。おおざっぱに読んだり、聖書の字句を暗誦したりしてはなりません。わたしたちは注意深く読み、探究して、聖霊の啓き、照らしを得る必要があります。それでこそ真理の真意と主の意志を理解することができます。

第二の重要なことは、主に祈ることです。

   ヨハネによる福音書第4章23-24節でこう書かれています。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。だから、わたしたちが祈る過程は、神を礼拝する過程でもあります。ここには、霊と真理をもって神を礼拝するという条件があります。つまり、わたしたちの祈りが主に良しと認められることを望むなら、祈る前に心を落ち着かせて、主に何を言いたいか、毎日わたしたちに臨む環境の中で主の意志が何かを考えてみるべきです。わたしたちが主の意志を理解したら、主の意志にしたがって祈るべきです。ひたすら神がわたしたちに何かを与えるように要求してはならず、また目的なしに繰り言を言ったり、毎日同じ祈りを繰り返したりしてはなりません。祈る時は自分の困難を正確に知り、心をもって神の意志を求め、神に本音を語り、誠実な言葉で言うべきで、大きな口をたたいたり、空論を説いたりしてはならず、また、神の前で空約束をして実行しないようなことをしてはなりません。しかも、何事にも神を求め、神を仰ぎ見るべきであり、どんな時どんな場所でも心の中に神の位置があるようにし、神を崇めるべきであり、何事にも神の啓き、導きを求めて、従順な祈りをするべきです。そのような祈りこそが神を礼拝する祈りです。

 


第三の重要なことは、自分の本分を尽くすことです。

   マルコによる福音書第10章29-30節でこう書かれています。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける』」。主イエスはまたこう言われました。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(マタ7:22-23)。わたしたちすべてのクリスチャンは、自分の尽くすべき本分があります。あるクリスチャンたちは主のために自分をささげることができ、数十年一日のように道を走って福音を宣べ伝えています。あるクリスチャンたちは真心をもって主を信じ、真理を追い求める兄弟姉妹に施しをし、彼らを助けることができます。あるクリスチャンたちは消極的で弱い兄弟姉妹を支えることができます。またあるクリスチャンたちははるばるやってくる、福音を宣べ伝える人を受け入れることができます。実は、これらはみなわたしたちが常に生活の中で行なうことです。しかし、本当に本分を尽くすことは、自分の意図を混ぜずに神のために行なうことであり、祝福を得て主と取り引きして、天の国に入るという祝福、冠を得るためにではなく、多くの人の前で他人に褒められるためにでもなく、主の心を満足させるためだけに行なうことです。そのような気持ちを抱いて行なうなら、本当に本分を尽くすことになり、主に受け入れられることもできます。さもなければ、人が自分の企み、欲望、要求のために本分を尽くし、捨て、費やすことになり、主の言葉を守り、神のみこころを行なうとは言えなくなります。そうであれば、主イエスはわたしたちを罪定めして、「不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われるはずです。

第四の重要なことは、真理を実行することです。

   実は、真理を実行するのは主の言葉を実行するのです。主イエスのわたしたちへの教えは非常に多いです。例えば、主イエスはこう言われました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタ22:37-39)。主の言葉を実行するのは神のみこころを行なうのです。そのためには、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主を愛しなければなりません。実行する中でどのように代価を払い、費やしても心から喜んでそうするべきであり、自分の意図、目的や野心、欲望を持ってはなりません。どんな試練、精錬が臨んでも、神に従い、神を愛すべきであり、不平を言い、神に背いてはならず、また神に反発し、反抗し、神を裏切ってはならず、死に至るまで神に忠誠を尽くし、証しのために立つべきです。だから、わたしたちが主の言葉を実行する時、ただ主の言葉の表面上の意味によって行なってはならず、主の言葉の中に含まれる主の意志が何か、そして真理の本質、真理の真意が何かを探究するべきです。そうすれば、わたしたちの実行は本当の真理の実行になれます。主の言葉の表面上の意味によって行なうのは、ただ聖書の字句を守るのです。それは真理の実行だと言えません。

   以上は、わたしたちが神を信じるのに守らなければならない四つの根本的な重要なことです。わたしたちが神を信じる上でのこの四つの根本的なことをとらえることができれば、主に良しと認められることができます。わたしたちが神を信じる上でのこの四つの根本的なことを守ることができなければ、神を信じるには方向、目標がなく、長年神を信じても大きな進歩を遂げることができません。だから、わたしたちが根本をつかんでこそ、神を信じることに成功すると保証できます。こうして、わたしたちが失敗することがなくなります。


キリスト教徒が業務において調和をとりながら協力し合うための3原則

2019-06-19 22:14:46 | 礼拝説教

   ご存知の通り、私たちは心を1つにして神に仕えてのみ聖霊の導きを得ることができ、教会の働きも神から祝福を受けることができます。これは、主イエス様が私たちにこう仰っておられるからです:「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。(マタイによる福音書18:19)。

   私たちが業務において協力し合う間、サタンは常に解体の働きを行います。サタンは常に神の働きを妨害し弱体化させて神の御心が実現するのを妨げるという狡猾な計略を実行するために私たちの堕落と背きを利用します。表面的には、キリスト教徒たちが業務で協力し合うことにおける問題は人間関係の問題であるように見えます。霊的世界においてはと言うと、実は戦いが行われています。真理を理解しなければ、私たちはサタンの計略を見抜くことができないだけでなく、頻繁にそれに利用され、苦しみと嘲りの中を生きることになってしまいます。すると、私たちは他人と敵対し、お互いを警戒し合い、攻撃し合い、傷つけ合い、心を1つにして自分たちの本分を尽くせなくなってしまいます。無意識のうちに、私たちはサタンの策略に騙されて教会の働きを解体してしまうのです。

 

 

   私たちはサタンの策略を見抜けないことが頻繁にあり、サタンのような堕落した性質を持ってもいるため、兄弟姉妹たちと協力し合う際に心を1つにして主に仕えることができないことがよく起ります。時に、私たちは意見、考え、または見解において自分たちのパートナーと相違することがあると、傲慢な本性に支配されている私たちはパートナーに自分たちの言うことを聞くようしつこく要求し、私たちと私たちのパートナーはお互いがそれぞれの意見を固持するという結果が生じてしまいます。その結果として、不和と疎遠が起り、私たちの短気さが激発したり、正否にこだわり過ぎてしまいます。時に、私たちとパートナーとの間に力量や能力の差があると、私たちは力量の低い者たちを見下し、自分たちを支持して好き勝手なことをしてしまい、教会が重要視することに対して問題を引き起こしてしまいます。時に、私たちはパートナーから尊厳を傷つけられたり、個人的な利益に影響を及ぼすようなことをされると、私たちは寛容さと辛抱強さを失い、自分たちの利益を守るために彼らを攻撃し傷つけ、結果的に教会の働きが行き詰まってしまいます。

   他人と協力し合う上でこのような問題を抱えていながら、私たちの業務は神に承認していただけるでしょうか?ピリピ人への手紙2:2にはこう記されています:「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」アモス書3:3にはこう書かれています:「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか。」私たちはパートナーたちと心を1つにしていれば、神の働きと承認を受けることができます。しかし、私たちが調和を取れていないとなると、共に歩んで行くことができず、私たちの内で神の御心を実行していただくことが困難になってしまいます。従い、このような業務の仕方は神に認めていただけないのです。

   ならば、私たちキリスト教徒は他の人たちと調和をとって協力し合うにはどのような原則を把握するべきでしょう?

第1に、私たちは聖霊の指導と心理の原則に従うべきであり、我意に固執したり、他人から抑制されてはいけません。

   生まれた状況、生活環境、素養のレベル等は人それぞれなので、教会の働きで生じる問題において私たちが異なる意見を持つことは当たりまえのことです。もし私たちが他の人に自分たちの言う通りにすることを要求したり、そのために地位を利用して人を抑えつけるようなことをしたら、それは聖人らしからぬ行いとなってしまいます。私たちは神の御旨に沿った形で神に仕えることを望むなら、人の話を聞くのではなく、真理の原則を探求すべきなのです。私たちは他人の道や自分たちの道を行くのではなく、毒、権力、知識や評判に縛られるべきでもないのです。私たちは神の御言葉を求め、神の御言葉の権威の下に服従すべきなのです。主イエス様はこう仰られました、「神を信じなさい。」(マルコによる福音書11:22)。 私たちは同僚、パートナー、牧師や長老に主イエス様の御言葉に沿わないことをするよう求められても、言われるがままにするのではなく、主イエス様の御言葉に従うべきなのです。もし彼らの言うことが主の御言葉に沿っているのであれば、私たちは自分たちを脇に置いて神から来ることに従うべきです。

   私たちは道義心に欠けることや無意味な事柄について意見が異なる場合は譲歩してしつこく主張するのは控えるべきです。例えば、私たちの教会でホームステイを提供していた姉妹2人が時折兄弟姉妹たちのためにする料理について衝突することがありました。実際、これは単なるアプローチの仕方における相違で、教会の原則や関心事には全く関係のないことでした。従って、もしこのような場合に自分の意見に固執してしまうと、それは私たちの堕落した性質の表れとして捉えられてしまいます。後に、この2人はお互いに自らを脇に置けるようになりました。その時、2人の間にあった疎遠な関係は解消され、お互いに仲良く協力し合えるようになったのです。

   さらに、私たちは聖霊の御啓示と御指導に従うことを学ぶべきです。例えば、直面する出来事にどう対応してよいのか全く分からない場合、私たちは主に祈りを捧げ、主を求めるべきです。その後は、どうして良いのかと意識して考えなくても、突然進むべき道を自分たちの中で見い出し、それを比較的適切であるとみなすと心の中で平安を感じられるのです。この場合は聖霊が私たちを導いてくださっておられるので、私たちは聖霊の御導きに従うべきなのです。ローマ書8:5にはこう記されています、「霊に従う者は霊のことを思うからである。」 加えて、私たちはパートナーと意見が食い違うことがあります。私たちは最初は自分のアイデアの方がパートナーのアイデアよりも優れていると考えますが、心の中ではそう頑固にならずに先ずはパートナーのアイデアを受けいれてみるべきだという漠然とした気持があり、その気持ちがあると心が和むものです。私たちの内にある御導きに従えば、パートナーの提案は本当によいもので、教会の働きにとってより有益なものであることが分かります。そうすると、あの漠然とした気持ちは聖霊の御導きから来るもので、私たちが聖霊の御導きに従うことは極めて重要であると確信できるのです。

第2に、私たちは他人に勝とうとするのではなく、お互いから学び合おうとすべきです。

   ピリピ人への手紙2:3-4にこう書かれています:「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」 これらの節は、名誉と富を求めて奮闘することは私たちが貫くべきキリスト教徒らしさではなく、私たちは謙虚であるべきで、自分勝手にならずに他人に対してもっと思いやりを持つべきであることを示しています。しかし、私たちは傲慢な本性を持っているため、いつも自己顕示したがり、教会の働きに欠陥があると簡単に人をけなし、手柄を自分のものにし、罪をなすりつけたりしてしまいます。これが私たちと他の人たちとの間に調和を欠いた協調性をもたらしまいます。私たちがこれらの節に書かれているように探求における考え方を変えて、自己主張をせずに謙虚であり、他の人の長所を見て学ぶことができれば、盲目にうぬぼれたりせず、自然と他の人たちと仲良く協力し合えるようになるのです。

   さらに、私たちは教会の働きの各業務は兄弟姉妹たちの調和のとれた協力を通じて成就する必要があり、それは1人の人間が達成できることではないことを知る必要があります。私たちは協働によってのみ、教会がその働きにおいてより良い結果を出せるようにすることができるのです。結局のところ、全ての人が何でもこなせるというわけではなく、誰もが多くの欠点や欠陥を持っているものなのです。自分たちの個人的な裁量に基づいて神に仕えていたのでは、教会の働きが良い効果を得られるようにするのは容易なことではなく、時には教会の働きにおいて逸脱を引き起こしたり、損害をもたらしてしまうことすらあります。兄弟姉妹たちと業務において協力し合っていれば、私たちはお互いを多かれ少なかれ補足し合うことができ、それによってミスをある程度は避けることができるのです。これについて、コリント人への手紙にはこう書かれています、「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように⋯」私たちは1人1人が仲間なのですから、私たちは協力し合ってのみ神から委ねられた本分を成就できるのです。律法の時代に、ヤ―ウェ神がモーゼにイスラエルの民をエジプトから導き出すよう命じられた時と同じです。しかし、口下手であったモーゼは神から与えられた任務を独力では成就できませんでした。従って、神はアロンをモーゼの代弁者として育てました。彼らはそれぞれの本分を尽くし、お互いに協力し合って、ついにイスラエルの民をエジプトから導き出し、神からの任務を完了させました。これと同様に、今日の教会はその働きにおいてより良い結果を出せるように、私たちが業務において協働するよう手配されるのです。これ故に、私たちはパートナーの欠点のみに注目したり、彼らをけなしたり、傷つけるなどすべきではないのです。私たちは物事を違う視点から捉えて、私たちのパートナーを私たちのヘルパーとしてみなすべきなのです。こうすることで、教会の抱える問題は解決し、私たちはお互いに調和のとれたパートナーシップを持つことができるようになります。これは教会の働きとお互いのいのちの成長にとって極めて有益なことです。

第3に、私たちは共通の目標を目指して働き、心の中でお互いを備え合い、支え合うべきです。

   ピリピ人への手紙2:1-2にこの記述があります:「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、 2どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」エフェソの信徒への手紙4:3にはこう書かれています、「平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」 これらの節から、私たちキリスト教徒は、お互いに協調のとれたパートナーシップを持ちたいのなら、共通の目標を持ち、心を1つにし、神からの任務を成就するためにお互いに心を合わせる必要があることが分かります。そうすれば、私たちの間にどのような論争や不一致があったとしても、私たち全員が神の御心が実行されるにはどのような形で物事をなすべきかを考え、個人的な意見を貫くことは止めて、代わりに利己的な利益や計画を脇に置くようになるでしょう。その瞬間、私たちは一致団結したことになるのです。

   私たちキリスト教徒は外面的にも、内面的にも結束しているべきなのです。時に、表面的には私たちの間には何の論争も起きていないように見えることがあります。しかし、私たちは全くお互いを愛し合わず、大切にせず、助け合わず、心の中にも暗黙の了解が全くないのです。私たちは皆、それぞれの問題において個人的に努力をしているだけなのです。真の団結は全くできていないのです。真の団結の表れとは次のことを言います:「教会に深刻な問題がある、または兄弟姉妹たちが困難に直面していて、否定的で弱気になっていることを知った時、全員が心を1つにして探求し祈りを捧げる。同僚が業務においてミスを犯したら、それは教会の働きに関与することであるから、彼のみならず、他の全員にその対応をする責任があることを理解できることであり、そして一緒にその問題を明確に理解して解決策を求めることである。誰かが大変な思いをしていれば、愛情のこもった心で彼を助け、一緒に神を頼り、解決策を求めることである。神の御言葉の御啓示と御啓蒙を得られれば、お互いの霊的いのちの成長を支え合うためにそれを交流かつ共有できること。私たちのパートナーの行いが主の御心に沿っていないことがあれば、私たちは相手を怒らせることを恐れずに、その問題を提起するべきであり、それは彼らにとって有益なことであるだけでなく、彼らはそれから教訓を学び、それを警告として受け止めておくことができるのです。。。」これはキリスト教徒の間の心の中における真の、かつ相互の愛情であります。私たちが1つであるということは、その言葉が示唆する通り、私たちが統一体である、つまり、私たちが自分勝手なことをせず、不和にならず、孤立せずに共通の目標に向かって一生懸命になり、努力を注ぎ、ファミリーとして一緒に暮らすことを意味しています。

   皆が知っている通り、イスラエルの民は敬虔な心をもってヤ―ウェ神に仕え、ヤ―ウェ神の律法と戒律を破ろうとはしませんでした。神に忠実に仕えたことが功を喫して、彼らは神の御業をたくさん目撃し、神の御気遣いと御加護を授かり、最終的に彼らは常に神から恵みを受けていました。これが神に仕えることにおける彼らの秘訣でした。今日、私たちは教会で法衣をまとって神に仕えてはいませんが、それでも私たちは教会で働くものであります。調和のとれた協力における原則を理解していなければ、教会の働きは神から祝福されることはなく、私たちは最終的に、神の御旨に沿った形で神に仕えていなかったことが理由で神から認められることもないでしょう。その反面、私たちは調和のとれた協力における原則を理解すれば、神の使いとなるにふさわしい人間になる希望が持てるのです。これについて、申命記10:12にはこう書かれています、「すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え…」。 業務においてキリスト教徒が調和を取りながら協力し合うことの大切さが明確に分かります。


神の御心に叶う奉仕は4つの重要な要素を理解しなければなりません

2019-06-18 21:37:17 | 礼拝説教

第1に、私たちは神を愛する心を持ち、主の御心を考慮し、全てにおいて主と心を1つにし、主の親友になろうと一生懸命に努力する必要があります。

   主イエス様はこう仰りました:「イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。」(マタイによる福音書 22:37-38) これらの御言葉は主イエス様が私たちに守るようにと求められる戒めであり、それ以上に主に仕える人それぞれに対し要求されていることでもあります。主は私たちが主を愛する心を持つこと、そして主の親友になる最善の努力をすることを求めておられます。ペテロを例に挙げてみましょう。彼は自らの将来を考慮したり、そのための計画を立てることなく、主に従い、そして主からの任務を担うために世俗的なもの全てを捨てました。彼は主と心を1つにし、全てにおいて主の御心を満たすよう求めました。主イエス様は死から復活された後、ペテロの前に現われました。そのことは聖書にこのように記されています、「またもう一度彼に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。彼はイエスに言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を飼いなさい』。イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。ペテロは『わたしを愛するか』とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を養いなさい。』」(ヨハネによる福音書21:16-17)。ペテロは最初から最後まで主に忠実でした。従って、主イエス様は彼が主を愛する者になることを期待され、主の信者たちを導くという大変な責任を託されたのです。その後、ペテロは常に主イエス様の御言葉を心の中に抱き、進んで神の真の愛を追い求めることに一生分のエネルギーを費やしたのです。彼は主の御心を考え、全てにおいて主を満足させることに集中し、迫害や苦難を強いられながらでも主の信者たちを引率しきったのです。最終的に、ペテロは死ぬまで神に従い、神を極限まで愛しながら、主のために逆さ十字形に遭いました。これ故に、ペテロはまさしく主と心を1つにしていた人であり、主の親友でもあったのです。私たちは主に仕える資格を得たければペテロに習う必要があり、主を知り愛することを求め、全てにおいて主の御心を考える必要があります。加えて、私たちは、業務を行うにあたり、主の働きのため、主を讃えて主の証言を行うために自らを犠牲にし、個人的な関心を考慮したり、そのための計画を立てたり、自分たちに良いことを求めたりせずに心から主の御心を満たすべきなのです。そうすれば、私たちの業務は主の御心と調和が取れるようになるのです。

 第2に、私たちは全てにおいて真理を求め、主の御心を理解し、聖霊の働きにおいて綿密に協力し合い、聖霊の働きと歩調を合わせる必要があります。

   全てにおいて真理を求め、主の御心を理解するということは主が信者全員に求めておられることですが、それ以上に、主のしもべ全員が入り実践すべきことであります。しかし、私たちは説教したり働いている時、または何らかの問題や困難に遭遇する時、多くの場合は全く神の御心を求めようとせずに独自のやり方をしてしまいます。時に、私たちは真理を求めていても、その過程をたどるだけで、何の結果も得られていないことがあります。例えば、兄弟姉妹たちの信仰が冷めていくのを見たり、世界のトレンドを追いかけて肉の快楽を楽しんでいる者を見たり、主を見捨てて裏切る者たちを見ると、私たちはただ単に彼らを支えて激励するといったありとあらゆる外面的な行動を取ることに集中し、やるべきことをやってさえいれば十分だと思っています。しかし、私たちは主の御心を求め理解することには全く注意を払わず、これらの問題の根源は何なのか、教会を蘇らせて神を安心させ、満足させるためには何をすべきであるのかということは全く考慮していません。主の御心を理解して求めることがなければ、私たちは神から増々離れていき、心の暗さと渇きを感じ、主の御前に触れ、御指導を受けることができず、歩む道を持つこともないのです。

   しかし、常に主の御心を理解することに集中していれば、私たちは聖霊の御啓示と御導きを容易に受けることができ、教会で起きている問題や困難を次第に見抜けるようになり、どのようにして主に仕える働きを適切にこなし、私たちの業務においてどういった原則を把握しておくべきで、どのようにして、心を尽くし、思いを尽くし、魂を尽くし、そして力を尽くして私たちの本分を適切にこなして神を満足させるのかということがはっきりと分かるようになります。こうすることで、本分を実行するにあたり、私たちの人間的な考えは減り、行動を取る上で自分たちの観念と想像、能力や内面的素養に頼ることがなくなります。私たちの神との関係は普通になり、神の御心に沿った本分が行えるようになります。例えば、教会が悲惨な状態にあるという問題や、多くの信者が消極的かつ弱気になり、世俗的なものを求めるという問題に直面する際、私たち神のしもべは主の御心と要件を求めることにもっと努力を費やすべきなのです。私たちは教会が悲惨な状態に陥る根源を見つけることができれば、兄弟姉妹たちが主への信仰を取り戻すためにどう手助けすればよいのかがわかります。私たちは今こそが終わりの日の終末であると分かっています。この時期に教会が増々悲惨になり、信者たちが消極的かつ弱気になり、世俗的なものを追い求めるのはよく起る現象です。これは聖霊がもはや宗教界で働いていないことを示しています。これについて神はこう仰りました:「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書4:7)。悪化しつつある教会の悲惨さな状態を解決するために、私たちは聖霊の働きが宿る教会を見つけ、聖霊の働きの傾向と動きを追求し、新たな啓示と啓蒙を求める必要があります。私たちが自分たちの観念と想像を手放し、敬虔な心、および真理を切望し求める心を持っていれば、主は間違いなく私たちが主の御心を理解できるよう御導きくださり、生ける水の備えを受けられるようにしてくださります。真理を求める心を持って神に仕えていれば、私たちは神の啓蒙と祝福を授かり、私たちの欠くもの全てが神によって補われ、完全にされます。

第3に、私たちは業務において神を讃え、神の証言をし、兄弟姉妹たちを神の前に導くため、神の御言葉を実践し、そして神の御言葉を使用して問題を解決する必要があります。

   人々を神の前に導くことは神に仕える者たちに対する神からの要求であります。人々を神の前に導きたい場合、私たちは神の御言葉と神の要件に従って彼らを導き支える必要があります。そのためには、私たち自身がまず神の御言葉の体験と知識を持ち、主の御心と要求に関する理解をある程度は得ている必要があります。私たちは全てにおいて、そして神がご用意くださる環境において、自らの欠陥と不備を知るために神の御言葉を熟考し、そして神の御言葉の中に実践するべき正しい道を見つけることを学ぶ必要があります。神の御言葉を体験し実践することを通じ、私たちは神の実際の、かつ真なる知識を習得し、私たちの神との関係は増々適切になるでしょう。こうすることで、私たちは遭遇する問題や困難の本質を見抜き、そして自らの実体験、ならびに神の御啓示と御指導を通じて兄弟姉妹たちが神の御心を理解し、実践するべき道を見るけるのを助けることができるようになるのです。例えば、兄弟姉妹たちの間に意見の相違があり、業務を行う上で彼らが仲良くできていない様子を目にする時、私たちがこの問題の本質を知ることができず、それを解決するために神の御言葉を求めていなかったとすれば、私たちは自分たちの考えで彼らを注意したり、激励したり、または聖書の内容に従って彼らを非難して教育し、今後そういうことはしないようになどと言うでしょう。このような行為はただ単に彼らを物事の是非に執着させるだけで、彼らを神の前に導くことは全くできないのです。しかし、私たちが問題を解決するために真理をもって実践し、兄弟姉妹たちに神にもっと祈りを捧げ、神をもっと頼りにし、神の働きを一緒に体験するように指導していれば、彼らは、「私たちは誰もが堕落した性質を持っており、それによって支配されコントロールされている私たちは他人と普通の関係が持てず、そしてそれはサタンによる欺きと堕落であること、神は私たちの堕落した性質を清めて変えるための環境を用意してくださること、私たちが自ら持つサタンの堕落した性質を知り、それを嫌い、自らの肉に背き、我執を捨て、真理を実践し神を満足させることに意識的に注意を払うことができれば、私たちは物事の是非に執着せず、他人と仲良くできるようになり、神が用意してくださる人々、出来事、物事、および環境から何らかの教訓を学ぶことができる」、ということを知るでしょう。従って、業務を行うにあたり、私たちにとって最も重要なことは、兄弟姉妹たちが神を知り、神の御心と要求を理解することを学ぶように指導し、神はどのような人を愛されるか、そしてどのような人を嫌われるかを理解させ、神の性質と神そのものに関する真の知識を修得させることであり、そうすることで彼らは神の御言葉を実践し、神に従い、神を崇拝できるようになるのです。これこそが人々を神の前に導くということであり、神を讃え、神の証言をしているということでもあるのです。

   しかし、もし私たちが自己顕示するため、および自らを褒め称えるために説教を説いて、自分たちのイメージを確立させることには集中しているが、真理を使用して問題を解決することができないという場合、私たちが主の御言葉を実践して主の道に従うよう人々を導くことができていない場合、そして私たちが人々を神の前に導き、神を尊敬させ、神を頼らせるために神を褒め称え、神の証言をするということをしていない場合、私たちの業務は実際に主に抵抗していることになり、私たちは反キリストが歩む道を歩んでいるということになります。聖書に記述されているパリサイ人のことを振り返ってみましょう。彼らは説教と働きを行う中で人間の習わしを遵守していましたが、神の戒めを捨て去り、神の道から逸脱していきました。加えて、彼らは頻繁に自分たちの証言を行って自らを褒め称えるような形で聖書の手紙と教義を解釈し、その結果、人々は誰もが彼らに耳を傾け、彼らに従い、神から離れ、神を裏切ったのです。主イエス様はこう仰りました:「そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、また、宴会の上座、会堂の上席を好み、広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。」(マタイによる福音書23:5-9). 主イエス様は私たちが唯一なる神のみを信仰し、崇拝することを要求されていることが分かります。従って、私たちはパリサイ人の業務を拒絶し、常に神を褒め称え、神の証言を行い、私たちの兄弟姉妹たちを神の前に導く必要があります。このような業務のみが神の御旨に沿った業務なのであります。

第4に、私たちは神の御心が妨害を受けることなく実行されることを保証するため、神の前では常に静まり、自らを省みて自己認識し、自らの罪や過ちを発見したら迅速に正すべきであります。

   私たちは、主のしもべとして、常に神の御前で生きる必要があります。私たちは神の御啓示と御指導を通じ、自分たちはサタンに堕落させられているという真理を見抜き、真理を持っていないことがどれだけ哀れで、悲惨なことであるかを認識し、自らの欠陥と不備をはっきりと知り、自己認識を得るべきであります。私たちはまだ完全にされていないため、自分たちの本分を十分な形で尽くすことができず、業務を行う上で逸脱したり罪を犯すのはとても普通なことです。私たちは自分たちの逸脱と罪を発見したら素早く神の前に行き、神の御言葉に従いながら敬虔な心と探求心をもって自らを細かく分析して省みるべきです。これと同時に、私たちは周りにいる兄弟姉妹たちと純粋かつ率直に会話をするために自らの面目、虚栄心、そして地位を脇に置き、真実を受け入れ、彼らから批評と指示を受け入れて過去の過ちを繰り返さないようにするべきなのです。こうしてのみ、私たちは神の御心が私たちの内で確実に実行されるようにすることができます。

   例えば、私たちは誰もが傲慢な性質を持ち、人々よりも高い地位にいることを楽しみ、常に働きや説教において自慢げに話しをして自己顕示し、人々に自分たちを尊敬させ、崇敬させようとします。この結果、兄弟姉妹たちは人間に耳を傾けることしか学ばず、遭遇すること全てにおいて人間に従うため、彼らの心には神が宿れる場所がありません。このような教会はとっくの昔に神の御導きを失っているので教会の働きは全てが混乱した状態にあり、何の結果も得られず、私たち自身も頻繁に壁にぶつかって失敗に苦しんでいます。この時、私たちは神の前で素早く静まり、自らを知るために自らの思考と考えを省みて、自分の言葉と振る舞いを知り、神の御言葉による裁きと刑罰、そして暴露と取り扱いを受け入れるべきなのです。これより、私たちは、「私たちは神に仕える機会を利用して自らを褒め称え、自らの証言をし、名誉と地位を手にするために自分たちの欲望を満たすことを追い求め、人々を私たちの前に導いている。私たちがやっていることは、人々を求めて神と争い、神の選ばれし人々を操って自分たちのものにするということであり、私たちは神が見下され、忌み嫌われる反キリストの道を歩んでいる。私たちは悔い改めなければ、神の性質を害し、神から罰を受けることになる」、ということが明白に分かります。私たちは、問題の深刻さを知った後すぐに悔い改め、神に告白し、肉に背くことを実践し、私たちの働きや説教において意識的に神を褒め称え、神の証言をし、忠実に業務をこなし、誠実に振る舞うべきであります。さらに、私たちは神と適切な関係を築くことに注意を払い、神の御心と任務を常時心に留め、神の御心が妨害されることなく実行されることを保証する目的でのみこの人生を生きるべきであります。このように誠実に悔い改めていれば、主は徐々に私たちが正しく業務を行う道を歩むよう導いてくださるでしょう。

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