賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神の働きの三段階のそれぞれの目的と意義 I

2020-01-31 10:32:16 | 天国への道

   関連する神の言葉

   ヤーウェがイスラエル人に行なった働きは、人類のあいだに神の地上における起源の場所を定め、それは神が臨在した聖なる場所でもあった。神はその働きをイスラエル人に限定した。当初、神はイスラエル外では働かず、代わりに、働きの範囲を限定するために、神が適切とみなした一民族を選んだ。イスラエルは神がアダムとエバを創造した場所であり、その場所の塵からヤーウェは人間を創造した。この場所は地上におけるヤーウェの働きの根拠となった。イスラエル人は、ノアの子孫であり、またアダムの子孫であるが、地上におけるヤーウェの働きの人間の基盤であった。

 

 

   その当時、イスラエルにおけるヤーウェの働きの意義、目的、段階は全地球上にて働きを始めることであった。それはイスラエルを中心としながら徐々に異邦人の国々に広まった。これが全宇宙にわたる神の働きの原則である。つまり、ある模範を確立し、それを宇宙のすべての人が神の福音を受け入れるまで広げるのである。最初のイスラエル人は、ノアの子孫であった。これらの人々はヤーウェの息だけを与えられ、生活の基本的な必要にそなえるに十分なだけ理解したが、ヤーウェがどのような神であるかや、ヤーウェの人間への心は知らず、ましてや天地創造の主をどのように崇めるべきかも知らなかった。従うべき規則や掟があったかということについて、また被創造物が創造主のために取り組むべき仕事があったかということについては、アダムの子孫たちはそのようなことは一切知らなかった。彼らが知っていたのは、夫は家族を養うために汗を流して労働しなければならず、妻は夫に従いヤーウェが創造した人類を永続させなければならないということだけであった。言い換えるなら、この人々は、ヤーウェの息と命だけをもっており、どのように神の掟に従うべきかや、どのように天地創造の主を満足させるべきかについては何も知らなかった。彼らはあまりに何も理解していなかった。そのため、たとえ彼らの心には一切ゆがんだものや騙そうとするものはなく、彼らのあいだには嫉妬や闘争心はめったに起こらなかったものの、天地創造の主であるヤーウェについては一切の認識も理解ももっていなかった。これら人間の祖先はヤーウェのものを食べ、ヤーウェのものを楽しむことは知っていたが、いかにヤーウェを畏れるべきかは知らなかった。彼らは、ヤーウェはひざまずいて礼拝すべき唯一の方であることを知らなかった。それではどうして彼らを神の被造物と呼ぶことができるのか。そうであれば、「ヤーウェは天地創造の主である」と「神は人間が神の証拠となり、神に栄光を与え、神を表すようにと人を創造した」という言葉は、無駄に語られたのではないだろうか。ヤーウェに畏敬の念をもたない人々がどうしてヤーウェの栄光の証しとなることができたのか。どうして彼らがヤーウェの栄光の証拠になれたのか。ヤーウェの「わたしはわたしに似せて人を創った」という言葉は、それでは邪悪な存在であるサタンの掌中において武器にならないだろうか。これらの言葉は、それではヤーウェによる人の創造への不名誉の印にならないだろうか。働きのその段階を完了するために、人類創造の後、ヤーウェはアダムの時からノアの時にかけては人類を教えたり、導いたりしなかった。それどころか、洪水が世界を破壊するまでは、ヤーウェはノアの、またアダムの子孫であるイスラエル人を正式に導き始めなかった。イスラエルにおけるヤーウェの働きと発言は、イスラエルのすべての人々がイスラエルの全土で生活するあいだに、彼らを導いた。このようにして、ヤーウェは人間が命をもち、塵から起き上がって被造物となるように人間に息を吹き込むことができるだけでなく、人類を焼いたり、人類を呪ったり、人類を支配するためにその杖を使うこともできることをヤーウェは人類に示した。それで、人間もヤーウェが地上での人の生活を導き、昼と夜の時間によって人類のもとで語り働くことができることを知った。ヤーウェがこの働きをしたのは、人はヤーウェがつまみあげた塵に由来し、さらに人はヤーウェにより創造されたことを被造物が知るためだけである。これだけではなく、ヤーウェがイスラエルで働きを始めたのは、他の民族と国々(実際には、イスラエルとは無関係ではなく、イスラエル人から枝分かれした、依然としてアダムとエバの子孫である)が、イスラエルからのヤーウェの福音を受け取り、宇宙の全被造物がヤーウェを畏れ、ヤーウェを偉大であると認識するようになるためである。ヤーウェがイスラエルで働きを開始せず、その代わりに人類を創造した後に彼らを地上にのんきに生きるままにさせていたなら、その場合、人間の肉体の本性(本性とは、人間は自分には見えないものは決して知ることができない、つまり、ヤーウェが人類を創造したことを人間は知らず、なぜ創造したかについてはさらに無知であることを意味する)のせいで、人間はヤーウェが人類を創造したことや、万物の主であることを知ることは決してなかっただろう。もしヤーウェが人間を創造し地上に置き、人類を指導するために一定期間を人類と一緒にいる代わりに、ただ手の塵を払ってそのままにしたならば、その場合、全人類は無に帰していただろう。ヤーウェが創造した天と地、あらゆるもの、そして全人類が無に帰し、さらにサタンに踏みつけにされていただろう。そのようになれば、「地上において、つまり、天地創造の中心には、ヤーウェは立つべき場所、聖なる場所をもたなければならない」というヤーウェの望みは打ち砕かれていただろう。だから、人類創造の後、ヤーウェが人間のもとにとどまり、人の生活において指導し、彼らの只中で話しかけることができたというのは、すべてヤーウェの望みをかなえ、その計画を達成するためであった。イスラエルにおいてヤーウェが行なった働きは、あらゆるものの創造の前に制定した計画を実行するためだけのものであった。したがって、ヤーウェのイスラエル人のあいだの最初の働きと万物の創造は、お互いに相容れないものではなく、両者はヤーウェの経営、働き、栄光のためであり、また人類創造の意味を深めるためのものであった。ヤーウェはノアの後に二千年のあいだ地上で人類の生活を導いた。このあいだ、ヤーウェは人類はどのように万物の主ヤーウェを畏れ、どのように生活を送り、どのように生き続けるべきか、そして何よりも、どのようにヤーウェの証人として行動し、ヤーウェに従い、ヤーウェを崇めるべきかを教え、それにはダビデがその祭司と行なったように音楽でヤーウェを讃美することさえ含まれていた

『言葉は肉において現れる』の「律法の時代における働き」より

   最初、旧約聖書の律法の時代に人間を導くのは、子どもの生活を導くようであった。原初の人類はヤーウェから生まれたばかりのイスラエルの民であった。彼らはいかに神を崇めるべきかも、いかに地上で生きるべきかも分からなかった。言うなれば、ヤーウェは人類を創造したが、つまりアダムとエバを造ったが、ヤーウェをいかに崇めるかや、地上でのヤーウェの掟をいかに守るかを理解するための能力を人類に与えなかったのである。ヤーウェからの直接の導きなしには、誰もこのようなことを直接に知ることはできなかった。初めのうち人間はそのような能力をもっていなかったからである。人間はヤーウェが神であるということだけを知っており、いかに神を崇めるべきか、神を崇めるために何をするべきか、どのような心で神を崇めるべきか、神への畏敬のしるしとして何を捧げるべきかをまったく知らなかった。人間は、ヤーウェが創造した万物のなかで楽しめるものをいかに楽しむかということしか知らなかった。どのような地上での生活が神の被造物の生活としてふさわしいかということについて、人間は少しも知らなかった。指導なしには、直接導いてくれる誰かなしには、このような人間は決してちゃんとした生活をおくることはできず、密かにサタンの虜になることしかできなかった。ヤーウェは人類を創造したが、つまり人類の祖先であるエバとアダムを造ったが、それ以上に彼らに知性や知恵を与えなかった。彼らはすでに地上で暮らしていたが、ほとんど何も理解していなかった。そのためヤーウェの人類創造の働きは半分完了しただけで、決して完了していなかった。ヤーウェは土で人間の雛形を形作り、それに息を吹き入れただけで、人間に神を崇めようという十分な意欲を与えなかった。初めのうち、人間は神を崇めたり畏れたりする心をもたなかった。人間は神の言葉に耳を傾けることを知っていただけで、地上における生活についての基本的知識や適切な生活の規則に関しては無知であった。このようなわけで、ヤーウェは男と女を造り七日間の作業を終えたものの、人間をすっかり完成させなかった。人間は殻でしかなく、本当にひとりの人ではなかったからである。人は人類を創造したのはヤーウェだということだけを知っていたが、ヤーウェの言葉と律法にいかに従うべきかについては何も知らなかった。だから人類創造の後も、ヤーウェの働きは決して完成といえるようなものではなかった。ヤーウェはまた、人々が地上で共に暮らしヤーウェを崇めることができるように、ヤーウェに導かれた後、人々が地上における適切な人間としての生活をおくるための正しい道程に入れるように、ヤーウェの面前にて人間をしっかりと導かなければならなかった。これがなされて初めて、主にヤーウェの名の下で行なわれた働きはすっかり完成された。つまり、そうなって初めてヤーウェの世界創造の働きが完全に完了したのである。このように、ヤーウェが人類を創造して以来、人類がヤーウェの命令と律法に従い、地上における人間として適切な生活のあらゆる活動に携わることができるように、ヤーウェは人類の地上における生活を何千年間も導かねばならなかった。これで初めてヤーウェの働きはすっかり完成した。ヤーウェはこの働きを人類を創造した後に開始し、この働きはヤコブの時代まで、ヤコブの十二人の息子たちがイスラエルの十二部族になるまで続いた。それ以降は、イスラエルのすべての人が地上で正式にヤーウェに導かれる民となり、イスラエルは神がその働きを行なう地上における特別な場所となった。ヤーウェはこれらの人々を地上での正式な働きをそのあいだで行なった最初の集団とし、イスラエルの全土をヤーウェの働きの起点とした。ヤーウェはイスラエルの人々をさらに偉大な働きの先駆けとして用いたのは、ヤーウェから生まれた地上のすべての人々がいかにヤーウェを崇め、いかに地上で生きるべきかを知るようになるためであった。このように、イスラエルの人々の行いは、異邦人が後に続くべき模範となり、イスラエルの人々のあいだで語られたことは、異邦人に聞かれるべき言葉となった。イスラエルの人々はヤーウェの律法と掟を受け取った最初の民であり、ヤーウェのさまざまなあり方をいかに崇めるべきかを最初に知った民であったからである。イスラエルの人々はヤーウェのあり方を知っていた人類の祖先であり、ヤーウェに選ばれた人間の代表であった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

   律法の時代における規則と原則を皆が読んだと思う。これらの規則の対象は広範囲に及ぶだろうか。まず十戒が言及され、続いて祭壇の建て方などが言及されている。その後安息日を守り3つの祭りを執り行うことが続き、そして捧げ物に関する規則と続く。何種類の捧げ物があるか分かっただろうか。全焼のいけにえ、穀物の捧げ物、和解の捧げ物、罪のいけにえなどがある。その後、祭司によるいけにえの規則が続き、その中には祭司による全焼のいけにえと穀物の捧げ物などが含まれる。8つめの規則は祭司が捧げ物を食べることに関するものである。続いて人生において守るべき規則が示されている。人生の多方面における規定があるが、その中には食べてよい物と食べてはならない物、出産後の女性の清め、ツァラトが癒やされた者に関する規定などが含まれる。これらの規則の中で、神は病に関しても語っており、羊や牛の屠り方などにまで及ぶ。羊や牛は神の被造物であり、神の指示通りに屠らなければならない。神の言葉には間違いなく根拠があり、神の命じた通りに行なうことが正しいことは間違いなく、人間にとっても必ず益となるのである。安息日、過越の祭りなど、執り行うべき祝祭と規則に関しても、神は語っている。最後に書かれている規則、その他の規則を検討する。ともし火、ヨベルの年、土地の贖い、誓願、十分の一献金などである。これらの規則は広い範囲に及んでいるだろうか。まずは人々の捧げ物に関して、それに続いて盗みと償い、そして安息日を守ることに関して、と続き、生活の細部にわたっている。つまり、神が自身の経営(救いの)計画を正式に始めた時、人間が従うべき多くの規則を神は設定した。それは、人間が神とそして神の導きと一体となって普通の生活を送ることができるように定められたのである。神は最初に、どのように祭壇を建てるか、それをどのように整えるかを指示した。その後神は、人間に捧げ物を捧げるように指示し、人間がどのように生きるべきかを明確にした。つまり、人間が生きる中で何に注意を払い、何に従い、何をすべきで何をすべきでないかを示したのである。神が人間のために定めたものは包括的で、それらの習慣、規則、原則により神は人間の振る舞い方に基準を設け、人間の生活を導き、どのように神の律法に従うかを示し、そして神の祭壇の前に人間が出ることを教え、人間のために神が造った、全ての秩序と節度あるものの中でどのように生きるべきかを示した。神はまずこれらの簡単な規則と原則を用いて人間に様々な制限を与え、そうすることで地上にあって人間が神を礼拝する正常な生活を送るようにし、正常な人間の生活を送るようにした。それが神の6千年に亘る経営(救いの)計画の始まりの具体的な内容である。それらの規則や決まりは多岐にわたり、律法の時代の人間に対する神からの具体的な導きであった。また、律法の時代までの人間が受け入れ、尊重すべきものであり、律法の時代に神が行なった業の記録であり、神の指導力と人間に対する導きの確かな証拠である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

   初期の人間は何も知らなかったため、言葉によるこのような規則や決まりにより、神はまず人間が生きるためのごく表面的で基本的な原則を教え、生きるために必要な規則を教え、それを人間の心に少しずつ沁み込ませ、徐々に神を理解させ、徐々に神の指導力を認識させ理解させ、神と人間の関係の基本的理念を理解させなければならなかった。これらの事が効果を発して初めて、神は徐々に自身がその後すべき業をなすことができる。従って、律法の時代のこれらの規則と神の業は、神が人間を救う働きのための基盤であり、神の経営(救いの)計画の働きの第一段階である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

   律法の時代に、ヤーウェは多くの戒めを定め、モーセに従ってエジプトを脱出したイスラエル人にモーセが伝えるようにした。それらの戒めはヤーウェがイスラエル人に与えたものであり、エジプト人には一切の関係がなかった。それらはイスラエル人を制するためであった。ヤーウェは戒めによりイスラエル人に要求した。彼らが安息日を守ったか、両親を敬ったか、偶像を崇拝したかなどが、イスラエル人が罪深いか義であるかを判断する原則であった。イスラエル人の中には、ヤーウェの火で打ちのめされた者、石を投げられ殺された者、ヤーウェの祝福を受けた者がおり、これは戒めを守ったか否かによって決められた。安息日を守らなかった者は、石を投げられ殺された。安息日を守らなかった祭司はヤーウェの火で打ちのめされた。両親を敬わなかった者もまた石を投げられ殺された。これはすべてヤーウェに称賛されたことであった。ヤーウェは戒めと律法を定め、それにより、イスラエル人を生活において導きながら、彼らがヤーウェの言葉を聞き、従うように、ヤーウェに反抗することのないようにした。ヤーウェはこれらの律法を用いて生まれたばかりの人類を制御し、それはヤーウェの働きの基礎を築くのに有益であった。そのため、ヤーウェが行った働きにもとづいて、最初の時代は律法の時代と呼ばれた。ヤーウェは多くの発言をし、かなりの働きをしたものの、それらの無知な人々にどのように人間になるべきか、どのように生きるべきか、どのようにヤーウェの道を理解するべきかを教え、人々を前向きに導いただけであった。ヤーウェが行なった働きの大部分は、人々がヤーウェの道を守り、ヤーウェの律法に従うようになるためであった。働きは表面的に堕落した人々になされた。それは人々の性質を変化させることや、いのちの進歩には達しなかった。ヤーウェは人々を制御し支配するために律法を用いることだけに関心があった。当時のイスラエル人にとって、ヤーウェは神殿にいる神、天にいる神でしかなかった。ヤーウェは雲の柱で、火の柱であった。ヤーウェが人々に求めたのは、今日の人々がヤーウェの律法や戒めとして知っていること、規則とさえ呼ぶことのできるものに従うことだけであった。なぜなら、ヤーウェがしたことには人々を変えようとする意図はなく、人々がもつべきものをさらに与え、ヤーウェの口から指導するためであったからである。それは、創造された後に人間は、もつべきものを何ももっていなかったからである。それゆえヤーウェは地上での生活のために人々がもつべきものを与え、ヤーウェが導いてきた人々にその先祖であるアダムとエバを超えさせた。ヤーウェが彼らに与えたものは、最初にヤーウェがアダムとエバに与えたものを超えていたからである。それにもかかわらず、ヤーウェがイスラエルで行なった働きは、人類を導き、人類にその創造主を認識させることだけであった。ヤーウェは人々を征服したり、変えたりせず、ただ導いたにすぎない。これが、律法の時代におけるヤーウェの働きの全体である。これがイスラエル全土におけるヤーウェの働きの背景であり、真実の物語であり、本質であり、神の六千年にわたる働きの始まりであり、これはつまり人類をヤーウェによる制御の下に留めるためである。ここから神の六千年の経営(救いの)計画におけるさらなる働きが生れたのである。

『言葉は肉において現れる』の「律法の時代における働き」より

   律法の時代に、人類を導く働きはヤーウェの名によってなされた。そして第一段階の働きは地上で実行された。この段階の働きは神殿と祭壇を建てることで、律法を用いてイスラエルの人々を導き、彼らの間で働くことであった。イスラエルの人々を導くことによって、神は地上での働きの拠点を築いた。この拠点から、神はその働きをイスラエルを越えて拡張した。すなわち、イスラエルから開始して、神はその働きを外に向けて拡張した。それにより、後の世代が、次第にヤーウェが神であること、ヤーウェが天と地とすべてのものを創造し、すべての被造物を造ったことを知るようになった。神はイスラエルの人々を通してその働きを広めた。イスラエルの地は地上におけるヤーウェの働きの最初の聖なる地で、地上における神の最も初期の働きは、イスラエル全土でなされた。それが律法の時代の働きであった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

(2)恵みの時代における神の働きの目的と意義

   参考聖書箇所

   「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」(ヨハネによる福音書 3:17)

   関連する神の言葉

   イエスは恵みの時代におけるすべての働きを表した。イエスは受肉し、十字架につけられ、恵みの時代を開始した。イエスは贖いの働きを完成させ、律法の時代を終了させ、恵みの時代を開始するために十字架にかけられ、そのため「最高司令官」「罪のいけにえ」「贖い主」と呼ばれた。したがって、イエスの働きはヤーウェの働きと中身は異なっていたけれども、原則においては同じである。ヤーウェは律法の時代を開始し、地上における神の働きの拠点、発祥地を定め、戒めを発した。これらが神が行なった二つの働きであり、それは律法の時代を代表する。イエスが恵みの時代に行なった働きは戒めを発することではなく、それらを成就し、それによって恵みの時代が到来したことを告げ、二千年続いた律法の時代を終結させることであった。イエスは恵みの時代をもたらすために来た先駆者であったが、その働きの中心は贖いであった。よってイエスの働きもまた二つの部分から成る。それらは新しい時代を切り開くこと、そして十字架刑を通して贖いの働きを完成させることである。その後、イエスは去った。その時点で律法の時代は終わりを告げ、人類は恵みの時代に入った。

   イエスの働きは、その時代における人の必要性に応じて行われた。その務めは人間を贖い、その罪を赦すことであるがゆえに、イエスの性質は全体が謙遜、忍耐、愛、敬虔、寛容、憐れみ、慈しみであった。イエスは人間に豊かな祝福と恵みをもたらし、平和、喜び、イエスの寛容と愛、その憐れみと慈しみといった人々が享受することのできるあらゆるものをもたらした。その当時、人が受け取ったあふれんばかりの楽しむことがら、すなわち心の平安と安心、霊の慰め、救い主イエスによる支え、これらのものは、人の生きた時代ゆえにもたらされたのである。恵みの時代、人はすでにサタンにより堕落させられていたので、すべての人を贖う働きを完遂するためには、満ちあふれる恵み、限りない寛容と忍耐、そしてさらに、人間の罪を贖うのに十分な捧げ物が必要であった。恵みの時代に人々が見たのは、人間の罪のためのわたしの捧げ物であるイエスに過ぎなかった。人々は神は憐れみ深く寛容であり得ることだけしか知らず、イエスの慈しみと憐れみしか見なかった。それはひとえに、彼らが恵みの時代に生まれたからである。そのようなわけで、贖われる前に人々はイエスが彼らに授けるさまざまな恵みを楽しみ、その恩恵を受けなければならなかった。それにより、彼らは恵みを享受することでその罪を赦されることができ、イエスの寛容と忍耐を享受することで贖われる機会を得ることができた。イエスの寛容と忍耐を通してのみ、彼らは赦しを受け、イエスが授けるあふれる恵みを楽しむ権利を手にすることができた。それはイエスが、「わたしは義人ではなく罪人を贖い、罪人がその罪を赦されるようにするためにきたのである」と言ったとおりであった。もしイエスが裁きと呪い、人間の過ちに対する不寛容の性質を持って受肉していたなら、人には決して贖われる機会はなく、永遠に罪深いままでいたことであろう。もしそうなっていたなら、六千年の経営(救いの)計画は律法の時代で止まり、律法の時代は六千年間続いていたであろう。人の罪は数が増し、よりひどいものとなり、人間の創造は無価値なものとなっていたであろう。人は律法のもとでのみヤーウェに仕えることができたではあろうが、彼らの罪は最初に創造された人間の罪をも上回るものとなっていたであろう。イエスが人類を愛し、その罪を赦し、十分な慈しみと憐れみを与えれば与えるほど、人類はイエスにより救われ、イエスが大きな代価で買い戻した迷える子羊と呼ばれる資格があった。イエスは自分の追随者をあたかも母親が我が子を腕のなかであやすように取り扱ったので、サタンはこの働きに干渉することができなかった。イエスは人々に対して腹を立てたり嫌ったりせず、慰めに満ちていた。人々とともにいても激怒するようなことは決してなく、「七の七十倍までも相手を赦しなさい」と言うほどまでに罪に寛容で、人々の愚かさと無知を見逃した。そのようにしてイエスの心は他者の心を変容させ、それゆえに人々はイエスの寛容を通して赦しを受けた。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より

   受肉したイエスには全く感情がなかったが、常にその弟子たちを慰め、施し、助け、支えた。どれほどの働きをしても、どれほどの苦しみを耐えても、決して人々に過大な要求を課すことなく、常に忍耐強く、彼らの罪を耐え忍んだ。そのため恵みの時代の人々はイエスを「愛すべき救い主イエス」と愛情をを込めて呼んだ。当時の人々、すべての人々にとって、イエスが持っているものとイエスであるものは、慈しみと憐れみであった。イエスは決して人々の過ちを心に留めず、人々への接し方がその過ちをもとにするようなことは決してなかった。それは異なる時代だったため、イエスはよく食べ物をたっぷり人々に与え、彼らが十分食べられるようにした。イエスは追随者すべてに優しく接し、病人をいやし、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせた。人々がイエスを信じ、その行いすべてが真剣かつ真心からのものであることが分かるように、腐った死体をよみがえらせることさえして、その手の中では死人さえも生き返ることを彼らに示した。このようにしてイエスは人々のあいだで静かに耐え忍び、その贖いの働きを行なった。十字架につけられる前でさえ、イエスはすでに人間の罪を負い、人類のための罪の捧げ物となっていた。十字架につけられる前から、イエスは人類を贖うために十字架への道をすでに開いていた。ついに十字架で釘づけにされ、十字架のために自分自身を犠牲として捧げ、そのすべての慈しみ、憐れみ、そして聖さを人類に授けた。人々にはイエスは常に寛容であり、決して復讐を求めず、人々の罪を赦し、人々に悔い改めるよう勧め、忍耐、寛容、愛を持ち、自らの足跡に従い、十字架のゆえに自分自身を捧げるよう教えた。イエスの兄弟姉妹への愛は、マリアへの愛に勝るものだった。イエスの働きの原則は、病人をいやし、悪霊を追い出すことであり、それらはすべてその贖いのためであった。どこへ行っても、イエスは従ってくる人すべてに思いやりを持って接した。貧しい者を豊かにし、足の不自由な人を歩けるようにし、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにした。身分が一番低かった人々や乏しい人々、罪人さえ招いて共に食卓につき、彼らを遠ざけることなく常に忍耐強く、「羊飼いが羊を百匹持っていて、その一匹が迷ったとすれば、九十九匹を残しておいて、迷った一匹を捜しに行く。そしてそれを見つけたら、大いに喜ぶだろう」とさえ言った。イエスは雌羊がその子羊を愛するように、その追随者を愛した。彼らは愚かしく無知で、イエスの目には罪人であり、さらには社会において最も身分の低い者であったにもかかわらず、イエスは他の人々からさげすまれていたこれらの罪人を目に入れても痛くないほど大切なものとして見た。彼らへの好意ゆえに、イエスは祭壇に捧げられる子羊のように、彼らのためにその命を捨てた。彼らのもとではしもべのようにふるまい、利用され、なぶり殺されるままにし、無条件に彼らに服従した。追随者にとってはイエスは愛すべき救い主であったが、上座から人々に説教したパリサイ人に対しては、イエスは慈しみや憐れみではなく、嫌悪と怒りを示した。イエスはパリサイ人のあいだではあまり働くことはなく、ごくまれに彼らに教えを説き叱責したが、彼らのもとで贖いの働きを行なうことはなく、しるしや奇跡を行うこともなかった。イエスはその慈しみと憐れみを追随者に与え、これら罪人たちのために十字架に釘づけられた最後の最後まで耐え忍び、ありとあらゆる屈辱に耐え、ついにすべての人間を完全に贖った。これがイエスの働きの全体である。

   イエスの贖いがなければ、人類は永遠に罪の中に生き、罪の子、悪魔の子孫となっていたはずである。この状態が続けば、地上全体がサタンの住む地、その住まいとなっていたであろう。しかしこの贖いの働きは人類への慈しみと憐れみを示すことを必要とした。そのような手段によってのみ、人類は赦しを受け、ついに全き者とされ、神に完全に得られる資格を得ることができた。この働きの段階がなければ、六千年の経営(救いの)計画は前に進むことはできなかっただろう。もしイエスが十字架にかけられることなく、ただ病人をいやし、悪霊を追い出しただけだったなら、人々はその罪を完全に赦されることはなかったであろう。イエスが地上で働きをなした三年半のあいだ、イエスはその贖いの働きを半分完成させただけであり、十字架に釘づけにされ、罪深い肉の姿となり、悪しき者に引き渡されることによってのみ、イエスは十字架での働きを完成させ、人間の運命を掌握した。サタンの手に引き渡されて初めて、イエスは人類を贖った。三十三年半のあいだイエスは地上で苦しみ、あざけられ、中傷され、見捨てられ、まくらする場所や休む場所さえないほどにまで放置され、その後十字架につけられ、聖なる罪のない体であるイエスの存在全体が十字架で釘づけにされた。イエスはあらゆる苦しみに耐えた。権力者たちはイエスをあざ笑い、むち打ち、兵士たちはその顔に唾を吐きさえした。それでもイエスは黙ったまま最後まで耐え忍び、死にいたるまで無条件に従い、そこですべての人間を贖った。そのとき初めてイエスは安息することができた。イエスが行なった働きは、恵みの時代のみを表すものであり、律法の時代を表すものではなく、また終わりの日々の働きに代わるものでもない。これが人類にとっての第二の時代である贖いの時代という、恵みの時代におけるイエスの働きの本質である。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より

   恵みの時代、イエスはすべての堕落した人類(イスラエル人だけではない)を罪から救うために現れた。イエスは人に慈愛と憐れみを示した。恵みの時代に人が見たイエスは憐れみに満ちており、いつも愛情にあふれていた。というのは、イエスは人を罪から救い出すために来たからである。イエスは磔刑を受け、本当に人類を罪から救い出すまで人の罪を許すことができた。その間、神は人の前に慈愛と憐れみを持って現れた。すなわち、イエスは人のために罪の生け贄になり、人が永久に許されるように人の罪のため磔刑にされた。イエスは慈悲深く、憐れみ深く、我慢強く、愛情があった。恵みの時代にイエスに従ったすべての人々も、あらゆることにおいて我慢強く、愛情深くあろうとした。彼らはすべての苦しみに耐え、たとえ叩かれても、罵られても、石を投げつけられても、決して反撃しなかった。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より

   イエスが現れたとき、イエスは神の役割も実行した。そして、いくつかの言葉を話した。しかし、イエスが成し遂げた主な働きは何だったろうか。イエスが主として成し遂げたことは、磔の働きであった。イエスは、磔の働きを完成し全人類を贖うために罪深い肉の似姿になった。そしてイエスが罪の贖いの供え物となったのは、全人類の罪のためであった。これが、イエスが成し遂げた主な働きであった。最終的に、イエスは、後から来るひとたちを導くために、十字架の道を与えた。イエスが現れたとき、それは主として、贖いの働きを完了するためであった。イエスは全人類を罪から救い、天の国の福音を人にもたらし、そして天の国へ至る道をもたらした。その結果、やってきた人たちは皆こう言った。「我々は十字架の道を歩くべきだ。そして十字架のために、我々自身を犠牲にすべきだ」。もちろん、最初イエスは、人に悔い改めさせ罪を告白させるために、他の働きもいくつか行い、多少の言葉も語った。しかし、彼の本来の役割はやはり、磔であった。そしてイエスが道を説きながら費やしたあの3年半は、その後にやってきた磔に向けての期間であった。イエスが祈った何回かは磔のためでもあった。イエスが暮らした一人の普通の人としての人生や、地上で彼が生きた33年半は、主として、磔という働きを完成するためであった。そしてこの働きに取り組む力をイエスに与え、その結果として神はイエスに磔という働きを託した。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

   恵みの時代の働きでは、イエスが人を救う神であった。神がもつもの、神であるものは恵み、愛、憐れみ、慎み、忍耐、謙遜、思いやり、寛容であり、イエスが行った働きの多くは人の贖いであった。神の性質に関して言えば、それは憐れみと愛であった。そして神は憐れみ深くいつくしみ深かったので、人間のために十字架に釘づけにされなければならなかった。そうすることで神は自身の全てを犠牲にするほど人類を自身のように愛していることを示した。サタンは「人間を愛しているのだから、極限まで人間を愛さなければならない。人間を十字架から、罪から解放するためにあなたは十字架に釘打たれなければならない。人類すべての代わりにあなた自身を捧げてもらおう」と言った。サタンは以下のようにもちかけた。「あなたは愛にあふれ憐れみ深い神なのだから、極限まで人間を愛さなければならない。十字架にあなた自身を捧げなければならない。」イエスは「人間のためである限り、わたしのすべてを喜んで犠牲にしよう」と言った。その後イエスは躊躇することなく十字架にかけられ、人類全体を贖った。恵みの時代には、神の名はイエスであり、それは神が人類を救う神であり、神は憐れみ深く、いつくしみ深いという意味である。神は人と共にいた。神の愛、神の憐れみ、そして神の救いはひとりひとりに伴っていた。もし人がイエスの名を受け入れ、神の存在を受け入れるなら、人は平安と喜びを得ることができ、神の祝福、いくつもの大いなる恵みを受け、救いを受け取ることができる。イエスの十字架刑を通して、イエスに従うすべての人たちは救いを受け、その罪が赦された。恵みの時代には、神の名はイエスであった。すなわち、恵みの時代の働きはおもにイエスの名の下でなされた。恵みの時代には、神はイエスと呼ばれた。イエスは旧約聖書を越えて新しい働きを行い、イエスの働きは十字架刑で終わり、それがイエスの働きのすべてであった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

   イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より

   (3)神の国の時代における神の働きの目的と意義

   関連する神の言葉

   イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

   終わりの日の働きは言葉を語ることである。大きな変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

   終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理を以てもって裁きの働きを行う」より

   神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

   キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理を以てもって裁きの働きを行う」より

   人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精錬し、裁き、明らかにする言葉をもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

   神は裁きと刑罰の働きを行うが、それは人が神についての認識を得られるようにであり、また神の証しのためである。人の堕落した性質を神が裁くことなしには、犯すことを許さない神の義なる性質を人は知ることはできず、神についての古い認識を新しいものに変えることもできない。神の証しのため、そして神の経営(救い)のため、神はそのすべてを公けにし、そうすることで、神の公的な出現を通して、人は神についての認識に到達することができ、その性質において変えられ、神のはっきりとした証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、さまざまな種類の神の働きを通して成し遂げられる。このような性質の変化なしには、人は神の証しを立てることはできず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化とは、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本であり標本、神の証人、神の心にかなう者になったことを意味する。今日、受肉した神がその働きを地上で行なうために来たが、神は人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなること、すなわち、神の実際的で正常な働きを知り、人の観念とは合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと、また神が人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをたてること、を要求している。神を証す人々は神の認識をもたなければならない。この種の証しのみが正確であり現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入りらせることができる。神の裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を、神はその証人として用いる。神はサタンにより堕落させられた人々をその証人として用い、また性質が変わり、それにより神の祝福を得た人々をその証人として用いる。神は口先で賞賛するための人を必要とせず、神に救われていないサタンの種類の称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しを立てる資格があり、性質において変革させられた人々だけが神への証しとなる資格がある。神は人が意図的に神の名に恥をもたらすことを許さない。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが神に証しを立てることができる」より

   神の国の時代には、肉となった神は、神を信ずるすべての人たちを征服するために、言葉を用いる。これが、「言葉が肉において現れる」ということである。神は、この働きをするために終わりの日にやって来た。つまり、神は、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためにやって来た。神は言葉を話すだけであり、事実の到来は稀である。これがまさに、言葉が肉において現れることの実体である。そして肉となった神が自身の言葉を話すとき、これが肉における言葉の出現であり、肉へ入り来る言葉である。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉となった。」このこと(言葉が肉において現れるという働き)が、終わりの日に神が成し遂げるだろう働きであり、自身の全経営計画の最終章である。したがって、神は地上に来て、肉の中で自身の言葉を表さなければならない。今日行われること、未来において行われるであろうこと、神によって成し遂げられるであろうこと、人の終着点、救われるであろう人々、滅ぼされるであろう人々、等々、最後に成し遂げられるべきこのような働きはすべて、明確に述べられてきた。そしてこれらはすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げることを目的にしている。かつて発行された行政命令や憲法、滅ぼされるであろう人々、安息へ入るであろう人々、これらの言葉はすべて成就されなければならない。これが主として、終わりの日を通じて、肉となった神によって成し遂げられた働きである。神は、神によって運命づけられた人々はどこに属し、運命づけられない人々はどこに属するか、神の民や息子たちはどのように分類されるか、イスラエルに何が起こるだろうか、エジプトに何が起こるだろうかを人々に理解させる。未来には、これらの言葉のすべてが成し遂げられる。神の働きの歩みは加速している。神は、あらゆる時代に何がなされるべきか、終わりの日の肉となった神によって何が行われるよう予定されているか、そして行われるべき神の働きが何であるかを、人に明らかにするための手段として言葉を用いる。これらの言葉はすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためのものである。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

   神の国の時代に神は言葉を使い、新たな時代の到来を知らせ、神の働きの方法を変え、その時代全体の働きを行なう。これが言葉の時代において神が働く原則である。神は異なる視点から語るために肉となり、肉に現れる言葉である神、神の知恵と驚くべき素晴らしさを人間が本当に見ることができるようにした。このような働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰する目的をよりよく達成するために行なわれる。これが言葉の時代において働くために言葉を使うことの真の意味である。言葉をとおして、神の働き、神の性質、人間の本質、人間が何に入っていくべきかを人間は知るようになる。言葉をとおして、言葉の時代に神が行ないたい働きはその全体が結実される。言葉をとおして、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉の存在に気づいた。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、また神の人間への愛と人間を救う願望を信じる。「言葉」という語句は単純でごく普通であるが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがせる。それは人間の心、観念、古い性質、世界全体が以前にはどのように表れていたかを変革する。時代をとおして、今日の神だけがこのような働き方をし、今日の神だけがそのように語り、そのように人間を救いに来る。それ以降は、人間は言葉の導きの下に生き、言葉により牧され、施しを受ける。全人類は言葉の世界に、神の言葉の呪いと祝福の内に生きるようになった。そして言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになったさらに多くの人間がいる。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、過去の創造における世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、宇宙の人間を言葉をもって導き、言葉をもって征服し救う。ついに、神は言葉を使って古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営(救いの)計画がくまなく完了する。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代である」より

   終わりの日において、神は人を完全にするのに、主として言葉を用いる。神は、人に圧力をかけたり人を確信させたりするのに、しるしや不思議を用いない。それは、神の力を明らかにしない。もし神がしるしや不思議を示すだけならば、神の実在性を明らかにすることは不可能だろう。したがって、人を完全にすることも不可能だろう。神は、しるしや不思議によって人を完全にせず、人を潤し牧養するのに言葉を用いる。そしてその後で人は、完全な従順と神についての認識を達成することができる。これが、神が行う働きと神が話す言葉の目的である。神は、人を完全にするのにしるしや不思議を示すという方法を用いない。神は言葉を用い、多くの異なる働きの方法を用いて人を完全にする。それが精錬であろうと、取り扱い、刈り込み、あるいは言葉の施しであろうと、神は、人を完全にするために、人に神の働き、神の知恵や驚くべき力についてのより大きな認識を与えるために、多くの異なる観点から話す。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より


罪の赦しについて、私は新しい解読がある

2019-12-31 12:11:39 | 天国への道

2018年8月5日(日)曇り

   今日、集会の後、ある兄弟が心配そうな顔で私の所にやってきた。彼は「神は人々に聖なる人となることを求められますが、私は無意識のうちに罪を犯してしまいます。いつもこのように罪を犯しながら生きていたら、私は主が来られる時に天国に入れるのでしょうか?」と言った。私は「主イエス様は十字架に磔られ、私たち全員の罪を負って、その命を犠牲にされ、私たちの罪は、私たちの主イエス様への信仰によって許され、主はもはや私たちのことを罪人としては見ておられず、私たちは主のために全てを捨て、労力を費やし、一生懸命に働き、最後まで耐えしのいでさえいれば、主が再臨される時に天国に携挙される」と彼に伝えた。私がこう言うのを聞いた後、兄弟はまるで私の言葉が期待外れだったような表情で、少しがっかりして去って行った。彼が歩き去る様子を見て、私はとても複雑な気分になった。正直なところ、私もこの兄弟と同じことを心配していたんじゃないのか? 長年に渡って主を信仰していながら、頻繁に罪に束縛され、昼に罪を犯して夜にそれを告白するという状態の中で生きてきたことを考えて、そのような生活を続けたくはないと思った。しかし、私には本当に罪を打破することができなかった。それで、頻繁に主に祈りを捧げ、もっと熱心に聖書を読むようにした。でも、罪の問題を本当に解決することはできなかった。主は聖なる御方なのに、罪で満ちた私のような人を褒めてくださるのだろうか?

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2018年8月7日 (火) 曇り

   今日は妻とつまらない事で喧嘩をして、自責の念にかられ、苦しんでいる。どうして過去と同じ過ちを繰り返してしまうんだろう?今晩、主に祈りを捧げながら涙を流し自分の罪を告白したが、祈りの後もまだ動揺していた。主のこの教えについて考えた。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」。(マタイ福音書22章37―39)この御言葉は第一に心と精神をつくして神を愛するよう私たちに教えており、第二に私たちは自分を愛するように他人を愛するべきだと言っている。兄弟姉妹たちはお互いに励まし合い、寛容で忍耐強くあり、安楽と慰めを与え合わなければならない。これは私たちがクリスチャンとして行うべきことであり、こうしてのみ、私たちは主を讃えて主の証を立てる生活を送ることができる。でも今まで主を信仰してきた年月において、私はこのいずれの要件も満たせていない。家にいる時、妻と私は些細なことでときどき喧嘩をしてしまう。教会にいる時、兄弟姉妹たちに恥じをかくような事を言われると、彼らに対して偏見をもってしまい、無視してしまうことすらある。大抵の場合、主を愛したいと言って祈りを捧げてはいるものの、家で何か不愉快なことが起ったり、何かのアクシデントが起こると「主のために労力を費やしているのに、どうして主は私を守ってくれないんだ?」と思って、やっぱり主を誤解し、非難してしまう。あぁ、私がすることで主の御要求を満たすことや、主の御心に適うものは何もない。頻繁に主に祈りを捧げるものの、依然としてしょっちゅう罪を犯し、どれだけコントロールしたいと思ってもそうできない。よくこう考える。「主への信仰によって私の罪は許されたものの、未だに罪を犯して神を怒らせてしまう。こんなことを続けていて、私は主が来られる時に天国に入れるのだろうか?どうすれば、罪を犯すことを止められるんだ?」

   最近、頻繁に聖書を読み、何度も牧師と長老の意見を求めたが、満足のいく答えは全く得られなかった。この問題は私が天国に入れるかどうかという重大な事柄に直接関連しており、どうしても忘れてしまうわけにはいかない。主はこう仰った。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ福音書7:7)探求する心を持っている限り、主が必ず私をお啓きくださると信じている。

 

 

2018年8月12日 (日)本曇り

   今朝、熱心に主に祈りを捧げた後、普段通りに聖書を開いてディボーションを始めた。その時、ヨハネの黙示録のこの節を読んで心を動かされた。「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」(ヨハネ黙示録21:27)聖書は、清められていない人たちはその中に入れないと聖書は明確に言っている。この「その」というのは天国のことではないのか?次にマタイによる福音書7:21を読んだ。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」また、ヨハネによる福音書8:34-35にはこうある。「イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」これらの聖句について熟慮しながら、自分は長年における主への信仰生活において、毎日のように主に祈り、聖書を読み、そして頻繁に福音を伝道し、働き、主のために物事をあきらめて自身を捧げてきたにも関わらず、依然として承知の上で罪を犯し、罪を犯してはそれを告白し、さらに主の教えを守ることも、主の求めることを実践することもできていないと思った。私は明らかに天の父の御心を行う人ではないし、まして清められた人でもない。それでも私は天国に入れるんだろうか?天国は神の御国であり、神は聖なる御方だ。そうなら、汚れにまみれて罪を犯してばかりいる人がどうやって天国に入って神と共に生きる資格を得られるというんだ?天国に入るのは想像していたほど単純なことではないようだ!

2018年8月13日 (月) 曇りのち晴れ

   今日、ヂェン兄弟にばったり会った。彼とは長い間顔を合わせていなかったので、会えてとても嬉しかった。彼と話している最中、ずっと頭を悩ませている事柄を持ち出した。話の後、ヂェン兄弟はこんなふうに話してくれた。「人間の罪は主イエス様が十字架に磔られた時に許されており、私たちが主を信仰すると、私たちの罪は許され、私たちは救われます。しかし、罪が許されるとは正確にはどういう意味なのでしょうか?これについて理解できれば、私たちが主への信仰を始めて、罪を許された後も罪を犯し続けてしまう理由が分かると思います。私たちが天国に入れるかどうかということについては、先ず初めに主イエスの出現と働きの背景を見る必要があります。律法の時代末期に、人間はサタンによってどんどん堕落させられ、さらに罪を犯すようになっていました。その状態はあまりにも酷く、もはや彼らの罪を償うに十分な罪の捧げものは残っておらず、彼らは当時の律法によって有罪とされ、死刑に処される危険に陥っていました。これを背景に、神は主イエスとして受肉され、人間のために罪の捧げものとして十字架に磔にされました。こうして、人間の罪は永久に許されたのです。それ以降、人々は主の御名によって祈り、罪を告白し、悔い改めさえすれば、罪を許され、律法により有罪とされ処罰を受けることはなくなったのです。神は人間を罪深い者として見ることをお止めになり、人々は神に直接祈り、神に呼び掛け、神の豊かな恵みと真理の備えを授かることができるようになったのです。これより、私たちの罪は主への信仰によって許され、『私たちの罪は許された』というのは、私たちが神の律法と戒めを破り、神の御言葉に逆らうという罪を犯したことを、神がお許しくださったということに過ぎないことが分かります。すなわち、主は、神の律法に違反し、それを侵したという私たちの罪深い行いは心に留めてはおられないということです。しかし、私たちに罪を犯させるサタンの性質と罪深い本性は神から許されてはおらず、私たちが依然として頻繁に罪を犯すことができてしまう明確な理由は、神に逆らう罪深い本性とサタンの性質が私たちの内に存在し続けているということです。従って、私たちの罪深い本性は神に対して最も反抗的で、真理に反するものであり、私たちが自分たちの罪深い本性を直さなければ、人間の罪の問題を解決するのは不可能であり、私たちは律法に違反することよりも深刻な罪さえ犯すようになり、天国に入ることなど完全に論外となってしまうということが分かります。聖書には明確にこう書かれています。「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。」(ペテロの第一の手紙1:15−16)「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。」(ヘブル人への手紙10:26−27)「罪の支払う報酬は死である。……」(ローマ人への手紙6:23)これらの聖句から、もし私たちの罪深い本性が直らず、いまだに昼に罪を犯し、夜にそれを告白するという状態の中で生きていたら、たとえ最後まで主を信仰したとしても、結局は滅びることになり、それは神は聖なる御方であり、汚れて堕落した人類は神の祝福と約束を受けるにふさわしくなく、天国に入れないからである、ということを知りました。」

   今、心は少し明るくなった。私たちの罪が許されたというのは、神の律法を違反したという私たちの罪深い行いを主がお許しくださったということしか意味していないことを理解した。しかし、私たちは依然として神に逆らう罪深い本性を改善していないため、昼に罪を犯し夜にそれを告白するという状態の中で毎日を生きながら、どれだけ望んでもそれを改善できないのは当然のことだ。主に感謝!今日受けた交流はとても明確で、曇り空が晴れてやっと青空が見えるような気がする。帰りがけに、ヂェン兄弟がある書籍をくれて、彼の理解は全てその書籍から得たものだと教えてくれた。私はとても嬉しかった。

2018年8月15日 (水) 晴天

  神の愛のおかげで、この数日間とても良い気分だった。ヂェン兄弟からもらった本で、以前は理解していなかった真理をたくさん理解することができた上に、長年抱いていた困惑と当惑を解消してくれた。この書籍にはこう書いてある。「というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。」(「受肉の奥義(4)」より)「あなたは終わりの日にイエスが降って来るとだけ知っているが、イエスは具体的にどのように降ってくるのだろうか。あなた方のように贖われたばかりでまだ変化しておらず、神によって完全にもされていない罪人が、神の心に沿うことができるだろうか。未だに古い自分のままのあなたは、確かにイエスによって救われ、神の救い故に罪人とは見なされなくなったことは事実であるにしても、それであなたが罪も汚れもないという証拠にはならない。あなたが変化していないのであれば、どうして聖いものとなれるのか。あなたは心の中の不純さ、自己中心、悪意にまみれながら、イエスと共に降ることを望んでいる――あなたはそこまで幸運ではない。あなたの神への信仰は一段階抜け落ちている。どうにか贖われたというだけで、あなたは変えられてはいないのである。あなたが神の心に沿うためには、神が直接あなたを変え、清める働きをしなければならない。贖われただけでは、聖さを獲得することは不可能である。このように、あなたには神の素晴らしい祝福を共有する資格はない。神による人間経営の働きの一段階、人を変え、完全にするという重要な段階が抜け落ちているからである。それ故、贖われたばかりの罪人であるあなたは、神の財産を直接相続することはできないのである。」(「呼び名と身分について」より)

   この言葉を読み、そしてヂェン兄弟が話してくれた内容について考えると、突然全てが明らかになった。主イエス様は人類の罪を贖う働きをして、信仰によって私たちの罪が許され、私たちが救われるようにしてくださったが、人間を完全に清めて変えるという働きはなさらなかった。主は私たちの罪を許してくださったものの、私たちをサタンのような本性から救い出してくださったのではなく、傲慢さ、身勝手さ、欺き、邪悪さといった私たちの内にある堕落した性質は存在し続けている。これらは罪よりも深刻かつ頑固な性質で、この神に逆らうサタン的な本質とこれら堕落した性質を解消できなければ、私たちは無意識のうちに罪を犯し続け、神に逆らい続けてしまう。これには、いかに私たちがいつも罪の中を生きてきたかについて考えさせられた。例えば、人との関わりの中で、いつも相手を利用して、自分は何も失わずにいることを望む。自分よりも優れた人を見ると、妬みや不従順といった堕落の性質をよく表す。誰かに不快な思いをさせられると、口では何も言わなくても、心の中はその人に対する嫌悪感で満たされる。神から恵みを授かる時は幸せだが、恵みを頂けないと神を責めてしまう。それは非常に深刻で、自然災害や人為災害が起こると、私たちの心には神についての観念が芽生え、ひどい場合だと、神を否定したり神に背くことすらある。私たちは毎日罪を犯しては、それを告白し、また罪を犯すという悪循環に生きており、それは使徒パウロが言ったとおりだ。「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。」(ローマ人への手紙7:18)神が自ら人間を清め、変える働きをしに来られていなければ、誰も罪の束縛と抑制を脱却することができず、罪に負け、世の邪悪な風潮を追いかけ、罪の快楽をむさぼり、私たちの生きる姿勢には普通の人間性を僅かでも有するものは何一つとしてなかっただろう。生涯を通して神を信仰してきた人々や、聖書に精通しこのような聖句に関して博識な宗教指導者ですら、罪の束縛を捨てることはできない。だから、私たちは罪を千回、一万回許していただけたとしても、やっぱり天国に入るにはふさわしくないだろう。

   主に感謝!これらは非常に貴重な御言葉だ。長い間頭を悩ませてきた疑問を解決してくれた。では、実際どのようにすれば罪を払拭することができるのか?この本がその方法を教えてくれるのだろうか?読み続けたいと。

2018年8月16日 (木) 曇りのち晴れ

   午後になって、太陽がやっと密雲の隙間から照り始め。書斎に座り、あの本を読み続けた。

   神の啓示と導きに感謝。この本に罪の束縛を脱却する方法を発見した。「人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。」(「受肉の奥義(4)」より)「サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より)

   この二節を読んだ時、突然光明を見出した。サタンのような堕落した性質の束縛と拘束を脱却したければ、終わりの日の神の裁きの働きを受け入れなければならない。そうすれば、堕落した性質は変わり、清められ、そうして初めて神の御顔を見て、神の完全なる救いにあずかり、神の御国で永遠と暮らす資格を得ることができる。かつて主イエス様が仰せられたこの御言葉を考えずにはいられない。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネ福音書16:12―13)また、聖書のこの預言も頭に浮かんだ。「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。」(ペテロの第一の手紙1:5)主イエス様は、私たちの堕落した性質を完全に清め変えるために、そして私たちが全ての真理を得て神の完全なる救いを受けることができるように、終わりの日にもう一度降臨して裁きの働きをなさることをかなり昔に預言されていた。でも私はとても無知で、盲目だった。神の御言葉に込められた御心を熟慮したり、探求する努力をする代わりに、主イエス様は私たちの罪を自ら背負ってくださり、私たちの罪は既に許されている、そして主に従うために全てを捨ててさえいれば天国に入れるなどと信じながら、自分の観念と想像に固執していた。今では、罪を犯してしまう問題を解決できなければ、体が汚れ、堕落しきっている私たちは結局天国には入れなくなってしまうように思える。それについてこの本にはこう記されている。「あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行ってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人が神の国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。」(「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)

   この御言葉には権威と御力がある。神は憐れみ深く、愛に満ちておられ、さらに神は義であり、聖なる神自身であると私は理解している。神は汚れて、堕落した人間が神の御国に入ることを許可されず、もし私たちの罪深い本性が清められ変えられなければ、たとえ罪が許されて、表面的には何らかの善行を行ない、主のために全てを捨てて、労力を費やし、働いているように見えたとしても、天国に入るという夢は永遠に単なる夢で終わってしまう。

   雲が本当に消えて、やっと日光が見える!主の救いを受けた私たちは、罪を許され、罪を贖っていただいただけで、依然として自分たちの罪を一掃したわけではないということを今では少なくとも知っている。私たちはまだ終わりの日の神の裁きの働きを受け入れて清められなければならず、そうして初めて天国に入って永遠のいのちを預かる資格を手にすることができる。これは、ヨハネの黙示録で預言されたことを的確に成就している。「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」(ヨハネの黙示録21:27)自分の罪を一掃する方法がやっとわかった。主に感謝!


一生懸命に働くことと神の定めに従うことは同じことではありません

2019-12-26 23:15:12 | 天国への道

   白谷美纪子は窓の前に立ちながら、最近彼女を当惑させている問題について深く考えこんでいました。主イエス様はこう仰せられました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7:21-23)天なる父の定めに従う者だけが天国に入ることができます。さて、私は全てを捨てて、神のために労力を費やし、毎日一生懸命に働いていますが、私は天なる父の定めに従う人になれているのでしょうか?これが天なる父の定めに従っているということにならないとしたら、私は最後に神から捨てられ、排除されてしまうのでしょうか?

   集会の最中、白谷美纪子は自分の抱える困惑を提起しました。




   泓美衣はこう言いました。「白谷姉妹、私たちは福音を伝え、犠牲を払い、労力を費やしながら、熱心に主のために働いています。私たちは天なる父の定めを全うしていると思いませんか?主は来臨される時、間違いなく私たちを天国にお連れくださります。私たちはこのような確信を持たないといけないんですよ!」

   集会にいた他のクリスチャン2人もチンフアの意見に賛成しました。彼らは一生懸命に働くことが天国への道を開くと信じていました。

   彼らの意見を聞いた後、白谷美纪子はこう言いました。「私は幾つか分からないことがあります。でも、それが本当なら、イエス様はどうして主の名によって福音を伝え、悪霊を追い払い、多くの奇跡を起こした人々が邪悪な人々だと言われたのでしょうか?これには探求すべき真理があるはずです。私たちが思っているほど単純なはずがありません。」

   白谷美纪子と同じ考え方をしていた駒欣子は頷きながら白谷美纪子の見方に賛成しました。彼女はこう言いました。「この主題についてですけど、大切なことは神の定めに従うことがどんな意味を持つのかということだと思います。」

   駒欣子が話し終える前に、泓美衣が割り込んでこう言いました。「私はパウロ兄弟がこう言ったのを覚えています。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。」(テモテヘの第二の手紙4:7-8)

   駒欣子はこう言いました。「しかしですねえ、ヂェン姉妹、イエス様は一生懸命に働くことと神の定めに従うことが同じことだとは仰いませんでした。実際、それは逆だったんですよ。主は、一生懸命に働くけれども主の定めに従わない人々を邪悪な人々と定義されました。これはどう説明すれば良いのでしょう?パウロは義の冠が彼を待っていると言いました。しかし、これは単に彼の個人的な考えだったのです。聖書の中に彼の言葉を立証する証拠はありますか?イエス様は彼の言ったことが正しいと認めておられますか?パウロの言葉は人間の言葉であって、神の御言葉を表しているわけではないのです。私たちは、神の道に従うのであれば、神の御言葉を基準として捉える必要があるのです。」

   説教を聞いて戻ってきた谷後元はこう言いました。「クリスチャンの大多数が『熱心に働くことは神の定めに従うことと同じである』という観点を支持しています。私も、この観点が真理と神の御旨に沿っているのかどうかを頻繁に検討してみました。私はユダヤのパリサイ人たちが福音の伝道をするために陸と海を巡り歩き、頻繁に交差点で祈りを捧げ、断食までしていたことを思い出しました。人間の観点からすると、彼らはたくさん良い行いをし、とても敬虔でありました。しかし、その彼らが最終的には神に断罪され、呪われてしまったのはどうしてなのでしょう?神は人間の心の奥底までお調べになります。パリサイ人たちはたくさんの苦難に耐えたものの、彼らは宗教的儀式を行い、聖書の内容と理論について語っていただけだったのです。彼らは神の御言葉を全く実践していなかっただけでなく、神の戒めに従ってもいなかったのです。彼らが行ったことは全て、各々の地位と生活を維持するためだけでなく、祝福を受けて、報酬を手にすることだけを目的としていたのです。彼らの心は基本的に神を愛しておらず、彼らは神を畏れる心を全く持っていなかったのです。主は働きをしに来られた時、天国の福音を伝えられ、人々に告白して悔い改めるよう仰せられ、たくさんの奇跡を起こされました。イエス様の働きと御言葉には権威と力があったのです。こういったことを語り、行える人は他には存在しません。しかし、イエス様の働きを前にしても、パリサイ人たちは真理を求める心を持ちませんでした。彼らは狂信的にイエス様に抵抗し、罪に定め、ついにはイエス様を十字架に磔さえしてしまいました。これが真理を嫌う彼らの本性、および偽善的な本質を完全に暴露したのです。この事実は、一生懸命に働くことが神の定めに従うこととは根本的に違うということを私たちに知らせてくれています。神の御言葉を実践すること、そして神の戒めに従うことができていなければ、私たちは一生懸命に働いていたとしても、神の称賛を得ることはできないのです。

   「その後、私は神の定めに従うことの意味を理解しようとしました。神の定めに従うことはどのような形で表れ、それを貫くとはどういうことなのか?聖書を調べた時、私はイエス様が仰ったこの言葉を見つけました。『もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。……わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。』(ヨハネによる福音書14:23–24)『もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。』(ヨハネによる福音書8:31)『「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。』(マタイによる福音書22:37-39)神の定めに従うということは、神の道と戒めに従い、神の要求通りに自分たちの本分を尽くすということなのです。主に仕える上で、主の御言葉に応じず、聖書に書かれた人間の言葉に応じていたら、それは天なる父の定めに従っていることにはならないのです。」

   駒欣子はこう言いました。「そうです、主の信仰を始めた後にたくさんの苦難に耐え、大きな犠牲を払い、患難を受けさえしても主から離れなかった人々は大勢います。しかし、彼らの行いは全て祝福を受けて、報酬を手にするためにしたことでした。彼らの目的は天国に入り、義の冠を手にすることだったのです。このように犠牲を払い労力を費やすことは神と取引をしているのと同じことです。それは欺きと個人的な動機および目的に満ちた行為なのです。このような人々は基本的に神を愛しておらず、神に服従してもいません。彼らを神の定めに従う人と呼べるはずがありません。横浜市にいる太田牧師が同じようなことをしています。彼が説教の最中に語ることと、自宅で行っていることは全く異なります。彼は兄弟姉妹たちに寛容な心と耐え忍ぶ心を持つように言いますが、家では妻に暴力を振るいます。神の御言葉を全く実践していません。宣教をする時も、彼はいつも主を讃えて主の証しをする代わりに自分自身の証しをしています。彼はいつも自分が犠牲を払い、主のために労力を費やし、神のために数足の靴をボロボロになるまで履いたなどと言っているのです。これは全て兄弟姉妹たちから崇拝され、尊敬されるためにやっていることなのです。主のために働き労力を費やしているふりをして、決して主を崇めず、主の証しもせず、代わりに他人から尊敬されようと全てにおいて自己顕示するような人が、神の定めに従っていると言えますか?このような懸命な働きは神の御心に沿っていますか?パリサイ人のように悪事を働き、神に抵抗しているのではないでしょうか?」

   チウ・ユーリンがこう言いました。「そう、その通りなんです。説教を聞き行っていた時にある書籍を見つけたんですけど、その内容が素晴らしいんです。その中から皆さんにこの一節を読んで差し上げます。『わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の心に従わない人たちはすべて懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。よって、懲罰される者たちすべては神の義ゆえに懲罰されるのであって、彼らの数々の邪悪な行為への報いである。』(「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より)この節より、神は私たちが神の定めに従っているかどうかによって私たちが善良であるか、邪悪であるかをお決めになることが分かります。神は私たちが真理の現実を生きているかどうかを基に私たちの終着点をお決めになります。こういったことは私たちの外面的な振る舞いによって決まるものではなく、私たちがどれだけ一生懸命に働くかによって決まるものでもありません。これより、神の義を知ることができます。」

   突然、白谷美纪子にとって全てがはっきりとしました。彼女は嬉しそうに言いました。「神に感謝します!私たちは神のために一生懸命働くことができるかもしれませんが、それは全て祝福を受けて、将来的には天国に入るために行っていることで、神への服従と愛を理由で行っているわけではないのです。なので、私たちがやっていることは紛れもなく神の定めに従うということに関連していないのです。外面的に前向きな行動を取っていても、心の中で神に服従せず、神を愛していなければ何の意味もないのです。私たちは神の御言葉に従うことに集中するべきで、神の要求通りに神を信じ、神に従うべきなのです。基本的なこととして、神の戒めに従い、神に背いてはならないということです。」

   駒欣子はこう言いました。「その通りです。私たちは神の道に従わずに、自分たちの想像と観点を頼りにしながら神を信仰しているのです。最終的に、私たちも神を信仰しながら神を知らなかったパリサイ人と全く同じになってしまうでしょう。私たちは主の道から逸脱し、主に抵抗するばかりです。私たちは外面的にたくさんの苦難を経験してはいますが、どれだけ一生懸命に働いても、神に抵抗する人々であるということに変わりはないのです。」

   白谷美纪子はこう言いました。「これで、一生懸命に働くことは神の定めに従うこととは違い、まして天国に入る条件ではないということが理解できました。神の定めに従うということは、神がどのような働きをされても、神が何を仰せられても、神の要求が何であろうとも、神に服従し、神の道に従うことができ、神を満足させて神の証しをするために労力を費やし、完全に神に尽くし、神と取引をしないということを意味しています。そして、このような人のみが天国に入ることができます。そのような人たちとはアブラハムやペテロのような人たちです。彼らは神から何を要求されても、神の御旨を探求し、神に従っていました。彼らは神の御言葉に従い、神を恐れ、悪を遠ざけて生きた人物たちでした。」


主イエス自らが神が働きを行なうために終わりの日に受肉し、人の子として現れると預言した

2019-12-20 00:18:54 | 天国への道

参考聖書箇所

   「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカによる福音書 12:40)

   「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。」(マタイによる福音書 24:37)

   「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

   「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24-25)

   「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)

   「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

   「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録 1:12-16)

関連する神の言葉

   イエスは自分が去ったのと同じように来ると言ったが、これらの言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。本当にイエスはあなたに伝えられたであろうか。あなたが知っているのは、イエスは雲に乗って去って行ったようにやって来るということだけである。しかし、神自身がその働きをいかに行なうのかをあなたは正確に知っているのか。あなたが本当に見ることができるとすれば、ではイエスの言葉はいかに説明されるべきであろうか。「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての民も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」とイエスは言った。あなたが知り、見ることができるのであれば、これらは空虚な言葉ということにならないであろうか。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見たのであれば、これらの言葉はみだりに語られたことにならないであろうか。そして、そのときイエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。…だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」その日がいつ来るのか、人の子は知らないであろう。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、それはごく普通で平凡な人である。イエス自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

   「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。あなたがたには今聖霊の言葉が聞こえたか。神の言葉があなたがたに届いた。それが聞こえるか。神は終わりの日に言葉による働きを行うが、そのような言葉は聖霊の言葉である。神は聖霊であり、また肉になることもできるからである。したがって、過去に語られた聖霊の言葉は今日肉となった神の言葉である。聖霊の言葉は天から降りてきて人の耳に届くはずだと信じている多くの愚かな人がいる。このように考える人は誰も神の働きを知らない。実際、聖霊が語る言葉は肉となった神が語る言葉なのである。聖霊は人に直接語りかけることはできないし、ヤーウェは律法の時代でさえ人々に直接語りかけることはなかった。ましてや、今日、この時代に神が直接語りかけるなどとはまず考えられないのではないか。神が言葉を発して働きを実行するためには、肉とならなければならない。そうでなければ神の働きは目的を達成させることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を定義する人がどうして神の啓示を受けることができるのか」より

   数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

  真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能神の名の下に集うだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。彼らは過去の人々が決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録1:12~16)このビジョンは神の全性質の現れであり、このような神の全性質の現れは、今回人の姿となった神の働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を話すことによって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、ヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神の国の時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

   わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より


イエスキリストが受肉して再臨する意味は何か

2019-08-02 16:27:06 | 天国への道

 他国でアルバイトをするとき、彼女は数年ぶりの同郷に出会って、そして主が再来されたお知らせを知りました。主がすでに受肉して戻られたと聞いたとき、彼女の観念に衝撃を与えました。尋ね求めて考察した後、彼女は神様の受肉の意義を理解しました。


寄稿家:ウェイウェイ(アメリカ)


懐かしいふるさとの友人からの驚くべきニュース


 私の名前はウェイウェイ。2016年の終わり頃、見知らぬ国アメリカに、働くためにやってきました。クリスチャンである私は、自然に教会が唯一くつろげる場所になりました。ところが、牧師の説教は神学論を説くか、そうでなければ飲食や快楽にふける話ばかりで、一定の献金額を指定までするような有り様で、私は失望しました。私は自分のいのちが養われているようには感じられず、そのような牧師のやり方を軽蔑するようになり、徐々に教会に行かなくなりました。ジンイーとばったり再会した私は、出身地が同じであるジャン・リン姉もその街に住んでいて彼女の家で集会をしていることを知りました。それを知って私はとても嬉しく感じました。そしてその後、ジンイーと一緒にジャン・リンの家の集会に出席するようになりました。

 ある集会で、ジャン・リンが私にこう言いました。「ねえ、ウェイウェイ、主イエス様は既に受肉されて再び来られていて、ご自身の御言葉を表わされ、裁きの働きを神の家から始められているのを知ってる?」

 私は彼女の言葉に困惑し、こう言いました。「主イエス様がもう受肉されて再臨されているの?そんな筈ないわ。聖書は主の再臨をはっきりと預言しているのよ。『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。』(使徒行伝1:11)主イエス様が甦られた後、その卓越した霊が白い雲に乗って離れて行かれたわ。だから終わりの日に主が戻られる時は間違いなくご自身の霊の体で来られるのよ。どうして再び肉となられることなどあるの?」

 ジンイーは微笑んで言いました。「ウェイウェイ、神様が語られた御言葉を読むわね。『「ありえない」という思いを脇に置いておきなさい。人が不可能だと思えば思うほど、実際に可能になる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の思いや観念をはるかに超越するものだからである。不可能であればあるほど、そこには探し求めるべき真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心が詰まっている。』神様は全能で賢く、そのお考えは人の考えを遥かに超えているわ。私たちはサタンに堕落されられていて、神様に対する理解は観念や想像に満ちているし、霊的世界にまっすぐ入っていく能力もないのに、神様のなさることをあれこれと決めつけることなどできるはずはないわよね。それに、聖書に書かれている預言には神様の知恵と奥義があって、それは私たちが想像するような単純なものではないし、文字通りに成就されるはずなどないのよ。例えば、旧約聖書にはメシアの再臨に関して沢山の預言が書かれているわよね。それを読んだ人たちは勝手に想像を膨らませるわ。「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」(イザヤ書9:6-7)この御言葉を読んだ人たちは、地を治めに来るはずのメシアは天におられる父の子で、その方は城でお生まれになり、この世のものを超越して秀でており、非常に聡明であるはずと考えて、全く事実と違う想像をめぐらすのよ。主イエス様はごく普通の体でかいばおけにお生まれになった。だから当時の人々は彼を受け入れず、彼を罪に定めて拒否し、十字架にかけたわ。結局彼らの国は征服されてしまうことになったわ。聖書を表面的に説明しただけだとどのように信仰的過ちを犯してしまうか、ここから分かるんじゃない?主が戻ってこられた時の働きって、こんな限られた理解で説明できるようなものかしら。だから、想像力や観念で神様の働きを制限などせずに、求め探る心を持って、御言葉の本当の意味を理解できるように神様に啓いて頂かなくてはならないのよ。

イエスキリスト

主が戻られる時は肉となられると聖書は預言しているか


 ジンイーが話すのを聞いて、彼女の話は理にかなっていると私は思いました。主の再臨は重大なことで、よく調べなければなりません。「主が肉となって再臨されるという今の話、聖書的な根拠はあるの?」私はジンイーに聞きました。

 ジャン・リンは微笑みながら言いました。「主が肉となって来られることを預言している聖書の箇所は沢山あるわ。『あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。』(ルカによる福音書12:40)『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。 しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。』(ルカによる福音書17:24-25)『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした。』(マタイによる福音書25:6)ここに書かれている『人の子』や『花婿』はどれも受肉された神様のことなの。『人の子』は、ひとりの人から生まれた人の子を指していて、その方は普通の人間性を持っておられるの。『霊』を指すのであれば、『人の子』とは言わないわ。ヤーウェ神は霊だから、『人の子』とは呼ばれないようにね。天使たちも霊の存在だから、『人の子』とは呼ばれないわ。人の姿を持ちながら霊の存在であるならば『人の子』とは呼ばれない。肉となられた主イエス様が人の子と呼ばれ、キリストと呼ばれるのは、このお方が受肉された神の霊であられ、普通の人となられて人の間に住まれたからなの。人々が肉となられた神があまりに普通の人間だったために主イエス様を神と信じず、大工の息子に過ぎないと考えたの。だから彼を嘲り中傷し、罪に定めて拒絶し、十字架にまでかけたのよ。『人の子が来る』と主イエス様が言われたのは、終わりの日に主が肉となって戻って来られることを意味しているの。卓越した霊が白い雲に乗って降りて来られるなら、全ての人々がひざまずいてそのお方を崇めるわ。その時になっても拒否したり非難したりする者はいないわ。そうなれば、『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。』という主の預言は成就しないわ。」

主が戻られる時に肉となられるのはなぜか


 ジャン・リンの話を聞きながら、彼女が示してくれた御言葉を読み、私は彼女の言う通りだと思いました。ジャン・リンは言いました。「終わりの日に、人間の必要に応じて神様は肉となられて御言葉を示し、裁きの働きを神の家から始めるの。それによって人間の堕落と反抗を露わにして神に逆らう人間のサタン的な本質を裁き、最終的に人間を清め、救い、完全にされるのよ。もし神様が肉として来られなかったなら、そのような結果は望めないわ。神様の言葉の別の一節を見てみましょう。」

 ジャン・リンに渡された神様の御言葉の本を開き、読みました。「神が人を救うとき、霊の手段を用いたり霊として直接行なわない。というのは、神の霊は人が触れることも見ることもできず、人が近づくこともできないからである。もし神が霊の立場で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け入れることはできないであろう。そして、もし神が造られた人の外形をまとわないなら、人はこの救いを受け入れることはできないであろう。というのは、ちょうど誰もヤーウェの雲の近くに行くことができなかったように、人は決して神に接近することができないからである。被造物である人となることによってのみ、すなわち、言葉を神がまとう肉体に入れることによってのみ、神は従ってくるすべての人たちに直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は自分自身で神の言葉を見聞きし、さらに言葉を自分のものとし、これによって、完全に救われることができる。もし神が肉とならなければ、肉なる人はそのような大きな救いを受けることもできないし、誰一人救われることもないであろう。もし神の霊が人の間で直接働いたなら、人は打ち倒されてしまうか、神と係わる方法がないまま、サタンにすっかり連れ去られ囚われるであろう。」「人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物のうちで最高のものだ。そこで、人間には神による救済が必要だ。神の救済の対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉、人間の魂であり、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神に救われる者である。人間の肉はサタンによって堕落させられた。だから、まず人間の肉が救われなければならない。人間の肉は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっている。そして、公然と神に敵対し、神の存在を否定しさえする。この堕落した肉は、まったく手に負えない。堕落した肉の性質以上に扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の体に入って混乱させ、人間の体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。このため、神は挑戦に立ち上がり受肉した。働きを行い、サタンと戦うためである。神の目的は堕落した人類の救済と、自分に抵抗するサタンを打ち破り、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人間を救う。そうして、神は二つの問題を一度で解決する。」

 ジャン・リンは言いました。「神様が肉となられたのは、唯一、堕落した私たちがそれを必要としていたからだということが神様の御言葉から分かるわ。主イエス様によって贖われ、罪赦されているけれども、罪の本質は残っていて深く根付き、自力で罪に勝利して肉から解放されることはできないのよ。私たちの肉はサタンによって堕落させられていて、サタンは私たちの肉を利用して神様の働きを妨害し破壊するの。だから私たちもサタンと同じで神様に敵対してしまうのよ。もし神様が霊として直接来られたなら、私たちは皆汚れと堕落ゆえに打たれて死んでしまうでしょう。ひとりとして生き残るものはなく、救われる者は無論いないでしょう。旧約聖書にあるように、ダビデがイスラエル人をバアレ・ユダから導き出して神様の契約の箱を持ち帰った時、牛の足下がふらついた為にウザはとっさに手を伸ばして箱に触れ、神の霊により打たれて死んだわ。当時「契約の箱」は神を現わしていたの。神は聖なるお方で、汚れた人間が触れることなどできるはずがなかった。ウザは善良な心の持ち主だったけれど、神様を怒らせてしまい打たれて死んだの。一方新約聖書では、結婚している女が姦淫の罪で捕えられて主の前に連れて来られた時、主はその女を罪に定めなかったばかりか、女を赦し、罪を告白して悔い改め、再び罪を犯すことのないようにと言ったわ。これらの二つの出来事から、律法の時代に神様は霊として働かれ、霊は汚れた人間が存在することを許すことも神様を怒らせることを許すこともなかったことが分かるわ。神様を怒らせることは死を意味していたの。恵みの時代になると、神様は肉となって別の働き方をされたわ。人々に対してそれまでとは違ったアプローチの仕方で、実際の状況や現実的な問題に応じて働きかけることができたの。つまり、肉となられた神様は人の弱さへの理解を示すことができ、それによって人は悔い改めの機会を得たの。それだから、肉となられた神様の働きは、堕落した人間に対して霊としての直接的な働きに比べてずっと有益なものなの。それに、私たちの罪も律法の時代末期の人々の罪を越えてしまい、ソドムの時代の人々の罪をも越えてしまったわ。人間のふしだらさと邪悪さ、反抗は頂点に達してしまった。主にある兄弟姉妹である私たち自身を考えてみれば分かるように、たとえ主イエス様によって贖われていても、罪の本質は根深く残っているので、日中罪を犯しては夜悔い改めるという生活をしているわ。謙虚で寛容に見える人もいるけれど、実際には互いに企み、策略を練り、嫉妬や争いを引き起こし、互いの裏をかきあい、だまし合うの。否定的で霊的に弱い兄弟姉妹もいるわ。そのような人たちの信仰と思いやりは徐々に薄れてきているの。考えてみて。それほど人間が堕落してしまっていて、もし神様が終わりの日に霊によって直接裁きと清めの働きをされたなら、私たちはとっくに滅ぼされているんじゃない?だから、神様はもう一度肉となって来られ、私たち堕落した人間の必要に応じて働かれ、堕落の程度に応じて働かれるのよ。というのは、神様が肉となって働かれることによってだけ、私たちの弱さに対して理解を示すことができ、悔い改めの機会を与えて完全に救われる機会を与えられるから。」

 ジャン・リンがこのように話すのを聞いて、私はとても感動しました。神の働きのひとつひとつに神の愛があるのです。私は言いました。「神様が肉となって働かれるとき、霊として直接働かれるよりずっと人に益をもたらすということが分かったわ。あまりに堕落しているからと神様の霊に打たれて死んでしまうことはないのね。」

 そう言った途端、ジンイーは嬉しそうにジャン・リンに言いました。「ウェイウェイが理解したわ。神様に感謝します!」

受肉のもうひとつの意味


 ジャン・リンは嬉しそうにこうも言いました。「そうよ。ウェイウェイ、神様が肉となられた意味はもうひとつあるの。神様の別の言葉を読んでみましょう。

イエスキリストが受肉して再臨する意味は何か

 私は次の言葉を読みました。「人間の堕落した性質と反抗、抵抗が、人間がキリストを見た時に露わになり、そこで露わになった反抗や抵抗はそれ以外の場合よりも絶対的で完全なものだ…。キリストが人の子であり、正常な人間性を備えているため、人がキリストを崇めることも尊敬することもないのだ。神は肉の中に生きているので、人間の反抗が徹底的に、またはっきりと明らかにされたのだ。それゆえに、キリストの到来が人間の反抗を全て明るみに出し、人間の本性を際立たせた、とわたしは言っているのだ。これを、『山から虎をおびき出す』、『洞窟から狼をおびき出す』と言う。」

 この言葉を思い巡らしながら、私は静かに言いました。「『山から虎をおびき出す』、『洞窟から狼をおびき出す』?」

 ジャン・リンは笑いながら言いました。「良く分かる表現ね。神様ご自身が普通の人間の体で地上に来られたの。私たちが神様を知らないばかりに、多くの観念や勝手な想像、反抗と反逆を露わにするの。もし終わりの日に神様がこの時代を終わらせるために偉大で人間の理解を超えた霊として来られるならば、全ての人は倒れ、地に伏すでしょう。その時に神様に反抗したり反逆したりする人はいないでしょうから。善悪はどう区別できるのかしら。だから、もし神様が霊を用いて働かれるならば、人間の観念、反抗心、反逆は露わにされないのよ。神様ご自身が普通の人間の体をとって地上に来られ、人間の中にある観念、反抗心、反逆を露わにし、それによって裁き罰することによってだけ、神様は人々を納得させることができるの。神様に従い、受け入れる人は救いを得、反抗して反逆する人は罰せられるの。肉となられた神様が普通で現実的で、人間の観念と一致しないからこそ、人間の反抗心や反逆が露わにされるの。そして神様は事実を把握され、善悪を区別され、最終的にご自身の目的である、一人ひとりを分類するという作業をされ、善に報いて悪を罰するの。だから、私たちはこれが神様の働きの知恵であり、義であるということが分かるわ。神様が肉となられてご自身の働きを直接行うことによってのみ、人々を完全に露わにすることができ、人を征服するという目的を達成できるのよ。受肉された神の働きは、終わりの日の裁きの働きに対して、霊の働き以上の益をもたらすの。

 その時私の目と心が開かれました。私は喜びながら言いました。「やっと分かったわ!神様が肉となって働かれたのは、私たち堕落した人間の必要のためで、神様の受肉があって初めて、人間の反抗心や反逆が露わにされ、善に報いて悪を罰するという目的が達成されるのね。神様に感謝します。すべて神様だけが現わすことのできる奥義ね。神様が本当に戻って来られたと信じます。ああ、こんなに素晴らしいことを何一つ知らなかったなんて。何て未熟な信仰だったのかしら⋯」

 ジャン・リンは言いました。「感謝なことに、神様の働きを受け入れるのにまだ遅くないわ。」

 私は喜びのうちにうなずきました。

 しばらくしてから、集会に出席して福音のビデオを観るうちに、私は神様の終わりの日の働きを完全に確信し、主の現われを迎えるようになりました。私の心は喜びに満たされました。全能神教会では兄弟姉妹が皆真理を求めて神様の言葉によって生活しており、この大家族の中で、私は神様の愛と家族に属することの温かさを理解するようになりました。本当に感謝しています!