賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

カトリックの信仰:主は本当に再臨された

2019-07-29 21:26:39 | 天国への道

 私の家族は全員が神様を信仰しています。私は子どもの頃から母と一緒にミサに参列し、神様は私たちに本当にたくさんの恵みを与えてくださいました。私たちは神様への感謝の気持ちで満たされ、主の再臨を切望していました。しかし、主が働き私たちを救うために本当に再臨された時、自分が主の働きに気づかないどころか、自分の傲慢な本性に頼り、古い観念にしがみついて危うく主の救いを逃しそうになるとは想像しませんでした。私はこれについて考える度に自責の念に駆られ、また同時に喜びも感じます。主イエスは私をあわれんでくださり、兄弟姉妹が根気強く主の新たな御言葉について語ってくれたおかげで、私は主の新たな働きについての認識を得て主の足跡についていけるようになったのです。私は主の救いによって神の国の時代行きのいわば最終列車に乗ることができたことをとても感謝しています。いま、主を受け入れる過程での様々な場面が私の頭に浮かんできます。

 ある日、母の教会友達のリー叔母さんが、終わりの日の神の福音について話すために教会友達を何人が連れて私たちの家にやって来ました。私は叔母さんたちは私たちをプロテスタントに転会させるために来たのだと思ったので、あまり歓迎しませんでした。しかしリー叔母さんは言いました。
カトリックの信仰:主は本当に再臨された

 「主は既にお戻りになりました。主は全能神で、終わりの日のキリストです。全能神は真理を表され、神の家から始まる裁きの働きをされました。恵みの時代は終わって、今は神の国の時代です。罪を犯しても、もう神父様の所に行って告解しなくていいんです。代わりに直接全能神の御言葉を読み、その裁きと刑罰を受け入れ、神様の御言葉から自分の堕落した性質についてよく考えて、それを認識し、神様の要求事項に従って振る舞えばいいのです。こうすれば、私たちは徐々に罪の束縛から解放されて、清らかになり、神の御心に沿った人になれるのです」。私はこれを聞いてショックを受けました。そして心の中で、「全能神が主の出現?でも、私は今まで何年も主を信仰してきて、たくさんの恵みを授かった。全能神の新たな働きを受け入れたら、主イエスに背くことになるんじゃない?」と思いました。私は少し混乱しました。私は自分の考えを何も言いませんでした。それで、私の態度を見た叔母さんたちもそれ以上は何も言いませんでした。

 その後、私は姉が頻繁に一人で外出するようになり、帰宅した後には母と一緒に何やらこそこそ話しをしているのを目にしました。それから、二人は一緒に外出するようになり、帰宅するといつも満面の笑みを浮かべていました。二人は以前よりも調子が良いようでした。私はこれにとても困惑し、二人は何かを隠しているんだと思いました。しばらくした後、二人は終わりの日の全能神の働きを受け入れ、全能神は主の出現であることを見極めたとまじめに私に告げたのです。二人は私にこれを真剣に検討するように勧めました。私は二人がそう言うのを聞いて理解に困りました。私は「お母さんとお姉ちゃんはとても敬虔な信者なのに、どうして今では全能神を信じているの?これは主の道から離れてカトリックの信仰に背くことにならない?二人はたった数日で変わってしまった」と思いました。私は顔をしかめて何も言いませんでした。その私を見た姉は言いました。

 「その気持は分かるわ。リー叔母さんが来て終わりの日の福音の話をした時、私も間違った信仰を取り入れてしまうのが怖かった。でも、叔母さんたちが宣教していることは十分に筋が通っているし、聖書の預言にも一致していることがわかったの。世界中で災害がどんどん大きくなっていることも知ったわ。これはみな主の再臨のしるしよ。もし全能神が本当に主の再臨ならば、その全能神を受け入れるのを拒否したら、主の救いの恵みを逃してしまうことになるんじゃない?だから、私は『全能神が本当に主の再臨であるなら、主の足跡を辿って、全能神の福音について話してくれたあの姉妹たちにもう一度会えるよう、私を啓き導いてください』と主に毎日祈りを捧げたの。そしたら、不思議なことに叔母さんたちがまたやって来て、私に全能神の国の福音について話してくれたので、これは主の意図で采配だって分かったの。それで私は終わりの日の全能神の働きを調べ始めたの。叔母さんたちはそれから私に全能神の御言葉をたくさん読ませてくれたの。そのすべてに権威と力があって、そのすべてが真理で神の御声であると知ったの。全能神は、神様の経営計画の目的、神様が人を救われる方法、人類の堕落の根源、人間はどうやって悪を振り払って救われるべきか、私たちの最終的な結末と終着点といったすべてについて私たちに語ってくださった。全能神の御言葉を読んで、私は真理と聖書の奥義をたくさん理解したわ。私の心の中はすごく明るくなって、私は全能神は主イエスの再臨だって心の中で判断したの」 姉の言ったことを聞いて、私の心のわだかまりが少しほぐれました。姉はむやみに終わりの日の全能神の働きを受け入れていたのではなく、主の導きを求め続けていたのです。主の再臨を待ち続けていながらも、主が本当に再臨されていると人々が証言するのを聞いた時に謙虚な気持ちで探求しようとは思わなかった自分を考えると、その時私は少し恥ずかしくなり、自責の念も感じました。そんなことで、どうして主の啓きと導きを得ることができるでしょうか。全能神が本当に主の再臨であり、それを私が探求も考察もしなかったならば、私は本当に主の救いを逃してしまうのではないでしょうか。そう気づいた時、私は終わりの日の全能神の働きを考察することを姉に約束しました。

 その二日後、母と姉は見学できるようにと私を全能神教会に連れて行ってくれました。私はまだ警戒していたので、人が話し合っている間、どうしても静かにしていられなかったのですが、母と姉が一緒だったので、恥をかかせないようにと無理して「真面目に」話を聞きました。その間に、私はそこの教会の兄弟がこう話すのを聞きました。

 「ミサに参列しても司祭はいつも聖書から同じことばかり話し、つまらなくて何の光もないとほとんどの人が感じでおり、教区民は何の喜びも得られません。彼らは毎日告解していますが、抜け出すことができない罪の中にいまだに生きています。たくさんの人が信仰を失って闇に陥りました。宗教界全体が荒廃し、聖霊の働きを欠いていることは誰もが知っています。これは広く認められている事実です。ですが、宗教界が荒廃している理由はご存知でしょうか。これは、主イエスの再臨をお迎えできるかどうかに直接関わることです。実は、宗教界が聖霊の働きを失い荒廃した理由はおもに二つあります。一つ目は、司祭と指導者たちが主の戒めに従わず、主の御言葉を実践してもおらず、代わりに人間の作った伝統を守り、神学的議論や聖書に関する知識に注目してばかりいることです。彼らは人から尊敬されるように、これを利用して自己顕示して自らの証しを立てているのです。彼らは主を証ししたり高く掲げたりすることもなく、人々が真理を理解して主を知ることができるように人々が主の御言葉を実践したり体験したりするように導くことも全くありません。彼らは主の道から完全に外れてしまったので、主から見捨てられ、排除されてしまったのです。これが宗教界が荒廃している第一の理由です。もう一つの理由は、主イエスが再臨されたからです。主は受肉して全能神となり、主イエスのなされた贖いの働きを土台にして、神の家から始まる裁きの働きをされ、終わりの日の全能神の働きを受け入れたすべての人々裁き清めるために真理を表されています。これに伴い、聖霊の働きも終わりの日の神様の裁きの働きに移行したのです。この働きを受け入れる人は聖霊の働きを受けられるほか、生ける水の供給と潤しも得ることができます。しかし、宗教界の中にはまり込み終わりの日の神の働きを受け入れない人は聖霊の働きを失って、闇に陥り、否定的で弱くなってしまいました。これは聖書にあるこの預言を成就しています。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書4:7)

 私はこの話を無理やり「真面目に」聞きましたが、心配が邪魔をして兄弟の話をあまり理解できませんでした。家に帰った後も、教会に行って祈りを捧げたり、聖書を読んだり、ミサに参列するということを続けましたが、心を落ち着かせることが全然できませんでした。あの日の話が頭の中に浮かび続け、私は考えました。

 「あの兄弟の話は筋が通っていたし、私も教会は聖霊の働きを欠いていると感じていた。主が新たな働きをするために本当に再臨されているってことがありえるのだろうか。でも、私はずっと主を信仰してきて、主は私にたくさんの恵みを与えてくださった。私に主を裏切ることなんてできない」

 私は強い葛藤を感じ、終わりの日の全能神の働きを考察し続けたいのかどうかが分からなくなってしまいました。

 ある時、私はミサに行ったのですが、教会に到着して唖然としました。以前だと到着した時にはミサはいつも既に始まっていたのですが、その日はまだ教会の中の明かりがいくつか消えたままになっていて、中は真っ暗でした。人は数人ちらほらといるだけで、ただ座って世間話をしていました。司祭の姿はどこにも見当たりませんでした。目の前の光景は私にとって非常に残念なもので、私は思いました。

 「教会は本当にどんどん荒廃している。全能神教会の兄弟姉妹たちが言ったように、主はお戻りになって新たな働きをされ、それに付いて行けない人たちは聖霊の働きを失ってしまったということなんだろうか。あぁ、主の働きは本当に移行してしまったのか」

 ミサの後、私は家に帰り、主イエスの肖像画の前に立って静かに祈りました。

 「あぁ、主よ!本当に肉となり新たな働きをされたのですか?全能神は本当に主の再臨なのですか?主よ!どうか私をお導きください」

 この祈りの後、のしかかっていた大きな重りが引き上げられたように感じました。私は息をついて、思いました。

 「この教会にはもう聖霊の働きが宿っていないから、聖霊の働きのある教会を探さなきゃ。そうよ、終わりの日の全能神の働きを調べ続けなきゃ。全能神が本当に主イエスの再臨なら、受け入れなければ!」

 私はこう思った時、気持がとても楽になりました。

 その後、私は母と姉と一緒に終わりの日の全能神の働きを勉強し続けました。驚いたことに、もう一度説教を聞きに行ったときに心を静めることができることに気づきました。そして、私は心の中の困惑を打ち明けました。

 「以前、教会が荒廃する理由についてのお話を聞いた時、私も全く同じ意見でした。教会は本当に荒廃していて、聖霊の働きを欠いています。でもまだ気掛かりなことがあるんです。私は長年に渡って主を信仰してきて、たくさんの恵みを授かりました。主イエスから離れて全能神を信仰したら、主イエスに背くことになりませんか?これについて話していただけませんか?」

 私の質問を聞いたリュウ姉妹は笑顔で言いました。

 「姉妹、それは本当に重要な質問ですね。その心配はおもに神の働きの理解が足りないために生じるものです。それはちょうど律法の時代末期に神が主イエスとして受肉され、律法の時代の基盤の上に恵みの時代の働きを完成された時と同じです。主の御言葉を聞き、それが神の御声であることに気づいて主の働きを受け入れた人たちは皆、主と共に歩んでいた人たちでした。ペテロ、ヨハネ、サマリア人の女と同じように、彼らは主イエスの御言葉を聞いて、主がメシアであることに気づいたのです。彼らは神の足跡を辿り、神の御言葉の潤しと霊的な糧を授かり、聖霊の働きを得ました。彼らはヤ―ウェに背かなかっただけでなく、神の足跡について行きました。それがヤ―ウェ神に忠実でいられる唯一の方法だったからです。しかし、律法にしがみついて主イエスの御言葉と働きを受け入れなかった司祭長、律法学者、パリサイ人はヤ―ウェ神の称賛を得られなかった上に、神に抵抗する人となり、主の働きによって排除されてしまったのです。同様に、終わりの日の主は神の経営(救いの)計画および人類の必要に合わせて、主イエスの働きを土台に裁きと清めの段階の働きをされました。終わりの日の全能神の働きを受け入れることは、主イエスに背くことではなくて、むしろ神の足跡を辿ることです。それは神の道を守り忠実に神に従うことです。これはヨハネの黙示録にある『そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。(ヨハネの黙示録14:4)』という預言を成就しています。これは全能神の御言葉を何節か読めばもっと良く理解できます。全能神はこう仰いました。

 「人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代の三つの段階の働きのことである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)「ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら三段階は神の経営の全幅を覆うもので、そしてすべてひとつの霊による働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初であり最後であり、時代を始められる存在で、また時代を終わらせられる存在である。違った時代、違った場所における三段階の働きは確かにひとつの霊によって行なわれる。これら三段階を切り離す者たちはすべて神に反抗している。今、第一段階から今日に至るまでのすべての働きはひとつの神の働きであり、ひとつの霊の働きであり、それに関して疑いの余地はないということを理解しなければならない。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より)「現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。」(『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より)

 「三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。」「ひとつの霊によって行なわれる。」これほど新鮮な言葉を聞いたのは初めてのことで、私はそれに深く引き込まれました。私は思いました。

 「これら三つの段階の働きは律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代ですね。この三段階はすべて主がなさるのですか。なぜ主は三段階の働きをおもちなのですか。この三段階はどのように完成されるのですか」

 私はとても興奮していて、そこにある奥義を理解したかったので、自分の困惑を言葉にしました。

 リー姉妹はコンピューターで三段階の働きの解析図を開いてから、話してくれました。

 「主が人類を救う働きには合計で三段階あると全能神の御言葉は私たちに教えてくださいます。一つ目は旧約聖書の律法の時代、二つ目は新約聖書の恵みの時代、そして三つ目はヨハネの黙示録に預言されている神の国の時代です。これら三段階は、神様が異なる時代になさる異なる働きであり、時代、働き、神様の御名、神様が表現される性質はすべて異なりますが、これらはすべて一つの御霊による働きです。この三段階はそれぞれが次の時代に綿密につながっており、それぞれが前の段階よりも高く、奥深いのです。このうちどの段階を欠いても、人類をサタンの支配から完全に救い出すことは不可能です。旧約聖書の律法の時代の間、神様はヤ―ウェという御名で働きをされました。神様は威厳、怒り、慈しみ、そして呪いといった性質を表現されました。神様はモーセを通じて戒めと律法を発布され、創造されたばかりの人間の地上での生活を導き、人々は罪とは何か、どのようにして神様を礼拝すべきか、ヤ―ウェの律法を守ることで神様の祝福と恵みを受けられるということを知りました。律法を破る人は石で撃ち殺されたり、火あぶりにされました。律法の時代末期に近づくと、人々はますます堕落して罪深くなり、もはや律法を守りませんでした。人々は皆、律法によって断罪され処刑される危険にさらされていたのです。そして、神様は人類の必要に合わせて新しい段階の働きをなされ、働くためにイエスとして受肉されました。イエスは恵みの時代を迎え入れ、律法の時代の幕を閉じられました。イエスは愛と慈しみの性質をお見せになりました。神様は悔い改めの道をもたらし、寛容で忍耐強い心を持つこと、敵を愛すること、そして人を何度でも許すことを人々に教えられました。イエスはまた人々に豊かな恵みを与えられ、最後には人類を救うために十字架にはりつけられ、私たちをサタンの支配から救ってくださいました。それ以降、私たちは罪を犯すたびに主イエスに呼び掛けて罪を告白し悔い改めることができるようになり、それにより私たちの罪は許され、私たちは神がお与えくださる平安と喜びを受けられるようになったのです。私たちの罪は主イエスの贖いによって消し去られますが、私たちは未だに堕落したサタン的な性質から抜け出すことができていません。それ故に、私たちは依然として頻繁に罪を犯してしまうので、神様に得られていないのです。私たちを罪から完全に救い出すために、神様はもう一度肉となられ、全能神の名において神の家から始まる裁きの働きをされ、人類の堕落した本性を明らかにし、私たちの不義を裁き、私たちが神の御言葉をとおして自分たちの本性を知り、自分たちがどれだけ深くサタンに堕落させられているかという真理を明確に知り、堕落の根源を知り、不可侵である神の義なる性質を認識できるように、無数の御言葉を表現されました。神様の御言葉はまた、私たちがサタン的な性質から自らを解放するために実践するべき道を指し示してくださっています。神様の御言葉の裁きと刑罰を受け入れて自省し、神様の御言葉が明らかにする自分のサタン的な性質を知り、真理を実践するならば、私たちは次第に罪の束縛から脱却し、物事の見方も徐々に変わり、いのちの性質も時間とともに変化を遂げます。最終的に、私たちは神様を畏れ、悪を避け、神様の御心に沿った人となり、ついには神様に素晴らしい終着点へと連れていっていただけるようになるのです。三段階の働きは神の経営計画と人類の堕落に基づいて実行されています。各段階はその前の段階を基に築かれており、前の段階よりも高く、奥深いものとなっています。もし神様が一つか二つの段階の働きしか行われなかったならば、人類を完全にお救いになることはできないでしょう。三段階すべての働きを行なわれることによってのみ、神様は人類をサタンの支配から完全に救い出すことができるのです。この三段階の働きこそ、神様による人類の完全なる救いの働きなのです。だからこそ、終わりの日の全能神の働きを受け入れることは、主イエスに背くことではなく、子羊の足跡を辿ることなのです。そうする人のみが神に心から忠実な人です。」

 神様の御言葉と姉妹の話を聞いた後、私の心はとても明るくなりました。私は嬉しくなって言いました。

 「では三段階の働きはすべて一つの神によってなされましたが、それはただ異なる時代にあったので、働き、神様の御名、そして神様が表現される性質もそれぞれ同じではなかったということですね。神様は私たちをサタンの支配から完全に救い出すために三段階の働きをなさっただけですね。神の国の時代における全能神の働きは、主イエスの働きを土台に築かれていて、それはさらに高次の新しい段階の働きであり、私たちが全能神の新たな働きを受け入れる限り、罪深い本性を脱却し、清らかになり、神様に救っていただけるのですね。全能神を信仰することは主イエスに背くことではなくて、神様の新たな働きに付いて行って、主をお迎えするということだと今回は理解できます」

 これを聞いたリー姉妹は嬉しそうに言いました。

 「そのような理解が得られるのは神様のお導きです。主に感謝します!神様は終わりの日に人間を清めて救うために受肉され、すべての真理を表され、神が人類を救う六千年の経営計画の奥義を明らかにされました。神様は人類を救う三段階の働きの目的、受肉の奥義、サタンはどのように人類を堕落させたのか、神様はどのように人類を救われるのか、人類の最終的な終着点とは何なのか、私たちは救われて天国に行くにはどのように探求すべきかなどの真理のすべてを私たちに教えてくださいました。真理を愛し神様の御声を聞くことができる人々は、神様の御言葉からそれが主の御声であることに気づき、神様の玉座の前に立ち返ることができます。真理を求めることで、私たちは清らかになり、神様に完全にしていただくことができます。しかし、真理を愛さず終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れず、依然として終わりの日のキリストに抵抗して非難する人々は、災難に遭い、涙しながら悔しさのあまり歯ぎしりすることになります。その人々はさらけ出され、排除されます。神様はこのような実際的な働きによって人々をそれぞれの種類によって分類し、最後には善人を報い、悪人を罰されます。神様の経営計画における働きはすべて神様御自身が実行なさり、その代わりをすることは誰にもできないのです」

 ヤン兄弟が神様の御言葉から二節を読みました。「もしあなたが三つの段階の働き、つまり神の経営(救い)の全計画に対してはっきりした認識を持ち、前の二つの段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きであると捉えることができれば、あなたはこれ以上ないほど強固な基盤を持つことになる。三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

 「三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

 ヤン兄弟は言いました。

 「三段階の働きを知ることは、私たちの信仰において最大のビジョンであり、神様を知る唯一の道でもあります。もし神様の三段階の働きを理解しないままであれば、あるいはもし働きの一段階をとおしてのみ神様を知らずに、神様は単に人類の罪を贖い恵みを与えてくれるだけの神様であるとか神様の御名はイエスだけであるなどと信じていたら、私たちはおそらく神様というものを勝手に定め、神様を自分たちの観念と想像の中に制限してしまうことになります。これはちょうどユダヤ教の司祭長、律法学者、パリサイ人が傲慢にも自分たちの観念と想像を頼りに主イエスの働きを決めつけて、「メシア」と呼ばれないのなら神であるはずがないと信じたのと同じです。彼らはあらゆる機会を利用して主イエスに抵抗し、非難し、最終的には主を十字架に釘付けにするという最も凶悪な罪を犯して神に罰せられました。これはイスラエルの民が二千年近くにも渡って国を失うという事態を引き起こしたのです。現在、宗教界の牧師、長老、司祭、指導者たちの多くは神の働きを認識せず、それぞれの傲慢な本性を頼りに自分たちの観念と想像に執着して、全能神の働きに抵抗し、非難を向けています。彼らはパリサイ人が犯したのと同じ過ちを犯しているのではないでしょうか。神様の三段階の働きのビジョンを認識することができなければ、私たちは宗教界の司祭や指導者に従って神様の働きを裁き、非難し、神様に反抗することをしやすくなってしまいます。これは極めて深刻なことで、確実に神に救われる機会を逃すという結果を招くでしょう」

 神様の御言葉とこの兄弟の話を聞いた後、私は興奮して言いました。

 「今、本当に理解できました。人類を救うための三段階の働きを行なえるのは神様御自身のみで、神様の三段階の働きを理解していないと私たちは自分の観念と想像をもって神様の働きの範囲を決めつけて、神様に抵抗することしかできず、神様の再臨による救いを逃す可能性が極めて高くなってしまうということですね。ということは、私のこれまでの神様への信仰は無駄ではなかったのでしょうか。私は神様に認めていただけないだけでなく、神様を信仰しながらも神様に抵抗する人になってしまいました。考えるだけでもゾッとします。私は謙虚で従順な人になって、自分の観念と想像を捨てて、急いで終わりの日の全能神の働きを考察して受け入れなければなりません」

 私がこう言うのを聞いた母は喜びを込めて「その通りよ!」と言いました。私の姉と他の兄弟姉妹たちも嬉しそうに私に拍手をしてくれました。

 その後、私は積極的に全能神の御言葉を読み、全能神教会ウェブサイトで福音映画を観賞し、兄弟姉妹と集会を開いて一緒に全能神の御言葉を読み、神様の御言葉についての自分たちの理解を話し合うようになりました。神様が肉として現れて働きをされることの奥義、神様はどのようにして裁きの働きをなさるのか、そして神様が御名をお変えになることの意義など、私の以前の信仰生活では分からなかった真理をたくさん徐々に理解できるようになりました。集会に参加したり、全能神教会の福音映画を見ることで、神様の新たな働きをもはや疑うことはなくなり、神様との関係もどんどん近くなっているように感じました。私は心の中でもどんどん解放されていく気がして、全能神は本当に主イエスの再臨であることを確信しました。私が全能神の福音を受け入れてからまだあまり時間は経っていませんが、その期間に今までの二十数年の神様への信仰生活で理解した以上の真理を理解していると感じます。私をお救いくださった神様に感謝します。



説教師の悩み-主イエス・キリストの再臨をお迎えする方法とは

2019-07-25 18:25:49 | 天国への道

 私は教会で説教師をしているのですが、宣教するに値することが何もなく、兄弟姉妹たちに有益な啓示をすることができません。彼らの信仰は全般的に弱く気が抜けてしまった状態にあり、集会になると彼らは居眠りをするか、小声でお喋りをするといった始末です。教会で普段からこういう状況を目にしていると、いつもとてもイライラしてしまいます。私は幾度となく主に祈り、何度も兄弟姉妹たちに集中して注目するように注意しているのですが、彼らは主の再臨を受け入れられていないので、信仰を失ってしまっています。私は何を試しても教会を蘇らせることができません。そして、今は終わりの日で、不信者でさえ大災害が近々起こることを知っています。だからこそ、主が再臨されると考えるのは当然のことだと言えます。ならば、どうして私たちは主をお迎えすることができていないのでしょうか?私たちは本当に、ただ単に雲と空を見つめているだけで主の再臨をお迎えすることができるのでしょうか?私の心はつい最近までひどく混乱していました。

説教師の悩み,主イエス・キリストの再臨をお迎えする方法とは

 私がやる気をなくし、困惑していた丁度その時、私の同労者3人、リュウ姉妹、ヂャン兄弟、そしてワン兄弟が私を尋ねて自宅までやってきました。なので、私は彼らに自分の悩みを話しました。

 ワン兄弟は言いました、「荒廃した教会はもう既に宗教界全体でごく一般的な現象となっています。しかし、牧師と説教師たちの多くは自分たちの地位と生活を維持するためにこれを認めようとしません。なので、彼らは自分たちが得たものにしがみ付いているのです。しかし、災害はその勢力をどんどん増し、ブラッドムーンも既に4つ観測されており、それは聖書の中のヨエル書に記されたこの預言を成就しています:「その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。ヤーウェの大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。」近頃、私はこの預言についてよく考えるのですが、4つのブラッドムーンの出現は「日は暗く、月は血に変わる。」の部分を成就しているように思えます。この預言は、「ヤーウェの大いなる恐るべき日が来る前に」、とも述べています。そして、「大いなる恐るべき日」というのは大災害のことではないかと思うのです。さらに、「その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ」、という部分は大災害が起こる前の時期に神がなさる働きのことを指しているに違いありません。このように、私はこの預言の節を受け入れました。大災害が起こる前に、神の御霊は語り、それは神の御言葉を神のしもべとはしために注がれるように思います。私は聖霊が終わりの日に新たな段階の働きをなさるような気がしています。

 「ここで言う神の御霊の御言葉は、聖霊が教会に語りかけるというヨハネの黙示録に記されている預言に関連しているように思えます。聖書の説明者の大多数が、神は大災害の起こる前に勝利者の集団をお作りになると確信しています。これについて、私は、神の御霊が語ることと神が勝利者の集団をお作りになることは間違いなく関連していて、勝利者全員が神の目前で神のしもべとはしためになると思っています。」

 全員がこれに啓発されて、ワン兄弟に目を向けました。

 私がワン兄弟の言った内容について熟考していた時、ヂャン兄弟がワン兄弟に続いてこう言いました:「もし本当にそうだとしたら、私たちは聖霊の御言葉を探しているべきでしょう。私たちは神から排除されて大惨事を被ったパリサイ人のようになってしまうのを防ぐために、聖霊の御言葉のある場所を見つけるべきです。」

 これを聞いて、私は心の中で更なる希望を感じました。私は言いました:「あなたの交流を聞いていたら、主イエス様のこの御言葉が頭に浮かびました、「 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書07章 07節)、「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」(マタイによる福音書 05章 06節)私たちは急いで聖霊の御言葉を探して、聖霊が語りかけている教会を見つけるべきだと思います。そうしないと、うかつにぶらぶらしているだけでは主から捨てられてしまわないかと心配です。」

 すると、リュウ姉妹が抑えた口調で言いました:「神の御霊が語るということは、聖霊が教会に語りかけているということだとあなたは言われましたが、私はそれを受けて東方閃電の信者たちが全能神を主の再臨として証言していることについて考えました。全能神は真理をたくさん表され、教会を起点に裁きの働きをされ、現在は勝利者の集団を作っておられます。これは神の御霊が神のしもべとはしために神の御言葉を注いでおられるということに関連していると思いますか?もしそうならば、私たちは早急に東方閃電が神の御業なのかどうかを調査するべきです。」

 ワン兄弟はこう言いました:「はい、私もそう聞きました。主の再臨をお迎えすることについてですが、主イエス様はとても重要で、かつ重大なことを仰り、それは私たちが賢い乙女になることを後押ししてくださります。主はこう仰ったのです:「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25章6節)これより、主は再臨なさる時に人々を遣って、主を待ちわびている人々全てにその御声をお伝えになることが分かります。私たちは主の再臨を証言する人々がいると耳にしたら、賢い乙女になって、注意深く主の御声に耳を傾けるべきです。そうすれば、私たちは主の再臨をお迎えすることができるでしょう。」

説教師の悩み,主イエス・キリストの再臨をお迎えする方法とは

 すると、リュウ姉妹がこう言いました:「私には遠く離れて暮らし全能神を信仰するようになった従妹がいるのですが、彼女は私に福音を説いてくれました。私はそれについて彼女と議論したのですが、私たちの教会の牧師が東方閃電の持つ書籍を読む人は除名すると脅かしてくるので、それ以上は調査しませんでした。私の従妹は主の預言について話してくれました。例えば、ヨハネの黙示録16章15節「 見よ、わたしは盗人のように来る。」、それからマタイによる福音書25章6節、「 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」、さらにヨハネの黙示録03章20節「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」主の御言葉によると、主は盗人のように来られ、誰かが 「夜中」 に 「花婿が来る」 のを目撃するということは、神は人々が知らぬ間に人の子として受肉され、御言葉を表して働きをするために静かに、そして秘かに来られるということだと、彼女は言いました。それは全ての人が知ることではありません。主の御声が聞けて、主の御心に気が付く人たちのみが主を受け入れることができるのです。 私の従妹は、主の再臨の証言する人がいると聞いて、注意深く主の御言葉に耳を傾ける人なら誰でも神の御座の前に引き上げられ、主と食事をするとも言いました。」

 ワン兄弟はこう言いました:「これらの預言の中で、主イエス様は再臨なさる時に人々全員が主の御姿を目にするわけではないと確かに仰っておられます。主の御声を聞く人々のみ、主をお迎えすることができるのです。主の来臨をお迎えしたければ、主の御声を聞くことにとても慎重な注意を払う必要があるようです。」

 ヂャン兄弟は考え込むように私たちの方を見てこう言いました:「あなたの交流はとても合理的です。天地は滅びても、主の御言葉は一画もすたることはないのです。主はこう仰りました、「そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネによる福音書14章3節) これは間違いなく実現します。主の預言がどのようにして実現し、成就されるかについてですが、私たちには理解できない奥義と真理があるはずです。私たちはただ単に牧師に従って東方閃電を拒否し、非難するのではなく、急いで調査に取り組むべきのように思えます。そうしなければ、私たちは主に捨てられてしまい、それを後悔する時間すら無くなってしまいます!」

 ワン兄弟はこの題目について続けてこう言いました:「そうですよ、私たちは主の再臨をお迎えし、天国に引き上げていただくために人生の半分も主を信仰してきたのです。私たちは既に主の再臨について耳にしている訳ですから、探求して調査するべきで、牧師たちからの抑制に屈しているべきではありません。『タンジェリンは食べてみないと酸っぱいのか、甘いのかも分からない』、という諺があるくらいですから。」

 私は兄弟姉妹たちの交流を聞いて、自分の抱える困難を解決できたことを主に感謝します。私は宣教することがないという問題を解決するため、これ以上は時間を浪費せず、直ちに聖霊の働きが宿る教会を探しなければならないと思います。もし主が本当に再臨されておられるのなら、私は少なくともこうすることで、天国に引き上げられるという人生において極めて重大な出来事を兄弟姉妹たちが逃してしまう原因にはならずに済むことでしょう。



「一度救われたら、永遠に救われることができる」のか

2019-07-18 09:49:06 | 天国への道

救われる」とは何かについての思考

   真心をもって主を信じるすべての兄弟姉妹はこう思っています。自分は主イエスを信じたので、もう救われました。聖書に「実に、人は心で信じて義うとされ、口で公に言い表して救われるのです」(ロマ10:10) と書かれているからです。こういうわけで、主にある多くの兄弟姉妹は「信じることによって救われる」としたら、永遠に救われることになると思っています。では、このような観点は神の言葉、真理に合うでしょうか。次に、本当に救われるとはどういうことかという面の真理について、わたしたちは一緒に交流しましょう。

   わたしたちはみなこのことを知っています。律法の時期、ヤーウェ神がモーセにイスラエルの民をエジプトから導き出すように命じられる前に、すべてのイスラエルの民はエジプトのファラオの手の下で奴隷になって、苦難をなめ尽くし、自由のない生活を送っていました。その結果、彼らの苦しい叫びがヤーウェ神の耳に達しました。ヤーウェ神はイスラエルの民がファロオに虐待されるのを見るに忍びなくて、イスラエルの民をエジプトからカナンの地に導くようにモーセを召されました。イスラエルの民がファロオの手の中から救い出されて、ファロオの暴政から逃れる時、イスラエルの民は「救われ」ました。しかしこれは、彼らがもはやヤーウェ神の救いを必要としないことを意味するのではありません。だから、イスラエルの民がカナンに入る前に、ヤーウェ神はモーセを通して律法を発布されました。それは、イスラエルの民がどのようにヤーウェ神を畏れるか、どのようにヤーウェ神に仕えるか、どのような行動が義なのか、どうすればヤーウェ神の祝福を得られるか、どのような行動が悪なのか、どうすればヤーウェ神に呪われるか、そして人と人がどのように付き合うべきか、どのように生活すべきかなどを知るためでした。神の律法の時期の働きによって、イスラエルの民の生活が次第に正しい軌道に乗るようになり、混乱した局面がなくなりました。特に律法のゆえに、イスラエルの民は罪を犯すとは何か、どのように神にいけにえをささげれば自分の罪をなくすことができるかを知りました。こうして、イスラエルの民はもう一度「救われ」ました。

一度救われたら、本当に永遠に救われるのか。

   ところが、律法の時代の末期になって、人はみな律法を守れなくなり、神を畏れる心を失ってしまい、その結果盲の動物、足なえの動物をいけにえとしてヤーウェ神の祭壇にささげました。このままでいけば、人はみな、律法によって罪定めされて死刑にされるという危険に直面します。人を死亡の脅威から救うためには、神は受肉して地上に来て贖いの仕事をし、自分を人の罪祭として十字架につけなければなりませんでした。人が主イエスに祈り主に罪を告白し悔い改めさえすれば、罪の赦しを得ることができます。このように、律法の下の罪人はサタンの手の中から贖われ、もはや律法によって罪定めされて死刑にされることがなくなり、主イエスから与えられた恵みの中に生きるようになりました。こうして、律法の下の人はもう一度「救われ」ました。それは聖書に書かれているとおりです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ロマ8:1)。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ロマ10:9)。ここの「罪に定められることはありません」は、律法によって罪に定められないことを指します。ここの「口で公に言い表し、心で信じるなら、あなたは救われる」は、主イエスを信じ、主イエスの十字架の救いを受け入れた後の人は律法を守れなくて律法によって死刑にされることはないことを指します。つまり、わたしたちが主イエスを信じることによって、わたしたちはもはや罪に定められなくなり、神もわたしたちの違犯を覚えなくなり、こうしてわたしたちは救われました。しかしわたしたちはこのことを知るべきです。すなわち、わたしたちの罪が赦されたことは、わたしたちに罪がないことを証明しません。なぜなら、あらゆる信徒は依然として、昼間に罪を犯し、夜に罪を認めるという状態の中で繰り返して生きていて、人の本性の中の根深い罪の根はまだ解決されていないからです。例えば、人の傲慢さ、独りよがり、貪欲、嫉妬、恨み、邪悪、エゴイズムなどのサタン的な毒素は依然として毎日わたしたちに伴っています。そのため、わたしたちは自制できずに罪の中に生きるようになりました。わたしたちは絶えず主に罪を告白しますけれども、わたしたちの罪は減っておらず、かえって絶えず増えています。多数のクリスチャンは家にいる時でさえ、主の栄光を生かし出すことができません。彼らは肉親と一緒にいる時、細かいことにけちけちします。教会の同労者たちの間にも常に嫉妬、論争が生じます。信徒は心がいつもこの世によって引きつけられるので、この世の邪悪な潮流を追求し、肉体の享受を貪り、罪の中に生きています。これらの言動は、人がまだ徹底的に「救われていない」ことを十分に証明します。つまり、わたしたちは主イエスに頼れば、罪の赦ししか得られず、主イエスが当時、人の罪を犯す本性を徹底的に取り除くという仕事をなさらなかったので、わたしたちは本当にきよくなることはできません。



   だから、「一度救われたら永遠に救われる」ということは、人の観念、想像であって、全然真理に合いません。主イエスは、一度救われたら永遠に救われるという言葉を言われたことがありません。主イエスの贖いの仕事はただ、人にどのように忍耐し、へりくだり、悔い改め、罪を告白するかを教えるのです。それはただ人が外側で変わるようにし、人の本性の本質を変化させません。わたしたちの置かれている状態から見れば、わたしたちは本当には「救われてい」ません。

では、わたしたちはどうすれば本当に救われることができるのか。

   これについては、わたしは多くの聖句を調べました。主に感謝します。わたしはやっと聖書の中から答えを見つけました。聖書にこう書かれています。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」(ペテ一1:5)。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(ヘブ9:28)。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(ヨハ12:48)。ヨハネの黙示録にはこう預言されています。「また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。わたしが聞いたその音は、琴を引く者たちが竪琴を引いているようであった。彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。彼らは女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである」(黙14:1-5)。

   以上の聖句からわたしたちが分かりますが、神は世の終わりに一段階の仕事をなさり、しかもこの段階の仕事は主イエスのなさった贖いの仕事と異なります。それが聖書に述べられている裁きの仕事である可能性が非常に大きいです。裁きによって、人の罪はきよめられ、最終的に人は徹底的に罪の縛りから逃れます。それは「……その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである」という預言のとおりです。これは、人がきよめられたことのしるしではありませんか。わたしたちは、あの時こそ罪の性質を徹底的に脱ぎ捨てることができるかもしれません! これで分かりますが、わたしたちの罪の性質がきよめられることができるかどうかは、神のなさる仕事と関係があります。ヤーウェ神と主イエスのなさった仕事は、人を罪から解放する仕事ではなく、ただ人に罪を自覚させ、罪を認めさせるものですから、人はどのように実行しても、罪の縛りから逃れることができません。こういうわけで、人は徹底的に「救われる」こともできません。世の終わりに神が人をきよめる仕事をなさる時こそ、人は徹底的に「救われる」機会があります。それは聖書に「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」(黙22:14)と預言されているとおりです。主の啓きに感謝します。それによって、わたしは本当に救われるとはどういうことか、そして最終的にきよめられるための道を知りました。

   兄弟姉妹たちよ、わたしたちは今日ここまで交流しましょう。異なった理解やアドバイスがあれば、いつでもわたしたちに連絡してください。すべての栄光、賛美が神にありますように、アーメン!


主が来て戸をたたかれる時、わたしたちはどのように迎えるべきか

2019-07-17 23:29:33 | 天国への道

   「恋しい人は戸口で戸をたたいておられる。夜の露で彼の髪の毛が濡れた。わたしたちは早く起きて戸をあけよう。恋しい人が離れないように。……」

   この歌は『恋しい人が戸口で戸をたたいておられる』といいます。主を信じた後、兄弟姉妹たちはみなこの歌を歌うのが好きです。この歌を歌うたびに、非常に感動し、深く心を打たれます。わたしたちはみな恋しい人を引き留めたいです。しかも、恋しい人が来て戸をたたかれる時、いちばん初めに恋しい人の声を聞いて主を迎える人になりたいです。主を信じるわたしたちはみなこのように待ち望んでいると言ってもいい。だが、主が来て戸をたたかれるとはどういう意味ですか。戸をたたかれる主を、わたしたちはどのように迎えるべきですか。




   恵みの時期、主イエスが贖いの仕事をなさる時、主の行われた事、および主の教えはユダ全域に宣べ伝えられました。彼の御名はその世代の人々の間でセンセーションを巻き起こしました。主イエスが弟子たちを連れてあちこち当時の人に福音を宣べ伝えておられることは、彼が人の戸をたたいておられることを象徴しています。主イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタ4:17)と言われました。それは、人が主の前に出て、悔い改め、罪を告白し、罪の赦しを得、律法の罪定め、呪いから逃れて神に贖われるためです。当時、多くのユダヤの民は主イエスの行われたしるしを見、また主の言葉には権威、力があることを見ました。例えば、主イエスは五つのパンと二匹の魚を取って感謝の祈りを唱えると、五千人を満腹させることができたとか、主イエスの一言が風と海を静めることができたとか、彼の一言が死人ラザロを復活させて、墓から出させることができたなどです。主イエスの言葉が発せられると、事が成就しました。それには、天地万物を創造された造物主の言葉と同じ権威、力があります。しかも、主イエスの人を教える言葉、および彼のパリサイ人を叱る言葉はみな、人の話せない言葉です。主イエスの言葉から流露されるものはみな神の性質、神であるものであり、神の権威、力を表現しています。実は、主の言葉と主のなさったすべてのことは、人の心を揺り動かし、人の心を動かしています。当時のユダヤ人はみな、主が彼らの戸をたたいている音を聞いたと言ってもいい。

   当時のユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人は観念、想像を固守していて、主イエスが来たるべきメシヤだと認めませんでした。彼らは聖書の預言の文字にしがみついていて、来たるべき方はインマヌエル或いはメシヤと呼ばれ、しかも処女から生まれるのだということだけを信じていました。でも、彼らの目はマリヤに夫がいるのを見ました。だから、彼らは主イエスは聖霊からの受胎によって生まれたのではなく、処女から生まれたのではないと言い、主イエスが大工の息子だと中傷し、そうすることで主イエスを否み、罪定めしました。彼らはまた、主イエスが悪霊のかしらベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだと冒涜しました。主の働き、言葉とパリサイ人のデマ、誹謗に直面している時、多くのユダヤの民はパリサイ人の言葉を信じることを選び、主の宣べ伝える道を拒絶しました。主が戸をたたいておられる時、彼らは主に対して心を閉ざしました。主イエスが言われたように、「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない』」(マタ13:14-15)。預言者の預言はわたしたちにこういうことを告げています。主がわたしたちの戸をたたかれる時、すなわち神が言葉を言い、声を発し、新しい仕事をなさる時、主はわたしたちが主の声を聞き、主のみわざを認識し、主の心を理解することを望んでおられます。わたしたちが神に心を開いて、戸をたたかれる主を受け入れたら、主はわたしたちを導いて、わたしたちが主の声を聞き分けられ、神の出現を見るようにされます。当時の多くのユダヤの民はパリサイ人のデマを信じたため、主に心の扉を閉ざし、神の声を聞き、主の贖いを受け入れることを拒み、主イエスにつき従う機会を失ってしまいました。その結果、神に逆らった彼らは二千年近くにわたる国の滅亡のつらさを味わいました。それに引き換え、主イエスにつき従うことのできる弟子ペテロ、ヨハネ、ヤコブなどは主の言葉を聞き、主のみわざを認識した後、主イエスが来たるべきメシヤだと分かり、そのため主の足跡に従うようになり、主の救いを得ました。

   世の終わりの主の再来の日に、主はいつでもわたしたちの戸をたたかれます。そのため、わたしたちはいっそう目を覚まして用意をしなければなりません。主イエスはこう言われました。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙3:20)。「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」(黙2:7)。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハ10:27)。聖書の言葉から分かりますが、主イエスは再来される時、また声を発し、言葉を言って新しい仕事をなさいます。これは、主がわたしたちの戸をたたかれることです。すべての賢い乙女は主の声、言葉を聞いたら、積極的に進んで探究し、主の声をまじめに聞きます。主の声だと分かったら、主の再来を受け入れます。主は信実ですから、この期間きっと、主を渇仰し、求める人が彼の声を聞くことができるようにされます。彼はほかの人に「主が来られました!」と叫ばせることによって、わたしたちに彼の到来を知らせるかもしれません。主イエスがわたしたちに警告したように、「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」(マタ25:6)。わたしたちは主が再来されたという福音を宣べ伝える教会から、あるいはインターネットやラジオ放送局やFaceBookから諸教会への神の声、言葉を自分の耳で聞くことができる可能性もあります。どうであろうと、主はわたしたちが賢い乙女になり、いつでも目を覚まして主の声を聞くことを望んでおられます。ユダヤの民のように、観念、想像によって主が戸をたたかれるということを扱ってはならず、一部の宗教の反キリストの嘘、デマを盲目的に信じて、主の召しを拒絶することによって、主の再来を迎えて天の国の中に携え上げられるという機会を失うようなことがあってはなりません。主の声を聞いたら、主を迎え、主に対して戸をあけるべきです。そうしてこそ、わたしたちは主の御座に携え上げられて小羊の宴席に出ることができます!


一度救われたら、永遠に救われるというのは本当か

2019-07-16 20:27:37 | 天国への道

   聖書にこう書かれています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ロマ10:9-10)。多くの人はきっとこの二節をよく知っています。聖書のこの言葉のゆえに、多くの人は自分が主の御名を呼び、心の中で主イエス・キリストを信じることが、自分が救われたこと、しかも自分が一度救われたら永遠に救われ、もはやほかの救いを受け入れる必要がなくなることを意味している、と思っています。では、このような観点は神の働きについての事実に合いますか。一度救われたら永遠に救われるというのは本当ですか。

   真理を求めることによって、わたしは旧約聖書には「救い」についてこう述べられているのを見ました。「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」(ヨエ3:5)。「主は油注がれた者の力、その砦、救い。お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください」(詩28:8-9)。この二箇所から分かりますが、律法の時代では、ヤーウェ神の御名を呼び、律法を守ったら救われました。律法の時代での神の仕事、およびこの仕事によってもたらされる効果を見れば、わたしたちは律法の時代で述べられている「救われる」がどういう意味かが分かります。周知のように、最初の人類は罪とは何かを知らず、人を殺し、みだらなことをし、姦淫し、近親相姦をし、偽りの神を拝んでも全然恥ずかしがらず、また良心のとがめを受けません。だから、ヤーウェ神は十戒と六百あまりの律法を発布されました。その目的は、最初の人類が罪とは何か、どんなことをすれば神に憎み嫌われ、打ち殺されるかを知ることです。イスラエル人はヤーウェ神の定めた律法と戒めのゆえに、神が何を憎み嫌うか、何が好きかが分かりました。そのため、彼らはことを行う時、神の要求にしたがって行うことができました。神の言葉を聞き、ヤーウェ神の律法、戒めを守る人たちは自分の信仰のゆえに、神の守りを得るようになり、天から下される火によって焼き殺され、石で打ち殺されることがなくなります。つまり、彼らはヤーウェ神の発布した律法、戒めを守るため、「救われ」ました。あの時の人は罪を犯せば、人の罪を償う燔祭をささげることができました。そうすることによって、彼らは贖われて死を免れました。これは、律法の時代の「救われる」の真意です。



   律法の時代の「救われる」と神の働きとの関係を知った後、わたしたちはそれを恵みの時代の神の働きと結びつけて考えましょう。そうすれば、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」という言葉の真意を容易に理解できます。律法の時代の末期、人はヤーウェ神の人に対する要求を知っていましたが、人の堕落した程度がひどくなったため、もう律法を守ることができなくなりました。彼らは悪い動物をよい動物と偽り、盲の動物や、足なえの動物や、最初に生まれたのではない動物をいけにえとして神にささげて、神をごまかしました。だから、あの時の人はもう罪悪の中に生きているようになりました。このままでいけば、人はきっと律法に背くために罪の中に死にます。そういうわけで、主イエスは来られた後、贖いの仕事をし、罪のない聖なる肉体をもってあらゆる人の罪を担われました。それゆえに、わたしたちが主の御名を呼び、主に悔い改めさえすれば、罪の赦しを得ることができます。そうなったら、わたしたちが罪を犯すために律法によって罪定めされて死ぬことがなくなります。こうして、主を信じるわたしたちは主イエスの贖いのゆえに「救われ」ました。これは、恵みの時代の「救われる」の本意です。

   主イエスの罪祭を得たら、安全になり、主イエスの再来の時、きっと主と共に宴席に着き、主と共に幸せを享受することができると、多くの人はそう思っています。では、罪の赦しを得たわたしたちが神の一度の贖いのゆえに永遠に「救われる」というのは本当ですか。実は、わたしたちが主イエスを信じることによって罪の赦しを得たことは、わたしたちが罪を持たなくなることを意味しているのではありません。わたしたちの罪性はやはりわたしたちの内側に存在しています。わたしたちはやはり常に罪を犯し、自制できずに、「自分のためを考えてくれない人には、天地の罰が当たる」というサタンの処世の哲学によって生きます。名誉、地位、利益のためには、わたしたちは争い合い、殺し合います。今、人と人は互いに欺き合い、互いに腹を探り合って暗闘します。サタンの哲学によって生きているため、人は利己的で傲慢で狡猾でおごり高ぶり、完全に正常な人性の中の良心、理知を失いました。天災や人災、迫害、患難が起こったら、人は神を誤解し、怨み、しかも神を裏切ります。長年主を信じたとしても、祝福を得ようという意図があり、働き、費やすと同時に神と取引します。人が労苦し、働くのはただ冠を得、天国に入るという祝福を得るためです。わたしたちはいつも主の言葉を実行できず、また全然神を畏れる心を持たないので、罪の中に生きていて、つらくてたまらないのです。そうだとしても、わたしたちは罪の束縛から抜け出す力を持ちません。それはローマの信徒への手紙第7章18節から20節で書かれているとおりです。「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。ここから分かるように、わたしたちは主を信じることによって、罪の赦しだけを得、わたしたちの罪を犯すサタン的な本性はずっと解決されていません。わたしたちは罪の中に生きていて、自制できずに罪を繰り返して犯します。こうして、昼間に罪を犯したら、夜に罪を告白するという悪循環に陥りました。罪が支払う報酬は死です。わたしたちの罪が根絶されなければ、わたしたちは永遠に罪に苦しめられ、最終的にわたしたちの犯す罪のゆえに死にます。

   では、どんな人が神に救われて天の国に入ることができますか。ヨハネの黙示録第14章5節でこう預言されています。「その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである」。この節から分かるように、最終的に神の国に入る人はきよくて、とがめられるところがないのです。しかし、わたしたちは汚れていて、毎日罪を犯し、罪を告白します。それではどうして神の国に入ることができるでしょうか。罪祭のゆえに一度で永遠に「救われる」ことが可能だろうか。神は「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(レビ11:45)と言われました。わたしたちが知っているように、神の本質は聖です。サタンに属するもの、罪に属するものはどうして神の国に残ることができるでしょうか。罪の中に生きている、汚れ、堕落したわたしたちが神に会ったら、神に打ち殺されるのではありませんか。これで分かるように、わたしたちが主イエスの十字架による救いによって、一度で永遠に救われることは不可能です。では、わたしたちはどうすれば本当に神に救われることができますか。わたしたちはまず、聖書にはどう書いてあるかを見てみましょう。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」(ペテ一1:5)。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。……」(ペテ一4:17)。「この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。彼らがわが名を呼べば、わたしは彼に答え……」(ゼカ13:8-9)。聖書のこれらの言葉から分かりますが、十字架による救いを得たわたしたちは、終わりの時に現される救い、再来される主の裁き、そして神のさまざまな試練、精錬を受けなければなりません。神の裁き、試練、精錬によってこそ、わたしたちは罪性を取り除き、サタンの暗やみの権威と、利己的だという腐敗したサタン的性質を逃れることができます。そうなったら、人は恵みのために神を信じることがなくなり、神と取引することもなくなり、被造物の本分を尽くして神を礼拝し、真理を追い求め、命を得るために神を信じるようになります。もし、わたしたちの物事を見る観点、わたしたちの人生観、価値観が神の心にかなうようになり、わたしたちは神の義なる性質を認識して本当に神を愛し、神を満足させることができるようになり、堕落した性質が本当に変わった、神に新しく造られる人になるとしたら、わたしたちは精錬された後の、その三分の一の生存者の一員、神に良しと認められ、神に救われて、天の国に入る人になることができます。

   ヨハネの黙示録にこう書かれています。「わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた』。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(黙19:6-8)。神の世の終わりの裁きを受け、神から真理、命を得て、罪悪を脱ぎ捨ててきよくなる人だけが、「輝く清い麻の衣を着せられた」人です。このような人こそ、神から与えられる永遠の救いと、天の国の中に携え上げられる資格を得られます。これで分かるように、「一度救われたら、永遠に救われた」ということは、人の観念、想像であり、全然成り立ちません。わたしたちが神の世の終わりに裁かれず、きよめられなければ、全然天の国に入る資格がありません。わたしたちがずっと自分の観念、想像を守って真理を求めず、神の世の終わりの働きを探求したり、調べたりしないなら、最終的にわたしたちはきっとこれらのもっともらしい宗教的観念によって葬り去られます。これは自業自得です!