賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

誠実な人になってこそ、天の国に入ることができる

2019-07-15 19:33:08 | 天国への道

   聖書の中で、主イエスはこう言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ18:3)。わたしは主イエスのこの言葉を読むことによって、次のことが分かりました。神は誠実な人が好きです。彼はわたしたちが神の前で偽りを言わず、己を偽らず、子供のように無邪気で単純であって、誠実な人になれることを望んでおられます。なぜなら、誠実な人になってこそ、天の国に入ることができるからです。では、わたしたちがどのように実行すれば誠実な人になれますか。この問題については、わたしはいつも真理を求め、考えます。主の導きに感謝します。今、わたしたは誠実な人になるための実行について、いくらかの認識を持つようになりました。次に、わたしは皆さんとわたしの認識を分かち合いましょう。




   一、祈る上で、誠実な人になるための実行をするべきです。ヨハネによる福音書第4章23節から24節で、主イエスはこう言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。この箇所の言葉を通して、わたしはこのことを知りました。誠実な人になるためには、まず、祈りの中で心からの言葉を神に話すことを訓練し、自分の本当の状態、自分の実際の困難を神に話すことを学ぶべきであり、他人に祈ってみせてはならず、また聞こえのよい言葉、心にもない言葉を言って神を欺いてはなりません。それはルカによる福音書第18章10節から14節で書かれているとおりです。「二人の人が祈るために神殿に上がった。一人はファリサ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。この箇所の言葉の中で、わたしたちはファリサ派の人の祈りと徴税人の祈りが全く違うのを見ました。徴税人は非常に簡単な祈りをして、ただ主に罪人の自分を憐れむことを求めましたが、心からの言葉を言いました。彼は心から自分の間違いを認め、また自分の行いを悔いて、神に彼を憐れむことを求めました。だが、ファリサ派の人は祈る時、ただ聞こえのよい言葉を言って、神の前で手柄話をし、人の前で自分をひけらかすのでした。彼は神に心を開いて、心からの言葉を神に話しませんでした。こういうわけで、ファリサ派の人の祈りはいくら聞こえがよくても、神に良しとされません。主イエスはファリサ派の人を暴露した時にこう言われました。「また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(マコ12:40)。だから、現実生活の中で、わたしたちはまず祈る上で神にうそ偽りのない言葉、心からの言葉を話すべきであり、自分の一言一行も神の監視を受けなければなりません。それでこそ、誠実な人になるための道を歩むことができます。

   二、誠実な人になるためには、うそ偽りのない言葉を言い、うそを捨てなければなりません。マタイによる福音書第5章37節で、主イエスはこう言われました。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」。主イエスの言葉から分かるように、主はわたしたちがありのままを言い、事実どおりに言い、尾ひれをつけないで、正確に言うことを要求されました。わたしたちがこのように誠実に話すことができなければ、悪を行う人になってしまいます。思い返してみれば、わたしは日常生活の中でいつも自分の利益、メンツ、地位のために、尾ひれの付いた話をし、事実と一致しない言葉を言いました。例えば、ある時、わたしは他人の機嫌を取るために、心にもない言葉を言って他人にこびへつらい、他人をおだてました。またある時、他人がわたしをばかにしないように、事実を隠したり、自分を持ち上げるような言葉を言ったりして他人にいい印象を残しました。しかも、自分の仕事の中で間違いや手抜かりがある時、責任を追及されないために、仕事の報告をする時、わざと問題を小さくしました。これらの、うそをつく言動はわたしたちの日常生活の中でいつも現れます。それは、誠実な人になるための真理を実行するのに解決しなければならない問題です。では、うそをつき、欺くという問題はどのように解決します。まず自分に厳しく要求しなければなりません。わたしたちはどの言葉を言う時も神の監視を受けるべきであり、毎日、自分の言葉を記録して、自分の言葉が事実に合っているかどうかを反省し、自分の言葉に意図があるかどうかを調べるべきです。言葉を言う時、自分の言葉に意図があると気づいたら、祈って自分の意図を裏切るべきです。そうすれば、日常生活の中で人に言ううそがますます少なくなります。

   三、本分を尽くす上で、神をごまかし、欺いてはなりません。マタイによる福音書第22章37節から38節で、主は人にこう要求されました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である」と。主の言葉から分かるように、クリスチャンとしてのわたしたちは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、わたしたちの神を愛しなければなりません。だから、本分を尽くす上では、神と取引してはならず、いかなる意図や目的も持たずに自分にできる限りことをし、神のために完全に自分自身を費やすべきであり、神をごまかしてはなりません。思い返してみれば、わたしは自分の利益を犠牲にして苦しみを受け、代価を払わなければならなかった時、自分の肉体を思いやっていて、神を満足させるために心を尽くし、力を尽くして自分の本分を尽くすことができず、神をごまかして、たやすいやり方で本分を尽くし、手間を省くことばかり考えて効果を求めず、また、自分の本分が神の心を満足させたかどうかを考えませんでした。例えば、わたしは新しい信者に真理を注いだ時、新しい信者を集会に参加したくさせるだけで満足し、新しい信者が真理を理解したかどうかを重んじませんでした。兄弟姉妹たちが消極的になり、弱くなるたびに、わたしは兄弟姉妹たちと真理を交流します。彼らが当時消極的にならなくなると、わたしは満足しました。だが、その後、わたしは兄弟姉妹たちの状態に関心を持ち続けず、また、彼らを続けて助け、 支えることをしませんでした。これらは、本分を尽くす上で神をごまかし、欺くことの表れです。だから、本分を尽くす上で神をごまかすという問題を解決したいなら、わたしたちは自分の本分が合格したかどうか、自分が身を入れて本分を尽くしたかどうか、自分が全力を尽くしたかどうか、ごまかそうという考えや、ごまかしの状態があるかどうかを常に反省しなければならず、また、常に神に祈り、神の監視と兄弟姉妹たちの監督を受けなければなりません。一定の期間このように実行すれば、本分を尽くす上での、ごまかしの状態とごまかしの態度は次第に少なくなります。

   四、誠実な人になるためには、本当に心を神に渡さなければなりません。これは誠実な人になるための、最も肝心な実行です。神はこう言われました。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。……むなしくわたしをあがめている」(マタ15:8-9)。この言葉から分かるように、神は人の口先だけの信心、礼拝を必要とせず、人が心を完全に神に渡し、祝福されても、災いを受けても、神を信じる心を変えず、神の支配と按配に従い、自分の理由と条件を話さず、また自分の利益と得失のために言い争わず、神のために完全に自分自身を費やすことができると望んでおられます。昔の多くの聖徒は神のこの要求を満たしました。わたしたちは例をいくつかあげましょう。ヨブは試練を受けた時、家産、子女を奪われ、しかも自分の肉体が病気に苦しめられていました。家族と友人が自分を理解してくれないという状況の下で、ヨブはなおも自分の忠誠を堅く保っていて、神を怨んだり、神を誤解したりせず、ただ神の支配を信じ、真心をもって神に従い、不平を言わず、また神に対する信仰を失わず、真心を神に渡しました。アブラハムもそうでした。神はアブラハムが彼の独り子イサクを燔祭としてささげることを要求した時、アブラハムは事の是非を論じず、神を怨まず、自分が百歳に得た最愛の息子を無条件に神に返しました。ペテロは同様に神の心を満足させました。主のためには、彼はさかさまに十字架につけられました。これらの人は真心を神に渡した人です。神の目には、彼らは誠実な人です。しかしわたしは現実生活の中で、ヨブ、ペテロたちのように無条件に神に従い、神を礼拝することができません。わたしは天の国の祝福を得るためだけに代価を払い、費やし、義なる冠を得るためだけに労苦し、働きます。わたしがこのような観点と態度を持つことは、わたしが神を信じるが、心の中に神がなく、心を神に渡せないことの表れです。ひどく言えば、それは神を欺くことの表れでもありす。だから、わたしたちが神に喜ばれる誠実な人になりたいなら、心を神に渡し、あらゆることで神に祈り、神に依り頼み、神の御心を求め、そして神の御心と要求にしたがって行うべきであり、どんなことをしても私利を図らず、神のすべての支配、按配に従うべきです。

   誠実な人になりたいなら、わたしたちは以上の四つの面で訓練し、実行しましょう。まず祈りの中で、神に心からの言葉を言うべきです。何かあったら、うそ偽りのない言葉を言わなければなりません。本分を尽くす上では、責任感を持つべきであり、神をごまかしたり、欺いたりすることなく、真面目に働くべきです。もし試練が臨んだら、わたしたちは祝福を得るか、災いを受けるかをかまわず、神の御心を求め、神の支配と按配に従うべきです。わたしたちがずっとこのように訓練し、実行すれば、神に喜ばれる誠実な人になれます。


主のために懸命に働くことは主を愛しているということなのでしょうか?

2019-07-14 21:52:20 | 天国への道

私の疑問:主のために懸命に働くことは主を愛しているということなのでしょうか?

   10月のある日、兄弟ヤンと私がヤン村に福音の伝導に出向いた時、私たちは水田を通りかかり、村民たちが炎天下で米の収穫をしているのを目にしました。私は思わず止まってこう考えました:「うちの米も収穫するべきだなあ。うちの奥さんは一人でできるかな?」 その時、兄弟ヤンは私の胸中を察したかのようにこう言いました:「兄弟ウェン、お宅の米も収穫できるころではないですか?あなたのように家族を残して何年も福音を伝導できる人を見るのは本当に稀なことです!」

   私はかすかに笑みを浮かべてこう言いました:「主なる神様に感謝です!兄弟ヤン、私はあなたとお話したいことがあります。私は最近この疑問について考えているんですよ:ここ数年、私たちは主のために懸命に働き、主のために家族を残し、仕事を諦め、あちこちで主の福音を伝導し、否定的で弱気になっている兄弟姉妹たちを支えてきましたが、私たちは本当に主を愛する者たちとみなされているのでしょうか?私たちは主が再臨なさる時に天国に連れて行っていただけるのでしょうか?



   兄弟ヤンは自信満々に確固たる口調でこう言いました:「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。……また、きたるべき世では永遠の生命を受ける」(マルコによる福音書 10:29-30)。 主イエス様はこのようにとてもはっきりと仰りました。全てを捨てて主のために懸命に働いて代償を払い、教会を広めるために福音を伝導し、兄弟姉妹たちを導くことができていれば、私たちは主の御旨と合致しています。主の仰る通りに行動していれば、私たちは神を愛する人であり、主が再臨なさる時、主は私たちを天国へ御連れくださります。これは間違いありません。」

   私はこう言いました:「兄弟ヤン、私もあなたと同じように考えていました。しかし、ある日、私は主イエス様がこう仰られていたのを目にしたんです:「『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:22-23)。主の名において福音を説き、悪霊を追い払い、奇跡を起こしたこの人々は沢山苦しみ、沢山の犠牲を払っていたに違いありません。彼らが主を愛する者たちであるというのは理にかなってはいますが、ならどうして主イエス様はそれでも彼らを非難して、彼らのことを悪人と御呼びになられたのでしょうか?私はこれらの御言葉を読んだ後、私たちは主イエス様が仰ったことを誤って解釈していたのではないかと感じています。私たちは単純に自分たちが主を愛する者たちであるとは言えないような気がするのですが、どう思われますか?

   短い沈黙の後、兄弟ヤンはこう言いました:「その通りです!私は当時これには一度も注目したことがありませんでした。私もあなたが交流された後にこれは些細な問題ではないと気が付きましたよ。ちょうど同僚のジャンを訪れるところなので、彼に尋ねてみましょう。」

   「そうしましょう!ジャンは別の場所で学んだことより何らかの見解を得ていると耳にしました。彼と話をすることで主は私たちを疑問の解決へと御導きくださるかもしれませんよ」、と私は応えました。

兄弟による回答その1:外から見た行動を基にした判断は不正確である

   私たちが同僚ジャンの家に到着した時、私たちは姉妹ワンと兄弟サンも来ていたのを見ました。挨拶をした後、私は先程兄弟ヤンと話をした疑問を同僚のジャンに投げかけてみました。兄弟ヤンもこう言いました:「兄弟ジャン、この疑問に関して私は、『神を信仰するために、私は親戚と友人たちからの冷笑と拒絶を受け、神を信仰するために、私は公務員としての仕事と結婚生活を諦めました⋯私は主を愛する人としてみなされるべきである』と考えています。」

   同僚のジャンは笑みを浮かべてこう言いました:「主なる神様、有難うございます。過去に、私たちは自分たちの仕事、子供たち、両親を後にして主の福音を伝導すること、または主のために苦しみ、犠牲を払い、そしてさらに働くことは主を愛していることだと常に考えていました。今回、私は他の場所へ学習に行った際に、この事柄について新たな見解を得ました。主イエス様はこう仰りました:「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。……また、きたるべき世では永遠の生命を受ける」(マルコによる福音書 10:29-30)。これは、私たちが純粋に主を満足させるために、取引をしようとせず、不純な動機を持たずに主のために労力を費やしていれば、私たちの行いは主の御旨と一致していることを意味しています。もし、私たちの行いに不純な動機、取引、個人的な動機および目的が混じっており、かつ私たちが主のために働くことを天国に入るための投資として見ている、または人々から高く評価され尊敬されたいがためにこの機会を使って自らを讃え、自己顕示しているとしたら、私たちは神を愛する人々ではなく、むしろ、神に抵抗するパリサイ人ということになるのです。

   聖書を読んでみましょう。そこにはこう書かれています:「人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。」 (箴言16:2)。 パリサイ人たちは礼拝堂で聖句の説明をして信仰者たちを教育し、彼らはまた主のためにあちこちを旅して懸命に働き、苦しむこともできました。人々は、彼らが神を最も愛している者たちであり、また神に最も好まれている者たちであると考えていました。しかし、主イエス様が働きをなさるために来臨された時、彼らは謙虚に神を求めなかっただけでなく、それどころか死になって神を非難し、神に抵抗し、主イエス様を十字架に釘付けにまでしてしまったのです。これは、人間の考えは信頼できないことを明らかにしているのです!パリサイ人が主を心から愛していたのなら、彼らは主イエス様の説教が自分たちのよりもはるかに上であったことを耳にした時に自分たちの観念と想像を抑えて主イエス様に耳を傾けるべきだったのです。それどころか、彼らは主イエス様を直接非難し、拒絶したのです。これは、彼らは自己顕示して、人々が自分たちを尊敬して見習うようにするために聖句の説明をしていたことを意味しています。彼らの表面的な敬虔さと懸命な働きは全て人々を欺くためのものであり、彼らは自分たちの地位と職を維持できるように人々が自分たちのことを尊敬し、見習い、従うようにさせたかったのです。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。」(マタイによる福音書23:27-28)。

   私たちはパリサイ人の実例を自分たちと結び付けることができます。私たちは聖書に関する知識を多く身に付け、兄弟姉妹たちに手紙や教義の内容を説明しました。しかし、私たちは家にいると殆どの場合は神の御言葉の実践の仕方が分からず、罪を犯しそれを告白するといった悪循環の中を生きています。私たちは主のために働きを尽くす中で何らかの結果が出せた時、または主への信仰が原因で牢屋に入れられたリ、苦しい経験をした時は常に先輩面したり、偉い地位に立って人々に説教をするようになります。私たちは主のために沢山の労力を費やし、多くの犠牲を払っても最終的に神の報酬や祝福を受けられず、それどころか家族に災害が起ったりすると沢山文句を言って神を否定したり、裏切ったりまでします。私たちは否定的で弱気になっている兄弟姉妹たちを何度か支えに行っても、それが失敗に終わると、もうそれを二度としたくなくなってしまい、彼らをけなしたりまでしています。これら全てから、神のために労力を費やして苦しむ際、私たち心の内には不純さが潜んでいることが分かります。私たちは良い評判と地位を欲しているのかもしません、人々からの称賛を欲しているのかもしれません。私たちは自分たちの家族が災害に遭うことなく安全でいて欲しいのかもしれません、神から報酬や祝福等をいただける希望を欲しているのかもしれません。私たちの動機と観点は間違っており、私たちはそれらの指揮を受けながら神に仕えているのです。だからこそ、私たちのことを神を愛する人々と呼ぶことはできないのです。」

   同僚ジャンの交流を聞いた後、兄弟ヤンはしばらく考えて恥ずかしそうにこう言いました:「あなたが仰ったことは全て完全に事実と一致しています。実に、私は天国に行くために自分の仕事を断念し、結婚生活を諦めました。素晴らしい念願の的と約束がなければ、私は何も断念することはなかったでしょう。」

   私はこう言いました:「兄弟ジャン、あなたがパリサイ人の懸命な努力の本質を分析された後、私は彼らが神のために労力を費やす中で神の御旨に合致していないことが沢山あったことに気が付きました。それ故に、人が神を心から愛しているかどうかの判断は外から見た行動を基に行うべきではなく、むしろその人の行動の裏にある意図そしてその人の行動の結果を基にするべきなのです。この区別の仕方が分からなければ、私たちは誤った道を歩んでしまい、神に抵抗する人となってしまうでしょう!」

答えその2:どのような人が主を愛する人とみなされているのでしょうか?

   兄弟ヤンは続けてこう言いました:「兄弟ジャン、あなたの交流から、私たちはパリサイ人と同じ道を歩んでいることが分かります。これはとても危険です!兄弟ジャン、どのような人が主を愛する人とみなされているのですか?そのような人になるには何をするべきなのでしょうか?どうか、私たちともっと交流してください。」

   同僚ジャンはこう言いました:「この質問については、まず主イエス様が神を愛する人に対して要求される内容に注目する必要があります。聖句をいくつか読んでみましょう、主イエス様はこう仰りました:「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。……わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。」(ヨハネによる福音書14:23-24)。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。」(ヨハネによる福音書 8:31)。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」。 (マタイによる福音書22:37-39). 主イエス様は私たちが神の御言葉を実践し、心、魂、思いを尽くして神を愛することを御要求されたのです。この要件を満たす者たちだけが神を心から愛する人々とみなされます。ここでは、私たちが心を尽くして神を愛することについて語っておられ、主のために働く時、私たちはそれをいいかげんにこなすのではなく、正直な心を持って取り組み、困難に遭遇したら、簡単に尻込みしたり文句を言うのではなく、神の御旨を求めるだけでなく、神の御言葉通りに実践し、神に従うことを意味しています。神から何を要求されようとも、それが私たちの観念と対立するものであろうとも、私たちは言い訳をしたり、条件付けをするべきではなく、私たちの肉が欲する名誉、地位、利益を追い求めるべきでもないのです。私たちは静かに私たちの責任を果たし、神の死に対して忠実であるべきなのです。従い、主を心から愛する人々は神に関する知識を持っており、神に対して忠実かつ従順であり、心の中で常に神を崇めているのです。彼らは多大な犠牲を払うことになっても何の不平もこぼさず、続けて神に従い、神を愛します。ヨブが正にその通りでした。彼は神を畏れ、悪を避け、完全に正直な人でした。神が何をお与えになろうと、何を取り除かれようと、神が祝福をお与えになろうと、災難を下されようと、彼は神を崇拝し、讃え、神の御言葉通りに全てを行ったからこそ神から認めていただけたのです。また、ペテロもそうです、彼は人生の全てを神に捧げました。彼は決して自らが耐えた苦しみや払った犠牲を投資として利用したりせず、自らを讃えたり、自らの証言もしませんでした。その代わり、彼は神を満足させ続けることができなかったため、常に自責の念に駆られ、苦しんでいました。主からの任務に関して言うと、ペテロは主の御旨と御要望に厳密に従いながら教会を率先しました。彼は決して自分の損得のためではなく、主を愛することができる心だけを求めて主に祈りを捧げていました。最終的に、ペテロは十字架に逆さに釘付けにされましたが、彼は文句1つ言わず死ぬまで主に服従しました。これが主を心から愛し、主から認められ、祝福される人なのです。だからこそ、神はペテロに天国の鍵をお与えになられたのです。従って、人が神を心から愛しているかどうかの判断は、犠牲を払う、労力を費やす、懸命に働くという外から見た行動ではなく、むしろその人が正直な心を抱いているか、心から神を畏れているか、試練に直面した時に神に忠実でいられるかどうか、そして神の働きが自分の観念と対立する時に神に完全に服従できるかどうかに基づいているのです。いかなる状況下でも神を愛し、神に服従できる人は神を心から愛しており、神から天国に入る約束を授かるにふさわしい人なのです。」

真理を理解して、魂が解放されました

   私はこう言いました:「兄弟ジャン、あなたの交流を受けて、私は、主のために働く時は主の御言葉に従い、そして神を愛する心を抱いていることが最も大切であると気が付きました。私たちは何に遭遇しようとも、利己的な動機と不純な心を持たずに主に祈りを捧げ、主を頼り、心から地の塩、世の光となる必要があるのです。そうすれば、私たちは間違いなく主を愛する人とみなされるのです。しかし、私はこの10年間、ただ仕事で多忙にし、人々から高く評価され称賛を受けることだけを求めていました。私は沢山旅をし、沢山働き、沢山苦しんできましたが、主の御言葉を実践することには集中していませんでした。今日、私は依然として心、魂、思いを尽くして主を愛するという要件を満たすことも、他人を自分のように愛することもできていません。しかも、私は頻繁に嘘をつき、罪を犯しています。私が未だに汚れて堕落した人であることは事実です。私の神への信仰はパリサイ人のものと同じで、私が主を愛する人としてみなされるはずがないのです。私はヨブとペテロとは本当に比べものになりません。私は将来、神を愛する人になる努力をする必要があります。そうでなければ、主が来臨される時、私は主に見捨てられてしまいます。」

   兄弟ヤンは突然理解してこう言いました:「人が本当に神を愛しているかどうかの判断は主としてその人が神に服従し、神の道に従い、神のために誠実に労力を費やせるかどうかに基づいているべきだと分かりました。その人が利己的な動機と大それた欲望をもって主のために労力を費やしているのであれば、その人は未だ神を愛せていないのです。心から、そして実際に神を崇拝する人のみ神を愛しているとみなされるのです。長年に渡り、私は主のために自分の仕事を断念し、結婚生活を諦め、労力を費やし、懸命に働いてきましたが、私はこういったことを報酬を受けて天国に入るためにやっていたのです。私は正に神を愛する人ではないのです!」

   姉妹ワンと兄弟サンも以前のように求め続けることは止めて、ヨブとペテロのように主を愛することに努めると言いました。全員が幸せそうに同意してうなずきました。


クリスチャンはどのようにして思慮深い乙女となれるか?

2019-07-12 14:49:30 | 天国への道

   松本愛

   1つの投稿記事をここで転送します:

   こんにちは!兄弟姉妹の皆さん、私は1つ質問があり、皆さんのそれに関する理解を求めて、今日、ここに投稿します。どうぞ、積極的に参加してください。

   今日、私が強い信仰心でお勤めをしていると、マタイによる福音書第25章に10名の乙女に関する寓話があるのを読みました。5名の思慮深い乙女は誰かが「花婿がやって来た」と叫ぶのを聞いて、躊躇せずに彼を迎えに出ました。そのため、彼女達は主と共に夕食を取り、ごちそうを楽しみました。なんと栄光あることでしょう。一方、残りの思慮が浅い乙女5名は主を迎え出なかったため、神の国の門の外に閉め出されてしまいました。なんと愚かなことでしょう!そこで、私は、「誰かが『花婿がやって来た。外へ出て、彼を迎えよう』」と叫ぶのを聞いたら、私が生きている間は思慮深い乙女となり、躊躇せずに主を迎え出なければならない」と考えました。そこで、また、「主の再来は私が考えるほど単純なものではないはずだ。そうでなければ、どうして思慮が浅い乙女が主により閉め出されるなんてことがあろうか?」と考えました。そこで、思慮深い乙女となるにはどうすればよいかを知りたいと思います。

   投稿者:松本愛



   回答:

   姉妹岡田:

   松本愛、私にはこれが分かります。数日前に行われた聖書の勉強会で、リュー牧師は「現在は、終わりの日で、主イエス様が間もなく再来されます。私達は主をお迎えできるよう思慮深い乙女となり、主に見放され、神の国の門の外で泣いて、歯ぎしりをすることになる思慮が浅い乙女とならないようにしなければなりません。思慮深い乙女となるには、私達はもっと聖書を読み、注意深く祈り、主のためにもっと働く必要があります。これらのことを常日頃から行う者だけが思慮深い乙女であり、神の国に入り、主と共に夕食を取ることができるのです」と言いました。牧師のこの説教を聞いて、私はとても興奮しました。それから私は、毎日、注意深く御祈りをし、聖書を読むようになりました。思慮深い乙女となり、神の国の晩餐会に主と共に参加できるよう、時間がある限り、親戚や友人、仲間に福音を説き、主の証を立てています。

   ムイ:

   こんにちは!少しお話させていただきたく思います。姉妹岡田の言葉をたった今聞きました。過去10年間、私の牧師もそう言っており、私はそのようにいつも実践してきました。しかし、その後、何かがおかしいと感じるようになりました。私達はこれらのことをするだけで思慮深い乙女となれるのでしょうか?思慮深い乙女とは、主が再来されたときに、積極的に外へ出て、主を迎えることができることを意味するのではないでしょうか?10年はまたたく間に過ぎていきました。主の再来に関する予言が基本的に現実化し、大災害が次から次へと起きており、それは主がいつ何時でも再来し、私達を神の国に連れて行ってくださることを示しており、とても心配しています。そこで、イエス様が再来した際にお迎えできるよう、思慮深い乙女の基準を満たせるよう、どのようにそれを追求できるかについてぜひとも知りたいと思います。

   松本愛:

   さて、回答がありますか?

   ムイ:

   主よ、ありがとうございます!その後、兄弟姉妹との交流を求める中で、私はそのことを理解しました。主イエス様は次のように予言されました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 」(マタイによる福音書 25:6)。このことから、主イエス様が再来されたとき、主の御声を聞くことができ、外へ出て主をお迎えできる者だけが思慮深い乙女だということが分かります。従って、思慮深い乙女の主な現れは、その者たちが主の御声を認識できるということです。主イエス様がユダヤで働くために受肉されたとき、主は数多くの真理を明らかにされました。真理を本当に求め、神様の出現を切望する者は、救世主の到来を歓迎しました。これらの者は主イエス様の御言葉から神様の御声を認識し、主こそ到来が予言されていた救世主であると悟ったのです。

   佐藤恵和:

   ちょうどサイトに入ったばかりです。上のメッセージを読み、私も皆さんにお話したいことがあります。

   松本愛:

   ようこそ。

   ムイ:

   まるで、かつて収税人であった当時のマタイのように、主イエス様が「わたしに従ってきなさい」(マタイによる福音書 9:9),と彼に言われるのを聞いて、彼は立ち上がり、そのまま主についていきました。また、聖書には次も記録されています。主イエス様との短い会話を交わした後、ナタナエルは「ナタナエルは答えた、『先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』」(ヨハネによる福音書 1:49)と言い、主についていきました。また、ペテロは、イエス様が船の中で人々に説いていた説教を聞いて、網と船を捨て、主についていきました。

   佐藤恵和:

   少しお話させていただきたく思います。ペテロ、ナタナエル、マタイなどの人々はすべて、主の御言葉と御発言から主イエス様が救世主であると認識し、主についていきました。同様に、サマリア人の女性は主イエス様と話しているとき、主が 「イエスは女に答えて言われた、『この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。』」(ヨハネによる福音書 4:13-14)と話されるのを聞き、彼女の心の中に隠していた秘密が主によって明らかにされました。そして、真理の謎について話し、彼女の秘密を明らかにすることができるこのような人は、明らかに、普通の人や預言者ではないと悟りました。彼女は、主の御言葉から、主イエス様が救世主、キリスト様であると確信を持ちました。

   ムイ:

   そう、佐藤さんの言う通りです。これにより、私達は、彼らが神様の御声を聞くことに意識を集中しており、そのため、主の出現を歓迎できたことが彼らの知恵であり、それが思慮深い乙女の表れであることが分かります。

   佐藤恵和:

   少し付け加えたいと思います。思慮深い乙女には、自分自身の意見と根拠がありました。主の御言葉を聞いたとき、彼女達は外に主を迎え出ました。彼女達が主についていっている間、彼女達の周りでどれだけ中傷、冒涜、非難の声を聞こうとも、彼女達は変わらず、主イエス様が救世主であることを受け入れていました。弟子達が主についていったときと同様、彼女達は、多くの祭司、律法学者、パリサイ人から、主に抵抗し、主を中傷する多くの声を耳にしましたが、主への信仰に影響することはありませんでした。

   松本愛:

   はい。その通りです。

   ムイ:

   これらの祭司、律法学者、パリサイ人、そして彼らに従うユダヤ人はすべて、律法と規則に従う限り、確実に救世主の到来をお迎えすることになるだろうと信じていました。主の御言葉と御働きにどれほどの力と権威があろうと、彼らは自分の観念と想像に固執し、主イエス様の御言葉と御働きを調査することを拒みました。彼らは主イエス様を普通の人、神様の御発言を人の言葉とみなし、主を裁き、冒涜さえしました。最終的に、彼らは待ち望んでいた救世主を十字架に磔にし、神様を信じながら神様に抵抗する者となったのでした。彼らには神様の御声を認識することができず、真理を求める心を持っていませんでした。その代りに、神様の御出現と御働きを盲目的に拒否し、非難しました。そのため、彼らは神様からの御救いを失い、最終的に、神様の御怒りと御懲罰が下りました。これは、思慮が浅い乙女の表れで、彼らの結末でした。

   松本愛:

   皆さんの言葉を読み、私はとても恥ずかしくなりました。私はこれまで何度も聖書でこれらの寓話について読んでいながら、この光を得ていませんでした。

   主よ、ありがとうございます。たった今行われた皆さんによる思慮深い乙女と思慮が浅い乙女の表れについての交流はとても明確で、思慮深い乙女とは主イエス様の御働きについていく者のことで、主の御声を聞くことができる者で、主の御声を認識したら躊躇せずに最後まで主の後についていく者のことを言うのだと理解することができました。

   佐藤恵和:

   そうです!思慮が浅い乙女が門の外に放っておかれた理由は、彼女達には謙虚な気持ちで求める心がなかったからです。主イエス様の福音に直面して、彼女達は思慮深い乙女達と共に表に出ていって、これを受け入れることを嫌がり、自分の意見を持たずに、彼女達が尊敬し、崇拝するパリサイ人に助言を求めました。そのため、彼女達は主の救済を失いました。

   ムイ:

   その通りです!そのことは、現在にも同様に当てはまります。主イエス様の再来に関する予言は、基本的に現実化しています。今こそ主が再来される重大な瞬間です。イエス様の再来をお迎えするために、私達はどのような環境を整えておくべきでしょうか?

   松本愛:

   もっと教えてください。

   ムイ:

   分かりました。主イエス様は次のように仰っています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。」(ヨハネの黙示録 2:7)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)。これらの予言によると、主が再来されたときは、確かに御言葉を発することが分かります。主イエス様が次のように仰っているため、これは疑う余地がありません。 「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイによる福音書 24:35)。従って、主の再来のお迎えに関して、主の御発言と御言葉に注意する必要があります。神様の羊は神様の御声を聞くものです。「そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。」(ヨハネの黙示録 14:4)。主が再来される終わりの日に、私達が主をお迎えできるか否かは、私達が主の御声を認識でき、主の後についていけるか否かにかかっています。この点で、思慮深い乙女は思慮が浅い乙女とは異なっています。今日、誰かが主の再来の福音を説いているのを聞いたら、私達は思慮深い乙女の例に倣い、自分の観念と神様が御働きになった過去から出て、新時代の神様の御発言と御言葉に耳を傾けなければなりません。このような人のみが神様によりお認めいただき、聖霊の働き、啓示、光を得ることができます。同時に、私達は終わりの日の主の御言葉と御働きを求める際に、思慮深い乙女達のように自信と勇気を持つべきです。他人が何を言おうと、私達は見定める力と自分自身の意見を持つ必要があります。私達が神様の御声を認識する限り、私達は躊躇せずに調査すべきです。それが神様の御働きであることが確認できたら、神様の後にぴったりとついていき、迷ったり、後退りしてはなりません。真理を渇望し、真理を求める心がある限り、私達はイエス様の再来を確実にお迎えできるでしょう。

   松本愛:

   主よ、ありがとうございます!ようやく、思慮深い乙女となる道が理解できました。つまり、誰かが外で「花婿がやって来た」と叫んでいたら、私達はその人を迎え入れ、調査するために外へ出る必要があります。これこそ主の御声であると確信を持ったら、その人を受け入れ、ついていく必要があります。

   ムイ:

   その通りです。主よ、感謝します。最後に、皆さんと御言葉の次の聖句を共有したいと思います。私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。栄光は全能の神様のものです。アーメン!


クリスチャンが罪から開放される方法は存在します (II)

2019-07-10 23:03:51 | 天国への道

   私は張兄弟が又しても世の終わりの神の裁きの働きを言及したのを聞いて、こう尋ねました:「兄弟、世の終わりに神が裁きの働きをしに来臨されると仰りましたが、私はそれがどうもはっきり分かりません。もし主が本当に人間を裁きにやって来られるのなら、それは恐ろしい状況になるのではないですか?そうしたら、神が人間を救いにやって来られると言えるのはどうしてなのでしょう?」私がこう言ったのを聞いた張兄弟は笑顔でこう言いました:「私たちは神が人間を裁きにやって来られるのは恐ろしい状況となり、神が人間を裁かれる時、人間は非難されると思っています。しかし、実際、これらは全て私たちの観念と想像なのです。全能神の御言葉から2つの節を読んでみましょう、そうすれば神がどのように裁きの働きをなさるかが分かるでしょう。」

   そして、張兄弟は神の御言葉からこの2節を読んでくれました:「以前に話した通り、裁きは神の家により始まる。この「裁き」とは、終わりの日に神の玉座の前に来る者に対して今日神が下す裁きのことを指す。終わりの日が来た時、神は天空に大きなテーブルを用意し、その上には白いテーブルクロスが広げられ、神は偉大な玉座につき、全ての人は地に跪く。そこで神は、その者が天国に昇るべきか燃える硫黄の湖に送られるべきかを決めるため、各々が犯した全ての罪を明らかにする―そのような超自然的な様子を想像する人がいるかもしれない。」「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」



   これを読み終えた後、張兄弟はこう言って交流してくれました:「全能神の言葉から、裁きの働きは、神が天国でテーブルを立て、全ての人間が地面に跪いた状態で、神が彼らの運命を彼らの行いの善し悪しを基に定め、邪悪な者を罰し、善良な者には報いを与えてくださるという私たちの想像とは違うことが分かります。もし神が本当にこのような形で人間を裁かれるのであれば、私たちの行いを基に助かる人はいないでしょう。実際、神は様々な真理を使って裁かれ、私たちの内にあるサタンのような本質、あらゆる種類の誤った動機と観念を明らかにして、世の終わりに私たち堕落した人類を裁き、清める働きをなさります。全能神の御言葉を読めば、神は直接私たちを裁き暴露され、神の御言葉は諸刃の剣のように私たちの本性を暴露され、サタンによる堕落の真理、そして私たちが既に真の人間らしさを失っていることを明確に分かるようにしてくださっていると感じるでしょう。従って、私たちは深く恥じ入り、神の前に倒れ込んで悔い改めずにいられなくなるのです。私たちは自らを嫌い、自らを呪い始め、自分の堕落した性質の中で生きるのが嫌になるのです。これと同時に、私たちは、神の義なる性質は害することができない、そして神の神聖さは汚すことができないことも知ります。そして、私たちは神に対しえ敬虔の心を持たずにはいられなくなり、又神に背き逆らって罪を犯そうとはせず、むしろ肉に背いて真理を実践し始めるのです。すると、私たちのサタンのような堕落した性質が変化し始め、私たちは神の御計画と御采配に従って神の愛に報えるよう自分たちの創造物としての本分を尽くす意思を持つようになります。これが神の裁きの働きが引き起こす効果です。私たちの経験において、世の終わりの神の裁きの働きを受けてのみ、私たちのサタンのような性質は完全に清められ、そして私たちは神に認められ、天国に入れることが分かります。神の裁きの働きを受け入れられない者たちはどうなるかと言うと、彼らは清めを受けられず、変化を遂げることもできず、神の裁きの働きが終わる時に神の罰を受けることになります。」

   神の御言葉と張兄弟の交流を聞いた後、私は自分が持っていた裁きに関する理解は本当に自分の観念と想像から生まれていたということに気が付きました。実に、神による裁きとは非難を意味するのではなく、むしろ私たちの堕落した性質を清めることなのです。神は御言葉を使って世の終わりの裁きの働きをされ、その結果私たちは神の御言葉を通じて自分の堕落した本性と内にある様々な堕落した性質を知り、それらを心から忌み嫌い、そうすることで真理を実践し、堕落した性質を捨てられるようになるのです。これこそが、神が裁きの働きをなさる方法であることが分かりました。私は神の働きは本当に現実的であると感じました。長年に渡って主を信仰していながらも、私は罪の中を生きていたのだと思いました。私は他人の対応をする時に主の教えを実践できず、頻繁に腹を立てていました。私はこれが原因で心に痛みを感じていたのです。しかし、今、私は罪を取り除く方法を見つけました。

   その後に行われた集会の最中、張兄弟は真と偽の羊飼いの見分け方、真の道を探す原則、そして神の受肉の奥義等について私と交流してくれました。彼の交流は本当に多くの知識を与えてくれたと同時に、私は30年以上に渡って教会で信仰してきた以上の内容を理解できたと感じました。しばらく調査した後、私は、全能神が主イエス様の再臨であることを確立しました。なぜなら、神のみが奥義の全てを暴露して、私たちに真理の全てを話すことができるからです。これは主イエス様のこの預言を現実化しています:「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12–13). 主イエス様が働きをされた時に沢山の奥義を人間に話されなかったのは、当時人間は霊的背丈が低すぎてそれを修得することができなかったからなのです。これ故に、神は世の終わりに人類を救う真理全てを話しに来られ、私たちは世の終わりの神の裁きの働きを受けた場合に限って神の御国に救い入れていただけるのです。神を讃えます!子羊の足跡を辿れるほど幸運な私は本当に恵まれているのです。

   その後、私は時間があれば神の御言葉を読むようになり、読めば読むほど、増々惹かれていきました。神の御言葉はとても素晴らしく、以前知らなかった数多くの真理を理解させてくださっているように感じました。これに加え、全能神教会のウェブサイトの内容もとても素晴らしいものでした。踊りと讃美歌の動画や福音映画、全てが真理の様々な側面を伝えていました。これらを観賞した後、私は神の働きをより深く理解しました。

   私が全能神の働きを受け入れてから3か月以上が経ちました。過去に、私は自分の家族と話しをするとイライラしがちで、それが私の家族と私の両方に辛い思いをさせていました。しかし、この問題は解決し難いものでした。今現在、私は神の御言葉を読み、そして集会で兄弟姉妹たちと交流し合うことで、自分が腹を立てていたのは自分の傲慢な本質に支配されていたことが原因であったことを徐々に理解しました。私は常に夫と子供に言うことを聞いて欲しかったので、彼らの言葉と行動が不愉快な時は彼らに対して怒りをぶつけていたのです。これはサタンの堕落した性質だったのです。今、神の御言葉は、神は人間が真の人らしさを貫くことを要求され、人間は神に祈りを捧げずに自分を頼りにしていたのでは、堕落した性質から自由になる方法はないということを示してくださりました。これを念頭に置きながら、私はカッと怒りそうになった時、神に静かに祈りを捧げ、私を守り、そして神の御言葉を実践できるように導いてくださるよう請いました。次第に、私は自分の怒りをある程度は抑えられるようになりました。私の娘が私に逆らった時、私は落ち着いて彼女と話をすることができました。私は実体験を通じて、世の終わりの神の裁きの働きを受けた場合に限って私たちの堕落した性質は変わることができ、私たちは清められ、そして神の御救いを受けることができると知りました。今現在の私は経験と知識が浅すぎ、自分の中には堕落した性質が多く残っています。これ故に、私は全能神の御言葉をもっと読んで神の御言葉の裁きと刑罰を受ける必要があり、これにより自分の堕落した性質を捨てられるようになり、そして真の創造物らしさを貫いて神を讃えられるようになるのです。

 

更に多くの内容を読むには、聖書の部屋のウェブサイトへどうぞ


一生懸命働くことは神の御心に従っているということなのか

2019-07-05 22:46:27 | 天国への道

   春雨の降り続く日、ヂャオ・シュンは飛行機で中国からアメリカへと出発しました。飛行機はニューヨークの空港に着陸しました。ヂャオ・シュンが荷物を持って空港のターミナルを出ようとしていた時、後ろから聞き覚えのある声が聞こえました。

   「あれ、ヂャオ・シュン兄弟じゃないですか?」スーツ姿の中年男性がヂャオ・シュンのところにやってきました。

   ヂャオ・シュンは興奮した様子で言いました。「ああ、ジム兄弟!アメリカで会うなんて、奇遇ですね」

   そして二人は車の中に座って話しました。ジムは言いました。「時間が経つのは早いなあ!2年があっという間に過ぎてしまったね。中国で宣教していたんじゃないのですか?どうしてこちらに?」

   「残念ながら、中国は無神論の国ですから。中国共産党政府は宗教の信仰を抑圧して、迫害するし、三自教会にさえ危害が及んでいます。中国共産党政府は、私が神の信者であることを知ったから、私を逮捕しようとしてどこまでも追いかけてきました。中国共産党から逃れて最後まで主に従っていくためには、全てを捨ててここに来るしかなかったんです」。

   「そうだったんですか。主に従うにあたって苦しむ意志をもたないと、前進していくのは困難になりますね。全てを捨ててここまで来るなんて、本当に強い信念をお持ちですね」。

   「主に感謝します!今日、私たちが苦しむことには意味があるんです。今、私たちは主のために労力を費やし、一生懸命に働いています。だから、主が再臨される時には天国に引き上げていただけるはずです」。

   ジムは一瞬考えてから深刻な口調で言いました。「兄弟、労力を費やして一生懸命に働いてさえいれば、私たちは天国に入れると言われましたが、私も以前はそう思っていたんですよ。でも、それから聖書の学習をしていた時、主イエスのこの言葉を目にしたんです。『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである』(マタイによる福音書7:21)。私はこの言葉を読んで自分の考えに確信が持てなくなったんです。主は神の御心に従う者だけが天国に入れるとはっきり言っておられますが、主のために全てを犠牲にして、一生懸命に働いてさえいれば天国に入れるとは言っておられません」。

   ヂャオ・シュンは困惑して言いました。「確かに、主はそう言われてはいません。しかし、私は長年に渡って嵐や雨の中でも主のために布教活動をし、主の信者たちを牧養してきました。福音を説いていることを理由に、中国共産党に逮捕され迫害される危険に遭いながらも、ひるむことなく主に従ってきました。これは神の御心に従っているということではないのですか?」



   ジムは温かい口調で言いました。「兄弟、主を信仰して福音を説いていることを理由に中国共産党に逮捕されて迫害される危険に直面する時、それに苦しみ耐える意志を持つことは正しいのですが、主のために苦しみ、労力を費やし、一生懸命に働くことが神の御心に従っているとは言えません。私たちが神の御心に従っているかどうかの判断は、私たちの行動の意図、それが主に認められているかどうか、そしてそれが主の要件に沿っているかどうか等に基づいていなければならないんです。こういった条件を理解していないと、私たちの信仰は想像上の観念に過ぎないということになってしまいます。主イエスは一度こう仰いました。『その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」』(マタイによる福音書7:22-23)。この主の言葉に応じて、私たちは、長年に渡って宣教して働いてきた者たちがどうして最後に主から悪人として非難されてしまうのかを考えなければいけません。これより、彼らはそれぞれの動機と目的を持ちながら、表面的には犠牲を払って一生懸命に働いていたけれども、神の道には従ってなかったことが分かります。例えば、古代のパリサイ人は宣教して働くために海と大陸を横断し、神のために一生を費やし、たくさん苦しみにも耐えました。それにもかかわらず、主イエスは、彼らのことを偽善者である上に災いであると言って、彼らを非難し呪われました。これは、彼らの放棄と労力の費やしに神との取引や個人的な動機が伴っていたからです。彼らはこういったことを祝福と報いを得るため、そしてそれぞれの地位と仕事を維持するために行っていただけで、真の心をもって神を満足させるためではなかったのです。主イエスが働きと説教をしに来られた時、彼らは主の働きを受け入れることも、ユダヤの民を神の前に導くこともしなかっただけでなく、ユダヤの民を先導して主イエスを狂信的に非難そして抵抗させたのです。彼らは主イエスに対する偽証までしました。彼らの行いは、その全てが主の道に対する裏切りであり、彼らは主イエスを敵扱いしたのです。これ故に、主は、彼らのことを偽善者で災いであると言って、彼らを非難されたのです。パリサイ人の例から、一生懸命に働くことは必ずしも神の御心に従っているというわけではないことが分かります。大切なのは、私たちの個人的な動機や目的が何であるかを知ることなんです」。

   「ジム兄弟、あなたの言ったことはとても実践的です。私は自分が一生懸命に働く動機や、その目的を調べることには注意していませんでした。私は、表面的には他の人たちよりも苦しんで、働いているように見えるだろうし、そうやって一生懸命に働いて努力することは、神の御心に適っているだろうとしか思っていませんでした。主は私のことを見ていてくださり、そして再臨なさる時には間違いなく私を天国に引き上げてくださると信じていました。でも、どうやら自分の追求と理解には欠陥があるようです。ジム兄弟、あなたと最後に会ってからたったの2年しか経っていませんが、主を信仰することについてたくさん学ばれたようですね。聖書の勉強をたくさんなさったのではないですか?」

   「私がこうやって少し教示できるようになった理由は、聖書の勉強に力を入れたことよりも、むしろそれは主の啓示と指導があったおかげなんです。それに、私は頻繁に福音ウェブサイトで記事を読んだり、福音映画を見ています。そうやってたくさん真理を理解したんです。後でリンクを送ってあげますよ。」

   ヂャオ・シュンはこれに驚き、興奮した口調で言いました。「ああ、なるほど!主に感謝します!ならば、神の御心に従うことがどういうことかは分かりましたか?私はこの疑問が重荷になっているから、答えが分かるまで落ち着けそうにないですよ」。

   ジムは続けて言いました。「神の御心に従うということは、神の道、神の言葉、そして神が表す真理の全て、すなわち、神が私たち人類から求めておられることに従うということです。私たちは神がお求めになること全てを行って、神の指示に厳密に従い続ける必要があります。これ故に、神の御心に従うということは、幾つかの言葉を実践するだけではなくて、真理をたくさんの側面から実践するということなんです。私が福音ウェブサイトで目にした節を読んであげますよ。『何時の時代においても、神はこの世で業を行う時、真理を伝える言葉を人間に与える。こうした真理は、人間が守るべき道、通るべき道、神を畏れ、悪を避けられるようにする道、生活や人生の旅路の中で実践し、そして遵守すべき道として機能する。これが、神がこれらの言葉を与える理由である。神に由来するこれらの言葉は、人間が守るべきものであり、人間にとって、それを守ることはいのちを授かることを意味する』(『神の性質と神の業の結果を知る方法』より)。これらの言葉から、神が各時代の働きの中で仰せられる言葉は私たちに対する要件であって、私たちが歩むべき道であることが分かります。例えば、律法の時代では、人々は十戒に従って安息日を守る必要がありました。恵みの時代では、主イエスが贖いの働きをされた時、私たちは主の戒律に従い、主の言葉通りに体験し実践する必要がありました。私たちは神が用意してくださる全ての人々、物事、出来事、そして神が造ってくださる全ての状況を受け入れ、それらに従うことを学ぶ必要があります。試練や苦難に遭遇するときには、神の証を立てようとしなくてはなりません。そうすれば、私たちは神を愛して神の御心に従う人々になるんです。主イエスは私たちに『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』(マタイによる福音書22:37)と求められました。だからこそ、私たちはどうやって心、魂、思いを尽くして神を愛するのか、そのようにして働きの過程で神を満足させ、神に従うのかを考える必要があるんです。全てにおいて真理を求め、利己的な汚れと野心を持たずに神の御心に従いながら振る舞うということが、神の御心を行うということなんです。アブラハムを例にとってみましょう。神が彼にイサクを捧げるよう求められた時、彼は愛する一人息子を神にお返しようという誠実な気持ちで神の言葉に従いました。彼の絶対的な従順が功を喫し、神は彼の子孫が偉大な国家になるよう祝福されました。もう1つの例として、ぺテロは主のために一生懸命に努力して、働きながら、イエス様に従って一生を過ごしました。彼は主の御心と要件に厳密に従いながら教会を牧養しました。そして、彼は死ぬまで神に従い、神を極限まで愛することができたのです。この2人は神に従い、神を崇めました。このような人々こそ、心から父なる神の御心を行う人々なんです。

   ヂャオ・シュンはこれに聞き入っていました。そして、彼は興奮した口調で言いました。「なるほど、あなたの話を聞いて初めて理解出来ました。神の御心に従うということは、神の言葉全てに従って、要望や要求を持たずに神の言葉通りに振る舞って、神を喜ばせるためにできることを全て行うということなんですね」。

   ジムは続けて言いました。「そうです、彼らと比べると、私たちは神の御心に全く従えていません。私たちは依然として、取引することをねらったり、汚れた心、動機、そして目的をたくさん持ちながら行動しています。私自身を例に挙げます。私は信者になってもう何年も経ちますが、説教をする際には、人から尊敬されようとして自己顕示したり、自分の証言をしてしまうことが未だにあります。自分は主のためにたくさん働きをこなしたと思うと、将来義の冠を授かることを期待して神に祝福を請いたくなることもあります。私は一生懸命に働いていても、主の言葉を実践できていなんです。だから、私が神の御心に従う人とみなされるはずがないんです」。

   これに共鳴したヂャオ・シュンは頷いて言いました。「あなたの言う通りです。私は長年に渡って主を信仰してきましたが、ただ表面的に働き、苦しむことばかりに集中して、主の要件に従いながら主の言葉を実践することには集中していませんでした。神に感謝します!今日、あなたの話を聞いて、本当にたくさん勉強になりました。犠牲を払って一生懸命に働くことが神の御心に従っているということではないと明確に理解できました。それに、私たちが天国に入る上で神がお求めになる基準、すなわち、神の御心に従うということについても少し理解できました。ジム兄弟、今日あなたと偶然会ってこの話しが聞けたのは、神のお気遣いがあったおかげですよ」。

   窓の外は晴れていましたが、ヂャオ・シュンとジムはまだ車の中で喋っていました…

 

あなたのためにイエスキリスト 再臨に関するより多くの文章を推薦します