賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

カトリック信者の証し:教会の荒廃の原因を尋ねる

2019-08-15 22:36:57 | 神に帰す証

   【編集者メモ】カトリックの家庭に生まれた彼女は、子供の頃、両親と一緒にミサに出席していました。大人になり、荒廃し混乱するカトリック教会を目の当たりにし、もはや聖霊の働きを感じることができなくなり非常に困惑しました。ある偶然の出会いから、彼女は主がずっと以前にお戻りになられていることを知ります。そして調べていくうちに、教会が荒廃した根本的な原因をついに突き止めたのでした。

寄稿家:ファンシア(アメリカ)

昔の教会は熱気にあふれていた

   私たちの家族は何世代にもわたってカトリック教徒で、私は生まれてわずか数ヶ月で洗礼を受けました。いつもアラームのけたたましい音に起こされ、両親にベッドから引きずり出されて、急いで顔を洗って着替え、夜のミサに出席するため教会に急行していたことを覚えています。

   両親によると、中国で主を信じる人は迫害され、司祭や信者たちは逮捕、拘留されることがよくあるため、私たちにとっては夜間にミサに出席するのが安全だということでした。とても危険でしたが、それでも教会の信者仲間は非常に熱心で献身的でした。天候がどうであれ、ミサの開催場所がどこであれ、皆が詳細をそれぞれに伝え合い、お年寄りや若者が出席するように我先にと助けていました。皆が、まるで新年のように興奮して聖歌を歌い、一晩中起きていたにもかかわらず多くの信者が意気揚々としていました。

今や教会は荒廃してしまった

   あっという間に私は大人になりましたが、教会も大きく変化しました。ミサに出席する人はどんどん少なくなり、出席者の多くはお年寄りで、若者の顔はほとんど見られなくなりました。教会の折々の行事のさいには、ミサは活気があふれ賑やかになりましたが、出席者の中にはマルチ商法や直接販売に関わっている人、保険外交員、スーパーマーケットやレストランを開く人などがいて、まるで野外の食品市場のように混乱としていました。皆がミサに出席するふりをしながら、実際は客を探すためにそこにいたのです。信者が集まった場合でも、どのように主を礼拝するべきかや神の御言葉を実践するべきかについて話さず、どうでもいいような家庭の事柄について話したり、家族が作った農作物の売り込みをしたりするだけで、心から主を礼拝しようとしていた人は誰もいませんでした。こうした教会の状況は、時間が経つにつれてますます悪化していきました。神父様の説教は啓きを与えてくれないばかりか、不当に他の教派を非難し、信徒に向かって用心するよう釘を刺すこともよくありました。さらに神父様たちは派閥で分裂し、他の聖職者と袂を分かつようになりました。時に見解の違いから議論が生じて内輪もめが起きることもあり、信者もいずれかの側について互いに批判し合い、言葉で攻撃し合うようになりました。以前には見られた思いやりや寛容さは、もう跡形もありません。教会でのこうした状況を目の当たりにした時、どうしてこんな風になったのか理解できず、言葉にならない悲しみを感じました。



   2009年、日本に留学していた私はミサに出席するために教会に行きましたが、日本の教会も中国と同じように混乱としていることが分かりました。神父様も信者たちも非信心者のような話し方や振る舞いをし、世俗的な流行を追い、誰もが人を出し抜こうとして互いに人を見下すような態度を取っていました。神父様はお金を持っている人たちには喜色満面の笑顔を振りまく一方で、お金がない人たちには冷たい態度を取り、ぶっきらぼうな口調で話していました。外国でこんなことが起きているのを見て、私は非常に落胆し混乱してしまい、もはや以前ほどには主を身近に感じなくなってしまいました。毎日、朝晩出席していた礼拝は負担になり、ミサに出席するため教会に行くのがどうしてもいやになった日もあったくらいです。しかし、主から地獄行きを宣告されるのが恐ろしくて、行くのをやめる勇気はありませんでした。その後も無理をして教会に行ってはいましたが、私の霊は満たされず、心は空になりました。時々、私はこう思いました。

   「どうして教会はこんな風になったのだろう。以前は信者も少なく、中国共産党は私たちを迫害していたけど、真夜中のミサには皆が熱心に出席していた。でも最近では、環境がもっと快適で楽になるにつれて逆に、人は怠惰になっていく。これは、前より多くの人が主を信じるようになったからだろうか。それともあまりに多くの説教を聞いたので、神秘的なものを何も感じなくなったからだろうか。」私はとても困惑しました。

   2018年5月、私は夫とまだ1歳に満たない娘と一緒にアメリカに移住しました。私たちは落ち着くと、近所の教会のミサに出席するようになりました。信じられないことに、この豪奢で巨大な教会にはほとんど人はいませんでした。神父様は上に立って説教をしていましたが、下方に座っていたほとんどの人は眠たげで、居眠りしている人もいました。人がまばらで空席の多い巨大な教会を眺め、そこに座っている人の無表情でうつろな顔を見ながら、私は自分の感情を言い表すことさえできませんでした。

   私はネット上で良さそうな教会を見つけたかったのですが、それで分かったのは多くのカトリック教会が死者を追悼する銘板であふれて、人々はただ香をたいて供え物をするだけだということです。また、一部の教会では司祭が修道士を呼んでお経を唱えさせたり、さらには司祭や司教が絡んだ多くのスキャンダルもありました。こうした状況を目にした私は、聖書の中で主イエスが話されている御言葉を思いました。

   「わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」(マタイによる福音書21:13)

   中国でも日本でもアメリカでも、そして地上でもインターネット上でも、すべてのカトリック教会はまったく同じでした。私は現代のカトリック教会は完全に駄目になってしまったとはたと感じたのです。見た目はとても立派に見えますが、もはやそこは神聖な場所ではありません。私は途方に暮れました。教会は非常に混乱とし停滞しているのに、なぜ聖霊はそれを何とかなさらないのでしょうか。

当惑する中、偶然の出会いが教会の荒廃の根本原因を暴く

   その年の7月のある日、ミサに出席するために娘を連れて教会に行った私は、そこでケリー姉妹に会いました。会った瞬間、まるで昔からの友人のように感じました。帰る道すがら、ケリー姉妹は聖書の中の物語を私にたくさん話してくれました。例えば、主イエスが話すのを聴き、その権威ある力強い言葉からその方が来るべきメシアだと気づいたサマリア人の女の話などです。そしてケリー姉妹はこうも言いました。主イエスが語られた賢いおとめは、聖書を読んだり欠かさず集会に出席したりといった外向きに熱心であることだけではなく、さらに重要なことに、主の声を判別できることを指しており、それは、主が再来された時に、そうすることによってのみ、お迎えすることができるからだと言うのです。彼女の話は新鮮で刺激的でした。長い間ずっとカトリック教会の集会に出席していましたが、そのような新鮮な話はそれまで誰もしてくれたことがありません。私は啓かれたと感じ、私の心は大いにそれを享受しました。その後、ケリー姉妹が彼女たちの聖書勉強会に私を誘ってくれたので、私は喜んで行くことにしました。

   聖書の勉強会では、たくさんの新しいカトリック信者の他、数多くのクリスチャンの兄弟姉妹や伝道師の劉兄弟に会いました。これらの兄弟姉妹に会ったおかげで、私はとても温かい気持ちになりました。皆がそれぞれの経験を交換し合う中、とても解放された気分がしたのです。そこで、私も自分自身が感じた困惑について皆に心を打ち明けました。

   私は言いました。「私はいくつかの国のカトリック教会に行ったことがありますが、どの教会でも主の愛や聖霊の働きを感じたことがありません。一部の教会の神父様には、信者に遺族の銘板を教会の中に設置させ、それを礼拝させる人もいます。私は教会がますます混乱とし、もはや主の栄光に満たされていないことを目の当たりにしたのです。私自身の信仰は徐々に冷めています。どうしてこんな風になったのか分かりません」

   「あなたが挙げた問題はとても現実的で、今日の大部分の信者もそのことについて戸惑っています。カトリック信者は皆、カトリック信仰がキリスト教の根源であると考えていますが、それならどうして教会は主の栄光を失い、今日のような荒れ果てた状態へと悪化したのでしょうか。実際のところ、教会の現在の荒廃の理由を知りたければ、まずは数千年前に起こった神殿の荒廃の理由を振り返らなければなりません。律法の時代の初期には、神殿は主の栄光で満たされており、聖霊の前では誰もが畏敬と敬意を表らなければなりませんでした。聖霊は神に背いた者を撃たれるため、祭司でさえ神殿で聖霊に仕え、細心の注意を払っていたほどです。例えば、旧約聖書には、ウジヤという名前の王がいたことが記録されています。彼は戦いで大勝利を収めて大きな権力を得た後、尊大で傲慢になりました。祭司の警告に耳を傾けることなく、良くない事と知りつつ神殿に入って神への供え物として香をたこうとしたのです。こうして神に背いた彼の額には瞬く間にらい病が発生し、死を迎えるその日までらい病人となりました(歴代志下、第26章16-21参照)。このことから、聖霊が神殿に存在するとき、誰も律法を破ろうとしなかったこと、そしてすべての国民の王でさえも例外ではなかったことが分かります。なぜなら聖霊は聖いものであり、汚れたものを容認されないからです。汚れたものを目にされると、否応なく撃つことになります。しかし律法の時代が終わりに達すると、民衆はもはや律法を守らなくなり、祭司は偶像を崇拝して足なえのものを犠牲に捧げ、人々は神殿内で公然と両替業を営み、家畜や家禽を売買しました。こうして神殿を泥棒の巣窟へと変えたのです。それでも聖霊は彼らを懲らしめたり、懲罰を与えたりしませんでした。それはなぜでしょうか。もし聖霊が神殿におられたならば、神殿が泥棒の巣窟になることを許されたでしょうか。明らかに許されなかったでしょう。つまり、神殿が泥棒の巣窟になるずっと以前に、聖霊はそこから離れられていたのです。では、なぜ聖霊は神殿から離れられたのでしょうか。それはおもにユダヤ人の指導者たちがもはや神の律法に従わなくなり、神を畏敬する心を持たなくなったからです。彼らが受け継ぎ守ったのは人間の伝統だけで、神の戒めは捨てました。完全に神の道から外れ、聖霊の働きを失ったのです。それに加え、聖霊が神殿を後にされたのは、恵みの時代に人類を贖う働きをされるため神がすでに肉となられており、聖霊の働きが他の場所へと移ったからでもあります。律法の時代の終わり頃、律法を守れなかったユダヤ人が投石で殺されたり、神聖な火で焼かれたりしたことを私たちは皆知っています。もし、聖霊が神殿を後にせず、律法の時代を終わらせず、磔の働きと人類の贖いを行わなかったならば、人類は律法の下で滅びていたでしょう。聖霊が神殿を離れられたのは人類にとっても神の働きにとっても必要だったというのは明らかです。聖霊の働きは絶えず前に進み、一つの時代に止まることはできません。律法の時代の成果が得られた後、聖霊は次の段階の働きを始められました。聖霊は古い働きを終わらせ、古い働きの場を去り、新たな働きに着手し、新たな時代へと人を案内し導かれたのです。新たな時代の人々がそれについていくことができなければ、聖霊の働きを受けられず、聖霊の糧を得られません。時と共に人々は飢えや渇きのために罪を犯すようになりましたが、懲らしめられることなく、ますます堕落しました。そしてオアシスは不毛の砂漠に変わり、カナンの地は飢饉に見舞われ、教会は荒廃したのです。ちょうど神がおっしゃったとおりです。


『見よ、わたしがききんをこの国に送る日がくる、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。』(アモス書8:11)

   同様に今日のカトリック教会は市場や泥棒の巣窟と化しています。ではなぜ神は教会を懲らしめ懲罰を与えられないのでしょうか。「愛といつくしみのあるところ神はそこにおられる」(「愛といつくしみのあるところ」)という聖歌があります。教会は今、わずかな寛容さも忍耐も失い、論争や内輪もめを繰り広げています。では、神はどこにおられるのでしょうか」

神はどこに行かれたのか

   私はうなずきました。その有名な聖歌を劉兄弟が歌うのを聞いたとき、私の心は温まりましたが、同時に少し悲しくもなりました。私は言いました。「納得のいくお話です。教会で何の愛も感じることができないのは、主がもはやおられないからなのですね。もし教会に聖霊がおられたなら、誰も神を軽蔑するはずがありません」

   劉兄弟は言いました。「そうですね。では、神がもはや今の教会におられないのだとしたら、神はどこに行かれたのでしょうか」劉兄弟から質問されて、私はそのことについて深く考えました。「確かにその通り」と思いました。「律法の時代の終わり頃、人類を贖う新たな働きを行なうために聖霊が離れられたことで神殿は荒廃した。今では教会も荒廃している。では、神はどこに行かれたの」 神を信じ始めてからのことを考えてみると、私は所定の秩序に従い、聖書を読みミサに出席してきました。教会がどれほど混乱としているかに気づいたとき、多くの疑問が生まれました。しかしそれまで、神がどこに行かれたかについて考えたことはほとんどありませんでした。私はこの質問を心から理解したいと思い、劉兄弟の答えを待ちました。

   聖書を開くと、劉兄は私に読むように言いました。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた』(アモス書4:7)読み終わると、彼は次のような話を始めました。

   「神の預言から分かるのは、私たちの教会に雨が降らないのはそこに聖霊の働きがないときだということです。それは、聖霊がすでに別の場所で新たな働きを始められていることを示しています。実のところ、主はすでに受肉されて戻られており、御言葉を語られ、新時代の到来を告げる新たな働きを始められています。『この畑は雨をえ』という言葉は、終わりの日に主が戻られたとき、その働きを受け入れて従う教会を意味しています。そうした教会は主の現在の御言葉を受け入れているので、主によって与えられるいのちの水と潤しを享受します。『かの畑は雨をえないで枯れた』という言葉では、聖霊の働きが他の場所に移っていることから、聖霊はすでに恵みの時代に種をまく働きを終えられ、今では神の国の時代の収穫の働きを始められたことを意味しています。聖霊の働きは恵みの時代の教会から完全に離れ、代わりに主の新たな働きに従う人々に向けられているのです。聖霊の働きの守りがなくなったことで、恵みの時代の教会の司祭や司教たちは枯れ、ミサで価値のある説教ができなくなり、信者に規則に従い典礼を守るようにと導くことができるだけになってしまいました。教会が荒廃した理由はもう一つあります。それは、司祭や司教たちが主の御言葉を実践せず、戒めを守らないことです。誰かが主の再来の福音を宣べ伝えているのを耳にしても、それを探し求めたり調べたりすることはありません。彼らはただ戻られた主の働きを拒否し、抵抗し、非難するだけで、これが教会に対する主の嫌悪と拒絶につながり、聖霊の働きを完全に失うことになるのです。聖霊からいのちの水が与えられ潤されることはなくなり、荒廃への道をたどることになります。そのため信者たちは偶像を崇拝したり内輪もめしたりするようになり、罪を犯しても懲らしめられず、説教中に居眠りする者もいて、そして教会は売買や取引の場となりました」

   劉兄弟の話を聞き、私は驚きました。新たな働きをされるために主がすでに戻られており、私たちがついていっていないがために、教会が荒廃したということがあるのでしょうか。その時私は、新たな働きをされるため主が戻られたと誰かが説いていて、その人物を神父様がミサの時に非難し中傷したことを思い出さずにはいられませんでした。今になってやっと、教会が荒れ果て混乱とした理由が分かりました。それは司祭や司教が再来された主の働きに信者たちの目を向けさせ学ぶようを導かいておらず、その代わりに抵抗し非難したからです。主の戒めと使徒たちの教えに背いたことで、彼らは聖霊に嫌われて拒絶され、主の働きから見捨てられて除外されたのでした。

聖霊の働きをどうやって探すのか

   ちょうどその時、私は突然目が覚めたかのように感じました。劉兄弟の明快で簡潔な話を聞くうち、主イエスが新たな働きをされるために別の場所へと移られたことを心から確信したのです。しかし、聖霊の働きがある教会をどうしたら見つけることができるのでしょうか。これを言葉に出し、質問してみました。

   兄弟は真剣に言いました。「神に感謝します。このようにあなたが理解してくれたというのは、完全に聖霊の啓きと導きによってです。聖霊の働きがある教会を見つけたのなら、まずは再来された主がどのような働きをされたいのかを突き止める必要があります。主イエスはその方法をずっと以前に聖書のなかに示してくださっています。ですから、今、聖書の数節を詳しく見てみましょう。

   『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)

   主イエスは、私たちに語るべきことがまだ多くあると言われています。なぜなら当時の人々の霊的背丈はとても小さく、これらのことを伝えても彼らには理解できなかったであろうからです。ですから主イエスが終わりの日に戻られたとき、私たちにさらに多くのことお伝えになるのです。主は私たちのいのちに必要なすべての真理を告げられるでしょう。これらの真理は、聖書に『真理によって彼らを聖別してください。あなたの御言は真理であります』(ヨハネ福音書17:17)と書かれているとおり、私たちの罪を除き清める真理です。また、ヨハネの黙示録にはこうあります。

   『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう』(黙示録2:17)

   主の再来の時にもっと私たちに伝えてくださることがあること、そして隠されているマナを与えてくださることを、主は私たちに気づかせてくださいます。私たちが聖霊の御言葉を見つけるとき、主を見つけるのです。

   「別の神の御言葉も読んでみましょう。『イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から墮落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの支配から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって墮落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本當に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。』



   神の御言葉によって語られているのは、人を救うための主の働きは動きが止まった状態のままであるわけではなく、むしろ常に人を前に導くものであるということです。律法の時代には、当時の初期の人類はどのように生きるべきかを知らなかったため、聖霊は当時の人々の必要性を考慮し、モーセによる律法の布告を通じて、じきじきにお働きになり人々の生活を導かれました。そして彼らに律法と戒めを守らせ、神の恩恵の中で生活させたのです。しかし律法の時代の終わり頃には、人々は律法を守れなくなり、あまりにも多くの罪を犯していたので、彼らは皆、律法によって断罪され処刑されるという危険に直面しました。神は人類を救うために主イエスとして受肉され、恵みの時代の働きをされました。そして人間の罪を背負い生け贄となって十字架にかけられたのです。主に告白し悔い改める限り、私たちの罪は赦されるようになり、過ちや罪を犯しても律法によって呪われ断罪されることはなくなりました。主は私たちを罪深いと見なしているわけではありませんが、それは私たちには罪がないということを意味しているわけではありません。サタンの罪深い本性は私たちの中に深く根ざしているからです。善い行いをしているように見えても、実は自分の利益のために行っており、嘘をついて人をだますこともよくあります。自分の都合に合わない状況になるとすぐに思い違いをし、主を責めることもよくあるでしょう。たとえ自分の考えを声に出して話さなくても、心の中では否定的で反抗的な感情をやはり感じます。自然災害や人災が起きれば、主を裏切ることさえいつでもやってのけます。私たちが罪の中で生きているというのは、こうした振る舞いが十分に証明しています。それゆえに、私たちを完全に清め救うために主は再び終わりの日に受肉され、御言葉を語り、恵みの時代の頃よりも新しく高次な働き、すなわち神の家から始まる裁きの働きを始められたのです。主を受け入れて従う者すべて、そして神の国の時代の御言葉の働きを受け入れる者はすべて小羊の婚宴に出席し、神によって人に授けられるすべての真理を得て、主と向き合いながら、神の国の時代で暮らす人々の生活を始めるのです。これはちょうどヨハネの黙示録で預言されている通りです。すなわち、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして』(ヨハネの黙示録21:3)のことです。」

   劉兄弟の話を聞いた後、私は心が光で満たされるのを感じました。主の働きは前進し、聖霊は恵みの時代の教会から離れ、すでに新たな働きを行なっていらっしゃったのです。つまり、神の国の時代の新たな働きを始められたということです。それなのに、主が新たな働きをされるために戻られたと誰かが説いているのを聞いたとき、神父様のあからさまな嘘を信じました。そして、その話は聞かず、近づこうとせず、それを求めたり勉強しようともしませんでした。私たちはただ教会に固執し、主の歩みについていかず、それゆえに主に見捨てられたのです。今や、主の歩みについていくことによってのみ、聖霊の働きを得た教会を探し出せるということができ、主による神の国の時代の新たな働きを受け入れることによってのみ、聖霊の働きと導きを得ることができ、主と向き合って生きることができるのです。

主はすでに戻られている

   それから数日の間、劉兄弟は私に六千年に及ぶ主の人類を救う経営(救い)計画の三つの段階について、また各時代に主が行われる働きの内幕と本質について詳細に話してくれました。彼はまた、救われたことと完全な救いが達成されたことの違いや受肉とは何か、偽キリストをどのように見分けるか、神の名前の奥義などについても私に話してくれました。私の渇いた心はいのちの水で潤され、私の霊は大いに満たされました。

   全能神の働きを受け入れた後、私はついに光を見ました。中国で説教され大きな物議をかもし、カトリック司祭が非難している東方閃電は、主の現われと働きであることが分かり、私は感極まって言いました。

   「このようにして最初から最後まで聞けて本当に良かったです。さもなければ、私は気づかないままずっと主に抵抗しているところでした。それは本当に危険なことでした!」

   その後、私は全能神の御言葉を熱心に読み、積極的に集会に出席し、福音映画を視聴して賛美歌も学ぶようになり、すぐに終わりの日の全能神の働きについて確信しました。全能神教会では、聖霊の働きを受けていることから来る安らぎと喜びを心から味わうことができ、この一大家族の温かさも感じています。

   ほどなくして、私は姉妹の一人と共に終わりの日の神の働きの証しを私の夫にしました。今では夫も終わりの日の全能神の働きについていっています。毎日、神のいのちの水によって潤され、養われる日々を楽しんでおり、私たちのいのちは絶えず進歩するようになりました。全能神の御言葉は、すべての奥義を明らかにし、私たちに優れた識別力を与えてくれます。私たちは二度と偽の羊飼いの後にぼんやりとついて、神に抵抗する道を歩んだりしません。私たちはやっと神の子羊の歩みについて進んでいるたのです。


謙そんして真理を求める人は祝福される人です

2019-08-14 21:39:05 | 神に帰す証

   2002年、私の叔母は私に主イエス様の福音を話してくれました。私は、主イエス様が人類の罪を贖うために十字架に釘付けにされたことを知って深く心を打たれ、主の私たちへの愛はとても素晴らしいものだと感じました。従って、私と叔母は一緒に主に祈りを捧げ、人生を通して主に従い、そして主を頼りにしていく決意を伝えました。その後、私は頻繁に聖書を読み、祈りを捧げ、讃美歌を歌い、心から主と話し、私はまるで喧騒のない世界に入り込んだかのように心の中がとても穏やかになりました。

   2008年、私は集会に参加するため日本の教会を訪れました。同時に、私は名古屋で牧師と説教師が教会を設立するのを手伝い、その教会の働き手にもなりました。当時、その牧師は教会全体を統轄し、皆は彼をとても尊敬していました。しかし、私は説教師をもっと尊敬していました。なぜなら、彼女は聖書にとても精通しており、主のためにいつも熱心に働き、霊的にも深みのある人だったからです。その一年後、私は仕事の都合で他の市に異動となりました。その後すぐ、私は、その牧師が本部の牧師ならびに説教師とも意見が食い違い、それが原因で教会は分裂したと聞きました。その理由は、牧師の悪事が暴露され、教会の資金を横領したことが報告されたため、本部の牧師が彼を教会から除名したというものでした。私は熱心に福音を説いていましたが、教会はついに彼らが権力と利益をめぐって争い合う場と化してしまったため、自分は彼らに道具として上手く利用されている気分になりました。これが理由で、私はしばらくの間とても悲しくなり、落胆しました。最終的に、私はこの悲惨な教会を去る決断をしたのです。

   その後、私は説教師について大阪へ行き、新しい教会を建てました。その説教師はこの教会を他の説教師に託しました。しかし、この新しい説教師の説教は私たちを教化することも、私たちの生活における問題を解決することもできず、私たちは皆弱く、否定的になり、私たちの信仰はどんどん冷めて行きました。兄弟姉妹たちがその教会に来て集会に参加していたのは結婚相手になりうる人を自分の子供たちに紹介したり、仕事を探すためであり、中には人にたかる目的で来ている人すらいました。当時、私はこの教会が律法の時代末期の神殿と同じように、商売の場と化してしまったような気がしました。いのちの備えを受けられず、途方に暮れた私はこの教会を去ることを余儀なくされました。しかし、どのような問題に直面しても、私は依然と変わらず前の教会の説教師に直接相談していました。その後、私はその他多数の教会にも行きましたが、荒廃した状態はどこも同じでした。こういった状況全てを前に、私は内心とても悲しくなり、心の中で頻繁に主に向って声を上げて叫びました、「ああ、主よ!あなたは何処におられるのですか?」



   2015年クリスマスの日、私は自分の子供と親子イベントに参加した際、主を信仰するケチウ姉妹と知り合いになりました。その後、私たちはいつもお互いに主を信仰してきた経験について語り合うようになりました。彼女の話しを聞いていると、私はそれがとても啓発的だと感じ、多くを学びました。彼女は私が困難や問題に遭遇する度に、辛抱強く私と交流して私が実際に抱える問題を解決してくれました。私は彼女と一緒に交流し、共有し合えることをとても嬉しく思いました。後に、私たちは教会の状況について話し合いました。彼女はこう言いました、「律法の時代末期に、元々は栄光で輝いていた神殿は盗人の巣と化しました。これは、主に、ユダヤ教の指導者たちがヤ―ウェ神の律法に従わず、心の中で神を恐れなかったことが原因でした。彼らは人間の言い伝えに従い、神の戒律を排斥していたのです。彼らは神の道から完全に離れてしまったので、聖霊の働きを失いました。しかし、もう1つの原因は恵みの時代に、神が人類の罪を贖う働きをするために受肉されたことでした。神の働きが変わったのです。主イエス様の贖いの働きを受け入れた者はその全員が聖霊の働きを受けましたが、主イエス様の働きを排斥し、それに抵抗した者たちは神の働きから排除され、暗い荒廃状態に陥ってしまったのです。宗教界の牧師と長老たちに目を向けてみましょう。彼らは好き勝手をして、神の戒律に従っていません。彼らは主として聖書の内容を頻繁に解釈してはいますが、聖書に関する知識と神学理論に注目し、人々を聖書神学に没頭させ、彼らを神から離し、教会を宗教儀式の場と変えているだけなのです。さらに、彼らはそれぞれの本分を地位と収入を得るための術として扱っています。この牧師と長老たちが勝手なことをして、神の道に従うことを止めてしまっているがために、聖霊の働きは離れてしまい、信仰の場も見捨てられてしまったのです。しかし、また、それは主イエス様が肉に戻られ、終わりの日に教会を起点にして裁きの働きに着手されたことにも起因していました。全能神は終わりの日の神の働きを受け入れる者全てを清めるために、人類を救うことの真理の全てを話され、聖霊の働きも終わりの日の神の働きに移行します。終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れる者は聖霊の働きを受け、いのちの生ける水の備えと注ぎを受けますが、終わりの日の神の働きを受け入れない者は暗い荒廃の中に残されてしまいます。これは聖書にあるこの預言の内容を裏付けているのです:「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』とヤーウェは言われる。」(アモス書 4:7-8)

   彼女の交流を聞いて、教会が荒廃していた理由は聖霊の働きが移行し、全能神が御言葉を話され、教会を起点に裁きの働きをなされたことが理由であったと私は理解しました。その瞬間、私は主が再臨されたことにとても興奮しました。その後、彼女は神の人類を救う経営計画と神の三段階の働きにおける幕内と本質について交流してくれました。彼女はこうとも言いました、「神がなされる各段階の働きは全て、私たち堕落した人類の必要性に基づいており、それは前の働きを土台にして作られたより深く、より高いレベルの働きです。この3段階の働きで神の経営の働き全体が成り立っています。」私は聞けば聞くほど、彼女の言ったことに増々賛成しました。集会が終わると、彼女は私にこう言いました、「神は新しい働きをしに来られる時は、いつもサタンの勢力から妨害を受けます。主イエス様が働きをしに来られた時、ユダヤのパリサイ人たちがローマ政府と手を組んで主を十字架に釘付けにした時と同じです。今日、全能神は終わりの日の裁きの働きをしに来臨されましたが、全能神も同じように無神論を信じる中国共産党政府と宗教界からの非難と抵抗を受け、今の時代から排斥されているのです。実に、無神論を信じる中国共産党政権と宗教界の指導者の大多数は神と真理を嫌うサタンの勢力であり、それは主イエス様が十字架に張り付けられたことより分かることです。従い、それが真の道である限り、それは無神論政権と宗教界の拒絶と非難を確実に受けてしまうのです。私たちはこの世界にはびこる闇と悪を見抜き、神の働きを知る必要があります。これができないと、私たちも彼らに合わせて神を非難し、神に抵抗し、神の性質を害してしまうことになります。」これを聞いて、私は自分も同じ考えであることを示しました。

   彼女の交流は完全に反論の余地がない内容でしたが、私は突然主が再臨なさっておられることを聞いたとたん、一瞬少しだけ疑念を持ちました。私は自分が前の教会の説教師ほどは聖書に精通していないと考えて、彼女と連絡を取りました。彼女は私に起こったことを知ってこう言いました、「彼女は東方閃電を信仰しているんだわ。これ以上彼女の言うことを信じたり、彼女と連絡を取ってはいけません。つい最近、東方閃電は私たちの教会から善良な羊たちを全員奪っていったのです。私たちの教会の信者たちは皆、私たちが骨身を惜しまずに説教し、引率しているのに。彼女たちは私たちの羊たちを奪いにやって来たのです。」電話で不安そうな説教師の声を聞いた私は心の中で怖くなりました:「私の信仰が間違っていたらどうしよう?主は私をお嫌いになるかしら?」私はとても困惑し、心が悲しくなり、あっと言う間に板挟み状態に陥ってしまいました。私は心の中でこう考えました:「説教師は長年に渡って主に仕えておられるし、聖書を良くご存知で、聖書の知識を私より良く理解しておられるわ。だから、彼女は私よりも知識が豊富なはず。でも、ケチウ姉妹の交流も合理的でもっともらしい内容だし、それに主の再臨はとても重大な出来事だわ。私はこの地上で誰の言うことを信じればいいのかしら?」主イエス様のこの御言葉が頭に浮かびました、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書 7:7)。 これを受けて、私は、神に祈って私を導いてくださるように、そして私が正確に何をすべきかをお啓きくださるようお願いすることにしました。私は祈りを捧げている時、突然、東方閃電から来た人たちが教会の善良な羊を全員奪った行ったと説教師が言っていたことを思い出し、とても困惑しました:「どうして彼女は兄弟姉妹たちが彼女の羊だなどと言えるのかしら?明らかに、私たち信者は主の羊なのに。」その時、私は牧師と長老たちが以前行っていたことも思い出しました。本部の牧師は傲慢で、彼は自分の名前を讃え、自分自身の証言をしていました。私たちのような普通の信者でさえ、彼には聖霊の働きが宿っていないことが分かっていたというのに、説教師は彼を深く尊敬して、崇拝していました。これは一体どういうことでしょう?さらに、説教師は私よりも聖書の知識に精通していたにもかからわず、彼女の説教は聖霊の御啓示を欠き、その全ては私たちの抱える現実問題を全く解決できない陳腐な理論ばかりでした。しかし、ケチウ姉妹が話してくれた真理は私の聖書に対する疑問とそれに関する問題を解明してくれただけでなく、私が神の働きに関する理解を沢山得られるようにまでしてくれたのです。加えて、私は全能神教会の兄弟姉妹たちと連絡を取った時、彼らが合理適に、かつ謙そんしながら喋り、集会では楽しみながら神の御言葉を読み、それぞれの神の御言葉における体験と知識、そして神の御言葉がどのようにして物事に関する彼らの観点を覆し、彼らの堕落した性質を変えてくださったかについて交流していたことを知りました。そして、こういった事柄の中で、私は全能神教会には聖霊の働きが宿っていることを知ったのです。その後、私は何度も祈り、探求した後、説教師の反対を押し切って全能神教会の調査を続行する決断をしました。

   その後、調査を続けていると、説教師がまた電話をしてきました。彼女は私がまた全能神教会の兄弟姉妹たちと連絡を取っているのかと聞いてきました。私は、「はい、私は全能神教会について調べています」、と言いました。すると彼女はこう言いました、「どうしてあなたはそんなに困惑しているんですか?東方閃電は女性のキリストを説き勧めているんですよ。そんなことがある訳ないでしょう。主イエス様は男性で、世の終わりにも間違いなく男性として再臨されるのです。あなたは聖書をあまり理解していませんね。あまり深入りし過ぎない方が無難です、さもないと主が再臨される時、言うに耐えないほど後悔しますよ。」彼女の言ったことを聞いて、私は又しても困惑してしまいした:「説教師の振る舞いが主の御心に適っていないとしても、彼女は私より聖書に精通している。それは事実だわ。私の信仰は本当に間違っているのかしら?」私の心が揺らいでいたその時、説教師は声を落とし、またこう言って説得してきました、「私が辛抱して優しくあなたにこう勧めているのは全てあなた自身のためなのよ。」そして、彼女は全能神教会を中傷する噂を多く口にして、「悪に貢献してはいけません」、と言って脅かしてもきました。電話を切った後、私はすぐに悩みこんでしまいました。彼女のいかにも善意そうな説得は、ポットの冷水を頭の上からかけられたかのように私をとても落胆させました。私はどうして良いのか分かりませんでした。しかし、主イエス様はこう仰っておられました、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイによる福音書 5:3)。この御言葉は私を励ましてくださり、探求し、調べ続ける意思を持たせてくださったのです。こうして、私はこの事態を解明する決意をしました。

   その後、私は全能神教会の兄弟姉妹と連絡をとり、神の性別に関する問題について質問しました。私の質問を聞いた後、ある兄弟がこう言いました、「神の本質は霊です。霊は性別分けされません。肉となられた神が男性であれ、女性であれ、その御方が神の霊が受肉された御方である限り、その御方はキリストであり、神御自身であります。さらに、神がなさることは全て意味があります。神は意味や価値のない事柄には決して関与されません。あなたの質問について、先ずは聖書の中の創世記に記された記録を読んでみましょう、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」( 創世記 1:27)。この節より、最初神は男と女を神御自身のかたちに創造されたことが分かります。すなわち、神は男のかたちにもなり得るし、女のかたちにもなり得るのです。」その後すぐ、彼は私に神の御言葉の節を2つ読ませてくれました、「神による各段階の働きには実質的な意義がある。イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。イエスが女として現れたとしても、つまり、男ではなく女の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その働きの段階はまったく同じように完成されたことであろう。もしそうなっていたならば、今回の働きの段階は女性ではなく男性によって完成されなければならず、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。両方の段階でなされる働きには意義がある。働きは繰り返されることはなく、お互いに矛盾することもない。その働きの際、イエスは神のひとり息子と呼ばれたが、それは男性であることを示している。それではなぜこの段階でひとり息子のことは言及されていないのか。それは、働きの必要性から、イエスの性とは異なる性へと変更せざるを得なかったためである。神に関しては性の区別はない。神の働きは神の望むようになされ、いかなる制限にも左右されることはなく、非常に自由であるが、各段階には実質的な意義がある。神は二度肉となったが、終わりの日の神の受肉が最後であることは言うまでもない。神はすべての業を明示するために来た。人が目撃できるように、今の段階で神が受肉して自ら働きを行わなければ、人は神は男性にだけなりえるが女性ではないという観念を永久に持ち続けているだろう。」「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より

   「神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることはない。神の本質、神がもつものと神であるものは決して変わることはない。しかし神の働きは常に前進しており、常に深くなっている。神は常に新しく決して古くないからである。それぞれの時代に、神は新しい名前を名乗り、それぞれの時代に神は新しい働きを行い、それぞれの時代に神は被造物に神の新しい心と新しい性質を見せる。もし人々が新しい時代に、神の新しい性質の表れを見ないならば、人々は永遠に神を十字架に釘付けにするのではないであろうか。そうすることで神を定義するのではないであろうか。もしも神が男性としてだけ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として見定め、神を女たちの神だとは決して信じないであろう。それで男たちは神は自分たちと同じ性別であり、神は男たちの長であると信じるであろう。では女たちにとっては何になるのか。これは不公平である。これはえこひいきではないであろうか。もしそうであれば、神が救ったあらゆる人々は神と同じ男ということになり、女たちには救いがないということになる。神が人類を創造したとき、神はアダムを造り、そしてエバを造った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を造った。神は男たちだけの神ではない。神はまた女たちの神でもあるのだ。」「神の働きのビジョン(3)」より



   この兄弟は言いました、「神の御言葉から、神は霊であり、神は性別分けされないことが分かります。神が異なる時代に異なる性別を選ばれるのは、神の働きにおける必要性に基づいています。時代が変われば、働きも変わり、神の性別も変わります。神が恵みの時代に女として現れていたとしても、贖いの働きは全て変わらず成就されていたでしょう。そして、終わりの日の神のかたちは男となります。このように、神は今まで異なる性別で二度受肉されているのも、神が男と女を創造された意味を完全なるものにしています。それに、異なる性別を選ばれることには神の知恵が込められています。神が恵みの時代に男として働き、今回も男として御言葉を表していたら、神は男にしかなれないと私たちは信じるでしょう。同時に、私たちは神を男と限定するため、女を見下してしまうでしょう。そうなれば、女に対してとても不公平です。これは神の義をより明確に表しています。同時に、神はこうすることで、神は男としてしか受肉できないという私たちの誤った信念を一掃してくださり、神は全能であること、そして神の知恵は人間には計り知れないものであることを知らせてくださっているのです。さらに、私たちは神の本質は霊であること、そして性別は人類にのみ適用されるものであることも理解しておく必要があります。神の性別は神が受肉された時代にのみ依存するもので、受肉された神の働きが成就すれば、神はもはや性別分けされなくなります。従い、神の働きは私たちには全く想像もつかないものなのです。私たちが何かを不可能である思えば思うほど、それには神の善良な御心がより強く込められているのです。創造物として、私たちは自分の観念と想像によって神を定義することはできません、なぜならそれは神の性質を害してしまうからです。」

   兄弟は続けてこう言いました、「マタイ6:9にはこう記録されています:『だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。』 以前、主イエス様が弟子たちに天の神を私たちの天の父として祈るようお教えになったことを記した節に使われている ‘父’ という言葉を私たちはいつも使っていました。私たちは、神は天の父であるのだから、神は男にちがいないと考えがちです。実は、’父’ というのは受肉された神の人間の視点から見た天の神に対する敬称にすぎないのです。」彼の話しは私の心を完全に啓いてくれました。神がまた女として受肉されることは聖書の内容と一致しているのです。同時に、神は女になり得るし、男にもなり得るし、神には性別がないことも、私は理解しました。私は長年に渡り神を信仰していながら、神を知らず、いつも自分の観念と想像を頼りにしながら神を信仰していたことに気が付きました。さらに、私はやみくもに大衆に従ってもいました。牧師と説教師が何を言っても、私はそれを信じていたのです。私は東方閃電を調査することに全く専念していませんでした。私は本当に極めて愚かで、無知だったのです。主に感謝します。あの日の交流のおかげで、神が女として再臨されるということに関する私の観念は完全に取り除かれました。

   その後、あの説教師が以前中国にいた時、兄弟姉妹たちが彼女に全能神の福音を説きましたが、彼女は真理を求めることを拒否し、やみくもに自分の観念に固執したので神の救いを受ける機会を逃していたのだと私は理解しました。この事柄について、私はとても困惑したので全能神教会の姉妹に尋ねました、「表面的には宗教界の説教師と牧師の霊的生活は私たちのよりもスケールが多いいもののように見えます。なので、彼らは全能神の表す御言葉は全て真理であることを知り得るはずです。しかし、彼らはどうして終わりの日の全能神の働きを探求することも、調べることもしないだけでなく、全ての側面において私たちがそれを探求し、調べることを妨害するのですか?」私がこう言ったのを聞いた彼女は私のために神の御言葉のこの節を見つけてくれました:「荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは『健全な肉体』の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。」「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より。彼女はこう言いました、「宗教界の牧師たちは終わりの日の全能神の働きを探求することも、調べることもしません。1つの理由として、それは彼らの本性が傲慢であり、彼らが真理に従っていないことが挙げられます。彼らは、表面的には神を信仰していますが、実際には自分自身を信仰しているのです。神の働きが自分たちの観念と一致していなければ、彼らはそれを拒否してしまいます。彼らは神を自分たちの観念と想像の中で、聖書の字義どおりの意味で定義しています。神の宣教がどれだけ深く、正しいものであろうとも、また神の御言葉にどれだけの権威と力があろうとも、彼らは変わらずそれらを非難し、それらに抵抗し、これは彼らが神を恐れる心を全く持っていないことを示しています。彼らは真理を求めることもなく、神から御啓示を受けるのを待っているだけです。彼らは単に自らを買い被っているだけなのです。もう1つの理由として、彼らは自分たちの地位を過剰に大事にすることが挙げられます。自らの地位と生活を守るために、彼らは東方閃電が真の道であることを知っていながらも、東方閃電を拒否します。彼らはかつてのパリサイ人と同じです。彼らは主イエス様が働きをされた時、主が多くの真理を話されたこと、多くの奇跡をお見せになったこと、人々に沢山の恵みを与え、神の権威と御力を証明されたことを完全に知っていました。しかし、彼らは主イエス様の働きがユダヤ教に衝撃を与えていたことを知った時、主イエス様が働きをし続けたら、多くの人々が確実に相次いで主に従うようになり、そうなる頃にはユダヤ教は滅びてしてしまうと悟ったのです。なので、彼らは自分たちの地位と生活の糧を守るため、兵士たちに賄賂を払って嘘の証言をさせて、主イエス様は蘇っていないと言わせたのです。主の弟子と使徒たちが各地に散らばって主イエス様の福音の証言をした時、パリサイ人たちは狂信的に抵抗して彼らを迫害しました。パリサイ人たちは宗教界を永遠に操るという野心を実現するために、主イエス様が働きをするのを禁じようとしました。パリサイ人たちは神を名目上でしか信仰していなかったのです。実は、彼らは神に抵抗し、真理を嫌っていたのです。神に抵抗する傲慢さと主イエス様に対する嫌悪が彼らの野心と神を嫌う反キリスト的な本性を暴露しました。実際に、宗教指導者たちは全能神の御言葉をもっと読みさえすれば、全能神の御言葉と働きより、全能神は主イエス様の再臨であることに気が付くはずです。しかし、彼らは神を恐れる心を胸に終わりの日の神の働きを探求することも、調べることもないだけでなく、永遠に人々を操り束縛するという野心を叶えるために、人々が真の道を探求し調査するのを精一杯妨げようとするので、人々は永遠に神の救いが受けられなくなってしまうのです。彼らは魂を貪る悪魔で、その全員が終わりの日の神の働きによって暴露される反キリストなのです。」

   私は全能神の御言葉を読み、そしてこの姉妹の話を聞いて初めて牧師と説教師の本質を知りました。私が今までずっと比較的に信頼を置き、尊敬してきた説教師は神に抵抗する反キリストだったのです。彼女は私が終わりの日の全能神の働きを探求し、調査することを幾度となく邪魔し、出来る限りのことをして私を妨害し、私が神の前に行くことを好みませんでした。さらに、彼女は私のことを気にかけているふりもしましたが、私はそれを見破ることができず危うく彼女の策略に陥りそうになったのです。私はこれら宗教指導者たちは極めて陰険で狡猾であることを知りました。同時に、私は、神が好まれる人々は、謙遜して真理を求める人々であり、聖書の知識を理解していると勝手に信じ、傲慢に神の働きに批評を浴びせるような人々ではないことも理解しました。従い、私は自分を脇に置き、謙遜して探求することを学ぶ必要があり、傲慢で無知であることを理由に真の道への扉を閉ざしてはならないのです。その後、私は集会に参加し、神の御言葉を飲食し、兄弟姉妹たちがそれぞれの体験と証言を話すのを聞き、全能神の表す御言葉は全て真理であること、そして私たちの堕落した性質を取り除き永遠のいのちを手にするために歩む必要のある道であることを知りました。これ故に、私は子羊の足跡を密接に辿り、終わりの日の全能神の働きを受け入れました。


罪から逃れる道を見つけた

2019-06-08 22:08:35 | 神に帰す証

   何年も主を信じてきたクリスチャンである私は、牧師が説教でこのように言うのをしばしば聞いてきました。「私たち信者はすでに罪を贖われ、赦されています。主はお戻りになるとき、私たちを天の国へと直接引き上げてくださいます」しかし主イエスがお戻りになって私たちを天の国へと引き上げてくださるのを辛抱強く待つ間、とりわけ苦しく、私を戸惑わせることが起きたのです。

   私は信者になったあと、頻繁に聖書を読み、祈り、集会に出席したものの、日常生活で主の教えを守れていないことにしばしば気づき、当惑していました。自分を愛するように隣人を愛し、他人を七十七回赦すよう、主が私たちに命じられたことはよく知っていましたが、夫が私の言うことを聞かなかったり、周りの誰かが私の気に入らないことをしたりするたび、私はどうしても腹を立てずにはいられませんでした。罪の意識を感じて後悔し、頻繁に主に祈って告白するものの、別の状況に出会うといつも自分を制御できなくなってしまうのです。さらに、世間の流行に魅了され、引き込まれる誘惑を乗り越えることができませんでした。私はいつも世間の流行を追い求めていたのです。美しい服や化粧に夢中になり、物を買ったりウインドウショッピングしたりすることをいつも考えていました。私の心は物質的な喜びにすっかり取り憑かれ、ディボーションや聖書を読むことよりもそうしたことのほうにより多くの時間を費やしていました。しばらくすると、ますます聖書を読もうと思わず、教会の礼拝にもまったく行きたくなくなるまでになってしまいました。そのような振る舞いを主が好まれないのは知っていたので、私は堕落への道をこのまま進んでいかないよう努力する中で、聖書を読みインターネットで説教を探すことを自分に課しました。しかし自分の計画をきちんと守ってはいても、心からそれを楽しんでいたわけではなく、私の生活は主のお言葉からどんどん離れていきました。教会の友人に連絡をとってこのことを話しもしたのですが、もっと祈る限り主はご慈悲と愛を見せてくださるとか、主は私たちの罪を赦してくださるなどと言うばかりでした。私はそうした答えから何の安堵も感じませんでした。聖書にはっきりとこう書かれているからです。「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙12:14)。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない」(ヘブル人への手紙10:26)。みんなが言うように主が私たちを限りなく赦してくださるなら、主に祈る限り私たちの罪は赦されます。それなら、「真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない」と聖書には書かれているのでしょう。罪のためのいけにえがなければ、私たちはどうして天の国に入れるでしょうか。私は心の中でこれらの疑問が理解できませんでした。しばしばこのことで悩み、主に祈りました。「ああ主よ、私は罪を犯しては、その罪を告白する状態の中で暮らしています。とても困っています。罪から逃れるために何ができるでしょうか。どこで答えを見つけられるでしょうか。主よ、このことについての御心をお教えください。アーメン」

罪から逃れる道を見つけた

   その後2018年1月、私はインターネットで中国の姉妹二人と出会い、チャットを通じて彼女たちがとても敬虔なクリスチャンであることを知りました。私たちは信仰についてあらゆることを話し合ったのですが、交流がしばらく続いたあと、私は二人と本当に近づいたような気がして、互いに心を打ち明けられると感じ始めました。二人は生活においても実に信心深く、聖書について独自の理解と洞察を有していました。彼女たちとの交わりは本当に光に満ちていて楽しく、二人と聖書を掘り下げるのが心から好きでした。

   一度、スーザン姉妹がとても真剣にこう言ったことがあります。「主はすでにお戻りになっていて、人類を裁き、清め、救うという終わりの日の働きをなさっています」

   それを聞いて私は驚き、こう言いました。「主イエスはもう十字架にかけられて私たちの罪を贖われ、ご自分の働きを終わらせたのよ。主はお戻りになるとき、私たちを直接天の国へお連れになるんじゃないかしら。どうして裁きの働きもなさるの。主の働きはまだ終わっていないということなの」

   姉妹ルーシーはその返事として次の話をしてくれました。「十字架にかけられるという主イエスの働きが終わり、私たちが罪を贖われ赦されたというのは確かに本当です。でも贖いというのは、私たちが天の国に入れることを意味しているのでしょうか。神様の御言葉の一節を読みましょう。そうすれば理解できます。『罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。』

   これら神様の御言葉を読んだあと、姉妹スーザンはこう語りました。「神様の御言葉から、主イエスがなされたのは贖いの働きだということがわかります。主は私たちの罪を贖われ、私たちを罪から救ってくださいました。救われるということは、私たちが律法を守れないからといってもはや罪に定められることがなく、主の救いのお恵みを受け入れることを指しているに過ぎません。それは、主の御前に出て祈り、告白して悔い改め、主が私たちに授けられたお恵みと祝福を享受できるようになったことを指しています。ですが、私たちの罪深い本性は取り除かれていません。私たちはいまだに罪を犯しては告白するという状態の中で暮らしているのです。例えば、私たちは日常生活において他人と交わる中で、しばしば傲慢な性質を露わにし、他人が自分の言うことに耳を傾け、従うようになってほしいといつも願っています。私たちが主を信じているとしても、主は私たちの心に居場所を持っておられないのです。私たちはいつものようにこの世のものをむやみに欲しがり、世俗の流行を追いかけます。中にはこの世の栄光と富、そして肉の喜びを求めて神を完全に見捨てる人さえいます。罪の中で暮らす私たちのような人間に、どうして神様の国に入る価値があるでしょうか。主イエスはこうおっしゃいました。よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる(ヨハネによる福音書8:34-35)。主の御言葉はとてもはっきりしていました。罪の奴隷は神様の国にいることができません。だから、私たちは今なお頻繁に罪を犯しているので、神様の国に入る資格がないのです。私たちが罪を清められ、神様と相容れることができるようになるために、神様の救いの働きがいまだにもう一段階必要なのは、それが理由です。さもなければ、私たちは天の国に入る神様の承認を得られません」

   神様の御言葉の一言一言と、姉妹が語ってくれたこの話は、私に深く鳴り響きました。つまり主イエスの働きは、主が私たちの罪を赦す贖いの働きに他ならず、もはや私たちのことを罪人として見ないという、私たちに対する主のご慈悲だったのです。けれどそれは、私たちに罪がなく、汚されていないことを意味していたのではありません。私たちは今なお自分の意思に反して頻繁に罪を犯しますし、それは私たちが今も罪深い本性を持っているからに他なりません。私は夫にどう接していたかを思い浮かべました。何事においても夫が耳を傾けてくれるよう望み、そうしなければ腹を立てていました。また世俗の流行を追いかけ、心は物質的な物事で占められていました。そのうえ集会にちゃんと出席したり聖書を読んだりすることすらできませんでした。何度も主に祈り、告白したものの、止まることなく罪を犯し続けたのです。それはすべて、自分のサタン的な本性に支配されているからでした。パウロがこのように言ったのも不思議ではありません。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである(ローマ人への手紙7:18)。私たちの中には罪深い本性が深く根を下ろしており、真理を実践して神様に満足していただきたいと思っても、罪を犯して神様に抵抗せずにはいられません。私たちは汚れで満ちており、神様の国に入る価値はまったくありません。それに気づいたとき、私は急いでこう尋ねました。「主イエスは贖いの働きをなさり、終わりの日に来られたとき、私たちから罪を取り除く働きの一段階をなさるだろうと、あなたは言っています。それなら、主はどのようにしてその働きをなさるのでしょうか」

   姉妹スーザンは微笑んでこう言いました。「姉妹、あなたはとても大事な質問をしました。事実、聖書にはこの点について書かれた次のような預言があります。たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書12:47-48)。さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうかペテロの第一の手紙4:17)。これらの聖句から、主は終わりの日に来られるとき、私たちが真理を理解して入れるようにするため、必要とするすべての真理を表現なさることがわかります。それは主イエスによる贖いの働きの続きであり、人間を清め完全にするための、神様の家から始まる裁きの働きの一段階です。全能神の御言葉に関する次の二つの文章を読めば、それがはっきりするでしょう。神様の御言葉はこうおっしゃっています。神がこの時代に実行する働きは、主に、人間のいのちのための言葉を与えること、人間の本性の実質と、人間の堕落した性質を明らかにし、人間の知識と文化とともに、宗教的観念、封建的な考え方、時代遅れの考えを除くことである。これはすべて神の言葉によって露わにし、清めなければならない。』『終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。

   姉妹スーザンは話を続けました。「終わりの日、神様は言葉を用いて裁きの働きをなさると、神様の御言葉は私たちに示しています。神様によって表現された言葉のすべてには、神様の義なる性質とともに、神様が所有するものと神様そのもの、神様の経営計画の奥義、そして人類の救いにおける神様の意図と御心が含まれています。それに加えて、それらは人々の罪深さと神様への反抗の根源、人間の堕落の真相、そして人類の最終的な終着点と結末を表現しています。真理のそうした側面がすべて含まれているのです。それらはいずれも、私たちのいのちに糧を提供する言葉です。終わりの日における神様の裁きと刑罰の働きを経た人はみな、自分の心の奥深くで神様の吟味を体験します。神様の御言葉は鋭い剣であり、神様を裏切るという私たちのサタン的な本性や、私たちの心に潜む卑劣な動機を切り裂き、露わにします。それは私たちの心の奥底に隠れた誰も知らないサタン的な考えさえも暴露します。そのことは、生活における振る舞いや他人の扱いといった小さなことから、信仰に対する視点、あるいは私たちが歩んでいる道はサタンの世俗的な哲学と生存法則にすっかり依存しているという事実といった大きなことに至るまで、私たちがどれだけサタンによって堕落させられてきたかを示しています。私たちは神様の御言葉を通じて、自分が本質的に傲慢、不正、欺瞞、貪欲、邪悪、自己中心、そして卑劣に満ちていること、また私たちのうち神様を信じる者でさえも祝福を得て報われるためにそうするのだということがわかります。それが真理を追求するためでも、いのちを獲得するためでも、本当の人間らしさを生きるためでもまったくなく、神様の御前で生きる価値がこれっぽっちもないことに私たちは気づきます。そうして心の中から悔い改め、自分を憎むことを始めるのです。それと同時に、私たちは神様の御言葉の権威と力だけでなく、神様の正しく聖なる性質、侵すことのできない性質について、とても深く経験しています。私たちは神様の御前でひれ伏し、神様に悔い改めて自分の方法を変え、自分自身のサタン的な本性を憎まずにはいられません。このようにして、私たちは喜んで神様の裁きと刑罰を受け入れるようになり、真理を実践に移し、神様に満足していただく新しい人になることを決意するのです」

   姉妹ルーシーは感動してこう言いました。「本当ね!神様の御言葉による暴きと裁きがなければ、私たちは自分自身の堕落した性質、本性、そして本質を本当に知ることはないでしょう。私たちは明らかに堕落しきっているけれど、それでも自分を立派だと思っているし、主によって天の国に引き上げられる資格があると考えています。私も以前は、自分のことを温かく優しい人間だといつも考えていて、誰かと口論することは絶対にありませんでした。それに、信者になってからは本当に行儀がよく、多くのよいことをしたから、自分はよい人で、主が来られたとき天の国に直接引き上げられるだろうと考えていました。でも終わりの日における全能神の働きを受け入れてからは、神様の御言葉が暴露することを通じて、自分が『よい」というのは単なる見せかけで、本当はよくないのだということがはっきりわかりました。それらのことを行なったのは、他人の賞賛を得て、人々が自分を見上げるようにすることが動機でした。私は、他人の目に完璧な像を見せるように振る舞っていたんです。しかも、事あるごとに主の教えを破り、神に反抗的で苦痛をもたらしただけでなく、傲慢で、人の言うことに耳を傾けるのが嫌でした。そのうえ嘘をつき、自分の利益のために不正なことをしました。頻繁に自分を讃え、自分の証をし、人々の心の中の地位を求めて神様と争いました。私は大天使の道を歩いていたのです。そのことを考えたとき、心から恥ずかしくなって罪の意識を感じました。私は自分を嫌い憎みました。それからはもう、自分がどれだけ優れているかを自慢することはなく、神の国に入る資格があるとも考えませんでした。その代わりに、神様の御言葉の裁きと刑罰を心から本当に受け入れ、自分の堕落した性質を捨て去ったんです。私を自分の観念や想像から目覚めさせ、自分の本当の状態に気づかせ、真理と性質の変化を追い求める道に踏み出させてくれたのは、神様の御言葉です。それはすべて、終わりの日における神様の働きの果実なんです」

   私は姉妹の話に心から感動しました。私が自分自身の観念と想像にしがみつき、いつも明らかに罪を犯しながらも、主がお戻りになって自分を天の国へ引き上げてくださるのを待っていたことを、その話は示していたのです。それは本当に現実からかけ離れています。神様の裁きの働きに関する姉妹たちの証言と、彼女たち自身の経験を通じて、罪を振り払う実際の道を示してくださったことに対し、私は神様に感謝します。私はもはや、罪から逃れられないせいで苦しんだり無力に感じたりしなくても済むようになりました。神様の裁きの働きを受け入れて経験する限り、罪深さから解放され、神の国に入る機会を得られるのだと、私は信じています。

   私は嬉しくてこう言いました。「主に感謝します。私はまだ全能神による裁きの働きを経験していませんが、あなたの経験を通じて私たちに対する神様の愛と救いを実感できます。これからはあなたたちお二人ともっと交流して、全能神の働きや、あなたたちの経験と証言をもっと理解できるようになりたいと思います」二人はそれを聞いて感激しました。

   しばらくの間、探し求めたり、調べたり、二人の姉妹たちと集まったりして、私は真理をさらに理解するようになりました。全能神は実はお戻りになった主イエスだと確信し、終わりの日の働きを喜んで受け入れました。心の中がとても暖まるのを感じました。神様は私にとても優しくしてくださったと、私は信じています。神様は私の祈りにお答えになっただけでなく、その御声を聞いて賢い乙女の一人になるよう、私を導いてくださったのです。ありがとうございます、神様!すべての栄光は全能神にあれ!アーメン!


私はもう日中に罪を犯し、夜に告白するという生活に悩まされてはいません (II)

2019-05-18 22:44:56 | 神に帰す証

   チェン兄弟は聖書に書かれた預言をいくつか取り入れ、主が来臨される方法について話し、神が人の子になられて地上に降臨されたと言いました。チェン兄弟はこう言いました:「実際に、主はお戻りになられました。主は人間の姿で受肉され、世の終わりに裁きの働きをしに御言葉を表されました。これは聖書の中の預言を現実化してもいます:「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)。主がお戻りになられた!本当に主はお戻りになられたのですか?主は裁きの働きをしに受肉されたのですか?チェン兄弟がたった今読んでくれた御言葉は正に神の新しい御言葉なのですか?私はとても驚いたと同時に嬉しくなりました。しかし、私は、彼が裁きが教会から始まると言ったのを聞いて思わず、「主はお戻りになられる時に私たちを裁かれるのかしら?」、と心配になりました。私は以前、主の教えを貫けずにいつも罪を犯して主に逆らっていたので、そんな私は刑罰を受けることになるのではないかと思いました。

   チェン兄弟は、神が実際はどのようにして裁きの働きをなさるかを私に理解させようと神の御言葉の他のパラグラフを読んでくれました:「以前に話した通り、裁きは神の家により始まる。この「裁き」とは、終わりの日に神の玉座の前に来る者に対して今日神が下す裁きのことを指す。終わりの日が来た時、神は天空に大きなテーブルを用意し、その上には白いテーブルクロスが広げられ、神は偉大な玉座につき、全ての人は地に跪く。そこで神は、その者が天国に昇るべきか燃える硫黄の湖に送られるべきかを決めるため、各々が犯した全ての罪を明らかにする―そのような超自然的な様子を想像する人がいるかもしれない。人の想像がどのようなものであろうとも、神の働きの本質は変わらない。人の想像は、人の思考による構築物にすぎず、人の脳に由来しており、人が見聞きしたものから組み立てられている。だから、いかに素晴らしくイメージが構想されていたとしても、それはやはり絵画にすぎず、神の働きの計画の代替物にはなり得ない。結局のところ、全ての人はサタンにより堕落しているのだから、どうして神の考えを推し量ることができようか。」

   兄弟は続けてこのように交流しました:「裁きは私たちが思っていたように、神が天国で白いテーブルクロスを広げたテーブルを立てられ、私たちがそれぞれの行いに応じて天国に昇るのか、それとも地獄に落ちるのかを決定されるのではありません。これは私たちの想像に過ぎません。もし神が本当にこのような形で私たちを私たちの行いに基づいて裁かれるのであれば、私たちの中に生き残れる人はいないでしょう。実際、神の裁きは私たちの罪を非難するためのものではなく、私たちを救うためのものなのです。」兄弟の交流を聞いて、私は神の御言葉にとても驚きました。これらの御言葉は私のことを言っているのではないでしょうか?私が以前想像していたのは、大きな白い御座の裁きが下される前に、私があの日やこの日に犯した罪がテレビに映し出されるというだけのものでした。そうか!これは本当に神の御声なのです。私の心の中の思考は神のみが知り得るものです。しかし、大きな白い御座の裁きの前に天国で下される裁きの内容が私の想像に過ぎないとしたら、神はどのようにして裁きの働きをなさるのでしょうか?

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   その後、私が困惑しているのを見たチェン兄弟はまた神の御言葉の節を読んでくれました:「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」

   兄弟はこのように交流しました:「神の御言葉から、神は世の終わりに御言葉を通じて裁きの働きをされ、御言葉を使って私たちの堕落した本質を明らかにして私たちの考えと行い全てを暴露されることが分かります。神の御言葉の御啓示を通じ、私たちは自分の本質が本当に極めて傲慢かつ利己的であることに気付き、自分たちは嘆かわしいほどに汚れているため、何をするにしても自分の名声と地位を守るために自分の意図と不純さをもって行動していることを知るのです。神の働きが自分たちの観念と合わないと、私たちは未だに神に文句を言って抵抗します。また、私たちは全ての点においてサタンの傲慢な性質を指針に生き、常に高い地位に立って人々を叱ります。私たちは自分がもはや人間らしさをほんの僅かも持っていないほどサタンに堕落させられていることを知る時に初めて自らを嫌い、罵り始めます。これと同時に、私たちは神の御言葉の中に神の神聖さと義なる性質を体験し、主に対して敬虔の念を感じるようになり、主に満足していただくため自らの肉に背き、真理を実践する意欲を持つようになるのです。私たちは実践すればするほど、増々人間らしさを持つようになります。この全ては、裁きの働きがもたらす効果です。考えて見てください:「神がもし、来臨される時、救いにおけるこの段階の働きを実行されなかったら、私たちはどうやって自分の罪を捨て去り、清められることができるでしょう?私たちはどうやって天の御国にはいる資格を得ることができるでしょう?」

   そうです。私は以前、夫と子供たちに対する怒りを抑えられなかったために罪から抜け出せないことに頭を悩ませ、罪を犯してはそれを告白するという状況の中を生きていました。私は主が再臨なさる時に非難されることをとても心配しました。私は今日聞いたチェン兄弟の交流を通じ、主による裁きは人間を直接非難しているのではなく、むしろ御言葉を表して私たちのサタンのような性質を明らかにすること、そして私たちが自己認識をして自らを変えられるようにすることだと理解しました。それは私たちを清めて変えるためのものなのです。主は本当に私たちを愛してくださっています!常に罪を犯してきた私のような人は紛れもなくこの神の救いを必要としているのです!私にまだ悔い改めて変化を遂げるチャンスがあるというのは、本当に素晴らしいことなのです。

   集会が終わった時、私は、「主は本当に再臨なされた!」と思ってとても興奮しました。私は夢を見ているような気分で、しばらく興奮が冷めませんでした。この2日間でチェン兄弟が交流してくれた内容を振り返ると、私はとても感動し、涙しながら神に祈りを捧げずにはいられなくなりました:「ああ、神様!私はサタンからとても深く堕落させられてしまい、あなたの前に来るにふさわしい者ではありません。それでも、あなたはお戻りになった時、卑しむべき私があなたの御声を聞いて、あなたの再臨をお迎えできるようにしてくださりました。あなたは私をとても愛してくださっています。今となっては私の生活の惨めさとストレスは全てもうどうでもいいことで、最も重要なのはあなたの再臨をやっと見ることができたということです。私は将来全能神の御言葉をよく読み、自分の堕落を捨て去ることに努め、人間らしさを貫いていく必要があります。」

   しばらく調査した後、私は全能神が主イエス様の再臨であると確信し、神の御言葉をもっと切望しました。その後、私はこの神の御言葉を目にしました:「人間が地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにする。人間は、自分の力を示し、自分の地位や身分が普通の人々とは違うことを他人に知らしめるため、明確な理由なく激怒することさえ多々ある。無論、地位の無い腐敗した人間も、頻繁に取り乱す。そのような人間の怒りは、その人間の個人的利益に対する危害によって発生させられる場合が往々にしてある。自分の地位と威厳を守るため、腐敗した人間は感情を発散させ、傲慢な本質を露わにすることが往々にしてある。」 この時、私は、「私を操り、私に夫と子供たちに怒りをぶつけさせていたのは自分の傲慢な性質であった」、ということに気が付きました。過去に、子供たちが自分の言うことを聞かないと私は彼らを大声で叱っていました。夫が私の期待に沿わないことをすると私は彼を口喧嘩をしていました。私は常に彼らが自分の意図に従って行動することを望んでいましたが、彼らの考えに耳を傾けたり、彼らの気持ちを大切にしたことはありませんでした。その時、私は主イエス様でさえ弟子たちの足を洗われたことがあったのを思い出しました。これ故に、自分のことを振り返ってみると、私は傲慢過ぎたと言えないでしょうか?

   これを理解した後、私は夫と子供たちと仲良くなり、そして彼らに怒りたい時があっても、自分の傲慢な本質が顔を出していることに気が付き、意識的に神に私の心を静めてくださるよう祈り、落ち着いて彼らと話したり、彼らが心の中で何を考えているのかを聞くことができました。娘が宿題をしないことがあっても、私は以前のように大声で彼女を叱りはせず、ゆっくりと彼女を善導し、どのような困難を抱えているのかを聞きました。このように実践していると、私と家族の関係は次第に大きく改善していきました。

   ある日、夫が私に、「最近は前みたいに気性が荒くなくなったな」、と言いました。私は彼がこう言ったのを聞いて、心の中で神に感謝をせずにはいられませんでした。そして、私は誇らしげにこう言いました:「神のおかげよ!神の御言葉が私を変えてくださったのよ。」私は神の働きを受け入れてから自分が少し変わったことに気が付き、世の終わりの神の裁きの働きは本当にとても有意義で、それは私たち人類を本当に変え、清めることができると感じ、真理を追い求める私の意思をさらにかき立ててくれました。自分の堕落したサタンの性質を捨てる方法を手にした今、私はもう日中に罪を犯し、夜にそれを告白するという生活に頭を悩ますことはなくなりました。私は神の御言葉を上手く飲食し、自分の堕落した性質を知ることに集中し、そして真理を実践している限り、いつかは清められ、そして神の御救いを受けることができると信じています。私は全能神に感謝し、全能神を讃えます!


私はもう日中に罪を犯し、夜に告白するという生活に悩まされてはいません (I)

2019-05-17 11:42:59 | 神に帰す証

   現在、主を心から信仰する兄弟姉妹たちの多くが日中に罪を犯し、夜にそれを告白するという生活に悩んでいます。彼らは罪の束縛を捨て去りたいのですが、どうすることもできないでいます。私も一度同じ状況に陥りましたが、今は罪を捨て去る道を見つけたので、もうそれに悩まされてはいません。従って、自分のした体験を兄弟姉妹たちと共有したいと思います。

   私は中学生の時に洗礼を受けてクリスチャンになりました。私は結婚した後、息子と娘を授かりました。その後、私の夫がレストランを開店し、私はそこで忙しくなって子供たちの世話をする時間がなくなってしまいました。その後、私の娘は夜にゲームをして宿題をしなくなり、日中はいつも授業中に居眠りをしていました。彼女の成績は落ちていきました。私は頻繁に彼女の先生から彼女の状況について聞かされていたので、彼女のことをちょっしゅう大声で叱らずにはいられませんでした。私たちは次第に仲違いしてしまいました。他の時には、息子がサッカーをしていた最中に骨折をして病院に行ったのですが、私の夫はレストランのことはほったらかしで、私が全て対応することを当てにしているので、私は息子の世話をしてあげることができませんでした。結果、私は夫に対する不満が募り、彼と頻繁に口論をしました。

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   ある時、私たちが口論をしていると夫が私にこう言いました、「お前は自分を主の信者と呼んでるけど、主への信仰はこんな感じであるべきなのか?」私は彼の言葉を聞いて恥ずかしくなってこう思いました:「神は私たちに自分を愛するように他人を愛し、他人を何度でも許すよう教えてくださるけど、夫や子供の言葉と行動に納得いなかいと怒りが抑えられなくて、いつも彼らに腹を立ててしまうわ。」私はその後、罪悪感を感じて後悔し、絶えず主に祈りを捧げて罪を告白したものの、また同じようなことが起った時は依然として自制することができませんでした。その時、私は聖書にこの御言葉が書かれていることを考えました:「主は地をさばくために来られるからである。主は義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれる。」(詩篇98:9)主は全ての罪人たちを裁きにやって来られます。日中に罪を犯し、夜にその告白をしているような私に天の御国に入る資格などあるのでしょうか?

   その後、レストランは売上が悪くなり、私たちのビジネスは次第に落ち込んでいきました。さらにその後、私は自分たちの日頃の経費を維持して、店員の給料を払うために借金をするはめにもなりました。私は一日中心配に駆られ、食欲を失い、睡眠を取らずに生活をしていました。様々なストレスの中で息苦しい思いをしていた私は機嫌がさらに悪くなっていきました。これを理由に、私は善良な姉妹たちと私たちの教会の牧師の妻に主の御言葉を実践する方法について助けを求めました。彼女たちの答えは、「私たちがあなたのために祈りを捧げますから、あなたは主を信じるべきです」、というものでした。しかし、私は心の中で疑念を抱くようになりました:「毎日主の前に行って祈りの中で助けを求めているのに、私はどうして主の御言葉を実践できないのかしら?」私は生活のプレッシャーに加え、魂がしなびていたことが原因でとても惨めな気分になりました。私はまるで見捨てられた子供のようで、夜になると頻繁にすすり泣きました:「ああ、主なる神よ!あなたは何処におられるのですか?私は辛い苦しみの中を生きています。どうか私をお導きください。。。」

   後に、私はインターネットでリアン兄弟と知り合いになり、彼は頻繁に聖書の中の節の話をして私を慰め、勇気付けてくれました。一度、リアン兄弟は私にこう聞いてきました、「あなたは罪を犯していると思いますか?」私はこう返事しました、「大きな罪は犯していませんが、誰でも犯すような小さい罪なら。」彼は続けてこう言いました:「罪を犯していることを踏まえて、私たちは天国に入れると思いますか?」彼の言葉は私を沈黙させました:「そうよ。罪深い私たちは天国に入れるのかしら?」これは常に私を困惑させる疑問でもありました。最後に、兄弟はこの疑問を兄弟姉妹たちと一緒に調査しようと私を誘ってくれました。この質問には混乱させられてもいたことを考えて、私は誘いを受けました。

   集会の時、チェン兄弟が次の2パラグラフの聖句を送ってくれました:イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。』」(ヨハネによる福音書 8:34-35)「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである。」ペテロの第一の手紙1:16)チェン兄弟はこのように交流してくれました:「この聖句から、神は神聖な御方であり、汚れて堕落した人々が神の御国に入ることを神が許可されるなどあり得ないということが分かります。これ故に、神は私たちが罪の束縛を捨て去り、清められることを要求しておられるのです。私たちは罪を犯さなくなって、神に抵抗もしなくなって、初めて神の御国に入ることができるのです。」これを聞いて私はがっかりしました。私はこう思いました:「そうよ、どうして私は今までこの聖句に気が付かなかったのかしら?主は清らかな人々のみ神の御国に入れると仰っておられるけど、だとしたら毎日罪を犯す私は見込みがないってことなのかしら?」

   私がこう熟考していた間に、チェン兄弟は他のパラグラフも送ってくれました:「罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質がどのように取り除かれるかという働きは人の中ではなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い性質は取り去られず残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、人がもはや罪を犯さず、罪深い本性が完全に取り去られ変えられるにはどうしたらよいかという問題を人は解決することができなかった。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。」「受肉の奥義(4)」より。チェン兄弟はこのように交流してくれました:「このパラグラフから、主イエス様は十字架に磔にされて人類の贖いの働きをされ、私たちを罪から救ってくださったことが分かります。主の贖いにより、私たちは主の前に行って、主が祝福してくださる平安と喜びを受けることができます。しかし、傲慢、うぬぼれ、偽り、心の歪み、身勝手さ、そして卑劣さ等、私たちの堕落したサタンのような性質は私たちの中に深く根付いてしまっています。従って、私たちは依然として自分を抑えられず、罪を犯して神に抵抗しているのです。私たちは主を信仰してきたにもかかわらず、依然としてお金と名声を追い求め、自分の利己的な利益を守るために頻繁に嘘をつき、他人を騙します。他人の行いが自分の考えと合わない時、私たちは激怒します。時に、私たちは依然として邪悪なトレンドを追いかけ、常に罪に束縛され、耐え難い苦しみの中を生きています。私たちはサタンに極めて深く堕落させられており、罪を克服する力を持ってもいないため、成す術がないままサタンに自由に欺かれ、日中に罪を犯し、夜にその告白をするといった状態の中を生きているのです。地面に生えるにらのように、根こそぎにしない限りは一度刈り取ってもまた顔を出してくるのです。これ故に、私たちは罪に束縛されるのではなく、完全に清められるためには、神に更なる働きの段階を行っていただいて、私たちの内に深く浸透している堕落したサタンのような性質を完全に一掃していただく必要があります。私たちは堕落したサタンのような性質から抜け出して、自分たちの性質が変化を遂げた時に初めて神の御国に入る資格を得ることができるのです。」

   私はチェン兄弟の交流にとても感謝しました。私はまた、自分たちが日中に罪を犯し、夜にその告白をするという状態の中を生きているのは、自分たちの内にあるサタンのような性質が払拭されていないことが理由であるとも理解しました。さて、兄弟が読んでくれたこれらの御言葉は一体どこから来ているのでしょう?それはどうして私の状態を解き明かすことができるのでしょうか?私は一度も耳にしたことがありませんでした。普通の人間が口にする言葉とは思えません。チェン兄弟は、神に来ていただいて働きのまた他の段階を実施していただく必要があると言いました。私はこれに対する好奇心でいっぱいになり、チェン兄弟による次回の交流がさらに楽しみになりました。