賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

あなたは神を信じますか?それとも権力を信じますか?

2019-05-16 21:31:36 | 神に帰す証

   私の抱える困惑

   私は主イエス様を信じるようになった後、神を信仰することの理解を得ました。しかし、世間のトレンドの影響を受けていた私は自然と、「何かについて意見をしたり、それが正しいのか、そうでないのかと判断する前に、私は先ず著名人や権力者たちがどういう意見を出しているのかを確認してから彼らの意見の方向性に従う」、という考え方をしていました。そして、私は自分が正しく、こうすることは他の大勢の人たちもやっているのだから比較的安全なことだと思っていました。真の道と偽の道を見分けるといった神への信仰に関する事柄についても、私は同じことをしていました。

   私は、母が初めて私に世の終わりの全能神の働きを説いてくれて、「私たちが待ちわびていた主イエス様が戻られたわ」、と言った時のことを覚えています。これに対する私のリアクションはというと、「これは本当かしら?お母さんは田舎の女性で知識も見識もないからなあ」、といったものでした。今彼女は全能神を信じていて、全能神は主イエス様の再臨だと私に言いますし、彼女はそれに対してとても熱心です。私の母は混乱していて、何の見識も持っていないのかもしれません。主イエス様の信者たちが通う教会は数多く存在し、それらはとても大きく壮大なものです。そこの説教師たちは神学校を卒業し、長年に渡って説教をしている経験豊富な牧師たちです。主は彼らにも伝えておられないのに、どうして私たちが主にお会いできるというのでしょう?これは単なる幻想に過ぎません。それに、主イエス様が本当に戻っておられるのなら、長年に渡って主に仕えてきた牧師と長老たちはそれを知っておられるはずですが、どうして彼らは知らないのでしょう?全能神が本当に主イエス様の再臨であるなら、どうして牧師と長老たちはそれを認めないのでしょう?私はこれが理解できませんでした。これ故に、母が主イエス様の再臨について私に証した時、それは真理と一致しているように感じましたが、依然として疑念を振り払えなかった私はそれを完全に受け入れることができませんでした。その後、母はある姉妹を私の自宅に連れてきて私と交流してもらい、私は彼女に自分の抱えていた困惑を説明しました。

   答えを模索する

   私は姉妹にこう尋ねました、「あなたは主イエス様は肉に戻られ、新たな働きをされたと言っていますが、それがもし本当なら、長年に渡って主に仕えてきた教会の牧師と長老たちはこれを既に知っているはずだと思うのですが。あなたがこれを説いても、どうして彼らはそれを認めないのですか?」

   姉妹はこう交流しました、「ご存知の通り、神の本質は義であり、神を誠実に求める者たちは誰もが神の御啓示を受けます。私たちは誰もが、「遠い昔から、神は新しい働きを開始される時、先ずは誠実で、かつ自分の観念を脇に置いて神の新しい働きを受け入れられる者たちにそれを明らかにされましたが、それに反して、神は古い観念に固執し、傲慢かつ独善的な者たちからは御姿を隠しておられた」という事実を知っています。主イエス様はこう仰りました:「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。」(マタイによる福音書11:25)。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。 」(マタイによる福音書23:12)。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 … 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。(マタイによる福音書5:3、6)。これらの節から、神は謙虚で、真理を求めて神に従う意思のある者を愛されることが分かります。律法の時代に、人々は皆、メシアの来臨を切望していました。人間の観念によると、メシアが来られる時は、神に仕え、ヤ―ウェ神の律法を説教していた祭司長、律法学者、そしてパリサイ人が最初にそれを知るものとされていました。しかし、主イエス様が来られた時、神は最初に東方の三博士と羊飼いにそれを明らかにされたのです。この祭司長、律法学者、そしてパリサイ人は主がメシアと呼ばれていなかったことを理由に、頑固に自分たちの観念に固執し、主を拒否していたのです。彼らは神を知らなかった盲目な者たちであり、最終的には主イエス様を十字架に釘付けにし、凶悪な罪を犯したのです。神は義なる御方であり、誰かを偏愛されることはありません。私たち1人1人が、謙虚で従順な心を持ち、自分の観念を脇に置くことができる限り、神の御啓示を得ることができるのです。

神を信じる,権力を信じる

   世の終わりの最後に、主の再臨である全能神は御言葉を表しながら教会を起点に裁きの働きをされました。宗教的指導者たちは神が肉に戻られて新しい働きをされたと知った後、真理を切望してそれを求めた僅か数人のみが神の御啓蒙と御啓示を受けて世の終わりの全能神の働きに従うことができました。しかし、主を心から信仰していた兄弟姉妹たちはそれぞれの観念を脇に置くことができたため、その大多数が全能神の御言葉を耳にした後、神の御声に気が付き、神の御座に立ち返ることができました。これについて、主イエス様はこう仰りました:「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27). そして全能神はこう仰ります:「ある人々は、聖霊の働きがあるところには神が現れると何の考えもなく思っている。または、霊的な指導者がいるところに神が現れると思っている。あるいは、人々の知名度が高いところに神が現れると思っている。そうした考えが正しいかどうかは、今のところは深く考えないでおこう。このような問題を解説するには、まず目的をはっきりさせる必要がある。私たちが探し求めているのは神の足跡である。霊的な指導者を求めているのでもなく、ましてや有名人でもない。私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。人の本分は、探し求め、受け入れ、従うことである。」。この全能神の御言葉から、神は私たちの観念に従って働きをされるのではなく、むしろ神御自身の計画に基づいてされることが分かります。神は地位と評判の高い著名人や聖職に就く人物の前には現れず、むしろ謙虚で真理を求める人の前に現れます。神の信者として、私たちは神が現在お話しになる御言葉だけでなく、聖霊の働きも求めるべきです、なぜなら神の御言葉がある所には、神の足跡があり、神が御姿をお見せになる所には、真理、道、そしていのちがあるからです。私たちは、子羊の足跡について行くことを望むなら、神の働きを求め、それに従うために自分たちの観念を脇に置かなくてはなりません。

   裁きに従う

   姉妹の交流を受けて、私は、神の働きは原則に基づいており、神は私たち人間の観念と想像に基づいた働きはされないと理解しました。私たちは想像物として、神の働きに従い、神の顕現を求めるべきです。そして、私は全能神の御言葉を読みました。これがその御言葉です:「一部の人々は真理を喜ばず、裁きとなればもっと喜ばない。むしろ、人々は権力と富に喜びを見出すのであり、そのような人々は俗物と見なされる。彼らはもっぱら、影響力を持つ世界中の宗派や、神学校から来た牧師や教師を探し求める。真理の道を受け入れたにもかかわらず、彼らはどこまでも懐疑的で、自分自身を完全に献げることができない。彼らは神のために犠牲を捧げることについて話しはするものの、彼らの目は偉大な牧師や教師に注がれ、キリストは無視されている。彼らの心にあるものは名声、繁栄、栄誉ばかりである。彼らは、そのような貧弱な人がそれほど多くの者を征服することができ、そのような平凡な人が人々を完全にすることができるなどと全く信じない。彼らは、塵と糞の中にいるとるに足りない人々が神に選ばれているとは信じないのである。彼らは、もしそのような人々が神の救いの対象であれば、天と地がひっくり返り、すべての人間が大笑いするだろうと信じている。彼らは、もし神がそのような取るに足らない者たちを完全にすると決めたのであれば、先に挙げたこのような偉大な人たちは神自身になってしまうと信じている。彼らの考え方は不信仰によって汚染されている。実際のところ、不信仰どころか、彼らは、ばかげたけだものである。なぜなら、彼らは地位、名声、権力だけに価値を置く。彼らが重要視するものは大きな集団や宗派である。彼らはキリストに導かれる者のことを全く考慮しない。彼らはキリストに、真理に、そしていのちに背をむけた裏切り者でしかないのである。」「あなたが敬慕するのはキリストのへりくだりではなく、有名な地位にある偽の指導者たちである。あなたはキリストの素晴らしさや知恵を愛さないが、邪悪な世と交わりを持つ奔放な者たちを愛している。あなたは、枕するところもないキリストの苦しみを笑うが、捧げものを奪い取り放蕩な生活を送る屍たちを賞賛するのである。あなたはキリストのそばで苦しむことを望まないが、あなたに肉、文字、支配しか与えない浅はかな反キリスト者たちの腕の中に喜んで入っていこうとするのである。今でもあなたの心は、彼らに、彼らの評判に、あらゆるサタンの心の中にある彼らの地位に、彼らの影響力に、彼らの権威の方に向いているのに、あなたはキリストの働きを受け入れずに反抗と拒否の態度を持ち続けるのである。だから、あなたがキリストを認める信仰を持っていないとわたしは言うのだ。」神の御言葉は、真の道を偽の道から見分けることに対する私の誤った考え方を開示してくれました。私はいつも、強い影響力があって、評判の良い分派はいずれも真の道であると思っていました。私が心の中で称賛していたのは、彼らの評判、地位、そして力であり、私の神への信仰は真理のあり方を求めるためのものではなかったのです。牧師と長老たちの敬虔な振る舞いを見る度に、私の心の中で彼らに対する感心が膨らんで行きました。私は彼らは尊重に値するすぐれた徳を持ち、神から最も認められているに違いないとも感じていました。そして私は彼らと話ができるだけで光栄に感じることすらありました。しかし、私は彼らの貫きと啓示に真理があるのかどうか、幾年にも渡って神を信仰した後、彼らはいのちの性質において変化を遂げていたのかどうか、彼らは神を知っていたのかどうか、そして彼らは神を信仰する正しい道に私を導くことができるのかどうかを見極めることができませんでした。私はとても愚かで、人々を外面的にのみ判断し、それぞれの持つ本質を見極めることができませんでした。これは私が神を信じておらず、心の中では名声、地位、そして力を信じていたことを示していました。私は極めて愚かで、盲目だったのです!

   道の発見

   その後、私は全能神の御言葉を読んで真の道を特定する原則を理解しました。全能神はこう仰っておられます:「真理の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は本来の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)本来の人間性すべてである。即ち、この道が人間を本来の人間性に導くものかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が本来の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを調べなければいけない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真理の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真理の道であると結論づけられる。」。神の御言葉から、私は、それが神御自身の働きであるなら、同時に聖霊の働き、ならびにその中に込められた真理の表れもあり、さらに、それは人間が神をより深く知るように仕向けてくれることを知りました。恵みの時代に、主イエス様は受肉され、十字架に磔にされたことで人類を贖う働きを成就され、慈悲深い、かつ慈愛の性質、ならびに恵みの時代を生きる人々が実践すべき真理をお見せになられました。それにより、人々は多大なる恵みと祝福を授かり、主の信者たち全員が神の性質と偉大なる御力を知ったのです。従って、過去の時代の聖徒たちは迫害と苦難の中で福音を伝導し、その多くは主のために殉教までしましたが、その全ては聖霊の働きが生み出した結果だったのです。世の終わりに、全能神は人間が神を知り、神から救われるために必要な真理を全て表してくださり、神の6000年の経営計画の目的、神の働きの原則、神の働きの3つの段階に関する奥深い真理、人間の将来の終着点など、神の経営計画の奥義全てを開示されました。全能神の働きと御言葉は各宗派と団体を揺すりました。聖霊の働きによる導きの下で、神の御国の福音は中国本土全体に広がりました。今神の御名前と御言葉は世界中の国々と場所にいる人々が探求し調査できるようにインターネット上で公表されています。全能神は世の終わりに義の支配する性質をお見せになり、裁きと清めの働きをされ、人間を清め救う働きを達成されます。全能神教会が製作した映画と動画より、全能神教会の兄弟姉妹たちは神の裁きと刑罰を受け、それによって彼らの人間性、理知、そして貫きは今まで以上に普通になり、彼らの堕落した性質は増々減り、彼らの神に対する知識は増々増え、神を礼拝し、神に従うという彼らのいのちの自然な表れは真なるもので、感動的なことであることが分かります。これは完全に聖霊の働きが起こした結果なのです。これ故に、私は全能神は主イエス様の再臨であり、真理そして真の道であると確信していたのです!神の御指導に感謝します!神の御言葉から、私たちは神の信者として聖霊の働きについて行くべきであり、喉を詰まらせることを恐れて食べるのを諦め、ただ単に座りこんで死ぬのを待つべきではないのだと理解しました。いのちのあり方は実際に探求、調査、そして体験することで得られるのです。神に感謝します!全能神の御言葉の御啓示と御指導がなければ、私は依然として誤った考え方に囚われたままとなり、神の御救いを逃していたでしょう。全ての栄光、全能神にあれ!


私はやっと家に帰り着きました

2019-05-15 23:23:41 | 神に帰す証

   私は祖母の家で育ちました。彼女は偶像を礼拝することに深く心を向ける仏教徒でした。太陰月の初日と15日目に、彼女は果物を供えて家の土神と先祖を礼拝していました。そして、清明節(お墓参り日)、龍船節、中元節、中秋節といった祭りの時期になると、祖父と祖母は沢山の肉、ベジタリアン料理や果物を備えたり、金神を沢山燃やすなどして偶像を礼拝しました。さらに、中国の太陰暦における元日には私の家族全員が仏陀を礼拝しに伽藍に足を運びました。また、私たちは毎年礼拝用のキャンドルに火を付け、その年が家族の誰かにとって運命の年であれば、彼は太歳神を礼拝しに行って、捧げものをする必要がありました。これ故に、私は自然と偶像を礼拝することを自分の生活の一部として見ていました。

   私は修士課程を修了した後、最初の仕事に就き、正式にキャリアをスタートさせ、彼女とのお付き合いも順調でした。しかし、現実は想像していたほど簡単ではありませんでした。私の仕事はストレスの溜まる仕事で、製造過程における問題が沢山あり、私はそれを解決する必要がありました。私は仕事で困難に遭遇すると、その仕事を辞めて他の仕事を探したくなることが何度もありました。逆境に直面すると、人々はよく宗教の力を求めて現状を変えようとします。私も例外ではありませんでした。一度、自分の将来の結婚生活、仕事、そして運勢を知りたかった私は、とても正確な預言をすると言われていた寺院の住職の所に行って自分の運勢を占ってもらったことがありました。そこで、私は住職がつり香炉の方を見ながら何かをつぶやくのを目にしました。その数分後、彼は私にこう言いました、「あなたは今の仕事で次第に出生して、現在のガールフレンドは将来あなたの妻となるでしょう。」彼の言葉を聞いた私は喜びであふれそうになってこう思いました:「どうやら明るい将来を期待できそうだな。キャリアでも最高の地位に上がれそうだし、愛する彼女のために家も建てられそうだ。」これを聞いて私はこの上なく幸せで満足な気分になりました。こうして、私は住職に対する感謝の気持ちとして少し寺院に寄付をしてから幸せな気分で家路に就きました。

   しかし、私は悪い仲間と知り合いになったことで自分に不運が起るとは思ってもいませんでした。一度、海外旅行中に、私は一緒にいた仲間から自分のスーツケースにヘロインを入れられてしまい、中国に帰国した後、薬物所持で起訴された結果、それに5年間も巻き込まれてしまったのです。この当時、私の母は私の運勢を占ってもらおうと沢山の寺院の占い師の所に行きました。しかし、彼らの言うことは違いました:私は台湾北部にのみ属し、中部と南部でキャリアアップを図っても失敗するだけだという人がいたり、私は関羽のみを礼拝することができ、他の偶像を礼拝しても意味がないと言う人もいました。しかし、私は関羽をどのように礼拝しても、最終的に私の起訴の評決が下され、私は冤罪を被って4年半も刑務所に入れられてしまったのです。その後、私は刑務所から出ると、彼女にふられ、たて続けに転職するはめになり、私は自分のキャリアは悪化の一途をたどっているような気がしました。そして私はこう困惑し始めました:「住職は私と彼女の過去については正確に占うことができたのに、将来の運勢になると、どうして当時言っていたことは現実と全く違うんだろう?」次第に、私は自分が礼拝していた偶像に対して疑いを抱くようになりました。しかしながら、私は幼い頃から祖母が偶像を礼拝している様子を見てきたので、心の中では依然として偶像を信じていました。

家に帰り,仏教徒,真の神

   悪い出来事が立て続けに起ってから、様々な偶像を礼拝したり、修道院長を頼りにしても何の効果が得られなかった時、私は母が大腸がんを患っていることを知り、晴天のへきれきであったこの知らせを受けた私は精神的に参りそうになりました。私は一度、媽祖廟に行って母がこの困難を切り抜けられるよう女神にお願いしようと考えたり、自分の先祖に助けてを求めようと思ったことがありましたが、私はこれら偶像に対して疑念を持っていたことに加えて、自分の事業で多忙にしてもいたので偶像の礼拝にはずっと行っていませんでした。

   その後、私は病院で母の世話をしていた時、Facebookでブラジル在住の中国人と知り合いました。彼女は私にキリスト教の信仰に興味があるかと聞いてきました。私はすかさずこう応えました、「話は聞いてもいいですよ。」そして、彼女は私に2人の兄弟を紹介してくれました。彼らは私たちのオンラインでの会話を通じて私が仏教家庭で育ったことと偶像に関して困惑していたことを知った後、真の神と偽の偶像の見分け方を交流してくれました。

   私は彼らが交流してくれた内容を未だに覚えています:「第1に、真の神は天と地と万物を創造する力を持っておられます。聖書の創世記には神は天と地と万物を創造されたと記録されています。聖書以外に誰が天と地と万物を創造したのかについて記載してある書籍は存在しません。例えば、釈迦仏。彼はヨガの練習をして、ゴータマ・ブッダの菩提樹の下で仏陀になりました。これは、彼が仏陀になる前に、神は既にゴータマ・ブッダの菩提樹を創造しておられ、万物は仏陀によって創造されていなかったこと、まして人類の創造については言うまでもないということを十分に証明しています。これ故に、天と地と万物を創造できる御方のみが真の神なのです。

   第2に、真の神は永遠無窮であり、自存し、常に存在しています。偽の偶像はと言うと、それらの歴史を調べさえすれば、それらがどこから生まれてきたのかが分かります。その大多数が人間であり、それらが亡くなった後、人々は神として礼拝し始めたのです。彼らは生きていた間、一度も自らを神であると言ったことはないのです。例えば、李修縁(済公)は生きていた時に多くの人々を助けたため、その後の世代の人々から敬意を表して「生き仏」と呼ばれていました。関羽(関公)もまた恩主公と呼ばれていました。三国時代の中、彼は戦争中に戦争の影響で苦労していた人々に穀物を分け与えたことで、その名誉を恩主公として讃えられました。加えて、林黙娘(媽祖)もいます。彼女は災難に見舞われている漁師や遭難船を救うため、海の上に頻繁にその姿を現したと言われており、それを理由に人々から広く尊敬されています。これより、これらの人々は人間から神と呼ばれるようになり、当時以降の世代の人々から礼拝されていることが分かります。これ故に、何世代にも渡って人々は皆彼らを神として礼拝してきたのです。これは人間が自分たちで偶像を作り上げたことを意味しています。これを踏まえて、このような偶像があなたを大切にし、守ることができると思いますか?

   従って、私たちはいのちの源を見つけ、人類に天と地、そして万物を創造なさった御方を求める必要があるのです。万物の主権者はたった御一方しかおらず、その御方はまことで生ける神なのです。この神こそが、私たち人間を創造され、私たちを今日まで導いてくださり、私たちの私生活を支配しておられるのです。私たちが必要とするものは全て、この唯一なる真の神、すなわち創造主が備えてくださっているのです。」

   2人の兄弟の交流を聞き終えた後、私の頭の中は急にすっきりしました。私は次の理解に至りました:「私が以前礼拝していた偶像は全て私たちが自分たちで作り上げていたものであり、私たちの先祖に神として尊敬されていただけだったのです。それらは真の神ではないのです。私がどのように礼拝しても、私の願ったことが一度も現実化しなかったのは不思議ではないのです。実際、真の神は全世界に御一方だけなのです。その御方こそが天と地と万物を創造され、万物を支配される創造主なのです。」その後、2人の兄弟は私とさらに交流してくださったので、私は神による創造と神の主権についてもっと理解することができました。

   この兄弟たちが私に福音を説いてくれた間、私は彼らは思いやりがあり、誠実であると感じました。彼らは私に神の御言葉を沢山読んでくれて、それからは気候変動について、そして世界中で災害がより頻繁に起っていることについて話し始めました。また、彼らは、私たちが毎日遭遇する人々、出来事、そして物事は私たちを偶然訪れて来るのではなく、私たちの回りの物事もたまたま起こるのではなく、むしろ神によって統治され、用意されているということも話してくれました。彼らの交流を聞いた後、私はこれら全てに隠された秘密を少し理解できました。私は以前理解できなかったことを沢山理解できるようになり、神の御言葉について増々興味を持ちました。私は真の神が表す御言葉について、そしてこれら啓蒙的な御言葉が私たちに伝えてくださることをもっと知りたくてたまらなくなりました。この後すぐ、私は神の働きを真剣に調査する決心をしました。

   その後、私は神のこの御言葉を目にしました、「神の業に制約的部分は一切なく、また業が人間や物事による阻害を受けることはなく、また神と敵対する勢力により混乱させられることもない。…またイエスの業は、人間を自由にし、解放し、人間が光のなかに存在できるようにし、生きることができるようにする道であった。そして、偶像や偽の神を崇拝する者は、サタンの呪縛を受け、様々な規則や禁忌の制約を受けながら日々を過ごす。今日は何かが禁止されているが、明日はまた別の何かが禁止され、こうした者の生活に自由はない。こうした者は手かせ、足かせをされ、喜びについて何ら語ることがない、囚人さながらである。『禁制』とは何であろうか。それは、制約、束縛、そして邪悪である。ある者が偶像を崇拝するということは、とりもなおさず偽の神を崇拝し、悪霊を崇拝することである。そうした崇拝には制約が伴う。あれとこれを食べてはいけない、今日は外出できない、明日はコンロを点けてはならない、その翌日は転居してはならない、婚礼や葬儀、さらにお産まで、特定の日を選ぶ必要がある。こうした状況を何というか。こうした状況を『禁制』という。禁制は人間による呪縛であり、サタンの手かせ、足かせであり、邪悪な霊がそれを支配し、人間の心身を束縛する。こうした禁制が、神に存在するであろうか。神の聖なる存在について述べる場合、神には禁制が皆無であることを、まず考える必要がある。神の言葉と業には原則があるが、禁制はない。なぜなら、神こそが真理であり、道であり、いのちだからである。」(「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より)神の御言葉はとても現実的で、神の仰った御言葉は正に真実であります。私は偽の偶像を礼拝するようになった後、毎日のように何かと禁止されていることがありました。私の運命の年が来た時、私は私の星が一時的に太歳神と衝突するかもしれないから、その年を安全に過ごせるよう寺院に行って太歳神に供え物をするように言われました。それに、7か月目の太陰月には地獄口が開くと言われていたので、私の家族は私が水を供なう活動をするのを禁止し、ウォータースポーツが大好きだった私はその月はウォーターパークに行くことが全くできませんでした。交通事故で入院していた親戚の見舞いに行くときですら、私たちはその日が病人を見舞いに行くのに適した日かどうかを通勝で確認する必要がありました。ふり返ってみると、禁止事項は本当に多過ぎるほどあり、それによって私は全てにおいて抑制され、普通の人間としての生活まで失ってしまったのです。これはとても有害なことだったのです!

家に帰り,真の神,偽の偶像

   そして、私はさらにこの神の御言葉も目にしました:「それでは、サタンはどのような手段を用い、どのような言葉であなたにサタンを信じさせるであろうか。たとえば、あなたが自分が何人家族かをサタンに伝えていないかも知れないが、サタンはあなたが3人家族で、7歳の娘がいると言うだけでなく、あなたの両親の年齢まで言うかも知れない。あなたが最初に疑念を抱いているとすると、それを聞いてサタンを少し信用出来ると感じるのではなかろうか。(その通りである。)するとサタンは『今日の仕事は困難で、あなたは上司から然るべき評価を受けられず、上司は常にあなたに反対している。』などと言うかも知れない。それを聞いたあなたは『まさにその通りだ。仕事はまったくうまくいっていない。』と思うであろう。それで、あなたはサタンをさらに信じるようになるであろう。そして、サタンは別の事を述べてあなたを騙し、さらにサタンを信じさせ、あなたは少しずつ自分がサタンを拒否することも、疑うことも出来なくなっていることに気付くであろう。サタンは些細な策略や、つまらない策略を何回か用いるだけで、あなたを魅惑しようとする。あなたは魅惑されているので、自分の姿勢を保つことが出来なくなり、何をして良いか分からなくなって、サタンの言葉に従い始めてしまう。これが、人間を腐敗させる上でサタンが用いる「実に聡明な」手段であり、その手段により、あなたは無意識のうちにサタンの罠にはまり、誘惑される。… それは何故であろうか。それは、人間に真理が欠如しているため、人間はサタンの誘惑に対抗することが出来ないためである。サタンの邪悪さと狡猾さ、欺き、悪意に対して、人間は極めて無知であり、騙されやすく、弱いであろう。これは、サタンが人間を腐敗させる方法のひとつではないだろうか。(その通りである。)」。(「唯一の神自身 5」より)私はこの神の御言葉を読んだ後に突然、初めて光が見えました。どうりでサタンは過去の出来事について話すことができるわけです。サタンは私たちの知らないことを私たちに言って、私たちがサタンを礼拝し、真の神から遠く離れてしまうように私たちを騙すのです。サタンと悪霊はとても卑劣なのです!

   祖母の影響を受けていた私は幼い時に迷信を信じるようになりました。私は大人になった後、自分の将来と運命を知りたくて、幾度となく修道院長に自分の運勢を占ってもらいに行きましたが、私は毎回幸せな気分から一変して動揺させられていました。それはこの人たちが口先だけの悪霊であり、私の将来などほんの僅かも知らなかったということで、それはなぜなら私たちの運命は神の御手にあるからです。

   その後、私はしばらく集会に参加し、神の御言葉を読んだことでサタンの策略を見抜き、それに関する見識を得て、迷信を信じたり、偶像を礼拝することを止め、代わりに、唯一なる真の神、すなわち神に従いました。さらに、私は神の御言葉から人生における真の拠り所と方向性を見つけました。神はこう仰りました:「人は神に造られたのだから、もともと神を礼拝すべきであるが、人が神に背いてサタンを礼拝してしまった。サタンは人の心の中の偶像になった。こうして、神は人の心における地位を失い、つまり人を造った意義を失った。だから、彼が人を造った意義を回復しようとするなら、人に本来の似姿を回復させ、人に堕落した性質を脱ぎ捨てさせなければならない。人をサタンの手から奪い返すには、必ず人を罪の中から救い出さなければならない。このようなやり方によって、彼は次第に人に本来の似姿を回復させ、本来の機能を回復させる。そして遂には、彼の国を回復する。」(「神と人は共に安息に入る」より)「…人がどんなに努力しても、奮闘しても、神の配慮、守り、備えなしには、人は受け取るはずであったものを何も受け取ることができないということである。神からのいのちの供給なしには、人は生きる価値を失い、いのちの意義を失う。」(「神は人のいのちの源である」より)。

   神に感謝します!神の御言葉を読んだ後、私の心はさらに啓発されました。私はこう気が付きました:「私たちは元々神に創造いただいたのだから、神を礼拝すべきなのです。それにもかかわれず、私たちはサタンに操られるようになって以来、誤ってサタンを父とみなし、天と地と万物を創造された唯一なる真の神を礼拝せず、むしろ人々が自ら作り上げた偽の偶像たちを礼拝していたのです。結果的に、私たちは世の終わりの神の救いを探求しても、受け入れてもいなかったのです。」こう分かった後、私は自分が極めて無知あったと感じ、サタンがとても卑劣であることも深く学びました。サタンは私を酷く傷つけ、40年にも渡って私を悪霊の命令の支配下にある慰み者としながら暗闇に閉じ込めていたのです。今日、私は神の御言葉を読み、そして兄弟姉妹の交流と助けを受け、神の御恵みによってついに真のために偽を捨て去り、創造主の前に行って神の働きについて行っています。

   私は神の御言葉を読んで次のことも知りました:「過去に、私は偽の偶像を礼拝し、供え物もしていましたが、それは祝福を受けるため、明るい将来を手にして良い結婚相手を見つけるため、社会で成功を収めるため、そして信仰を頼りにして利益を手にするためでした。これは偽の信仰に過ぎないのです。私は元々神に創造いただいた創造物なのですから、真の神を礼拝することは私の本分であり、責任なのです。」私は真の神を識別できるようになり、神の御言葉を読み、いのちの方向性を見つけられるようになった今、神を信仰する道を上手に歩んで、適切に真理を追い求める必要があります。そうすることで、私は真の形で神に服従できるようになり、やっと神のものにしていただけるのです。神に感謝します!


聖霊の働き-わびしい教会のための解決策が見つかりました

2019-05-14 22:30:17 | 神に帰す証

   私はもっと分別のある年になった時、自分が人気のない子供であったことに気が付きました。私は幼い頃から残念な経験ばかりしており、歩いているだけでこけてしまうことすらありました。私は自分が本当に運の悪い人だと感じていました。私は、「どうしてなんだ?どうして嫌な目に遭うのはいつも私なんだ?」、「どうして人は生きなきゃいけないんだ?」、と頻繁に考えました。私は大きくなってから、溺れそうになって藁を掴もうとしている者のように観音菩薩、仏陀の他に名前すら知らなかった様々な偶像を沢山崇拝し始めました。人々が不幸から遠ざけてくれるものだと言っている限り、私はそれを崇拝しました。しかし、私の生活においては何も変わりませんでした。

   人生のどん底にいた時、私はイエス様の福音を説いてくれた長老と知り合いになりました。すぐに、私は彼がくれた住所に足を運び、兄弟姉妹たちと集い始めました。徐々に、私は主イエス様は天と地、そして万物を創造された唯一なる真の神であられ、人は彼によって創造されており、全てが彼によって制御されていることを知りました。1998年8月、私は洗礼を授かりました。最初、私は積極的に集会に参加していましたが、主イエス様に関する真の知識はもっていませんでした。しかも、私は幼い頃、愛情に欠ける生活環境で育ちました。それ故に、私はキリスト教でいつも説かれていた「神が愛で、私たちはお互いを愛すべき」という教義を全く感じることができませんでした。代わりに、私は信仰者たちが頻繁に嫉妬したり、口論をしているのを見ました。教会で、ある姉妹の子供が良い仕事を見つけると、その同僚が嫉妬して、「どうしてあなたの子供は良い仕事が見つかったのに、私のは見つけられないの?」と繰り返し言っていました。神に仕えている者たちですら社会的地位の高い人たちを特に尊敬していました。自分の犯した罪に圧倒されている人が助けを求めてきても、彼は冷たく断られていました。私たちの教会の牧師は本土で比較的有名な方でした。彼は説教を説く中で、主のために、そして主の他の御業のために20年間も苦しんで刑務所に入れられていたことを何度も証言していましたが、神の御業についてはほとんど触れていませんでした。したがい、多くの人々が彼を尊敬し、従っていました。 時折、彼の名声に惹かれた海外の有名な重要人物、または近隣国の信仰者が彼を訪れてきて、彼はそれで得た資産を誇示していました。私は彼は自らを称賛して、自らの証言をしており、神の証言はしていないと思いました。私は彼らの行動に言葉が詰まりました。半年後、私はキリスト教会を去り、自分の人生を生き続けました。。。しかし、偶像たちを崇拝していた頃の生活とは違い、主から離れた後の4年間、私は常に主のことを考えていました。主の御立場は私の心から決して薄れて行かなかったのです。

教会,聖霊,再臨

   2002年12月、私は又しても人生のどん底に落ちました。 私は仕事と恋愛に失敗して落ち込んでいたのです。「人の終わりは神の始まり」であると言われていました。私が解雇される数日前、私は自分の同僚が参加していた中国人のための自宅の集会に参加することに賛成しました。私は以前、彼の招待を何度も断っていましたが、今回はとても参加したく思ったのです。その日の夜、私は自分と似た経験をもつ姉妹と出会いました。彼女は香港出身で、この集会に初めて参加していました。彼女が共有してくれたこと全てが私の心に触れ、私は感動しました。私の心は主に近づいたのです。私はこれが主の御采配であったのだと分かりました。主の元に戻ったことで、私は神が愛であることを心から実感しました。私は神から離れましたが、神は私のことを諦めておられなかったのです。神の元に戻ったことが私の霊的人生の転機となったのです。神様、有難うございました!

   2005年に結婚した後、私は香港での生活に慣れていなかったので中国本土でよく生活していました。私は2012年に娘が生まれるまで香港には定住しませんでした。当時、私はいつくかの教会に通っていました:中国本土のThree-Self教会と地下教会、香港のChristian and Missionary Alliance、Peaceful Gospel教会、Baptist教会、James教会、Pentecostal教会。私はこれらの名前は違ってもそれぞれの状況において共通点が沢山あったことを知りました:牧師と長老たちは人によって尊敬したり、見下したりと、それぞれの好みによって信仰者たちを扱っていました。そして信仰者たちはほとんどの場合、熱心でもなければ、冷めてもいないう状態でした。その多くは名目上でのみ信仰しており、弱弱しいことも頻繁あり、集会も祝福を得るためだけに参加していました。集会の場でも、牧師と長老たちは頻繁に情報の共有をし合っていたので、新しい見解は全くありませんでした。そして、彼らは説教を終える前に何度も祈りを捧げ、何日もかけてその準備をしていました。説教が魅力的であるかどうかは、それにユーモアがあるか、活気があるか、説得力があるかどうかによりました。演壇上の説教が面白くなければ、聴衆は居眠りをするか、早くにその場を後にしていました。大抵の場合、説教師たちはとりなしの祈りですら予め書き出してあり、祈りを捧げる際にそれを読んでいたのです。。。後に、私は、教会で働く牧師と長老の大多数は信仰者たちによって選任されるか、勧誘されていることを知りました。彼らは自分たちの仕事を保持するために信仰者たちの機嫌をとることに全力を尽くしていました。そして、彼らは大胆にも主の教えに逆らう信仰者たちを叱ろうとすらしていなかったのです。中には金の冥銭と銀の冥銭を販売している者までいました(注:「冥銭」は中国人が祭事や内祝の場で火による捧げものとして使用するもので、神には金の冥銭が、先祖と霊には銀の冥銭が捧げられています)。しかし、信仰者たちの機嫌を損ねて自分たちの地位を失うことを恐れた牧師と長老たちはこれに干渉しようとはしませんでした。信仰者の中には無信仰者の旦那がいて、彼女は彼から毎日お香をたいて仏陀を崇拝するよう言われていました。こうして、彼女は牧師と長老にこの偶像を崇拝し続けても良いかどうかを尋ねました。それでもなお、彼らは彼女に無信仰者である家族が求めることをし続けてよいと伝え、この節を例として用いたのです、「どうぞ主がこの事を、しもべにおゆるしくださるように。すなわち、わたしの主君がリンモンの宮にはいって、そこで礼拝するとき、わたしの手によりかかることがあり、またわたしもリンモンの宮で身をかがめることがありましょう。わたしがリンモンの宮で身をかがめる時、どうぞ主がその事を、しもべにおゆるしくださるように」(列王紀下 5:18)。しかし、私は聖書にこう記してある節があることを思い出しました:「これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、『人間に従うよりは、神に従うべきである。』」(使徒行伝 5:29)。牧師と長老たちは自分たちの関心事を神よりも重要なものとして捉え、神よりも人を畏れていました。私はこう疑問に思いました:「彼らは神の信仰者じゃないのか?彼らは聖書を好きなように解釈しているのではないか?これは明らかに主の教えに反しているのではないだろうか?」 彼らの振る舞い全てが私の状態を増々悪化させていきました。次第に、私は聖書を読んでいても何の光明も見えなくなり、集会への参加や祈りを捧げることに何の喜びも感じない状態に陥ってしまいました。長い間、私は聖書を読む気が起こらず、私の霊的状態は又してもどん底に陥ってしまいました。私は自分の魂を満たしてくれる教会を切望し、それを求めて神に祈りを捧げ続けました。

   私は2016年8月にもう一度神の御恵みを授かりました。私たちの教会の姉妹が私を全能神教会の兄弟姉妹たちに紹介してくれました。私たちは新・旧訳聖書時代における神の御名前と働き、主イエス様の再臨と働きのあり方、主の裁き、善人と悪人そして麦と毒麦を分けられたこと等、多くの側面について聖書を一緒に二週間近くも検索しました。このような話し合いは私に今ままで体験したことがないような喜びを与えてくれました。私は心の中でとても満足しました。一日中語り合った後、私は全くそれが退屈だと思わず、むしろ翌日の集会が待ちきれませんでした。2週間ほど続いた交流の中で、兄弟姉妹たちは全能神の御名前、そして主イエス様が再臨され、恵みの時代になされた贖いの働きを土台とした世の終わりの裁きと清めの働きをなされておられると証言してくれました。当時、私は心の中で思い悩み、自分の無知さが原因で誤った道に進んでしまわないかと心配で、このまま続けて話しを聞いているべきがどうかが分かりませんでした。しかし、当時の調査と会話は聖書から逸脱したものではなく、あらゆる点において十分な根拠に基づいていました。彼らがもし、何の証拠もなしに主が再臨されたと言っていたのなら、それは間違いなく信じられませんが、主の再臨に関する預言、主が再臨される方法、なされる働きだけでなく、主の新しい御名前まで、全てが聖書に基づいた証拠があるのです。こう考えながら、私は調査を続行することにしました。

教会,聖霊,再臨

   集会の終わりに、全能神教会の姉妹が「永遠の福音 – 神の国による御救いが到来した」と題した神の御言葉の書籍を持っていると言いました。彼女は私にそれを読んでみたいかと聞いてきたので、私はまったく躊躇せずに受け取りました。帰宅した後、私は時間があればいつもその本を読みました。私は読めば読むほど、増々止まらなくなり、もっと読みたくてたまらなくなりました。この書籍の御言葉はとても素晴らしいものだったのです!私は人間にはこれらの御言葉を執筆できる人はいないと感じました。人による執筆は大抵の場合が一方的で、不純で、理論的で、個人的な体験が含まれているものですが、この本には人の堕落した本性の御啓示と神の働きにまつわる謎を初めに、神の権威、御力、威厳、御怒りがほのめかされていました。これ故に、私は神御自信を除いて、このような御言葉を執筆できる方は誰もいないと確信しました。

   後に、兄弟姉妹たちはどうして私が以前行った教会の多くは増々わびしい状態になっているのか、どうして兄弟姉妹たちは信仰と愛を失ってしまうのか、どうして説教師たちは途方に暮れて何を説いたらいいのか分からなくなっているのか、どうして宗教団体全体が聖霊の働きを失ってしまうのか等、重要な問題について交流してくれました。姉妹は2つの節を私に読んでくれました、今現在が世の終わりの終末期であることは誰もが知っています。主イエス様はかつてこう予言されました:「また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」(マタイによる福音書 24:12)。現在、宗教における不正行為はどんどんまん延しています。宗教指導者たちは主の戒律に従っていないのです。代わりに、彼らは人々の持つ習慣に固執し、自己顕著するために聖書に関する知識を説いて自分達の証言をしますが、それは神の証言をするためでも、神を賛美するためでもないのです。彼らは主の道から完全に逸脱してしまっているのです。従って、彼らは神から排斥され、除去されているのです。これが宗教界が聖霊の働きを失った主な原因です。 加えて、主イエス様はまた受肉され、教会を出発点とした裁きの働きを開始されました。全能神は、世の終わりのキリスト様として、世の終わりの神の働きを受け入れる人たち全員を清めるために人類を救うことに関する真理を全てお示しになり、聖霊の働きが神のこの働きに移行されているのです。世の終わりの全能神の裁きの働きを受け入れる人たちは聖霊の働きを授かり、いのちの生ける水を供給され、注がれているのです。神は神の御座の前に戻る人々を克服者とされ、神と心を一つにした者たちとしてくださります。しかし、依然として宗教的な場に留まって世の終わりの神の働きを拒否している者たちは暗くわびしい状態に陥ってしまいました。これが聖書に記されたこの預言を現実化してるのです:「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』と主は言われる。」(アモス書4:7-8)。 ここにある、「この畑は雨をえ」は世の終わりの神の裁きの働きを受け入れて、それに従順な教会のことを指しています。彼らは神の現在の御言葉を受け入れたことで、神の御座から流れるいのちの生ける水の御備えと注ぎを授かったのです。「かの畑は雨をえないで枯れた。」 は主の御言葉を実践することを拒否して主の戒律に背く宗教的な牧師と指導者たちのことを指しています。 彼らが世の終わりの全能神の働きを拒絶し、それに抵抗し、それを非難しているために宗教界は神から排斥され、呪われており、聖霊の働きを完全に失い、生ける水の御備えを全く授かれず、わびしい状態から抜け出せなくなっているのです。これは律法の時代に、かつてはヤ―ウェ神の栄光で満ちていた礼拝堂がわびしくなってしまったのと同じです。ユダヤ人たちは宗教法には固執しませんでした。牧師たちは不適切な犠牲を払いました。礼拝堂は商売の場、そして盗人の巣窟と化してしまいました。どうしてこんなことが起ってしまったのでしょうか?主な理由はユダヤ人の宗教指導者たちはヤ―ウェ神の律法に従わず、心の中で神を畏れていなかったからです。彼らは人々の習慣に従い、神の戒律に背いていました。よって彼らは神の道から完全に逸脱して聖霊の働きを失ってしまったのです。もう1つの理由として、神が恵みの時代に人類の罪を贖う働きをするために受肉されたということがあります。神の働きが変わったのです。主イエス様の贖いの働きを受け入れた者たちは誰もが聖霊の働きを授かり、新たな実践方法を手にしたのですが、主イエス様の働きを排斥し、それに抵抗した者たちは神の働きにより除去されてしまい、暗くわびしい状態に陥ってしまいました。

   「神が宗教界を飢えさせておられる理由は神を心から信仰し、真理を愛している者たちを宗教から抜け出させて神の足跡、聖霊が教会に仰っておられること、そして神の御姿と働きを追求させるためなのです。神の御声に耳を傾け、世の終わりの全能神の裁きの働きを受け入れてそれに従う者たちは賢い処女であり、神の御座へと携挙される人々なのです。これらの人々は子羊の婚宴に参加し、神の御座から流れるいのちの生ける水の御備えを授かり、以前持っていた信仰と愛が回復されたのです。彼らは誰もが真理を悟り実相の中にはいるために神の御言葉を飲食し、神の御言葉を実践、そして体験するための訓練をしています。人々は真理を理解して神の真の知識を得る時、神を畏れて神に従うようになります。そうしたら、彼らは神から新たないのちを授かるのです!全能神の働きを受け入れない宗教団体や個人は聖霊の働きを全く持たない状態で神から見捨てられ、除去されてしまいます。これには何の疑う余地もないのです!この全能神の御言葉を読んでみましょう:「神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真理の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が飢えており、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。」(千年神の国は訪れたにより)。

   これらの説明を聞いて、私はやっと宗教界がわびしい状態にある原因を理解しました。主イエス様が働きを開始された時と同様に、神の魂も礼拝堂ではもはや働いていなかったのです。聖霊の働きは主イエス様に従う弟子と信仰者たちに移行されました。宗教指導者たちは神の御心から完全に離れてしまい、彼らの行いも全てが神から忌み嫌われてしまったので、主イエス様は礼拝堂では働かれず、代わりに荒野で説教されたのです。働きの最終段階についても同じです。全能神が地上での働きに着手された時、聖霊は宗教の場での働きはお止めになりました。私が聖霊の働きを受けて、いのちの生かす水の注ぎを得たいのであれば、最も重要なことは世の終わりの全能神の働きを全力で求め、それを調査することなのです。私の霊的暗さは私が神の新たな働きについて行く場合に限って根元から解決されるのです。

   私は全能神が私を取り戻してくださったことに心から感謝いたします。聖書にはこう書かれています:「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 3:22)。実はこれは世の終わりの神の御言葉を言及しています。神は信仰者たちを探すために世の終わりに御言葉を発せられます。私は幸運にもその1人であり、主イエス様によって神の御家に連れ戻していただいたのです。全ての栄光、権威、そして名誉、最高の全能神にあれ!アーメン!


神を信じる-聖書と神のつながりを知ることは重要である

2019-05-13 21:20:19 | 神に帰す証

   私が北部に引っ越しする前、説教師は私の手をつかんでこう言いました、「今こそが世の終わりです。誰があなたに福音を伝導してきても、それが私たちの信仰と違うなら信じてはなりませんよ。私たちは、‘聖書から逸脱することは主を信仰しないということで、私たちは聖書の権威を否定できない’ということを覚えておくべきです。」 この言葉を胸に、私は北部に着いてからは集会に参加せず、自宅で聖書を読んでいました。

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   2012年のある日、私が妹を訪ねると、彼女は嬉しそうに私にこう言いました、「イエス様が来られて新しい働きを実行されたのよ。」 私は彼女の言葉にびっくりして、こう思いました:「彼女は主を信仰していたことがないのに、どうやって主イエス様が再臨されたなんてことを知っているの?」こうして私は彼女にこう言いました、「おなたは主を信仰したことも、聖書を理解したこともないじゃない。何を分かっているっていうの?」 そして私は立ち上がって家に帰ろうとしました。私がそこを出る前に、彼女は私にこう言いました、「お姉ちゃん、主の再臨を待ち望んでいるってことは主を信仰しているってことじゃないの?今、主イエス様はお戻りになられたのだから、お姉ちゃんも喜ぶべきよ。神の羊は神の御声が聞こえるのよ。お姉ちゃんは私の言葉を信じないかもしれないけど、お姉ちゃんが神から選ばれているなら他の人がお姉ちゃんに福音を説いてくれるわ。」 そして、彼女は私に「御言葉は肉として現れる」という本を渡して、家で読むように言いました。しかし、私は説教師の言葉を考慮して、その本を受け取りませんでした。

   数日後、私の隣人であるチェン・ジンが私を訪ねてきました。彼女と話をしていた最中、彼女は嬉しそうにこう言ってきました、「シスター、知ってました?主イエス様が再臨されて、聖書には書かれていない新しい範囲の働きを実行されたんですよ。」 こういいながら、彼女はハンドバッグから本を取り出し、それを私に渡してきました。私はこの本を見てびっくりしました:「この本は妹が読むように言ってきたのと同じ本じゃないの?」 そして私はが妹の言葉、「神の羊は神の御声が聞こえるのよ。お姉ちゃんは私の言葉を信じないかもしれないけど、お姉ちゃんが神から選ばれているなら他の人がお姉ちゃんに福音を説いてくれるわ」を思い出しました。そして今、私に福音を説いている人が本当にいるのです。チェン・ジンは本当に主から送られてきたのでしょうか?私はこの全てが主の御采配であるような気がしました。しかし、聖書から逸脱することは主から離れることだという見解を持っていた私は、聖書を読んでいなかった彼女たちの言葉を信じようとはしませんでした。私はしばらく沈黙を保ちました。チェン・ジンは私の胸中を察したかのように、熱心な口調でこう言ってきました、「シスター、この機会を見逃すわけにはいかないわ!さあ、この本を読んでください。分からないことがあったら、本の中を探してくださいね。答えはきっと見つかりますよ。彼女の誠実さを見た私はこの本を受け取りました。

   2日後、チェン・ジンがまた私を訪れてきました。彼女は笑顔でこう聞いてきました、「シスター、前回私があげた本は読んでくれましたか?」 私はこう答えました、「いえ、まだ読んでません。この本は聖書とは違います。私たちの説教師が聖書の権威を不定できる人はいないし、聖書から逸脱することは主から離れることだと言っていました。」 チェン・ジンはこう言いました、「シスター、じゃあ聞きますけど、主イエス様の働きと聖書の記録ではどちらが先の話しですか?それと、神と聖書ではどちらの方がより偉大ですか?私たちは神の働きを聖書の中で定義することはできないんです。聖書にはこう記されています、「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」(ヨハネによる福音書21:25)。この聖句は主イエス様が聖書に記録されなかったことが他に沢山あることを語っています。私たちはそれらを主の働きではないと言えるでしょうか?聖書は主イエス様が弟子たちと暮らされていた時に成されたことや言われた内容のいくつかを限定して記録しており、完全な記録ではないのです。私たちが主イエス様は聖書に記録されていることだけを成され、言われたと考えるなら、主の働きを容易に定義することができるでしょう。聖書は主イエス様の御言葉全てを記録していないのに、再臨された主イエス様の働きを予め記録しておくことができるでしょうか?主イエス様が恵みの時代に成された働きは神が働きを成就された後に使徒によって記録されたのではなかったでしょうか?シスター、私の言っていることは正しいですか?」 彼女の言葉は突然私の心に明かりを灯しました:「その通りだわ。主イエス様の働きが先で、使徒たちによる文書が後だわ。ということは、再臨された主イエス様がどのように働きになるかを予め聖書に記録しておくなんて無理だわ。彼女の言ったことが気になるわ。私はこれを追求するべきだわ。

   チェン・ジンが帰った後、私は神の前に行って祈りを捧げました、「ああ、主なる神様、あなたは本当に再臨なされたのですか?チェン・ジンと私の妹は共にあなたが聖書には書かれていない新しい働きを成されたと言っています。私は彼女たちの言ったことは合理的だと感じています。しかし、説教師は聖書に書かれていない働きはそのいずれもあなたの働きではないと私たちに仰りました。神様、どうしてこんなことが起っているのでしょうか?私はどうすべきなのでしょうか?ああ、主なる神様、どうか私をお導きください。」 こう祈りを捧げた後、私はチェン・ジンが私に言ったことを思い出しました:「分からないことがあっても、本を読めばすぐに理解できるわ。」 私はこう思いました:「この本は私が理解に苦しんでいる問題を解決してくれるのかしら?答えを見つけるために読んでみようかしら?チェン・ジンの言葉が正しかったとしても、この本を読まないことにはそれが分からないわ。しかも、主イエス様が本当に再臨されておられるのに、この本を読まないことが理由でこの機会を逃してしまったら、私は主に合わせる顔がないわよね?その場合、主イエス様がこの堕落した人類を破滅なされたら、私が‘ああ、主なる神様、私はあなたが再臨されていたことを知りませんでした’と言っても、主イエス様はきっと、‘私はあなたにあなたの妹とチェン・ジンを送って私が再臨していることを幾度となく伝えましたよ。でもあなたはそれを信じませんでした。あなたは誰のせいにするのつもりですか?’と仰るわ。そうなったら、私は無いも言えずただ悔い改めるだけに生きることになってしまうわ。」 こう考えながら、私は「言葉は肉において現れる」を開き、目次の中に「聖書について(1)」と称した見出しを目にしました。私はこれに驚きました:「聖書について(1)」ですって? 聖書に記されている内容は全て主イエス様の働きじゃないの?聖書の何について書くことがあるのかしら?だれが大胆にも聖書を批評するっていうの?この節は注意して読むべきだわ。」 そして私はその節を開いてその内容を読みました:「聖書とはどういう書物なのか。旧約は律法の時代の神の働きである。旧約聖書は律法の時代のヤーウェの働きと、創造の働きを記録している。そのすべてがヤーウェの行った働きを記録しており、マラキ書のヤーウェの働きの記録で終わっている。旧約は神の行った二つの働きを記録している。一つは創造の働き、もう一つは律法の布告だ。どちらの働きもヤーウェが行った。律法の時代はヤーウェという名で神の行った働きを示している。これは、主にヤーウェという名で行われた働きの総体なのだ。だから、旧約はヤーウェの働きを記録しており、新約はイエスの働き、主にイエスという名で行われた働きを記録している。」(「聖書について(1)」より)。「神への信仰において、どのように聖書に接するべきであろうか。これは原則的な問題だ。…長い間、人々の伝統的な信仰の方法は『世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては』聖書を読むことであった。聖書から離れることは、主を信じることではない。聖書から離れるのは邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じると言うのなら、聖書を読まなければならないのだ。聖書を飲み食いし、聖書の外では、聖書と関わりのない本を崇めてはいけない。そういうことをするのは、神への裏切りだ。」(「聖書について(1)」より)。主なる神様、ありがとうございます。これらの御言葉は私の心の中を明らかにしてくださっと同時に全く正しい御言葉でした。説教師は確かに聖書から逸脱するということは主を信仰するということではないと言われ、私もまた主を信仰することは聖書を信じることであり、聖書から逸脱するということは主から離れることだと信じていました。加えて、私は神を信仰するにあたって聖書をどのように捉えるべきかということは一度も考えたことがありませんでした。では、聖書はどのように扱うべきでしょうか?この質問を念頭に置きながら、私は慎重に読み続けました:「聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰である。人々は主を信じるという代わりに、聖書を信じると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じるようになったと言うほうがいい。そして、主の前に帰ったというよりは、聖書の前に帰ったと言うほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように崇め、まるでそれが自分たちのいのちの源で、それを失うことはいのちを失うことであるかのようだ。… たいていの人は、なぜ神を信じなければいけないのかをまったく理解していないし、どう神を信じるべきかを知らないのに、聖書の章句を解明するために闇雲に手がかりを探す以外には何もしない。人々は聖霊の働きの方向を追究したことはない。これまで、懸命に聖書を勉強し調べる以外のことをしてこなかった。聖書の外で聖霊の新たな働きを見出した者は誰もいないし、聖書から離れた者もいないし、聖書から離れる勇気をもつ者もいない。 …人々の聖書への態度は強迫観念と信仰で、聖書の内部事情や実体について、完全に理解している人は誰もいない。その結果、現在でも人々は聖書に関して説明しようのない不思議さを感じる。それ以上に、聖書に執着し、聖書を信じている。」(「聖書について(1)」より)。私はこの御言葉を読んだ後、あまりのショックに何を言えませんでした。私はこう思いました:「その通りだわ。私は主を信仰するにあたって、どうして神を信仰すべきかを考えたことも、聖霊の働きの方向性を追い求めたこともないし、まして聖書に記載されていない新しい聖霊の働きを見つけることなんかは考えてもいなかったわ。私は聖書は神を信仰しながら読むべきだとしか思ってなくて、聖書から逸脱さえしなければ私たちは主を心から信仰できているものだと思ってたわ。」 私は、集会では牧師と長老たちが聖書の内容と説明するのを聞き、家では一人で聖書を読みました。私は万物が聖書をその基盤としているものと思っていたので、誰の言葉であろうと、それが聖書と合致していなければその人たちは間違っていると思っていたのです。このような考え方は本当に間違っているのでしょうか?

神を信じる,聖書,福音

   この問題の答えを見い出すため、私は夕食後も神の御言葉を読み続けました:「そうした聖書への盲信、そうした聖書への信頼によって、その人たちは聖霊の働きを探そうという欲求をもたない。人々の観念では、聖書だけが聖霊の働きをもたらすのである。聖書の中だけに神の足跡を見いだせる。聖書の中だけに神の働きの奥義が隠されている。他の書物や人々ではなく、聖書だけが、神に関するすべてとその働きの全体を明らかにできる。聖書は天の働きを地にもたらす。そして、聖書は時代の始まりと終わりをもたらすことができる。 … 神の働きに教義を当てはめる必要があるのだろうか。また、それは預言者たちの予言に合致しなければいけないのだろうか。結局のところ、どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。もし安息日を守り、旧約の掟を実践するためであったのなら、なぜイエスは現れて以来、安息日は守らなかったのに、足を洗い、頭を覆い、パンを割り、ワインを飲んだのか。これはみな、旧約の掟にはないことではないか。もしイエスが旧約を尊重したなら、なぜそうした教義に違反したのか。神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。」(「聖書について(1)」より)。これらの御言葉は私を長い眠りから目覚めさせる呼び出しのようでした。私は神は人類が存在する前から存在しておられたと創世記に記録してあるのを思いだしました。聖書は神の働きの記録であるのに、どうして神が聖書の設ける制限の対象になり得るというのでしょうか?神は創造者であられるのです。神は聖書から逸脱し、聖書の以外の他の働きをする権利をお持ちなのです。例えば、ヤ―ウェ神は律法の時代において、律法と戒律を宣言なされました。しかし、主イエス様が恵みの時代に来臨された時、主は御自身の働きを律法の時代の働きに従っては成されずに、贖いの働きを成されました。人類は神が御自身の働きを成就なさった後に初めて聖書に神の働きを記録したのです。聖書は単なる本にすぎないのに、どうしてそれが神よりも偉大になり得るというのでしょう?これらの御言葉の意味はとても明らかだったのです。だからこそ、チェン・ジンと私の妹は神は聖書に記されている以外の新しい働きを成されたと言ったわけであり、チェン・ジンも、「分からないことがあっても、本を読めばすぐに理解できるわ」と言っていたのです。この本は本当に貴重なもので、私はもっと早くに読んでいなかったことを後悔しました。後に、私はさらに神のこの御言葉を目にしました:「聖書がなければ、人々は別の場所に神の足跡を探せる。しかし、今日、神の足跡は聖書によって封じ込められている。だから、神の最新の働きを広げることは、二重に困難な、苦しいことになっている。これはみな、聖書の有名な章句のせいであり、聖書のさまざまな予言のせいである。聖書は人々の心の中で偶像となり、人々の頭脳の中の謎となった。人々は神が聖書とは別に働けることをどうしても信じられず、聖書の外でも神を見つけることができることが信じられなくなっている。まして、神が最後の働きのあいだに聖書を離れて新しく始められるなどとは信じられない。これは人々にとって考えられないことである。人々には信じられないし、想像することもできない。聖書は神の新たな働きを受け入れるための大きな障害になり、この新たな働きを広めることを困難にしている。」(「聖書について(1)」より)「あなたたちは聖書を理解しなければいけない──この働きは最も必要なものだ。今日、聖書を読む必要はない。そこには新しいものは何もないからだ。みな古い。聖書は歴史的な書物であり、もしも恵みの時代に旧約を飲み食いしていたなら、恵みの時代に旧約の時代の要求を実践していたなら、イエスはその人を拒んでいただろう。そして、罪に定めていたであろう。もしも旧約をイエスの働きに適用していたなら、その人はパリサイ人であったであろう。もし、今日、旧約と新約をともに飲み食いし、実践したなら、今日の神はあなたを罪に定めるだろう。今日の聖霊の働きから取り残されるだろう。もし旧約を食べ、新約を食べるなら、その人たちは聖霊の流れの外にいる。イエスの時代、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う者みなを自らの内の聖霊の働きに従って導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きに従って語った。イエスは聖書の記述を気に留めなかった。また、自分に従う人々を導く道を聖書に求めなかった。教えを説き始めたその初めから、イエスは悔い改めの道を広めた──その言葉は旧約の預言書ではまったく触れられていないものだった。イエスは聖書に従って行動しなかっただけではなく、新たな道へと導き、新たな働きを行った。イエスは教えを説く際に、一度も聖書に触れていない。律法の時代には、イエスのように奇跡を起こし、病を癒し、悪霊を祓う者は一人もいなかった。イエスの働き、その教え、その権威──律法の時代には、誰一人これをしなかった。イエスはただ、自分の新たな働きを行った。多くの人々は聖書を用いてイエスを罪に定めたが(さらにはイエスを十字架につけるのに旧約を用いた)、イエスの働きは旧約を超えていた。もしそうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架につけたのか。それは、旧約ではイエスの教え、病を癒し悪霊を祓う能力について何の記述もなかったからではないのか。イエスの働きは新たな道を開くためのものであり、それは意図的に聖書に戦いを挑むものではなかったし、意図的に旧約を放棄するものでもなかった。イエスはただ、自分の職分を果たすため、自分を切に求める人々に新たな働きをもたらすために来たのである。旧約を説明し、その働きを継続するために来たのではない。イエスの働きは、律法の時代が発展を続けるようにするためではなかった。イエスの働きはそれが聖書に基づいたものかどうかを問題にしなかったからである。イエスは単に、しなければならない働きをするために来たのだ。」(「聖書について(1)」より)。 これらの御言葉より、私は、「神は聖書を神の成さることの基盤とはされていないが、御自身の働きに従ってお話しになられる」ということを知りました。今日、神は来臨され、小さな巻物をお開きになりました。神は新たな御言葉を発せられ、聖書に記載のない新たな道を創造されたのです。私は神の御言葉とチェン・ジンの交流によって突然の御啓示を授かった気分になり、私の妹とチェン・ジンが聖書を読まなくなった理由を知りました。私は10年間以上も聖書を読んできたのに、聖句をいくつか理解していただけで、神の働きについては何も知らなかったことに気が付きました。神の御言葉は私を完全に納得されてくださり、私は自分の観念を捨て去る気になりました。その後、姉妹チェン・ジンは私に世の終わりの神の働きを証言してくれました。私は彼女の交流と証言を数日間聞いた後に世の終わりの神の働きを受け入れました。私は全能神の御言葉をさらに読んだ後、全能神は再臨された主イエス様であられることを確信しました。

   振り返ってみると、私は神への信仰において主イエス様の再臨を切に待ち望んでいたにもかかわらず、いざ主イエス様が働きを成さるために再臨された時は、主の働きが自分の観念と合致しなったからといってそれを受け入れていなかったのです。もし神が私のことを諦めになられて、私の妹とチェン・ジンを私に福音を説くように動かしてくださっていなければ、私は神の働きによって除外されていたことでしょう。私は危うくそうなってしまうところでした!今私は、神の御言葉を読むことで聖書に関する新しい理解を手にし、それを正しく扱うことができるようになりました。私は、聖書は単に神の働きの記録であり、それは決して神御自身または神の働きを代表するものではないと理解しました。これ故に、私たちは、神が聖書の記す主であられるからといって、聖書を崇拝したり、聖書を神として扱ったり、ましてはそれを神よりも偉大な存在として捉えることなどはできないし、私たちの観念によって神の働きを聖書に記されているものに限定することもできないのです。私は自分が主を信仰してきた中で10年以上も理解できていなかった真理の多くを理解させてくださった神を賛美いたします。


神からの救い-無神論の方が神に帰する真実な証し

2019-05-12 20:51:25 | 神に帰す証

   私は幹部の1人の一般的な家庭に生まれました。幼い頃から無神論の教育を受けてきた私はこの世界に神が存在するとは信じていませんでした。私は母がお香をたき、仏陀を崇拝しているのを見ると、彼女は素養が乏しく、縁起をかつぐ人だと思っていました。他の人が神や幽霊について話しているのを聞く時も、この世界には救い主などは存在しないと本にはっきりと書いてあるので、彼らはとても遅れていてると思っていました。

   ある日、私のいとこが全能神の国の福音を説きにやってきて、神が天と地、そして万物を創造されたと証言しました。神は人類を泥から創造し、神の権威と御力は比類なきものである。。。と言った言葉を聞いた私は信じれなかったので、皮肉たっぷりにこう言いました:「叔母さんは本当にばかだなあ。神なんてどこにいるんですか?天と地と万物は自然にできあがったもので、人類は猿から進化したんですよ。叔母さんは神が作ったところを見たの?叔母さんは素養のある人なのに、学歴を手にしたのが無意味だったみたいですね?」このようにして、私は世の終わりの神の御救いを受け入れることを拒否したのです。この後、私のいとこは福音を説きに幾度となくやってきましたが、私はある深刻な病を患い、それが無神論者であった私を完全に変え、私が神の御家に戻ることになるまでは依然として彼女の影響を受けませんでした。

   2011年8月中旬のある日、私は偶然にも首に腫瘍を発見しました。私は病院で甲状腺がんと診断を受け、手術をして甲状腺腫瘍を切除することを勧められました。手術が失敗すると、私は発話障がい者なってしまいます。喋れなくなることを恐れた私は漢方薬で治療する選択をしました。しかし、数か月に渡って漢方薬を使用した後も、腫瘍は小さくなるどころかどんどん大きくなり、私のお腹の状態も悪化していきました。ついには、病院で手術を受けるはめになりました。医者は慎重に手術を施行してくれましたが、最終的には失敗に終わってしまったのです。この知らせを聞いた私は、喋れなくなってしまった残酷な現実に耐えられず、どん底に陥り、過度に苦しい生活を送りました。

無神論者,悔い改める,罪の赦し,神の存在,神を信じる

   私が退院する前、医者は私にこう言いました:「そんなに心配しないで。私たちが言った通りにしておけば1か月程度で回復しますよ。」私はこの言葉を聞いて、心の中でまた期待が持てるようになりました。私はこう考えました:「お医者さんがこれだけ確信をもって言ってくれたんがから、言われたとおりにしておけば体調はそのうち回復するに違いない。」こうして、私は帰宅して医者に言われた通りにしていましたが、私の病は全く改善しませんでした。この時、私の心は凍えるように寒い冬の間にアイスボックスの中に落ちてしまったことを思わせるほどに突き刺さるような寒気がしました。

   3か月経ったある日、私は病院に行って精密検査を受けました。医者たちは協議を開き、海外の専門家がたどたどしい北京語でこう言いました:「奇跡が起こらないかぎり、私にできることはありません。」私は診断書に大きく書かれた「永続的障がい者」という文字を見て、足がふらついて倒れそうになり、天国全体が崩壊した気分になりました。これを見た私の夫が駆け寄ってきて私を抱えてくれました。そして私は心の中でこう考えました:「この先普通に喋ったり、人と談話ができないなら生きてる意味がないじゃない?」私が何を考えていたのかを察した様子の夫は心配そうな声でこう言いました:「死ぬことなんて絶対に考えるべきじゃない。俺たちの息子のことを考えるんだ。喋てなくても大丈夫。大切なのは俺たち家族の幸せだけだ。」彼の言葉は私の弱点を突きました:「確かにその通りだわ。私たちの息子はまだ結婚もしていないし、キャリアを始めてもいないわ。私が死んだら息子はどうしたらいいの?私はこれ以上考えようとしませんでした。とにかく、私はまだ生きているんだし、喋れなくてもまだ息子の成長を見ることはできるわ。私は息子のために力強く生きて行くべきだわ。」私はこう考えて自殺することを諦めました。しかし、私は残酷な現実と向き合うと、依然としてそれを受け入れることができませんでした。

   ある日、私の同僚たちが私の部屋まで会いに来て、職場のことについて話しながら少しだけ談話をしていきました。彼らが帰った後、私は気分が悪くなり、ベッドに倒れ込みひっきりなしに涙を流しました。以前なら、私と同僚たちは一緒に笑いながら談話を楽しんだものの、今日の私は彼らが話しをしていた時に何を喋れず、まるで愚か者のようでした。このような形で生きることは無意味で、私はむしろ速やかにいのちを断ってしまった方がましだと思いました。そして、私は睡眠薬を飲んで自殺することを考え、ちょうど睡眠薬を飲む準備ができた時に私の夫が戻ってきました。彼は私の手から睡眠薬を取り、それをトイレに投げ入れた後、私にかみつくようにこう言いました:「お前が死んだら、俺たちの息子はどうしたらいいんだ?」私が自分の息子のことを考えた時、涙が私の顔をしたたり落ち、その時私は自殺をする考えを振り払いましたが、それでも私は自分の残りの人生とどう向き合えばよいのか分かりませんでした。私が人生の希望を完全に失った時、全能神の国の福音が再度私に向けられてきたのです。

   2012年4月2日、私のいとこは2人の姉妹を私の自宅に連れてきました。私は彼女たちを見た時、涙を抑えることができませんでした。私のいとこはこう言って私を慰めてくれました:「イーちゃん、落ち込んだらだめよ。奇跡はいつだって起こるんだから。あなたの病は薬では治せないけど、あなたは神を信じることができるわ。神を敬って、神を頼って、私たちを助けれくれるように頼んでみるべきだわ。」私はこの言葉を聞いてこう思いました:「神?神が本当のこの世界に存在するの?神は医者が何もできなかった私の病を治すことができるの?」そして私のいとこは本を手に立ち上がり、私の近くまできました。彼女は私の目を拭きながらこう言いました:「イーちゃん、まずは心を使って神の御言葉を見てみましょう。」私はこの本を手に取り、彼女が見せてくれたこの御言葉を目にしました:「病のただ中で神を讃美し、讃美する中で神を享受しなさい。病に直面しても落胆せず、求め続け、決して諦めてはならない。そうすれば、神は自らの光であなたを照らすであろう。ヨブは、どれほど忠実であったろうか。全能神は、全能の医師である。病に生きるということは、病むことと同じであるが、霊に生きるということは、健全になることである。あなたに最後の息しか残されていないとしても、神はあなたを死なせはしないであろう。」私は「全能神は全能な救済者であられる」という御言葉を読んでこう思いました:「海外の専門家ですら私が回復する見込みはないと言っていたのに、全能神には私を治す力があるというのかしら?」この後、姉妹がこう言いました:「どのような病を抱えていても、苦しみの中を生きてはいけないわ。勇気をもって立向うのよ。あたなが真の心をもって神に祈りを捧げ、あなたの本当の辛さと心の内の言葉を神に伝えていれば、神は耳を傾けてくださり、さらに神はあなたに道を開いてくださって病を乗り越えられるようにあなたを導いてくださるわ。」私は、全能神の御言葉を読んで姉妹の話しを聞いた後、不思議なことに心の内で今まで感じたことのない平安と確信を感じました。私は思わずこの本を抱きしめてしまいました。これを見た姉妹は嬉しそうな笑みを浮かべていました。私のいとこは言いました:「イーちゃん、その本は持っていていいわよ。もっと読みなさい。数日したらまた会いにくるわ。」

無神論者,悔い改める,罪の赦し

   後に、兄弟姉妹たちが私の自宅にきて私と会ってくれました。彼らはまるで親戚のように私と思いやりをもって接してくれました。彼らは掃除を手伝ってくれたり、私が寂しくないかと心配して頻繁に歌も歌ってくれました。彼らは誠意をもって私と接し、正直に私と話しをしてくれました。彼らの生き抜き方は私が以前職場や世間で知り合った人達のものとはかなり違っていました。私はこう思いました:「このような愛は神からのみ送られてくるもので、この世俗的な世界で見つけることはできないものだわ。彼らが信仰しているのは真の神ということなのかしら?いとこがくれた本を慎重に読む必要があるわ。」本を開けると、私は神の御言葉のこの1節を目にしました:「神はこの世界を創造し、この人類を創造した。また、それだけではなく、神は古代ギリシア文化ならびに人類文明の設計者でもあった。神のみがこの人類を慰め、神のみが日夜人類のことを思いやる。人類の発展と進歩は神の支配と切り離すことはできない。また、人類の歴史と未来は神の計画と切っても切れない関係にある。」神の御言葉を読んだ後、私の心は突然すっきりしました。天と地、そして万物は神によって創造されたものであり、私たち人間も神に創造されたものだということが分かりました。神は私たちの側を母親のように付き添ってくださります。私たちが苦しんでいると、神の優しい御言葉が私たちを慰めてくださります。私たちが危険に遭遇すると、神の愛情こもった御手が私たちを支えてくださります。その時、私は数回自殺を試みたにもかかわらず死ななかったのは神の御救いのおかげであったこと、そして私は神の御心遣いと御加護の下で暮らしていたのだとふと気が付きました。私は心の中で神にこう祈りを捧げました:「ああ、神様!私は今人と普通に話すことができなくなり、心がとても痛んでおります。しかし、私は「全能神は全能な救済者であられる」というあなたの御言葉を読んで、自分の病はあなたの手の内にあると信じるようになり、あなたに自分を完全に委ね、あなたの御主権と御采配に従う意欲を持ちました。アーメン!

   3か月後、教会で信仰者たちの数が増えると共に聖書の在庫数が需要に追い付かなくなったので、私は兄弟姉妹たちのために自宅で聖書のコピー作業をすると申し出ました。ある日、ある姉妹が聖書のコピーを取りに私の自宅まできました。彼女は私にこう聞いてきました:「シスター、この聖書はコピー済んでますか?」私はこう答えました:「はい、済ませましたよ。」私の予期せぬ声に彼女は驚きました。彼女は私をまっすぐに見つめてこう言いました:「あなた喋れるようになったじゃない!」私はさりげなくこう言いました:「喋れるって誰がですか?」彼女は興奮しながら前に出て来て私を軽くたたいてこう言いました:「あなたがよ!」その時私は急に我に戻り、彼女を抱きしめてうれし泣きをすると、私の涙は水門が開いた後に止まらず飛び出す水のように流れ出ました。私は、「神は本当に存在する。神の御救いによって私は声を取り戻すことができたんだ」と心から感じました。その時、私は神に対してどのような言葉で感謝の意を示したらよいか分からなかったので、ただ単にこう言い続けました:「神様、ありがとうございます!神様、ありがとうございます!」しばらく落ち着いた後、私たちは地面に跪き、神に感謝の意と称賛を捧げました。私は感謝の気持をもってこう言いました:「ああ、神様!あなたの御業は本当に素晴らしく、予想を超えるものでございます!私は医者によって永続的な障がい者であるという証明を受け、何を試しても効果がありませんでした。しかし、あなたが偉大な御力をお見せくださったおかげで、口が利けなかった私がまた喋れるようになったのです。あなたは正に全能な救済者であられます!ああ、神様、私はあなたによる御引き上げと御理解に感謝いたします。私はあなたから授かった御恵みを決して忘れません!言いたいことは千ほどありますが、それをまとめて’感謝の意、全能神にあれ!’と言わせてください。」それ以降、私は発話障がい者としての生活に別れを告げ、心の中で大喜びしました。私は大声で神の讃美歌を歌い、完全に喜びに浸りました。

   ある日、私は聖書を開いて、神のこの御言葉を見ました:「魔王は人間の若い心に無神論の腫れ物の種を植え付け、『科学技術を学び、四つの近代化を実現せよ。この世に神はいない。』など、人間に偽りを諭した。…魔王は『この世に神はいない。風は自然の法則が原因である。雨は凝結して水滴となって地表に落ちる水分である。地震は地質学的変化に起因する地表の振動である。干ばつは太陽表面の原子核工学的障害により起こる大気の乾燥である。これらは自然現象である。そのうちどれが神の業だというのか。』などという衝撃的な中傷を唱える。…後ろの方では、人間に魔王を上下逆にして壁に掛けさせ、机上に鎮座させて崇拝させる。魔王は『神はいない。』と唱えるが、魔王は自らを神とみなし、真の神を執拗に地の果ての外へと追いやろうとする。魔王は神の地位に立ち、魔王として君臨する。何と途方も無く馬鹿げたことであろうか。」神の御言葉は、私が幼かった頃にサタンが様々な異端な虚偽を私の心に植え付けたことを思い出させてくださりました。その長期に渡る育成と欺きの下で、私の魂は無神論、進化論、そして唯物論に満たされてしまい、それによって私はこの世界に神は存在しない、そして人類の運命は私たちの手の内にあると頑固に信じ込んでしまい、私のいとこが最初私に福音を説いてくれた時も私はそれを求めることも、調査することも拒否して彼女をからかってしまったのです。今まで歩んできた道を振り返り、私は神の前で極限まで悔い改め、とても恥ずかしい思いをし、愚かで無知だった自分を嫌いました。サタンの支持する無神論の腫瘍によって堕落させられていた私は幾度に渡って神の御救いを受けることを拒否してしまうほどに頑固になり、お救いいただく機会を断固に拒絶していたのです。この全てはサタンの虚偽によるもので、それは私に害を与えていたのです。神の御言葉による御啓示がなければ、私は依然として無神論により騙され、この世界に神は存在しないなどと信じ込み、自分の本質を見抜けないまま、無意識のうちにサタンによって惑わされ、そして欺かれ、最終的には一緒に埋められていたことでしょう。今、私は神の御言葉のおかげで、「万物は自然にできあがった」などという異端な虚偽はサタンが人々を惑わして騙すため、そして人々を神から遠ざけるために広める嘘であると完全に知ることができました。私はもうサタンのでたらめは信じません。

   私が声を取り戻して以来、私の家族、親戚、そして友人たちは私の内に神の驚くべき御業を目撃し、無神論の虚偽から離脱し、その内の20人以上が相次いで世の終わりの全能神の働きを受け入れました。彼らは神の働きと御言葉を体験し、真理の実相をある程度理解し、神の御救いを受けるために真理を求める道を歩み始めました。彼らはまた、神の愛に応えるためにそれぞれの本分も尽くしました。

   最後に、私は神に感謝の祈りを捧げたいと思います:「ああ、全能の神様!私はあなたに感謝し、あなたを讃えます。今日、私はあなたの御恵みと向き合い、恥ずかしい思いをしています。私は以前、サタンの無神論の観念的な養成により我を失ってしまいあなたの存在を認めることができませんでした。兄弟姉妹たちがあなたの御国の福音を証言してくれた時も、私は頑固すぎてあなたの御言葉に耳を傾けず、幾度となくあなたの御救いを受け入れることを拒否してしまいました。私が病で喋れなくなり、苦しみの中を生きた時、あなたはそれでも私に福音を説くよう姉妹を駆り立ててくださり、私があなたの御声を聴けるようにしてくださり、私をあなたの御家にお連れくださりました。あなたの御恵みと御救いに感謝いたします。私は深刻に堕落して、あなたに反抗し、抵抗していたにもかかわらず、あなたは私の不服従な態度を甘受してくださり、私がもう一度真理を求められるように私の病を治してくださりました。私はあなたの驚くべき御業を目の当たりにし、あなたが天と地、そして万物を創造なさった、そして私たち人間の運命の主権をお持ちの唯一なる真の神であられるという真理を見極めることができました。私はあなたの御言葉を読み、サタンの異端な虚偽を判別する能力を身に付けました。私はサタンを完全に払拭し、あなたの御言葉をもっと読み、あなたに関する真の知識を得るために真理を追い求めて行きます。私は全能神であれるあなたを永久に讃え続けます!」