賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神のアブラハムへの約束

2020-01-25 12:46:33 | 聖書の学び

神のアブラハムへの約束

  (創世記:22:16-18)ヤーウェは言われた、「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。

  これはアブラハムに対する神の祝福の全記録である。短い箇所だが、内容は濃い。神がアブラハムに、なぜ、そしてどのような背景で賜物を与えたか、そして何を与えたかが書かれている。神が発した言葉に込められた喜びと感激、そして自身の言葉に耳を傾けることのできる者を一刻も早く自分のものとしたいという思いがそこには込められている。神の言葉に従い、命令に従う人々に対する神の愛情と優しさを読み取ることができる。そして、神が人々を自身のものとするために払う代価と、注ぐ慈しみと思いを見ることもできる。さらには、この「わたしは自分をさして誓う」という言葉を含むこの箇所は、自身の経営(救いの)計画の働きの背後にある、唯一神のみが背負う苦悩と痛みの強烈な感覚をわたしたちに与える。この箇所を通して考えることは多く、後に続く者達に特別な意味を持ち、非常に大きな影響を与えるものだ。

人間はその誠実さと従順さゆえに神の祝福を受け取る

  ここから読み取れるアブラハムに対する神の祝福は非常に大きなものではないだろうか。どれほど大きいだろうか。その答えの鍵となるのが次の言葉だ。「また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」。この言葉が示すものは、アブラハムは後にも先にも見たことのないような大きな祝福を受けたということである。神が命じたとおり、アブラハムは自分の愛するひとり息子を神に帰した。(注:この場合、「捧げた」と言わずに、神に「帰した」と言うべきである。)神はアブラハムがイサクを捧げることを許さなかっただけでなく、アブラハムを祝福した。どのような約束をもってアブラハムを祝福したのだろうか。彼の子孫を繁栄させるという約束をもってである。どれ位の数になると言っているだろうか。聖書に次のように書かれている。「天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」。神のこの言葉にはどのような背景があったのだろうか。つまり、アブラハムは神の祝福をどのように受け取ったのだろうか。それは聖書に書かれている通りだ。「あなたがわたしの言葉に従ったからである」。つまりアブラハムは神の命令に聞き従い、神の言ったこと、要求したことを一切不平を言わず全て行ったゆえに、神はそのような約束をした。この約束には当時の神の考えを示す重要な文章が含まれている。それに気づいただろうか。「わたしは自分をさして誓う」という神の言葉に、あなた方はそれほど注意を払っていなかったかもしれない。だが、神はこの言葉を通して、自身を指して誓ったのだ。人が誓いを立てるときには、何を指して誓うだろうか。天を指して誓う、つまり、神に対して宣誓し、神に対して誓う。神が自身を指して誓うという状況を人々はあまり理解しないかもしれないが、わたしの正しい説明を聞けば理解できるようになる。神の声は聞けるがその心を理解することはできない人間と向き合う神の心はまたしても寂しく、神は戸惑った。切羽詰まって、そして無意識にと言ってもよいだろう、神は極めて自然なことをした。自身の胸に手を置き、アブラハムへの賜物を自身を通して約束した。そして人は、「わたしは自分をさして誓う」という言葉を聞いたのである。この神の行動にあなた自身を照らしあわせてみるだろうか。あなたが自分の胸に手を当てて自身に語るとき、その言葉をはっきり理解できるだろうか。誠実な態度でそうできるだろうか。心から、率直に語るだろうか。そう考えると、神はここでアブラハムに対し、真心から、誠実に語ったことが分かる。アブラハムに語りかけ祝福したと同時に、神は自身にも語っていた。神は自身にこう語っていた。「わたしはアブラハムを祝福する。彼の子孫を天の星のように、海辺の砂のように増し加える。彼はわたしの言葉に従った者であり、わたしが選んだ者だからだ。」神が「わたしは自分をさして誓う」と言った時、神はアブラハムを通して選ばれしイスラエルの民を生み出すことを決意し、その後自身の業により速やかに導いたのである。つまり、神はアブラハムの子孫が神の経営(救いの)担い手となり、神の働きと神により現わされたものがアブラハムから始まり、アブラハムの子孫に受け継がれ、そうすることで人の救いを実現するようにしたのである。これが祝福とは言わないだろうか。人間にとって、これ以上の祝福はありえない。これが最大の祝福と言える。アブラハムが受け取った祝福は子孫が増えることではなく、アブラハムの子孫における神の経営(救い)、神の任務、そして神の働きである。つまりアブラハムが受け取った祝福は一時的なものではなく、神の経営(救いの)計画と同時進行で継続されるものなのだ。神が語り、自身を指して誓った時、神はもう心を決めていた。この決断の過程は真実だろうか。本当にそのような決断があっただろうか。神はこの時、アブラハムとその子孫のために苦労し、代価を払い、自身と自身が持っているもの、自身全てを、生命までも差し出すと決めた。そしてまずこの人々に自身の業を現わし始め、人間が自身の知恵と権威、そして力を見るようにすると決めた。

神を知り、神の証しとなる者を自身のものとすることが神の変わることのない願いである

  神は自分に対して語ったのと同時にアブラハムにも語ったが、果たしてアブラハムは、神の語った祝福以外に神の真の願いをその言葉から理解することができただろうか。できなかった。それゆえに、神が自身を通して誓ったその時、神の心は未だに孤独で、悲しんでいた。この時、神の意図や計画を知る人や理解できる人はひとりもいなかった。この時点では、アブラハムを含め、神と親密に話すことのできる者はおらず、まして神がしなくてはならない働きに協力できる者などいなかった。表面上は、神は自分の言葉に従うアブラハムを得たかのように見えるが、実際は、アブラハムの神への認識は無に等しいものだった。神はアブラハムを祝福したが、神はまだ満足してはいなかった。神はまだ満足してはいなかったとはどういうことだろうか。それは神の経営(救い)はまだ始まったばかりであり、神が自分のものとしたいと望んでいる人々、会いたいと思っている人々、愛した人々はまだ神から離れていたということである。さらに時間が必要で、待つ必要があり、忍耐する必要があった。と言うのは、神自身以外に神が必要としているものを知るものはおらず、神がなにを得たいか、何を望んでいるかを知るものもいなかったからである。それゆえ、神は非常に感激したのと同時に、心は重かったのである。それでも神はその働きをやめることはなく、やらなければならない働きの次の段階を計画した。

  あなた方は神のアブラハムに対する約束に何を見るだろうか。神は、アブラハムが神の言葉に従った、ただそれゆえにアブラハムに大いなる祝福を授けた。表面的にはこれはごく普通のこと、また当然のことに思えるが、そこには神の心を見ることができる。神は人の従順さを特に大切にし、自身に対する理解と誠実さを尊ぶ。神はどれくらいこの誠実さを尊ぶのだろうか。どれほど尊ぶか、あなた方には理解できないかもしれないし、理解できる人はひとりもいない可能性も十分ある。神はアブラハムに息子を与えた。そしてその息子が成長した時、神はアブラハムにその息子を自分に捧げるように命じた。アブラハムは文字通り神の命令に従い、神の言葉に従った。その誠実さを神は非常に尊いものとした。どれくらい神はそれを尊んだだろうか。なぜ尊んだのだろうか。神の言葉や心を理解できるものが誰もいなかった当時、アブラハムのしたことは天を揺るがし地を震えさせた。それは神に、それまで感じたことのない満足感を与え、自分の言葉に従うことのできる人間を得たことの喜びをもたらした。この満足感と喜びは、自身が手で創った被造物から生まれた。これが、人間が神に捧げた最初の「捧げもの」となり、人間が創造されて以来最も神に尊ばれた。神はこの捧げ物を待ち焦がれており、この捧げ物を、自分が創造した人からの最も価値ある贈り物として大切に思った。それは神の努力と払った犠牲に対して初めて実りを示すものとなり、これによって神は人間に希望を見出した。その後神は、アブラハムのような人間の群れが自身に伴い、誠実に自身と向き合い、誠実に自身を慈しむことを更に強く望んだ。神はアブラハムが生き続けることすら望んだ。自身の経営(救い)を継続するのに、アブラハムのような心を持った人間を伴いたかったからである。だが神が何を望もうと、それは望みでしかなく、思いだけでしかなかった。アブラハムは神に従うことのできる人間であっただけで、神に対する理解や認識を全く持ち合わせていなかったからである。神を知り、神の証しとなり、神と同じ思いになるという神の要求の基準に対し、アブラハムは遠く及ばない人間であった。それゆえに、彼は神と共に歩むことができなかった。イサクを捧げるアブラハムに、神は誠実さと従順さを見、神からの試練に耐えたことを知った。神はアブラハムの誠実さと従順さを受け入れたが、それでも神の親友となり、神を知り、理解し、神の性質を知らされるに相応しくはなかった。神と思いを同じくし、神の心をなす者にはほど遠かった。ゆえに、神はまだ寂しく不安であった。その寂しさと不安が増せば増すほど、極力自身の計画を迅速に進める必要があり、経営(救いの)計画を全うしてその心を一刻も早く全うするために人々を選び、自身のものとする必要があった。それは神の切実な願いであり、初めの時から今日まで変わらない。神が人を造った当初から、勝利を獲得できる人々、自身と歩み理解し、深く知り、その性質を理解できる人々を神は求めていた。この神の願いはずっと変わらない。どれほど待たなければならないとしても、どれほどその行く手が困難でも、目的とするものがどれほど遠くても、神は人間に対する期待を変えたり諦めたりしたことはない。ここまでの話を聞いて、神が望むことを何か理解できただろうか。おそらくまだそれほど深くは理解できていないだろうが、徐々に理解できるようになる。