賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

二つの石の運命

2020-05-16 22:16:36 | デボーション

   わたしはこういう物語を読んだことがあります。ある山には、二つの石が並び立っていました。ある日、一つ目の石は二つ目の石に「わたしは外の世界に行っていろいろと経験し、見聞を広めたいんだ」と言いました。二つ目の石はこれを聞いて、「ここの安逸な生活をあきらめない方がいいじゃないか」と勧めました。

 

   しかし、一つ目の石はすでに、離れることを決めました。それで、彼は川の流れに沿って走り始めました。彼は途中で多くの苦難を経験しましたが、自分の選択を後悔しませんでした。

 

   二つ目の石は彼が多くの挫折や不幸に遭ったのを見て、彼に早くあきらめるように勧めました。だが、一つ目の石は決意を変えず、依然として自分の理想を堅持していました。

 

   長年たった後、幾多の試練に耐えてきた一つ目の石は世界の珍品、奇石になり、博物館に収蔵されていて、人々の称賛の的となりました。

 

   二つ目の石も一つ目の石に倣いたいが、途中の苦難をこわがるため、あきらめました。その後、彼は人に打ち砕かれて、家を建てるのに使われました。




   同じく石ではあるが、違う運命があります。一つの石は安逸に日を送るが、もう一つの石は険しい苦難の道を選び、苦難をなめ尽くして世界の珍品、奇石になり、多くの人に賛美され、称賛されました。明らかに、一つ目の石の選択は成功しました。二つ目の石は苦難をこわがるため、一時的な享受、安逸を選びました。最終的に、彼は人に打ち砕かれました。明らかに、二つ目の石の選択は失敗しました。

 

   この物語にはわたしは考えさせられました。神を信じる過程の中で、リスチャンとしてのわたしたちもこの二つの石と同じように選択に直面しなければなりませんか。もし一つ目の石のようになりたくて、真理を追い求め、神を認識する道を歩むなら、わたしたちはいくらかの苦しみを受け、名利や地位や金銭や世的な享受や世にある前途などを捨てなければならず、また、さまざまな環境によってもたらされる苦難、例えば世の人の迫害、誹謗、あざ笑い、侮辱などを経験しなければなりません。精錬された愛こそ強いです。人は精錬されてこそ、きよくなることができます。これらの苦難、試練を経験せず、安逸をむさぼるなら、絶対に真理を得られず、また神に良しとされることができません。これらの苦難、試練は、神が人を完全にするのに絶対に必要なものです。神に重用された人はみな多くの苦難を受けました。神に祝福された人も苦難、試練の中で神のために証しをしました。ペテロはわずか七年の間に数百回の試練を受けました。そのため、神に完全にされました。この数百回の試練の中で、ペテロは多くの苦しみを受けました。その結果、彼は神を認識する人になりました。これで分かるように、苦難、試練はわたしたちの命における富であり、わたしたちに命、希望、祝福をもたらすことができます。それは聖書に書かれているとおりです。「……。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」(申8:17)。

 

   ヨブのことを例にあげましょう。ヨブは非常に大きな苦難、試練を受けた後、神に祝福されました。彼は満山の牛や羊、巨万の財産を失い、全身に重い皮膚病ができ、また彼の三人の友達と妻に誹謗されました。彼はこんなに多くの苦しみを受けたが、神に従順で、神を怨まず、神のために証しをしました。こうして、サタンは恥を受け、失敗しました。ヨブは以前神のことをうわさで聞いていましたが、このような苦難を受けた後、神の存在を感じ、しかも神に良しとされ、倍にして祝福されました。ヨブが神を信じる上で歩む道は、わたしたちが見習うべきです。神を信じる上でこのような道を歩むなら、多くの苦しみを受けなければならないが、神を満足させ、造物主の称賛と祝福を得ることができます。それは最も価値のあること、最も意義のあることです。一つ目の石の場合もそうでした。彼は苦難をなめ尽くし、幾多の試練を経た後、世界の珍品になり、多くの人に賛美され、称賛され、成功の喜びを味わいました。

 

   神を認識するという目的を達成しようと追い求める一部の兄弟姉妹は、肉体の享受を捨てて、神のために費やします。彼らは入獄しても気にせず、どんな苦しみを受けても、どんな苦難をなめても、神を離れません。彼らはさまざまな苦難や試練を受けたことによって、神を愛する人、神と心を一つにする人になり、真の人らしさを持つようになりました。これは次のような聖書の言葉を成就しました。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(コリ二4:17-18)。

 

   もし、わたしたちが二つ目の石のようになりたくて、真理を追い求めず、現状に満足し、肉体を思いやり、安逸をむさぼり、肉体が享受できるだけで満足し、集会に参加したり、祈ったり、神の言葉を読んだりするだけで満足し、時をつぶしたり、心の空白を埋めたり、家庭の平安を得るために神を信じていて、神を認識し、神を満足させることを追い求めず、神の道を行わないとすれば、わたしたちは神に良しとされることができず、きっと安逸のゆえに自分の命を失います。失敗への道を歩むなら、祝福を得ようという人の夢は二つ目の石のように粉々に砕かれます。神を信じるすべての人は、神が準備してくださる良い最終的な落ち着き先を得ようとします。だが、人が成功するどうかは、人の歩む道にかかっています。