賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

イエスによるパリサイ人に対する戒め

2020-02-25 00:53:34 | 聖書の奥義を開く

   1.パリサイ人によるイエスの審判

   身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。(マルコによる福音書3:21-22節)

   2.イエスによるパリサイ人に対する戒め

   「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」(マタイによる福音書12:31-32)

   「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。」(マタイによる福音書23:13-15)

   上記には、個別の聖句が2つある。この2つのうち最初に挙げた聖句「パリサイ人によるイエスの審判」について、まず検討する。

 

 

  聖書によると、イエスと、イエスの行動に対するパリサイ人の評価は「気が狂ったと思った…『彼はベルゼブルにとりつかれている』…『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ』」(マルコによる福音書3:21-22節)というものであった。律法学者とパリサイ人による主イエスに対する審判は、何の根拠もなく下されたものではなく、律法学者とパリサイ人が主イエスの行動について見たこと、聞いたことに基づいた結論であった。その審判は、表層的には法に基づき行われ、人々は、それが十分な根拠に基づくものと考えたが、イエスを裁いたその傲慢さを、律法学者とパリサイ人は抑えることが出来なかった。人々の主イエスに対する激昂した憎悪のエネルギーが、神を拒絶する邪悪な本性とともに、人々の向こう見ずな野望と邪悪なサタンのような形相に現れていた。主イエスの審判で律法学者とパリサイ人が口にしたことは、人々の向こう見ずな野望、嫉妬、そして人々の神と真理に対する敵意の、醜く邪悪な本性を動機とするものであった。律法学者とパリサイ人は主イエスの行動が何によるものかを調査せず、イエスの言動の本質を調査することもなかった。その代わりに、律法学者とパリサイ人は、主イエスが取った行動を、盲目的に、苛立って、狂気のように、そして計画的な悪意をもって非難し、卑しめた。それは、主イエスの霊すなわち聖霊、神の霊を見境なく卑しめるような状態にまで達していた。律法学者とパリサイ人が「気が狂った、ベルゼブルと悪霊どものかしら」と言うのは、そうしたことを意味するものであった。つまり、神の霊はベルゼブルであり、悪霊の頭である、と言ったのであった。彼らは、受肉した神の霊による業を、狂気であるとした。彼らは神の霊をベルゼブル、悪霊の頭として冒涜したのみならず、神の業を罪であるとした。律法学者とパリサイ人は、主イエスを有罪とし、冒涜した。彼らの神に対する反逆的、冒涜的本質は、サタンと悪魔の神に対する反逆的、冒涜的本質と同じである。彼らが象徴するものは、腐敗した人間だけでなく、サタンの権化でもあった。彼らはサタンと人類の繋いでおり、サタンに力を貸す伝令であった。主イエス・キリストに対する彼らの冒涜と誹謗の本質は、神の地位を奪おうとする奮闘努力であり、終わることのない神への反抗、挑戦であった。彼らの神への反抗、神に対する敵対心の本質、そして言葉や考え方が、神の霊を直接冒涜し、怒らせた。それゆえに、神は律法学者とパリサイ人の言葉と行動に妥当な裁きを下し、その行動を聖霊に対する冒涜の罪であるとした。この罪は、この世でも後生でも赦されることがないのは、聖句に「聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」、また「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」とある通りである。ここでは「この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」という神の言葉の真の意味について検討し、「この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」という言葉を神がどのようにして実現されるかに関する謎を解明する。

   これまで検討してきた事柄は、すべて神の性質、人間や物事に対する神の姿勢に関するものである。その点については、当然上記2件の聖句も例外ではない。これら二つの聖句について、何か気付くことはあるだろうか。一部の人々は、神の怒りに気付くと言う。また別の人々は、人間による侮辱を赦されることがないという神の性質と、人々が神を冒涜すると神の赦しを得ることができないことが分かる、と言う。この二つの聖句から、神の怒りと、人間の冒涜に対して神が不寛容であることを人々が理解しているが、人々は神の姿勢を真に理解していない。この二つの聖句には、神を冒涜し、神を怒らせた者に対する神の真の姿勢と処遇を示す部分がある。この「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」という聖句には、神の真の姿勢と処遇が含まれている。人々が神を冒涜した時、あるいは怒らせた時、神は審判を下し、その審判は神の最終的な結論である。そのことについては、聖書において「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。」(マタイによる福音書12:31)、また「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」(マタイによる福音書23:13)と説明されている。しかし、主イエスがこのように述べた後、律法学者とパリサイ人、そして主は狂気であると言った者達に対する処遇は、聖書に記されているだろうか。これらの者達が罰を受けたと記されているであろうか。それらについて、何も記されていないことは確かである。ここで、何も記されていないというのは、何も記録されていないということではなく、人間が見ることの出来る結果がない、ということである。このことにより、問題が明らかになる。すなわち問題とは、神がある事柄に対処する際の姿勢と原則である。神を冒涜したり、否定したり、中傷さえしたりする人々、つまり、意図的に攻撃したり、中傷したり、呪ったりした人々に対する神の処遇について、神は見ないふりをしたり、聞こえないふりをしたりすることはない。神には、そうした物事に対する明確な姿勢がある。神はこうした人々を嫌悪し、心で糾弾する。神はこうした人々に対して、神を冒涜した者に対する明瞭な姿勢があること、神はどのようにしてそうした人々の結末を決定するかをその人々が理解するよう、こうした人々の結末を率直に宣言している。しかし、神がその言葉を述べているにもかかわらず、神がこうした人々をどのように処分するかに関する事実を殆ど理解できず、神による結末や審判の背景となる原則を理解できずにいる。すなわち、人類は、こうした人々の処遇について、神の具体的な姿勢と方法を理解できずにいる。この問題は、神が業を行う際の原則が関与している。神は事実を出現させ、一部の人々の邪悪な行いに対処する。つまり、神はこうした人々の罪を宣告することも処遇を決定することもなく、神は直接的に事実を出現させることにより、こうした人々が処罰され、相応の報いを受けるようにする。こうした事実が出現した時、その罰を受ける物は、すべて人間の目に見える人々の身体である。一部の人々の邪悪な行動を処分する際には、神は言葉により呪うが、それと同時に神の怒りがその人々におよぶ。こうした人々が受ける罰は人々の目に見えないものである場合もあるが、この種の結末は、罰せられたり殺されたりといった目に見えるもの以上に深刻な場合がある。こうした人々を救わない、こうした人々に対して更なる慈悲や寛容をもって対処しない、それ以上の機会を与えないと神が判断した場合、こうした人々の神に対する態度は、こうした人々を無視する態度である。「無視」とは、どういう意味であろうか。この言葉は、何かを脇によけ、意識しなくなることを意味する。ここで、神が「無視」すると言う場合、2通りの解釈ができる。1つ目は、神がその者の命、その者の全てをサタンに与えて扱わせるようにした、という解釈である。神はその者の命などを担わなくなり、その管理を辞める、ということである。その者が狂気であっても、愚かであっても、あるいは生きていても死んでいても、あるいは地獄に落とされて罰を受けていても、それは神に関係ないものとなる。つまり、その被造物は創造主と何ら関係が無くなるということを意味する。2つ目は、神がその者に対して、神自らの手で何かをしようと決断した、という解釈である。神が、そうした者の取り組みや、そうした者自身を、補助的に活用する可能性もある。そうした者に対し、パウロに対して対処したように、神が特殊な方法で対処する可能性もある。以上が、そうした者に対し神の心が判断を下す際の原則と姿勢である。したがって、人々が神を拒否し、中傷し、冒涜した場合、あるいは神の怒りを買い、あるいは神の赦しの範疇を超えた場合、その結末は想像を絶する。神がそうした者たちの命などのすべてを、それ以降永遠にサタンに委ねるというのが、最も重篤な結末である。こうした者たちは、永遠に赦されることが無い。これは、そうした者達がサタンの餌食となり、玩具となり、それ以降、神はそうした者達との関係を一切絶つ。サタンがヨブを誘惑した時、それがどれほど悲惨なものであったか、あなたがたは想像出来るであろうか。サタンがヨブの命に手を出さないことが条件であったが、それでもヨブは大いに苦悶した。それならば、完全にサタンの手に委ねられた者、完全にサタンの手中にある者、神のいつくしみや憐れみを完全に失った者、創造主の支配が及ばなくなってしまった者、神を信仰する権利と神の支配下に属する被造物である権利を奪われた者、創造主との関係を完全に絶たれてしまった者が受けるサタンの猛威は、それにも増して困難ではなかろうか。サタンによるヨブの迫害は、人間が見ることの出来るものであったが、神がある者の命をサタンに引き渡した場合、その結末は、あらゆる者の想像を絶するものとなるであろう。それは、牛やロバとして生まれ変わった人間、汚れた、悪霊に取り憑かれた人間のようなものである。これが神によりサタンに引き渡された者の結末である。主イエスを嘲笑し、中傷し、非難し、冒涜した者は、外部から見れば、全くそうした結末に苛まれていないように見える。しかし、あらゆる物事に対し、神は特定の姿勢をもって対処する、というのは真実である。様々な種類の人間に対して神が対処した結果どうなるかについて、神は明確な言葉で人間に伝えないこともある。神は、直接的に言葉を述べず、直接的に業を行うこともある。神がそうした事柄について言葉を述べないということは、そうした事柄に対する結末が存在しないことを意味するのではなく、より深刻な結末であることを意味する可能性もある。見た目には、神は、一部の人々に対して神の姿勢を示そうと語っていないように思われる。実際、神はそうした人々に気遣うことを久しく望んでいない。神は、そうした人々にもう会いたいとは思わないのである。そうした人々の行動や態度、性質や真髄などのため、神は単にそうした人々が神の前から立ち去ること、そうした人々の霊魂や身体を直接サタンに引き渡し、サタンの意のままにさせることを望んでいるのである。神がそうした人々をどれほど憎んでいるか、嫌悪しているかは明瞭である。ある者が、神がその者に二度と会わないことを望むほどに、また神がその者を完全に見捨てるほどに、また神自身がその者を取り扱うことさえ望まないほどに、神の怒りを買った場合、すなわち神がその者をサタンに委ね、サタンに支配させ、虜にさせ、サタンの思うがままにさせた場合、その者は完全に終焉を迎える。その者の人間たる権利が奪われ、被造物としての権利が消滅する。それは、最も過酷な罰ではなかろうか。

   以上が「この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」という言葉の完全な説明であり、この聖句に関する簡潔な解説である。以上の説明をもって、この聖句について理解できたことと思う。


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