賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神が人類のために造った基本的な生活環境-気温

2020-03-03 11:24:30 | 聖書の奥義を開く

   2番目の物事は、気温である。気温が何かは誰でも知っている。気温は、人間の生存に適した環境に備わっていることが必要とされるものである。摂氏40度を超える場合など気温が高すぎる場合、人間の生活は極めて過酷なものとなる。そうした気温は、極めて体力を消耗させるものではなかろうか。摂氏零下40度を超える場合など気温が低すぎる場合はどうであろうか。それもまた人間には耐え難いであろう。したがって、神はそうした気温の範囲設定時に、極めて正確であった。人体が適応可能な気温の範囲は、基本的に摂氏零下30度から摂氏40度までである。これが南部から北部までの基本的な気温の範囲である。寒冷地域では気温が摂氏零下50度程度に達することもある。そうした地域は、神が人間の居住を許可している地域ではない。そのような寒冷地域が存在するのは、何故であろうか。その存在にも、神の知恵と意図がある。神は、人間がそうした地域付近に行くことを禁じている。神は暑すぎる地域や寒すぎる地域を保護している、すなわち神はそうした地域に人間が居住する準備をしていない。そうした地域は人間のための地域ではない。神が地上にそうした地域を存在させているのは何故だろうか。神がそうした地域に人間が居住するのを許していないのであれば、神がそうした地域を造ったのは何故であろうか。そこには、神の知恵がある。つまり、人間の生存環境のための基本的な気温もまた、神により適宜調整されたものである。気温にも法則がある。神はこうした気温の維持に役立ち、気温を制御する物事を造った。この気温を維持するために用いられている物事は、何であろうか。まず、太陽は人間に温もりをもたらすが、暑すぎると人間は耐えられなくなる。地球上には、太陽に近付くことができる物はあるであろうか。(無い。)それは何故であろうか。それは、太陽が熱すぎるからである。その物は溶けるであろう。したがって、人間から太陽までの距離についても、神は特定の処置を実施した。神には、その距離についても基準を設けている。また、地球には南極と北極がある。南極と北極には、何があるだろうか。南極と北極は一面の氷河である。人間は氷河の上に住めるだろうか。氷河上は人間生活に適しているだろうか。(適していない。) 適していないので、氷河へは行かない。人間が南極へも北極へも行かないので、氷河が保護され、氷河は、気温を制御するという氷河の役割を果たすことができる。分かるであろうか。南極と北極が無く、太陽が常に地球を照りつけているとしたら、地上の人間は熱で全員死滅してしまうであろう。神が気温を制御するのに用いるのは、この2つだけであろうか。神が人間に適した気温を制御するのに用いるのは、この2つだけでは無い。それ以外に、野原の草や森の木々や植物など、様々な生き物も存在する。こうした生き物は太陽の熱を吸収し、太陽の熱エネルギーを合成して、人間が生活する気温を調整する。また、河川や湖沼などの水源も存在する。河川や湖沼の表面積は、人間が決めることの出来るものでは無い。誰かが地球上の水の量や、水の流れる先、方向、水量、流れる速度を制御できるであろうか。誰もそうした事柄を制御できない。それは、神のみぞ知る事柄である。地下水や、人間が見ることのできる地表の河川や湖沼などの様々な水源もまた、人間が生活する気温を調整することができる。それ以外にも、山や平野、峡谷や湿地など、様々な地形が存在する。こうした様々な地形それぞれの表面積や規模により気温を制御することができる。たとえば、ある山の半径が100キロメートルである場合、その半径100キロメートルの範囲には、100キロメートル分の効果がある。そうした神が地上に造った山地や峡谷の数についても、神が十分に考慮したものである。つまり、神の創造物ひとつひとつの存在について、それぞれに経緯があり、それぞれに神の知恵と計画が含まれている。たとえば、森と植生について、その地域面積や規模を制御できる人間や、森と植生を最終的に決定できる人間は居ない。森と植生がどの程度の水や太陽の熱エネルギーを吸収するかについても、それを制御できる人間は居ない。これらの物事は、全て神の万物創造時に、神により計画された物事の範囲に含まれる。

 

 

   また、そうした適切な気温の環境において人間が生活できるのは、その全ての側面についての神の周到な計画、検討、采配のおかげである。したがって、太陽など人間が見るあらゆる物、南極や北極など人間が頻繁に話を聞く物、地上や地中、海中の様々な生き物、森その他の植生の面積、水源、様々な形態の水域、そうした水域の淡水や海水の量、さらに様々な地理的環境を用いて、神は人間の生存のための常温を維持している。これは絶対である。また、そうした適切な気温の環境において人間が生活できるのは、神の周到な検討のおかげである。そうした環境は寒すぎることも暑すぎることも無い。人体が順応出来る気温を超えるほど暑い場所は、間違い無く神が人間のために用意した場所では無い。気温が低すぎて寒すぎる場所、すなわち人間が到着して数分で凍えてしまい、話が出来ず、脳が凍り、思考不可能となり、息が詰まるような場所も、神が人間のために用意した場所ではない。人間がどのような調査を行うことを望んだとしても、現状を革新したい、あるいはこうした制約を打破したいと考えたとしても、人間がどう考えるかを問わず、人体が順応可能な限界を超えることは決して出来ない。人間は、こうした神が人間のために設けた限界を解消することは決して出来ない。神は人間を創ったので、神は人体が順応可能な温度について最も深く理解している。人間はその温度について知っているであろうか。(知らない。)知らないと言えるのは、何故であろうか。人間はどのような愚行を行って来たであろうか。北極や南極に常に挑んでいる人々は、これまで多数居なかったであろうか。そうした人々は北極や南極へ向かい、その地を占有して定住して開発することを常に望んでいる。これは自滅的行為ではないだろうか。(自滅的行為である。)仮にあなたが南極と北極を完全に調査したとしよう。しかし、あなたがそうした気温に順応できたとしても、南極や北極の生活環境や生存環境を変えることが、人類に何らかの利益をもたらすであろうか。南極や北極の氷が全て溶けたとしたら、あなたは満足であろうか。それは信じがたいことである。それは愚かな行為である。人間には、生存できる環境があるが、素直にそこで静かに誠実に留まっていることが出来ず、生存不可能な場所へ行かずには居られない。それは何故であろうか。人間は適切な気温の中で生活することに飽きている。人間が享受した祝福が多すぎるのである。また、この通常の生活環境は、人類によってかなり破壊されて来たので、南極や北極へ行って更なる破壊を行ったり、ある種の「先駆者」となることができるよう、何らかの「活動」を行ったりする。それは愚かではなかろうか。そうした人間の祖先であるサタンの指揮下において、そうした人間は次から次へと愚かな行動を続け、神が人間のために造った美しい住処を、見境無くみだりに破壊してゆく。それはサタンの業である。さらに、地球上における人類の生存が多少危うくなったのを見て、月へ行ってそこに住む方法を模索し、月に住めるのであれば地球から脱出しようとする者も大勢居る。だが結局月に欠如しているものは何であろうか。(酸素である。)酸素無しで人間は生存できるであろうか。(生存できない。) 月には酸素が無いので、人間が居留できる場所ではないが、人間は相変わらず月へ行きたがる。これは何であろうか。(自滅行為であり、悩み事を招く行為である。)それは自滅行為であろう。月は空気の無い場所であり、気温も人間の生存に不適であるので、月は神が人間のために用意した場所では無い。

   つい先ほど話をした気温の問題は、人間が日常生活で接することの出来る問題で、「本日は素晴らしい空模様で、気温は23度である。好天快晴で空気は爽快だ。新鮮な空気を吸い込もう。太陽が光り輝いている。日の光が降り注ぐ中で、身体を伸ばそう。良い気分だ。」あるいは「本日は非常に寒い。手を出すと、すぐ冷たくなるだろう。寒いから屋外に長時間居てはならない。身体が冷えないうちに帰宅しよう。」というような会話を交わす。気温は全ての人間が体感できるものであるが、この気温がどのようにして現れたか、あるいは人間の生活に適した気温を制御しているのは誰かについては、誰も考えない。本日明らかにしようとしているのは、この問題である。気温には、神の知恵が含まれているであろうか。気温には、神の業が含まれているであろうか。(含まれている。)人間の生活に適した気温の環境は、神が造ったことを考えると、気温は神が万物に恵みを与えるひとつの方法だろうか。実際、それはひとつの方法である。このことにより、神が万物に恵みを与え、管理していることは、真に現実的なものであることが分かるのだ。

 

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