賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

イースター(復活祭)とは?2019年はいつ?復活祭の意味は何か

2019-09-25 23:23:47 | 聖書の言葉

   イースター(復活祭)とは?イースターの本当の意味は何か、あなたは知っていますか?2019年のイースターは4月21日(日)です。多くの人は復活祭がイエスの復活を祝うためのものであると信じています。実際には、そこにこめられているのはもっと深い意味です。

イースター(復活祭)とは?イースターの起源

   イースターとは、復活の主日とも呼ばれ、主イエスが十字架につけられた三日後に起こった主の復活を祝う祭日です。その正確な時期は、毎年春分になってから最初の満月の後の最初の日曜日です。イエスの復活を記念し、イエスが人類にもたらされた救いと希望を思い起こすために、毎年三月から四月に世界中のキリスト教徒が復活祭の日にお祝いをします。私たちキリスト教徒はイエスの復活を記念しますが、それでは、すでに贖いの働きを終えられたのになぜ主は死人の中から蘇って人の前に出現されたのかを私たちは知っているでしょうか。そして、主の復活と人の前での出現の背後にはどのような意味があるのでしょうか。



主イエスの復活と人の前での出現の意味

   神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)「主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。……主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

   神の御言葉から私たちに分かるのは、主イエスが死人の中から蘇られてから弟子たちに何度も出現されたことには深い意味があり、その背後には神の惜しみない気づかいと思慮が隠れてもいるということです。当時主イエスに付き従った人々は主の教えを多く聞き、主がなされた多くの奇跡を見て、イエスが自分たちの主であり、神の子であると主張しましたが、イエスがキリストで神ご自身であることについては本当に理解しておらず、イエスはこのことをご存知でした。イエスがローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑されたとき、主に付き従った人々の多くは主の身分を疑い始め、主への信仰が段々弱まりました。特に主イエスが十字架に付けられて死んだとき、多くの人々は主に全く失望し、疑いとして始まったものが主イエスの否定に変わったのです。このような状況を背景として、もし主イエスが復活後に人の前に出現されなかったなら、主に付き従った人々の多くはもはやイエス・キリストを信じず、律法の時代に戻って旧約聖書の律法を守り続けたでしょう。しかし神は人の心の奥深くを見極め、人の弱さを理解しておられ、人々の霊的背丈が小さいことをご存知でした。主イエスはそれゆえに、死人の中から蘇り、何度も弟子たちの前に出現されたのです。主は弟子たちと語り、復活後のご自身の霊体を彼らに見せ、彼らと食事を共にし、聖書を解説されました。こうしたことをなさった目的は、主に付き従った人々が、主イエスは本当に死人の中から蘇られ、この方は人を愛し憐れみをかけてくださったイエスとやはり同じ人であり、受肉された神ご自身であり、聖書で預言された人類を贖うために来られるメシアであることを心の底から確信できるようにすることでした。彼らはもはや主イエスを疑いも否定もせず、それどころか誠実に主を信じ、イエス・キリストを自分たちの主と認めました。このことから私たちに分かるのは、イエスは復活なさり人々の前に出現されることによって、人々の信仰を強め、主を信じて従えるようになさったのであり、人間を神に近づけてくださったということです。これがイエスの復活の意味の一側面です。

   これに加えて、イエスは肉となって現れて働き、律法の時代を完全に終わらせ、恵みの時代を始められました。受肉されたイエス・キリストは十字架にかけられましたが、罪と死を克服してサタンを破り、贖いの働きを成し遂げて栄光を得られたのであり、復活後の主イエスは人々にこの事実がはっきりと分かるようになさったのです。主イエスは新たな時代を開き、人類を旧約聖書の律法の時代から完全に脱却させ、恵みの時代にしっかりと定着させ、恵みの時代において神の導きと牧養と潤しを受けられるようになさいました。これにより、たとえイエスが復活して昇天なさり、もはや人と食事や生活を共にされることがなくなっても、人は今もイエスに祈り、御名を呼び、主の教えを守り、揺るがない信仰をもってイエスに付き従い、福音を広めることができるのです。特に、主イエスが復活なさり主に付き従った弟子たちの前に出現された後は、彼らの信仰は高まりました。主の福音を広め証しをすることに何の困難も危険も恐れず、不屈の忍耐力を持ち、福音を広めることに自らの全てを捧げ、主のために殉教さえしました。最終的には、イエスの福音は宇宙全体、世界中に広がり、主イエスに従う人の数は増え続け、やがてどの家庭の誰もが主の福音を耳にするまで万人に知れ渡ったのです。

   主イエスは死人の中から蘇られた後、人々の前に出現し、彼らと接触して語りかけ、聖書を解説して親しく交わり、食事を共にするといったことをなさいました。これらの御業のおかげで、主イエスに付き従った人々は主の人への気づかいと思いやりを感じ、イエスがまさしく神ご自身で、受肉されたキリストであると確証することができ、神に従う人々は恵みの時代にしっかりと定着したのです。しかも、イエスの贖いの働きはその時から広まり始め、やがて宇宙全体、世界中に及びました。従って、イエスの復活と人類への出現の背後に深い意味があるのは明白です。なぜならこれらの御業には神の惜しみない気づかいと思慮だけでなく、神の知恵と全能性もこめられているからです。

   親愛なる兄弟姉妹の皆さん、イエスの復活の意味を理解し、主の働きの中に神の私たち人類への気づかいと思いやりを改めて感じることができるようにしてくださった神の啓きと導きに感謝しましょう。神に感謝!


主イエスが復活後に人類の前に出現された意義の2つの側面

2019-09-24 21:40:51 | 聖書の言葉

   聖書にはこう記されています。「こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた」(ルカ24:36–43)。

   私はこの聖句を読むと、いつもペテロやヨハネたちをうらやましく思います。イエスはユダヤでお働きになっているあいだ、常に昼夜を問わず弟子たちと共におられ、復活後は以前同様に彼らに目をかけられ、彼らの前に出現なさり、聖書を解説し、教えを与えられました。ペテロたちは幸運にも主によって弟子に選ばれ、自らの耳で主イエスの教えを聞くことができました。実に祝福されていたのです。その後、私は神の御言葉を読み、主イエスが復活後に人の前に出現されたことの背後には実は主イエスの御心があったということ、この行いには神の全能性と知恵が更に込められていることが分かりました。復活後の主イエスの出現は本当に意義深かったことが真に分かるようになったのです。



   神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」

   私は神の御言葉を読んで、主イエスが復活後四十日間人の前に出現されたことには意味が二つあることがようやく分かりました。一つは、神が律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始め、人類を新しい時代へと導かれると人に告げるためであったことです。もう一つの意味は、神がそうなさったのは、人々が主イエスは受肉された神ご自身だと確めることで神への信仰を強められるようにするためです。

1.主イエスが復活し人の前に出現されたのは、人を新たな時代に導き、恵みの時代にしっかりと定着させるため

   主イエスは恵みの時代を開き、律法の時代を終えられました。主は「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)という道を示し、人々が神からの豊かな恵みを享受できるように、病人を癒し、悪霊を追い払い、足なえを歩かせ、盲人の目を治すなど多くの奇跡を行われました。しかし当時の人々は神の働きを知らず、イエスが神の受肉であることを真に理解していませんでした。主イエスが十字架につけられたとき、それは神が贖いの働きを終えられたことを意味していましたが、人々はそのことを全く知らなかったため、否定的で弱気になりました。そして主イエスの身分を疑い、神殿に戻って旧約聖書の律法を守り始める者もいました。

   このようにして、人々はなおも自らの罪のために律法によって死に定められる危険にさらされ、主イエスが人類を贖うために行なわれた働きは中途半端なままでした。主イエスは人の心の奥底を探り、人の必要と欠点を完全に理解されていました。それゆえ、主は復活後、先ず弟子たちの前に出現して語られ、彼らと実際に接触し、そのおかげで彼らには主が本当に死人の中から蘇り、人類を贖う働きを成し遂げて新たな時代を始められたことが分かったのです。その後、人類は律法を離れて新たな時代に入りました。それが恵みの時代です。

   主イエスの働きと言葉のお導きの下、人々は主の教え通りに実践し始め、十字架を負って主に付き従い、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)という主の教えを守りました。こうして彼らは天の国の福音を広め始め、万人が主イエスの御名を受け入れて主の救いを得ることができるように、主イエスの御名を証ししました。現在、主イエスの福音は全世界に広がっています。これは全てイエスが死人の中から蘇られた後に人の前にお姿を表された結果です。このことから、復活後の出現がどれほど意義深かったかが分かります。

2.主イエスが復活後に人々の前に出現されたおかげで、人は主が神ご自身の受肉だと断定し、主への信仰を強めることができた

  神の御言葉にはこうあります。

   「受肉した主イエスが業を行っていた間、イエスに付き従う者の殆どが、イエスの身分やその言葉を完全に認識できなかった。イエスが十字架にかけられた時、イエスに付き従っていた者たちの態度は、何らかの期待であった。イエスが十字架に釘で打ち付けられたときから墓に入れられた時まで、人々の主に対する態度は、落胆であった。この時、受肉したイエスが言われた言葉に関し、人々の心は疑念から否定へと移り変わり始めていた。そして主が墓から出て、ひとりずつ人々の前に現れた時、イエスを自らの目で見たり、イエスが復活したという知らせを聞いたりした人々の殆どが、否定から懐疑へと次第に変わっていった。主イエスがトマスにわき腹を手で触れさせた時、また復活した主イエスがパンを裂いて人々の前で食べた時、そしてその後人々の前で焼き魚を食べた時、そこで初めて人々は主イエスが受肉したキリストであるという事実を真に受け容れた。それは、人々の前に現れた、肉と血のある霊的存在が、その人々をひとり残らず夢から醒めさせたようであった、と言うことが出来るであろう。人々の前に立っている人の子は、永遠の過去から存在していた神であった。神には形も、肉と骨もあり、また長いこと人間と生きて食事をしていた。この時、人々は、イエスの存在は全くの真実であり、実に素晴らしいと感じた。また人々は大きな喜びと幸福にあふれ、同時に感極まった。イエスが再び現れたことにより、人々はイエスの謙遜を真に理解し、人間に対する近親さ、ひたむきな望みと愛情を感じることができた。この束の間の再会により、主イエスに会った人々は、自分が既にこの世を去ったかのように感じた。人々の心は、迷い、困惑し、恐れ、不安になり、思慕をつのらせ、愚鈍になっていたが、そうした人々の心は安息を得た。人々は、疑うことや落胆することを止めた。なぜなら、その時希望が生まれ、信じることのできるものが生まれたからである。人々の前に立っている人の子は、永遠に人々の味方となり、人々の堅固なやぐらとなり、常に存在する逃げ場となる。」

   神の御言葉は、復活後の主イエスの出現のもう一つの意味も明らかにしています。主イエスは人のもとで受肉し、三年半のあいだ働きを行われ、多くの人が主の救いを受け入れて主に付き従います。しかしほとんどの人は主イエスがキリストであり、神ご自身であることを真に理解していませんでした。そのため、主イエスが十字架につけられようとしていたとき、彼らは一連の出来事が起こるのを見て、「主イエスは本当に神なのか。もしキリストで神ご自身なら、どうしてローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑された挙句、十字架にかけられるのだ」と心に疑問を抱いたのです。

   特に、主イエスが十字架につけられているとき、彼らは主に全く失望し、主が神の受肉であることを否定し、主が表された御言葉を否定しました。逆に、イエスは普通の人のように死に、生き残るはずがないと信じたのです。主イエスは人々がその程度の信仰しか持たず、主を知らなかったことも、主が十字架につけられたためにさらに多くの人が弱気になって意気消沈することもご存知でした。そのため主イエスは死人の中から蘇られた後、弟子たちと接触して彼らに語りかけ、聖書を解説し、彼らと親しく交わり、食事を共にし、トマスにご自身の手と脇を触らせるといったことをなさいました。



   主イエスが復活後に語られた御言葉と行われた御業から、弟子たちはイエスが本当に復活されたと断定し、「この方こそ、以前我々と食事をし、同じ住処で生活を共にされたあの主だ。我々に説教し、養い、導いてくださったあの主であり、以前のように愛してくださるのだ」と悟り、「主は我々のことを気づかってくださり、我々のもとを離れられたのではなく、我々のすぐ側に一緒にいてくださっている」とも確信しました。主イエスは神ご自身の受肉であり、永遠なる御方、人の永遠の支え、人の強き塔であり避難所だったのです。

   主イエスは十字架につけられても、死後の鍵の番人であり、蘇る力を持っておられました。なぜなら神ご自身だったからです。以後、人々はもはや迷いも戸惑いもせず、もはや主イエスを疑わず、むしろ心の底からイエスを信じ頼ることができました。これは全て、主イエスが死人の中から蘇られた後に弟子たちの前に出現し、彼らと語られた結果です。

   主イエスの復活後の出現のこれら二つの意味から、私は主はそのような形で出現することで人々の心を目覚めさせ、そのおかげで私たちは神の配慮と愛を経験できるのだとやっと悟りました。このような配慮と愛は単なる伝説ではなく、事実なのです。また、このことから神が私たちを親類のようにみておられることも認識できます。神はいつも人と共におられ、私たちから離れられたことがありません。なぜなら、ご自身のものにするために私たちを創られたのであり、私たちが御言葉を聞いて神に従い、絶対的に崇拝し、神と心を一つにすることを望まれているからです。

   ですから、主イエスが肉となって働きを行い、御言葉を語られたときも、復活後に霊として人の前に出現されたときも、常に人類を思い、特にご自身に付き従う者たちを気づかわれました。なぜなら人には罪を克服する能力がなく、神の導きも真理の施し供給なしには、自らの堕落を脱して神の真の救いを得る術がないからです。私たちは誤解して、神が贖いの働きを終えた後に私たちを離れ、それ以降もう私たちに何の注意も向けられなかったと信じていますが、事実は、私たちの想像通りではないのです。

   主イエスは人類を贖う働きを成し遂げられましたが、人を離れられたわけではありません。主イエスは今も以前と同様に人と共におられ、私たちを気づかい、養い、導いてくださっています。主イエスはいざという時に私たちを助けて支えてくださり、どのように出現されても、いつも私たちと共におられます。それはまさに神の御言葉通りです。「主イエスは復活したが、イエスの心と業は、人間から去らなかった。イエスは人々の前に現れ、自身がどのような形で存在しようと、人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも人間と共にある。そして、あらゆる時、あらゆる場所で、人間に施し、牧養し、自身を見て、触れ、決して再び絶望しないようにする。また主イエスは、この世における人生では、孤独ではない、ということを理解するよう、人間に対して求めた。人間には、神の慈しみがあり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく、またイエスを罪のためのいけにえとして認める者は罪に縛られることがない。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

   実は、主イエスを信じる私たち一人ひとりにとって明白なのは、神への信仰の道において、いつ金や名声や富などの誘惑に遭遇しても、主は私たちを守ってくださり、誘惑を避けて克服することができるようにしてくださるということです。私たちがいつ挫折や失敗に遭遇しても、主は御言葉で導き、信仰と力を与え強くしてくださいます。私たちが生活の中で困難に遭遇しても、主は常にまさかの時の助けであり、道を開いてくださいます。私たちが試練で苦しんでも、主の御言葉が十分に照らして導いてくださるおかげで、私たちは神の御心を理解し、霊における平安と喜びを感じることができるのです。神が側にいて毎日を私たちと共にいて導いてくださるおかげで、真理を理解し、御心を理解できるようになると本当に実感できます。

   私は主の愛に深く感動し、なぜ主イエスが復活後四十日間、人の前にお姿を表わし、弟子たちの前で食事をし、聖書を語り、彼らと親しく交わり、弟子たちにいくつもの要求を告げるといったことをなさったかがよく分かるようになりました。主イエスが言われ、なされたことの一つひとつが大いなる配慮と思慮に満ち溢れており、主の業は全て非常に意義深いものだったのです。今私は、神の御言葉を読むことで、復活後の主イエスの出現をより深く理解しています。神に感謝します。


ソロモン王の知恵:「2つの花籠」から得た御啓示

2019-09-22 21:44:16 | 聖書の言葉

   ソロモン王の時代に人気のあった話があります。それは、こんな話です。ある日、ソロモン王は近隣の王国の使節から珍しい花が入った2つの花籠を受け取りました。これらの2つの籠の中の花は、その葉っぱも花びらも極めてよく似ていました。使節はソロモン王に「陛下、これら2つの籠の内、1つは本物の花で、他方は造花です。陛下のお知恵は世界中に知れ渡っており、我が国の全国民が陛下を尊敬しております。陛下、どうぞ、本物の花の入った籠と造花が入った籠を言い当ててください。それにより、我が国の国民は陛下の尽きることのないお知恵を間違いなく祝うことでしょう」と言いました。そう聞くやいなや、ソロモン王は従者に「これらの花籠を庭に運べ」と命じました。王が何をしようとしているかが分かる廷臣はいませんでした。しばらくして、ソロモン王は廷臣と使節を従え、花を愛でるために庭に出ていきました。庭には美しく咲き誇った花々が溢れており、甘い香りを放ち、たくさんの蜂が花から花へと飛び回り、蜜を集めていました。2つの花籠を見ると、ソロモン王は笑みを浮かべて、「あの籠の花は極めて美しいが蜂が寄っていかない。こちらの籠の花には蜂を引き寄せている。従って、本物の花だ」と言いました。廷臣と近隣の王国の使節は誰もが、感心して息を呑み、「あなた様は本当に賢い王様です!」と言いました。これは単純なお話ですが、ソロモン王の賢さを表しており、ここから、私達は霊的な意味も見出すことができます。いのちのある花だけが芳香を放ち、蜜を分泌し、蜂を集めることができ、その一方で、いのちのない花はいかに本物と似ていても、死んでいるため、芳香を放って蜂を引き寄せることも、蜂を引き寄せる蜜を分泌することもありません。



   ソロモン王が本物の花と造花を区別したこのお話を読み、私は、次のように考えずにはいられませんでした:今日、神様の再来を熱心に待ちわびる主イエスの信者は数多くいますが、聖書に記載されている主イエスの次の御言葉のために、欺かれることを恐れて神様の再来の福音を拒んでいます。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24:23-24)。実際、神様がこれらの御言葉を述べられた理由は、私達が偽のキリストと本物のキリストを区別できるようにするためであり、終わりの日には偽のキリストが出現するため、神様の再来の福音を私達が拒むように仕向けるためではありません。欺かれることの恐れから偽のキリストに対するガードを固めることを優先し、神様の御声を聞いたり、認識したりすることに私達が注意を払わないならば、私達はどうやって主の再来に出会うことができるでしょうか?たとえば、ペテロやサマリア人女性のことを例に取ってみましょう。彼らは、主イエスの御言葉を耳にし、彼が降臨した救世主であられることを認識しました。ヨハネの黙示録2章7節には、次のように記載されています:「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。⋯⋯」また、ローマ人への手紙の10章17節には次のように記載されています:「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」このため、私達は主イエスの再来の福音を耳にしたら、それが神様の再来であるかを見定められるよう、まずはそれを求め、調査し、主と再会する機会を逃さないようにするべきです。

   主の再来と出会うため、私達はまず、キリスト様とは何かを理解し、本物のキリスト様と偽のキリストを見定める方法を知らなければなりません。神様はこれについて、次のように仰っています。すなわち:「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。(『終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる』より)神様の御言葉から、神様が受肉したお方のみをキリストと呼ぶことが分かります。キリストは神様の霊を受肉したお方で、神様の御出現で、神様の御働きを実行するために肉を纏った神様御自身です。キリスト様は平凡で普通の人の外見でありながら、その本質は神聖で、その働きは神様の働きそのものです。では、私達はどのように本物のキリスト様を見定めることができるでしょうか?神様は次のように仰っています:「受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」「人間が自分を神と称しながらも、神性を示し、神自身の働きをし、あるいは神を表すことができないなら、それは間違いなく神ではない。というのは、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることがその人の内にはないからである。」神様の御言葉から、私達は本物のキリスト様を見定めるために、外見ではなく、その本質からつまり、その御働き、その御言葉、その御性情から、神様を主に見定めるべきであることが分かります。キリスト様は人に真理といのちを人にお与えになることができ、神様の義なる御性情と御働きの知恵を表現することができます。キリスト様は聖く、義なる神様御自身です。恵みの時代の主イエス様を例に取ってみましょう。イエス様は外見では普通の平凡な人と変わる所がありませんでしたが、多くの真理を表現され、人々に悔い改める方法を授けられました。御慈悲と慈しみ深い親切心によって占められる性情を表されたイエス様は、7度を70倍にするまで他者を許すことをお教えになり、病人を癒やされ、悪魔を祓われ、数多くの奇跡を起こされ、人々に律法に従わないように先導されたことにより、十字架にかけられ、全人類の罪を贖う御働きを完了されました。主イエス様の御言葉と御働きにより、議論の余地なく、キリスト様が真理であり、道であり、いのちであることを証明されました。今日、受肉し再来された主イエス様である全能の神様は、新しい時代である「神の国の時代」をもたらされました。神様は何百万という御言葉を表され、終わりの日の裁きの御働きを実行されました。人々が罪と懺悔の繰り返しの中で生きていく必要がもうないよう、そして、罪の拘束から最終的に解放され、神様により完全に救われ、完全にされるよう。神様はその義であり、聖なる性情を用いて人々を裁かれ、浄化されます。全能の神様の御言葉は、すべての謎を明らかにされ、神様の人類に対する御心、あらゆる人々に訪れる結末、神様が達成されようとしている御働きについて伝えてくださっているため、私達は真理を実践するためのより多くの方法を知ることができます。全能の神様の御言葉と御働きから、私達は、全能の神様が真理を具現化したものであることが分かります。その御働きは、キリスト様が真理であり、道であり、いのちであることを証明しています。これらは、偽のキリストには永遠に達成できないことです。

   それでは、私達はどのように偽のキリストを見定めることができるでしょうか?神様は次のように仰っています:「人間が自分を神と称しながらも、神性を示し、神自身の働きをし、あるいは神を表すことができないなら、それは間違いなく神ではない。というのは、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることがその人の内にはないからである。」「この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪霊を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。……もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。」「今日、神は恵みの時代を終わらせ、恵みの時代の実践をすべて捨て去るために来た。⋯⋯今日の神は、しるしも不思議も行なわず、癒やすことも悪霊を追い払うこともしない。イエスが来た時、その働きは神の一部を示すものであったが、今回の神は、この段階でするべき働きをするために来たのだ。神は同じ働きを繰り返さない。神は常に新たな神であり、絶対に古いものではない。あなたが今日見るものはすべて、実際の神の言葉と働きである。」

   神様の御言葉から、私達は、神様が常に新しく、決して古びない存在で、神様の御働きが常に前進していることを知ることができます。今日、終わりの日のキリスト様である全能の神様が新しい働きに着手されています。神様は御印や奇跡をご披露されたり、病人を癒やされたり、悪魔を祓われたりしませんが、真理を表現されることにより、人を裁き、清め、完全にされる御働きを実行され、人に新しい時代で実践する方法をお教えくださっています。そのため、印や奇跡を披露し、病人を癒やし、悪魔を祓うため、我こそがキリストだと主張する人物が現れれば、その人は完全に、イエスの御働きを偽造した悪霊です。神様がその御働きの1つの段階を完了されたとき、悪霊が神様の後に続き、神様が完了された御働きを模倣するでしょう。人が神様と悪霊を区別しなければ、騙されてしまいます。

   さらに、偽のキリストには真理がないため、真理を表すことができません。彼らは、神様がこれまで実行されてきた御働きを模倣し、いくつかのちょっとした奇跡と不思議を披露することにより人々を欺くことしかできませんが、5つのパンと2尾の魚を5000人の人に分け与えたり、死んだラザロを蘇らせたり、海の嵐を静めたりするなど、主イエスがお見せになった奇跡は決して模倣することができません。彼らは主の御働きを模倣した悪霊であり、万物を支配またはコントロールする権威も力もなく、これらのことは、彼らの本質により完全に見て取ることができます。それは、神様が次のように仰っているとおりです:「遅かれ早かれ、偽キリストはみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。」そのため、本物のキリストと偽のキリストを区別する原則を習得することができれば、欺かれることを心配することはなくなるでしょう。今日、全能の神が表現される真理により、私達は、あらゆるポジティブなこととネガティブなことを区別することができるようになっています。欺かれることを恐れ、終わりの日のキリストの御救いを求めたり、調査したり、受け入れたりしないでいれば、終わりの日の神様の御救いを受けることができなくなるでしょう。


悪意ある弾圧を経験して立ち上がる

2019-09-21 21:36:27 | 勝利者の証し

   わたしは貧しい遠くの山岳地方で生まれ、そこでわたしたちは何世代にもわたって香を焚き、仏を崇拝してきました。その地一帯には仏寺があり、すべての家族はよく香を焚きに行きました。誰も神を信じていませんでした。1995年、わたしの妻とわたしはその地方の別の地域にいて主イエスを信じていました。帰郷してからわたしたちは福音を分かち合い始め、福音を受け入れた人々の数は徐々に増え、100人を超えるまでになりました。ますます多くの人々が神を信じるようになり、地方政府は警戒しました。1997年のある日、警察はわたしを呼び出し、地方警察署に出頭させました。そこでは地方安全保障局長、国家安全保障局長、宗教局長、地方警察署長と何人かの警官がわたしを待っていました。地方安全保障局長は「なぜあなたは神を信じますか。あなたは誰と連絡を取っていますか。聖書はどこから来たのですか。どうして集会のために教会に行かないのですか」と聞きました。わたしは言いました。「人々は神によって創造され、日光、空気、水はすべて神によって創造されました。人々が神を信じ崇拝するのは天と地の法則です。憲法も市民には宗教の自由があることを明示しています。あなたがたはわたしたちが自由に神を信じることをなぜ許さないのですか」。宗教局長は「檻の中の小さな鳥のように宗教上の自由には限界があります。翼と足が縛られていないとしても、かごの中を動けるだけです」と言いました。彼がこうした誤りを話すのを聞き、わたしは憤慨し、怒って言いました。「それなら国家は国民に嘘をついています」。わたしがこう言うのを聞いて、彼らは彼らが間違っていて言うことがないのを知り、わたしをやっと家に帰しました。当時、世の終わりの全能者である神の働きを受け入れた1999年まで、中国共産党政府の信者に対する迫害の本質をわたしは気付いていませんでした。を読み、中国共産党政府のさらに残酷な迫害を経験することで、中国共産党は邪悪な霊であるサタンの具現化であることがはっきりと分かりました。それは聖書の中で言われているように神の敵でした。「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへび…」

   2002年6月28日の朝5時過ぎに扉を激しく叩く音が突然聞こえたとき、わたしは兄弟姉妹と集まりの準備をしていました。わたしたちはすぐに神の言葉の本を隠し、それから扉を開けました。扉が開くと出し抜けに数十人の警官がドッと押し寄せてきました。彼らは電気警棒と銃を手に持ち、わたしたちを力ずくで一ヶ所に集め、しゃがみ込ませ、頭上に手を置かせました。わたしたちを収容した後、村に入った盗賊のように彼らは各部屋に入り、あらゆるものを散乱させました。彼らはわたしたちの寝具と服を取って床の上に投げつけました。過去に組織犯罪や盗賊が略奪や窃盗を行う場面をテレビで見たことがありましたが、「人民警察」がテレビの凶悪な暴君や盗賊のように行動するだろうとは想像もしませんでした。その時、警官たちが神の言葉の本を発見するかもしれないとわたしは非常に恐れ、心配しました。わたしは心の中で絶えず祈り、わたしたちを見守り、保護してくださるよう神に頼みました。祈りの後、わたしは神の素晴らしい行いを見ました。彼らは家全体をくまなく捜し、私物を押収しましたが、神の言葉の本を見つけることはありませんでした。わたしはこれが神の全能性と保護であり、神がわたしたちと共にいてくださると知り、神へのわたしの信仰は増しました。その後、警官たちはわたしたちを警察署に連れて行き、夜にはわたしたちを拘置所に移してわたしたちを閉じ込めました。3日後、警察はわたしたち各々に300元の罰金を課し、それは解放されるためにはわたしたちが支払わなければならないものでした。人々から宗教の自由を奪った無礼で理由のない捕食者のような中国共産党政府の行いを見てわたしは深い憤りを感じ、神の言葉を思わずにはいられませんでした。「この地は数千年にわたり不浄の地となっており、耐えがたいほど汚れ、悲劇に溢れる。至る所に幽霊が彷徨い、欺し偽り、根拠の無い告発を行い、冷酷かつ残忍であり、この幽霊の街を踏みつけて屍の山を残した。腐った屍の悪臭が地を覆って充満しており、その地は堅く警護されている。誰が空の彼方の世界を見ることが出来ようか。…宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)中国のこのゴーストタウンでは、中国の支配政党は「宗教の自由と人権の自由」を促進する理念を掲げていますが、支配政党は遠慮なく神を迫害し、神に従う人々を逮捕し、迫害します。彼らは人々が神を信じ、正しいいのちの道を歩むことを許しません。彼らはすべての信者を一挙に排除しようと切望していました。わたしたちは法律を破ったり、悪事を働いたりしませんでした。わたしたちが行ったのは福音を分かち合って人々が神を知り、崇拝するようになり、闇と苦しみの生活から脱することができるようにすることでした。しかし、中国共産党の警察は売春、殺人、放火、不正、詐欺に関与している邪悪な人々に関心を持つのではなく、わたしたちを逮捕し、投獄し、わたしたちに罰金を科そうとしました。彼らはこれらの邪悪な人々が罰を逃れることを許しました。この事実から、中国共産党政府は神に抵抗し、人々の目をくらまし、人々を騙す悪魔の集団であるとわたしは理解できました。彼らは神の敵でした。

   同じ年の11月28日、数人の兄弟姉妹とわたしは宗派の指導者と福音を分かち合っていました。しかし、わたしたちはある邪悪な人によって通報され、12人ほどの警官がわたしたちの建物を取り囲み、扉を破って建物にはいってきました。彼らは銃と警棒を手に持っていて、叫びました。「動くな。手を上げろ」。警官たちはわたしたちの体を捜し、5000元以上のお金と貴重品を盗みました。彼らは頭の上に手を置き、壁を向いて座るよう命じました。そのとき2人の若いシスターたちは恐れ、わたしは彼女たちに言いました。「わたしたちは何も悪いことをしていません、恐れてはいけません」。わたしがこう言うとすぐ数人の警官がわたしに突進し、拳と足でわたしを投打し、床に打ちつけました。彼らは部屋という部屋をひっくり返し、めちゃくちゃにしました。彼らは村を略奪する盗賊より野蛮で残忍でした。部屋にいたひとりのシスターは出てきませんでしたが、邪悪な警官がひとり急いでやって来て彼女をぎゅっと掴んで引きずり出しました。別の邪悪な警官は、彼女がかなり美しいのを見て体中を触り、性的ないたずらを始めました。シスターはどうすることもできず声を出して泣き、幸いにも家主がちょうどやってきていたずらを止めさせ、シスターは無理強いを免れることができました。このとき、「人民警察は人々のためのものであり、何か問題があれば警察を呼びなさい」とか「警察は人々の後見人」などのスローガンはすべて嘘であることがはっきりとわかりました。こうした邪悪な警官たちは純粋に地元のごろつきと悪党の集団でした。その後、彼らはわたしたちを警察車両に閉じ込め、警察署に連れて行きました。彼らは2日間昼も夜も廊下でわたしたちに手錠をかけ、食べものや飲みものをよこしませんでした。わたしは心でただ絶えず祈り、このような環境で証を立てられるようわたしたちを導かれ、信仰と力を与えてくださるよう神に頼みました。その後、邪悪な警察は同胞を尋問し、答えに満足しないと、何人かの邪悪な警官が彼を地面に突き倒し、別の邪悪な警官が犬の糞を彼の口に詰め込みました。同胞の精神状態はひどく昂っていました。この悲惨な状況を見てわたしの心はひどく動揺し、怒りがわたしの中に燃え上がりました。突進してその警官たちにひどい仕打ちができればと思いましたが、神の言葉がわたしの心を導きました。「私と同様にこの不浄の地に住む兄弟姉妹に対して私は少し同情し、それゆえ赤い大きな竜に対する嫌悪を覚えるようになった。…私達は皆、竜の犠牲である。私が芯から竜を嫌悪し、竜を倒すのを待ちきれずにいるのは、そのためである。しかし、再考するとそれは不可能であり、神に困難をもたらすだけであろう。ゆえに、神の旨を行い神を愛する決意をする、という言葉に戻ろう。…神の旨を行うことで有意義で光に満ちた生涯を送ることだからである。…あなたがたもそうすることを望むであろうか。あなたがたはそのような決意をした者であろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「道 (2)」より)神の言葉によって私は冷静になり、神の言葉を理解しようとする中でわたしは神の心を理解しました。神はすでにこれらの邪悪な悪魔たちを極度に軽蔑しておられ、すぐに悪魔たちをすべて破壊することを望まれますが、世の終わりの神の働きを完了され、わたしたちを完全にされるために、神はサタンの努力を活用される必要があります。神はわたしたちがサタンを見分けられるようにサタンの迫害を使い、それによって、わたしたちは中国共産党政府のひどく不快な顔や悪魔的本質がよくわかります。それによってわたしたちは中国共産党政府を見捨て、関係を断ち、わたしたちの正直な心を神に完全に向けることができます。神の働きで良い結果を得るため、神は中国共産党の気違いじみた追求を常に耐えられています。それだから、創造の一部として救いを得るために少し苦しむべきであるというのはどうでしょうか。神はわたしを啓かれ、信仰と強さをお与えになりました。わたしはキリストに習い、固く決心し、神の心を行い、神を愛そうとします。このとき、サタンの迫害を通して神への証を立てるべく神がわたしたちをお導きになり、守ってくださることのみをわたしは願いました。面目なげにサタンが失敗するように、サタンの罠に反撃すべく神へのわたしたちの愛を使うことができることを望みました。

   3日目の夜、邪悪な警察はわたしたちを地方安全保障局に移し、夜通しわたしたちに尋問しました。副所長は初め、社交辞令を使ってわたしを釣ろうとしました。「率直に言いなさい。あなたには妻、子供、両親がおり、面倒を見る必要があります。さっさと率直に言えば、家に帰れますよ。どうですか」。これらの言葉を聞いた後、わたしは多少その気になり、思いました。「重要でないことを言えば、わたしは立ち去ることができ、ここにいて苦しまなくてすむだろう」。そのとき、わたしは神の言葉によって目覚めました。「しかし、わたしは次のことを明白にしなければならない。患難の時に、わたしに全く忠誠を示さなかった者たちにはもはや憐れみは与えない。わたしの憐れみが与えられるのはここまでだからだ。さらに、わたしは、かつてわたしを裏切った者は誰も好まず、ましてや友の利害を裏切る者たちと係ることを望まない。その人が誰であっても、これがわたしの性質である。」(『言葉は肉において現れる』の「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より)神の威厳ある言葉によって、それはあたかもわたしが返事をするのを待ちながらわたしを見下ろしている神をわたしが見るかのようでした。その結果、わたしはすぐにその思いを払拭し、厳格な義においてわたしは言いました。「ここに来て以来、去ろうとしたことはありません」。邪悪な警官は彼の計略がうまくいかないと知り、元の悪魔のような顔を晒し、そして副所長はわたしの頭の上に豚の排せつ物のバケツを持ち上げ、わたしに注ぎかけるようでした。わたしは彼に言いました。「これは自白を強要するためにあなたが使っている残酷で異常な罰です」。わたしがこう言うのを聞いたとき、彼は突然止め、わたしに豚の排せつ物を注がずにバケツを降ろしました。皮靴を履いている別の邪悪な警官は自分のかかとでわたしの足の親指を踏み、思い切りかかとをぐるぐると回しました。激しい痛みが体全体に伝わり、わたしは痛みで大声を上げずにはいられませんでした。衣服は汗でぐしょぐしょになり、激怒した邪悪な警官はわたしの親指の爪が裂けてはがれるまで踏みつけぐるぐると回し続けました。この時までに、わたしのつま先はすでに切断され、血まみれでした。極度の苦痛の中でわたしは神に叫び続け、神がわたしの心をお守りになり、わたしがサタンに屈服しないよう、わたしが神への証を立てられるよう願いました。悪魔の残酷さはこれ以上のものです。わたしは同胞が尋問から戻って来るのを見ましたが、彼はすでに苦しめられ瀕死でした。彼の全身は傷つき、打撲され、彼は死にかけているように見えました。邪悪な警察は彼が死ぬかもしれないと思い、しぶしぶ彼を解放しました。その後、警察はさらなる尋問のためにわたしの同胞とシスターをひとりずつ連れて市内の特別機動隊に連れて行きました。

   わたしたちが特別機動隊に到着したとき、邪悪な警察はわたしたちの服を無理やりすべて脱がせ、そして手錠をかけ、足かせを付けました。それから彼らはわたしたちに屈辱を与えようと、中庭の周りを3周スキップさせました。その後、彼らはわたしたちを別々に監房に入れました。監房に閉じ込められていたのはすべて殺人犯でした。彼らはことごとく悪魔や怪物のようでした。邪悪な警察は囚人たちにわたしを苦しめるよう命じましたが、神の保護のために、捕虜たちはわたしを虐めるどころか、本当にわたしの世話をしてくれました。4日の後、神を裏切り、兄弟姉妹を売るよう邪悪な警察はわたしを強いましたが、わたしは話そうとしませんでした。彼らは私ともう一人の同胞を連れ中庭に引きずっていき、わたしたちに手錠と足かせを付けました。黒い袋がわたしたちの頭に被せられ、中庭の中央にある木からわたしたちを吊り下げました。残虐行為の熱狂の中で、彼らは木のいたるところにアリを置きました。何千ものアリはわたしたちを噛みながら、ひっきりなしにわたしたちの体を這いまわりました。何千ものアリの拷問は心臓を貫く何千もの矢の拷問と似ていたので、生きるよりも死を魅力的に見せました。わたしは力を振り絞り、わたしの苦しみの中で神が意志と力をお与えになり、神を裏切ることにわたしが抵抗できるよう、わたしの心と霊をお守りくださるよう神に祈るだけでした。この時、神の言葉がわたしの心に現れました。「わたしの栄光が宇宙を満たし、すべての人々がわたしのために最後の苦難に遭う。あなた方にはわたしの旨が分かるだろうか。これがわたしの人に対する最後の要求である。つまり、わたしは全ての人々が赤い大きな竜の前で、力強く、明確なわたしの証しとなれることを望む。最後に彼らがわたしのために自らを捧げ、最後にもう一度わたしの要求を満たすことを望む。あなた方にはこれが本当にできるか。かつてのあなた方はわたしの心を満たすことができなかった。最後の時にこの型を破ることができるか。」(『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「三十四番目の言葉」より)神の言葉によってわたしの心は力で満たされました。わたしたちを救うために神は中国共産党政府によってあらゆる方法で追跡されました。神には枕も家と呼べる場所もありませんでした。今日わたしはキリストと共に苦しめます。これは神の愛であり、わたしのための神の高揚です。わたしが神に栄光を与えることができる限り、わたしは幸せであり死をためらわないでしょう。わたしは神の言葉にすがり、苦しみのあらゆる瞬間を乗り切りました。わたしたちは2日間昼も夜も木の上に吊り下げられました。3日目になると、わたしは本当にもう耐えられませんでした。季節は初冬で雨が降っていて、わたしが着ていたものは裏地のない衣服でした。わたしは裸足で木に吊り下げられ、食べものも飲みものもありませんでした。飢えと寒さの苦しみと耐え難い痛みにより、私は死にたくなりました。わたしができることは全力を尽くして祈ることでした。肉の弱さのために苦しみに対処できず、神を裏切ることを深く恐れました。苦しみのただ中で、わたしは恵みの時代から使徒ステパノを思い出しました。彼は主イエスの福音を広めていたので、群衆によって石打たれ殺されました。死ぬ前に彼の霊を受け入れていただけるよう彼は神に頼みました。それゆえ、わたしは神に祈りました。「ああ神よ、わたしの肉はあまりに弱く、今わたしは耐えられるよりも多くの痛みを受けました。わたしは神がわたしの霊を受け入れられることを望みます。神を裏切るよりもわたしは死にたいからです」。祈った後、最も予期しない奇跡が起こりました。わたしは幽体離脱を経験し、草地に連れて行かれました。青々とした緑の草があちらこちらにあり、牛と羊がまわりにいました。わたしの気持ちはとても悠々とし、神を高らかに賛えざるを得ませんでした。「全能者である神を高らかに賛美しなさい、天と地の万物は神を賛美し、神を賞賛しなさい、すべてが神を賞賛するでしょう。神の天使たちすべてを立ち上がらせ、神を賛美させなさい、天国のあらゆる人々に神を賛美させなさい。宇宙の広がりは神、全能者である神を賛美します。輝く星は神を賛美し、天と地と海は神を賛美します。それらはすべて神を賛美します。山と丘に全能者である神を賛美させ、波と大波に神を賛美させ、高きところの神、全能者である神を賛美させなさい。いと高きところの全能者である神を賛美しなさい、タンバリンと踊りで神を賛美し、神を高らかに賛美しなさい。全能者である神を楽器とトランペットの音で賛美し、シオンの聖なる人々に神を賛美させ、すべての人々に神、全能者である神を賛美させなさい。ああ全能者である神よ、神を高らかに賛美しなさい。雷の轟きは神を賛美し、神を高らかに賛美しなさい。壮大な空は全能者である神を賛美し、息あるものすべてに神を賛美させ、賛美の歌が地の果てを揺るがし、神を賛美しなさい」(「子羊に従い新しい歌を歌え」の「全能者である神を高らかに賛美しなさい」)わたしはこの比類のない喜びに完全に没頭し、自由の境界に住むうちに、木から吊されたことによる痛みと飢えと寒さ、そしてアリの噛み傷の痛みはすべて消えました。わたしが目を覚ましたとき、それはすでに三日目の夜でした。邪悪な警察はわたしを木から降ろしました。わたしは3日間吊り下げられて死んでいないだけでなく、霊に満たされていました。これは本当に神の万能の力と奇跡的な保護でした。わたしは心から感謝し、神を賛美しました。

   4日目に邪悪な警察は再度わたしを尋問し、兄弟姉妹を売るようわたしに強制しようとしました。警官たちはまた、わたしがカルトを信じていると認めさせようとし、わたしに神を裏切らせ、真の道を放棄させようとしました。神の啓きはわたしに神の言葉を考えさせました。「人間が試練を受けている時に弱くなったり、自分に否定的になったり、神の意志や自分の実践の道に明瞭性を欠くのは、普通のことである。しかしいずれにせよ、あなたは、ヨブのように、神の業を信じ、神を否定しないようにする必要がある。」(『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より)神の言葉は真理を実践し、神の証を立てる勇気をわたしに与えました。何があってもわたしは神に抵抗し、神を冒涜することができませんでした。それゆえ、わたしは正々堂々と自信を持って言いました。「わたしは万物を支配する唯一の真の全能者である神を信じます。わたしは邪悪なカルトを信じておらず、あなたがたは真理を歪めて、わたしに罪を着せようとしています」。ひとりの邪悪な警官がこれを聞くと激怒し、長い木製の椅子をつかんで狂ったようにわたしを叩き始め、殺そうとしました。わたしが血を吐き出すまでその警官はわたしを叩きました。わたしの体は麻痺し、床で失神しました。わたしが意識不明になったのを見て、警官たちは冷たい水をわたしにかぶせてわたしを起こし、わたしを殴打し続けました。この悪魔的で非人間的な暴行の間、わたしの胸と背中は完全にあざだらけで、体の内部がかなり傷を受けました。1週間後、尿は血で真っ赤で、右の腎臓はひどく損傷していました(今日でもまだ強い痛みがあります)。1ヵ月後、邪悪な警察は何の証拠も見つけられなかったので偽の資料を作り、わたしに署名するよう強いました。それから警察はわたしを市の拘置所に閉じ込めました。3ヵ月後、警察はわたしを「社会法の執行を破壊する」容疑で起訴し、1年間の労働改造の刑を宣告しました。強制労働収容所でわたしは非人間的な生活を送りました。わたしはいつも空腹で、毎日十数時間働かなければなりませんでした。わたしは刑務所警察に頻繁にいじめられ、侮辱されました。警官たちはわたしに電気警棒を使うか、小さな暗い部屋にわたしを閉じ込めました。神がわたしをお見守りになり保護されなければ、わたしは邪悪な警察によって苦しめられて死ぬことになったでしょう。2003年11月7日、刑は満了し、わたしは地上の地獄から解放されました。

   あの残酷な迫害を経験した後、中国共産党政府の他の発言の中でも「共産党は偉大で、輝かしく正しい」と「中国には宗教の自由がある」という宣言は、実際には公衆を欺き市民を惑わす悪意ある策略の表現そのものであるとわたしは最終的に理解しました。わたしはこの古い悪魔が心の底から大嫌いです。それは社交辞令を話し、極度に邪悪なことをします。世の終わりの神の働きを禁止し、中国を無神論的な場所にするため、遠慮なく信者を追いかけ、虐殺します。その残虐行為の程度はすでにその極みに達し、人々を憤慨させました。尋問の過程で残虐な人々によりどのようにわたしが絶え間なく残酷に拷問され、自白を強要され、むごく苦しめられたかを思い起こします。わたしは幾度も叩きのめされ、神の保護がなければ、わたしはこの残虐な人々に飲み込まれていたでしょう。わたしが極度に弱っていた時、全能者である神の言葉はわたしを絶えず励ましてくれました。「あなたがたは、与えられた祝福を受け入れたことがあるか。あなたがたは、自分に対して結ばれた約束を求めたことがあるか。あなたがたは、必ずや、わたしの光の導きの下、闇の力の拘束を打ち破るだろう。あなたがたは、絶対に、闇のただ中にあって、あなたがたを導く光を失いはしないだろう。あなたがたは、必ずや、すべての被造物の主人となる。あなたがたは、必ずや、サタンの前で勝利者となる。あなたがたは、必ずや、赤い大きな竜の国が滅びるとき、無数の者たちの中で立ち上がり、わたしの勝利を証しする。あなたがたは、必ずや、秦の国にあって、堅固で揺るぎないだろう。あなたがたの耐え忍んだ苦しみによって、あなたがたはわたしからの祝福を相続する。そして、必ずや、全宇宙においてわたしの栄光に輝くだろう。」(『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「十九番目の言葉」より)神の言葉はすがることのできる何かをわたしに与えてくれました。わたしが極度に苦しみ弱っている間、それは神の言葉の啓きと導きをわたしに享受させました。これは、この暗く長い時間を通してわたしが得ることのできた唯一の道でした。わたしは中国共産党政府によって何度も逮捕され、迫害され、わたしの肉は無慈悲な虐待と苦しみにあいましたが、過去に理解できなかった多くの真理をわたしは真に理解し、中国政府の反動的な不正の悪魔的本質をわたしははっきりと理解します。わたしはまた全能者である神のわたしへの真の愛を経験し、神の全能の知恵とすばらしい行いを味わいました。それは神を愛し、満足させるようわたしをかき立てます。今日、これまでと同じくわたしはやはり教会でわたしの本分を尽くします。わたしはいのちの正しい道で神に従い、真理を求め、意味あるいのちを生きようとします。


聖書のことばー「違った福音」をどう理解すべきか

2019-09-20 21:56:26 | 聖書の言葉

   聖書にはこう記されています。「あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである」(ガラテヤ人への手紙1:6-8)

   主を信じる私たちにとって、聖書のこれらの聖句はとてもなじみ深いはずです。特に近年、牧師や長老はしばしばこれらの聖句を詳しく説明し、主イエスの御名と道を守るよう私たちを戒め、また背教を犯して神様に呪われることがないように、他の説教に耳を傾けるのはおろか、他の人が宣べ伝える福音を受け入れてはならないと私たちに警告しています。何年ものあいだ主を信じてきた私はいつもこれらの聖句を堅く守り、牧師や長老の言うことに耳を傾けてきました。主はすでにお戻りになったと多くの人が証しするのを聞いたときさえ、私はあえて彼らの説教に耳を傾けず、その道を探し求めたり追究したりすることもありませんでした。「違った福音」に耳を傾けることで主を裏切ってしまうのが心配だったのです。しかし教会はそのときますます荒廃しつつあり、牧師と長老による集会や説教が私にいのちをもたらすこともなく、より多くの兄弟姉妹が世間の流行に従ったり富や名声を追い求めたりして、そのうえ私たちの集会をコネが生まれる商売の場所に変えてしまいました。私の霊はしおれ、聖書を読んでも霊感を覚えず、教会の集会に出席しても喜びを得られませんでした。自分の教会に頑固なまでにしがみつくことは、本当に神様の御心にかなっていたのでしょうか。私はそれについて何度も主に祈り、私を啓いて導き、実践の道をお示しくださるようお願いしました。



   ある日、慕道というもう何年も会っていない古い友人が、働きと説教を行なっていた別の土地から戻ってきました。そして私たちは、ガラテヤ人への手紙第1章6節から8節の認識について話し合いました。私はこのように言いました。「牧師や長老はこれらの聖句をしばしば僕らに詳しく説明して、現在終わりの日にいるとか、主イエスはもうじき我々のために戻ってこられるとか言っている。それに彼らは、この重大なときに異端や誤った道を宣べ伝えている人間が周りに数多くいるとか、我々は自分の教会にしがみつき、他の道を探し求めたり追究したりしてはならない、もしそうすれば違った福音に従い、神様を裏切ってしまうことになるからだ、とか言っている。僕も長年にわたってこの考えにしがみつき、主はすでにお戻りになっていると人々が証しするのを聞いたけれど、こうした見方に影響されていたせいであえてその道を探し求めることはしなかった。牧師や長老の言うことにずっとしがみついているわけだけど、それなら自分の霊がますます暗くなっていくような気がするのはどういうことだろう。僕はとても混乱していて、そうすることが神様の御心にかなっているかどうかわからない。とは言え、牧師や長老はまた自分の言葉を聖書から引用している。だからこの問題が本当にわからないんだ。君はどう思う」

   私が話すのを聞いたあと、慕道はこのように話しました。「牧師や長老が引用しているのは、パウロが聖書の中で述べている言葉だ。パウロの言ったことは恵みの時代においては間違っていなかったけれど、聖書の文脈から切り離されて引用され、見境なく用いられるなら、それらは僕らを誤った方向に導きかねない。実際、パウロの言ったことには背景がある。当時、主イエスの福音は野火のように広まっていて、ガラテヤに住む多くの人々が主の新しい働きを受け入れて教会を建てた。当時は律法の時代から恵みの時代へ移り変わる時期で、そのころのユダヤ人には福音を広める二つの集団があった。一つは律法の時代の古い働きを宣べ伝える集団で、ヤーウェの律法に従い、割礼を行ない、安息日を守り、神殿に行くといったことを人々に課していた。もう一つの集団(主にイエスの12人の弟子で構成されていた)は恵みの時代の新しい働きを宣べ伝え、主イエスを自分たちの救い主として受け入れ、主のお求めに従って行動し、告白して悔い改め、洗礼を受け、互いを愛し、寛容と忍耐を互いに示し合うといったことを人々に課していた。旧約聖書の律法にしがみついていたファリサイ人は、主イエスの弟子によって宣べ伝えられる福音は、自分たちの宣べ伝えることとまったく違っていると述べ、主イエスの道は旧約聖書から逸脱していると言った。だから彼らは主イエスの新しい働きを受け入れるのを拒み、しかも十字架の上における主の救いを受け入れた人を混乱させようとした。当時、パウロは自分の働きで忙しくなったのでガラテヤの教会を離れたが、旧約聖書の律法を宣べ伝える人たちがこの機に乗じてガラテヤの教会に乗り込み、そこの信者を混乱させた。結局、当時のガラテヤ人は識別力を持たなかったために主イエスの福音から離れ、律法を宣べ伝える福音に従い始めた。それを知ったパウロは、ガラテヤの教会にこのような内容の手紙を送った。『あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである』(ガラテヤ人への手紙1:6-8)。教会に手紙を送ることで、パウロはガラテヤ人に真の道へ戻るよう忠告したんだ。

   「パウロはこうも言っている。『ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか』(ガラテヤ人への手紙3:1-2)。この聖句から、パウロの言う『違った福音』は、律法の遵守を人々に求める福音のことだとはっきりわかる。そしてそれは、主イエスによる贖いの働きの福音を受け入れることでのみ救われるという、当時の、つまり恵みの時代の人々への戒めであり、現在の僕たちが他の説教を聞くために出かけたり、他の道を探し求めたり追究したりすることとは関係ないものだ。その上、パウロは恵みの時代に福音を宣べ伝えた使徒に過ぎず、預言者でも先見者でもなかった。彼が記したこの手紙は、当時のガラテヤの教会に存在していた問題だけが対象であって、ガラテヤ人を戒め励ますために書かれたものだ。パウロの戒めを取り上げてそれを終わりの日に丸ごと当てはめ、他の誰かが宣べ伝える道に耳を傾けたり、他の道を探し求めたり追究したりすることなどできないと考えるなら、僕らは何も考えずに規則に従っているだけじゃないか」

   慕道の言葉のおかげで、私は夢から覚めた心持ちがしました。「そうだ」私は考えました。「パウロの言ったことには背景があって、彼の言葉は恵みの時代におけるガラテヤの教会だけを対象にしていた。パウロは決して預言者ではなく、将来何が起きるかを予見することはできなかった。であれば、どうして二千年前にパウロが語った言葉をいま取り上げて、それにしがみつくことができるだろう。自分はどうしてこんなに愚かなんだろう」私はそう考えながら、いささか恥ずかしい思いでこう言いました。「君の言うとおりだ。僕はパウロが聖書で言ったこれらのことの背景を探し求めたこともなければ、よく調べたこともなかった。その代わりに牧師や長老の説明を鵜呑みにするだけで、自分の理解はまったく的外れだったんだ」

   慕道は続けて言いました。「そうしてはいけない。僕らはいま終わりの日にいるけれど、それは主がお戻りになる重大なときだ。主の到来にどう取り組むかは主の御言葉を基にする必要があって、他人の言うことを鵜呑みにするだけではいけない。さもなければ、主の到来をお迎えする機会が失われ、長年にわたる主への信仰が無駄に終わってしまうことになる。僕はここ何日かずっと考えているんだが、黙示録にはこう記されている。『わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて』(ヨハネの黙示録14:6)。ここでは、あらゆる国民と民族に宣べ伝えられる永遠の福音があると言われている。ならばそれは、終わりの日に誰かが来て僕らに福音を宣べ伝えるということなのだろうか」

   私は自分の頭脳が突然啓かれたように感じ、興奮した口調で慕道に言いました。「それを聞いて、『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである』というペテロの第一の手紙第1章5節の内容を思い出したよ。これは、主が終わりの日に戻ってこられ、僕らに主の救いを明らかになさることを言っているのか」

   慕道はしばらく考えてから言いました。「きっとそうだろう。しかもこの救いは、二千年前に主イエスの弟子が主の福音を宣べ伝えたときとたぶんまったく同じように、人を通じて僕らに宣べ伝えられる」

   「ほう、じゃあその場合、僕がずっと教会にしがみついて他の福音を一切受け入れなかったことは間違った実践の方法であり、そうすることで終わりの日における主の救いに門を閉ざしている可能性がかなり高いわけだ。では、僕らはいま何をすべきだろう」私は真剣に尋ねました。

   「終わりの日における主の出現と働きを探し求めに行くべきだと思う。誰かが終わりの日における主の救いを証しするのを聞いたら、急いでそれを探し求めて追究すべきだ。主の到来をお迎えすることについて、イエスは極めて明快にこうおっしゃっている。『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした』(マタイによる福音書25:6)。『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう』(ヨハネの黙示録3:20)。『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る』(ヨハネによる福音書10:27)。このことから、大いに注意し用心して神様の声に耳を傾けるべきだということがわかる。そして花婿が来たと誰かが証しするのを聞いたら、急いで花婿に会うべきなんだ」慕道は聖書をめくってそれらの聖句を私に示しました。

   私は読みながら明るい表情でうなずき、こう言いました。「本当に注意を払って神様の声に耳を傾けなければならない。積極的に探し求めて追究することだけが神様の御心にかなっているからだ。将来、誰かが僕に主の再来の福音を広めてくれたら、パウロが言ったこれらのことにしがみついたり、注意を払ったり、あるいはその道を追究したりしてはいけないんだ」まさにそのとき、黒い雲の隙間から太陽が輝き、私の心は舞い上がりました。