賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書の部屋-LINEサービス開始

2019-09-19 22:44:21 | 日記

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パリサイ人達のメシア預言との向き合い方からの学び

2019-09-18 13:13:39 | 聖書の言葉

   二千年前、イスラエルの人々は、メシアの到来を待ちわびていました。にも関わらず、メシアである主イエス様がいよいよ来られたというその時、パリサイ人達はメジアを十字架にかけ、その結果神様の罰を受けることになりました―イスラエルの崩壊です。このイスラエルの苦い失敗を通して、私たちも自身を顧みる必要があります。何世代にも亘って神様を信じてきたパリサイ人らはなぜ神様に反抗したのでしょうか。既に終わりの日は来ていて、主の再臨の預言は基本的に成就されています。主を歓迎するこの重要な時に、パリサイ人の歩みに倣うことのないようにするには、どうしたら良いでしょうか。

   聖書の預言にあるように、律法の時代の終わりに、イスラエルの人々はみなメシアが到来して自分達を救ってくれることを待ち望んでいた事が分かります。当時、「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり」(イザヤ書9:6)、更に、「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。」(ミカ書5:2)というメシア到来の預言を聞いたパリサイ人達は、これらの預言の文字通りの意味から、メシアがどのような方であるかを想像しました。彼らは、来るはずの方はメシアと呼ばれなければならないと考えていました。そのお方は支配するために来られるので、王宮に生まれ、英雄らしく威厳があり、ダビデのような偉大な戦士となる人で、イスラエルからローマ人を追い出し、ローマの圧力から人々を解放してくれるような人の筈だと考えました。

   けれども、預言の成就はパリサイ人が想像したようなものではありませんでした。主イエス様は来られましたが、王宮に生まれたのでもなく、メシアと呼ばれることもありませんでした。そのお方は飼い葉桶に生まれ、貧しい大工の家庭で育ちました。彼の外見は人々が想い描いたような威厳もなく並外れたものでもなく、ごく普通でした。彼はイスラエルがローマの支配をひるがえすよう導くことはせず、人々とともに歩み、悔い改めの道を説き、赦しと寛容を実践し、互いを自分と同じように愛することを教えたのです。自分達が想像していたようなメシアではなく、ごく普通の主イエス様を見たパリサイ人達は、自分達の観念や想像に固執し、彼がメシアの筈はないと結論付け、事ある毎に彼を罪に定めて反抗したのです。主イエス様は多くの奇跡を行って真理を表わし、多くの人々が彼をキリストと認識したにも関わらず、パリサイ人達は全く求めようとしませんでした。主イエス様の教えがどれほど奥深くても、どれほど多くの奇跡を行っても、彼らは頑なに主イエス様の働きを拒否し、イスラエルの人々を煽って主イエス様に反抗し罪に定めるよう仕向けました。その後、彼らはローマ政府と共謀し、遂には地上に来られたメシアである主イエス様を十字架にまでかけてしまいました。深い罪を犯し、神様の義なる性質を傷つけ、最終的に神様の罰の対象となりました。イスラエルの崩壊です。



   パリサイ人達の過ちを通して私たちも自らを顧みる必要があります。パリサイ人達はメシアに関する預言を自分達の観念と想像に基づいて扱い、結果的に待ち望んだメシアが実際に来られたにもかかわらず十字架にかけてしまいました。私たちはみな、聖書の預言は神様が後に成就される事柄であり、人間の理解を超えているということを知っています。それでは神様の御心に適うように理解するにはどのように預言と向き合えば良いのでしょうか。聖書は次のように言っています。「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。」(ペテロの第二の手紙1:19-21)また、「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」(コリント人への第二の手紙3:6)これらの聖句から、預言は全て神様からのものであり、私たちが勝手に言及できるものではないことが分かります。文字面だけの解釈をしたり、自分の観念を頼りに推測したり、意味を決めつけて解釈したりしてはなりません。預言は神様ご自身のご計画によってのみ成就されるからです。神様の働きは素晴らしく知恵に満ち、私たち人間に理解可能なものではないからです。もし私たちが預言を文字通りの意味に基づいて神様の働きを定義するならば、神様に反抗しがちになり、最終的に自分達の観念と想像に滅ぼされてしまいます。

   メシアの預言に対して、パリサイ人達とは異なる捉え方をした人々がいました。自分達が空想するメシアと異なるごく普通の外見を持つ主イエス様を見た彼らは、自分達の観念や想像に執着せず、主イエス様の言葉を聞くことに集中し、そのお方の言葉と働きを通して、遂にそのお方が来たるべきメシアであると認識したのです。かつてシモン・ペテロが言った通りです。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。」(ヨハネによる福音書6:68)ペテロはなぜこのような言葉を発して主をキリストと認識することができたのでしょうか。主のなされたことが人間の業を遥かに超えた事だと知り、主の語られたことが真理であると知り、主が神様の本質と「永遠のいのちの言葉」を持っていると知ったからです。もうひとつの例がサマリアの女です。女が主イエス様に初めて会った時、主イエス様は単なるユダヤ人に過ぎないと思いました。けれども主イエス様が、「あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない」(ヨハネによる福音書4:18)と言うのを聞いた時、その方が来たるべきメシアであると女は結論付け、その方を信じました。神様だけが人の心の奥底までも探り、心の一番奥深くにある秘密をもご存知だと知ったからです。主が癒やし、悪霊を追い出し、奇跡や不思議な業を行うのを見て、主が神様から出た者だと認識して従った人々も多くいました。主を信じて従った人々は、主の働きと言葉を通してその方がメシアであると知ったことが分かります。

   これは以前読んだことのある一節を私に思い起こさせます。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは『神は真理であり、道であり、いのちなのです』という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。」これらの言葉からよりはっきり分かるように、真の道を求める際、私たちは神様の言葉と働きに焦点をおくべきです。真理と神様の言葉を表わしている限り、その道は真の道だからです。

   兄弟姉妹の皆さん、終わりの日に主が再び来られることを私たちは知っています。昔から聖書の中に預言されています。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)また、ヨハネの黙示録には、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2-3参照)とあります。これらの預言から、主が戻られる時、言葉を語られるということが分かります。神様の羊たちは神様の言葉を聞き分けることができます。神様の言葉を聞いて、歓迎しようと出迎えることができる人々は神様の玉座の前に引き上げられます。今は終わりの時です。主の再臨の預言は基本的に成就され、多くの人々は、主が戻って来られたとネット上で公然と証ししています。主の再臨に関して、パリサイ人の過ちから学び、自分達の観念や想像を棄て、神様の言葉を求め、耳をかたむける賢いおとめのようにならなくてはいけません。主の再臨を歓迎するにはそれ以外にはありません。

 

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「三位一体」の神に対する最新の認識ができた


ペテロが天国の鍵を得た原因の探求

2019-09-17 23:14:28 | 聖書の言葉

聖書を読んで困惑する

   私は朝早く起きると、祈り、聖書のマタイによる福音書16章19節を開きました。主イエス様がペテロに語った内容が書かれている箇所です。「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。この句を読んで私は困惑し、思いました。「ペテロは大した働きもしていないし、ペテロが書いた書簡も大して有名でもない。それだけでなく、主イエス様が捕えられて裁判にかけられた時、ペテロは三度もイエス様を否定した。それなのになぜ主は天国の鍵を他の使徒達ではなくペテロにだけ与えたのだろう。」聖書をあちこち開いて調べましたが、結局解決に繋がるものはなく、そのまま仕事に出かけるしかありませんでした。

同僚の助言によって答えを見出す

   昼休み、私は依然として朝の疑問を引きずっていました。「神様は義なる方で、間違えたことはなさらないのに、なぜ主イエス様は天国の鍵をペテロに与えたのだろう。そこにどんな奥義が隠されているんだろう。」はっきり知りたいと思った私は、長年主を信じている同僚に聞いてみました。同僚は微笑んで言いました。「主がペテロに天国の鍵を与えられたのは、主がペテロを選ばれたから。ではなぜ主はペテロを選ばれたんだろうか。」 戸惑う私に友人は続けました。「主イエス様が弟子達に対して自分が誰かと聞いた時、ペテロが何て答えたかを覚えているかい。」私は答えました。「シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』。」(マタイによる福音書 16:16)同僚はうなずいて続けました。「その通り。イエス様の12弟子のうち、ペテロだけが聖霊の啓きを受け、主イエス様こそ預言されたメシアであり、キリストだと言った。主イエス様が、自分がいのちのパンであり、人は自分の肉を食し、血を飲むだけで永遠のいのちを得ると言われた時、多くの人が観念を抱き、そして主に従うことを止めた。だがペテロだけはこう言った。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。(ヨハネによる福音書 6:68-69)このふたつの出来事から、ペテロが主イエス様の言葉と働きを本当に理解していたことが分かる。ペテロは、主イエス様がキリストで永遠のいのちの道だったと確信していたんだ。だから、パリサイ人がどれほど主イエス様を裁き、非難し、攻撃しても、決して混乱することなく、周りの人達が主イエス様を捨てるかどうかに関係なく、誰にも強要されずに献身の姿勢を貫き、最後まで主に従ったんだ。主が甦られて天に昇られた後、ペテロは主のご命令通りに教会を牧会したんだ。ペテロは主の福音を広め、最終的に主のために逆さ十字架にかけられ、力強く美しい証しとなったんだ。このことから、ペテロが主を本当に理解しており、主に対して純粋な愛の心を持っていたことが分かる。そうでなければ、ペテロが生涯を通して主に従い、福音を伝えることは不可能だったし、特に、神様に対する究極の愛と、死に至るまでの従順を貫くことは不可能だった。



   わたしはうなずいてこう言いました。「あなたの言う通りよ。12弟子の中でペテロだけが主イエス様がキリストだと理解し、ペテロだけが主イエス様のために逆さ十字架にかかったのよね。それを見ても、ペテロが主に受け入れられ、認められるようなものを持ち合わせていたことが分かるわ。」

主イエスを愛し、主イエスに認められたペテロ

   同僚は続けました。「主イエス様は言われた。『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。」(マタイによる福音書 22:37-38)「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。」(ヨハネによる福音書 14:23-24)「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書 7:21)主イエス様の言葉から、主イエス様は私たちが心と思いの全てで主イエス様を愛し、その言葉によって実践し、主の道から離れないことを望まれていたことは明らかだ。ここに書かれているのは主イエス様が私たちに求めておられることで、私たちが主の栄光を受けて天の御国に入るための基準なんだ。ペテロはこのような主の言葉に従って追い求めていたんだ。神を愛することを目標としていて、神を愛する者になることを追い求めたんだ。主イエス様がゲッセマネの園で捕らえられた時、ペテロは駆け寄って主を守ろうとし、大祭司の手下の耳を切り落とした。ペテロのした事は軽はずみだったけれど、危険な状況の中でも進み出て主を守ろうとしたのは、彼が心から主を愛していたこと、主を守ろうとしたことの表われだ。ペテロは主を知らないと三度否定したが、悔い改めて自分自身を忌み嫌い、しかも自分の過ちの原因をしっかり考えた。ペテロは自分の命を主に差し出したいと思っていたが、現実的に神の前に命を差し出す純粋な愛を持ち合わせていなかった。まだ死の束縛の下にあり、命を危険にさらすことができなかった。だから、ペテロはその先さらに追い求めることを目標とし、主を愛して主に満足していただくことを残りの生涯で求め続けたんだ。ペテロは生涯を通して主に託された任務に忠実だった。主イエスが復活して天に帰られた時、ペテロはあちこちで福音を述べ伝え、群れを牧養した。主の言葉と主の御心の証人となり、どのように主の言葉を実践するかを教えたんだ。その働きの中で、ペテロは自分が理解した真理と純粋な神に対する理解によって兄弟姉妹を支え、どこにいても神をたたえ、神の証しとなり、兄弟姉妹を神様の前に導いたんだ。どれほどユダヤ教の指導者達に追われても、ローマ政府に迫害されても、苦しみは困難の中にあっても、ペテロは神様からの任務に忠実であり続け、神様が命ずることを忘れたことはなかった。ローマの暴君ネロがクリスチャンを迫害しようとした時、周囲の助けによってペテロはローマの街から逃げ出した。主イエス様がペテロに現れ、ご自身がペテロの為に再び十字架につけられると告げた。主の御心を理解したペテロは、ためらわずに引き返し、逆さ十字架にかけられるために自分の命を投げ出した。そうすることで、ペテロは神と神の究極の愛に対して死に至るまでの忠誠を証ししたんだ。ペテロは主を愛し、天の父の御心を行う人間であり、彼が求めたものは神の承認を得たんだ。だから主イエス様はペテロに天国への鍵を渡された。もし私たちが天の御国に入りたいのであれば、ペテロに倣い、主の愛を知り、天の父の御心を行うものにならなければいけないんだ。主が約束されたものを獲得するにはそれ以外にはないんだ。

   同僚の話を聞いて突然気づいた私は言いました。「そうか、ペテロは本当に神様を愛して従った人だったのね。主イエス様がペテロに天国への鍵を渡されるのも当然ね。ペテロの経験に比べたら私の信仰や私が主に差し出したものなんて、単に自分が天国に入るためのもの、自分が報われるためのものでしかなかったわ。主の御言葉を実践するとか、主の要求にこたえるなどと言うことを考えたことはなかったわ。主への働きの中でも、主の御心を兄弟姉妹達と語り合うことすらなかった。福音を伝える中で困難に出会えば、兄弟姉妹を支えることもできずに消極的で弱くなり、主に対する信頼を失っていたわ。今、こうしてペテロと自分を比較してやっと、自分が主を愛する人間でないことが分かったわ。ペテロの証は本当に私たちが倣うべきものだけど、それならペテロはどのように主を知り、愛することを追い求めたのかしら。」

ペテロはどのように主を知り、主を愛したか

   私がこう言うのを聞いて、同僚はよろこんでタブレットを取り出して言いました。「福音のサイトでペテロがどうやって主を知り主を愛することを求めたかを読んだことがあるよ。かなりはっきり書かれてた。一緒に読んでみようか:「ペテロは何年にもわたりイエスに従い、人々が持っていない多くのことをイエスの中に見た。… イエスの動きのすべてが生涯ペテロの手本になり、イエスの説教は特にペテロの心に刻まれた。彼はイエスに対して非常に思いやりがあり、忠実であり、決してイエスに不平不満を持たなかった。こういうわけで、彼はイエスが行くところどこでもその忠実な伴侶となった。ペテロはイエスの教え、イエスの穏やかな言葉、食べるもの、着るもの、日々の生活、旅を観察した。ペテロはあらゆる点でイエスのやり方に従った。彼は独善的ではなく、以前の古臭い事柄をすべて投げ捨て、言葉や行動においてイエスの例に従った。ペテロが天地万物は全能者の手の中にあることを感じたのはこのような時で、そのような理由から、彼は自分で選択はせず、イエスという存在のすべてを手本として吸収した。」「ペテロの一生」より「一定の経験を積んだのちに、ペテロはイエスの中に神の業を見、神の愛すべきことと神であるものを見た。そしてイエスの言葉は人が話すことのできないものだと知り、イエスの働きは人にはできないものだと知った。さらに、イエスの言葉と働きの中に、神の知恵と神性の働きが多く含まれていることもペテロは知った。ペテロはこの自身の経験の中で、自らを知るに至っただけでなく、イエスの行うことを見ることに焦点を当て、新しい事柄を数多く学んだ。つまり、イエスを通して神が行った働きの中に、実際の神が多く表現されており、イエスの言葉や行い、教会の牧養の仕方やその働き方が、普通の人とは異なっているということを学んだ。こうして、ペテロはイエスから学ぶべきことを数多く学び、イエスが十字架に架かる時までに、イエスに関してある程度の知識を得ていた。こうした知識によって、ペテロは生涯イエスに忠実に仕え、イエスのために逆十字の刑を受けたのだ。」「神を知る者だけが、神の証人となることができる」より



   これを聞いて私は同僚に言いました。「へえ、じゃあペテロは主イエス様に従う中で、いつも主の行いや振る舞いを観察していたのね。そうすることで、主イエス様の言葉や行動から、ペテロは主を知るようになったのね。」

   同僚は答えて言いました。「その通り。この二か所を読めば、ペテロが主を知りたいと思っていたことが分かるし、主イエス様とのやりとりの中で、ペテロがイエス様の言葉や行いを一つひとつ取り入れていたことが分かるんだ。主イエス様の中に、ペテロは実に多くの神性を見た。例えば、主イエス様が語った言葉は真実で、力と権威に満ちていて、人々の霊的必要を与えて下さる。イエス様のなされた奇跡や驚くべきことは神様の権威と全能性を現わしていて、人間ができることではない。主イエス様は憐れみによって罪人を救われ、全ての罪を赦され、人類に豊かな恵みを下さった―人間に対する愛と憐れみに満ちておられたんだ。ペテロもまた、主イエス様が七つの災いをもってパリサイ人をとがめ、非難したことを通して主イエス様が聖く義であり、人間の背きを許されないことを知ったんだ。ご自身の働きの中で、どれほど肉的な苦難を伴い、努力が必要でも、そしてたとえ命を犠牲にしなければならないとしても、主イエス様は自らの任務を全うする決意だった。ペテロは、キリストの本質が父なる神様の御心に従うことであることを知った。ペテロはイエス様の中の大いなる神性を知り、純粋で実践的な神様に対する理解を得たんだ。それだけでなく、ペテロは主イエス様の言葉を心に刻み、繰り返し思い巡らし、そこから主の御心を理解して神様の人間に対する要求が何かを追い求めたんだ。イエス様はペテロに三度次のように聞いた。「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。(ヨハネによる福音書 21:16)ペテロはしばしばこのことを熟考し、内省することによって自分の愛が単に天におられる神様に対するものであり、実際のキリストに対するものでないことを理解したんだ。それは真に神様を愛することではなかった、そして地上におられるキリストを愛する事が純粋に神様を愛することだと気づいたんだ。それ以後、ペテロは頻繁に祈り、どのように主を愛するかを追い求めたんだ。最後に彼は、神様に対する究極の愛と死に至るまでの従順に到達し、真に神様を愛する者となったんだ。ペテロはまた、主イエス様からの批判を受け入れることもでき、そこから真実を求めようとしたんだ。イエス様がはりつけにされると知ったペテロはイエス様のすることを妨げようとし、そのような事などあり得ないと言ったが、イエス様はペテロを強く非難して言われた。「サタンよ、引きさがれ」。(マタイによる福音書 16:23)イエス様の強い非難から、ペテロは主が人の熱意や優しさを嫌い、神様の御心を妨げるものはいかなるものでもサタンの行為であり、神様に非難されることを知った。そのことからペテロにとって、主の業、行動、説教、そして非難の言葉から主を理解することが大切であったことが分かる。だからペテロは主を真に理解し、主に対する純粋な愛を自身の中に強くしていったんだ。」

   同僚の話を聞いて、私は、神様が本当に人の心と思いを探られるのだと感じました。主イエス様は無意味にペテロを称賛し、天国への鍵を渡されたのではないのです。イエス様はペテロの人間性と力量に自分との繋がりを感じ、ペテロの真理と主に対する愛に自分との繋がりを感じたのです。ペテロが誰よりもご自身の任務と信頼に相応しいとイエス様は知っておられ、だからご自身の羊を飼うという責務をペテロに任せられたのです。振り返ってみると、私は主を三度否定したペテロに対する主の承認を理解できていませんでした。けれども今は、主が見られるのは人の本質であることが分かります。一方私はと言えば、ペテロの振る舞いの一部だけを見ていました。しかもそれは、ペテロが主に従い始めてから僅か3年ほどの時のことで、彼の信仰はそれほど成長していませんでした。生死の境目では、肉の弱さが出ても当然です。誰かの小さな過ちに付け込んで私が非難することなどできないはずです。もしそれが私自身であったならば、イエス様が連れ去られた時に逃げていたでしょう。それでも私はペテロを裁いて過小評価していたのです。あまりに傲慢で、愚かで、無知でした。同僚からの話を聞いて、ペテロは神様に喜びをもたらしたこと、私たちもペテロに倣うべきであることを知りました。私は自分の人生において、主の御言葉を実践し、主への働きと奉仕に全力を尽くし、あらゆることにおいて主を知り、愛することを求め、主の御心を全うする者となりたいです。そうして初めて、私は神様に承認していただくことができ、天の御国へ入る機会が与えられるのです。

   このようなことを理解した私は、同僚に言いました。「主の導きと、今日のこのような会話に感謝します。主イエス様がペテロに天国への鍵を与えられたことが、今理解できました。今日の話には真に神様の奥義があります。どう求めればよいか、私も分かりました。主の導きに感謝します!アーメン!」

   同僚も笑顔で言いました。「主に感謝します!アーメン。」


人間の人生における6つの節目-独立:第3の節目

2019-09-16 23:55:19 | 聖書の奥義を開く

   ある者が少年期と思春期を経過し、当然の結果として徐々に成熟した後の段階は、青年期と訣別し、両親を離れ、独立した個人として将来の道へと向かうことである。この時点において、人間は成人が直面しなければならない人々、出来事、物事、そして自分の運命の鎖の接合部のひとつひとつと直面する必要がある。これが、人間が経験しなければならない第3の節目である。


1.人間は独立後に創造主による統治を経験するようになる

   人間の出生と成長が、人間の運命の基礎を築くための人生の旅路の「準備期間」であるとすると、人間の独立は、その者の人生の運命における幕開けの独白である。ある者の出生と成長がその者の人生の運命のために蓄積された富であるとすると、その者の独立は、その富を消費ないし追加し始める時である。ある者がその両親を離れて独立する時、その者が直面する社会の状況、その者が得る職業や経歴は、共に運命により定められ、その者の両親とは無関係である。大学で有利な学部を選択し、卒業後は満足できる職に就いて、人生の旅路の第一歩で成功を収める者もいる。様々な技能を学んで身に付けたが、自分に適した職や役職を得られず、ましてや経歴を積むなど問題外で、人生の旅路に就いてすぐに、何をしても挫折感を味わい、様々な問題に悩まされ、先行きが暗く、人生が不確かな者もいる。熱心に勉強に励んでも、高等教育を受ける機会をあと少しの所で逃してしまい、その後の成功運は失われたように思われ、人生の旅路における初心の志が消沈する者もいる。先行きが順調か困難かが分からなくなった時[d]、そこで始めて、人間の終着点は実に様々だと実感し、生活に希望と恐れを抱く。それほど優れた教育を受けていないにもかかわらず、著書を出版し、ある程度の名声を得る者や、ほぼ無学でありつつ事業で生活できるだけの金額を稼ぐ者もいる…。自分が選ぶ職業や、生計を立てる手段などについて、その選択に成功するか失敗するかを、人間は制御できるであろうか。人間が望み、決定した通りになるだろうか。大部分の者は、労働時間を減らし、収入を増やしたい、日照りや雨の中で骨折って労働したくない、身なりを良くしたい、目立ちたい、他人よりも優れた存在になりたい、家の名を上げたいと思う。人間の願望は極めて完璧であるが、人生の旅路の一歩を踏み出した時、人間の宿命がどれほど不完全であるかを認識するようになり、また自分の将来に大胆な計画を立て、大それた夢を抱くことが出来ても、それを叶える能力や力を持つ者や自分の将来を制御する立場にある者はいないという事実を、本当の意味で始めて理解する。自分の夢と直面する現実には常に差があり、物事が自分の思い通りになることは決して無い。そうした現実に直面するので、人間は決して満足することが無い。自分の暮らし向きや将来のために、考えられ得る限りの手を尽くし、大いに努力し、大いに犠牲を払って自らの運命を変えようとする人々もいる。しかし、自らの多大な努力により自分の夢や願望を叶えられたとしても、結局のところ自分の運命は変えられず、いかに根気強く努力したとしても、宿命により決められた物事は超越出来ない。能力や知能指数、意志の力の差異に関係なく、人間は運命において皆平等であり、偉大か取るに足りない人間か、背が高いか低いか、高貴か下賤かによる差別は無い。ある者が追究する職業、ある者の生業、ある者が生涯にわたって蓄える富は、その者の両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められている。


2.両親を離れ、人生の舞台で真面目に自分の役割を果たすこと

   ある者が十分に成長した時、その者は親元を離れて独立することが出来るようになるが、この者が真に自分の役割を担い、人生における使命の曖昧さが無くなり次第に明瞭となるのはこの時である。名目上、この者は両親と密接に繋がっているが、その者の人生における使命と、果たすべき役割はその者の父母には無関係であるので、実際には、この密接な繋がりは、その者が独立してゆくに従って次第に消えてゆく。生物学的な面から見ると、人間は無意識に両親に依存せずにはいられないが、客観的に言うと、成人後、人間は自分の両親とは完全に分離した生活を送り、独自に決めた役割を果たす。子に対する両親の責任は、出生と子育てのほか、単に子に正式な成育環境を与えることである。なぜなら、創造主の予定を除き、人間の運命に関係する物事は無いからである。ある者の将来がどのようになるかを制御出来る者はいない。その者の将来は遙か以前に定められ、その者の両親でさえも変えられない。運命に関しては、人間は皆独立しており、各人には独自の運命がある。したがって、ある者の両親がその者の運命を阻むことも、その者が人生で担う役割に何らかの影響を与える事も出来ない。その者が生まれる家庭や、その者の成育環境は、その者の人生における使命を果たすための前提条件でしか無いと言えるであろう。そうした物事は、何らかの形でその者の人生における運命を決めたり、どのような宿命の中でその者が使命を果たすかを決めたりすることは無い。したがって、ある者の人生における使命遂行を、その者の両親が助けることも、その者の人生で担う役割を、その者の親類が助けることも出来ない。その者の使命遂行方法や、どのような生活環境で役割を遂行するかは、その者の人生の運命のみにより決定される。つまり、創造主により予め定められたその者の使命に、その他の客観的条件が影響を与えることは無い。人間はみな、自分に特定の成育環境で成人に達し、段階的に自分自身の人生の道を歩み始め、創造主が各人のために計画した使命を果たし、自然と無意識のうちに人類の大海原へと入り、その生涯における役割を担い、そこで創造主の定めと統治のために、被造物として自分の責任を全うする。


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人間の人生における6つの節目-成長:第2の節目

2019-09-15 23:05:56 | 聖書の奥義を開く

   人間は、生まれた家庭により異なる様々な環境で育ち、自分の両親から様々な教えを受ける。これにより、ある者が成長して大人になるまでの条件が決定され、成長[b]は個人の人生における第2の重要な節目となる。この節目においても、人間には選択の余地が無いことは言うまでも無い。この節目もまた、事前に定められた既定のものである。

1.人間の成長時の条件は創造主により決定される。

   人間は、自分が成長する際に啓発や影響を受ける人物や要素を選択出来ない。人間は、どのような知識や技能を身に付けるか、何を習慣とするかを、選択出来ない。人間は、誰が自分の両親や親戚となるか、自分がどのような環境で成長するかに干渉する余地は一切無く、他の人々との関係、出来事、周囲の物事、またそうした物事が自分の発達にどのような影響を及ぼすかは、すべて自分で制御出来る範囲外にある。それでは、こうした事柄は誰が決めるのであろうか。こうした事柄を事前に決めるのは誰だろうか。人間には、こうした事柄を選択することも、自分で決めることもできず、また明らかに自然と決まるものでも無いので、こうした事柄の形成は創造主の掌中にあることは言うまでも無い。創造主は、各人の出生する具体的な状況を予め定めるのと同様に、各人が成長する具体的な状況も予め定めることは言うまでも無い。ある者の出生により、その者の周囲の人々や出来事、物事が変化する場合、必然的にその者の成長や発達もまた、それらの人々や出来事、物事に影響を与える。たとえば、貧しい家庭に生まれるが、裕福な環境で成長する人々がいる一方で、裕福な家庭に生まれるが、その家庭の財産が減ってゆき、貧しい環境で育つ人々もいる。出生が一定の法則により管理されている者はおらず、必然的な一定の状況下で成長する者もいない。こうした物事は人間が想像したり制御したり出来るものでは無く、人間の運命の結果であり、運命により決定されるものである。無論、根本的にそうした物事は、創造主によりその者の運命に予定されている。その者の運命の創造主による統治と計画により決定されている。



2.人間の成長時の様々な条件により、様々な役割が生まれる。

   ある者の出生の状況により、その者が成長する環境や状況の基本的な水準が決定され、その者が成長する状況は、その者の出生の状況の結果でもある。その者は、この期間に言語を学び始め、その者の心は新しい物事に数多く遭遇してそれを吸収するようになり、その過程においてその者は継続的に成長する。その者が聞く事柄、見るもの、心で感じる物事は、その者の内部の世界を次第に豊かにし、活性化させる。その者が遭遇する人々、出来事、物事、その者が学ぶ常識、知識、技能、その者が影響され、植え付けられ、教えられる考え方の全てが、その者の人生の運命に影響を与える。ある者が成長する時に学ぶ言語とその者の考え方は、幼年期を過ごす環境と不可分であり、その環境は両親や兄弟姉妹その他の人々、出来事、その者の周囲にある物事で構成されている。したがって、ある者の発達は、その者の成長時の環境により決まり、また成長時に遭遇する人々、出来事、物事により異なる。その者の成育時の条件は遠い過去に定められているため、その過程における生活環境も必然的に定められている。それは、その者が好みで選んで決めたものではなく、創造主の計画にしたがい、創造主の入念な采配と、創造主によるその者の人生の運命の統治により決定される。したがって、誰であれその者が成育時に出会う人々や遭遇する物事は、すべて必然的に創造主の采配と計画に関連している。人間はそうした複雑な相互関係を予測することも、制御することも、推測することも出来ない。ある者の成育環境には様々な物事や様々な人々が関連し、そうした広大な網の目のように広がる関連性を用意したり、指揮したりすることが出来る者はいない。創造主を除き、いかなる人間や物事も、様々な人々、出来事、物事の発生、存在、消滅を制御することが出来ず、ある者の発育を創造主により定められた通りに形成し、人の育成環境を形成し、創造主による経営の働きに必要とされる様々な役割を造り出して人間がその使命を完遂するための堅牢な基盤を固めるのは、極めて広大な網の目のような関連性である。


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