賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

人間の人生における6つの節目ー出生:第1の節目

2019-09-14 20:54:37 | 聖書の奥義を開く

   ある者が生まれた時、どのような家庭に生まれるか、性別、容姿、出生時期などが、人間の人生における第1の節目の内容である。

   第1の節目のこうした部分に関して選択出来る者はいない。それらの部分は、創造主により遙か以前に定められたものである。こうした部分は外的環境の影響を一切受けず、創造主により予め定められたこれらの事実は、人的要因によって変わることが無い。ある者の出生は、創造主が定めた運命の第1段階を、創造主が既に完了したことを意味する。創造主は遙か以前にこうした詳細を全て定めているので、それらを変える力を持つ者はいない。その者の出生後の運命とは関係なく、その者の出生の条件は予め定められたものであり、定められた通りであり続ける。それらの条件は、その者の人生の運命や、その人生の創造主による統治に影響を与えることは、一切無い。

 

 

1.新たないのちは創造主の計画から生まれる

   第1の節目の詳細すなわち、ある者の出生地、家族、性別、容姿、出生期日のうち、人間が選択出来るものはあるだろうか。ある者の出生は、明らかに受動的な事である。その者は、自分の意志とは関係なく、ある時、ある場所で、ある家庭に、ある容姿で生まれ、ある家庭の一員となり、ある家系を継ぐ者となる。第1の節目において、人間には選択の余地が無く、創造主の計画に従って決定された環境で、特定の家庭に、特定の性別と容姿で、特定の時期に生まれるが、このことは、その者のその後の人生と密接な繋がりがある。この重要な節目に、人間は何が出来るだろうか。先述の通り、そうした出生の詳細に関して、人間には選択の余地が一切無い。創造主による予定と導きが無ければ、この世に新しく生まれるいのちは、どこへ行き、どこに留まるかを知らず、全く無関係で、どこに属する事もなく、自分の家も無いであろう。しかし、創造主の周到な采配のため、新たないのちは、留まる場所、両親、そのいのちの属する場所、親戚が揃った状態で、人生の旅路に就く。この過程全体を通して、新たないのちの誕生は創造主の計画により決定され、そのいのちが持つあらゆる物事は、創造主によって新たないのちに与えられる。影も形も無い浮遊物体の状態から、次第に血と肉を持ち、目に見える、神の被造物である有形の人間となってゆく。その人間は考え、呼吸し、寒暖を感じ、物質世界での日常活動に参加可能であり、造られた人間が人生で体験する必要のあること全てを体験する。ある者の出生に関する創造主による予定は、生存に必要な物事の全てを、創造主がその者に対し与えることを意味する。同様に、その者が生まれるということは、生存に必要な物事の全てを、創造主からその者が授かること、そしてその時点からは、別の形態で、創造主の備えのもとに、創造主の支配の下で、その者が生きるということを意味する。

2.人間が個々に異なる状況下に生まれる理由

   人々は、もし自分が生まれ変わったならば、名家に生まれる、あるいは女性の場合は、白雪姫のような容姿で皆に愛されること、男性の場合は、全世界を意のままにし、何ひとつ不自由のない、白雪姫に登場する王子のようになる、などと想像することが往々にしてある。自分の出生について多々幻想している人は多く、彼らの多くは自分の出生に大いに不満を抱いている。自分の家族や容姿、性別、さらには出生時期までも不満なのである。しかし人々は、自分が特定の家族に生まれた理由や、なぜ自分がそのような容姿を持っているかを全く理解していない。そうした人々は、出生地や容姿の如何を問わず、創造主による経営のもとで、自分が様々な役割を担い、様々な使命を果たさねばならず、その旨は決して変わらないということを知らない。創造主の観点から見ると、人間の出生地、性別、肉体的な外観は、全て一時的なものである。こうした事は、神による全人類の管理の各段階における一連のささいなもの、僅かな象徴である。また、ある者の真の終着点と終わりの時は、どの段階においてもその者の出生により決定されていないが、それぞれの人生において全うする使命や、創造主の経営(救いの)計画が完了した時点における、その者に対する創造主の裁きにより決定される。

   あらゆる結果には原因がある、結果に原因が無いことは無い、と言われている。したがって、ある者の出生は、必然的にその者のその時点における人生や前世と結びついている。ある者の死がその人生の終わりであるとすれば、その者の出生は新たな周期の始まりである。従前の周期がその者の前世であるとすれば、新たな周期は必然的にその時点における人生である。ある者の出生は、その者の前世と、その時点における人生と関連しているため、その者の出生に関連する場所、家庭、性別、容姿その他の要素は、全てそれらに関連している。つまり、その者の出生は、その者の前世に影響されるだけでなく、その時点の人生の宿命によっても決定される。このことにより、人間が生まれる様々な環境が説明される。貧しい家庭に生まれる者もいれば、裕福な家庭に生まれる者もいる。一般的な家庭に生まれる者もいれば、名家に生まれる者もいる。南部地域で生まれる者もいれば、北部地域で生まれる者もいる。砂漠で生まれる者もいれば、緑の生い茂る場所で生まれる者もいる。喝采、歓喜、祝賀を伴って生まれる者もいれば、悲哀、災難、苦悩を伴って生まれる者もいる。生まれてから宝のように扱われる者もいれば、雑草のように見捨てられる者もいる。端正な容姿で生まれる者もいれば、奇抜な容姿で生まれる者もいる。愛らしい外観で生まれる者もいれば、醜い外観で生まれる者もいる。深夜に生まれる者もいれば、真昼の陽光の中で生まれる者もいる。様々な人間の出生は、すべてその人間のために創造主により準備された運命により決定される。その者の現在における人生の運命、その者が果たす役割、遂行する使命は、その者の出生により決まる。こうした物事は、すべて創造主による統治の対象となり、創造主により予め定められたものである。そうした定められた場所から逃れられる者、その者の出生時の状況を変更出来る者、自分自身の運命を選択出来る者は、存在しない。

 

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いのちの豊かさ

2019-09-13 23:13:56 | 勝利者の証し

   全能者である神の終わりの日の働きを受け入れてからの年月は、赤い大きな竜の抑圧の下で、妻と私は共にこれを経験してきました。この期間中、私は信仰が弱くなったり、辛くなったり、涙を流したりもしましたが、この抑圧を経験したことでたくさんのことを学んできました。この辛い経験は、私に赤い大きな竜の反動主義的な邪悪な本性と醜い顔をはっきりと見せただけではなく、私自身の堕落した本質も認識させました。さらに、これにより、私は神の全能性と知恵も経験することができました。赤い大きな竜を引き立て役として使うことにより、神の実際の素晴らしさを真に経験し、認識しました。これにより、神に従っていくことに対する私の確信が一層強固なものになりました。

   神の終わりの日の働きを受け入れた後、神からの引き上げと祝福により、妻と私は自宅に仲間を迎え入れることにより本分を尽くしてきました。当時、私達とともに毎日数名の兄弟姉妹が暮らしており、そのメンバーは頻繁に入れ替わりました。そして、私達は、神の信者として地域では比較的有名でした。2003年の冬、赤い大きな竜の抑圧はより厳しくなってきました。ある日、私達のリーダーが次のように言いました。「警察があなた方に目を光らせています。あなた方はここにいてはなりません。荷物をまとめてここを出て、本分を尽くすべきです。」この突然の采配に直面し、私はショックを受けました。そして、次のように考えました。この瓦屋根の家は、私が一生懸命に働いて建てた家で、まだ1年もここに住んでいない。こんな風にこの家を出ていきたくない!あぁ、神よ。もう数年ここに住まわせてください。そしたら出ていきます。別の場所で暮らすのは、自宅で暮らすほど便利でも快適でもありません。しかし、赤い大きな竜の抑圧について思いを馳せた瞬間、この家を売却したら、本分を尽くすためにここを離れることを決意しました。私達の新築の家を見て回ると、悲しみと胸の疼きが押し寄せました。この家から離れなければならないのは本当に耐えられないことでした。この時点で家を売らなければならないのはとても不運だと感じました。肉の損得に頭が一杯で、決断しかねていた時、神の言葉(『言葉は肉において現れる』の「モアブの子孫を救うことの重要性」より)神の言葉は両刃の剣のように私の心臓の中心を貫きました。私は信じられないほど恥ずかしさを感じました。その通りでした!神の要件を満たすには、アブラハムは愛する者と別れ、一人息子を燔祭で神に捧げるという大きな痛みに進んで耐えました。サタンと神が賭けをした時、ヨブは財産と10人の子供を全て失っても、ヤーウェを讃え、賛美することができました。最期の時でさえ、友人や家族に見捨てられ、病に侵されるという試練に苦しむ中でも、自身の誕生日を呪い、神のせいにすることはありませんでした。彼は揺るぐことなく、断固とした神の証を立て、サタンは屈辱的な完敗を喫しました。また、いろいろな年齢の聖徒と預言者もおり、神の心を実行するため、若さや結婚を犠牲にした人もいれば、家族や親族、財産を諦めた人もいました。さらには、神の働きのために自らの命を犠牲にし、血を流した人さえいました。…しかし、私と言えばどうでしょう。何世代もの聖徒が経験したことのないような貴重な救いの恵みや、神から授けられたいのちに対する豊かな言葉を受けながら、神のために何を犠牲にしたというのでしょうか。私は神に何を提供してきたでしょう。教会は、赤い大きな竜の抑圧と追及のため、彼らの掌中に落ち、残酷な迫害に苦しまないよう、家を離れるよう命じました。これは、神の私達に対する偉大なる愛であり保護でした。それにもかかわらず、私は善悪の区別もつかず、神の真摯な意図にも無関心でした。私は自分の安全のことすら考えておらず、ひたすらに、瓦屋根の新築の家への憧れと肉の喜びについて考えていただけでした。私は、神の采配に従おうとしていませんでした。私は欲にまみれ、いのちよりも、金銭に目がくらんでいました!今日、私は、自分の安全のためであっても、自分の家を離れたくありませんでした。神への捧げ物として私の個人的な関心事に背を向けなければならないならば、神の働きのために私のいのちを犠牲にしたり、血を流したりしなければならないなら、自分の命と同じくらい金銭を愛する、心が狭く、自己中心的で卑しい私のような人間が、どうして神のためにこの犠牲を進んで払うことができるだろうか。その地点に到達するだいぶ前に逃げ出すのではないだろうか。私は、「私はペテロの足跡を辿り、神を愛する第一人者になる心づもりがあります。」「私は自分自身の個人的な利益や損得を考えずに、何でも犠牲し、何でも使い果たすことができます。」「私は神に満足していただきたいだけです。」などを偉そうによく話していた自分自身のことを思いました。しかし、現実の状況を目の当たりにし、自分の中のいかなる部分も、神に意識を集中していませんでした。私は自分自身に直接関係する利益のことのみを考え、肉の喜びのために、実に、神に交渉しようとしていたのです。そして、私は自問しました。「これこそが、神にお返ししなければならない愛ではないのか。」神は次のように言いました。「もしあなたが愛しているなら、あなたは喜んで犠牲にし、困難に耐え、わたしに味方するだろう。わたしのためにあなたの家族や、将来や、青春や、結婚などすべてを放棄するだろう。そうでなければ、あなたの愛は全く愛ではなく、欺きで裏切りである。あなたの愛はどんな愛だろうか。それは真の愛だろうか。偽りの愛だろうか。あなたはどれだけ捨てただろうか。どれだけ捧げてきただろうか。わたしはあなたからどれだけ愛を受けただろうか。あなたは知っているだろうか。あなたがたの心は悪と裏切りと欺きで満ちている。」(『言葉は肉において現れる』の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」より)私は神の前で誓いを立てながら、それを守っていませんでした。これは神を騙し、神を欺こうとしているのではないでしょうか。こう考えた時点で、私は神の前にひれ伏し、祈らずにはいられませんでした。「あぁ、全能者である神よ。私は、かつて、いかなる苦難にも愚痴を言わず、何人でも兄弟姉妹を進んで引き受け、それは神への私の愛の表現の1つであると、常に考えていました。しかし、ようやく今となり、いわゆる私の愛は条件付きのものであり、選択的なものであったという事実の現れをはっきりと見ることができました。これは、全て渡しが欲していることを前提としたもので、それは、快適な環境でのみ存在していました。しかし、神が私に肉の苦難を耐え、私自身の関心事を妥協することを求めた時、私の『愛』はさっと消滅しました。このことから、私は実際には神を愛しておらず、に対する恩義に対して全く本分を尽くしておらず、神の愛に報いるのに出し渋りさえしており、その上、私が支払った少しばかりの金額を使って、素晴らしい祝福を受けるための交渉をしていました。私は本当に、完全な日和見主義者で、身勝手で、卑劣で心の狭い人間です。私は、神の前で生きるのに適しておらず、神が私の人生にもたらしてくださった全てを受け取るのに適してさえいません!あぁ、神よ。私はもう神を欺いたり、神に反抗したりして、神を傷付けたくありません。私は、自分の個人的な利益を脇に追いやり、神の調整や采配に従い、誓いを守りたいと思います。」

   その後、私はあの新築の家を売却するために全力を尽くし、別の土地で二間のアパートを購入しました。前の家とは比べ物になりませんが、電話と暖房設備があり、交通の便が良いものです。このアパートに大変満足しており、そこで、私達は兄弟姉妹を受け入れる本分を再開しました。あっという間に2004年の春になっており、共産党警察は、再び私達に疑いの目を向けるようになっていました彼らは2名のスパイを私達のところへ送り込みました。彼らは、占い師を装って情報を引き出そうとしました。神の啓示とリーダーシップにより、私達は彼らの計画を見破り、神の知恵に頼って、彼らを追い出しました。教会はそのことを知ると、私達の働きを中断させました。私達の環境を守るため、別の仕事を探すように命じました。その時以来、私達は兄弟姉妹とはほとんど連絡を取りませんでした。6ヶ月が経過し、地域の状況は一層厳しくなってきました。ある日、ユダが私達を売ったので、赤い大きな竜の掌中に落ちないようにできるだけ早く引っ越す必要があるいう通知を教会から受け取りました。神の家からのこの采配を目の当たりにし、この時、私は従うことを選択し、赤い大きな竜への憎しみが心の中で燃え上がりました。赤い大きな竜の「市民には宗教の自由があり、市民の正当な権利と関心は守られる」という宣伝文句を聞き、教会があちこちに建設されるのを見た昔のことを思い出しました。私はこれを心から喜び、素晴らしいと思いました。人々の心を掴んだと感じました。しかし、今日、現実に直面し、私はようやく本当にはっきりと、赤い大きな竜の醜い顔を見ました。その謀略を見破ることができました。彼らの宣伝文句や上辺の行動は全て嘘と偽りに過ぎず、全てプレゼンテーションだと知りました。これは全て、人を混乱させ、盲目にするための卑劣な手段であり、汚い手口でした。邪悪で冷酷、狡猾で詐欺的、対抗的で、神に対して反抗的、そして全く反動的なものでした。これは、人々を破滅させ、損害をもたらす悪魔だったのです!受肉した神は神の創造物である人類を救うために地上に降りてきました。これは正しく適切なことでした。これは、極めて喜びに満ちたものでした。しかし、赤い大きな竜は神が人々の中にいることを許さず、人々が神を賛美し、それぞれのいのちにおいて適切な道を歩むことを許しませんでした。それは、キリストを死に物狂いで狩るためにできることは全て行ない、神に選ばれし人々を残酷に迫害し、神の働きを邪魔し、破壊しようとしました。それは、神を追いやり、神に選ばれし人々を根絶し、神の終わりの日の働きを破壊しようとしました。これは、本当に完全に反動的で、天が容認し得ないことです!ちょうどその時、神の言葉が私の心に浮かびました。「宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である。…なぜ、神の業に対してそのような難攻不落の障害を建てるのか。なぜ神の民を欺く様々な謀りを用いるのか。真の自由や正当な権利と権益はどこにあるのか。公平さは、どこにあるのか。安らぎは、どこにあるのか。温もりは、どこにあるのか。偽りに満ちた謀りを用いて神の民を欺すのは何故か。神が来るのを武力で抑制するのは何故か。神が造った地の上を、神に自由に移動させないのは、何故か。神が枕するところが無くなるほどに神を追うのは、何故か。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)神の言葉を通して、私は赤い大きな竜の醜い顔をはっきりと見、神への抵抗、神への迫害、そして人々への損害と抑制をはっきりと理解することができました。いかに多くの兄弟姉妹が、抑圧と追及により、家に帰れずにおり、放浪者やホームレスとしての生活を余儀なくされているかを思いました。いかに多くの兄弟姉妹がその非道な拷問による破壊行為に苦しみ、いかに多くの兄弟姉妹が無実の罪で投獄され長く暗い日々を過ごし、神を信じ、本分を尽くしているというためだけに、その後、犬や豚でさえ住めないような独房の中で生きているかを思いました。また、いかに多くの兄弟姉妹が自由なく、全てを監視された状況で暮らしているかを思いました。彼らは本分を尽したり、教会で通常の暮らしをしたりすることさえできないでいます。今日、私達は神を信じ、仲間を迎え入れることは、私達が創造物として本分を尽くしているに過ぎませんでした。私達は責任を果たし、赤い大きな竜の法律や規則に違反したことは一切なかったにもかかわらず、私達は根拠のない非難や抑圧の対象になっていました。私達は、自分たちの本分を尽くすために、場所を変えていくことしかできませんでした。それにもかかわらず、警察は私達への追及を緩めず、私達を罠にかけ、迫害するための証拠を見つけることができると考え、何らかの情報を引き出すために占い師を装うことすらしました。赤い大きな竜は本当に計り知れないほどに邪悪で、不誠実で、卑劣で、悪意に満ちています!これを考え、私は一層強く義憤を感じ、赤い大きな竜に対して心の底からの憎しみで一杯になりました。神のお陰です!神の実際の働きと言葉が、赤い大きな竜の仮面を完全に引き剥がし、威厳の外観を纏った偽善の醜さを完全に露見させました。それまで盲目であった私の目がようやく開きました。私の霊が目覚め、赤い大きな竜は一般市民を騙すことによりその名を確立してきたという真実、そしてその欺瞞性と有害性という真実をはっきりと見ました。ですから、私は、これを断固として見捨て、拒否することに自信と決意を持ちました。何よりも、赤い大きな竜の卑劣な悪と裏暗い汚さと比べ、神がいかに義であり、神聖であり、光であり、善に満ちた存在であるかを一層深く理解しました。私は神の偉大なる救いと私達、堕落した人類への愛を見ました。環境がどれほど過酷であろうと、赤い大きな竜からの抵抗や抑圧がどのようなものであろうと、神は私達を救うことを諦めませんでした。神は神が行わなければならない働きを遂行するためにあらゆる苦しみにまだ耐えています。この汚らわしく卑劣な世界で、私達は神にのみ頼ることができます。神は私達が持つ最も偉大な愛、最も大きな救いであり、それにより、私達は、一生をかけて真理を追求し、キリストに従おうという強い願望と渇望を持ちます。私と分かち合うために、この悲惨な状況の中で私に正しい判断力と洞察が得られるよう、このようなご馳走を並べてくださった神に感謝します。これから、赤い大きな竜との関係を完全に断つことを、私のいのちにかけて誓います。私は彼らの仇敵となります。どのような迫害や追及が起きようとも、私は彼らの専制政治に怯えることはありません。私はしっかりと神のみに従い、神の導きに頼り、その闇の力の抑圧を突破し、神の救いという愛に報いるために、本分を尽くしていきます。



   私達がそこに長居することはできない厳しい状況のため、私達は再び急いで別の見知らぬ土地へと引っ越していきました。新しい土地に着くと、神の家の1人の姉が、少数民族が暮らす地域があり、そこならば赤い大きな竜はあまり厳しく取り締まらないと教えてくれました。比較的許容できる環境でした。しかし、私の心は安心しませんでした。私は心の中で次のように考えました。「ここは、今、赤い大きな竜の治世であり、黒い雲が町を覆い尽くそうとしているかのようだ。それは、私達が安心して神を信じることを認めないだろう。」案の定、私達がそこについてたった20日で、赤い大きな竜のスパイが衛生維持費の徴収を装って私達の家にやって来て、私達の家の内外にいる人々を模索し始め、どこから来たのか、彼女の住居登録地はどこか、なぜこの町に来たのかを妻に命令口調で尋ねました。彼らのうちの1人は、いくつかの特徴を上げ、妻の夫はそのような風貌をしていないかと尋ねました。妻が「はい」と答えると、2人は互いに顔を見合わせました。彼らは私の顔を見ずとも私の風貌を知っていたことに、妻はその時気が付きました。私を売り、私の風貌について細かく説明さえしたユダがいたに違いありません。彼らがその場をサルト、私達の後ろの家に行きました。私達の近所の人々は彼らと協力しており、私達を監視していたと、その時気が付きました。私達はこのことを直ちに教会に報告しました。間もなく、教会の1人の姉が私達に次のようなメモを送ってきました。「地域警察があなた方の故郷の警察と連絡を取りました。彼らは、あなた方のように、通告者から名前が出された人々を拘束すると心に決めています。彼らは、予告なしに現場を訪れて状況をまず確認し、あなた方がどのような人物かを見、その後、時期を見計らってあなた方全員を一網打尽にします。あなた方は危険な状況にいます。山東省の故郷に戻り、そこで隠れてください。今すぐ引っ越しをしてください。一刻を争います。もたもたしていたらそこから逃げられなくなるかもしれません!」このメモを見て、私は軽くあしらうことはしませんでした。翌日引っ越すことに決めました。その夜、なかなか寝付けずに寝返りを打っていました。私は赤い大きな竜の狂気の迫害に信じられないほど怒りを感じただけではなく、先行きについて混乱し、やるせない気持ちも感じました。あぁ!当初は、神を信じることは簡単なことだと考えていました。言葉で神を認め、心の中で神を信じ、本分を尽くすために最善を尽くしていれさえいれば、神の称賛を得ることになると考えていました。これまで私が経験したいずれのものよりもこの道が困難になるとは全く想像していませんでした。神を信じることが辛い旅であるため、私が不安と悲しみを感じていたその時、神の言葉が私を啓きました。「人々は神への信仰を真剣には受け止めない。なぜなら神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らなければ、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の望みに応じることなどできない。『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。本当の信仰を持てば、堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知るようになるだろう。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)私は沈黙のまま座り、神の言葉の意味を反芻していました。心の中で、私は徐々に気持ちが明るくなってきました。そうです。神への真の信仰とは、神が全てのことに対する実権を握っているということを信じた上で、神の言葉と働きを経験し、それにより、私達が堕落した性質から逃れ、神の願いを満たし、神を知るようになることだというのは真実でした。このような旅を通してのみ、私達は神を信じしていると言うことができます。これは、私がかつて考えていたように口で神を認め、兄弟姉妹と定期的に集まり、神の言葉を飲食し、自分の本分を尽くしてさえいれば良いというような、簡単なことでは決してありません。かつて私が考えていたような、この種の信仰は、漠然とした宗教的信仰に過ぎず、神を信じることの本質は含まれていません。最期までこのように従っていたとしても、神の心を満たすことも、神からの称賛を得ることも決してなかったでしょう。私は、ペテロのことを思いました。彼は神を信じる中で、神の言葉を経験するために、これ日々の生活に反映させました。何があろうと、ペテロ神の心と神が求めるものを満足させるために努力しました。それが裁きや刑罰であろうと、試練や精錬であろうと、苦境や苦しみ、鍛錬であろうと、彼は必ずそれを受け入れ、従うことができました。そこから、彼は真理を求め、自分自身そして神への理解を深めようとしました。何年にも及ぶ追求により、彼自身の性質が変わっただけではなく、年齢を問わず、他の誰よりも神について理解している存在となりました。ペテロの信仰は、神の心と最も一致しており、最も基準に近いものでした。一方、私は神を信じることがどういうものであるかをあまりにも簡単に考えていました。私は、定期的に兄弟姉妹と集まり、神の言葉を飲食し、自分の本分を尽くし続けてさえいれば、神の称賛を得ることができると考えていました。私の考えと、不信者や宗教的な人々の考えの間にどのような違いがあるでしょう。最終的には、これら全ては無駄なものではないでしょうか。この時になって初めて、私の長年の神への信仰が混乱に溢れたものであることを認識しました。神を信じることの本当の意味さえ知らなかったのです。神の現実的な黙示、神の言葉による啓示や導きがなければ、私は私自身の概念と想像に基づき、今でも神に従っていたことでしょう。未だに、我流で歩む、本当の宗教的信者であることに気が付かないでいたことでしょう。その時、少し怖さを感じずにはいられませんでした。神の働きを経験することや、真理を追求すること、または性質を変えることに意識を集中せずに、混乱した方法で神に従い続けていたら、最終的には、確実に、神から排除されていただろうということに気が付きました。私の危険な状況を見て、私は直ちに神に祈りを捧げました。「あぁ、神よ!黙示と啓示を与えてくださり、ありがとうございます。これにより、真理を理解し、私の神への信仰が間違っていたと気が付くことができました。神よ!ペテロの行動をモデルにし、彼が歩いた道を追求していきたいと思います。今、私はこの道を選びました。ですから、道がどんなに不安定で、この先どれほど多くの危険が待ち受けていようとも、自身をもって進んでいきたいと思います。神を真に信じ、神を賛美する神の創造物となれるよう、自ら苦しむ意思を持ち、神の設計と采配に従い、神が私に求める通りに神の言葉と働きを真に経験していきたいと思います。」祈りを捧げると私の心はとても落ち着き、神の働きを経験する自身が湧いてきました。

   次の日、私達は電車に乗り、山東省に向かいました。山東省の故郷で一定期間身を隠し、いくつかの妨げに遭遇した後、聖霊の導きにより、私達はようやく教会と連絡を取ることができ、教会での生活を再開しました。しかし、赤い大きな竜は私達への迫害の手を緩めていませんでした。私達がどこへ行こうとも、私達は常に制限と制約の対象となりました。警察は居住許可を確かめに頻繁にやって来ました。1日に2度やって来て、私達の居住許可は短期的なものであり、私達が自ら移動しなければ、彼らが私達を追い出すと断固と言い張ることさえありました。従って、引っ越しは私達にとって日常茶飯事となりました。その後、私達は教会の兄の息子が借り、この兄が迎え入れてくれた大きなアパートに引っ越しました。しかし、ここで、私達は短期的な居住許可に登録しなければならなかっただけではなく、出入許可も必要となりました。これなしでは、アパートへの出入りはおろか、引っ越すことすらできませんでした。私はこの家の中に隠れ、出かけることができませんでした。それでも、警察は諦めることはありませんでした。彼らは、頻繁に、一戸一戸回り、検査を行ないました。このことから、私達は、無神論の政党が支配するこの専制主義で不誠実な国では、神への信仰は、全ての面で鎮圧され、抑圧されることが分かりました。これは、本当に、静かな憤慨を育てました。特に、2008年のオリンピック開催中、状況は極めて厳しく、過酷なものでした。赤い大きな竜は罠を仕掛け、警察はあちこちに配備されました。一方、そのような状況下で、私達は神の全能さ、知恵、神の偉業、そして、神が全てを設計していることを目の当たりにしました。警察が検査しようとするたび、神の設計により、主門の門番は私達が事前に素早く準備し、隠れられるよう、私達の兄にその旨を教えてくれました。ある時、私達が集会をしているところに警察が抜き打ち検査を実施しました。表で犬が気が狂ったように吠え立てるのが聞こえました。検査官は中庭を乱暴に横切り、電気メーターを確認するようなふりをして、構内を隅々まで歩き回り、私達の兄を探し、捜索し、尋問し、脅しました。彼は、神の知恵を使い、彼らを退去させました。彼らが去った後、私達は全員恐怖を感じました。幸いなことに、うまく全員隠れることができましたが、私達や神の言葉が記載されている本が見つかっていたら、どのようなことになっていたか、想像もつきません。私の心に恐怖が残る中、神の次の言葉が耳の中に聞こえてきました。「あなたがたは、ある事柄が私の旨に則している限り、いかなる者や物事にも左右されること無く、それを私の言葉に従って実践する必要がある。あなたがたは、恐れてはならない。なぜなら、私の手があなたがたを支え、私はあなたがたを確実にあらゆる邪悪な者から守るからである。」(『言葉は肉において現れる』より)「あなたがたは、勇敢に行動する必要があり、うつむいてはならず、恐れてはならない。あなたがたの父である私が、あなたがたを支えているのだから、あなたがたは苦しまないであろう。あなたがたが頻繁に私の前で祈り、願うならば、私はあなたがたに全ての信念を与えるであろう。権力者は、外観が残忍であるかも知れないが、恐れてはならない。なぜなら、それはあなたがたの信念が少ないことが原因だからである。あなたがたの信念が強くなる限り、難しすぎる事は一切無い。あなたがたは、元気を出して、精一杯跳ぶ必要がある。あなたがたの足下には全てがそろっており、全てが私の掌中にある。成し得るか、滅びるかは、私のひと言で決まるのではなかろうか。」(『言葉は肉において現れる』より)神の言葉を読み、私は恥ずかしくなりました。その通りでした。この世の人、出来事、物事は全て、神の設計と采配によるものではなかったでしょうか。神の考えにより、これらは全て状況を変え、刷新され、変化があり、消え去るのではなかったでしょうか。赤い大きな竜も神の掌中にある創造物の1つです。いかに野蛮であろうと、神の支配を逃れることはできません。神が破壊したければ、神がそう言えばいいだけではなかったでしょうか。神はまだこれを破壊していません。神は暫くの間その残忍に振る舞うのを認めています。これは、私達に自信と勇気を持てるようにするためです。これは、私達が経験を通して神の知恵、全能さ、偉業を知ることができるようにするためです。また、これにより、私達は赤い大きな竜が抑圧する際の邪悪で反動的な性質と醜い顔をよりはっきりと認識し、私達がこれを憎み、拒否し、背を向け、心の底から嫌悪できるようになります。神の言葉の導きとリーダーシップにより、私はもはや臆病になったり、恐れたりすることがなくなっただけではなく、神への感謝で一杯になりました。この環境に従順に従い、赤い大きな竜と闘い、神自身による訓練と完璧さを受け入れ、真理をより深く理解したいと思いました。その後数ヶ月、地元警察は私達が準備できないよう、毎月2、3回の抜き打ち検査にやって来ました。しかし、これらの酷い状況にもかかわらず、神の愛と保護により、彼らに見つからずに、何度も逃れることができました。いつももう少しで見つかりそうな状況でしたが、いつも辛うじて逃れることができました。これらの経験の後、心の奥底で、神に真の感謝を感じ、神を讃えずにはいられませんでした。そして、次のように考えました。「あぁ、全能なる神よ!神は本当に、全てのものを支配する万物の主です。神の偉業はあらゆるところにあり、私の実体験を通して、神の全能さと知恵の片鱗を垣間見ることができただけではなく、神が私の最強のサポーターであり、避難所であること、そして、赤い大きな竜は張子の虎に過ぎないことが分かりました。見かけは爪や牙があり、酷く横柄ですが、神に直面すると、とても弱く、無力です。神からの一撃に出さえ耐えることはできません。神の采配と設計に従順に従うことしかできません。自信がある限り、私は全ての闇の力に勝つことができます。神よ!私は、今、悪魔が支配する国にいますが、これからは、いかなる人や出来事、物事にも制約を受けません。闇の抑圧からただただ奮起し、この汚らわしい場所から立ち上がり、神の勝利の証を立てます。」

   赤い大きな竜の追及がある酷い状況の中、全能者である神の言葉が次々の試練をくぐり抜けさせ、私がサタンからの試験に何度も勝利する手助けをしてきたという揺るぎない経験があります。今日、私がこうしてここにいるのも、神の偉大なる愛と保護のお陰です。これまでの道程を振り返り、私は赤い大きな竜の抑圧と追及に苦しみ、家に帰れず、転居を余儀なくされ、放浪者の生活をし、世俗的な人々が持つ「温かい我が家」を持つことも、彼らのように気楽にのんびりとした生活を送ることもできませんでした。赤い大きな竜の抑圧により、私の心は大きな苦しみと痛みに耐えてきました。しかし、これらの苦い経験を体験したことにより、私は年齢を問わず他の誰も得ていない、いのちの豊かさを得ました。赤い大きな竜の抑圧を経験したことにより、私自身の身勝手さや卑しい本性を認識することができました。私が本当に神を信じていなかったことや、本当に神を愛していなかったことも分かりました。赤い大きな竜の抑圧を経験したことにより、私は、その不誠実で、卑しく、邪悪な本性を認識しました。試練を通して、神の義、誠実さ、光、善良さをより深く理解することができました。赤い大きな竜の抑圧を経験したことにより、私は自分自身の漠然として不確かな信仰を認識し、神を信仰することの本当の意味とその価値を理解しました。また、抑圧を通して、神の知恵と全能さ、神の偉業についてより深く理解し、神に敵対する赤い大きな竜の残酷で、邪悪で、反動的な本質を見抜くことができました。これが、人々をいかに堕落させ、騙し、傷付けるかをはっきりと見ました。このことから、赤い大きな竜に対する深い憎しみが強くなりました。私は、神の言葉に頼り、サタンの堕落した性質を排除し、赤い大きな竜に完全に背を向け、本物の人間として生き、神の心に満足していただけるようになりたいと思います。このようないのちの豊かなご馳走を個人的に味わうことができたのは、神の現実の働きによるものでした。これは、赤い大きな竜により長い間盲目にされてきた私の心を目覚めさせただけではなく、とても多くのいのちの豊かさを私に理解させました。そして、気付かぬうちに、私は神への信仰の正しい道を歩み始めていました。私は心から感謝し、全能の神を称賛します!


主の再臨をお迎えする大変な経験(II)

2019-09-12 23:04:21 | 神に帰す証

   全能神はこうおっしゃっています。ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら三段階は神の経営の全幅を覆うもので、そしてすべてひとつの霊による働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初であり最後であり、時代を始められる存在で、また時代を終わらせられる存在である。違った時代、違った場所における三段階の働きは確かにひとつの霊によって行なわれる。これら三段階を切り離す者たちはすべて神に反抗している。今、第一段階から今日に至るまでのすべての働きはひとつの神の働きであり、ひとつの霊の働きであり、それに関して疑いの余地はないということを理解しなければならない。ヤーウェの働きの後、人のあいだで神の働きを行うためにイエスは受肉した。イエスの働きは単独で実行されたのではなく、ヤーウェの働きの上に築かれた。それは律法の時代を神が終わらせた後の新しい時代のための働きであった。同様に、イエスの働きが終わった後、神は次の時代のためにさらに神の働きを続行した。神による経営(救い)全体はいつも前進しているからである。古い時代が過ぎると、新しい時代に置き換えられ、古い働きが完了すると、新しい働きが神の経営(救い)を続行する。今回の受肉はイエスの働きの完了に続く神の二回目の受肉である。もちろん、この受肉は単独で起こるのではなく、律法の時代と恵みの時代の後の第三段階の働きである。神の働きの新しい段階はそれぞれいつも新しい始まりと新しい時代をもたらす。そこで神の性質、神の働き方、神の働く場所、神の名前にもそれに付随した変化がある。したがって、人にとっては、新しい時代の神の働きを受け入れるのが難しいのは無理もない。しかし、いかに人が反対しようと、それには関係なく、神はいつも自分の働きを行っており、いつも人類全体を前方に導いている。イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から墮落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって墮落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間 の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」



   全能神の御言葉を読んだあと、兄弟は説教を続けました。「ヤーウェ神の働きと主イエスの働きと全能神の働きが一つの全体として結びついたときはじめて、それは人類を救う神様の働き全体を構成します。実際、神様が新たな働きの段階を始められるたび、神様が表現なさる性質、神様が働きをなさる方法、御名、働きの場所は変わりますが、これら働きの三段階は密接に結びついています。主イエスはヤーウェ神の働きを土台として贖いの働きをなさいました。終わりの日、全能神は主イエスによる贖いの働きを土台として真理を表現なさり、神様の家から始まる裁きの働きをなさっているとともに、創世以来ずっと隠されてきたすべての奥義を私たちにあらわされています。例えば、人類全体が今日までどう発展してきたかや、三段階の働きの奥義や、人類の将来的な終着点などです。加えて、神様は真理を表現なさって私たちの罪深い本性を暴き、反抗と不正を裁き、罪を清める道を示されてきました。神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れる人はより多くの真理を理解し、自分のサタン的な本性をより識別し、神様の犯すことができない義なる性質をより理解して、徐々に真理を実践に移し、サタン的な本性の束縛から解放され、神様を畏れ悪を避ける道を歩むようになります。堕落した性質が清められるとき、私たちは神様に従い神様を畏れる人になり、神様の祝福のもとで生きることができ、人類を救われる神様の働きも終わりを迎えます。それは黙示録の預言の通りです。『事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう』(ヨハネの黙示録21:6)」

   神様の御言葉と兄弟の説教を通じ、神様の働きの各段階が以前の段階の上に築かれること、直前の段階よりもさらに高いこと、神様の働きの三段階がすべて一緒になって人類を救われる神様の働き全体を構成することを理解しました。主イエスの贖いがなければ、人類は永遠に律法の下で暮らしていたでしょう。神様がおいでになって罪を取り除く働きをなさらなければ、私たちは罪を犯しては告白するという状態の中で生きるだけで、罪の束縛から決して自由になれないでしょう。神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れて初めて、私たちは自分の堕落した本性を理解するとともに、自分の肉を捨てて真理を実践し、性質の変化を成し遂げます。そのときはじめて、天国へ入るのにふさわしくなるのです。すると兄弟は神様の働きの三段階が描かれたカラフルな画像を送信し、人類を救われる神様の三段階の働きをより明確に理解できるようにしてくれました。神様が働きを行なわれる方法、働きの場所、神様の御名は各時代で異なるものの、働きの三段階はすべて密接に結びついていて、各段階が欠かせないことを私は知りました。神様は人を一歩一歩サタンの支配下からお救いになりますが、神様の素晴らしさとお知恵に深く感動せずにはいられませんでした。神様以外にこの働きを行なえる者はいないのです。その瞬間、私は信じられないほどの解放感を覚え、もはやその兄弟を排除することなく、私たちの集会もよりくつろぎと活力に満ちたものになりました。

神様の働きを知って子羊の足跡に従うようになる

   その後、兄弟が神様の御言葉の二節を送ってくれました。全能神はこうおっしゃっています。「三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでな ければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。」

   兄弟はこう説教しました。「神様の御言葉から、神様の働きの三段階を知ることは神様を知る道だと理解できます。神様の働きの三段階を知って初めて、神様の全体的な性質、神様が人類を救われる数多くの方法、神様のお知恵を知ることができ、人類を救われる神様の意図を残らず理解して、それによって私たちが神様に抱くであろう観念や誤解を一掃できるのです。神様に関する認識が神様の働きの一段階にとどまったままで、神様はヤーウェと呼ばれ、律法を布告して人類の生活を導かれることしかできなかったとか、神様は主イエスと呼ばれ、人類に恵みをお授けになることしかできなかったとか考えるなら、私たちはごく簡単に自分の観念と想像を基に神様を規定してしまいます。現在、宗教界の牧師や長老の多くは主イエスの働きだけに固執し、十字架の上でなされた贖いの働き以外は神様の働きではなく、イエスの御名をもたない者はお戻りになった主ではないと考えています。彼らは全能神による終わりの日の働きを全力で拒んで断罪し、信者が真の道を考察するのを防ぐべく全能神に関する噂さえ広めています。彼らとファリサイ人の違いは何でしょう。最も偉大なビジョン、つまり神様の三段階の働きを知らず、謙虚に探し求める心をもっていなければ、私たちは簡単に当時のイスラエル人と同じようになり、宗教指導者に従って神様の到来を断罪してそれに抵抗し、神様を拒むことを行ない、最後は神様の性質に背いて神様の救いを失ってしまいます」

   兄弟の説教を聞いたあと、自分が神様の働きを何一つ知らず、盲目的に牧師の言葉に耳を傾けていたせいで、主の再臨をお迎えする機会を危うく逃すところだったことを思い出しました。そのときあまりにも愚かで無知だったことについて、私は心から自分を憎みました。同時に、私の心は主への感謝で満たされていました。私は言いました。「神様、感謝いたします。全能神と主イエスが一つの神様であることを、私はいま知っています。神様のあわれみと恵みがなければ、当時のイスラエル人と同じようになって宗教指導者に惑わされ、主をお待ちしながら主に抵抗して拒否し、最後は神様に捨てられ淘汰されていたでしょう」

   兄弟は言いました。「神様、感謝いたします。私たちは一つの神様によってなされる働きの三段階を理解していますので、全能神に従うのが主イエスを裏切ることではなく、お戻りになった主イエスをお迎えして子羊の足跡に従うことだと知ることができます。黙示録にこう記されている通りです。『小羊の行く所へは、どこへでもついて行く』(ヨハネの黙示録14:4)」

   姉妹と私はそれを聞いてとても感激しました。子羊の足跡に従えることはかくも大きな祝福だからです。私の愚かさと無知を忘れてくださり、私が兄弟の説教を通じて中国共産党による噂を見抜けるようにしてくださるとともに、観念と想像を捨てて主の再臨をお迎えできるようにしてくださったことについて、主に感謝いたします。その後、私は兄弟姉妹と集会に出席するようになりました。神様の御言葉を読んだり、全能神教会による福音動画を見たりすることを通じて、以前に理解していなかった数多くの真理を理解するようになりました。一ヶ月後には、全能神はお戻りになった主イエスだと心から確信するとともに、神様の終わりの日の働きを受け入れました。神様、感謝いたします。全能神にすべての栄光あれ」


「創世記」神は天と地とを創造された

2019-09-11 19:39:08 | 聖書の言葉

神は天と地とを創造された

   はじめに神は天と地とを創造された。 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

   神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

   もっと詳しく知りたい方は:神が人類のために造った基本的な生活環境-光

   神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。

   もっと詳しく知りたい方は:神が人類のために造った基本的な生活環境-空気

   神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。夕となり、また朝となった。第三日である。

   もっと詳しく知りたい方は:神は人間のために様々な植物性の食料

   神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。夕となり、また朝となった。第四日である。


   もっと詳しく知りたい方は:神が人類のために造った基本的な生活環境-気温

   神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。夕となり、また朝となった。第五日である。



神は人を創造された

   神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。


安息日

   こうして天と地と、その万象とが完成した。 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。


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子供の教育-私は試験で100点を取ったが、しかし私はどうして楽しくありませんか?

2019-09-10 22:29:17 | 子供の教育

  試験では誰もが良い成績を取りたがるものですが、私も例外ではありませんでした。良い成績を取って良い結果を出せば、賞をもらえるし、両親から褒められるし、さらに重要なこととして、先生たちに気に入られると同時に、同級生たちからは羨ましく思われることができます。

私は小学4年生だった時の1学期目の期末テストのことを思い出しました。その日の数学の試験中、最初から全て順調だったのですが、最後の文章問題で手が止まってしまいました。どれだけ一生懸命に考えても、その問題は解けませんでした。これは6点の問題だったので、それが解けなければ94点しか取れないのです。6点を失いたくなかった私は、隣に座っていた同級生のヂョンに答えを聞こうと思いました。彼は数学が得意だったので、この問題を解けると思ったのです。試験官の方を見ると、彼女は頭を下げてコンピューターを見つめていました。そして、私は「絶好のチャンスだ、でもどうやって聞けばいいかな」と思いました。丁度その時でした、ヂョンが小声で「おい、この問題どうやって解いた?」と私に聞いてきたのです。意外にも、彼が先に答えを聞いてきたのでした。こうして、私たちはお互いに解けなかった答えを交換し合いました。

私が家に帰ると、母が突然「今日の試験はどうだった? 難しい問題はあった?」と聞いてきました。私はすぐにカンニングしてしまったことを考えました。私は突然落ち着かなくなってこう思いました。「試験でカンニングをしてしまうなんて。僕は神を信仰する子供なのに。お母さんにカンニングしたことを話したら間違いなく叱られてしまう。でも、言わなかったらお母さんに知られることはない。とは言っても、神は人々の心の中をお調べになるから、このことを間違いなく知っておられる。」私は一瞬ためらいました。そして、私たちは何に遭遇しても神に祈りを捧げ、神を頼りにしなければならない、と母が言っていたことを突然思い出しました。こうして、私は心の中で静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神様!今日私はカンニングをしてしまいました、そして家に帰ってから母に試験のことを聞かれたのですが、母に怒られるのが怖くてそれを話すことができませんでした。神様、どうか私が正直な人になって、母に真実を伝える意思を持てるようにしてください。」こう祈りを捧げると、正直に話す勇気が湧いてきたので、私は試験でカンニングしたことを母に話しました。

母は私にこう聞いてきました。「カンニングをしていた時、神はそれを好まれないってことを考えなかったの?」私は少し罪悪感を感じ「そうだ、どうしてあの時そう考えなかったんだろう?」と思いました。母は私に正直な人でいることの真理について、神の言葉のこの節を交えながら話してくれました。「あなたが為す全てのこと、一つひとつの行い、あらゆる意図と反応を神の前に示さなければならない。… あなたがいのちにおいて成熟するのを助けるのはこのような実践である。神の監督を受け入れる過程は、清めの過程である。あなたが神の監督を受け入れれば受け入れるほど、あなたは一層清められ、神の意志と一致するので、あなたは放蕩や放縦の声を聞かなくなり、あなたの心は神の臨在の中で生きるだろう。あなたが神の監督を受け入れれば受け入れるほど、サタンは一層辱められ、あなたはもっと肉を捨てることができる。」 私は母の話しを聞きながら内省しました。私は試験でカンニングをしたこと、そしてそれを母に話すのを拒んでいたことは全て欺瞞的な姿勢の表れであると気が付きました。そして、私はカンニングをしてより高い成績を上げようとしたのは、先生に気に入られて、同級生たちの切望の的になることを狙っていたからであったことにも気が付きました。神は私の心を見抜いておられ、私は正直でなかったことを恥じました。私は静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神様!今日私はカンニングをしてしまいましたが、それを悔い改めたいと思います。今後また、このような状況に直面することがあれば、真理を実践してあなたの証を立てられるよう、どうか私をお助けください⋯」

その後、試験の結果が発表され、数学は100点でした。しかし、神の前ではこれを喜ぶことができなければ、100点を取った気分にもなれませんでした。
あっと言う間に4年生の2学期目の期末試験を受ける日がやってきました。そして先生は私たちに試験を開始するよう言われました。試験はとても難しくて、私には解けない問題がたくさんありました。私は又しても同級生に答えを聞きたくなりましたが、前回神に祈りを捧げたことを思い出して聞くのを諦めました。その数日後、先生はその試験用紙を私たちに返してくれました。先生は答えを説明して、私たちは自分で試験用紙を採点して合計得点を計算しました。計算してみると、私はなんと、たったの59点しかなく、不合格になってしまいました。私はそれを受けとめることができませんでした。恥ずかしくてたまりませんでした。その時、先生は各問題について答えを間違った生徒の数を数えるから、答えを間違った生徒はその問題ごとに立ち上がるようにと言ったのです。私は少し恥かしくなってこう考えました。「今回はたくさん間違ってしまったからなあ、何回も立ち上がっていたら先生にどう思われてしまうだろう。普段はクラスで成績トップなのに。こんなにひどい成績を取ったことを知られたら、先生に嫌われてしまうよ。」こう考えた私は「だったら立ち上がる回数を減らそう」と思いました。ちょうどその時でした、何に遭遇しても神に祈りを捧げて神の御心を求めるべきだ、と母が言っていたことを私はもう一度思い出したのです。こうして、私は心の中で静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神よ!私が自分の評判を守ろうとしないで、正直な人になれるよう、どうか私をお助けください。」 こう祈りを捧げた後、神のこの言葉が頭に浮かびました。「正常な人間のように行動するということは、筋の通った話をするということである。是は是、非は非を意味する。事実に忠実に、適切な話しかたをすること。ずるをしたり、嘘をついてはならない。」 そして私は「そうだ!普通の人間らしさというのは正直な人であるということなんだ。正直な人はせめて、正直に喋って嘘を言わないものだ。神は正直な人を好まれるから、私は正直な人になりたい」と思いました。こう思った私は自分の面目を守ろうとすることは止めて、正直な人を実践する決意をしました。しかし、立ち上がったとたん、私の心臓はバクバク鳴りました。私は「先生からどんな批評を受けても、神の御心に適ってさえいれば大丈夫だ」と自分に言い聞かせました。ところが、先生は私を見下したりせず、今まで通り私と優しく接してくれたのです。この状況の中で、私は正直な人を実践することができてとても満足な気分になりました。

その後すぐ、期末試験がやってきました。数学の試験には又しても解けない問題が幾つかありました。私は「これは期末試験、普段の月次試験よりも大事な試験だから高得点を取らないといけない」と思いました。私は前に座っている同級生がその隣の同級生に質問をしているのが見えました。試験官はこれに気が付いていませんでした。なので、私も同じ机に座っている同級生に答えを聞きたくなってしまいました。しかし、私は前回カンニングをしたことについて考えました。私は正直な人になることを学んで、神に対して欺瞞的にならないということを神に祈りの中で伝えていたのです。こうして、私は心の中で静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神よ!私は又してもカンニングをしたくなっています、しかし私はあなたに祈りを捧げ、二度とカンニングはしないと決心しました。どうか、私が同級生の答えを写すことなど考えずに正直な人になり、真剣に試験と向き合い、可能な限り自分の力で問題に答えられるようお導きください。」 こう祈りを捧げた後、私は落ち着いて慎重に問題を考えることができました。すると、無意識のうちに、問題の解き方が突然いくつかひらめいたのです。私はとても嬉しくなり、神が私を導き、啓示してくださったことを知りました。今回、私は数学の試験で96点も取ることができ、予想を超える結果となりました。カンニングをしていたら、もっと高い点をとれたとは思いますが、同時に神の目前で神の証を失っていたことでしょう。私はとても幸せな気持ちになり、神の言葉を実践していく決意をしました。

高得点を取るのは、先生や両親から好かれたり、同級生たちから羨ましがられる意味では良いことなのですが、それで幸せになることはできません。むしろ、神の言葉に従って正直な人として振る舞う時に限り、私は真の幸せを得ることができています。これこそが最も大切なことなのです。

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