賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

今日のみことばー神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である(抜粋1)

2020-05-21 10:18:54 | デボーション

   人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代の三つの段階の働きのことである。天地創造の働きは、人類全体を作り出す働きであった。それは人類を救う働きではなく、人類を救う仕事には関係がなかった。なぜなら、天地創造の時、人類はサタンによって堕落させられておらず、人類を救う働きを実行する必要がなかったからである。人類を救う働きは、人類が堕落させられた後にようやく始まり、そこで人類を経営する働きも人類が堕落させられた後にようやく始まったのである。言い換えれば、人を経営する神の働きは、人類を救う働きの結果として始まったもので、天地創造の働きから生じたものではない。人類の堕落した性質が無ければ、人類を経営する働きはありえなかった。だから人類を経営する働きは、四つの段階もしくは四つの時代というよりも三つの部分を含むのである。これこそが人類を経営する神の働きへの正しい言及の仕方である。最後の時代が終わるとき、人類を経営する働きは完全に終わっている。経営の働きの終結は、人類すべてを救う働きが完全に終了し、人類がその旅路の終わりに到達したことを意味する。人類全てを救う働きがなければ、人類を経営する働きも存在しないし、三つの段階の働きもないだろう。それは正に人類の堕落ゆえに、また人類がそれほど性急に救いを必要としていたがために、ヤーウェは天地創造を終わらせ、律法の時代の働きを始めたのである。そうして初めて、人類を経営する働きが始まったのだが、それはつまり人類を救う働きもそこで初めて始まったことを意味する。「人類を経営する」とは、地球上に新たに誕生した人類(つまり、まだ堕落させられていない人類)の生活を導くという意味ではない。むしろそれは、サタンによって堕落させられた人類の救いであり、つまりは、この堕落した人類を変えることである。これが人類を経営することの真意である。人類を救う働きが天地創造の働きを含まないのだから、人類を経営する働きも天地創造の働きを含まず、ただ天地創造とは別の三つの段階の働きだけが含まれる。人類を経営する働きを理解するには、三つの段階の働きの歴史を知ることが必要であるが、これは、救われるために、すべての人が知っていなければならないことである。被造物としてあなた方は、人は神によって造られたということを認識しなければならないし、人類の堕落の源、さらには人の救いの過程を認識しなければならない。あなた方がもし、神に喜ばれるために教理に従って行動することだけは知っているが、神がいかにして人類を救うかに関して、あるいは人類の堕落の源を少しも知らないのであれば、あなた方には被造物としてこの部分が欠けているのである。あなたは、神の経営する働きのより幅広い範囲を知らないままでいるのに、それらの実践できる真理を理解するだけで満足してはならないし、もしそうなら、あなたは教条的すぎるということになる。三つの段階の働きは、神による人の経営の内部事情であり、全宇宙の福音の到来であり、全人類における最大の奥義であり、また福音を述べ伝えることの基盤でもあるのだ。もしあなたが自分のいのちに関係する単純な真理を理解することだけに集中し、この最大の奥義とビジョンに関しては一切知らないとすれば、あなたのいのちは、ただ眺めること以外に役に立たない不良品と言えるのではないか。

 

   ……

 

   あなたは、神の働きが何であれ、その働きの目的は変化せず、神の働きの核心は変化せず、そして神の人に対する心も変わらないことを知らなければならない。神の言葉がどれほど厳しいものであっても、環境がどれほど不利であっても、神の働きの原則は変わらないし、人を救うという神の意図も変わらないのである。それが人の終わり、あるいは人の終着点の啓示ではなく、最終段階の働き、あるいは神の経営(救いの)計画全体を終わりにする働きでもないならば、また神が人に対して働いている最中のことであるならば、神の働きの核心は変わらない。つまりそれは常に人類の救いなのである。これこそがあなた方の神への信仰の基盤であるべきだ。三つの段階の働きの目的は全人類の救いであり、すなわちそれは人をサタンの領域から完全に救い出すことを意味する。三つの段階の働きには、それぞれ異なる目標と意味があるが、そのいずれもが人類を救う働きの一部であり、人類が必要とするものに応じて実行される異なる救いの働きなのだ。いったんこの三つの段階の働きの目的を知れば、各段階の働きの意味をどのように正しく認識すれば良いかが分かるし、神の心を満たすためにはどのように行動すれば良いかが理解できる。この点に到達することができれば、最終的にこの最大のビジョンがあなたの基盤になるだろう。あなたは実践のためのたやすい方法、あるいは奥深い真理を追い求めるだけでなく、実践とビジョンを組み合わせるべきだ。そうすれば、実践できる真理とビジョンに基づく知識の両方が在ることになる。そうして初めて、あなたは完全に真理を追求する者になれるのである。

 

『言葉は肉において現れる』より


本当のキリスト教とは何か

2020-05-20 23:21:46 | デボーション

   本当のキリストとは何かを理解したいなら、まず私たちはキリスト教の起源を知るべきです。キリスト教と言えば、私たちは主イエスの働きを思い出します。二千年前、神様は人類の必要性によって自ら受肉されて人の子となって、イエスという名で、恵みの時代を開き、人々に天国の福音を伝えていました。主イエスが復活して昇天された後、主イエスに従っていた弟子たちが福音を広く伝え、主イエスに従う人がますます多くなり、徐々に教会が設立されました。主イエスは受肉された神様であり、キリストであるので、あらゆる主イエスに従っている人が設立された教会はキリスト教と呼ばれ、つまり、キリスト教は神様が受肉され現れて働いた後に生まれ、キリストを信じる人々によって設立されたのです。これはキリスト教の起源です。

   本当の教会はキリストによって支配され、聖霊によって支配され、つまり、真理によって支配され、キリストに従うクリスチャンは皆キリストを大いなるものとして崇拝し、人に従わず、人を崇拝せず、彼らが読んできたのは神様の新しい言葉、経験してきたのは神様の新しい働き、歩んできたのは神様を畏れ、悪を避ける道であり、このような教会は聖霊の働きがあり、これこそ本当のキリスト教なのです。恵みの時代のように、主イエスが古い時代を終わらせ、新しい時代をもたらし、ペテロ、ナタナエル、ヨハネ及び他の弟子たちは神様の足跡に付き従い、神様の供給と養い、聖霊の働きを得られ、彼らは神様ご自身の導きと養いがあり、本当の教会の中で集会する人です。それらの神様の足跡に付き従わないパリサイ人は、聖書の古い聖句に固執し、自己満足し、神様からの新しい働きに抵抗し、聖霊の働きがなく、彼らの集まりは宗教団体に属し、キリストに従うキリスト教とは言えません。

   キリスト教とは何かについて、理解できたでしょうか。皆さんはこのように思い出すかもしれません。今全能神教会がますます繁栄になり、さまざまな教派や分派の多くの人々が全能神の元へと戻りました。それでは、全能神教会はキリスト教に属するのでしょうか。

 

全能神教会はキリスト教に属するのか

   実は、私たちは全能神教会はキリスト教に属するかどうかを理解したいなら、まず私たちは全能神が主イエスの再来かどうかを確定すべきです。二千年前、主イエスはまた来ると約束され、今は既に終わりの日であり、さまざまな災害が頻繁に発生し、世界中の国は混乱状態であり、主イエスの再来の預言は既に実現され、主が戻られたはずです。主イエスはこう預言されました。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書24:27)「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカによる福音書12:40)「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。」(ヨハネの黙示録22:12−13)主イエスはまたこう言われました。「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。」(ヨハネによる福音書10:16)「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。……」(ヨハネによる福音書16:12−13)主イエスは「人の子が来る」「人の子も現れる」と言及し、これは皆神様が終わりの日に受肉されることを指しています。受肉された神様だけが人の子と呼ばれ、ここから分かったのは、終わりの日に主イエスが再来される時に、また受肉の方法で来られ、キリストの身分で人々に現れ、そして新しい言葉を語り、新しい働きをなさるのです。しかも全能神の現れと働きは主イエスの預言の実現です。全能神は主イエスの贖いの働きを基礎にし、一段階の神様の家から始まる裁きをなさり、人と清め救うすべての真理を語り、神様の三段階の働きの目的と意味、受肉の奥義、終わりの日の裁きの働き、人類の結末と終着点など、これらの神様の経営の働きに関する真理をすべて明らかにされます。全人類の堕落した本質、堕落した根源、及び人々の思いや考えの中での自分も認識できない堕落した性質をすべて明らかにされ、人々を心から納得させます。同時に、全能神の言葉は人々にサタンの影響から抜け出して、救われて清められる道を指し示し、信仰における実践して進入すべきのすべての真理を人々に教え、例えば、どのように正直な人になるか。どのように神様を愛し、従順するか。どのように神様を畏れ悪を避けるか。どのように神様に仕えるか。どのように正常な人間性を生きるかなど。これらの真理は主イエスが言われた、私たちが恵みの時代で霊的背丈が小さいため、堪えられない真理を、終わりの日に全能神がすべて私たちに教えてくださいます。しかも、全世界のあらゆる宗教、あらゆる教派の人々は全能神の語られた言葉を考察することを通して、全能神が主イエスの再来だと確定し、皆続々と元々の教会から出て新しい働きに従い、彼らは霊的な渇きの状態から抜け出し、聖霊の働きを得られ、いのちの生ける水の注ぎと供給を得られ、これは全能神が受肉された神様であり、終わりの日のキリストであり、主イエスの再来なのです。なぜなら、キリストだけが人に真理、道、いのちを与えられるのです。キリストを信じるのは皆キリスト教に属し、主イエスと全能神は神様の二回の受肉の間に取った異なる名前で、実は一人の神様なのです。そのため、全能神教会は当たり前にキリスト教に属します。

   全能神教会はキリスト教と同じく天地万物を創造された唯一の真の神様を信じています。異なるのは、神様が違う時代での働きによって生まれた教会です。キリスト教は恵みの時代でのキリスト教会であり、信じてきたのは主イエス、初めのキリスト、守ってきたのは神様が恵みの時代での贖いの働き、実践してきたのは当時主イエスが人々に対する要求です。全能神教会は神の国の時代でのキリスト教会であり、受け入れているのは主イエスの再来ーー全能神の終わりの日の裁きの働き、読んでいるのは神様の終わりの日の最新の言葉です。したがって、終わりの日に、主イエスを信じる人は固執しているのは時代遅れのキリスト教であり、終わりの日のキリストを信じる全能神教会こそより現実的なキリスト教であり、子羊の足跡に付き従っているのです。


サタンの哲学は人を陥れ、損害を及ぼす

2020-05-19 22:30:03 | 信仰生活

   少し前のことですが、教会は、仕事上の理由から、私がホストファミリーと暮らすよう、手はずを整えました。ホストファミリーの兄弟姉妹と最初に話した時、彼らは「交流会でのお祈りを最も恐れています。自分たちだけでお祈りをする時には何と言えば良いかを心得ています。しかし、交流会でお祈りをする時には何と言って良いのか分からなくなります。」と言いました。これを聞いた時、「交流会でお祈りをしなければ、聖霊の働きを受けることができなくなるだろう。それでは、交流は効果を発揮することができなくなってしまう。私たちは祈る必要がある!」と思いました。その後、「彼らがお祈りを本当に恐れているならば、私が彼らにお祈りするように強要したら、彼らは私に反感を抱かないだろうか」と考え直しました。記事を編集するという私の責任を果たすため、私は長期間このホストファミリーと暮らす必要がありました。「私が彼らの願いを聞き入れないことにより、彼らが私に反感を持ち、もう私を家に滞在させたくないということになったらどうすれば良いだろうか。彼らの願いを聞き入れた方が良さそうだ。」と考え、その翌月の交流会では一度もお祈りをしませんでした。これにより、神の言葉に関する話は退屈で味気ないものとなり、聖霊の啓示を全く欠いたものとなりました。話し合う論点から逸脱することもよくありました。兄弟姉妹の状態は段々と正常ではないものになっていき、交流意欲が低下していきました。交流会中でも、常にぼんやりすることが多くなり、神の言葉を飲食することを重要と考えなくなりました。彼らは時間があればテレビを観、私に対してかつてのような親しみある態度を示さず、私と話をすることさえ気が進まないようでした。このような状況を目の当たりにし、私は心が痛み、「私は彼らの願いをすべて聞き入れ、彼らに反対しないでた。なのになぜ、彼らはこんな風になったのか」と混乱しました。


   

   この状況に全く困惑してしまっていると、神の言葉が私を啓きました。「あなたがたに神との正常な関係が無い場合、人間関係を維持するために何をしようとも、またいかに精力的に取り組んだとしても、またいかに多くの労力を費やしたとしても、それは依然として人間の人生哲学の範疇に属するものである。あなたがたは、人々が自分を賞讃するようにするため、人間の観点と哲学により、人々の中における自らの地位を維持している。あなたがたは、神の御言葉に従って正常な人間関係を確立してはいない。人間関係に重点を置かず、神との正常な関係を維持し、自らの心を神に捧げて神に従うことを学んだならば、全ての人間関係も極めて自然に正常なものとなるであろう。…正常な人間関係は、自らの心を神に捧げることを基礎として成り立ち、人間の取り組みによって実現されるものではない。」(『言葉は肉において現れる』の「神との正常な関係の確立は極めて重要である」より)神の言葉を通して、私は、突如として光を見ました。結局は、こういうことだったのです。人間の肉の関係を維持することに盲目的に意識を集中し、神との正常な関係を築くことに意識を集中しなかったために、このような状況を招いたのです。私に対して好印象を持ち、私を喜んで家に迎え入れてくれるようにするため、ホストファミリーとどのように荒波を立てないようにやってきたかについて考えてみました。私は、真理の指針や、私の行動が彼らに利益をもたらすかを考えもせずに、彼らの言うことに従い、彼らを受け入れるためにすべてのことをしました。交流会での祈りを恐れていると知ると、関連の真理を彼らに伝えて、彼らがお祈りをする意味と重要性を理解できるようにするために努力をしませんでした。それを行う代わりに、私自身の利益を守るため、彼らの意見に従い、交流会中にお祈りをしたくないという彼らの希望に配慮したため、私たちの関係は完全に肉体的な人間関係となってしまいました。祈り、追求、真理の口伝が行われなければ、交流会中に聖霊の啓示や神の導きに到達したり、神の言葉を飲食することで志を高く維持したりできるはずがありません。その結果、私たちの状態は正常性が低下し、正常な関係を維持することができなくなっていました。私は祈りの重要性をよく知っていました。祈りは人が神の精神により動かされるのを助け、聖霊が働く1つの方法です。祈りは、真理をより深く理解するため、聖霊からの啓示をより多く受けるのに役立ちます。さらに、交流を行う前に祈ることは、常に、人の心の中に神の場所があることを示し、人間が他のすべてのことよりも神を賞賛していることを示す1つの方法です。それにもかかわらず、私は「個人的な生き残りのために抜け目なさを持っていろ」というサタンの人生哲学に従い、私の関係を維持するために祈ることを止めてしまったのです。これは、私の心には神の場所が全くないことを示し、私の心の中は完全にサタンの哲学に支配されていました。私は常に人々との肉体的な関係を維持しようと努めてきました。この姿勢は、「個人的な生き残りのために抜け目なさを持っていろ」というサタンの人生哲学をそのまま取り入れていたことの現れです。これは私の心と魂を腐敗させ、私を臆病で、自己中心的で、卑劣で不公平な者にし、真理を実践できなくしました。これまでも何度も私自身のみを守るために、神と対峙する姿勢を取ってきました。教会のリーダーとして働いていた時、私は人々が特定の考えを広め、ネガティブな感情が伝播し、教会の息吹を阻害するのを目撃しましたが、私は敢えて彼らを止めようとはしませんでした。私が何かを言うことで、私の利益を危険に晒すことになるのを恐れたからです。副音の働きを管理していた時、私は兄弟姉妹が記載されている内容が難しすぎると不平をこぼした議事録を撤回し、彼らにもう少し努力するように頼むことはありませんでした。彼らの気分を害することで、彼らの心の中にある私の場所を失うのが怖かったからです。これにより、私は福音の働きを無効にしてしまいました。記事の編集を担当するグループと働いている時、私とペアを組んでいた姉妹が彼女の仕事に真剣ではないことに気が付きましたが、そのことを指摘するのを躊躇しました。彼女が不機嫌になり、私に嫌悪感を持ち、それが私たちの調和を乱すのを恐れたからです。・・・この時点で、私が行なってきたすべてのことにおいて、私は他者の私に対する態度や評価に常に意識を集中していたことをはっきりと自覚しました。私は、他者の心の中にある私の場所や私に対するイメージを守り、私自身の損得を考えていたのです。私は、「個人的な生き残りのために抜け目なさを持っていろ」というサタンの人生哲学通りに生きていたと言えるでしょう。これは私の行動の指針となり、人間として私がどのように機能するかの基盤となっていました。神は人々に正義と真理のための闘いに捧げ、闇の力による反撃に屈しない勇気を持ち、多勢に従って不正な行動を行うのではなく自分の信念を持つことを頼みました。しかし、この「個人的な生き残りのために抜け目なさを持っていろ」というサタンの哲学は、人々を自己中心的にし、闇の力に屈するべく誤った導きをしています。これに従う人々は、その行動に何の指針も信念もなく、自身への個人的な利益となるのかのみを考えます。この「個人的な生き残りのために抜け目なさを持っていろ」というサタンの哲学は、真理とは真逆の負の指針で、サタンが人々を腐敗させるために使用しているものです。この指針に従い生活すると、人々はより嘘つきで、狡猾で、自己中心的で、卑劣になっていくより他ありません。彼らは、真の人間たらしめるこれらの特性を徐々に失っていきます。サタンの哲学は人を陥れ、損害を及ぼします。私は、二度とこの哲学に沿って生きていきたくはありません!これらすべてのことを認識した私は、ホストファミリーの兄弟姉妹に祈りに関する真理について伝えました。彼らが祈りの意味と重要性を理解すると、交流会でも進んで祈りを行うようになり、彼らの状態が変化しました。

   この状態の変化を目の当たりにし、私は、サタンの哲学に従い暮らすことはあらゆる意味で有害であることを学びました。これから、私は全身全霊で真理を追求し、私が採用してきたサタンの哲学に沿った行動をつぶさに検証し、この哲学に沿って暮らすのを止めることを誓います。私は神、そして神の言葉に私の心を支配し、コントロールしていただきたいと思います。真理が私の心の主であり、私がすべての行動において神の言葉に即して暮らしていけますように。


正しい祈り方を見つけば、主から答えを得られる

2020-05-18 23:15:30 | デボーション

    兄弟姉妹たち、主にあって平安でありますように。今日、わたしたちは命の面の真理について交流します。主につき従うすべての信徒が知っているように、祈りは主につき従うのに欠かせない一項目であり、クリスチャンが祈らなければ、クリスチャンと呼ばれる資格がありません。祈りのゆえに、わたしたちは主の教えを実行する信仰を持ちました。祈りのゆえに、わたしたちは神の啓きと導きを得ることができます。祈りのゆえに、わたしたちは自分の働きと費やしが主の心にかなうようにすることができます。祈りのゆえに、わたしたちは一回また一回と弱さの中で起き上がりました。祈りのゆえに、わたしたちは主の十字架を負って主から与えられる苦杯を飲む力を持ちました。……明らかに、クリスチャンのすべての生活には祈りが欠かせません。しかし、多くの信徒は「わたしが祈りましたが、なぜ主の返事を得られないのですか。なぜわたしの祈りが主に聞き入れられないのですか。なぜわたしは祈る時に主の臨在を感じられないのですか……」と言っています。あなたもこのように困惑しているなら、あなたの祈りに問題が起こるかもしれません!

 

 

なぜパリサイ人の祈りが主に良しとされることができなかったのですか

   この問題の答えは、聖書の記録からでも見つけられます。聖書に二人の人の祈りが記されています。一人の祈りは主に聞き入れられましたが、もう一人の祈りは主に聞き入れられませんでした。聖書を熟読する多くの兄弟姉妹はもう、わたしの言っているあの二人がだれかを知ったと、わたしは信じています。では、わたしたちはまずこの数節の聖書の言葉を読みましょう。ルカによる福音書第18章9-14節にこう書かれています。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上がった。一人はファリサ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」。この数節の聖書の言葉から分かりますが、パリサイ人の祈りは神に受け入れられず、徴税人の祈りは神に受け入れられました

   兄弟姉妹たち、わたしたちはパリサイ人の祈りが主に良しとされず、かえって主に嫌われた原因を知っていますか。実は、主イエスはとっくにこれをわたしたちに教えられました。主はこう言われました。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(マタ6:5)。ここから分かりますが、パリサイ人の祈りはみな偽善的なものです。彼らが大通りの角に立て祈った時、通りかかった人は彼らの、文才の優れている祈りを聞くと羨ましがりました。彼らがそうする目的は、自分をひけらかし、自己アピールし、わざと見せかけをやって、人が彼らの祈りを褒めるようにさせ、人の心の中で彼ら自身のイメージを作り上げることでした。彼らが祈るのは、神との正常な関係を築くためではなく、見せかけをやるためでした。主の前では、彼らは全然自分が罪を持っていると思わず、かえって自分をもちあげ、他人をけなしました。彼らが祈ったように、「わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもない……。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。そういうわけで、主は彼らのこのような祈りを忌み嫌い、罪定めされました。

   では、わたしたちは徴税人がどのように主に祈ったかを見ましょう。徴税人は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。徴税人の祈りから分かりますが、彼は祈る時、言葉数が少ないが、誠実に腹蔵のない話、本当の話をし、本心から出た言葉を言いました。彼らは思ったことをそのまま言い、自分をひけらかさず、しかも主の前では、自分が卑しいのだと認識し、罪人の立場に立って神に祈りました。徴税人は心と真理をもって神を礼拝し、考えることと言うことが一致するのでした。徴税人は人の多いところで祈らず、ほかの人が彼のことをどう思うかを重んじず、神が彼のことをどう思うかを重んじていました。彼が祈るのは、神との正常な関係を築くためであって、見せかけをやるためではありませんでした。だから、神は彼の祈りを喜んで受け入れました。

 

どのように祈れば、主に良しとされることができますか

   主はこのようにわたしたちに言われました。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」(マタ6:6-7)。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:23-24)。

   主イエスの言葉、およびパリサイ人と徴税人の祈りの対比を通して、わたしたちは正しい祈り方を見つけ、祈りが神に良しとされない原因も知りました。わたしたちはまた、その中からこういうことが分かりました。祈る時、主に聞き入れられ、神に導かれることを望むなら、偽りの祈り、自分をもちあげ他人をけなす祈り、わざと自分をひけらかす祈り、自己を認識していないような祈り、繰り返しの理論的な祈り、口先だけの祈り、見せかけをやるような祈り、大きなことばかり言って実質を伴わないような祈り……を取り除かなければなりません。例えば、わたしたちは集会の中で、そばの人に自分が神を信じることに非常に優れているのを見せようとして、祈る時いつも聞こえのよいことを言い、自分がどのくらいの代価を払ったか、どのくらい費やしたかを言います。これは偽善的な祈りです。多くの時、わたしたちは祈りの中で同じ言葉を繰り返します。祈る時間が長いですが、祈った後、主に何を言ったかさえも忘れるかもしれません。これは口先だけで神をごまかす祈りです。多くの時、わたしたちは他人に偏見を抱きます。でも、わたしたちは主の前にひざまずいた後、主の意志を求めず、どのように主の教えを実行するかを探究せず、むしろ神に苦しみを訴え、相手の過ちを言い、そして自分がどのように相手を大目に見、譲歩したかを言います。これは自分をもちあげ他人をけなす祈りです。多くの時、主の恵みを見た後のわたしたちは勝手に主に約束し、主を満足させようと誓いを立てますが、事が臨むと、やはり古い己、血気によって事を行ない、言葉を言います。これは、大きなことばかり言って実質を伴わないような祈りです。……現実生活の中で、わたしたちのこのような、神の心にかなわない祈りはいつも現れます。だから、わたしたちの祈りは主に聞き入れられることができません。わたしたちが祈る時に神に導かれることを望むなら、神に嫌われるこれらの祈りを解決しなければなりません。それでこそ、わたしたちと神の関係はますますよくなることができます。

   主イエスの言葉から、わたしたちはこういうことが分かりました。主イエスがわたしたちに要求される祈りは、霊と誠実さをもって本音を語ることです。祈る時、そんなに多くの言葉を言う必要がなく、そんなに聞こえがよい言葉を言う必要もなく、誠実な心を持つべきです。このような祈りこそ神に良しとされることができます。


招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない

2020-05-17 22:16:41 | デボーション

   わたしは地上において、わたしの追随者となるように多くの人々を求めてきた。これら追随者の中には、祭司として仕える人々、先導する人々、子となる人々、民を形成する人々、奉仕をする人々がいる。彼らがわたしに見せる忠実により、わたしは彼らをこれら異なる種類に分ける。すべての人々がそれぞれの種類に従って分類されたとき、つまり人間の各種類の本性が明らかにされたとき、人類の救いというわたしの目的を実現できるように、わたしは人間一人ひとりをそのしかるべき種類の数の中に入れ、各種類をその相応しい場所に置く。さらに、わたしの家に戻るべく救うことを欲する人々の集団を呼び、これらの人々すべてが終わりの日のわたしの働きを受け入れることを許す。同時に、わたしは人間を種類に従って分類し、一人ひとりをその行いに基づいて報いるか罰する。これがわたしの働きを成す歩みである。

 

 

   今、わたしは地上に暮らし、人々のもとで生活している。人々は皆、わたしの働きを経験したり、わたしの発言を見守ったりしている。またそれとともに、わたしの追随者たちがわたしからいのちを受け、それゆえに彼らがたどることのできる道を得られるように、彼ら一人ひとりにあらゆる真理を授ける。わたしは神、いのちを与えるものだからである。わたしの何年もの働きのあいだ、人間は多くを受け、多くをあきらめてきたが、それでも人間は真にわたしを信じていないとわたしは言う。なぜなら、人間はわたしが神であること口先では認めはするものの、わたしが話す真理には異議を唱え、わたしが彼らに要求する真理の実践を行なうことなど尚更ないからである。つまり、人間は神の存在だけを認め、真理の存在は認めない。神の存在だけを認め、いのちの存在は認めない。神の名だけを認め、神の本質は認めない。その熱心さゆえに、人間はわたしにとって嫌悪するべきものとなった。人間はわたしを欺くために、耳に心地よい言葉を使うだけで、わたしを真の心をもって礼拝する者はいないからである。あなたがたの言葉には、蛇の誘惑がある。さらに、それは極端なまでに不遜で、まさに大天使の宣言そのものである。その上に、あなたがたの行いは不名誉なほどにボロのように破れている。あなたがたの過度の欲望や貪欲なもくろみは聞くに堪えない。あなたがたは皆、わたしの家の蛾、嫌悪をもって捨て去られる対象になった。あなたがたの誰も真理を愛する人ではなく、むしろ祝福を欲し、天に昇ることを欲し、キリストが地上でその力を振るう荘厳な光景を見ることを欲する人だからである。しかし、そこまで深く堕落し、神が何であるかを全く知らないあなたがたのような人が、どうして神に従うに値することがあり得るのかを考えたことがあるのか。どうして天に昇れるというのだろうか。壮麗さにおいて前例のないその荘厳さを見るのに、どうして値することがあり得るというのか。あなたがたの口は欺きと汚物、裏切りと傲慢の言葉で満ちている。誠実な言葉をわたしに語ったこともなければ、聖なる言葉も、わたしの言葉を経験しても、わたしへの服従の言葉も語ったことがない。最後には、あなたがたの信仰はどのようになるのだろうか。あなたがたの心は欲望と富で、あなたがたの頭は物質的なもので満ちている。日々、あなたがたはいかにして何かをわたしから得ようかと、どれほどの富と幾つの物質的なものがあるかを計算している。日々、さらに多くの、もっと良い享受されるものが享受できるようにと、あなたがたにさらなる祝福が施されるのを待っている。あなたがたの考えにいつ何時もあるのはわたしではなく、わたしから来る真理でもなく、むしろあなたがたの夫(妻)や息子、娘、あるいは食べたり着たりするもの、あなたがたの楽しみがいかに増え、さらに良くなることができるかということである。たとえ限界まで満腹したところで、あなたがたは死体とほとんど変わらないのではないのか。たとえ外見を豪華に着飾ったところで、あなたがたはいまだに、いのちのない歩く屍ではないのか。あなたがたは食べ物のために、髪に白髪が交じるまで懸命に働くが、わたしの働きのために毛一本犠牲にする者は誰もいない。あなたがたは常に、体を酷使し頭を悩ませて、自分の肉体のため、息子や娘のために働きづめだが、わたしの心に気づかいを見せる者はひとりとしていない。あなたがたがわたしからまだ得ることを期待しているものは何なのか。

 

   働きを行なうにおいて、わたしは決して急がない。人間がいかにわたしに従おうとも、わたしは一つひとつの歩みに沿って、わたしの計画通りに働きを行なう。したがって、あなたがたがこれほどわたしに反抗しても、わたしはそれでも働きを止めず、語りたい言葉を語り続ける。わたしは予定していた人々を皆、わたしの言葉の聴衆とするためにわたしの家に呼び、わたしの言葉に従い、言葉を慕い求める人々を皆、わたしの玉座の前に置く。わたしの言葉に背を向ける人々、わたしに従わず服従しない人々、公然とわたしに挑む人々は皆、最後の罰を待つべく脇へやられる。すべての人々は堕落の只中、邪悪な者の手の下で生きているので、わたしに従う人々のうちで実際に真理を慕い求めているのは、それほど多くない。つまり、ほとんどがわたしを真の心、あるいは真理をもって崇拝しておらず、むしろ堕落や反抗、欺きの手段を通してわたしの信頼を獲得しようとしているのである。それゆえ「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」とわたしは言うのである。招かれる人々は皆、深く堕落しており同じ時代に生きているが、選ばれる人々は真理を信じ認め、真理を実践するその集団だけである。それらの人々は全体の小さな一部に過ぎず、それらの人々のあいだから、わたしはさらなる栄光を受ける。これらの言葉に照らし合わせて、あなたがたは自分が選ばれる者の中にいるか否かわかるだろうか。あなたがたの最後はどのようになるだろうか。

 

   すでに、わたしに従う人々は多いが、わたしを真の心でもって愛すものは少ないと言った。おそらく、「もし私があなた様を愛していなかったなら、こんなに大きな代償を払っていたでしょうか。あなた様を愛していなかったなら、ここまで従ってきたでしょうか」と言う人がいるだろう。確かに、あなたには多くの理由があり、そして確かにあなたの愛はとても大きい。しかし、あなたのわたしへの愛の本質は何なのか。「愛」と呼ばれるものは、純粋できずのない感情を指し、心をもって愛し、感じ、思いやりをもつ。愛においては条件、障壁、距離がない。愛においては疑念、欺き、悪賢さもない。愛においては距離も不純なものもない。愛するならば、欺いたり、不平を言ったり、裏切ったり、反抗したり、強要したり、何か、何らかの額や量を得ようとしたりすることはない。もし愛するならば、喜んで犠牲を払い、苦労に耐え、わたしと融和するようになる。あなたは自分のすべてをわたしのためにあきらめるだろう。家族、将来、青春、そして婚姻をあきらめる。そうでなければ、あなたの愛は愛などではなく、欺きと裏切りである。あなたの愛はどのような愛なのか。真の愛なのか。あるいは贋物なのか。あなたはどれほどあきらめてきたのか。どれほど捧げてきたのか。わたしはあなたからどれほどの愛を受けてきたのか。あなたは知っているのか。あなたがたの心は悪、裏切り、欺きで満ちている。そのような状態であるならば、あなたがたの愛には幾つの不純物があるのか。あなたがたは、自分はわたしのためにすでに十分あきらめてきたと思っている。自分のわたしへの愛はすでに十分だと考えている。しかし、それならば、あなたがたの言葉と行動にはなぜいつも反抗と欺きがあるのか。あなたがたはわたしに従うものの、わたしの言葉を認めない。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしを脇へ置く。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしに疑いをもっている。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしの存在を受け入れられない。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしが誰であるかに相応しくわたしを扱わず、あらゆる機会にわたしにとって物事を困難にする。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、あらゆる事柄においてわたしをからかい欺こうとする。これを愛とみなすのか。わたしに仕えるものの、わたしを恐れない。これを愛とみなすのか。あなたがたはあらゆる面で、あらゆる事柄においてわたしに反対する。これをすべて愛とみなすのか。あなたがたはかなりの犠牲を捧げてきたのは確かである。しかし、わたしがあなたがたに要求することを実践したことが全くない。これを愛とみなすことができるだろうか。注意深く検討すると、あなたがたの中にはわたしへの愛のほんの少しのほのめかしもないことがわかる。これほど長年の働きとあれだけ多くの言葉を与えてきた後、あなたがたは実際にどれほどのことを得てきたのか。このことは注意深く振り返り検討する価値がないだろうか。わたしはあなたがたに警告する。わたしのもとにわたしが招く人々は、堕落させられたことがない人々ではない。それよりは、わたしが選ぶ人々は、わたしを真に愛する人々である。したがって、あなたがたは自分の言葉と行いに注意して、一線を超えないように自分の意図や考えを検討しなければならない。この終わりの日の時において、わたしの前にあなたがたの愛を捧げるべく出来る限りのことをし、わたしの怒りがあなたがたから決して離れることがないようにしなさい。