賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書の中のダビデ王はなぜ神の御心に適っていたのか

2020-05-05 11:20:50 | 聖書の解説

  ダビデ王はイスラエルの民から深く尊敬され支持された王でした。

 

 

   ダビデの名前を聞くと、彼の勇敢な行為が私の頭の中に沢山浮かびます:彼は石を投じて巨人ゴリアテを殺しました。彼は勇敢に戦いに挑み、各戦いに勝利しました。彼はプサルテリーとハープを奏でてヤーウェ神を讃えました⋯しかし、私はウリアを殺し彼の妻バテシバを力ずくで奪ったという彼の汚点も覚えています。

   私たちはダビデをどう見なすべきでしょう?彼はどのような形で見習うとためになるのでしょう?

ダビデ王の悔い改め

   ダビデがウリアを殺しバテシバを力ずくで奪った後、神の義なる性質が彼に降りかかりました。次の聖句に神のダビデに対する姿勢が記録されています、「あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう」サムエル記下 12:10。 神からの罰に直面したダビデはそれを進んで受け入れて神に服従し、さらに彼は慌てて神に祈りを捧げ、神の前で悔い改め、神の御慈悲を請いました。彼はこのようにヤーウェ神に祈りを捧げました、「主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。…夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした」詩篇 6:4-6。ダビデは自分が犯した過ちに対して深い自責の念を感じました。彼は毎日神の前で自分の罪を告白し、悔い改め、断食しながら祈りを捧げました。「夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした」という言葉がダビデの自責の度合を反映しています。これより、彼は心から悔い改めていたことが分かります。




   聖句にはこれも記録されています、「ダビデ王は年がすすんで老い、夜着を着せても暖まらなかったので、その家来たちは彼に言った、「王わが主のために、ひとりの若いおとめを捜し求めて王にはべらせ、王の付添いとし、あなたのふところに寝て、王わが主を暖めさせましょう」。そして彼らはあまねくイスラエルの領土に美しいおとめを捜し求めて、シュナミびとアビシャグを得、王のもとに連れてきた。おとめは非常に美しく、王の付添いとなって王に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった」列王紀上1: 1-4。

   これらの聖句から、年老いたダビデは寝る時に温まることができなかったため、彼の召使がとても美しく若い女性を彼のベッドに連れてきて彼の布団の中で寝かせ、彼を温めさせていたことが分かります。しかしダビデ王は彼女を知ろうとはしませんでした。ダビデが以前犯した罪過が神の性質を害したことは明らかですが、これを理解した彼は完全に悔い改めて変化を遂げることができ、不倫は人生を通して一度しか犯しませんでした。彼の身分と地位を考慮すると、彼がそうすることは容易ではなかったと言わざるを得ません。これは、彼の神への信仰は真なるものであったこと、そして彼は神を敬けんする心を持っていたことを的確に証明しています。そして、彼は神の御言葉を嫌おうとはせず、もう二度と神の名を汚したくなかったのです。彼は神の前で心から悔い改めたおかげで神の御慈悲と容認を得ることができ、神はもう彼の罪過を覚えてはおられませんでした。

   しかし、神がダビデを是認されたことを知っていながらも、私たちの多くはそれが理解できず、彼に対する偏見を抱いています。なぜなら、私たちはダビデは一度不倫しており、他人の妻を力づくで奪い取り、彼女の夫を殺したと思っているからです。私たちはダビデの本性と本質を知らないと言わざるを得ません。ダビデは不倫を犯しはしましたが、悔い改めた後は二度と他の女性には手を出さず、美しいおとめが自分のふところで寝ていてもそれに動じませんでした。従って、ダビデはこの側面において完全に悔い改めたことが分かります。彼の本質に関して言えば、ダビデは善良の人だったのです。古代から現在まで、この点においてダビデより優れていた王は世界中に一人もいなかったと言えるでしょう。

   ダビデと比較すると、私は自分が恥ずかしくなります。ダビデはこの過ちを一度犯しただけで、彼はそれを完全に悔い改め、もう二度とその過ちは犯しませんでした。しかし私たちはどうかというと、私たちは罪を犯したら主に祈りを捧げ、口では悔い改めます。しかし、また類似する状況に直面すると、私たちは依然として自制できずに罪を犯し神に背いてしまい、罪を犯しては告白するというサイクルの中を生きています。これは私たちの悔い改めは単なる口だけのもので、私たちは神を恐れる心を持っておらず、ダビデが行ったように悔い改めていることを実際に貫いて証明できていないことを示しています。これ故に、ダビデの真の悔い改めは私たちが本当に見習うべきものであるのです。

ダビデ王は神殿を建てた

   この聖句にはこう書かれています、「ダビデ王はまた全会衆に言った、『…この事業は大きい。この宮は人のためではなく、主なる神のためだからである。そこでわたしは力をつくして神の宮のために備えた。すなわち金の物を造るために金、銀の物のために銀、青銅の物のために青銅、鉄の物のために鉄、木の物のために木を備えた。その他縞めのう、はめ石、アンチモニイ、色のついた石、さまざまの宝石、大理石などおびただしい。なおわたしはわが神の宮に熱心なるがゆえに、聖なる家のために備えたすべての物に加えて、わたしの持っている金銀の財宝をわが神の宮にささげる』…そこでダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った、『われわれの先祖イスラエルの神、主よ、あなたはとこしえにほむべきかたです』」(歴代志上 29:1-3,10)。

   ダビデは神の御心に対し最も深い配慮を示し、彼の人生における願いはヤーウェ神のために神殿を建てることでした。人々はサタンに堕落させられた後は頻繁に罪を犯し、サタンを礼拝し、そして偶像を礼拝するということを知った彼は、より多くの人々が神の前に行って神を礼拝できるようにと、神を礼拝するための神殿を建設することを検討しました。ダビデは神を敬けんし恐れる心を持っていたのです。彼は神の御心に最善の注意を払い、神の御心配されることを心配し、神が御考えになられていることを考え、心から犠牲を払ったのです。この聖句の記録より、彼は心と努力の全てを込めながら神殿の建設に必要な物全てを揃え、自分の貯金全額を寄付したことが分かります。ダビデは生涯の間に神殿の建設を完成させることはできませんでしたが、自分の息子ソロモンに自分が人生を通して叶えられなかった志を持ち続けるよう命じ、最終的に神殿は建設されました。

   明らかに、ダビデの行いは神の御旨に対する配慮を示すこと、神を満足させること、そして神を礼拝することを目的としていました。神の御旨を配慮し、心に神を宿らせていたこの人は神の前に全ての民を導くことができました。そうなら、どうして神は御不満であられたのでしょうか?一般家庭において、分別のある子供が自分の両親が沢山辛い思いをしているのを見ると、彼は心の中でこう考えます:「僕はいつになったら大きくなれるんだ?いつになったら両親のために何かをして両親の心配を分かち合うことができるようになるんだ?」親は自分の子供が思いやりのある子だと知ると喜びを感じます。これと同様に、神は働きにおける何らかの段階をなさる度に神からの任務を担い、神と協力し合おうと神のために労力を費やす人を必要とされます。ダビデはそのような人でした。

   私は、ダビデは神の御心に沿っていると神が仰った理由が理解できました:1つの点として、彼は罪を犯した後に心から後悔の意と悔い改めを抱いたことが言えます。もう1つの点としては、彼は神の御心に対して最も深い配慮を示し、神のために心をこめて神殿を建設し、全ての民を神を礼拝するように導いたことが言えます。従って、彼は神から好まれ、神の御旨と最も一致していた人であったのです。私はダビデの例に習い、神を恐れる心を抱き、神に抵抗して神の名誉を汚すことになるような罪を意図的に犯さず、悔い改めること、変化を遂げること、そして神を讃えることに注意を払い、これらを実際に貫いていきます。さらに、私は神の御心に最善の注意を払い、神の福音を伝導し、より多くの人々を神の前に導きたいと思います。


クリスチャンの体験談|正直な人になることは喜びに溢れたことです

2020-05-04 21:25:44 | 職場の人間関係

   私達は日常生活の中でこれらのことに常にイライラさせられます。たとえば、あなたがいくつかの何気ない言葉を誰かに言い、その人が予想に反して、冷たい返事をしてきます。その人はあなたの言葉を誤解したようです。そこで、あなたが急いであれこれ説明しますが、全く役に立ちません。別の例では、ある友人が突然あなたに素気ない態度を取るようになりました。何が起きたのかあなたが分からないでいると、別の友人が、あなたが先日言った言葉により、あなたがバカにしているとその人が思うようになったと教えてくれました。これを聞いてあなたは「それは不公平だ!そんなつもりでは全くなかった。どうやったらそんな誤解ができるのか?彼女は何と心が狭い人なんだ!」と叫ぶでしょう。この時、あなたは憂鬱な気持ちと、申し訳ない気持ちと、無力感に苛まれているはずです。

   話し手と聞き手が怒りを感じ、動揺する一方で、傍観者は冷静に、「話し手はそんなつもりではなかったかも知れないが、聞き手は重く受け止めた」と結論付けます。話し手が気軽に言った言葉に聞き手が腹を立てる。なぜそのようなことが起きるのでしょうか?なぜ、私達は誰かが言った言葉について、心の中で反芻し、その意味について想像し、話し手の立場を難しくするのでしょうか?実は、私もかつては敏感な聞き手の1人でした。誰かの何気ない言葉を分析し、次のように考えたものでした:彼女はどういうつもりでこれを言っているのだろう?私を見下しているのだろうか?私をバカにしているのだろうか?たとえば、ある同僚が「服装のせいで、今日はいつもと違って見えるよ!」と言ったとすれば、私は次のように考えたものです:どういう意味だろう?このドレスが似合ってないという意味だろうか?褒めているのか、バカにしているのか?別の例では、ある時、旅行について同僚とおしゃべりをしていて、私は「箱根は温泉が多い以外面白いことはないわ」と言いました。すると、同僚の1人が驚いて「あなたは箱根にも行ったことがあるのね。旅行?それとも住んでいたの?」と言いました。これを聞いて私はとてもイライラしました。彼女は私が旅行に行くためのお金がないと思って見下しているのだろうか?そこで、不機嫌に「旅行よ。どうしてこれにそんな大騒ぎするの?」と答えました。一瞬で、雰囲気が張り詰めたものになりました。こんな風に、私は常に誰かの言葉に影響されて不機嫌になったり、時にはかっとなったりしていました。また、私は常に損得が気になり、それを解放することができませんでした。それは私の親密な人間関係にも影響を及ぼしました。こんな風になりたくはありませんでした。しかし、何かに遭遇するとすぐに自分の考えをコントロールできずにいました。このことに私は困っていました。

   ある日、私はこれらの言葉を読みました。「わたしは他人に対して疑いを持っていない人を高く評価し、真理を容易に受け入れる人を好んでいる。わたしはこれらの2つの種類の人間を大切にする。わたしの目には正直な者たちだからだ。あなたが非常に狡猾であるならば、あなたはすべての事柄およびすべての人に関して疑いを持つ、器の小さい心と思考を持っているであろう。」

 

 

   私は、自省し始めました。私は何気ない言葉を聞くと、それを別の意味に解釈していました。誰かが正直に思ったことを口にすると、この言葉を分析し、その人の言葉には別の意味があったり、私を見下したりバカにしたりしているのではないかと考えていました。私は常に狭い心から生まれた考えを使って人々の親切心を評価し、かっとしたり、悲しくなったりしていました。さらに、他人に対し、偏見や妬み、憎しみの気持ちも抱えていました。これらの態度を思い返し、私は「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」というサタンの毒に支配されて生きていたことに気が付きました。私は常に他人が私のことをどう思っているかを気にしていました。私の面目を失わせるようなことを聞くと、その話し手に対して疑いの念を抱き、嫌な態度を示すことさえありました。その結果、私は周りにいる人々を傷付けていました。その一方で、私自身もひどく苦しみ、誰も信用できないでいました。私があまりにも面目にフォーカスしすぎ、不正直の本性があることこそが、これを引き起こしているのではなかったでしょうか?その時、次のことに気が付きました。他者と仲良くしている時、私達は他者に対して先入観を持ち、何気ない言葉を聞くと、それには隠された意味があり、彼らは私達を辱めようとしているのだと考え、疎遠になります。友人同士が二度と連絡を取り合わないようになることさえあります。これはすべて、私達が面目にあまりにも気を取られすぎており、他者を疑う傾向にあるためです。私は、「注意深い聞き手には、何気ない言葉が多くのことを示すことがある」という言い回しにおける問題の根本を突き止めました。

   私は次の言葉を反芻しました。「わたしは他人に対して疑いを持っていない人を高く評価し、真理を容易に受け入れる人を好んでいる。わたしはこれらの2つの種類の人間を大切にする。わたしの目には正直な者たちだからだ。」そして、主イエスが私達にお教えになった御言葉についても考えました。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである」マタ 5:37。これらの言葉から、私は正直な人間になることの重要性が分かりました。神様は誠実であられるため、正直な人間を愛されます。正直な人間だけが真の人間らしさを持っています。正直な人間は子供のように無邪気で、スペードをスペードと呼び、偽りがなく、誠実です。さらに、正直な人間は面目や見栄のために生きることも、他者を疑うことも、自分勝手に他者を憶測することもありません。正直な人間は周りの人と簡単に仲良くし、人気者となります。日々の生活の中でさまざまなことに遭遇する時、神様は私達が神様の御言葉に従うことができるのかを確認するため、私達をお試しになっています。その時、私は心の中で密かに「私は神様の御言葉の要件に従い、正直な人間になることを実践していこう」に決意しました。

   ある日、昼食を取っていると、同僚が私のお弁当の中のおかず(人参ともやしの炒め物)を見て、「今、人参は安売りしているの?」と言いました。これを聞いて、たくさんの思いが頭を巡りました。彼女はどういうつもりでこれを言っているのだろう?彼女は私が貧しく、間に合わせで作る食事のために高価な野菜を買うことができないと思っているのだろうか?彼女は私のことをせせら笑っているのだろうか?私は少し腹を立てました。しかし、思い直し、神様の御言葉を思い浮かべると、私は面目を守ろうとして不正直の性情が現れていたことに気が付きました。彼女は人参が安く売っているのかどうかを普通に尋ねただけでした。「はい」であれば「はい」なのです。私が正直に答えることは全く正しいことです。なぜ、私は彼女を推察するのでしょうか?私はこの考えを手放し、穏やかに「はい!」と答えました。すると、この同僚は嬉しそうに、「今年の冬は寒くて、ほとんどの野菜が高値で売られています。でも、人参は寒さに耐えることができるのね・・・」と言いました。

   その後、数分前に私の考えが変化したことを思い返してみました。私の心は神様への感謝で一杯になりました。あぁ神様。あなた様の御導きがなければ、私は不正直な性情に従い生き、私の面目を守るために同僚の言葉を誤解していたでしょう。そうなっていれば、私は自分自身が悲しくなり、頑なな状態になっていただけではなく、同僚も傷付けていたでしょう。そう考えると、心の中に少し、甘くくすぐったいような気持ちがしました。神様の御導きにより、私は解放され、自由になりました。もう他者の言葉の裏にある意図や動機を疑うことはありません。


祈りの方法 – 4つの要素を把握したら、あなたはどのように祈るべきか分かる

2020-05-03 21:00:38 | デボーション

   祈りはクリスチャンが神様と正常な関係を確立する一つの道です。私たちがデボーションするときに祈る必要があるだけではなく、生活中でさらに私たちが神様の前に来て祈ることが必要です。そのため、祈りの実践はクリスチャンにとって極めて重要です。では、どのように祈れば効果を達成できるのでしょうか。

1.主イエスの言葉を理解するためにいつも神に祈らなければならず、また主イエスの言葉の実際の意義を探究し、理解しなければなりません。

   ヨハネによる福音書第14章6-7節にこう書かれています。主イエスは言われた。「わたしは道であり、真理で あり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」。主イエスは彼が道、真理、命だと言われました。わたしたちも主イエスがわたしたちの牧者、また暗やみの中で模索しているわたしたちのともし火、案内者だと信じています。主イエスはすでに彼の言葉を通してわたしたちに道を指し示し、また命をわたしたちに与えられました。今日主イエスにつき従うわたしたちは、主イエスの言葉を通して主イエスの言葉の真意をもっと多く理解すべきであり、また主イエスの言葉を理解するためにいつも祈りをささげて、神の導き、啓きを求めるべきです。

 

 

2.祈るのは、主の言葉の中の真理、主の言葉の意図を理解することによって、神に従い、神を礼拝するという効果を収めるためであって、宗教的儀式をやって神を欺くためではありません。

   祈ることは、わたしたちが直接神とコミュニケーションする方法です。わたしたちは、祈りの意義が真理を理解して神に従い、神を礼拝することだと知らなければなりません。主イエスはかつてわたしたちにこう教えられました。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(マタイによる福音書6:5)。主イエスはまたこのようにパリサイ人をしかられました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(マタ23:14)。神に祈ることは神聖なことであって、宗教的儀式をやってはなりません。決してパリサイ人のように見せかけの祈りをしてはなりません。あのような祈りはうわべでは敬虔なように見えるが、実質的には神をだましているのです。主イエスは「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネによる福音書4:24)と言われました。そのため、わたしたちが神に祈る時、敬虔な心を持たなければなりません。

3.祈る時には、わたしたちは実際の生活の中の困難、問題に結びつけて神に祈り求め、祈るべきで、現実から離れて空論や文字の中の教理を説いてはなりません。

   主イエスは祈りについてこう言われました。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイによる福音書6:7-8)。主イエスの言葉から分かりますが、祈る時にくどくどと無意味な言葉を話すなら、主イエスはそれを異邦人の祈りだと言い、それを喜びません。そのため、わたしたちは実際の生活の中の困難、問題に結びつけて神に祈り、誠実な祈りをするべきです。なぜなら、神はわたしたちに必要なもの、わたしたちの求めるものを知っておられるからです。

4.祈り求め、祈る過程の中で、神を畏れる心と理知を持たなければなりません。祈る中で、神に要求し、無理強いし、神を利用してはならず、また神と取引してはなりません。

   旧約聖書の中のヨブの祈りはわたしに最も深い感動を与えました。ヨブが子女と財産を失った後、「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。『わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ』」(ヨブ記1:20-21)。ヨブは祈る時、神になぜそうするかと詰問せず、また神に彼の子女と財産を返すように要求せず、神がそれを返さなければ、彼が神を信じなくなるとも言いませんでした。このすべては神の手によって支配されているので、被造物としては、造物主に従うべきだと、ヨブはよく知っていたからです。ヨブの祈りには神に対する従順、畏れ敬いがあります。

   ゲツセマネの園での主イエスの祈りは新約聖書にこう記されています。「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた、『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに』」(マタイによる福音書26:39)。「更に、二度目に向こうへ行って祈られた。『父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように』」(マタイによる福音書26:42)。主イエスの祈りからこういうことが分かります。主イエスは天の父の御心を行なうために祈られたのです。主イエスも人性の弱さがありますが、でも彼の祈りには従順さ、理知があります。


今日のみことばー神の現れによる新時代の到来(抜粋 1)

2020-05-02 00:09:28 | デボーション

   六千年間にわたる神の経営(救いの)計画が終わりを告げようとしている。そして、神の国の門は神の現れを求める人々にすでに開かれている。兄弟姉妹たちよ、何を待っているのか。あなたがたが探し求めているものは何か。神の現れを待っているのか。神の足跡を探し求めているのか。ああ、神の現れがどれほど慕わしいものか。だが、神の足跡を見出すことがいかに難しいことか。今のような時代に、このような世界で、神の現れる日をこの目で見るために何をしなくてはならないのだろうか。神の足跡をたどるには何をしなければならないのだろうか。神の現れを求める人であれば、だれでもそのような疑問を持つものである。あなたがたもそのような疑問を抱いたのは一度や二度ではないと思うが、その結果はどうだったか。神はどこに現れるのか。神の足跡はどこで見つかるのか。そうした疑問に対する答えは見つかっただろうか。そうした問いに対して、次のように答える人が多い。「神は自分に聞き従う人々に現れ、神の足跡は私たちのただ中にある。そんなに難しいことではない。」決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神が仕事を行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質は保ったままで、また神自身の方法で、神は時代を始め、時代を終わらせるために人間世界に下ってきた。このような神の現れは儀式のようなものではない。それは何かのしるしでも、絵画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な儀式でもない。それは、実際に手で触れ、見ることのできる動かしがたい事実である。このような神の現れは何かの手順を踏むためのものでも、短期間の仕事のためのものでもない。それは、神の経営(救いの)計画の中にある一つの段階を実現するためのものである。神の現れは必ず何かの意味があり、必ず神の経営(救いの)計画と関係している。ここで言う現れは、神が人を導き、先導し、啓くときの現れとは全く異なる。神は自身を現す度に、神の大いなる業の一つの段階を実行に移すのである。この働きは他のどの時代の働きとも異なる。それは人には想像もできないもので、人が経験したことがないものである。その働きは、新しい時代を到来させ、古い時代を完結させるもので、新しい、一歩進んだ、人類を救う働きである。さらには、人類を新しい時代に導き入れる働きである。神の現れが持つ意義はそこにある。

   神の現れについて理解するとともに、神の足跡をどのように探し求めるべきなのだろうか。この問いに答えるのはさほど難しくはない。神の現れがあるところで神の足跡も見つかるからだ。そう言うと単純に聞こえるが、実際に見つけるのは単純なことではない。多くの人は、神がどこで自分を現すか、ましてや神がどこで自分を現したいか、現すべきかを知らないからである。ある人々は、聖霊の働きがあるところには神が現れると何の考えもなく思っている。または、霊的な指導者がいるところに神が現れると思っている。あるいは、人々の知名度が高いところに神が現れると思っている。そうした考えが正しいかどうかは、今のところは深く考えないでおこう。このような問題を解説するには、まず目的をはっきりさせる必要がある。私たちが探し求めているのは神の足跡である。霊的な指導者を求めているのでもなく、ましてや有名人でもない。私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。人の本分は、探し求め、受け入れ、従うことである。

   アメリカ人でも、イギリス人でも、どこの国の人でも、自分という枠を乗り越え、自分という存在を超越し、神の創造物として神の働きを見なくてはならない。そうすれば、神の足跡を枠にはめることはないだろう。それは、特定の国や民族に神が現れることはないだろうと考えている人が多いからである。ああ、神の働きの意義はなんと深く、神の現れはなんと重要か。それは人の観念や考えで測ることなどできるのだろうか。そのため、神の現れを探し求める際には、みずからの国籍や民族性という枠を突き抜けるべきである。そうすれば、自分自身の観念に制約されることなく、神の現れを喜び迎えることができる。そうでなければ、暗闇の中にいつまでもとどまり、神から認められることもない。

『言葉は肉において現れる』より

 

 

 

御言葉讃美歌

   神の現れが持つ意義

   神の現れとは業のため神降ること、神の方法で身分も性質も保ちながら、時代を始めまた幕引くため神は降る。神の現れはしるしや絵画ではなく、奇跡でも大いなる幻でもない、ましてや宗教的な儀式でもない。それは実際に見て触れることのできる事実である。神の現れは、業の手順踏むためや早く終わらせるためではない。それはむしろ神の救いの計画の一つなのだ。

   神の現れには必ず何かの意味があり、救いの計画にいつも繋がりを持っている。それは人を導いたり説き悟らせるものではない。神の現れはその時代それぞれで偉業を働くためである。それはどの時代とも異なっていて、人には経験も想像もできない、想像さえも。神の現れは新しい時代の幕を開けまた幕を引くため、新しい、一歩進んだ、人類を救う働き、人を新しい時代へと導いてゆく。これが神の現れの意義。これが神の現れの意義。

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


金のために命を危険にさらした日々に別れを告げる

2020-05-01 12:00:43 | 信仰生活

   もし神によって救われなかったら、私は今もなおこの世を漂い、

   罪の中でもがき苦しみ、何の希望もなく生きているだろう。

   もし神によって救われなかったら、今もなお悪魔たちに踏みつけられ、

   罪の快楽に耽り、人間が生きる道がどこにあるのか知らずにいるだろう。

  全能神は私に憐み深く、神の言葉は私に呼びかける。

   神は私に御声を聞かせ、私を御座の前に引き上げる。

   私は日々神の言葉を食べ飲みし、聖霊の働きを楽しむ。

   私には分かる。人類の堕落は余りに深いから、我々はほんとうに神の救い

   必要とする。

   (『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「もし神によって救われなかったら」より)

 

   この美しい旋律の賛美歌を聞くたびに、私は神への感謝の気持ちで一杯になります。神にお金中心の泥沼の生活から救って頂いたおかげで、私はもはや死に物狂いで働かなくなり、お金のために命まで危うくする生活に別れを告げたのです…

 

 

奮闘-心身共に疲弊

   私は家が貧しく、小さい頃は友人や親戚にばかにされ、蔑まれていたので、「大人になったらお金をたくさん稼いで偉くなって、みんなを見返してやる」とひそかに決意していました。大人になってからの私は、お金の稼ぎ方を学ぶために、よく人に食事をおごって、その筋に詳しい友人を増やしました。ある時、友人たちが飲み過ぎて他の人と喧嘩になりました。私は喧嘩を止めようとして目を負傷し、入院することになりました。その時から友人たち全員が離れて行き、私は大変落胆しました。治療に多額の費用がかかるため、家族の借金がかさみました。私はそれで大きなストレスを抱え、夜も眠れないことが多く、夜中に起きて川辺まで行って泣き叫ぶこともありました。この拝金主義の社会の中では、人の社会的地位が持っているお金の額で測られることを、私は残酷な現実から一層実感しました。そのため、「絶対に大儲けして、この卑しい身分を変えてやる」と再び決心したのです。

   後に私は、「海外に働きに出ればたくさん稼げる」という話を聞きました。それはかなりのリスクを伴いました。けれどもその時はお金のことしか頭になかったので、海外に出ることを決意します。ある時、外国のある漁業会社と労働契約を交わす際に、「従業員が漁業中に命を落とした場合、当社は五万元の補償金を支払う」という条項を見ました。この条項を読んで気持ちが沈み、「僕はまだ29歳だ。戻って来れなかったら誰が妻と子の面倒を見るんだろう」と思いました。しかし、こうも考えました。「海外に働きに出なかったら、いつ借金を清算して好きな生き方ができるんだ。リスクがあってもやってみよう。もし本当に戻れなくても妻と子に五万元残るのだから、やってみる価値はある」。それで私は身の回りの整理を済まして出稼ぎに行きました。

   2000年12月のある日、私は漁船に乗って、アルゼンチンとウルグアイまで漁に出ました。海が激しく荒れ狂っていたため、いつ波に飲み込まれてもおかしくない状況で、私は非常にストレスを感じ、少しも気を弛めずにいました。その時同僚の乗組員が、漁網に足が絡まったと同時にいきなり押し寄せた波にさらわれてしまい、一瞬のうちに私の目の前で姿を消してしまったのです。これを見て、私はあまりのショックと恐怖に冷汗を流し、こう思いました。「本当に金のために命を売る仕事だな。僕もいつこんな事故に遭うか分からないんだ。でも背に腹は代えられない。どんなに危なくても仕事はしないと。金ができて初めて自立して人によく見てもらえるんだ」。

   こうして私は、この機会に恵まれてよかったと感じるようになり、じっと苦痛をこらえて、この仕事を4年間続け、やがてお金をたくさん稼ぎました。無事に家に帰ったその日は非常に興奮し、「やっと貫禄が付いたぞ」という気分でした。帰国後、私はまず家を思い切り改築し、それから様々な家電製品を買いました。親戚も隣人も以前の友人たちも皆、私を見る目が変わり、お世辞を言ったり、頼まなくても家に来て手伝いを買って出たりします。私は自分自身を誇らしく思い、お金を持つことが確かに良いことであり、お金が全てだと一層感じました。しかし、それでも満足せず、もっと稼ぎたいと思ったのです。

   2008年3月、私は叔父の勧めで韓国のゴム工場で働くようになりました。ゴムの臭いは非常にきつく、体の健康にとても有害でしたが、稼げればいいんだと、気にしませんでした。一日24時間分の仕事をすることもあり、鼻血が出ても働くのをやめる気はありませんでした。それを見た叔母に「进(ジン)取(チュ)、そんなに働いちゃだめよ。体が大事なんだから。健康じゃないとお金も稼げないわよ」と言われました。叔母の言う通りでしたし、私も仕事を休みたいとは思いました。しかし、一日でも休むと稼ぎも少なくなります。それで私は休むことを思い止まり、「若くて体力があるうちに稼がないと。家に帰る頃には、状況はもっと良くなっているし、家族は村の誰よりも楽ができるはずだ」と思いました。

   2011年に、妻と子供が韓国で合流してくれました。私はゴム工場の仕事を辞め、掘削機の外郭を作る工場で妻と共に働き始めます。工場は給料が良くて安定しており、仕事にも不自由しませんでした。私たち夫婦は毎日午前8時から午後11時まで働き、残業もし、週末も休みません。一ヶ月働いて七百万ウォンを超える額をもらいました。私は受け取ったお金を見るととても嬉しくなり、仕事がどれほど大変で疲れても大いにやりがいがあると感じました。その時は血糖値が下がっており、その結果で怒りや疲れや空腹さえもできません。それでもお金を稼ぐことに躍起になるあまり、自分の健康を全く気にかけませんでした。仕事先に砂糖菓子をいくつか持参し、低血糖の症状を感じるとすぐに菓子を食べて症状を抑えるようにしました。

   2014年3月、私の健康は悪化し、体の右側全体にいつも汗をびっしょりかきました。妻がインターネットで調べ、「脳血栓症の前兆だわ。病院で診てもらわないと」と言いましたが、私は気にも留めませんでした。症状が仕事の妨げになるとは思いませんでしたし、病院で治療を受けるにはお金がかかります。けれどもある朝起きると、突然足が少ししびれているのを感じました。妻には仕事をせず病院に行くように勧められました。

   しかし「今日は日曜日だから、働いたら給料が倍もらえる」と思い、妻の勧めに耳を傾けず、いつも通り出勤しました。その日の仕事中に、手足がますますしびれを感じるようになるなどとは、全く想像しなかったのです。その時になって初めてパニックになり、病院に行くため急いで主任に早退を願い出ました。病院に駆け込んだ時には足の感覚がなくなっていました。医者に車椅子に座るように言われましたが、誰かの助けなしには車椅子の所まで動けませんでした。CTスキャンを受けた後、医者にこう言われました、「結果を見るとどうも動脈に血栓があり、体の右側全体の細胞が二割ほどなくなっています。すぐに治療しないと車いすの生活になり、将来話すことも書くこともできなくなります」。医者の言葉は、澄んだ空から落ちた雷のように響き、私はすぐに体がぐったりするのを感じます…

   入院し、ベッドに横になったまま病室の他の患者さん達が苦しんでいるのを見た私は、突然とても悲惨な気持ちになりました。そして自問し続けました、「僕はまだ若い。まだ44歳なのに、どうしてこんなことになったんだ。金を稼げば人に褒めてもらえる、人生がどんどん幸せになると思って、人生の半分を信じられないほど必死で働いて過ごしたけど、まさか体の半分が麻痺して寝たきりになるとは思わなかった。これから一生車椅子で過ごすのか。どうすればいいんだ」。

   考えるほど落ち込み、お金のため、群を抜くためだけに体を壊したことを本当に後悔しました。更に残念だったことに、入院中に、同じく韓国で働いていた叔母と従弟が見舞いに来てくれたものの、慰めの言葉とお金を少し残ってさっさと出て行きました。その上、私が家族で一番近い存在だった一番上の姉さえも、仕事の忙しさを言い訳に、面倒を見られないと言うのです。親類の冷たさにはため息を禁じえず、「お金のせいで人は非情になって家族のことも気にかけなくなるのか」と悲嘆にくれました。

   数日後、私の健康は徐々に回復し始めました。医者からは、退院して自宅療養してもいいが、重労働は控えるようにと言われました。自宅療養中は、自分の人生の目的をたちまち失ったように感じて、毎日何をすべきか分かりませんでした。その間、何度も自問しました、「僕は金があるし、知人はみんな僕を見る目が変わったし、妻も子も側にいるのに。どうして空っぽな気分で、人生の目標もなくなったんだろう。人は一体何のために生きているんだ。金を稼ぐことだけが僕の人生の目的なのか。このまま何の目標もなく余生を過ごすことになるのか」。私の心の中の質問は数えきれないほどでしたが、誰からも答えを得られませんでした。しばらくして、私の状態は少し回復しました。家であまりにも退屈していたので、まだ回復しきっていない体を引きずって、働き始めました。

 

神の愛-苦尽甘来

   2016年10月に、私の2番目の姉が教会から楊(ヤン)という姉妹を私の家に連れて来て、二人は私たち夫婦に終わりの日の全能神の働きについて証ししてくれました。二人の交わりを通して、神は万物を創造し、万物の支配者であること、私たちの運命は全て神の手の中にあり、神は人類を創造して以来ずっと私たちを導き養い、見守っていてくださることが分かりました。しかし私にはまだ分からないことがありました。神はこれまでずっと私たちの運命を定め、支配し、見守ってくださっていますから、私たちは幸福で喜びに満ちているはずです。ではなぜ私たちは病気や苦痛で悩むのでしょう。この苦しみはどこから来たのでしょう。それで私は彼女たちに自分が困惑していることを話しました。楊(ヤン)姉妹は私に神の御言葉の次の箇所を見せてくれました。「出生、死、病、老いといった人生の苦しみは、どこから来るのでしょうか。人々がこれらのことを経験する理由はなんでしょうか。創造時にはなかったものではないか。ではどこから来たのか。人がサタンに誘惑されて堕落してからであり、肉の苦しみ、悩みや虚無感、世の悲惨さと言ったものが含まれます。サタンは人を堕落させ、その後、人を苦しめるようになったのです。すると人は益々堕落し、病は重くなり、苦しみは深刻になっていきました。益々空虚になり、悲劇の中、生きる気力もこの世の希望も失せていきました。つまり、苦しみはサタンによるもので、人がサタンに堕落させられて後にもたらされたのです。」(『キリストの言葉の記録』の「神がこの世の苦しみを受けることの意義」より)

   それから楊(ヤン)姉妹は次のように語ってくれました、「初めに、神はアダムとエバを創り、彼らをエデンの園に置かれました。彼らは神の御言葉に耳を傾け、神に従い、崇め、神の配慮と加護の下、病気も不安も苦痛もない伸び伸びとして幸せな暮らしをしました。後に、サタンの言葉に耳を傾け、サタンに誘惑されて堕落した時点で神を裏切ります。それ以来、人類は神の配慮と加護と祝福を失い、サタンの支配下で生きるようになりました。そして、サタンに堕落させられ害を与えられるようになり、ありとあらゆる病気や苦痛に見舞われるようになったのです。

   数千年後、サタンは学校教育、親による教化、有名人や偉人の影響、ありとあらゆる悪しき流行などを使って、「我が運命は我が手の中」、「群を抜け、一頭地を抜け」、「天上天下唯我独尊」、「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」、「人間は金銭のために身を滅ぼし、鳥は餌のために身を滅ぼす」といった考えを私たちに無理やり吹き込んでいます。私たちは皆これらの考えや見解通りに生き、皆、神の存在と神の主権を否定します。私たちの性質はますます傲慢で不遜、利己的で卑劣、不正直で狡猾で、よこしまで貪欲になっています。お金、評判、地位、楽しみを得るため、自分の目的を達成するために、私たちは互いに欺き合い、争い、恥を知らずにおだて合い、媚びへつらい、陰謀を仕掛け合い、騙し合い、卑劣な手段も使って…

   こうして私たちは損得中心になり、用心深くずる賢い生き方をし、心身ともに疲弊し、耐え難い苦痛を感じています。そこからありとあらゆる病気や、苦痛、空虚感が私たちの魂の中に生じるのです。やがて、人生に方向性や目的がないように感じるようになり、人生の意味や価値が何であるかがわからなくなります。肉に溺れ、飲み食いや道楽にふけるようになる者もいます。刺激を求めて麻薬を服用したりしますが、束の間の楽しみの後で、再び空しく感じます。痛みから解放されるために自らの命を絶つことを選ぶ者さえいます…これは、私たちがサタンに堕落させられて神を否定し、神を避けるようになった結果です。

   姉妹の交わりを聞いて、私は、私たちが病気や苦痛を抱えているのは、サタンに堕落させられたからであることがついに分かりました。私たちは、もし神の御言葉に耳を傾け、アダムとエバが最初にしたように神に従うならば、神の配慮と加護の下で幸せに暮らせるのです。神の御言葉によって長年の疑問が解決され、私は神に選んで頂いたことに感謝しました。その後、私たち夫婦は喜んで全能神の働きを受け入れました。

   その後、私たち夫婦は教会生活に加わり、神の御言葉をよく一緒に読みました。神の御言葉を読むほど、私は心が一層明るくなりました。そして、人類を救うための神の六千年の経営(救いの)計画、サタンが人類をいかに堕落させているか、人類の最後の結末と終着点、人生で求めるべきことなど、真理の様々な奥義について少し理解するようになりました。神の御言葉によって潤され養われた私は、神が人類を造られた際に願われたのは、私たちが神の御前に来て御言葉に耳を傾け、自分たちの未来と運命を神の手に委ね、神の主権と采配に従うことだと理解しました。

   更に、神が終わりの日に表される御言葉は、サタンの狡猾な計略を全て暴露しており、私たちは真理を理解することによって、サタンの考えや見解のどこが間違っているかを明確に知ることができます。こうして初めてこれらの考えに頼って生きることをやめ、自らをサタンの支配と束縛から完全に解き放ち、神の御前で解放され自由に生きることができるのです。私は集会にどんどん参加するうちに、真理をある程度理解するようになり、心の中の空しさと苛立ちは知らず知らずのうちに消えました。心の奥深くに、私は得も言われぬ喜びを感じ、これが神の祝福だと知りました。

   ある集会で、次の御言葉を読みました。「『地獄の沙汰も金次第』。これは社会動向ですか。これは、皆さんが挙げたファッションや美食の社会動向と比較すると、もっと悪いものではありませんか。(そうです。)「地獄の沙汰も金次第」はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりに伝えられ、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。人はこの格言を受け入れない状態から、それに慣れ親しんでいく状態に移行したので、現実生活を知るようになったとき、格言を暗黙のうちに徐々に認め、その存在を認知し、最終的には一人ひとりが格言に承認印を押したのです。この過程は、サタンが人間を堕落させる過程ではありませんか。……皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。(感じます。)人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。人々はもっと金を得るために自分の尊厳や高潔さを犠牲にしていませんか。多くの人が、自らの本分を尽くして神に従う機会を、金のせいで失っていませんか。これは人にとって損失ではありませんか。(損失です。)この方法と格言を用いて人間をここまで堕落させるサタンは邪悪ではありませんか。これは悪意に満ちた策略ではありませんか。この広く流布している格言に反対する状態から最終的にそれを真理として受け入れる状態に移行するにつれて、人の心は完全にサタンの掌中に落ち、そのため気付かないうちにこの格言により生きるようになります。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身5」より)

   神の御言葉に照らして自己反省し、私は自分があれほど苦しんで生きていた理由はサタンに弄ばれ傷つけられていたためだとついに悟りました。サタンによって植え付けられた「金が第一」「地獄の沙汰も金次第」「人間は金銭のために身を滅ぼし、鳥は餌のために身を滅ぼす」といった格言通りに生き、「金があれば大手を振って歩けるようになるし、人々から高く評価してもらえ、勝ち組として生きられる」と信じていました。そのため、もっとお金を稼ぐためなら、どんなに危険で心身を消耗させる仕事もしました。自分の健康を顧みず、ある種の機械のように、一晩中残業までして働き、自分の命を無駄な危険にさらしてまで稼ごうとしたのです。お金のために命を売っていたと言えるでしょう。そしてあのような結果になったのです。

   私はお金を手にし、人の賞賛と評価を得ましたが体を壊しました。病気になって始めて、お金や評判や地位があっても苦痛は全く和らぐことはないし、ましてや満たされて幸福で喜びに満ちた暮らしなどできないと悟りました。それどころか、それらのせいで私は空虚で混乱した人生を送り、人生で何を求めるべきか、人生の意味が何なのかも分からなくなったのです。歩く屍のようで毎日が動揺と苦痛でした。今までの人生で歩んできた道は実に悲しく辛いものであり、それは全てサタンによって堕落させられ傷つけられた結果だったと知りました。

   神の救いがなければ、私は今もサタンによる害を受けボロボロにされながら生きて、金のために奔走し、お金と地位の奴隷のままで、体を壊して命も危うくし、死ぬまでサタンによって残酷に傷つけられていたでしょう。私は思いました、「今僕は、金も名声も富も、サタンが人を堕落させ傷つける手段だとやっと分かった。こんなものの中には、サタンの狡猾な計略と、人を堕落させて貪ろうという悪意が隠されているんだ」。その時、サタンが人を傷つけ堕落させる手段をある程度見極めることができ、神の主権に進んで服従できるようになり、「金や名声や富のために必死になるのはもうやめよう」と思いました。

 

転換―新生への出航

   それ以来、私はもはやお金を稼ぐことばかりを考えることはなくなりました。むしろ時間があればいつも兄弟姉妹と一緒に神の御言葉を読み、神の御言葉についての集会と交わりに行きました。しかし昼間は仕事でひどく疲れていたので、集会に出て神の御言葉を読むといつも眠くなり、多少不安になりました。特に、集会の中で兄弟姉妹が自分たちの本分を果たした時の収穫を語っているのを聞くと、私は不安でうらやましくなりました。自分の神への信仰のあり方が不十分で、これではいのちの成長が遅れてしまうと感じたのです。ある時、ディボーションをしていると、次の御言葉が目に止まりました。「歳月人を待たず、である。神への信仰から益を得ることができるのは、食糧や衣服などよりも、なによりも大切なものとして神の信仰に取り組んだ場合のみであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身10」より)

   御言葉を読むと、私は神を信じるとはただ口先で神がいることを認めたり、集会に出たりすることではないと理解しました。そうではなく、神の御言葉を熟考し、真理を求め、教会で本分を果たし、御言葉をもっと実践し体験し、神を自分と同様に知ることを求め、御言葉の理解を深め、神の御心と人に対する要求を理解することなのです。そうする者だけが、神を信じ、神に従う者です。思い起こせば、私は長い間神を信じておらず、仕事が忙しく、集会に出たり神の御言葉を読んだりする時間があまりなかったため、神の働きを経験する機会が少なかったのです。もっと真剣に真理を求めなかったら、どうして真理をもっと理解して神の救いを得ることができるでしょうか。「これじゃだめだ。真理を熱心に求め、もっと時間をかけて真理を身に付け、御言葉を実践して体験しなきゃ」と思いました。

   後になって、私は妻とこの問題について話し合いました。私は余裕ができるようにもっと楽な仕事を探そうと考えました。主任に仕事を辞めたいと話した時、まさか同意されないとは思ってもいませんでした。主任に「君がやめなければ、君のどんな要望にも応えるように何とかしてやるから」と言われ、私は「残業はしたくありませんし、週末は休みたいです」と答えました。まさか主任がこんな条件に簡単に同意してくれるとは想像もしていませんでした。以来、私はもっと集会に出て神の御言葉を読む時間ができました。ある日、私はこれらの御言葉を目にしました。「神の存在もなく、神を見ることもなく、神の統治も知らなければ、毎日は無意味で、無価値で、惨めである。どこで何をしても、人の生き方と目標への追求は終わりのない悲しみと深刻な苦痛しかもたらさず、回想するに堪えない。創造主の統治、その指揮と采配を受け入れ、真の人生を求めて初めて、人は徐々に悲しみや苦痛から解き放たれ、人生の虚無感を払拭できるのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身3」より)

   神の御言葉を熟考すると、お金のために命を危うくしていた年月を思い出さずにはいられませんでした。神の主権を知らず、サタンの格言に従って暮らしていたため、盲目的にお金と評判と地位を追求し、大いに悲しみと苦痛を感じ、幸福を全く見いだせませんでした。また、富は私たちの外にある物質であり、病気になれば、いくらお金を持っていても、命は助からないし、苦痛は少しも減らないことを本当に理解しました。サタンはお金と名声と富を使って私たちを誘惑し、私たちの貪欲な心をギュッとつかむことで、私たちが神の主権に服従できず、頑固に神に逆らい、神の配慮と加護を避けるようにします。こうして私たちはサタンに支配され、傷つけられ、踏みにじられていきます。今の私は、もはや自分の運命と戦うことも、お金のために命を売ることも望みません。それは本当の人生ではないのです。神の主権と采配に服従し、神に満足して頂くために生き、神に証しをするという被造物の本分を果たすことによってのみ、私たちは自分たちの空しく辛い人生を取り除き、価値と意味のある人生を生きることができるのです。

   神の愛に報いるために、私たち夫婦は福音を広める人々の仲間入りをしました。今では、私は毎日、兄弟姉妹と共に福音を広め、証しをしています。非常に充実した生活を送り、心の中がとても平和で喜びを感じています。私の精神は全く新しい姿になりました。私を知っている人は皆、私が若く見えると言いますが、これは神の祝福によるものです。神の救いのおかげで、サタンの束縛と害から真に脱却し、幸せな人生を送れるようになったことに感謝いたします。