賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

アブラハムに息子を与えると神様が約束された

2020-06-24 11:45:07 | 聖書の学び

   アブラハムに息子を与えると神様が約束された

   主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼はこれを見て、天幕の入口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、言った、「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。水をすこし取ってこさせますから、あなたがたは足を洗って、この木の下でお休みください。わたしは一口のパンを取ってきます。元気をつけて、それからお出かけください。せっかくしもべの所においでになったのですから」。彼らは言った、「お言葉どおりにしてください」。そこでアブラハムは急いで天幕に入り、サラの所に行って言った、「急いで細かい麦粉三セヤをとり、こねてパンを造りなさい」。アブラハムは牛の群れに走って行き、柔らかな良い子牛を取って若者に渡したので、急いで調理した。そしてアブラハムは凝乳と牛乳および子牛の調理したものを取って、彼らの前に供え、木の下で彼らのかたわらに立って給仕し、彼らは食事した。彼らはアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。彼は言った、「天幕の中です」。そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。

 

 

   イサクの誕生

   主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは生れた子、サラが産んだ男の子の名をイサクと名づけた。アブラハムは神が命じられたように八日目にその子イサクに割礼を施した。アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった。そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。また言った、「サラが子に乳を飲ませるだろうと、だれがアブラハムに言い得たであろう。それなのに、わたしは彼が年とってから、子を産んだ」。

 

もっと見る: 携挙の本当の意味


これが真に善良な人である

2020-06-23 11:24:21 | 福音を証しするシリーズ

   私は子供の頃から常に、他人にどのように見られているか、どのように評価されているかということにとても重きを置いていました。私が行なうすべてのことに対して他人から称賛を得られるよう、他人が私に抱くよい印象が崩れてしまうのを避けるため、決して誰とも口論しませんでした。終わりの日における神様の働きを受け入れた後も、私はこのような状態のまま、兄弟姉妹が私に抱いていたよい印象をありとあらゆる手段を用いて維持してきました。以前、私がある働きを担当していた時、私の働き方はまるで「イエスマン」のようで、真理を実行している者の働き方ではないとよく指導者から言われたものでした。私はそれを気にするどころか、他人に善良な人だと思われていればそれで満足していました。

   ある日、私は次の一節を読みました。

 

 

   「神への信仰において真理を求めていなければ、たとえ過ちを犯しているように見えなくても、真に善良な人ではありません。真理を求めない人に正義感があるはずはなく、神が愛するものを愛することも、神が嫌うものを嫌うこともできません。このような人は絶対に神の側に立てず、まして神と相容れることなど不可能です。ならば、正義感のない人がどうして善良な人と呼ばれるのですか。世間の人々に「イエスマン」扱いされる人には正義感がなく、人生の目標もありません。絶対に他人を怒らせたくない人に過ぎませんが、そのような人に何の価値がありますか。真に善良な人とは、前向きなことを愛する人、真理を求め光を切望する人、善悪を区別できる人、そして人生の正しい目標をもつ人を指します。神はこのような人だけを愛されるのです」(『全能神教会の仕事計画の記録・選集』収録の「神に仕えるには人を識別できるようになる必要がある」より)。これらの言葉を読んだ後、私は突然光を目にしました。善良な人とは世間の人々と親しく言葉を交わす人、彼らと口論や喧嘩をしない人、または兄弟姉妹によい印象を与え、兄弟姉妹からよい評価を得られる人ではないことがわかりました。真に善良な人とは、前向きなことを愛し、真理と義を求め、人生において真の目標をもち、正義感があり、善悪を区別でき、神様が愛するものを愛し、神様が憎むものを憎み、自分の本分を尽くすことに進んで全力を注ぎ、自分のいのちを真理と義に捧げる意志と勇気をもつ人です。私自身の行いのどこに正義感があったでしょうか。兄弟姉妹が福音の伝道から戻り、どれだけ困難だったか話しているのを聞くと、私は葛藤を感じて不平を言い出し、福音の伝道は容易なことでなく、本当に難し過ぎると感じたり、無意識のうちに人の肉の側に立ったり、もう交わりをしたくないと感じたりせずにはいられませんでした。神様に対する観念が広まっているなどのことで教会が騒ぎになっていた時、状況が深刻であれば、巧みな言葉を使って交わりを行ない、その問題を解決しようとしていました。それが深刻でなければ、不適切な話し方が理由で他の人によく思われなくなることを恐れ、見ないふりをしてその問題をやり過ごしていました。私のパートナーが真理に何の関係もないことをしていたり、自分の置かれた環境を考えていなかったりするのを見ると、私は彼女とその問題について話し合いたいと感じつつも、「私がこの件を持ち出せば、彼女は我慢できるだろうか。こんなささいなことのせいで私たちのよい関係を傷つける価値はない。今度起こったらその時に話し合おう」などと考え、何とかその問題を切り抜ける言い訳を見つけていました。

   私は世俗の人にとっての善良な人、つまり世間の人々から見た「イエスマン」の条件を満たしているだけだったことに気づきました。つまり、他人を怒らせないことを望むばかりで、前向きなものを愛し、真理を求め、正義感をもつ、神様がお喜びになる善良な人とはまるで違っていたのです。私は他人の自分に対する印象を真理を得ることよりも重要であると考え、他人に称賛してもらうだけで満足していました。こんな私が人生の正しい目標を持つ人だったと言えるでしょうか。他人に称賛されることは、私に真理があることを表わすものでしょうか。他の人による高評価は、私がいのちを得たことを表わすものでしょうか。神様を信じながら真理や正義を求めず、自分の性質の変化を求めず、代わりにいつも自身の評判を追い求め、体面を保っているなら、それは神に従う上で何の役に立つでしょう。最後までこのように従い続けたところで、一体何を得られるでしょうか。私はとことん汚れた創造物にすぎませんでした。みんなに高く評価され、みんなの心の中で高い地位を占めていたとしたら、神様の地位を巡って争ったあの大天使と同じになっていたのではないでしょうか。神様の真の敵になっていたのではないでしょうか。このような人間は、死に価する罪を犯した者として神様の目に映るのではないでしょうか。神様が救い、完全になさるのは、真理と正義を求める、真に善良な人たちです。そのような人は、善悪の区別を見分けられず、愛と憎しみの違いが分からず、正義感もない無分別な者たちとは違います。まして、自身の評判だけを気にして神様に敵意を抱く悪人ではありません。世間の人々が善良な人とみなす姿を自分の行動規範にし続けていたら、私は神様による淘汰と懲罰の対象となっていたでしょう。

   ああ、神様。あなたの導きと啓きに感謝いたします。そのおかげで真に善良な人であるとはどういうことかが少しはわかり、それ以上に私自身の誤った思い込みや無知を目の当たりにし、自分の反抗と抵抗に気づくことができました。ああ、神様。今日から私は「真理を求めて正義感をもつ」という言葉を自分の行動規範とし、真理により深く入り、自分の性質の変化を求め、愛と憎みの違いを明確に理解して正義感をもつ、真に善良な人へとすぐになれるよう努力したいと思います


天国はどこにあるのか

2020-06-22 22:29:02 | 信仰Q&A

   神の御国は地上にあるのか天にあるのかわかりません。主イエスは何度も「天の国は近づき!」「来る」と。この「天の国」とは天にある国のことで、地上には有り得ないでしょう?

   解答: 「天」とは常に神を意味し、「天の国」とは神の御国のことです。ヨハネの黙示録にあります。「神の幕屋が人と共にあり」「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。」つまり神の御国は地に造られ、この地上の国は、最後に神の御国になるのです。大災害で古い世界が滅ぼされると、千年神の国が現われます。地上の国は、主とキリストの国となった、神の御心は、天のように地でも成され、新エルサレムが天から降って来るという預言を完全に成就します。暗く悪に毒された世代を終わらせるため、神は受肉し、終わりの日の裁きの働きをされます。神の声を聞く者は、御座の前に連れて来られ、勝利者として完全にされ、その時、大災害が起きます。終わりの日の神の働きで清められ救われた者は生き延び、神の御国の民となります。終わりの日の神の働きを体験できるのは、本当に祝福され、幸運にも神の御声を聞き、御座の前に連れて来られる者で、御言葉による裁きと刑罰を受けて清められ、災害の前に勝利者となり、神の最初の果実となります。そして神は大災害を送り、悪質な未信者や、神に逆らう者は、みな、滅ぼされます。清められ完全にされた者は、大災害の間、神に守られ、生き延びます。主が雲に乗って目の前に現われると、神が地上でその御国を得る。これこそ神が成就することです。これが理解できないのは、盲目ではないでしょうか?空を眺めて雲に乗って来る主を待っていた者は、主が実際に雲に乗って現われた時に、歯軋りして悔しがるでしょう。ヨハネの黙示録で預言されています。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。」(ヨハネの黙示録 1:7)災害の前に神の声を聞かないなら、御座に連れて来られることもなく、災害に呑まれ、罰を受け、泣き叫び、歯軋りするでしょう。

 

 

   神は人を地上に造られ、サタンが人類を堕落させたのも地上、そして神が人類をお救いになるのも地上です。キリストの御国が地上に現われるまで、全て地上です。だから御国も終わりの日に、地上に建てられるのです。人類の終着点は天ではなく地上にあるのです。これは神が定められたことです。御言葉を少し読んでみましょう。「神はもとの場所に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の経営(救い)が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。……人が安息に入るとは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダムとエバの生活に復する。これが、神と人が安息に入った後の、それぞれの生活と目的地である。サタンが打ち負かされることは、神とサタンとの戦いが必然的に向かう方向である。こうして、神が経営の働きを終えた後に安息に入ることと人が完全に救われ安息に入ることは、同様に不可避的に向かう方向になる。人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し、地上で生きる。神は安息の中で、残りの人類を導く。……」(「神と人は共に安息に入る」より)経営計画を完了された時に、神と人は共に安息に入るのだと、全能神ははっきり言われています。神の安息の地は天に、人の安息の地は地上にあり、これは神が私達に用意してくださった終着点で、神の御国が地上に建てられるのを意味する。何年信仰していても、これが分からないなら、真理、そして主の御言葉が理解できないということでしょう?

『夢からの目覚め』の映画台本から


あなたはなぜ主イエスが天の神様を父の名で祈るのかを知っていますか

2020-06-21 22:40:55 | 信仰Q&A

   祈りの会の後、私は3人の教会の姉妹を自宅に招きました。彼女たちは王さん、于さん、賛美歌を教えている趙さんで、3人とも長年にわたり主への信仰における霊的仲間でした。一緒に自宅に着いた後、私はお茶を沸かして彼女たちに出し、皆で歓談を始めました。

   趙さんがこう言いました。「あの、まだ分からないことがあります。普通、説教者はいつも『主イエスが神の子だ』と言いますね。それに聖書を見る限り、主イエスは人に説教や話をされている時はいつも、天の神のことを父と呼ばれました。だから主イエスが神の子だということ私は信じていますけど、聖書の話では、主イエスは聖霊によって宿されましたし、主は弟子たちにこう仰ったことがあります。『わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい』(ヨハネ 14:11)、『わたしと父とは一つだ』(ヨハネ10:30)と。それで混乱しています。主イエスは神ご自身ですか、それとも神の子なのですか。」

   于さんは皆の前で思わず「神の子に決まってますよ」と答え、そこで趙さんは「何を根拠にそう言うんです」と尋ねました。于さんは次のように説明します。

 

 

   「マタイによる福音書第3章16と17節にこう記されています、『イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 また天から声があって言った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」』。

   この2つの聖句から、主イエスがバプテスマを受けられたとき、聖霊が直々に主イエスが神の愛する子だと証ししたことが分かります。主イエスは愛する御子と呼ばれたということは、主がまさに神の子だということではありませんか。しかも、主イエスはゲツセマネの園で祈られていたとき、天の神のことを父と呼ばれていました。こういうことこそが根拠じゃないでしょうか」

   この話を聞いた後、趙さんはしばらく考え込んで、「于さんが言ったことは最もです。これらの聖句によれば、主イエスが神の子であることは簡単に確認できます。刘さんと王さんはどのように理解していますか。ただ聞いていないで、話してくれませんか」と言いながら私たちの方を見て返事を待っていました。

   王さんと私は微笑み合いました。趙さんも于さんもそれを見て、「何を笑っているの」と不思議に思いました。このとき、王さんが先ず次のように話し始めました。「主イエス・キリストは神ご自身か、それとも神の子か。これは宗教界全体がいつも議論している問題です。私たちは聖書に記されていることから、主イエスが何度も天の神を父と呼ばれたこと、そして聖霊も直々に主イエスが神の愛する子だと証したことを知った時点で、イエスが神の子であると一層確信します。このようにして、この父子関係という概念が形成されました。以前は私もそう考えていましたけど、刘さんと一緒に秦さんという姉妹の伝道者の説教を聞いて初めてこのことについて新しい洞察を得たのです。」

   于さんは「頼むから早く教えてください。どんな説教だったんです。2人ともどんな新しい知識を得たんですか」と躍起になって聞きました。

   王さんは「于さんは相変わらず結果に対してせっかちですね」とにっこり笑って話しながら、聖書をかばんから取り出して言いました。

   「主イエスが神ご自身か神の子か知りたいなら、先ず聖句をいくつか読みましょう。ピリポが主イエスに天の父を見せるように求めたとき、主は彼にこう仰いました。『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。』(ヨハネ14:9-10)。

   これらの言葉を通して、主イエスは、ご自身と父が一つであり、同じ霊であること、主が神の霊の受肉であり、天における御父の具現であることを人々に告げられていたのです。明らかに、主イエスは完全に神ご自身であって、神の子ではありません。でも現在の人々は、聖書に対する自分たちの理解から、主イエスが神の子だと推論します。実際には、主イエスご自身はそのような話を認められませんでした。ご自身について証しされたときは、完全に神ご自身だと仰いました。パリサイ人が主イエスに『あなたの父はどこにいるのか』(ヨハネ8:19)と尋ねると、主は『あなたがたは、わたしをもわたしの父をも知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう』(ヨハネ8:19)と答えられたのです。

   また別の例を見ましょう。主はユダヤ人たちにこう仰いました。『しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう』(ヨハネ 10:38)。それからヨハネの第12章44と45節では、『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである』とあります。

   これらの聖句を通して、主イエスは人類に『私は神ご自身だ』と直接は仰らなかったとはいえ、ご自身が神の顕現だと証しされていたのです。主イエスのこれらの御言葉をよく思案すれば、主がまさに神ご自身だと確認できます。」

   于さんは聖句を聞いて検討し、王さんの声が鎮まるとすぐに聖書を閉じ、首を上げてこう言いました。「そうですね。主イエスは確かに、『わたしと父とは一つである』と仰いました。ご自身が神の子ではなく受肉した神だとはっきり私たちに教えてくださったのですね。私もこれらの聖句も見たことがありますけど、主が仰ったことに注意せず、ごく一部の聖句を根拠に主イエスを神の子と見なしていました。どうして主の御言葉を心で考えなかったのでしょう。」

   そこで趙さんが言いました。「王さんの話は理にかなっていて根拠もしっかりしていますけど、私はこれがよくわかりません。主イエスが明らかに神ご自身なら、どうしてそれでもお祈りの時、天の神を父と呼ばれたのですか。どうして聖霊は、主イエスが神の愛する子だと証しされたのでしょう。」于さんも我慢できず、「そう、その通りです。私もそこが引っかかります。いまいちよくわかりません。それについて話を聞かせてくれませんか」と言います。

   私はうなずいて答えました。「その問題には私たちも戸惑いました。そのとき、秦さんがそれに関して私たちに御言葉を3節を読んでくれたのです。」そこで私は自分のノートを開けて読みあげました、「イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な人として身を装い、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの『人の子』になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたたちが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした。イエスが覚えるようにとあなたたちに教えた主の祈りをまだ覚えているか。『天にいますわれらの父よ……』イエスはすべての人に天の神を父の名で呼ぶよう求めた。そして彼も天の神を父と呼んだので、彼はあなたたちすべてと対等の立場に立つ者の観点からそうしていた。」「それでも、イエスは自分の愛する子と神ははっきり述べなかったかと言う人たちがいる。『イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である』と、確かに神自身が語った。神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。『父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある』というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。」「イエスが去ったあと、父と子というこの考えもなくなった。この考えはイエスが肉体になった年月にのみ適切であった。それ以外のすべての状況下では、その関係は、あなたたちが神を父と呼ぶときの創造主と被造物の間の関係である。父と子と聖霊という三位一体のこの考えが有効である時はない。それは諸時代を通じてめったに見られない誤った考えであり、存在しない。」

   これらの御言葉を読み終えた後、私は続けました、「秦さんの説教のおかげで、私は次のことが分かりました。私たちが想像したのとは違って、主イエスが祈りの時、天の神を父と呼ばれたのは、神の子という身分でそうなさっていたのではありません。実は、創造物の視点に立ってそうなさっていたのであり、そうしてキリストの謙虚さと従順を示されたのです。そのとき、聖霊は主イエスが神の愛する子だと証しされましたが、神の子だとは言われていません。そうではなく、聖霊は主イエスが神ご自身の受肉であることを霊の視点から証しされていたのです。神の肉の姿を愛する子と呼ばれましたが、神の子とは呼ばれていません。

   現実には、神は唯一の真の神なのです。天にて宇宙全体に指令を出しておられようと、人の間で働きをするために肉になられようと、肉となった神と聖霊はなおも一つの神です。

   受肉されたキリストは本来的に神ご自身であり、神の霊が肉において真に実現された姿だから、神の本質を持っておられます。そしてこの御方が表されるものは神の性質すべてなのです。主イエス・キリストは外見上は普通で正常の肉体でしたが、その本質は神ご自身です。主が働きに来られたことで、旧約聖書の律法の時代が終わって、恵みの時代がもたらされ、私たちは悔い改めの道を賜りました。それに、主イエスの御言葉には権威と力があります。主が風と海を叱責されたとき、海は再び穏やかになりました。ラザロに墓から出ろと命じられたとき、ラザロは死から蘇りました。ですから、キリストは完全に神ご自身なのです。主イエスが天の神を父と呼ばれたのは、肉となって働かれていたからに過ぎません。主の肉としての働きが終わったとき、この父と子という観念もなくなったのです。」

   私がこのように話した後、趙さんは喜んで言いました。「今日の刘さんと王さんの話は目から鱗でした。主イエスは天の神を父と呼ばれたとき、肉の視点からそうされたということなのですね。天の神が主イエスを我が愛する子と呼ばれたとき、神は聖霊の視点からご自身の受肉を証しされていたというわけですね。」于さんもうなずいて納得してくれました。「主イエスが天の神を父と言われた本当の理由も、聖霊が主を神の愛する子と証しされたことの意味もやっとわかりました。ついに謎が解けました。」これらの言葉を聞いて、私たちは皆喜んで微笑みました。


主を信じた後に私たちの罪は赦されたが、私たちはまだしばしば罪を犯す。罪の束縛からどうしたら最終的に逃れることができるのか

2020-06-20 23:41:38 | 信仰Q&A

   神の御言葉による答え:

   人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、人がもはや罪を犯さず、罪深い本性が完全に取り去られ変えられるにはどうしたらよいかという問題を人は解決することができなかった。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、よれにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。…だから、その段階が終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きがある。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。…この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

 

 

   …裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清められることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、聖くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。言葉を用いて練られ、裁かれ、そして明らかにされることで、すべての汚れたもの、観念、動機、そして人の心にある個人的な願望などが完全に明らかにされる。人は贖われ罪を赦されたが、それは神が人の罪を思い出さず、人の罪に応じて人を取り扱わないからである。しかし、人が肉に生き、罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからだ。…

「受肉の奥義(4)」より

   人の人生において、自身が清められ、性質の変化を実現することを望み、有意義な人生を行動で示し、被造物としての自分の本分を尽くすことを望むのであれば、その人は神の刑罰と裁きを受け容れる必要があり、神の鍛錬と打ちのめしが自分から無くなるのを防ぎ、サタンによる操りと影響から逃れて神の光の中で生きるようにする必要がある。神の刑罰と裁きは光で有り、人間の救いの光であり、人間にとって、それ以上の恵みと守りは無いということを知る必要がある。人間はサタンの影響下で生活し、肉の中に存在する。人間が清められず、神の守りを受けないのであれば、人間は一層堕落するであろう。人間が神を愛する事を望むのであれば、人間は清められ、救われる必要がある。…

   …ある者が清められなければ、その者は不浄である。その者が神により守られ、神の慈しみを受けていないのであれば、その者は依然としてサタンの虜である。その者が裁きや刑罰を受けていないのであれば、その者はサタンによる闇の影響による弾圧を逃れる術は無いであろう。あなたが依然としてサタンの領域下で生活しているということを証明するには、あなたが示す腐敗した性質と、あなたが行動で示した不従順な態度だけで十分である。あなたは、自分の精神や思想が清められておらず、自分の性質が裁きと刑罰を受けていないのであれば、あなたの存在の全てがサタンの領域に支配されており、あなたの精神はサタンに支配され、考えはサタンに操られ、存在全てがサタンの手により支配されている。…

   …現在の真理は、真理を待ち望み、求める者に与えられている。この救いは、神により救われることを待ち望む者に与えられており、あなたがたが得るためだけのものではなく、あなたがたが神により得られるようにすることをも目的とするものである。あなたがたは、神があなたがたを得られるようにするため、神を得る。今日、わたしはあなたがたにこの話をし、あなたがたはそれを聞いたので、あなたがたはこの話に従って実践すべきである。最終的に、あなたがたがこの話を実践する時は、わたしがこの話によりあなたがたを得る時である。それと同時に、あなたがたはこの話を得る、すなわち、あなたがたはこの至高の救いを得るであろう。あなたがたが清められた後、あなたがたは真の人間となるであろう。

「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より