賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

クリスチャンの霊的な虚しさを感じた時はどう解消すればよいでしょうか

2020-06-19 23:00:00 | 信仰Q&A

   信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ

   近頃、私は心の中がいつも虚しく感じます。以前は金欠だからとか、地位が低いからだと思っていました。しかし、ここ数年の間にこういったものは手にしたのですが、それでも虚しさが晴れません。私は頻繁に主に祈るのですが、それでもこの気持ちは心の中で毎日のように膨らんでいきます。そして、この気持ちに対する不安も増す一方なんです。私はどうしたら良いでしょうか?

   どうぞ宜しくお願いします。村上より

 

 

   村上さんへ

  正直なところ、霊的な虚しさに不安を感じているのはあなただけではありません。これは社会全体に言えることです。多くの人々が、これはお金が足らない、地位がない、不安感、不幸な家庭などが原因だと信じています。そして、この状況を変えようと、彼らは慌てて汗水流して働きます。昇進してお金持ちになってより幸せな生活を手にしようとする人々も中にはいます。しかしながら、彼らは成功を収めると、陰謀と策略で満ち溢れた偽善的な世界で生きることになります。中にはお金を求めることでより幸せになろうとする人々がいます。お金のために、彼らは智恵を絞りだし、詐欺を働いたり、人を脅しすらします。ごく一部の人々は目標を叶えて、百万長者、または億万長者になりますが、それでもより価値のあるものをたくさん失ってしまうのです。また人によっては出世することに専念する人もいます。この目標を達成するために、彼らは自分の良心と肉体を売ってしまうほど落ちぶれてしまいます。最終的に、彼らの生活は夢見たほど幸せなものではなく、むしろ絶望感と虚しさで満ちてしまいます。誰もが知っての通り、ソロモンは最も賢明で、裕福な王でした。しかし、彼はこう言いました、「わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。」(伝道の書 1:14)。この言葉は富、評判、そして地位を追い求めることは私たちを今まで以上に虚しく、そして堕落させるということを十分に示しています。こういった世俗的なものは、サタンが私たちを束縛して苦しめるために利用する手段なのです。サタンは世俗的なものを通じて、私たちが神から離れ、こういった無意味で価値のないものを追い求め、ついには虚しさと共に滅びるように仕向けてきます。人間の心は神の宮であるため、私たちの心が一旦神から離れてしまうと、私たちは神の御言葉の備えを失い、確実に虚しくなってしまうのです。

   私はかつてインターネットである書籍に記されたこの節を読みました。神の導きなしには、支配者たちや社会学者たちが人類の文明を維持するためにどんなに頭を悩ませても何の役にも立たないからである。誰も人の心の中の空洞を埋めることはできない。誰も人のいのちとなることはできず、どんな社会学的理論も、心をむしばむ虚しさから人を解放することはできないからである。⋯人間は結局、人間に過ぎない。神の地位といのちに取って代われる人間はいない。人類は、誰もが食べる物に満ちたり、平等かつ自由である公平な社会だけではなく、神の救いと神によるいのちの満たしが必要なのである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の欲求、探究心、そして霊的空虚感が解消されるのである。」これらの御言葉から、私たちの霊は、神からの私たち人間に対するいのちの備え、神の救い、そして私たちのいのちの現実である神の御言葉がなければ、虚しくなることが分かります。その理由はこうです。神は人間を創造された時、その人にいのちの息を吹き入れられ、その人は生きた人となりました。従い、私たちの内の霊は神から頂いたもので、神から切り離すことはできません。私たちの霊は神と神の御声に気が付き、神の御言葉の注ぎ、養い、そして備えを必要とします。 私たちは神の御言葉を聞く時、神を礼拝する中で神を褒め称える時、または神に祈りを捧げる時、まるで孤児が両親と再会したかのように、心の中がとても平安で、嬉しく、満たされた気分になります。私たちは神の御言葉で生き、神に従い、神を崇拝すればするほど、増々心の中で確信し啓発を受けた気分になり、増々充実感のある有意義な人生を送るようになります。自然と、虚しさは感じなくなるでしょう。神の信者である私たちは、これを確証できます。明らかに、私たち人間のいのちは神と神の御言葉の備えから切り離すことはできません。神を崇拝し、神の御言葉で生きることは、神から創造物である私たち人間に対するご要望であり、それには神の御心が込められており、それは私たち人間の霊的なニーズであり、さらに、これは私たちの人生の奥義にも関わってくるのです。これについて、主イエスはこう仰いました。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイによる福音書 4:4) 「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」(ヨハネによる福音書 6:63) 神の御言葉は真理、道、そしていのちです。私たちが神の前に行って神の御導き、御気遣い、そして御加護を求め、いのちの備えを受けてのみ、私たちの虚しさは解消されるのです。

   村上さん、あなたは、私たちが虚しさを感じるのは私たちが主から離れてしまったからだと、この時点で既に理解されているかもしれません。私たちはたくさんの事をして東奔西走しているから主に近づく時間がないのかもしれません。世俗的な名利を追いかけているがために、主との関係をなおざりにしているのかもしれません。また主の御言葉を読まないことがよくあって、主との正常な関係を失っているのかもしれません。理由が何であれ、虚しさから開放されたかったら主との正常な関係を取り戻さなくてはいけません。それは、どうすればできるのでしょうか?第1に、私たちは誠意を持って主に祈るべきです。その理由は、主がこう仰ったからです。「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」 (ヨハネによる福音書4:24)。真の心を持って神を呼び求めれば、神は私たちを助け、導いてくださります。同時に、私たちは祈って主の御旨を求めなければいけません。どうして最近私たちの主との関係は崩れてしまっているのでしょうか?それは、主が私たちの生き方を喜ばないとして、私たちから御顔を隠しておられるからでしょうか?もしそうであるとしたら、私たちは主に悔い改めて、誤った行動を正す必要があります。悔い改めることで、私たちは主に導かれ、弱く、消極的で、虚しい状態から抜け出せるでしょう。第2に、私たちはディボーションをもっと実践するべきです。常に神の御言葉を読み、神に祈り、讃美歌を歌うことで、私たちは神の前で心を静め、神との正常な関係を取り戻すことができるでしょう。例えば、普段から、一日に神の御言葉を2節読み、祈りを2回捧げ、神から離れてしまうことがあれば、毎日読む節の数を増やし、祈る回数も増やすべきです。さらには、讃美歌をもっと歌い、主の働きのためにもっと労力を費やし、兄弟姉妹たちとの交流等をもっと行うべきです。こうすると、私たちの主との関係は今まで以上に近くなるでしょう。実際に主と協力し合わずに、消極的に神が働かれるのを待っているだけでは、決して神との正常な関係を取り戻すことはできません。なぜなら、聖霊の働きを受ける前に満たさなくてはいけない条件が1つあるからで、それは私たちが前向きに神と協力するということなのです。そうしてのみ、私たちの状況は段々と改善されていきます。少しずつ、私たちは酷い虚しさから開放されるだけでなく、より大切なこととして、神の救いの道を歩めるように生かしていただけるのです。

   村上さん、私の個人的な体験をお話しします。数年前、私は評判と地位、そして物質的な安楽を追い求める状況の中で生き、その結果として虚しさに駆られ、闇の中を生きるはめになりました。当時、私は頻繁に主に祈りを捧げてはいたものの、心の中ではこういった物に夢中になっていたので、私のディボーションは単に形式的な習慣を続けているというだけのものでした。私の祈りは陳腐な決まり文句ばかりで、私は聖書の内容に精通して、それを朗読しているだけで満足でした。私は主の御言葉に込められた御旨を求めていませんでした。生活が困難な時ですら、主に祈りを捧げることも、主を仰ぎ見ることもありませんでした。従って、私と主との関係には大きな隔たりがありました。心の奥底には虚しさがあり、私は不安になりました。その後、私は幾度となく主の御慈悲を求めて祈りました。私は絶えず主に祈りを捧げ、聖書を調べていると、ヨブのストーリーを目にしました。神がヨブに対し山一面の家畜と極めて貴重な財産をお与えになった時、彼はこういった祝福を受けても夢中になるほどは喜びませんでした。さらに、神が彼を試し、全てを奪い取った時ですら、彼は祝福を全て失ったからといって過度に悲しくなったり、神の文句を言ったりもしませんでした。むしろ、彼はこの体験を創造主を知るための機会とみなしたのです。彼が神の証を立てた後、神は彼が最初に持っていた以上のものを与え授けました。最終的に、彼は日満ちて死を迎えます。ヨブは人生を通して「神を恐れ、悪を避ける」ことを指針に生きたので、虚しさはありませんでした。また、ペテロは衣食住に関することも自分の意思で決断することはありませんでした。彼は物質的な安楽を求めずに、主の御心を実践し、主の福音を伝道しながら多忙に駆け回りました。ペテロは神を極限まで愛し、死ぬまで神に従うことを追い求めたのです。最終的、彼は神のために逆さまに十字架に掛けられます。従い、彼にも虚しさはありませんでした。ヨブとペテロはどうして虚しくなかったのでしょうか?それは、彼らは世俗的な快楽を求めずに、降りかかってくる出来事全てにおいて神の御心を求めて満たし、神を恐れ悪を避ける道を歩んでいたからです。彼らは無意味な人生を送らなかったどころか、彼らの行いは2000年経った今でさえ広く褒め称えられています。この時初めて、私は自分の霊的な虚しさは、自分が誤った観点のもとに追求していたことが原因であったことを知りました。私は神を知り、愛し、満足させること、または主の御言葉を実践することも求めず、結果的に神の御導きが受けられなかった故に心の中で虚しくなっていたのです。

   その後、私は主のこの御言葉を目にしました。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」(マタイによる福音書 22: 37-39)。これら主イエスの御言葉より、私は神が指し示してくださった追求の正しい道を知りました。1つは神を愛することであり、もう1つは隣人を自分自身のように愛するということです。正しい方向性を発見した後、私は日頃の環境の中で主の御言葉を実践し始めました。こうして、私と主の関係は少しずつ距離が縮まり、結果的に、酷い虚しさは消えてなくなりました。私は自分の体験により、追求に対する観点というものは、私たちクリスチャンにとって非常に大切なものであると感じています。私たちが追い求めるものを神が認めてくだされば、私たちは間違いなく神に導いていただけるでしょう。私たちがしばらく神から離れてしまうことがあれば、それは私たちの追求に対する観点または実践が神の御心に即していないことを示しており、結果として私たちは心の中が虚しくなってしまいます。虚しさから脱出する唯一の手段は、神と正常な関係を築いて、神がお認めになる道を歩むことです。こうしてのみ、私たちは喜びを感じることができます。

   以上の交流があなたのお役に立つことを願っています。どうか、神があなたを虚しさから導き出してくださりますように。生活や霊的探究における困難や問題があれば、気軽にご連絡ください。全ての栄光と名誉、天の父にあれ。


なぜ主イエスは天国の鍵をペテロに与えたか

2020-06-18 23:54:10 | 信仰生活

聖書を読んで困惑する

   私は朝早く起きると、祈り、聖書のマタイによる福音書16章19節を開きました。主イエス様がペテロに語った内容が書かれている箇所です。「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。この句を読んで私は困惑し、思いました。「ペテロは大した働きもしていないし、ペテロが書いた書簡も大して有名でもない。それだけでなく、主イエス様が捕えられて裁判にかけられた時、ペテロは三度もイエス様を否定した。それなのになぜ主は天国の鍵を他の使徒達ではなくペテロにだけ与えたのだろう。」聖書をあちこち開いて調べましたが、結局解決に繋がるものはなく、そのまま仕事に出かけるしかありませんでした。

 

 同僚の助言によって答えを見出す

   昼休み、私は依然として朝の疑問を引きずっていました。「神様は義なる方で、間違えたことはなさらないのに、なぜ主イエス様は天国の鍵をペテロに与えたのだろう。そこにどんな奥義が隠されているんだろう。」はっきり知りたいと思った私は、長年主を信じている同僚に聞いてみました。同僚は微笑んで言いました。「主がペテロに天国の鍵を与えられたのは、主がペテロを選ばれたから。ではなぜ主はペテロを選ばれたんだろうか。」 戸惑う私に友人は続けました。「主イエス様が弟子達に対して自分が誰かと聞いた時、ペテロが何て答えたかを覚えているかい。」私は答えました。「シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』。」(マタイによる福音書 16:16)同僚はうなずいて続けました。「その通り。イエス様の12弟子のうち、ペテロだけが聖霊の啓きを受け、主イエス様こそ預言されたメシアであり、キリストだと言った。主イエス様が、自分がいのちのパンであり、人は自分の肉を食し、血を飲むだけで永遠のいのちを得ると言われた時、多くの人が観念を抱き、そして主に従うことを止めた。だがペテロだけはこう言った。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。(ヨハネによる福音書 6:68-69)このふたつの出来事から、ペテロが主イエス様の言葉と働きを本当に理解していたことが分かる。ペテロは、主イエス様がキリストで永遠のいのちの道だったと確信していたんだ。だから、パリサイ人がどれほど主イエス様を裁き、非難し、攻撃しても、決して混乱することなく、周りの人達が主イエス様を捨てるかどうかに関係なく、誰にも強要されずに献身の姿勢を貫き、最後まで主に従ったんだ。主が甦られて天に昇られた後、ペテロは主のご命令通りに教会を牧会したんだ。ペテロは主の福音を広め、最終的に主のために逆さ十字架にかけられ、力強く美しい証しとなったんだ。このことから、ペテロが主を本当に理解しており、主に対して純粋な愛の心を持っていたことが分かる。そうでなければ、ペテロが生涯を通して主に従い、福音を伝えることは不可能だったし、特に、神様に対する究極の愛と、死に至るまでの従順を貫くことは不可能だった。

   わたしはうなずいてこう言いました。「あなたの言う通りよ。12弟子の中でペテロだけが主イエス様がキリストだと理解し、ペテロだけが主イエス様のために逆さ十字架にかかったのよね。それを見ても、ペテロが主に受け入れられ、認められるようなものを持ち合わせていたことが分かるわ。」

 

主イエスを愛し、主イエスに認められたペテロ

   同僚は続けました。「主イエス様は言われた。『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。」(マタイによる福音書 22:37-38)「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。」(ヨハネによる福音書 14:23-24)「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書 7:21)主イエス様の言葉から、主イエス様は私たちが心と思いの全てで主イエス様を愛し、その言葉によって実践し、主の道から離れないことを望まれていたことは明らかだ。ここに書かれているのは主イエス様が私たちに求めておられることで、私たちが主の栄光を受けて天の御国に入るための基準なんだ。ペテロはこのような主の言葉に従って追い求めていたんだ。神を愛することを目標としていて、神を愛する者になることを追い求めたんだ。主イエス様がゲッセマネの園で捕らえられた時、ペテロは駆け寄って主を守ろうとし、大祭司の手下の耳を切り落とした。ペテロのした事は軽はずみだったけれど、危険な状況の中でも進み出て主を守ろうとしたのは、彼が心から主を愛していたこと、主を守ろうとしたことの表われだ。ペテロは主を知らないと三度否定したが、悔い改めて自分自身を忌み嫌い、しかも自分の過ちの原因をしっかり考えた。ペテロは自分の命を主に差し出したいと思っていたが、現実的に神の前に命を差し出す純粋な愛を持ち合わせていなかった。まだ死の束縛の下にあり、命を危険にさらすことができなかった。だから、ペテロはその先さらに追い求めることを目標とし、主を愛して主に満足していただくことを残りの生涯で求め続けたんだ。ペテロは生涯を通して主に託された任務に忠実だった。主イエスが復活して天に帰られた時、ペテロはあちこちで福音を述べ伝え、群れを牧養した。主の言葉と主の御心の証人となり、どのように主の言葉を実践するかを教えたんだ。その働きの中で、ペテロは自分が理解した真理と純粋な神に対する理解によって兄弟姉妹を支え、どこにいても神をたたえ、神の証しとなり、兄弟姉妹を神様の前に導いたんだ。どれほどユダヤ教の指導者達に追われても、ローマ政府に迫害されても、苦しみは困難の中にあっても、ペテロは神様からの任務に忠実であり続け、神様が命ずることを忘れたことはなかった。ローマの暴君ネロがクリスチャンを迫害しようとした時、周囲の助けによってペテロはローマの街から逃げ出した。主イエス様がペテロに現れ、ご自身がペテロの為に再び十字架につけられると告げた。主の御心を理解したペテロは、ためらわずに引き返し、逆さ十字架にかけられるために自分の命を投げ出した。そうすることで、ペテロは神と神の究極の愛に対して死に至るまでの忠誠を証ししたんだ。ペテロは主を愛し、天の父の御心を行う人間であり、彼が求めたものは神の承認を得たんだ。だから主イエス様はペテロに天国への鍵を渡された。もし私たちが天の御国に入りたいのであれば、ペテロに倣い、主の愛を知り、天の父の御心を行うものにならなければいけないんだ。主が約束されたものを獲得するにはそれ以外にはないんだ。

   同僚の話を聞いて突然気づいた私は言いました。「そうか、ペテロは本当に神様を愛して従った人だったのね。主イエス様がペテロに天国への鍵を渡されるのも当然ね。ペテロの経験に比べたら私の信仰や私が主に差し出したものなんて、単に自分が天国に入るためのもの、自分が報われるためのものでしかなかったわ。主の御言葉を実践するとか、主の要求にこたえるなどと言うことを考えたことはなかったわ。主への働きの中でも、主の御心を兄弟姉妹達と語り合うことすらなかった。福音を伝える中で困難に出会えば、兄弟姉妹を支えることもできずに消極的で弱くなり、主に対する信頼を失っていたわ。今、こうしてペテロと自分を比較してやっと、自分が主を愛する人間でないことが分かったわ。ペテロの証は本当に私たちが倣うべきものだけど、それならペテロはどのように主を知り、愛することを追い求めたのかしら。」

 

ペテロはどのように主を知り、主を愛したか

   私がこう言うのを聞いて、同僚はよろこんでタブレットを取り出して言いました。「福音のサイトでペテロがどうやって主を知り主を愛することを求めたかを読んだことがあるよ。かなりはっきり書かれてた。一緒に読んでみようか:「ペテロは何年にもわたりイエスに従い、人々が持っていない多くのことをイエスの中に見た。… イエスの動きのすべてが生涯ペテロの手本になり、イエスの説教は特にペテロの心に刻まれた。彼はイエスに対して非常に思いやりがあり、忠実であり、決してイエスに不平不満を持たなかった。こういうわけで、彼はイエスが行くところどこでもその忠実な伴侶となった。ペテロはイエスの教え、イエスの穏やかな言葉、食べるもの、着るもの、日々の生活、旅を観察した。ペテロはあらゆる点でイエスのやり方に従った。彼は独善的ではなく、以前の古臭い事柄をすべて投げ捨て、言葉や行動においてイエスの例に従った。ペテロが天地万物は全能者の手の中にあることを感じたのはこのような時で、そのような理由から、彼は自分で選択はせず、イエスという存在のすべてを手本として吸収した。」『言葉は肉において現れる』の「ペテロの一生」より「一定の経験を積んだのちに、ペテロはイエスの中に神の業を見、神の愛すべきことと神であるものを見た。そしてイエスの言葉は人が話すことのできないものだと知り、イエスの働きは人にはできないものだと知った。さらに、イエスの言葉と働きの中に、神の知恵と神性の働きが多く含まれていることもペテロは知った。ペテロはこの自身の経験の中で、自らを知るに至っただけでなく、イエスの行うことを見ることに焦点を当て、新しい事柄を数多く学んだ。つまり、イエスを通して神が行った働きの中に、実際の神が多く表現されており、イエスの言葉や行い、教会の牧養の仕方やその働き方が、普通の人とは異なっているということを学んだ。こうして、ペテロはイエスから学ぶべきことを数多く学び、イエスが十字架に架かる時までに、イエスに関してある程度の知識を得ていた。こうした知識によって、ペテロは生涯イエスに忠実に仕え、イエスのために逆十字の刑を受けたのだ。」『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが、神の証人となることができる」より

   ペテロは主の福音を広め、最終的に主のために逆さ十字架にかけられ、力強く美しい証しとなったんだ。

   これを聞いて私は同僚に言いました。「へえ、じゃあペテロは主イエス様に従う中で、いつも主の行いや振る舞いを観察していたのね。そうすることで、主イエス様の言葉や行動から、ペテロは主を知るようになったのね。」

   同僚は答えて言いました。「その通り。この二か所を読めば、ペテロが主を知りたいと思っていたことが分かるし、主イエス様とのやりとりの中で、ペテロがイエス様の言葉や行いを一つひとつ取り入れていたことが分かるんだ。主イエス様の中に、ペテロは実に多くの神性を見た。例えば、主イエス様が語った言葉は真実で、力と権威に満ちていて、人々の霊的必要を与えて下さる。イエス様のなされた奇跡や驚くべきことは神様の権威と全能性を現わしていて、人間ができることではない。主イエス様は憐れみによって罪人を救われ、全ての罪を赦され、人類に豊かな恵みを下さった―人間に対する愛と憐れみに満ちておられたんだ。ペテロもまた、主イエス様が七つの災いをもってパリサイ人をとがめ、非難したことを通して主イエス様が聖く義であり、人間の背きを許されないことを知ったんだ。ご自身の働きの中で、どれほど肉的な苦難を伴い、努力が必要でも、そしてたとえ命を犠牲にしなければならないとしても、主イエス様は自らの任務を全うする決意だった。ペテロは、キリストの本質が父なる神様の御心に従うことであることを知った。ペテロはイエス様の中の大いなる神性を知り、純粋で実践的な神様に対する理解を得たんだ。それだけでなく、ペテロは主イエス様の言葉を心に刻み、繰り返し思い巡らし、そこから主の御心を理解して神様の人間に対する要求が何かを追い求めたんだ。イエス様はペテロに三度次のように聞いた。「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。(ヨハネによる福音書 21:16)ペテロはしばしばこのことを熟考し、内省することによって自分の愛が単に天におられる神様に対するものであり、実際のキリストに対するものでないことを理解したんだ。それは真に神様を愛することではなかった、そして地上におられるキリストを愛する事が純粋に神様を愛することだと気づいたんだ。それ以後、ペテロは頻繁に祈り、どのように主を愛するかを追い求めたんだ。最後に彼は、神様に対する究極の愛と死に至るまでの従順に到達し、真に神様を愛する者となったんだ。ペテロはまた、主イエス様からの批判を受け入れることもでき、そこから真実を求めようとしたんだ。イエス様がはりつけにされると知ったペテロはイエス様のすることを妨げようとし、そのような事などあり得ないと言ったが、イエス様はペテロを強く非難して言われた。「サタンよ、引きさがれ」。(マタイによる福音書 16:23)イエス様の強い非難から、ペテロは主が人の熱意や優しさを嫌い、神様の御心を妨げるものはいかなるものでもサタンの行為であり、神様に非難されることを知った。そのことからペテロにとって、主の業、行動、説教、そして非難の言葉から主を理解することが大切であったことが分かる。だからペテロは主を真に理解し、主に対する純粋な愛を自身の中に強くしていったんだ。」

   同僚の話を聞いて、私は、神様が本当に人の心と思いを探られるのだと感じました。主イエス様は無意味にペテロを称賛し、天国への鍵を渡されたのではないのです。イエス様はペテロの人間性と力量に自分との繋がりを感じ、ペテロの真理と主に対する愛に自分との繋がりを感じたのです。ペテロが誰よりもご自身の任務と信頼に相応しいとイエス様は知っておられ、だからご自身の羊を飼うという責務をペテロに任せられたのです。振り返ってみると、私は主を三度否定したペテロに対する主の承認を理解できていませんでした。けれども今は、主が見られるのは人の本質であることが分かります。一方私はと言えば、ペテロの振る舞いの一部だけを見ていました。しかもそれは、ペテロが主に従い始めてから僅か3年ほどの時のことで、彼の信仰はそれほど成長していませんでした。生死の境目では、肉の弱さが出ても当然です。誰かの小さな過ちに付け込んで私が非難することなどできないはずです。もしそれが私自身であったならば、イエス様が連れ去られた時に逃げていたでしょう。それでも私はペテロを裁いて過小評価していたのです。あまりに傲慢で、愚かで、無知でした。同僚からの話を聞いて、ペテロは神様に喜びをもたらしたこと、私たちもペテロに倣うべきであることを知りました。私は自分の人生において、主の御言葉を実践し、主への働きと奉仕に全力を尽くし、あらゆることにおいて主を知り、愛することを求め、主の御心を全うする者となりたいです。そうして初めて、私は神様に承認していただくことができ、天の御国へ入る機会が与えられるのです。

   このようなことを理解した私は、同僚に言いました。「主の導きと、今日のこのような会話に感謝します。主イエス様がペテロに天国への鍵を与えられたことが、今理解できました。今日の話には真に神様の奥義があります。どう求めればよいか、私も分かりました。主の導きに感謝します!アーメン!」

   同僚も笑顔で言いました。「主に感謝します!アーメン。」


神様が二度受肉された意味は何か

2020-06-17 23:54:32 | 信仰Q&A

参考聖書箇所

   「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」(ヘブル人への手紙 9:28)

   「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネによる福音書 1:1)

関連する神の言葉

   最初の受肉は人を罪から贖う、つまりイエスの肉体を通して人を罪から贖うためであった。つまり、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に留まった。二番目の受肉はもはや罪のためのいけにえとしての役割ではなく、罪から贖われた人たちを完全に救うことであった。それにより、赦されたものが罪から解放され、完全に清められ、性質が変えられ、それによりサタンの暗闇の影響を打ち破り、神の玉座の前に戻ってくるためである。このようにしてのみ、人は完全に清められる。神は律法の時代が終ってから、恵みの時代に救いの働きを開始した。これは神が人間の不従順に対する裁きと刑罰の働きを終えて人類を全く清める終わりの日まで続く。その時が来てはじめて、神は救いの働きを終え、安息に入る。よって、三段階の働きの中で、神は二度のみ人の間で働きを実行するために肉となった。それは働きの三段階のうち一段階だけが、人を生活において導く働きであり、他の二段階は救いの働きだからである。神が肉となる場合のみ、神は人と共に生き、世の中の苦しみを経験し、普通の肉体で生きることができるのである。このようにしてのみ、神はその被造物である人に必要な実践的言葉を与えることができる。人が神から完全な救いを受けるのは、受肉した神ゆえであり、人が捧げる祈りへの回答として天から直接に受けるのではない。というのは、人は肉的であり、人は神の霊を見ることができず、ましてや神の霊に近づくことなどできないからである。人が接触することができるのは神の受肉した肉体でしかなく、人はこの手段を通してのみ、すべての言葉とすべての真理を理解し、完全なる救いを受けることができる。第二の受肉は人の罪を取り除き、人を清めるには十分である。よって、第二の受肉は肉体での神の働きのすべてに終止符を打ち、神の受肉の意義を完成する。「受肉の奥義(4)」より

 

 

   イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。「受肉の奥義(4)」より

   最初の受肉では、神は受肉の働きを完了しなかった。神が肉においてするべき働きの最初の段階を完了しただけである。だから、受肉の働きを完了するために、神は再び肉の体に戻り、肉体のもつすべての正常性と現実を生きている。つまり、神のことばが完全に普通の平凡な肉の体として現れ、それにより、肉においてやり残した働きを完了しようというのである。二度目に受肉をした体は、本質的には最初と変わらないが、もっと現実的で、最初よりもさらに普通なものだ。その結果、第二の受肉の苦しみは最初のそれよりも重いのだが、この苦しみは肉における働きの結果であって、堕落した人間の苦しみとは異なる。これはまた、神の肉の体の普通さと現実から生じている。神が完全に普通かつ現実の肉体で職分を行うため、肉の体は多くの困難に耐えなければいけない。この肉の体が普通で現実のものであればあるほど、神はその職分を果たすために苦しむ。神の働きはごく普通の体、まったく超自然的でない体において表される。神の肉は普通で、人間を救う働きをも担わなければいけないので、その苦しみは超自然の肉よりもはるかに大きい──この苦しみはみな、神の体の現実と正常さから来ている。受肉した二つの体が職分を果たしていたときに受けた苦しみから、受肉した肉の本質がわかる。肉体が普通であればあるほど、働きを行う間、それだけ大きな苦難を神は耐えなければならない。働きをする肉体が現実的であればあるほど、人々の見方は厳しくなり、それだけ多くの危険が神にふりかかることになりがちである。それでも、肉が現実的であればあるほど、肉が普通の人間の必要と完全な理知をもっているほど、肉における働きを神はみごとに取り組むことができる。十字架につけられたのはイエスの肉、罪のための捧げ物としてイエスが捧げた肉体である。普通の人間性をもつ肉体という手段によってイエスはサタンに勝利し、人間を完全に十字架から救った。そして、神の二度目の受肉では、征服の働きを行いサタンを打ち負かすのは完全な肉の体なのである。完全に普通で現実的な肉だけが征服の働きをその全体におよんで行い、力強い証しを示すことができる。つまり、人間征服の働き[a]は、受肉した神の現実性と正常さによって効果的になるのであって、超常的な奇跡や啓示によるのではない。この受肉した神の職分は、話すことであり、それによって人間を征服し、完全にすることにある。つまり、肉として現れた霊の働き、肉の務めは、話すことで、それによって人間を征服し、顕示し、完全にし、淘汰することである。だから、肉における神の働きが完全に達成されるのは、征服する働きにおいてである。最初の贖いの働きは、受肉の働きの始まりに過ぎなかった。征服の働きをする肉は、受肉しての働きを完了させるであろう。性別では、一度目は男、二度目は女。これにより神の受肉の意味が完了する。これは人間の神についての誤解を取り除く。神は男にも女にもなれる。受肉した神には本質的に性別はない。彼は男と女を創ったが、性による差別化はしていない。この段階の働きでは、言葉という手段によって働きの成果があらわれるように、神はしるしや不思議を行わない。さらに、その理由は、受肉した神の今回の働きは病人を癒し、悪霊を祓うためではなく、話すことによって人間を征服するためであり、これは、受肉した神の肉体が本来備えている能力が、言葉を話して人間を征服するというものであって、病人を癒やし、悪霊を祓うためのものではないということである。普通の人間性における神の働きは奇跡を行うことではなく、病人を癒し、悪霊を祓うことはなく、話すことである。だから、第二の受肉をした体は、最初の時よりずっと普通のものに見える。人々は神の受肉が嘘ではないとわかっているが、この受肉した神はイエスの受肉とは異なっている。どちらも神の受肉ではあるが、完全に同じではない。イエスは普通の人間性、平凡な人間性をもっていたが、多くのしるしや不思議を伴っていた。この受肉した神においては、人間の目には、しるしや不思議は何も見えず、病者を癒すことも、悪霊を祓うことも、海の上を歩くことも、四十日間の断食もない。神はイエスがしたのと同じ働きは行わない。それは神の肉が本質的にイエスのものとどこか異なるからではなく、病者を癒したり悪霊を祓うことは、神の職分ではないからである。神は自分の働きを取り壊すこともなければ、自分の働きを妨げたりはしない。神はその実際の言葉で人間を征服するのだから、奇跡で屈服させる必要はない。そして、この段階は受肉の働きを完了するためにある。「神の宿る肉の本質」より

   なぜわたしは、受肉の意味がイエスの働きで完了しなかったと言うのであろうか。それは、ことばが完全に肉の体にならなかったからである。イエスがしたことは、神の肉の体での働きの一部分だけであった。イエスは贖いの働きだけを行い、完全に人間を得る働きはしなかった。そのため、神は終わりの日に再度受肉したのである。この段階の働きはまた、普通の人間の体で、すっかり通常の人間によって、その人間性が少しも超越的でない存在によって行われる。つまり、神は完全な人間になったのであり、身分は神である人、完全な人間、完全な肉の体が働きをする。人間の目には、神はまったく超越的ではない、ただの人間に見える。ごく普通の人物で天の言葉を話すことができ、奇跡的なしるしは何も見せず、何の奇跡も行わず、まして、大きな集会場で宗教についての内的な真理を明らかにしたりはしない。第二の受肉の働きは、人々には最初のものとはまるで違って見える。あまりに違うので、二つには何の共通点もないように見える。最初の働きのようなことは、今回は何も見られない。第二の受肉の働きは最初のものとは異なっているが、それは両者の源が同一ではないということではない。同じかどうかは、肉の体で行われる働きの性質によるのであって、外形によるのではない。三段階の働きの間に神は二度受肉し、いずれのときも受肉した神は新たな時代を開き、新しい働きをもたらした。二度の受肉は相補うのである。人間の目では、二つの肉の体が同じ源から来ていると見極めることは不可能である。言うまでもなく、これは人間の目や心の能力を超えている。しかし、両者の本質は同じである。二人の働きは同じ霊に発しているからである。受肉した二つの体が同じ源から発しているかどうかを判断できるのは、二人の生まれた時代と場所やそのような他の要素によるのではなく、二人の表す神性の働きによるのである。第二の受肉による体はイエスの行った働きは何も行わない。神の働きに慣習的な決まりはなく、それぞれが新たな道を開くからである。第二の受肉は最初の肉に関する人々の心にある印象を深めも固めもしないが、それを補い、完成させ、神についての人間の認識を深め、人々の心にある、あらゆる規則を破り、人々の心にある神についての誤った姿を消し去る。神自身の働きのどの段階も個別には、人間に神についての完全な認識を与えることはできないと言える。各段階は、全部ではなく、一部分だけを与えるのである。神はその性質を完全に示したが、人間の理解力が限られているため、神についての認識はまだ不完全なままである。人間の言語で神の性質を完全に言い表すのは不可能である。まして、神の働きの一段階だけで、どれほど完全に神を表せるだろうか。神は普通の人間性の陰に隠れて肉において働く。そして、その神性が現れてはじめて、人間は神を知ることができるのであり、その外見を見てのことではない。神はさまざまな働きを通して人間が神を知ることができるように受肉するのだが、働きの二段階は同じではない。このようにしてはじめて、人間は肉における神の働きについて、一つの面だけでなく、完全な認識をもてる。「神の宿る肉の本質」より

   イエスは、「言は神と共にあった。」の実体のみを満たす業の段階を行った。神の真理は神と共にあり、神の霊は肉と共にあり、神と不可分であった。つまり、受肉した神の肉は神の霊と共にあったのであり、それは受肉したイエスが最初の受肉した神であったことの大いなる証拠である。この段階の業は「言葉が受肉した」の内面的意味を満たし、「言は神と共にあった。言は神であった。」に一層深い意味を加え、「初めに言があった。」という言葉を、あなたが堅く信じることを可能とした。つまり、神は創造の時に言葉を備え、神の言葉は神と共にあって神と不可分であった。そして、最後の時代には、神の言葉の力と権威は一層明瞭となり、人間は神の言葉すべてを理解できるようになり、言葉全てを聞くことができるようになった。それが最後の時代の業である。あなたは、こうした事柄を完全に知り尽くす必要がある。それは肉を知る問題ではなく、肉と言葉を知る問題である。これは、あなたが証に立つ必要があり、全ての人が知る必要がある物事である。これは2度目の受肉、そして神の最後の受肉の業であるため、この業は受肉の意味を完全なものとし、肉における神の全ての業が完全に遂行され、実施され、肉にある神の時代の幕を閉じる。「実践(4)」より

   この段階で受肉した神が困難を経験していようが、職分を果たしていようが、神は受肉の意味を完了するためにそうしているのである。これが神の最後の受肉だからである。神は二回だけ受肉することができる。三度目はありえない。最初の受肉は男性で、二度目は女性であり、そこで神の受肉した姿は人間の心の中で完全になる。さらに、二回の受肉により、すでに肉における神の働きは終わっている。一度目、受肉した神は、受肉の意味を完了するために普通の人間性を備えていた。今回も神は普通の人間性を備えているが、この受肉の意味は異なっている。もっと深く、その働きにはより深い意義がある。神が再び受肉した理由は、受肉の意味を完了するためである。神がこの段階の働きを完全に終えると、受肉の意味のすべて、つまり、肉における神の働きは完了し、もはや肉において行う働きはない。つまり、これ以後は、神が働きをするために受肉することは二度とないのである。「神の宿る肉の本質」より

   (一篇の御言葉)

   二度の受肉が受肉の意義を完成させる

   神による各段階の働きには実質的な意義がある。イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。イエスが女として現れたとしても、つまり、男ではなく女の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その働きの段階はまったく同じように完成されたことであろう。もしそうなっていたならば、今回の働きの段階は女性ではなく男性によって完成されなければならず、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。両方の段階でなされる働きには意義がある。働きは繰り返されることはなく、お互いに矛盾することもない。その働きの際、イエスは神のひとり息子と呼ばれたが、それは男性であることを示している。それではなぜこの段階でひとり息子のことは言及されていないのか。それは、働きの必要性から、イエスの性とは異なる性へと変更せざるを得なかったためである。神に関しては性の区別はない。神の働きは神の望むようになされ、いかなる制限にも左右されることはなく、非常に自由であるが、各段階には実質的な意義がある。神は二度肉となったが、終わりの日の神の受肉が最後であることは言うまでもない。神はすべての業を明示するために来た。人が目撃できるように、今の段階で神が受肉して自ら働きを行わなければ、人は神は男性にだけなりえるが女性ではないという観念を永久に持ち続けているだろう。これまで、神は男性にだけなりえ、女性は神と呼ばれることはないとすべての人が信じていた。すべての人は男は女に対して権威を持つものとみなしていたからである。権威を持てるのは男だけで、女は誰も持つことはできないと人々は信じており、男は女のかしらであり、女は男に従わねばならず、男を超えることはできないとさえ言った。男は女のかしらであると過去に語られた時、それは蛇にだまされたアダムとエバに関して言われたことであって、初めにヤーウェによって造られた男と女に関してではなかった。男が家族を養えるようにならなければならないのと同様、女は夫に従い、愛さなければならないのはもちろんのことである。これらはヤーウェが示した律法と命令であり、人類は地上の生活において順守しなければならない。ヤーウェは女に「あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」と言った。こう言ったのは、人類が(すなわち男も女も)ヤーウェの支配下で正常に暮らすことができ、人類の生活が構造を持ち、秩序を失わないようにするためにだけである。従って、ヤーウェは男と女がどう行動するべきかに関する適切な規則を作ったが、この規則は地上に住むすべての創造物にのみ言及するもので、受肉した神に関するものではなかった。どうして神が自分の創造物と同じであり得ようか。神の言葉は創造物である人類にのみ向けられた。それらは人類が正常に暮らせるようにと男と女に対して示された規則であった。最初、ヤーウェが人類を創造したとき、男と女の両方を造った。従って、受肉した神の肉体にも男女の区別があった。神はアダムとエバに語った言葉に基づいて働きを決定したのではなかった。神が受肉した二回は、完全に神が人類を最初に造った時の考えに沿って決定された。すなわち、神はまだ堕落していなかった男性と女性に基づいて二回の神の受肉の働きを完成させた。蛇にだまされたアダムとエバにヤーウェが語った言葉を人が神の受肉の働きに適用したら、イエスも果たすべきこととして妻を愛さなければならなかったのではないだろうか。それでもやはり神は神なのだろうか。もしそうなら、神は働きを完成させることができるだろうか。受肉した神が女性であることが間違いならば、神が女を造った時も大きな間違いだったのではないだろうか。神が女性として受肉することが間違いだと人がまだ信じているなら、結婚をせず、したがって妻を愛することができなかったイエスの受肉も現在の受肉と同じように誤りではないだろうか。ヤーウェがエバに語った言葉を使って今日の神の受肉の事実を判定するのなら、恵みの時代に受肉した主イエスを評価するのに、ヤーウェがアダムに語った言葉を使わなければならない。これら二つは同じではないのか。蛇にだまされなかった男に基づいて主イエスを評価するのならば、今日の受肉の事実を蛇にだまされた女に基づいて判断することはできない。それは公正さに欠ける。そのような判断を下すならば、あなたは理性に欠けていることは明らかだ。ヤーウェが二度受肉した時、肉体の性は蛇にだまされなかった男と女に関連していた。神は蛇にだまされなかったそのような男と女に従って二度受肉した。イエスの雄性は蛇にだまされたアダムの雄性と同じだと考えてはいけない。イエスはアダムとはまったく関係がなく、彼らは本質の異なる二人の男性である。確かに、イエスが雄性を持っているからといって、イエスがすべての女だけのかしらであり、すべての男のかしらではないと証明することにはならないのではないか。イエスは全ユダヤ人(男も女も含む)の王ではないのか。イエスは神自身であり、女だけのかしらでなく、男のかしらでもある。イエスはすべての被造物の主であり、すべての被造物のかしらである。どうしてイエスの雄性が女のかしらであることの象徴だと決めることができようか。これは神への冒涜ではないだろうか。イエスは堕落しなかった男性である。イエスは神であり、キリストである。イエスは主である。どうしてイエスが堕落したアダムのような男性でありえようか。イエスはもっとも聖なる神の霊が身に着けた肉体である。どうしてイエスはアダムの雄性を持つ神であるなどと言えようか。それではこれまでの神の働きはすべて間違っていたことになるのではないか。ヤーウェはだまされたアダムの雄性をイエスの中に組みこむことができたのだろうか。現在の受肉は、性はイエスと異なっていても、本質は同様な受肉した神の別の働きなのではないか。それでもまだ受肉した神は女性ではありえない、なぜなら蛇に最初にだまされたのは女だからだとあえて言うのか。女は最も不潔で、人類の堕落の発端なのだから、神が女性として受肉することなど到底ないとまだあえて言うのか。「女はいつも男に従うべきで、決して神を明らかにしたり、直接象徴したりしてはならない」とまだあえて言うのか。あなたは過去に理解しなかった。今でもなお神の働き、とりわけ受肉した神を冒涜できるのか。このことをはっきり理解できないならば、自分の愚かさや無知が明らかにされ、醜さが暴露されないよう、発言にはせいぜい気をつけなさい。自分がすべてを理解していると考えてはいけない。あなたがこれまで目にし、経験してきたことは、すべてわたしの経営計画の千分の一を理解するのにさえ十分ではないとわたしは言う。ではなぜそんなに傲慢なのか。あなたの持っているほんのわずかな才能と最小限の認識では、イエスの働きの一秒に使用するのにさえ不十分である。あなたは実際どれほどの経験を持っているのか。あなたが生涯で見てきたもの、耳にしてきたすべて、想像してきたことは、わたしが一瞬で行う働きより少ない。あら探しをしたり、欠点をみつけたりしないほうがよい。どんなに傲慢でも、あなたはまだアリ以下の被造物なのだ。あなたの腹の中にあるすべては、アリの腹の中にあるすべてよりも少ない。自分が多くを経験し、先輩になったので、思うがままの横柄さで語り、行動してもよいと考えてはならない。あなたの経験があり、先輩であるのは、わたしが発した言葉の結果ではないのか。自分の労働や苦労と引き換えにそれらを獲得したと信じているのか。今日、あなたはわたしの受肉を見て、その結果、たっぷりと観念を持ち、そこから数え切れないほどの勝手な考えが出て来る。わたしの受肉がなかったら、あなたの才能がどんなに並外れたものであっても、これほどの観念を持つことはないだろう。勝手な考えが生まれるのはここからではないのか。イエスの初めて受肉がなければ、あなたは受肉について何を知っているだろうか。あなたが二度目の受肉を厚かましくも大胆に批判するのは一度目の受肉を知っているからではないのか。いったいなぜ素直に従う代わりに細かく調べなければならないのか。あなたはこの流れに入り、受肉した神の前に来た。どうしてあなたに研究することが許されようか。あなたが自分の家族史を研究するのは結構なことだが、神の「家族史」を研究するなら、今日の神はあなたがそうすることをどうして許せようか。あなたは盲目ではないのか。あなたは自ら屈辱を受けようとしているのではないのか。

   イエスの働きが終わりの日のこの段階の補完なしに行われていたら、人は永久にイエスだけが神のひとり子である、すなわち、神は一人の息子しか持たず、別の名前でその後に出て来る者はだれも神のひとり子ではなく、いわんや神自身でもないという観念を持ち続けるだろう。罪の贖いの捧げものとしての役割を果たす者、あるいは神のために権力を担う者、また、全人類を罪から救う者は神のひとり子であるという観念を人は持っている。現れる者が男性である限り、その人は神のひとり子、神の代理と見なすことができると信じている人々もいる。そして、イエスはヤーウェの息子、ひとり子であるという人々さえいる。これは人の作った深刻な観念ではないだろうか。今の段階の働きが最後の時代になされなかったならば、全人類は、神について陰に包まれてしまうだろう。もしそうなら、男は自分を女より高い地位にあるものと考え、女は堂々としていることが決してできないだろう。そうなれば、女性はだれも救いを受けないだろう。人々はいつも、神は男で、女を常にひどく嫌い、女には救いを与えないと信じている。もしそうなら、ヤーウェによって造られ、そして堕落したすべての女は決して救いを受ける機会が得られないというのは本当なのではないか。それなら、ヤーウェが女を造ったこと、すなわち、エバを造ったのは無意味だったのではないのか。そして女は永久に消滅するのではないだろうか。従って、終わりの日のこの段階の働きは全人類、女だけでなく全人類を救うことである。この働きは女のためだけでなく、すべての人類のためである。そうでないと考える者は、なおさら愚か者である。

   現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。今の段階は恵みの時代の働きを基礎にして行われる。これら二つの働きの段階に関連がなければ、なぜ今の段階には磔刑がないのか。なぜわたしは人の罪を背負わないのか。わたしは聖霊による受胎により来るのではないし、人の罪を背負うために磔刑にされることもないだろう。むしろ、わたしは人を直接罰するためにここにいる。磔刑のあとわたしが人を罰しなければ、そして今わたしが聖霊による受胎を通して来るのでないならば、わたしは人を罰する資格がないだろう。わたしがイエスと一つなのであるからこそ、わたしは人を罰し、裁くために直接来るのだ。今の段階の働きは完全に過去の段階を基礎にしている。だからそのような働きだけが段階を追って人を救済に導くことができる。イエスとわたしは同じ霊から来ている。わたしたちの肉体には何の関連性もないが、わたしたちの霊は一つである。わたしたちがすることやわたしたちが担う働きは同じではないが、わたしたちは本質的に同じである。わたしたちの肉体の形は異なるが、これは時代の変化ならびにわたしたちの働きの必要性のためである。わたしたちの職分は同じではないので、わたしたちが作り出す働きや、わたしたちが人に明らかにする性質も異なっている。そういうわけで、今日人が見るものや受け取るものは過去のものと同じではない。それは時代の変化のためである。彼らの肉体の性や形は異なっているが、そして彼らは同じ家族から生まれたのではなく、ましてや同じ期間に生まれたのではないが、彼らの霊は一つである。彼らの肉体は血縁関係も物理的関係も決して共有していないが、それによって彼らが二つの異なる時期において受肉した神であることを否定することにはならない。彼らは同じ血統ではなく、共通する人間の言語を持っていないが(一人はユダヤ人の言語を話す男性であったし、もう一人は中国語しか話さない女性である)、彼らが受肉した神であることは否定できない真実である。これらの理由から、彼らは異なる国で、異なる期間になすべき働きを行う。彼らの霊は同じで、同じ本質を持っているという事実にも関わらず、彼らの肉体の外見には完全な類似性はまったくない。彼らは同じ人間性を共有しているだけで、彼らの肉体の外見と誕生は似ていない。これらのことはそれぞれの働きや、人が彼らに関して持つ認識に何の影響も与えない。なぜなら結局彼らは同じ霊であり、誰も彼らを分けることはできないからである。彼らには血縁関係はないが、存在全体は彼らの霊によって指示されているので、肉体は血統を共有しないままに、彼らは異なる期間に異なる働きを引き受けている。ヤーウェの霊はイエスの霊の父ではなく、イエスの霊もヤーウェの霊の子ではない。彼らは同じ霊である。今日の受肉した神とイエスと同様である。彼らに血縁関係はないが、彼らは一つである。これは彼らの霊が一つだからである。彼は慈愛と憐れみの働きを行うことができ、同様に義である裁きの働きや人を罰する働き、人にのろいをもたらす働きも行うことができる。結局、彼は世界を破壊し、不道徳な人々を罰する働きを行うことができる。彼はこのすべてを自分自身で行うのではないのだろうか。これは神の全能性ではないのだろうか。神は人のための律法を示し、戒律を発令することができ、また古代のイスラエル人が地上で暮らせるように導き、神殿や祭壇を建造して、イスラエル人すべてを統治するよう指導することができた。その権威のため、神は地上で二千年イスラエル人とともに生きた。イスラエル人はあえて反抗しなかった。すべての人がヤーウェを崇拝し、戒律を守った。この働きはすべて神の権威と全能性によって行われた。恵みの時代、イエスはすべての堕落した人類(イスラエル人だけではない)を罪から救うために現れた。イエスは人に慈愛と憐れみを示した。恵みの時代に人が見たイエスは憐れみに満ちており、いつも愛情にあふれていた。というのは、イエスは人を罪から救い出すために来たからである。イエスは磔刑を受け、本当に人類を罪から救い出すまで人の罪を許すことができた。その間、神は人の前に慈愛と憐れみを持って現れた。すなわち、イエスは人のために罪の生け贄になり、人が永久に許されるように人の罪のため磔刑にされた。イエスは慈悲深く、憐れみ深く、我慢強く、愛情があった。恵みの時代にイエスに従ったすべての人々も、あらゆることにおいて我慢強く、愛情深くあろうとした。彼らはすべての苦しみに耐え、たとえ叩かれても、罵られても、石を投げつけられても、決して反撃しなかった。しかし、この最終段階でそうはならないのは、霊は一つであったにもかかわらず、イエスとヤーウェの働きが異なっていたのと同様のことであった。ヤーウェの働きは時代を終わらせることではなく、時代を導き、地上における人類の生活を先導することであった。しかし今の働きは、異邦人の諸国のひどく堕落した人々を征服し、中国の家族だけでなく全宇宙を導くことである。今、この働きが中国で行われているのをあなたは知っているが、実はすでに海外に広がり始めている。なぜ外国人は何度も真理の道を探し求めるのだろう。それは霊がすでに働きを開始しており、言葉は今や全宇宙の人々に向けられているからである。これはすでに働きの半分にあたる。神の霊は世界が創造されて以来極めて偉大な働きをなしてきた。神は異なる時代にわたって、異なる国々で異なる働きを行ってきた。各時代の人々は、神の異なる性質を見ているが、それは神が行う異なる働きを通して自然に明らかにされる。それは神であり、慈愛と憐れみに満ちている。神は人の罪の生け贄であり、人の羊飼いであるが、人を裁き、刑罰を与え、のろいをかけることもある。神は人が二千年地上で生活するよう導くことができ、堕落した人類を罪から救い出すこともできる。そして今日、神は神のことを知らない人類を征服し、彼らを神の支配下に置き、すべての人が完全に神に服従するようにすることもできる。最後には、神は全宇宙の人々の中の不潔なもの、不義なものをすべて焼き払い、彼らに神が慈愛、憐れみ、英知、不思議、高潔の神というだけでなく、さらには人を裁く神でもあることを示す。全人類の中にある悪い者に対して、神は激しい炎、裁き、懲罰そのものである。完全にされるべき人々に対して、神は試練、精錬、苦難であり、同時に慰め、滋養、言葉の供給、取り扱い、刈り込みである。取り除かれる人々にとって、神は懲罰であり、報いである。教えてくれ。神は全能ではないのか。神はあなたが想像した磔刑だけではなく、すべての働きができる。あなたは神のことをあまりに低く考えている。磔刑による全人類の贖罪後、すべては終ると信じているのか。しかも、その後、神に従って天に行き、いのちの木から果実を食べ、いのちの川から水を飲むのか。そんなに単純なことであろうか。教えてくれ。あなたは何を成し遂げたのか。あなたはイエスのいのちを持っているのか。あなたは確かにイエスによって罪から救われたが、磔刑はイエス自身の働きであった。人としてあなたはどのような義務を果たしたのか。あなたは表面的に神を敬っているだけで、神の道を理解していない。それが神を明らかにするあなたの方法なのか。神のいのちを受け取っていなければ、あるいは神の義なる性質のすべてを見ていなければ、いのちを持っている者であると主張することはできず、天の国の門を通過するに値しない。

   神は霊であるだけでなく、肉体になることもできる。そのうえ、神は栄光のからだである。あなたたちは見ていないが、イエスはイスラエル人によって、すなわち、当時のユダヤ人に目撃された。彼は最初肉体であったが、はりつけにされた後、栄光のからだになった。神はすべてを包みこむ霊であり、あらゆる場所で働きを行うことができる。彼はヤーウェ、イエス、メシアになれる。最後には全能の神になることができる。それは義であり、裁き、刑罰であり、のろい、怒りであるが、慈愛と憐れみでもある。神の働きはすべてが神を表すことができる。神とはどのようなものだと言うのか。あなたはまったく説明することができないで、「神とはどのようなお方なのか私には説明することはできない」と言えるだけである。ある段階で神が贖いの働きをしたと言うだけで、神は永久に慈愛と憐れみの神であると結論づけてはいけない。あなたは、神はそのようなだけの神であると確信できるのか。もし神が慈悲深く、愛情あふれる神ならば、なぜ終わりの日に時代を終わらせるのだろうか。なぜ神はこれほどたくさんの災難を送り出すのだろうか。あなたが考えるように神が最後まで、最後の時代まで、人に対して慈悲深く、愛情があるならば、なぜ神は災難を天から地上に落とすのだろうか。神が自身のように、また神のひとり子のように人を愛するならば、なぜ疫病やあられを天から地上に落とすのだろうか。なぜ神は人が飢饉や疫病に苦しむのを許すのか。なぜ神は人がこれらの災難に苦しむのを許すのか。あなたたちのだれも神がどのようなものであるのかあえて言わないし、誰も説明できない。神は霊であると確信できるか。神はイエスの肉体だとあえて言うのか。そして、神は人のために永久に磔刑にされる神であるとあえて言うのか。「言葉は肉において現れる」より


忙しい仕事の中でも心を主から離れない方法とは

2020-06-16 12:28:30 | 信仰Q&A

   信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

   私は神の働きを受け入れたばかりの信者です。クリスチャンにとって交流の集会や毎日のディボーションはとても大切なことですが、私は仕事が過酷で疲れてしまうので、何をする時間も残りません。私は高い収入を得てはいますが、いつも虚しさと恥ずかしさを感じています。どのようにして毎日のディボーションと多忙なワークライフのバランスを取ればよいでしょうか?

   シャオ・ドン

 

 

   シャオ・ドンさん、

   こんにちは。あなたがお持ちの疑問には、私自身もとても長い間頭を悩ませました。私は主にある兄弟姉妹との交流を通じ、そして神の御言葉を読み続けたことで、神の御旨を知り始めました。仕事と信仰のバランスを取るため、そして仕事を適切にとらえるには、次の2点を理解する必要があります:

   主イエス様の御言葉通りに行動すれば、道を見失うことはありません

   主イエスはこう仰りました、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイによる福音書4:4)。「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」(マタイによる福音書6:25-26)。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。」(マタイによる福音書6:31-32)。

   神の御言葉は本当に、私たちのいのちと仕事を含めた全てが神の管理にあるということを、私たちが理解できるようにしてくださっています。私たちは神を信頼し、神の御言葉で生活してさえいれば、神の祝福を目にするでしょう。私たちは、クリスチャンとして、神の御言葉によって全てを判断し、神の御言葉をいのちの土台とする必要があります。私たちが物質的に必要とする物は全て神が備えてくださります。聖書には預言者エリヤのストーリーが書かれています。彼がケリテ川のほとりに身を隠した時、神はからすに命じて彼に食べ物を運ばせました。このため、エリヤが腹を空かせることはありませんでした。私たちも皆、このような体験をしていると思います。私たちは神の愛に心を打たれると、主のために労力を費やす意思を持つようになります。初めは、お金が不足することが心配になるかもしれません。しかし、時間が経つにつれて、神は私たちが必要とする以上にお与えくださっていることを私たちは知るでしょう。その時、私たちは、神の恵みが十分以上与えられていることを知り、大それた欲望を持つことなく、穏やかな気持ちになるでしょう。

   実際、私たちの信仰と仕事が衝突することはありません。どうすれば職場で神と正常な関係を築くことができるでしょう?

   焦点を変えれば、私たちの仕事に臨む神の御手を目の当たりにします

   主イエス様はこう仰りました、「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネによる福音書 4:24)。神は霊であります。神は全てを司っておられます。私たちはいつ、どこでも、神を礼拝し、神との関係を築くことができます。仕事をしながらでも神の御言葉を体験することに焦点を置いていれば、私たちは全てにおいて神の素晴らしい御業を目の当たりにし、神と毎日を共に過ごすことができます。神は私たちが問題や困難を解決するのを手伝ってくださり、正直な人になる方法を教えてくださります。真理を少し得ることができれば、多忙で、肉体的に疲れていても、前向きな姿勢で毎日の仕事と向き合うことができます。

   私の実体験をお話しします。最初、私は、仕事は仕事、信仰は信仰だと思っていました。この2つは全く関連していないのです。私が心から神を礼拝できるのは、教会で集会に参加している時だけです。私は当時、レストランで働いていました。私は極めて多忙で、教会の集会は毎週数回開かれていました。私は常に時間が足らないと感じ、神の御言葉を体験するのはもちろん、神の御言葉を読む時間すらありませんでした。そして、私はまた、自分の労働時間は長く、面倒くさいとも感じていました。ある集会の時、ある姉妹が私に神の御言葉のこの段落を読んでくれました、「神の道を歩むためには、自分自身に関する事柄や、自分の周囲で起こる事柄は、小さいことでも、すべてないがしろには出来ない。自分がそれに注意すべきであるかどうかを問わず、問題に直面している限り、それを無視してはならない。そうした事柄は、全て神からの試験であるとみなす必要がある。こうした姿勢は、どのようなものであろうか。あなたが、こうした姿勢をとっている場合、それにより、ある事実が確認される。すなわち、あなたの心が神を畏れていること、そして悪を避けることを望んでいるということである。あなたに、神に満足してほしいという願望があるなら、あなたが実行する事柄は神を畏れ、悪を避ける基準とかけ離れていることは無い。人間がそれほど気にかけない事柄、通常は話題とならない事柄は、取るに足らない些細な事柄であり、真理を実行することとは無関係であると考える人々が往々にしている。そうした人々がこのような物事に直面した場合、そうした人々は、それほど考慮することなく放置する。しかし、事実としては、こうした事柄は、あなたが学ぶべき教訓、どのように神を畏れ、悪を避けるかに関する教訓である。さらに、それ以上に配慮すべきことは、その問題が発生して自分が直面した時、神は何をしているかを知る事である。神は、あなたのすぐ側で共にいて、あなたの言うことなすことを観察し、あなたの行動を観察し、心の動きを観察している。これが神の業である。」

   神の御言葉を読んで姉妹と交流したおかげで、私は神の御言葉に従って人々と仕事を扱う必要があることを知りました。私たちが見るもの、出会う人々、行う仕事は全て神が異なる度合で私たちに課される試練なのです。神は私たちが全てにおいて神を恐れる心を持ち、忠実に神の御言葉に従うことを望んでおられます。私は以前、神と共に歩む方法を知らず、神の御言葉を実践する方法も知りませんでした。私は真理を得る機会を本当にたくさん無駄にしていたのです。しかし、私は神の御業に注意を払い始め、自分の仕事において神の御言葉を体験し始めたのです。

   一度、私のマネージャーが客への請求額を増やすために、色々な品目を請求書にもっと追加するよう私に指示したことがありました。私は、「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書 5:37)、という主の御言葉について考えた時、私は客を騙してはならないと分かっていましたが、マネージャーを怒らせたくもありませんでした。私はボーナスを差し引かれることや、もっとひどい場合クビになるのを避けたかったのです。私はその時突然、これは神からの試練であり、神はすぐ側で私の対応を見ておられるということに気が付きました。私は神にこう祈りました、「ああ、神様。私は真理を実践するために肉を捨てます。他人からどのような扱いを受けても、私はあなたの御前で生きること、あなたと正常な関係を築くこと、あなたの御言葉を貫いて、正直になることに集中します。どうか、私をお助けください。」こう祈りを捧げた後、私の心は落ち着きました。私はマネージャーの言う通りにはせず、神の要求通りに行動したにもかかわらず、私のマネージャーは何も言わず、私を叱りもしませんでした。これより、神の御言葉を実践すれば、心の中で平安を得られること、そしてそれは決してお金で購入できるものではないと私は理解しました。それ以降、私はいつも自分のワークライフにおいて神の御言葉を実践することに焦点を置くようになりました。私は神との正常な関係を取り戻すことができたと感じ、仕事を面倒くさいと思うこともなくなりました。

   ワークライフと信仰のバランスを取るために、何かを犠牲にする必要はありません。私たちはただ、神の御言葉に従い、それを私たちの生活の指針とするだけでよいのです。こうすることで、あなたは神から自由と、心の平安と、祝福を得ることができるでしょう。あなたに神の恵みがありますように!


主は違う御姿で再臨されるのでしょうか

2020-06-15 22:56:17 | 信仰Q&A

   信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

   お尋ねしたいことがあります。聖書には「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。(使徒行伝 1:11)、という記述がありますが、主イエス様はユダヤ人の姿でユダヤ人の服装をまといながら天に上られたのだから、再臨される時もユダヤ人の姿で降臨されるものだと私はいつも思っていました。しかし、ある集会の時、説教師はこの預言は主がユダヤ人男性の姿で降臨されるといっているのではなく、私たち人間は預言の奥義を理解することができないため、自分たちの想像を基に再臨される主の御姿がユダヤ人の姿になると決めつけることはできないし、そうしてしまうと私たちは恐らく主をお迎えする機会を逃してしまうと言われたのです。なので、私は今とても困惑しています。主はお戻りになる際はユダヤ人男性の姿で私たちの前に現われるのでしょうか?もし御姿を変えられたら、私たちはどうやって主に気が付いて主の再臨をお迎えすればいいのでしょう?この質問に関して、ご教示いただければ幸いです。

   シーイン

 

 

   姉妹イーシン、こんにちわ

   私も以前、主イエス様は再臨される時、以前と変わらずユダヤ人の御姿になられると信じていました。しかし、後に、私は聖書とその他の情報を細かく研究してみると、自分の理解は擁護できるものではないことを知りました。なぜなら、神の御姿は私たちが定義できるものではないからです。誰もが知っての通り、神は律法の時代にしばの中で炎に身を包みながらモーセの前に現われ(出エジプト記3:1-4参照)、主イエス様は、恵みの時代に働きをされていた時、弟子たちの前でその御姿を変えられました。そのことはマタイ17:1-2にこう記されています、「六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。」これより、神の御姿は変わることがあり、私たち人間が定義できるものではないことが分かります。

   聖書にこういう記述があります、「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」(ヨハネによる福音書 4:24)。「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」(ピリピ人への手紙 2:5-7)。これらの節より、神は霊であり、形を持たず、無定形であることが分かります。神は働きの必要性に応じて、ユダヤの地で人類の罪を贖う段階の働きを行う必要がありました。従って、神は十字架に磔にされる働きをより好適に成就するために、ユダヤの地でユダヤ人のかたちで受肉されました。しかし、私たちは主イエス様の御姿をもって神の御姿を定義して、主イエス様は再臨される時、ユダヤの地におられた時と同じ御姿で来られるという確信に至ってはなりません。もしも、主が再臨される時にその御姿を変えられる場合、ユダヤ人のかたちでないことを理由に主を受け入れることを拒否してしまうと、私たちは携挙される機会を逃してしまいます。こうすることは、聖句の預言を基に、来臨されるメシアが宮殿の中で特別な魅力と、崇高なかたちでお生まれになると決めつけていた過去のパリサイ人と同じです。しかし、主イエス様はその御姿をお見せになり、働きをされた時、普通の人間のかたちをとられました。さらに、主は彼らの観念および想像とは異なる働きをされました。従って、パリサイ人は主イエス様のことをメシアではないと決めつけ、最終的には主を十字架に釘付けにして神を怒らせてしまったのです。パリサイ人の犯した失敗を知る私たちは、自分たちの観念と想像によって再臨される主のかたちを定義してはいけないのです。

   今は主イエス様の来臨をお迎えする重大な時です。主が再臨される時にそのかたちを変えられるとしたら、私たちはどうやって主に気が付いて、主をお迎えすればよいのでしょうか?主イエス様が以前働きをするために来臨された時、主に従っていた弟子と信者たちは、主の御言葉と働きによって主がメシアの再臨、キリスト様であられることに気が付いたのです。それはヨハネによる福音書1:47-49にこう書かれています、「イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、『見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない』。ナタナエルは言った、『どうしてわたしをご存じなのですか』。イエスは答えて言われた、『ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た』。ナタナエルは答えた、『先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』。」 最初、ナタナエルは主イエス様がメシアだとは信じていませんでしたが、主イエス様がいちじくの木の下で彼が言ったことを知っていると言った時、彼は主イエス様がメシアの来臨であることに気が付き、主に従うようになりました。他の例としてサマリア人の女を挙げましょう。彼女も最初は主イエス様がメシアの来臨だとは知りませんでした。しかし、夫が五人もいるという彼女の秘密を主が暴露された時、人間の心の一番奥深い所までお調べになるのは神だけだということを知っていた彼女は、すかさず主イエス様がメシアだということに気が付きました。ペテロ、ヨハネ、マタイ、そしてマルコといった人たち全員が主イエス様はメシアであるということを主の教えの内容から気が付き、その結果、主に従うようになり、主の救いを得ることができたのです。

   主の再臨について、聖書には以下のような預言がたくさん書かれています、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書 10:27)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)。これに加え、ヨハネの黙示録にはこの預言もあります、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 2:29)。 これらの預言から、神は終わりの日に現れて働きをされる時、御言葉を話されるということが分かります。神の羊は神の御声を聞き、主をお迎えに出ることができるので、神の御前に引き上げられていきます。主イエス様はかつてこう仰りました、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)。私たちは主が再臨される時、どのようにして私たちの戸を叩かれるかは分かりません。私たちは神の御声を教会の兄弟姉妹たちから、または福音を宣教しに来る親戚や友人たちから、またはインターネットやその他の場所から聞いて、全ての教会に向けられる神の御言葉を知ることになるのかもしれません。しかし、主がどのような形で私たちの戸を叩かれようと、それが私たちの観念と想像に合っていてもいなくても、私たちは賢い乙女となり、虚心に神の御言葉を求め、調べ、それに耳を傾けなければなりません。神は間違いなく、私たちが神の御言葉から神の御声を認識し、そして主の再臨をお迎えできるように私たちをお導きくださると、私は信じています。

   信仰ステーション