賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

3つの方法であなたに真の道と偽の道を判別すること教えます

2020-06-14 20:12:24 | 信仰Q&A

   信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さん、こんにちは:

   ここ数年の間、牧師と長老たちは私たちにこう言っています。「私たちは今、終わりの日後期に突入しました。ありとあらゆる災害がより頻繁に発生し、その勢力もどんどん増しています。そして、主が再臨されるという預言は既に基本的に成就しています。これは主が近々再臨されることを示唆しています。しかしながら、異端と偽の道もどんどん出てきます。なので、私たちは警戒し、祈り、主の道に従う必要があります。主が再臨されたと宣教する人がいても、私たちはそれに惑わされて神に捨てられてしまわないよう、その人の宣教を聞いたり、読んだり、その人と接触してはなりません。」しかし、兄弟姉妹の多くは困惑しています。「惑わされるのを恐れて主の再臨の知らせを聞くことも、読むことも、それを宣教する人と接触することも拒否していたら、私たちは扉を閉ざして、主をお迎えするのを拒否していることにならないでしょうか?私たちはこのように惑わされるのを恐れて心を閉ざしていても、主の再臨をお迎えすることができるのでしょうか?」そこで、私からの質問は「惑わされるのを恐れて心を閉ざし、独りで待機するというのは正しいことなのですか?」ということです。この質問に対する皆さんの見解を聞かせていただけないでしょうか?どうぞ、宜しくお願いします。

   敬具、

   グアンミン

   2019年2月1日

 

 

   グアンミン兄弟、こんにちは:

   あなたからのメールを受け取りました。あなたが提起されたご質問はとても重大なものです。その理由は、私たちが主の再臨をお迎えできるかどうかにそれが直接つながっているからです。実は、主を信仰する兄弟姉妹の多くもこれについて困惑しています。では、これについて交流していきましょう。

神からくるものは私たちを勇ましく、毅然としてくださります。恐れはサタンからくるものです。

   終わりの日には、主がまた来臨され、ありとあらゆる異端と偽の道も出てきます。これらは事実です。主の再臨をお迎えするというこの重大な節目において、私たちは惑わされることを恐れて、主の再臨に関する知らせを聞くことも、読むことも、それを宣教する人と接触することも拒否しています。こうすると、私たちは偽の道に惑わされることはありませんが、真の神に対して簡単に扉を閉ざしてしまうことになります。一見、安全な対応のように見えますが、それにはサタンの企みが込められているのです。サタンは私たちが積極的に神の歩みを求め、神に立ち返ることを恐れています。それ故に、サタンは私たちを惑わして、抑制するために、私たちにその思考を送りつけたり、異端や虚偽を広めます。この結果、私たちは消極的に自分たちを守る姿勢をとり、誰かが主イエス様の再臨を証言しているのを耳にしても、それを探求したり、調査しようとしなくなってしまいます。こんなことをしていて、どうしたら主の再臨をお迎えできるというのでしょうか?主の再臨をお迎えするにあたり、異端と誤った教義から自らを守るということを主な行いとし、真の道を探求し調査することを重要視していなければ、それは ‘一文惜しみの百知らず’ ということに陥ってしまわないでしょうか?実際、私たちは異端と誤った教義からどのように自分たちを守っていようとも、主の再臨をお迎えして神の御座の前に行くことができなければ、最終的には神に排除され、捨てられる愚かな処女ということになります。神は全能であり、この世の全てが神の御手の中にあるということは誰もが知っています。ヤーウェ神はかつてこう仰りました。「心を弱くしてはならない、この地で聞くうわさを恐れてはならない」(エレミヤ書51章46節)。そして、テモテへの第2の手紙1章7節にもこう記されています。「 というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」 これらの節から、神が私たちにお与えくださるものは力と勇気であり、恐れのもとはサタンにあるということが分かります。私たちには神の気遣いと加護、それに聖霊の存在と導きがあります。惑わされることを心配したり、恐れる必要があるのでしょうか?神の羊は神の御声を聞くことができます。本当に知力と裁量を持つ人なら異端と偽の道に惑わされることはないでしょう。困惑して知力を欠く人たちのみが異端と偽の道に惑わされてしまうのです。私たちは主の再臨を探求して調べる時、誠実な気持ちで神を頼り、仰ぎ見て、真理を求めてさえいれば、神の導きと指導を受け、神の御言葉通りに真の道と偽の道を見極めることができ、偽の道に惑わされずに済むと、私は信じています。しかしながら、牧師と長老たちは主の再臨に関する福音を聞いたり、読んだり、それと接触することはないようにと私たちに言われます。これは明らかに主の御心に完全に反しています。彼らは私たちが真の道を調査するのを妨げており、私たちが主の再臨をお迎えする機会を台無しにしているのです。私たちはこれを明確に理解しておく必要があります。

信仰は聞くことによるのであり、真の道は探求し調査してのみ得ることができます。

  聖書にはこう書かれています。「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ人への手紙10章17節)。これ故に、私たちは信仰を始める前に、先ずは道を聞く必要があります。その道を聞いてのみ、私たちはそれが真の道であるのかどうか、そして神の顕現と働きについて判断することができるのです。主イエス様が働きをされた時のことを振り返ると、当時のパリサイ人は主をはなはだしく中傷し、非難し、主の働きが真の道であることを否定し、さらに彼らはユダヤの民を騙して探求も調査もしないように仕向けていました。彼らの本性を見極められなかったユダヤの民はむやみに彼らの言葉を信じ、主イエス様の説教を聞くことを拒否してしまい、彼らに従いながら主イエス様を十字架に釘付けにするという最大の罪を犯してしまったのです。しかし、ペテロ、マタイ、マルコ、ヨハネといった人たちはパリサイ人の広めた噂を信じなければ、それに惑わされることを恐れて主の福音に耳を傾けないということもありませんでした。むしろ、彼らは切に探求する心をもって主イエス様の説教を聞き、主がどこで説教されていても、主イエス様の説教に耳を傾けたのです。彼らは探求して切望する心を持っていたために、主イエス様の御言葉には権威があり、それは神の御声であることに気が付き、最終的に主がメシアであったことを確認することができたのです。彼らは神の救いと祝福を授かりました。これは全て彼らが真理を求める心を持って主の説教を聞きに行っていた故に実現したことだったのではないでしょうか?

   ヨハネの黙示録には、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2章、3章)、という預言が何度も出てきます。主イエス様はこうとも仰せられました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(マタイによる福音書25章6節)。 主イエス様は、終わりの日に再臨される時にはもう一度御言葉を語られ、そして誰かの「呼ぶ声」を通して私たちに再臨のことを伝えられると明確に私たちに仰りました。これ故に、私たちは主の再臨をお迎えすることについて、探求心を持つ必要があります。主の再臨を誰かが宣教しているのが聞こえる時、それは主が私たちの扉を叩いておられるのです。私たちは賢明な処女になり、積極的に求め、調査し、神の御声を聞くことに注意を払い、そしてその道には真理があり、聖霊の働きが宿っているのかどうかを確認しなくてはなりません。そうすることでのみ、私たちは主の再臨をお迎えすることができるのです。

大切なことは真の道と偽の道を見極める方法を学ぶことです

   これで、主の再臨をお迎えしたければ、消極的に守りの姿勢に入るのではなく、積極的に探究する必要があるということが分かりました。加えて、その最も重要な部分として、私たちは真の道と偽の道を見極める原則を学ぶ必要があります。それができてのみ、私たちは惑わされるのを避けることができます。ならば、どのようにしてそれらを見極めればよいのでしょうか?先ず初めに、次の御言葉を読んでみましょう。「真の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、それが聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。受肉した神への信仰も、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は正常の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)正常の人間性すべてである。即ち、この道が人間を正常な人間性の生活に導くものかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が正常の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを見極めなければならない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真の道であると結論づけられる。」「もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンに堕落させられた自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。」

   この御言葉より、真の道には聖霊の働きが宿っているということが分かります。これが真の道と偽の道を見極めるための鍵となります。真の道であれば、それは間違いなく神御自身の働きであり、聖霊に支持されているに違いありません。例えば、主イエス様が働きに来られた時、主は律法の時代の幕を閉じ、恵みの時代を開かれ、悔い改めの道をもたらされました。主イエス様に従っていた人たちは全員が、主に呼び掛けてさえいれば、聖霊の働きを受けて主がお与えくださる豊かな恵みを授かることができました。人々は罪を犯しても、誠実な心をもって主に祈りを捧げてさえいれば、その人々の罪は許され、心は平安と幸せで満たされました。人々はどのような困難や問題に遭遇しても、主の御言葉通りに実践してさえいれば、その人々の魂は自由と解放感を得ることができました。そうしないと、彼らは罪悪感で満たされ、心の中では主に対する恩義の念に駆られました。人々は主の御言葉と働きを断続的に体験するにつれて、主への信仰が増々厚くなり、主への愛も次第により深くなり、彼らは主のために全てを脇に置いて、主の福音を伝導することによって自分たちの存在そのものを主イエス様に捧げる意思を持つようになりました。主イエス様の働きはローマ政府とユダヤの宗教界による見境のない非難と迫害を強いられましたが、主の福音はそれでも見事にユダヤの地全体に広まって行きました。心から神を信仰し、神の顕現を切望した人々は全員が主イエス様の救いを受け入れて、神の御前に立ち返りました。そして2千年が経った今、主イエス様の福音は世界の隅々まで宣べ伝えられ、キリスト教は多くの国々で正式に国教とされています。そして、この全ては聖霊の働きの結実なのです。その一方で、偽の道には聖霊の働きによる導きも加護もありません。なので、その信者が神への真の信仰や真の愛を持つことはありません。さらに、彼らは、初めはどれだけ熱心に見えても、すぐに去って行ってしまいます。私たちがよく言う「神からのものは栄え、人からのものは滅びる」、というのは正にこういうことなのです。このようにして、私たちは聖霊の働きが宿っているかどうかによって、それが真の道であるかどうかを見極めることができるのです。

   これに加え、それが真の道であれば、真理といのちが見られるはずです。主イエス様は仰りました。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)。 神はいのちの源です。神のみが真理を表し、私たちにいのちを与え、私たちが現在必要とすることを備えることがおできになります。そして、神のみが、私たちに現実的な道を指し示し、私たちの抱える問題、当惑、そして困難の全てを解決することがおできになります。例えば、律法の時代末期には、神の律法と戒めを守れる人はいなくなり、自分たちの罪を償うのに十分な罪の捧げものを持っている人はいませんでした。それ故に、当時の人々は律法によって有罪とされ、死刑に処される危険に陥っていました。こうして、当時の人々の欠乏を補うため、神は人類の罪を贖う働きに着手されました。主イエス様は、多くの真理を仰せられ、私たちに人間にお互いを愛し合うこと、寛容で寛大な心を持つこと、敵を愛すること、他人を幾度でも許すことを教えてくださりました。主はまた、義に飢えかわき、義のために迫害されてきた人々は幸いであり、その人々は神に認められた人々であること、そしてその一方で、偽善的で、他人を欺き、真理を嫌う人々は神によって忌嫌われ、非難されてしまうということも私たちに仰せられました。加えて、主イエス様は、苦難に耐えながら主に従うこと、霊と真をもって神を礼拝すること、心と精神をつくして神を愛すること、神の御心に従うこと、正直な人になること等、私たちに対して様々な要求をされました。主イエス様の御言葉から、神の御心と要求が理解できると同時に、神がどのような人を好み、嫌われ、どのような人が天国に入れるか、人々はどのように神を愛し、どのように他人を扱うべきか等が分かります。主の御言葉に従って実践すれば、私たちの抱える困難、問題、そして当惑は解消され、私たちは成長して増々真理を理解できるようになり、私たちの人間性は増々正常になり、私たちの神との関係はより親密になるのです。この全てが主の御言葉が私たちにもたらす効果なのです。これより、真の道には真理といのちが見られ、それは人々が必要とすることを備え、人々に実践の新たな道をもたらしてくれるということが分かります。その道が人々に真理をもたらさず、実践の新たな道を示すこともなく、神が以前なさった働きや、仰せられた御言葉を繰り返す、または真に見えても実は偽であるといった教義を人々に幾つか理解させる、または人々に古い規則を幾つか守らせるだけのものであるとしたら、それは真の道ではありません。それは、おそらく、古い道であるか、偽の道、あるいは神が過去になさった働きを真似る悪霊とサタンが人々を惑わすために行っている働きである可能性があります。

   真の道を見極める上で考慮する必要がある3つ目の原則は、その道が人々に神の更なる認識を与えてくれるかどうか、そしてそれが人々の内に神への愛を芽生えさせるかどうかを確認するということです。神は働きをしに来られるため、必然的にその性質、ならびに神が有する全てと神そのものを示されるということを、私たちは誰もが知っています。人々は神の働きを体験する時、自然と神の真の理解に至ります。これは、律法の時代に、ヤーウェ神が地上で人々の生活を導くために律法を発布されたのと同じです。人々は、神に仕えた祭司であろうと、一般の民であろうと、律法と戒めに従い、神の要求通りに振る舞ってさえいれば、神の祝福と承認を得ることができました。対照的に、祭司たちは律法と戒めに従わなかった時、天から降る炎によって焼き殺されました。一般の民が律法と戒めを破った時、彼らは石で撃ち殺されてしまいました。神の働きを体験したことにより、彼らは神が御霊であり、至る所におられること、神は全地を見ておられ、人々の心の奥底を覗かれること、神の性質は威厳、怒り、呪い、焼き尽くしであり、それはいかなる人でも害することができないものであると認識しました。これ故に、彼らは神を恐れる心を持つようになりました。恵みの時代に、受肉された神は人類の罪を贖う段階の働きをするために地上に来られました。主イエス様は病人を癒し、悪霊を追い出し、私たち人間に豊かな恵みをお与えくださり、寛大で寛容な心を持ち、敵を愛し、他人を幾度となく許すこと等を教えてくださりました。そして、主は人間のために自らが模範にもなってくださりました。主イエス様の働きを体験したことにより、神の性質は怒り、呪い、そして焼き尽くし以外に、憐れみと慈しみでもあるということを認識しました。私たちはまた、神は御霊として働きをなさるだけでなく、人間の姿をとって、私たちと直接話しをすることがおできになるということも知りました。神は人間に対する愛で満ちておられ、寛大な心でも満ちておられます。そして、この全てにより、私たちは神の新たな理解に至り、神の謙虚さと魅了的な性質を知ることができました。私たちは神の働きを体験すればするほど、増々神の至高と偉大さを実感し、自分たちが小さいことを感じとり、更には、不可侵の神の聖なる、かつ義なる性質の真の理解を得ることができると感じるようにもなるのです。これ故に、神の性質、および神が有する全てと神そのものは人間の愛を受けるに極めてふさわしいと、私たちは心の内で確信しています。そして、私たちは神に対して純粋な崇敬、敬虔、そして従順の心を持たずにはいられなくなり、真理を貫いて神と同じ心を持つ人になることを増々切望するようになります。従い、それが真の道であれば、それは人々がもっと神を理解できるようにしてくれると同時に神の性質に関するより深い理解を与えてくれます。それを受けて、人々は神に対して真の愛と畏敬の念を持つようになります。しかし、偽の道は神の働きではありません。それは神の性質や神が有する全てと神そのものがほんの僅かもなければ、人々が神に関する真のまたは現実的な理解を持てるようにもしてくれませんし、まして人々に何らかの建設的な結実をもたらすことや、神を愛するように人々を刺激することなど到底できません。

   これらが真の道と偽の道を見極める3つの原則です。主イエス様はこう仰せられました。「捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイによる福音書7章7節)。 私たちは、誰かが主の再臨を宣教するのを耳にする時、誠実な心をもって真理を求め、それを積極的に調査し、これら3つの原則を基に熟考して見極めてさえいれば、神の導きと啓示を受け、神の御声を聞いて、主の再臨をお迎えすることができると私は信じています。反対に、偽の道に惑わされることを恐れて聞かない、読まない、接触もしないというアプローチをむやみにとり、扉を閉ざして自らを隔離していたのでは、惑わされることを恐れて心を閉ざしているということになるため、決して主の再臨をお迎えすることはできないでしょう。

   グアンミン兄弟、私はこの交流があなたのお役に立つことを願っています。他にも何か問題がございましたら、どうぞ返信ください。

   拝啓と敬具

   信仰ステーション

   2019年2月19日


イエスはご自身の再来の方法が二つあると預言された

2020-06-13 19:48:20 | 信仰Q&A

   全能神教会では、主イエスの再来についてすでに証しをされている。そうですね。全能神は主だと。全能神は終わりの日に裁きを行われる。しかし多くの信者は信じています。主は雲に乗って来られると。主イエスが言われたからです。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書 24:30)黙示録にもあります。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録 1:7) 私もまた、主が雲に乗って再臨されることと信じています。雲に乗って来られない主イエスは受け入れられません。主の再臨は受肉されひそかになされると言っていますね。でも誰もそれを知りません。主が雲に乗って戻られるのは間違いありません。そのため、私達は主が雲に乗って現れ天国にお連れくださるのを待っています。我々の理解は正しいのでしょうか?

 

 

   解答: 雲に乗って来られる主を待ち望むことにおいて、我々は人間の考えや想像に頼ってはなりません!パリサイ人は、メシアの到来を待つにあたり、大きな間違いを犯しました。まさに人間の考えや想像をもって、すでに来られていた主イエスを測ろうとしたのです。最後には、主イエスを十字架に磔にしてしまった。これは事実ではないですか?主の到来を待つのは、我々が考えているほど単純なことでしょうか?もし主が戻られ肉の主イエスがなさったように人の間で働くが、我々が彼を認めなかったら、パリサイ人らがしたように、やはり彼を裁き、非難しもう一度磔にするでしょうか?その可能性はありますか?主イエスは再来することを予言し、それについて多くを語ったが、あなた方は、主は雲に乗って来られるという予言のみに固執し主が語った他のより大切な予言を求めたり、探究しないでいる。これでは簡単に間違った道を歩んでしまい、主に見捨てられてしまいますね。聖書には、単に「雲に乗って降臨される」という予言のみがあるのではない。他にも、主は盗人のように、ひそかに来られるといった予言が多くあります。例えば、黙示録16:15、「見よ、わたしは盗人のように来る。」マタイ25:6、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」そして、黙示録3:20:「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」これらの予言はすべて、神が人の子として肉となり、ひそかに降臨されることに言及しています。「盗人のように」ということは、静かに、ひそかに、という意味です。人々は彼を見たり、聞いたりしても神であることが分からない、その昔、主イエスが現れ、その働きをなさったときのように。外からは、主イエスはただの人の子であり、誰も彼が神であること知らなかった。なので、主イエスは「盗人のように」という例えを使って、人の子としての出現と働きを説明しました。これはあまりにもふさわしい!真理を愛さない者は、肉となった神がいかに語り、働き、多くの真理を表したとしても、それを受け入れない。その代わり、受肉した神をただの人として扱い、彼を非難し、見捨てる。なので主イエスは、再臨するときについて次の予言をしました:「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」主の予言にもとづき、その再臨は「人の子の再来」となります。「人の子」とは、受肉した神を意味し、復活した主イエスが公に、皆の前に雲に乗って霊的な体として降臨することを意味するものではない。それはなぜでしょうか?考えてみましょう。それが復活した主イエスが公に、皆の前に雲に乗って降臨する霊的な体のことであれば、非常に迫力があり、世界にショックを与えるでしょう。誰もが地にひれ伏し、抵抗しようとするものは誰もいないでしょう。その場合、再臨主イエスはそれでも多くの苦しみに耐え、その世代から退けられるでしょうか?ですから、主イエスは自分の再臨は、「人の子としての再来」であり、「盗人のよう」だと予言したのです。現実には、それは神が受肉し、ひそかに人の子として来られることを意味しているのです。

   では、人の子がひそかに降臨し、神の働きをなすことと、神が雲に乗って公に現れることとの関係とはどういうものでしょうか?この過程には何が関わっているでしょうか? これについて簡単に語ってみましょう。終わりの日には、神が受肉し、ひそかに人間の間に降臨され、語られ、神の家から始めて裁きの働きをなさいます。神の声を聴き、その王座の前に戻る者たち全員を清め、完成させます。そして彼らを、勝利者の群れとされます。それから神は、大災害をもたらし、終末に神の裁きを受け入れない者たちをよりわけ、罰します。その後、神は雲に乗り、すべての人の前に公に姿を現します。これで黙示録1:7の予言は、完全に果たされます:「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」主が雲に乗り来られるときに、彼を突き刺した者たちも彼が見えるのか?彼を突き刺した者たちとは一体誰なのか?これは主イエスを十字架に釘付けにした人たちだと言う人もいます。本当にそうなのか?主イエスを十字架につけた人たちは、ずっと前に神に呪われ、なきものにされたのでは?現実には、彼を突き刺した者たちは、終わりの日に受肉された神がひそかに降臨され、働かれているとき神の声を聴かず、全能神を非難し、抵抗した者たちです。そのとき、彼らは自分たちが抵抗し、非難した全能神がまさに長年彼らが激しく待ち望んでいた救い主イエスであることを知るのです。胸を打ち、泣いて歯ぎしりしても、その結果は懲罰しかありません。黙示録は、そのような人々が最後には生きるか死ぬかを記していないので、我々は知ることができません。神のみぞ知る。神の声が聞ける賢いおとめたちだけが、主の再臨を迎える機会をもつことができ、神の王座の前で子羊の宴に参加し神により、勝利者として完成されます。これで黙示録14:4の予言は果たされます:「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。」だが、主は雲に乗ってくるという考えのみに固執し、終わりの日の神の働きを求め、探究しない者は、愚かなおとめたちと見なされます。ことに全能神に激しく抵抗し、非難するものは、終わりの日における神の働きにより正体が暴かれるパリサイ人や反キリストたちです。彼らは皆、神を再度十字架につけた人たちです。これらの人々は皆、大災害に遭遇し、懲罰を受けるでしょう。雲に乗ってくる主のみを歓迎するという人々の犯した間違い、彼らがどんな人たちであるか、その結果はどうなるのか、ということにつき、皆さんは明白に理解されたと思います。『呪縛を解く』より


神様の愛のお導きで病気という試練を乗り切りました

2020-06-12 19:02:51 | 勝利者の証し

喜んで主と再会

 私は今年で78歳ですが、ずっと頭痛や糖尿病を患ってきました。2005年に主を信じるようになってからというもの、長年にわたって私を苦しめてきた病気が軽減されました。私は神様の愛を感じ、心の底から主に感謝しました。二年後、親戚の一人が終わりの日の神様の働きについて説き、主イエスが受肉した全能神として再臨したと言いました。全能神は今や主イエスの贖いの働きを基礎の上により高次の新しい働きの段階を行っておられ、真理を用いて人を裁き、罰し、堕落を清めておられると教えてくれたのです。また、神様は最終的に救いを得た人を神の国に導くとも述べました。私はこの話を聞いてとても嬉しくなり、「生きている間に主をお迎えすることができるとは想像もしなかった。将来、神様の国に連れて行ってもらえるなら、どんなに素晴らしいことだろう!」と思いました。このことを考えると、私の心は言いようのない喜びに満たされ、神様の愛と救いに感謝しました。求め調べる一時期を過ごした後、神様の御言葉を読んで全能神は再臨された主イエスであることを確信しました。その直後には教会生活を送り、教会内で本分を尽くすためにできるあらゆることをしていました。

病に襲われ、私の嘆かわしい動機が露わに

 旧暦十二月、家事をしているときに突然心臓の圧迫感を感じ、呼吸困難に陥りました。息が詰まるように感じて今にも窒息しそうでした。私が苦しんでいるのを見た夫が急いで娘と娘婿に電話をかけ、彼らに市立病院に連れて行ってもらいました。

   総合的な検査の後、担当医は厳しい表情で言いました。「非常に重い病気に罹っています。心臓に問題があるので、いつ亡くなってもおかしくない状態です。すぐに入院して治療を受ける必要があります」医師の言葉は青天のへきれきで、私はたちまちうろたえ、思いました。「どうして突然こんな重病に?いつ死んでもおかしくないって?神様を信じるようになってから、ずっと誠実に本分を尽くしてきたのに。なぜ神様は私を守ってくださらないの?死んでしまったら、美しい神の国が出現する壮大な出来事に立ち会えない。娘たちや夫とまた一緒に暮らすこともできなくなる。天国の永遠の幸福にあずかれないの?」考えれば考えるほど胸が痛み、心に孤独感が忍び込みました。苦痛の中で私にできることは心から神様に祈ることだけでした。「ああ、神様!重い病気が私の身に降りかかって、私は無力で弱くなっています。何をすべきかわからず、神様の御心を理解できません。それでもこれは神様がお許しになるから起こっていることだと信じます。ですからどうか、私をお導きください」祈った後、神様の御言葉が思い浮かびました。「今、あなたがたは皆、神を信ずることは、ただ単に魂の救いや、肉の幸福のためでもなく、神の愛を通してあなたがたの人生が豊かになることなどでもないと分かっている。そのように、もしあなたが肉の幸福や一時的快楽のために神を愛するなら、たとえ最後にあなたの神に対する愛が頂点に達し、あなたが何も求めないにしても、このあなたが求める「愛」は依然として汚れた愛であり、神には喜ばれない。…この種の愛は現状維持のままでしかない。それは永久的不変性を得ることも、人に定着することもあり得ない。この種の愛は花が咲いた後も実がならず、しぼんでしまう花のようである。すなわち、そのように神を一旦愛した後、誰もその道を導いてくれないと、あなたは倒れてしまうだろう。…神に得られる人たちとは、サタンに逆らい、サタンの支配下から逃れる人たちのことである。そのような人たちは正式に神の国の民の中に数えられる。神の国の民はこのようになるのである。あなたはこの種の人になりたいだろうか。あなたは神に得られたいだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「信者はどのような観点をもつべきか」より)

   神様の御言葉の暴露で私は恥ずかしくなりました。そのときになって初めて、神様への信仰に関する私の見解が間違っていたことに気づいたからです。思い返せば、私が主イエスを信じ始めたのは病気が治るようにという気持ちだけからで、その後、全能神の終わりの日の働きを受け入れれば天国に入り、永遠の祝福を享受できると聞いたのです。それで、その祝福を得るために終わりの日の福音を受け入れ、積極的に本分を尽くしました。神様のために働けば働くほど、将来の祝福が大きくなると信じて。しかし今や生死に関わる病気に罹り、祝福を受けるという希望は打ち砕かれようとしていました。私は、神様を非難し誤解するようになり、神様を説得しようするようになりました。神様のためにすべてを捨て、自分を捧げてきたのだから、神様のために苦しみ代償を払ったのだから、神様は私を祝福するべきで、私をこんな大病に罹らせるべきではないと思ったからです。そのとき初めて自分の神様への信仰と本分を尽くしてきたことは誠実でなく、それどころか神様の愛に報いるという被造物としての本分を尽くしていなかったことがわかりました。むしろ個人的な動機に基づいて行動していたのです。私の目的は神様から祝福を得て、神様の恵みと祝福を享受することでした。自分を捧げてきたのも、神様と交渉し見返りに天国の至福を得るためでした。このような神様への汚れた信仰を持っていては、上っ面がいかに忠実に見えようとも、事実に立ち向かうことはできません。短い間は可憐に美しく咲くけれど何の実もつけない花のように、小さな嵐がやって来るとたやすく折れてしまったのです。私はいかにあらゆるものを神様から与えられてきたかに思いを巡らせ、神様の愛に報いるためどのように本分をしっかり尽くすべきかを考えました。また、これが天の掟であることも思いました。それなのに度を越えた欲望でいっぱいになった私は、自分の本分を利用して神様と交渉したのです。このようなやり方で本分を尽くすことで神様に背き、神様を欺いていたのではなかったでしょうか。私はひとかけらの良心も理知も備えていませんでした。それから私は神様の御心を理解したのです。神様はこの病気を利用して私を試し、私の神様への信仰の裏にある間違った動機をはっきりと見えるようにしてくださっていたのです。神様はこの精錬を利用して私を清め、変え、神様に対して私がしていた理不尽な要求を手放させ、良心と理知を取り戻させ、被造物としてしっかりと立ちつつ創造主を崇拝させようとなさっていたのです。このことを考えていると、すべてが突然理解でき、私は神様の救いに感謝しました。神様の救いがなければ、私は未だに間違った道を進んでいたでしょう。その果てには何の報酬もなく、ただ神様に見捨てられ、ふるい落とされていたことでしょう。この病気を通して私は、もし人が神様の働きを知らず、いかにして神様が人を清め救ってくださるかを知らなければ、人は神を畏れ従うことができないことが理解できるようになりました。また、物事が自分の思い通りにいかなければ意気消沈し、神様を誤解し非難する場合すらあります。私の霊的背丈は哀れなほどに低いものでした。これらについて考えると、私は自責の念にさいなまれ、神様への恩義で心がいっぱいになりました。

   入院してからは、いかなるときも神様の存在を意識していたところ、自分の心と神様がいっそう近づいたように感じました。私は神様の次の御言葉について考えました。「全能神は全能の医者である。病の中に留まれば、病気になる。しかし霊の中に留まれば、健やかになるのだ。あなたに最後の息があるかぎり、神はあなたを死なせはしない。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストのはじめの言葉」の「第六章」より)神様の御言葉に神の権威と愛を見出し、私は心の中で神様に祈りました。「ああ、神様!病気が降りかかり私は少し弱気になっていますが、神様が万物の支配者であり、この病気も神様の手の内にあることを信じています。私は神様にこの身を委ねることを願い、神様は私の柱であると信じています。私に信仰を授け、神様の指揮と采配に従えるようにしてください。」

死が迫り、神様の御言葉により信仰が強固に

   十日以上が経ちましたが、病気は一向によくなりませんでした。ある日、私は急にショック状態に陥って蘇生が必要になりました。病状が悪化しているのを見た娘婿は私を省立病院に移させました。省立病院の専門医が転院の書類を見て集中治療室を手配し、酸素を投与してくれました。集中治療室に入院した患者は皆すぐに死ぬとある患者が話しているのが聞こえました。これを聞いて私は恐ろしくなり、心の中で「医師は私がすぐに死ぬからここに入院させたのだろうか?」と思いました。こう考えていると、死が迫っているように感じ、心の中で訳のわからない狼狽と不安を感じました。その日の午後、一人の男性が病室に運び込まれ、一時間後に亡くなりました。男性が運び出されるのを見た瞬間、自分が死装束を着せられているような気持ちになり、次の死者は私自身だと思いました。考えれば考えるほど、恐怖が増しました。「私は本当に死ぬのだろうか?でもまだ死にたくない、まだしたいことが…」私まったく無力で恐ろしくなり、ただただ心の中で神様に呼びかけ、私の心をお守りくださいと願うことしかできませんでした。そのとき、神様の次の言葉が思い浮かびました。「ヨブが多くの家畜を失い、膨大な家族の財産を失い、体が腫物で覆われたとき、それは彼の信仰があったであった。彼が、わたしヤーウェの声を聞くことができ、わたしヤーウェの栄光を見ることができたのは、彼の信仰によるものであった。ペテロがイエスキリストに付き従うことができたのは、彼の信仰によるものであった。彼がわたしのために十字架に釘づけにされ、素晴らしい証となったのは、彼の信仰によるものであった。ヨハネが人の子の輝かしい姿を見たのは、彼の信仰によるものであった。彼が終わりの日の幻を見たのは、なおさら彼の信仰によるものであった。いわゆる異邦人の国の人々がわたしの啓示を受け取り、わたしが肉となって帰ってきて人々の間で働きをするのが分かっているのは、また彼らの信仰によるものである。わたしの厳しい言葉によって打ち砕かれ救われた者たちのすべてがそうしたのは、彼らの信仰の故ではないのか。人々は信仰を通して多くのものを受けたのだ。彼らが受けるのはいつも…祝福ばかりであるとは限らない。例えば、ヨブの場合は信仰を通して幸いだけではなく、災いも受けた。あなたが幸いを受けようが、災いを受けようが、どちらも祝福されたことなのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(1)」より)

   神様の言葉は私の希望の灯をともし、信仰を授けてくださいました。ヨブやペテロなど、あらゆる時代の聖徒たちに思いを馳せました。彼らがあらゆる試練を受けていたとき、心の奥底まで悲嘆に暮れ、当時は極度の苦痛に苛まれ、神様の御心が理解できませんでした。それでも彼らは真の神様への信仰を持っていました。神様が何を為されようと彼らは不満を口にすることなく、被造物としてしっかりと立ちつつ創造主に従い、最終的には神様の祝福を得て、神様の偉大な力と支配を目にしました。例えばヨブがサタンの攻撃や試みを受けたとき、財産はすべて奪われ、子供たちは大きな不幸に見舞われました。また全身が腫れ物に覆われ、凄まじい苦痛を味わいました。それでもなお神様がヨブの心にはありました。ヨブは唇をもって罪を犯すよりも、自分の生まれた日を呪うことを選びました。そしてこう言ったのです。「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記2:10)ヨブは神様への真の信仰と畏れを持ち続けました。神様が与えようと奪おうと、ヨブはそれに喜んで従い、ついに神様がヨブの前に現れ、彼の神様への愛と信仰は高まりました。あらゆる時代の聖徒たちと私では比較になりませんが、私が病気に罹ったのは神様がお許しになったからであり、何よりも神様の愛によるのです。神様は私に真の信仰とあわれみを授け、神の権威を体験させ、私の中に神様についての真の認識が生まれることを望まれました。私の生死は神様の手の内にあり、神様が最終的な決定権を持ちます。私の心配事はすべて不要なもので、それは神様の支配を信じなかった結果であり、いつも自分自身の強さに頼って物事を支配し指揮したいと考えていた結果でした。こう考えたところ、心がとても落ち着きました。

神様に生死を委ね、神様のわざを目にする

 数日後、家族が病院の専門医と教授に精密検査を行うようにお願いしました。互いに相談してから専門医と教授は私の病気について説明しました。糖尿病に起因する冠動脈閉塞であり、三本の動脈が閉塞しているため早急に手術を受ける必要があること、さもなければいつ死んでもおかしくないということでした。しかし手術を受けたとしても治ることは保証できない、と言われました。

   その後家族は心臓病専門の病院に私を移させました。検査を終えると、医師は今すぐ手術を受けなければならないが、リスクが大きいと告げました。医師によると、糖尿病に起因する心臓障害の手術を行う場合は切開部がきれいに治らないし、開口部が治らない場合、手術を受けなかった場合よりも悪い結果になるであろうということでした。この手術は太ももの血管を移植して心臓周辺の冠動脈の閉塞部位をバイパスさせるもので、手術が失敗すれば一生麻痺が残ることもあります。手術中は常に問題が起きるかもしれず、手術台の上で死ぬ可能性もありました。医師は術後に私が再び目を覚ますかどうかを予想することは難しいと話し、本当に手術を受けさせたいのかを慎重に検討するように家族に求めました。医師の話を最後まで聞いて、娘と娘婿はためらいました。多額の医療費をかけても私が良くなる保証はなく、そうなれば手元に一銭も残らないばかりか、治ることもないのではないかと不安に思いました。夫も神様を信じていたので、私たちの生死は神様の手の内にあることや、最終的な決定権を持つのは人ではないことを理解していました。ですから夫は何のためらいもなく、医師に「手術を行うことだけに集中してください。妻が生き延びるかどうかは病院とは無関係です。私は何が起きても耐えられます」と話しました。そして夫は同意書に署名し、医師は手術の準備を始めました。

   すべての準備が整い、私は手術室に運び込まれました。手術台に横になりながら医師の話を思い、再び心が悲しみと不安でいっぱいになり、こう思いました。「本当に麻痺が残ったとしたら、生ける屍のようになるのではないのか。夫がこれほど年老いた今、私は彼の重荷になるのではないのか。何人か娘がいるけれど、今ではそれぞれの生活があり家庭もある。誰が一年中私の面倒を見れるというの?本当に麻痺したら、自殺の方法を考えなきゃならない!」けれども手術台の上で孤独に死ぬかもしれないとも考え、ますます苦しくなりました。ちょうどそのとき、私は自分の心の状態が間違っていることに気づき、私の心を守り神様の指揮と采配に従えるようにしてくださいと急いで神様に呼び求めました。その瞬間に神様の言葉の一節が思い浮かんだのです。「すべての人間の中で、誰が全能者の目に見守られていないのか。誰が全能者の定めの中で生きていないのか。誰の生と死が自分の選択で訪れているのか。人間は自分の運命を左右できるのか。多くの人は死を求める。しかし、それは彼らからは遠い。多くの人は人生において強くありたいと願い、死を恐れる。しかし、彼らの知らないところで死の時は近づいてきて、彼らを死の淵に陥れる。多くの人は空を見て、深い溜め息をつく。多くの人は激しく叫び、泣いて嘆きの声を上げる。多くの人は試練の中に倒れ、多くの人は誘惑に囚われる。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十一章」より)そうです!私が信じる神様は万物を支配し、人間一人ひとりの運命は神様の手の内にあるのです。各人が生まれる時や死ぬ時は神様によって予め定められているのだから、私の運命も神様によって采配されたのではないでしょうか?私は神様の証しをすると決心していたのに、現実の試練に直面すると自分の生死や未来を心配するようになったことを考えました。死ぬことを恐れ、麻痺が残り他の人の重荷になることを心配し、自ら命を絶つことを考えました。こうすることで、自分の運命を采配しようと願っていたのではなかったでしょうか?これのどこが神様の支配と采配に従うことだったのでしょうか?これは私が神様への信仰を持っていなかったことを示していなかったでしょうか?神様は私に命を授けてくださり、私が生きるか死ぬかは神様の手の内にありました。私は気弱になったり、恐れたり、サタンの欺きの真っただ中で生きるべきではなく、神様への信仰を持ち、神様の方を向き、己の生や死、未来を神様に委ねるべきであることを知りました。これについて考え、心の中で神様に祈りました。「ああ、神様!私はもうじき手術を受けます。まだ不安はありますが、この手術の成功あるいは失敗は神様の手の内にあると信じます。私が生きようが死のうが神様の指揮と采配に従うことを望みます」祈ってからはかなり心が落ち着きました。医師が麻酔をかけ、私はまもなく意識を失いました。

   手術後は観察のため集中治療室に移されました。目覚めたときには既に二日が経過しており、手術は成功で、今やすることは回復だけだと家族は嬉しそうに言いました。これを聞いたとき、私は深く感動し神様の愛にひたすら感謝しました。私が手術を耐え抜き、手術が成功したことは、すべて神様の素晴らしいご加護のおかげであったことは分かっていました!人の生死は神様によって支配されていること、そしてこれは神様の権威の現れであることを心の底から確信しました。

   病気から回復する間、同じ病室の患者が痛みのために大きな叫び声をあげたり、絶えずうめいているのを聞きましたが、私は何の痛みも感じませんでした。切開部の痛みがないのは、完全に神様の奇しいわざのおかげであると心の中で明確に理解しました。私は神様の愛を感じ、心から神様への感謝と讃美が心から溢れ出ました。午後には担当医が私の元に来て、「奥さん、切開部は痛みませんか?不快感はありませんか?」と尋ねました。私は「お気遣いありがとうございます。不快感はまったくありません」と答えました。三日後、順調に回復していることを確認した医師は、私を一般病室に移しました。糖尿病を罹っていない患者が術後に回復して集中治療室から移されるのに四、五日を必要とするのを見ました。それにもかかわらず、高齢で糖尿病を患っていた私が、つまり私の切開部の方がずっと治りにくいのに、手術からわずか三日後には固形食を食べることができたのです。私は他の人たちよりも早く回復しましたが、これはまさに神様の偉大な力であり神様の私への偉大な愛でした。

   その後数日間にわたって、夫はよく神様の御言葉を読み聞かせてくれました。私はその御言葉についてじっくり考え、神様が私に為された救いの御働きについて熟考し、神様の愛がいかに本物であるかを心から感じました。病気に苦しみ生死のはざまをさまよっていたにもかかわらず、神様は常に私と共におられ、私のそばをお離れになることはありませんでした。消極的で気弱になり信仰を失うたびに、神様の御言葉が私を導いてくださり、私に信仰と力を授けてくださいました。堅強な後ろ盾として神様が共におられれば、もはや弱気になったり恐れたりすることはありません。私が心から神様にすがり、完全に神様に身を委ね神様の指揮と采配に従う覚悟をしたとき、神様は私を生かすだけでなく、肉体的苦痛までも軽くしてくださいました。こうして私は神様の奇しいわざを目の当たりにし、神様の愛を感じることができたのです。この経験を通して初めて、今回の神様の受肉はその働きにおいてしるしや不思議を示されないけれど、神様の御言葉の力はしるしや不思議を示す力をはるかにしのぐことに気づきました。神様の言葉はまさに真理であり、人の命になることができ、私たちの行動の原則であり方向なのです。

   しばらくして、切開部は順調に治りました。私と同じ手術を受けた他の患者は未だに動けない一方で、私は夫に支えられながら外を歩くことができました。医師や患者仲間はこれを見て一様に驚きました。私の身体がこれほど早く回復できたのは神様のわざであり、神様の祝福であり、神様の愛であることを私は心の中ではっきり知っていました。神様だけがこのような奇跡を起こせるからです。

   二週間後に退院するとき、医師に言われました。「この病院には同じ病気の患者さんが他に七人いますが、糖尿病に起因するケースはあなただけでした。症状も他の患者さんより深刻でしたが、あなたが誰よりも早く回復しました。本当に驚きましたよ!ただし、心膜にはまだ腫瘤が残っているので、まだ危険はあります。一カ月以内にまた来院して検査を受けてください。腫瘤がまだ大きくなっている場合は、もう一度手術を受けてもらう必要があります」医師の話を聞いても、私はもはや恐れたり不安になることはなく、心の中でこう思いました。「私は重病に罹ったけれど、神様は私を死なせはなさらなかった。私は神様の権威を目の当たりにし、今では神様にすがる信仰心がさらに強くなっている。病気は神様の手に委ね、神様に支配していただこう」その後、医師から薬を処方され、帰宅しました。帰宅後は毎日神様の御言葉を読み、兄弟姉妹と共に神様への讃美を歌い、神様の愛を享受して過ごしました。とても解放されて自由な気分になり、病気のことは頭からすっかり消え去っていました。

   一カ月後に検査のために再び来院すると、あらゆる身体上の指標が正常で、心膜の腫瘤は消えていたのです。またもや私は神様の奇しいわざと私への愛を目の当たりにさせていただきました。

この洗礼の後、以前より力強く未来と向き合う

 帰宅途中の車内で、道の両側に立つ背の高いポプラの木が遠ざかってゆくのを見て、思いました。「これらはすべて神様の支配下にある。一年中風、霜、雪、雨の洗礼を受けて、内包する生命はさらに強く不屈のものになる。私が罹った重病は命の洗礼を受けているようだった。私の神様への愛を清めただけでなく、神様への信仰心も高めた」そして私は神様の次の言葉を思いました。「神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。」(『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より)感動のあまりため息を禁じえませんでした。神様の言葉の権威と力は本当に偉大です!初めに神様が言葉によって天と地と万物を創造されました。神様の言葉によって万物が生き、神様が予め定められた規則の中で一つの世代から次の世代へと増殖します。終わりの日には、神様が人を清め救う全ての真理を表されます。神様の真理は私たちの生存の根源であり、従わなければならない方向です。私が生死の境をさまよっていたとき、神様の御言葉は私に信仰と勇気を与えてくださいました。神様の御言葉により私は病気のあいだにどのように神様にすがり、神様に目を向けるべきかを学び、死の恐怖を乗り越え死という制約を克服するように導いてくださいました。この経験を通して非常に多くのものを得ました。

   私は残りの人生においては神様を信じ、真剣に本分を尽くし、神様の愛と救いに報いることだけを望みます。神に感謝します!


受肉した神の働きを経験しそれに従うことによってのみ神を知り得るのはなぜか

2020-06-11 00:11:01 | 信仰Q&A

   「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネによる福音書1:14)

   「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである。」(ヨハネによる福音書 14:6-7)

   「わたしが父におり、父がわたしにおられる。」(ヨハネによる福音書 14:10)

   「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書 10:30)

 

 

   関連する神の言葉

   神が受肉していなかった時、神の言葉が完全な神性から発せられたものであったため、人間は神の言葉の多くを理解していなかった。人間には理解できない霊的領域において言葉が表出されていたので、神の言葉の観点と背景は人間にとって見えないものであり、到達不可能なものであった。肉を持つ人間にとって、霊的領域に立ち入ることは不可能であった。しかし神が受肉した後、神は、人間性の観点から人間に対して語り、霊的領域から出てそれを超えた。神は、神の神性の性質、旨、姿勢を、人間が想像できる物事、生活の中で見たり遭遇したりしていた物事により、人間が受け入れられる方法を用い、人間が理解できる言葉で、また人間が把握できる知識で表出することにより、人間が神を理解し知り、人間の能力の範囲内かつ人間に可能な程度で、神の意図と神が求める基準を理解できるようにすることが可能であった。これが、人間性における神の業の方法と原則であった。神が肉にあって業を行う方法と原則は専ら人間性により達成されたが、そうした方法と原則により、神性から直接業を行う事では達成できない結果が実際に得られた。神の人間性による業は比較的具体的であり、真正であり、対象が特定されているものであり、また方法は格段に柔軟であり、形式においては律法時代よりも優れたものであった。「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

   神は終わりの日における新しい働きを行なっている。神はその性質をさらに明らかにするが、それはイエスの時代の憐れみと愛ではない。神は新しい働きを担っているので、それは新しい性質を伴う。もしもこの働きが霊により行なわれたならば、つまり神は受肉せず、代わりに霊が雷鳴を通して直接語りかけ、人間には神と直接接触する方法がないようにしたならば、人間は神の性質を知ることができたであろうか。もしも霊のみがこの働きを行なったならば、人間には神の性質を知る方法がなかったであろう。人々が神の性質を自らの目で見ることができるのは、神が肉となるとき、言が肉に現れるとき、神がその全性質を肉体をもって表現するときだけである。神は本当に人間のもとで暮らしている。神は触れることができる。人間は本当に神の性質、神のもつもの、神であるものと関わりをもつことができる。この方法においてのみ、人間は本当に神を知ることができるのである。「神の働きのビジョン(3)」より

   主イエスが恵みの時代に完遂した業では、神の中にある物事や神の存在に関して、もう一つの側面を見ることができる。それは、神の肉により示され、また神の人間性により、人々が見て理解することが可能になった。人の子となった神の中に、人々は、肉にある神が、神の人間性をどのようにして生きたかを知り、また肉により示された神の神性を理解した。この二種類の表現により、人間は極めて現実的な神を理解し、神に関して異なる考えを形成することができた。しかしながら、世界の創造の時から律法の時代の終焉に至るまで、すなわち恵みの時代の前は、人々が見聞き、経験した事柄は、神の神性面のみであった。それは、神の無形の領域における業と言葉であり、見たり触れたりすることのできない神の真の実体から示されたものであった。こうした事柄により、神が極めて偉大であり、人々は近づけないという印象が人々に対して与えられることが往々にしてあった。神が人間に対して通常与える印象は、神は出現と消滅をくりかえすというものであり、神の旨や考えはすべて神秘的であり、把握が極めて困難であったため人々が到達する術は無く、理解したり認識したりすることなど到底無理であるとさえ感じた。人間にとって、神に関するあらゆる事柄が、人間には見ることも触れることもできないほど遙か遠くに離れていた。神は天高くあったようであり、また神は全く存在しなかったかのようでもあった。そうしたわけで、人間にとって、神の心や思い、考えは、すべて理解不可能であり、到達することさえ不可能なものであった。…主イエスが業を行っている間、人々は、神が多くの人間的な表現を持っていることを知った。たとえば、神は踊ったり、婚礼に列席したり、人間と親交したり、人間と会話し、様々な事柄を話し合ったりすることが可能であった。さらに、主イエスは神の神性を示す多くの業を遂行し、当然ながらそうした業はすべて神の性質を表出し、啓示するものであった。この時期においては、神の神性が、人間が見たり触れたりできる通常の身体により具現化された時、人間は神が出現と消滅を繰り返されている存在、人間の近づくことが出来ない存在であるとは感じなくなった。これに対し、人間は、人の子のあらゆる動作や言葉、業により、神の旨や神の神性を理解しようと試みることが出来るようになった。受肉した人の子は、神の人間性により神の神性を表現し、神の旨を人間に伝えた。また、神は、旨と性質を表出することにより、霊的領域では見ることも触れることもできない神を人間に啓示した。人々が見たのは、肉と骨を持ち、姿形のある神自身であった。そうして受肉した人の子により、神の正体、地位、像、性質、神の中にある物事や神の存在が、具体的かつ人間的なものとされた。人の子の外観は、神の像に関してある程度の制約があったものの、人の子の本質と人の子の中にある物事や人の子の存在は、神自身の正体と地位を完全に示すことが可能であり、表出の仕方に僅かな相違があるのみであった。それが人の子の人間性であるか、人の子の神性であるかを問わず、人の子が神自身の正体と地位を示していたことを否定することはできない。しかし、この時期、神は肉により業を行い、肉の見地から言葉を述べ、人の子という正体と地位により人間の前に姿を見せたので、それによって人間の中にある神の真の言葉と業に遭遇し、体験する機会が人々に与えられた。また、それにより神の神性と、謙遜の中にある神の偉大さについて、人間が知見を得ることが可能となり、また神の真正さと実在に関する暫定的な知識と定義を得ることも可能となった。「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

   イエスに従っている間、ペテロはイエスについて多くの意見を持ち、常に自らの観点からイエスのことを判断していた。ペテロはある程度は霊について理解していたけれども、あまり啓発されることもなかったので、彼は「天の父によって遣わされたお方に従わなければならない。聖霊によって選ばれたお方を認めなければならない」という言葉を発したのである。ペテロはイエスが行ったことを理解していなかったし、何の啓示も受けていなかった。しばらくイエスに従った後、ペテロはイエスが行うこと、言うこと、またイエス自身に次第に興味を持ちはじめた。ペテロはイエスが愛と尊敬の念を呼び起こすのを感じるようになり、イエスと交わり、イエスのそばにいたいと思うようになった。そして、イエスの言葉を聞くことによって彼は、満たしと助けを得た。長らくイエスに従って、ペテロはイエスの生活の全て、つまりイエスの行動、言葉、動作、表情などを観察し、心に留めた。ペテロはイエスが尋常の人のようではないことを深く理解した。イエスの人間としての外観は極めて普通であったが、イエスは人間に対する愛、哀れみ、寛容で満ちていた。イエスが行ったこと、言ったことの全てが他の人々の大きな助けとなり、ペテロはイエスの側で今まで見たことも得たこともないことを見たり学んだりした。イエスには大きな背丈や並外れた人間性はなかったが、実に驚くべき尋常でない雰囲気があることをペテロは見た。ペテロはそれを完全には説明できなかったけれども、イエスの行動が他の誰とも違っていることを見ることができた。というのは、イエスは普通の人のやることとは遥かに違うことをしたからである。ペテロはイエスと接するようになってから、イエスの性格が普通の人とは違っていることにも気づいた。イエスは常に落ち着いて行動し、決して焦ることも、誇張することもなく、物事を控えめに表現することもなく、ごく普通で称賛に値するような生活を送った。イエスは会話においては、上品で、優雅で、率直で、朗らかでありながらも、穏やかで、働きを実行するときも決して威厳を失うことはなかった。ペテロは、イエスがあるときは無口になったり、またあるときは絶え間なく話したりするのを見た。イエスは時には嬉しくて、鳩のように敏しょうに、いきいきとふるまい、時には悲しみの余り、まるで風雨にさらされた母親のように、まったく口をきかないこともあった。時としてイエスは、勇敢な兵士が敵を殺すために突進するように、また時には吠え猛るライオンのように憤りで一杯になることさえあった。イエスは時には笑い、時には祈り泣くこともあった。イエスがどのように行動するかに関わらず、ペテロは限りのない愛と敬意をイエスに抱くようになった。イエスの笑い声はペテロを幸せで満たし、イエスの悲しみはペテロを嘆きに落とし入れ、イエスの怒りはペテロを脅かしたが、その一方、イエスの憐れみ、赦し、厳しさによって、ペテロはイエスに対して真の畏敬と憧れを抱くようになり、ほんとうにイエスを愛するようになった。もちろん、これらのこと全ては、ペテロが数年イエスのもとで生活して、次第に分かってきたことである。「ペテロはどのようにしてイエスを知るようになったか」より

   神の優れている点は、その働きに示されている。神の業を経験してはじめて、人は神のすばらしさを見つけだす。実際に体験してはじめて、神のすばらしさを認識するのであって、実際に体験することがなければ、誰一人神のすばらしさを見つけだせない。神の敬愛するべき点はまことに数多いのに、実際に神に触れることがなければ、人々はそれを見つけだせない。それはつまり、もし神が受肉しなければ、人々は実際に神に触れることができず、実際に神に触れることができなければ、その働きを経験することができず、そこで、人々の神への愛には偽りや想像が介在することになる。天にいる神への愛は、地上にいる神への愛ほどの真実味がない。天にいる神についての認識は、その目で見たり実際に体験したりしたことではなく、想像によるものだからだ。神が地上に来ると、人々は神の業とすばらしさをその目で見られる。神の実際的で正常な性質のすべてを見られるのだ。それらはみな、天にいる神についての認識より数千倍も現実的なものなのだ。人々が天の神をどれほど愛そうと、その愛に真実は何もない。人間の考えたものばかりだ。地上にいる神への愛がどれほどささやかなものであっても、その愛は実際的である。たとえごくわずかであっても、それでも現実のものなのだ。神は実際の働きを通して人々に自分を知らせになる。そして、その知識によって人々の愛を得られる。これはペテロと同じことだ。もし彼がイエスと共に暮らしたことがなければ、イエスを愛することは不可能だったろう。ペテロのイエスへの忠誠心もまた同じで、イエスとの交わりを通して築かれたものだ。人間が自分を愛するようになるため、神はおいでになって人々と共に生きた。そして人々が見て経験するものはみな、神の実際なのである。「神を愛する人は永遠に神の光の中に生きる」より

   受肉した神は人間の集団を得ることを今日望んでいるが、それは、神の心にかなう人々の集団である。人間はただ神の働きに従い、天の神の考えに常にとらわれず、曖昧さの中で生活せず、受肉した神に困難を与えなければよい。神に従うことが出来るのは、神の言葉を絶対的に聞き、神の采配に従う者である。そうした者は天の神が実際にはどのような存在か、現在天の神はどのような働きを人間に対して行っているかを一切気にすることなく、自らの心を地上にある神へ完全に捧げ、自分の存在全体を神の前に置く。決して自らの安全を省みることなく、受肉した神の平常性や実際性に関して騒ぎ立てることがない。受肉した神に従う者は、神により完全にされることが出来る。天にある神を信じる者は、何も得ることがないであろう。なぜなら、人間に対して約束したり恵みを授けたりするのは天にある神ではなく、地上にある神だからである。人間は、常に天にある神を誇大視し、地上にある神を凡人とみなしてはならない。それは不公平である。天にある神は偉大で素晴らしく、驚異的な知恵を持つが、それは全く実在しない。地上にある神は至って普通で小さな存在であり、また極めて平凡である。地上にある神には非凡な精神も地を揺るがすような業もない。地上にある神は至って普通で実際的に働き、話をする。地上にある神は雷により言葉を述べたり雨風を起こしたりしないが、真に天にある神の受肉であり、人間のもとで生活する神である。人間は自分が理解できないが、自分の想像に合う存在を神として誇張したり、自分が受け容れられず、想像もつかない存在を卑しいとみなしてはならない。そうしたことは、全て人間の反逆性であり、神に対する人間の反抗の源である。「神の実際性に絶対的に服従できる者は真に神を愛する者である」より


主イエスのご身分が洗礼者ヨハネのそれと違っていたのはなぜか

2020-06-10 12:46:00 | 信仰生活

  信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

   こんにちは!お訊きしたいことが一つあります。主イエスと洗礼者ヨハネはともに約束によって生まれ、主イエスはおいでになったときに天国の福音を宣べ伝えられましたが、ヨハネも多くの働きを行ない、「悔い改めよ、天国は近づいた」という福音を広めました。しかしヨハネの身分が主イエスのご身分と同じでないのはなぜでしょう。お返事をお待ちしています。

   敬具

   張宇

 

 

   こんにちは張宇さん

   私も最初は、主イエスと洗礼者ヨハネの身分がなぜ違っているのかわかりませんでした。その後集会のとき、ある福音のウェブサイトでその問題に関する交わりを探し求めるのを、同労者の一人が手伝ってくれました。兄弟姉妹とのその交わりを通じ、私はいくらかの認識を得ました。それをいまあなたと分かち合いたいと思います。

   主イエスのご身分がヨハネの身分となぜ同じでないのかについては、聖書に答えを見つける必要があります。まずはヨハネの生誕にまつわる状況を見てみましょう。ヨハネの母エリサベツは子を身ごもることができず、夫ザカリヤとともに何年も前からすでに老いていたので、ザカリヤは神様に祈りました。すると天使が彼にこう告げました。「……あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい」(ルカによる福音書1:13)「彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」(ルカによる福音書1:17)これらの聖句から、ヨハネが生まれる前に天使が彼の身分を明かし、エリヤの霊と力とをもって主に先立って行くと述べたことがわかります。エリヤは旧約聖書の律法の時代の預言者であり、ヨハネは実はエリヤの生まれ変わりだったのです。そのことは聖書で確認できます。「見よ、ヤーウェの大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」(マラキ書4:5)「弟子たちはイエスにお尋ねして言った、『いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか』。答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう』。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った」(マタイによる福音書17:10-13)

   ヨハネが生まれる前、天使はこう言いました。「彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き……整えられた民を主に備えるであろう」(ルカによる福音書1:17)ヨハネが生まれたあと、ザカリヤは聖霊で満たされてヨハネにこう預言します。「幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみまえに先立って行き、その道を備え、」(ルカによる福音書1:76)また『マルコによる福音書』第1章3節にはこう記されています。「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」これらの聖句から、ヨハネの使命は主の働きのために道を備えることであり、彼の身分が預言者のそれだったことがわかります。成長したヨハネは自分の本分と使命を履行し始めました。また聖霊の啓きのおかげで、自分が主イエスのために道を備える者だということも知りました。その一例が次の聖句です。「このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。彼は宣べ伝えて言った、『わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう』」(マルコによる福音書1:6-8)これらの聖句から、ヨハネは天国の福音を宣べ伝えたものの、彼の身分は普通の人間のそれであり、主のために道を備えた預言者に過ぎないことがわかります。ヨハネは主イエスが恵みの時代の働きをよりよく実行なさることができるように、主イエスの働きを人々のあいだに広めたのです。

   これでヨハネの身分ははっきりしました。次は主イエスのご身分に目を向けましょう。『ルカによる福音書』第1章30節から35節にはこう記されています。「すると御使が言った、『恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう』。そこでマリヤは御使に言った、『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに』。御使が答えて言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう』」またイザヤもこう預言しました。「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」(イザヤ書9:6)イエスが地上へおいでになる以前、そのご身分は神様の子、すなわち神様ご自身のそれだと、天使がすでに言っていたのです。そして預言者イザヤもイエスのご身分は神様だと預言しました。

   ここで他の聖句を読みましょう。「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」(マタイによる福音書3:16-17)「そこでイエスは彼らに言われた、『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』。シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』。すると、イエスは彼にむかって言われた、『バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である』」(マタイによる福音書16:15-17)これらの聖句から、イエスがご自身の職分をお始めになるべく洗礼を受けられたとき、イエスは神様の愛する御子であると聖霊が直接証しをしたことと、イエスが自分は誰かとペテロにお訊きになったとき、ペテロは聖霊に啓かれ、イエスこそ生ける神の子キリストであると答えたことがわかります。またイエスはこうもおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14:6)以上の聖句から、イエスのご身分はキリストであり神様であることがはっきりわかります。

   これらの聖句から、主イエスと洗礼者ヨハネはともに約束によって生まれたものの、二人の身分には決定的な違いがあったことがわかります。主イエスが肉となられた神様でありキリストである一方、ヨハネは神様によって用いられる人、預言者に過ぎませんでした。

   加えて主イエスとヨハネの働きの本質からも、両者の身分の違いがわかります。神様の御言葉はこうおっしゃっています。「ヨハネによってなされた働きとイエスの働きとは同じではなく、性質が違っている。それが、神であるかどうかを決定するものである。イエスの働きとは、始めて、続けて、終わらせて、達成することであった。これらの段階をそれぞれイエスは実行したが、一方ヨハネの働きは、始まりの働き以上ではなかった。最初にイエスは福音を伝え、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後にイエスは人類を罪から贖い、その時代全体のための働きを完成した。イエスは人々に説教し、あらゆる場所で天の国の福音を宣べ伝えた。この点ではイエスとヨハネは同じであったが、イエスは新しい時代の到来を告げ、人間に恵みの時代をもたらしたという違いがあった。人が恵みの時代に実践すべきことと従うべき道に関する言葉がイエスの口から発せられた。そして、最終的にイエスは贖いの働きを終えた。ヨハネはそのような働きを決して実行することはできなかった。だから、神自身の働きを行なったのはイエスで、イエスが神自身であり、神を直接表すのもイエスである。」

   神様の御言葉のこの部分を最後まで読むと、外見で判断すれば主イエスとヨハネはともに普通の正常な人であり、したがって二人の身分を区別するのは容易でないものの、二人の行なった働きを通じて二人の身分を区別し確かめられることが理解できます。当時、ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と宣べ伝え、多くの人が彼に従いました。しかし彼は悔い改めの具体的な道を語ることができず、主イエスのために道を備え、人々が神様の働きと歩調を合わせられるように天国の福音を彼らに伝えただけでした。ヨハネが広めた福音を聞いたあと、人々は悔い改めることしか知らず、実践すべき道は知らなかったので、いまだ律法に制約されたままでした。ヨハネは人間であり、真理を有しておらずそれを表することもできなかったので、人々に道や真理やいのちをもたらすことはできませんでした。それに比べると、主イエスもご自身の職分を果たし始めるとき、悔い改めの道をお広めになりました。外見から判断すれば主イエスは普通の正常な人間ですが、神性の実質を有しておられました。主イエスは新しい時代を導いて古い時代を終わらせることができ、また人々のために真理を表わして実践すべき道を指し示すこともおできになりました。一例を挙げると、自分に対して罪を犯した兄弟を何度赦すべきかとペテロが尋ねたとき、主イエスは七たびを七十倍するまで赦すよう彼におっしゃいました(マタイによる福音書18:21-22を参照のこと)。またイエスは、天国に入るための条件は父の御心を行なうことだと私たちにおっしゃっています(マタイによる福音書7:21-23を参照のこと)。他にもまだありますが、主イエスが表現されたこれらの御言葉によって、私たちは神様の御心をはっきり理解するとともに、実践の道を知るようになります。さらに重要なこととして、主イエスは十字架につけられて人のために罪の捧げ物としてお仕えになり、それによって人を罪から救えるように肉となられました。人は自分の罪を赦されて初めて、神様に祈り神様の救いを得る機会を持つのです。主イエスがそのようになさっていなければ、人は律法によって罰せられ、律法の下で死刑に処されていたでしょう。人類を贖う働きは主イエスだけがおできになったのであって、ヨハネや他の誰かがそのような働きを行なうことはできませんでした。

   よって以上二つの側面から、主イエスとヨハネの身分がなぜ違っているのかがわかります。

   以上の交わりと理解があなたのお役に立つことを願っています。

   信仰ステーション