賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

クリスチャンが罪から解放される方法は存在します (I)

2020-08-14 23:30:27 | 天国への道

   私は幼い頃から母に倣って主を信仰してきました。私は成長する過程で、主は私たち人類の罪を贖うために十字架に磔にされたことを知り、私は深く感動しました。それに、私は主を信仰するようになって以来、主の豊富な恵みを授かり、主をさらに深く信頼することができました。これ故に、私は生涯を通して主に従い、主の愛に報えるよう主の証言をする決心をしていました。

   2002年、私はアメリカに移住した後、集会に参加できる教会を見つけ、そこで説教業務に携わっていた兄弟と知り合いました。説教師は誰もが敬虔で、主を愛しているように見えたので、私は自分の抱える問題に関して彼の意見を頻繁に求めました。しかし、驚いたことに、ある夜、彼は私に教会に行って彼への愛を宣言するように言ってから、私を淫らに触ってきたのです。幸運にも、私は素早く逃げ出すことができました。この後、私は、彼は中国で結婚していたにもかかわらず、アメリカでも結婚していたことを知りました。そしてそれにもかかわらず、彼はそのまま同じように私と接してきました。これにより、私は彼の偽善的な本性をはっきりと知りました。私はこう思いました:「彼は説教師なのに、本当にこんなことを犯すなんて、人前と人のいない所では振る舞いが全く違うわ。何て偽善的なんでしょう。これでどうやって主の御名前を讃えるっていうのかしら。」私はこの事態に大きなショックを受け、教会に行くのが嫌になりました。しかし、私は主イエス様に救っていただいたことを考えると主に対する恩義を感じました。この結果、私は時々ながら教会に足を運ぶことができました。

   その後、教会の状態はさらに悪化していきました。牧師の説教は同じことの繰り返しばかりで、私たちに何の喜びをもたらすこともなく、教会への寄付に関することが頻繁にその具体的な内容となっていました。信者たちは集会の最中に居眠りをしているか、携帯電話で遊び、快楽に満ちた人生について話すばかりで未信者のような生活していました。この状態を見ていると、私は増々消極的に、そして弱気になってしまいました。結果的に、私は、毎年、寄付をするために1回か2回教会に行く以外は、大抵自宅で祈りを捧げ、聖書を読むことを続けました。時間が経つにつれ、私は魂の中でどんどん暗さを感じるようになり、祈りを捧げても主を側で感じられなくなり、聖書を読んでも啓蒙が全く得られなくなってしまいました。日常生活において、私は主の教えを実践できなくなり、自分の子供に対していつも腹を立て、夫と子供について口論し続けました。私は腹を立ててしまう度に主の前でそれを悔い改め、告白しましたが、その後も繰り返し同じ罪を犯し、回避不能な罪の落とし穴にはまってしまったのです。それは私を本当に悲しませ、落胆させ、そしてそれは私にこのような疑いまでも持たせ始めたのです:「私の主への信仰はどうしてこんなに弱くなってしまったのでしょう?主はどうして私の祈りを聞いてくださらないのでしょう?私はどうして罪から抜け出して変わることができないのでしょう?私はこのような状態で天国に入ることができるのでしょうか?」

 

 

   私がちょうど憂鬱な気分で途方に暮れていた時でした、私は私の母と義理の姉が世の終わりの全能神の働きを受け入れたことを知り、母の神への信仰は更に強まったため、母が私の父と口論になった時、母は騒ぎ立てずに許すこと、そして我慢することを実践できるようになったと知りました。私は彼女の成し遂げた変化にこう考えさせられました:「全能神の働きは本当に神の働きなのかしら?そうでなかったら、母はこんな変化を遂げることはできなかったはずだわ。」これにより、私は世の終わりの全能神の働きを調べる決意をしました。これを受けて、私の義理の姉は私との交流のために全能神教会の兄弟姉妹を招待してくれました。

   集会の最中、全能神教会の張兄弟が教会が荒んだ状態にある理由について交流してくれました:「律法の時代後半において、神殿が荒んだ状態に陥った理由は、一方でユダヤ人の指導者がユダヤ人を神の戒律に従うように導かず、それぞれの勝手な道を歩んだために、神の憎しみと怒りをかってしまったこと。その一方で、主イエス様が新しい働きをされましたが、彼らはそれについて行かず、むしろ彼らは主に反対し、主を非難したことで聖霊の働きの流れから排除されてしまったことがあります。これが、神殿が最終的に家畜を販売し、お金を両替する場へと化してしまった理由です。今日の宗教界が荒んだ状態にある理由もこれと同じです。考慮すべき点の1つとして、牧師と長老たちは、信者たちが真理を理解し、主を知るために主の御言葉を実践して経験するよう導いておらず、むしろ信者を自分たちの前に導こうとして聖書の知識と神学理論を解釈することにしか注目していないということがあります。この結果、信者たちは主を信じていても、主を知らず、主に抵抗してしまう信者となっています。もう1つの点は、神が新しい働きをするために受肉され、聖霊の働きが移行しているということです。子羊の足跡をたどり、神の御言葉の裁きと清めを受ける人のみが聖霊の働きを受けられるのです。世の終わりの神の働きを受け入れない人々は聖霊の働きの流れから排除されてしまうのです。」この言葉を聞いた私は突然光が見えて教会が荒んだ状態にある原因を理解しました。その後、張兄弟は主が再臨される方法についても交流し、主の再臨の預言は既に成就しており、人間を裁き、清める働きをするために700万の御言葉を表された主イエス様の再臨、すなわち肉となられた他でもない全能神を目撃したと言ったのです。これらの交流はとても素晴らしく聞こえ、私は大いに霊的な備えを得ました。私は長年主を信仰してきた中で、ここまで素晴らしい説教は聞いたことはありませんでした。この説教は教会の牧師の説教を遥かに上回っていたのです。次回私はこれを慎重に聞く必要があります。

   そして、張兄弟は私とこのように交流してくれました:「私たちは皆、主を信仰してはいますが、それでも罪を頻繁に犯さずにはいられなくて、罪の中を生きることから抜け出せないということを経験しています。これは何故かと言うと、私たちはサタンによって深刻に堕落させられていて、誰もが傲慢、偽り、身勝手、貪欲等といったサタンのような本性を持っているからです。これらサタンのような本質は既に私たちのいのちと化しているのです。こういったものに指示を受ける私たちはお互いに対して真の辛抱強さや寛容を持っておらず、自分の意図に合わないものがある度に腹を立てる傾向にあり、頻繁に嫉妬と憎しみに悩まされています。自分たちの利益を守るため、私たちは頻繁にお互いに嘘をつき合い、騙し合い、自分たちの信仰の中で神と取引を行うこと等もできてしまうのです。私たちがこのように罪を犯す根源は私たちが持つサタンのような本質にあり、これは、解決しなければ、私たちは罪をお許しいただいているにも関わらず、私たちが罪を犯し、神に抵抗し続けるようにするのです。こんなことをしていて、私たちは天国に行ける何の資格を持っているというのでしょう?これ故に、主イエス様はお戻りになると仰ったのです。実に、主の来臨は人類を完全に清め、救う働きをするためなのです。

   次に、張兄弟は神の御言葉からこの2節を読んでくれました:「当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じている限り、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということであった。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。」「人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神を退ける性質が既に存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。あまりにも汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清められることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、聖くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。」

   張兄弟はこう交流してくれました:「神の御言葉は、主イエス様は当時贖いの働きをされたこと、そして主は十字架への磔によって人間の罪を背負ってくださったため、私たちは又罪を犯すことがあっても、主イエス様の前でそれを告白し、悔い改めてさえいれば、許していただくことができ、律法によって有罪とされ死刑になることはないと示しています。主は私たちの罪をお許しくだりましたが、それは私たちが罪深くなく、汚れていないという意味ではありません。

   私たちは依然としてサタンの堕落した性質をもっており、それはいつでも、何処でも、私たちが罪を犯し、神に抵抗して逆らうようにすることができるのです。聖書にはこう記されています:「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブル人への手紙 12:14). お分かりの通り、私たちは罪の中を生きて、清められていない場合は、主を目で見るに値しないのです。それは主が聖なるお方だからです。これ故に、私たちは罪深い本性を捨て、清めを受けた場合に限って神の御国に入ることができます。罪深い本性を捨てるためには、世の終わりの神の裁きの働き、および神の御言葉による刑罰を受ける必要があります。こうしてのみ、私たちは自分の堕落した性質を知り、それを神の御指導の下で捨て去り、そして真の人間らしさを貫いて、神に従い、神を畏れる人になることができます。こうしてのみ、私たちは神の御国に救い入れていただけるのです。」

   私はうなずいて賛成し、張兄弟にこう言いました:「兄弟、あなたの仰っていることは真実です。私は長年に渡って主を信仰しているのに、自分が罪を犯すのを止められません。主は私たちに寛容で我慢強くなることを教えてくださりましたが、私は主の御言葉を実践できませんでしたし、いつも怒りを露わにし、その後主に祈り、自分の罪を悔い改めましたが効果はありません。今、私はこれがはっきりと解りました。主イエス様は贖いの働きをされ、私たちは主を信仰すれば罪の赦しを得ることはできますが、私たちの罪深い本性は残ったままなのです。従って、私たちは罪を犯し、神に反対せずにはいられないのです。」「その通りです。」張兄弟は続けてこう言いました:「これで私たちは主を信仰しても、罪を許していただけるだけであるということが分かりました。罪深い本性を捨て去りたいのであれば、私たちは世の終わりに、神に裁きと清めの段階の働きを実行していただく必要があり、その場合に限って私たちは罪から完全に救われることができるのです。」
続く…


キリスト教音楽「神は誠実な者を祝福する」歌詞付き

2020-08-13 22:44:54 | 讃美歌

神は誠実な者を祝福する

あなたが神だけに心を捧げ
決して裏切らず
どんな立場の人も決して欺かず
神に何も隠しごとをしない時
神の歓心や微笑みを求めたりせずに
どんなことも私心なく行う時
あなたは誠実であると言えるのだ
誠実とは
あらゆる言葉や行いにおいてけがれを避け
神も人も欺かないこと
誠実とは
あらゆる言葉や行いの中にあるけがれを避け
神も人も欺かないこと
これが誠実だ
これこそ誠実なのだ

あなたの言葉が
言い訳や虚しい理屈ばかりなら
あなたは真理を実践しておらず
実践する気もないということだ
秘密を打ち明けずに
光と救いは見つかるだろうか?
しかし真理の道を進んで求めれば
あなたにはいつも光があるだろう
誠実とは
あらゆる言葉や行いにおいてけがれを避け
神も人も欺かないこと
誠実とは
あらゆる言葉や行いの中にあるけがれを避け
神も人も欺かないこと
これが誠実だ
これこそ誠実なのだ

あなたが神の家で熱心に
しかし無欲に仕えるなら
その時あなたは
誠実であることを求める
神の忠実な聖徒だ
あなたが素直で
神の証しに命を懸け
自分より神の喜びを願うなら
永遠に神の国に住み
光に養われるだろう
誠実とは
あらゆる言葉や行いにおいてけがれを避け
神も人も欺かないこと
誠実とは
あらゆる言葉や行いの中にあるけがれを避け
神も人も欺かないこと
これが誠実だ
これこそ誠実なのだ
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


マタイによる福音書24:23-24説教:真のキリストと偽キリストの見分け方

2020-08-12 23:26:21 | 勝利者の証し

   今、あらゆる種類の災害が発生し、主の到来に関する聖書の預言の大部分が実現しています。多くの兄弟姉妹は、心の中で主はすでに再来したのではないかと感じ、皆が主を探していますが、聖書のこの節を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」(マタイによる福音書 24:23-24)。そういう人は、誰かが主が再来したと証ししても、その主張を求めたり、調べたりせずに、宗教界に従い、「主が肉となって帰ってきたと説くメッセージはすべて偽物である」という観念に固執します。この場合、私たちは主の再来を迎えることができるのでしょうか。主イエスは、何度も再来を預言していたので、その言葉を主が肉となって再来したと説くメッセージはすべて偽物だという意味にとらえたとしたら、主の再来を否定することになるのではないでしょうか。そうなると、私たちは神に抵抗し、ひどい過ちを犯すことになります。主の再来を待つ時、受け身で警戒ばかりしてはいられません。そうすることで、主の再来を逃してしまうでしょう。主を迎えるためには、聖書に「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(マタイによる福音書 25:6)と書かれているように、積極的に神の声に耳を傾けなければなりません。「ヨハネの黙示録」も「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)、そして「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録 2:7)と予言しています。引き続き油断せず、神の声を聞くことに集中することが主の心意です。誰かが主が再来したと証しをした瞬間、積極的に主の声を求める賢い乙女にならなければなりません。このようにしてこそ、私たちは主を迎えることができるからです。もし偽キリストを警戒して、主が再来した時に扉を閉ざしてしまうばかりなら、窒息するのが怖くて何も食べられなくなるのと一緒ではないでしょうか。その時、私たちは愚かな処女のように、主を迎えることができず、見捨てられ、排除されてしまうでしょう。神の羊は神の声に耳を傾けます。本当に素質と識別力がある人は神の声に耳を傾け、真実を求め、真のキリストと偽キリストを見分けることができ、偽キリストに惑わされることはありません。ですから、今、私たちが何よりも理解すべきことは、真のキリストと偽キリストをどのように見分けるかということです。そうすることによってのみ、私たちは偽キリストの欺きから守られ、主の再来を迎えることができるのです。以下の交わりは、このような真理の側面に関係しています。

真のキリストと偽キリストを見分ける1つ目の方法:キリストを真理、道、いのちとして認識する

   真のキリストなのか偽キリストなのかを見分けるためには、その人が真理を表すことができるかどうか、人の救いの働きを為すことができるかどうかを見なければなりません。神は言います。「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」(「序文」『言葉は肉において現れる』)「受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、そのキリストは神の本質を有し、神の性質を有し、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからである。キリストを自称しながら神の働きを行なえない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、人の間で働きを行ない、それを完成させるにあたって神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は誰でも取って代われるものではなく、地上における神の働きを適切に引き受け、神の性質を表わし、神を十分に象徴し、人にいのちを与えられる肉体である。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストを自称しながら、キリストの本質を何ひとつ有していないからである。ゆえにわたしは、キリストの真偽は人が定められるものではなく、神自身が答えて決めるものだと言う。」(「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」『言葉は肉において現れる』)

  神の言葉は、受肉した神だけをキリストと呼ぶことができると明言しています。キリストは、肉において実現された神の霊、つまり、神が所有するものと神が何であるか、神の性質、神の知恵のすべてが肉において実現されたものです。キリストは神の本質を有し、真理を具現化した存在です。時と場所を問わず人間を牧し養うための真理を表すことができ、キリストだけが人類の贖いと救いの働きを行うことができます。これは紛れもない事実です。例えば、主イエスは肉となったキリストであり、時と場所を問わず真理を表すことができました。人に悔い改めの道をもたらし、人を律法の制約から解放しました。主はまた、私たちが人を愛し、赦す方法を理解するためにいくつか要求をしました。そして私たちの罪を負って十字架にはりつけられました。主イエスがしたすべての働きと、主イエスが語ったすべての言葉、そして人類に対する主イエスの愛とあわれみは、人間が成し遂げることのできなかったことであり、それらは完全に神の身分を表しています。

   一方、偽キリストは、本質的には悪霊であり悪魔です。偽キリストはまったく真理を有さず、ましてや真理を表すことができません。そのほとんどが、極めて傲慢で非合理です。偽キリストは、人が聖書の知識を崇拝していることを知っているので、これを利用して、聖書を誤解したり、文脈から外れた聖書の節を引用したり、人を欺くためにあらゆる種類の不条理な理論を並べたりしているのです。偽キリストの言葉は、人の性質に変化をもたらしたり、神を知ることを許さないだけでなく、人の精神を暗くして落ち込ませます。全人類が求め、調べられるように自分たちの言葉を公表することはなく、識別力のない一握りの人々をひそかに騙すことしかできません。したがって、真のキリストと偽キリストを見分けるためには、まずその本質を見分けなければなりません。神の本質を有するキリストだけが、人類を救い養うための真理を表すことができますが、神の本質がない者は、どんなに知識があっても、どんなに能力があっても、それができません。悪霊と悪魔は、真理を表し、人を救う働きを行うことができません。ただ人を騙して堕落させることしかできないのです。したがって、真のキリストと偽キリストを見分けるためには、キリストが真理であり、道であり、いのちであることを認識しなければならないことは明らかです。それはまさに、主イエスが言われた通りです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書 14:6)彼らは「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」(ヨハネの黙示録 14:4)。

真のキリストと偽キリストを見分ける2つ目の方法:神の働きは常に新しく、古びることなく、ご自身の働きを繰り返さない

   ご存知のとおり、神は常に新しく、古びることはなく、ご自身の働きを繰り返すことはありません。ですから、私たちはこの点に基づいて、真のキリストと偽キリストを区別することができます。まず、神の言葉の一節を読んでみましょう。「この時代に、しるしや不思議を起こし、悪霊を追い払い、病人を癒やし、多くの奇跡を起こせる人が現れて、またその人が再来したイエスであると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。……もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり病人を癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。それを理解しておきなさい。」(「今日の神の働きを知ること」『言葉は肉において現れる』)

   神の言葉から、神は常に新しく、古びることがなく、ご自身の働きを繰り返すことがないことがわかります。神は働きをするたびに、新しい時代を始め、古い時代を終わらせ、より新しく高い段階の働きをもたらします。例えば、ヤーウェ神は、律法と戒めを宣べ伝え、人のいのちを導くという律法の時代の働きを完成しました。主イエスが働きを行うために来られたとき、それまでの働きを繰り返すのではなく、律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始め、人を救い罪を赦す働きをしました。そのような働きをすることができたのは、神ご自身だけです。しかし、偽キリストは神の本質がないので、神の働きをする能力はなく、ましてや、新しい時代を始め、古い時代を終わらせる働きをすることができません。彼らにできることは、神の働きの跡をたどり、神の口調や言葉を真似して、神が過去にした働きを真似ることだけです。偽キリストは人を欺くために、簡単なしるしや不思議をいくつか見せ、神のふりをしています。さらに、偽キリストには何の権威もありません。彼らがどんなに主の真似をしようとしても、例えば5つのパンと2匹の魚で5千人を養ったり、ラザロを生き返らせたりするなど、主イエスが行ったようなしるしや不思議を起こすことはできません。このことが意味するのは、終わりの日の神は、主イエスが以前に行った働きを絶対に繰り返さないということであり、終わりの日に神の働きを真似て、簡単なしるしや不思議をいくつか見せ、病人を癒し、悪霊を追い出して人を欺く者は皆、キリストを装った悪霊、つまり偽キリストであることは間違いありません。こうした理由から、主イエスは次のような警告をしました。「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」(マタイによる福音書 24:24)。

   この交わりから、神のいのちの本質を有するのはキリストだけであり、キリストだけが真理を表し、人のいのちを養うことができるということがわかります。真理を愛し、真理を渇望する者が神の言葉に耳を傾けるとき、彼らは引き寄せられ、神の言葉によって征服されるのです。そのような人々は神に属し、神の声を理解し、キリストを神ご自身として認識することができます。例えば、ペテロ、ヨハネ、他の弟子たちは皆、主イエスの言葉の中で、主イエスがメシアの再来であることを認識して、一人ずつ主イエスに従うようになりました。全能神は今、終わりの日に来ました。そして、まず神の家から裁きの働きを行い、人類を救うためにすべての真理を表します。神の6000年に及ぶ経営の働きの奥義をすべて解き明かし、人間が堕落の事実を知って自分の性質を変える道を見出せるように、人間のサタン的な性質と本質を暴くのです。全能神はまた、神の言葉をどのように実践するか、正しい人間性をどのように生きるかなど多くのことを私たちに教えてくれます。これらすべてが永遠のいのちの道です。全能神によって行われる人類の救いの働きは、神ご自身の働きであり、次のような聖書の預言を正確に実現しています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12–13)。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである」(ヨハネによる福音書 12:47)。

   今、全能神が表した言葉の書「言葉は肉において現れる」は、世界中の真理を愛する人たちが追求し調査できるよう、オンラインで公開されています。神の出現を願う多くの人々は、全能神が表した言葉を読み、それが神の声であると認識し、それによって全能神が終わりの日に再来した主イエスであることを確信するようになりました。彼らは一人ずつ小羊の足跡を辿り、神の御座の前に戻ってきます。これは完全に神ご自身の働きの結果であり、イザヤ書2章2節にあるこの預言を完全に実現しています。「終りの日に次のことが起る。ヤーウェの家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき」。主を迎える際に不可欠なのは、明らかに、神の声に耳を傾けること、そしてキリストを真理であり、道であり、いのちであると認識することに集中することです。私たちは、どこかに神の言葉があると聞いたとき、あるいは誰かが主の再来を説いていると聞いたとき、それを追求し、調査しなければなりません。もし私たちが偽キリストに惑わされることを恐れて警戒を続け、あえて追求したり調べたりせず、全能神、すなわち終わりの日のキリストの救いを受け入れることを拒否するならば、あまりにも愚かではないでしょうか。そんなことをしたら、永遠に終わりの日の神の救いを失うことになるでしょう。


今日のみことばー神は人間のいのちの源である(抜粋 1)

2020-08-11 21:26:48 | デボーション

   あなたが泣き声を上げてこの世にやって来るその瞬間から、あなたはあなたの本分を果たし始める。あなたは、神の計画と神の定めにおいてあなたの役割を担う。あなたは人生の旅路を始めるのである。あなたのこれまでの背景がどうであろうと、あなたのこれからの旅路がどのようなものであろうと、天が備えた指揮と采配を逃れることができる者はひとりもおらず、自分の運命を支配できるものはいない。万物を支配する神のみが、そのような働きを行うことができるからである。人が誕生した日から、神は一貫して自分の働きを及ぼしてきた。そしてこの宇宙を経営し、万物の変化と動きを方向づけてきた。万物と同様に、人は神から甘美さや雨露という滋養物を、そっと、知らないうちに、受け取っている。万物と同様に、人は知ることもなく神の手による采配の下で生きるのである。人の心と霊は神の手の中に掌握され、人の生活全ては神に見られているのである。あなたがこのことを信じようと信じまいと、ありとあらゆるものが、生けるものも死せるものも、神の考えに従い、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が万物を支配する方法である。

   夜が忍び寄っても人は気づかない。なぜなら、人の心は、どのようにして暗闇が近づくのか、それがどこから来るのか知覚できないからである。夜が静かに過ぎ去るとき、昼を迎えても、人はそれがどこからやって来たのか、どのようにしてそれが夜の暗闇を追い払ったのか、人の心ははっきり知ることなど到底なく、気づくこともない。そのような昼と夜の周期的な交替は、時代を進みながら、人をひとつの時期から別の時期へと連れていくと同時に、神の働きと神の計画が、それぞれの時期を通じて、あらゆる時代を通じて、遂行されることを確実にする。神とともに時代を通り抜けてきたのに、神が万物と生けるものの運命を支配することや、神がどのようにして万物を指揮し方向づけるのかを、人は知らない。これは遥か昔から今日まで、人には分からないことである。その理由は、神の業があまりに見えにくいからあるいは神の計画がまだ実現されていないからではなく、人の心と霊が神から離れすぎているからである。したがって、人が神に付き従っているときでも、彼は知らないうちにサタンに仕え続ける。誰も神の足跡や出現を自発的に探し求めないし、誰も神の配慮と守りのもとで存在することを望まない。むしろ、人は、この世と、不正な人類が従う生存の法則に適応するために、喜んで悪であるサタンの腐敗に頼ろうとする。この時点で、人の心と霊はサタンに捧げられ、サタンの食物となる。さらに、人の心と霊は、サタンが住む場所になり、サタンの恰好の活動場所となる。このようにして、人間であることの根本的原則についての理解と、人間存在の価値と目的についての理解を、人は気づかないうちに失うのである。神からの律法と、神と人の間の契約は、人の心のなかで徐々に消えていき、やがて人はもはや神を求めたり、神を心に留めたりしなくなる。時が過ぎるにしたがって、人は、なぜ神が人を創造したのか理解しなくなり、もはや神の口から来る言葉を理解しなくなり、神からくるものすべてを認識しなくなるのである。人は神からの律法と掟に反逆し始め、人の心と霊は無感覚になっていく…。神は神の本来の創造物である人を失い、人は自分が始まったその起源を失うのである。これは今の人類の悲しみである。実を言えば、まさに最初から今まで、神は、人類のための悲劇を上演してきた、そしてその舞台では、人が主人公と犠牲者の両方を演じる。この悲劇の監督は誰であるのかについては、誰も答えられない。

   広大な世界において、数え切れないほどの変化が何度も何度も起こってきた。宇宙のすべてのものを支配する神を除いては、誰もこの人類を導き、案内できる者はいない。この人類のために働き、準備する「強力な者」は一人もおらず、ましてやこの人類をこの世の不義から解放して、光り輝く終着点へと導くことのできる人はいない。神は人類の未来を嘆き、人類の堕落を深く悲しむ。神は、人類の、没落に向かう緩やかな行進と帰り道のない行路に対し、悲しみを感じる。神の心を打ち砕き、神を裏切って悪者を求めるこのような人類はどこへ向かうか、誰も考えたことがない。まさにこの理由により、誰も神の怒りを知覚しないのである。神を喜ばせるための道を探す者、あるいは神により近づこうと努める者は誰もいない。さらに、神の悲しみと苦痛を理解しようとする者は誰もいない。たとえ神の声を聴いた後であっても、人は神の恵みと配慮を避け、神の真理を遠ざけて、神から離れた道を進み続け、彼はむしろ、神の敵であるサタンに自分の身を売り渡す。そして、神を棄て去った悔い改めない人に対して、神がどのように振るまうか、いくらかでも考えてみた者はあるだろうか。神が繰り返し注意や呼びかけを行うのは、神が準備した、人の肉と霊魂にとって耐えられない前例のない災いをその手にもっているからであるということを知る者は、誰もいない。この災いは、単に肉の懲罰だけではなく、霊魂の懲罰でもある。あなたはこのことを知っていなければならない。すなわち、神の計画が無効にされ、神の注意と勧告が何の反応も生まないときに、神はいかなる怒りを解き放つだろうか。これは、いかなる被造物も今までに経験したことも聞いたこともないものであろう。そして、この災いは前例がなく、決して繰り返されない、とわたしは言おう。これは、神の計画の中にはただひとつの創造とただひとつの救いしかないからである。これは最初であり、最後でもある。したがって、人類の救いのための、神の親切な意図と待ちきれない期待を、誰も理解できないのである。

『言葉は肉において現れる』より


   御言葉讃美歌

   このように神は全てを統べ治める

   産声を上げ、この世に生まれた時から人は自分の義務を行う。神の計画と采配の中、自分の役割を担い、人生の旅を始める。どんな経歴、旅路があろうと、誰も天にある指揮と采配を逃れられない。誰も運命をコントロールできない。全てを統べ治める方のみ全て為すことができる。

   人間が存在するようになった日から神の業はゆるがない。この宇宙を営みを万物の変転と運行を見守り指揮している。全ての被造物と同じように人は知らずに甘美な滋養・雨・露を神から受け、全ての被造物と同じように人は知らずに神の指揮のもと生かされているのだ。

   人の心と霊は神の手の中にある。神の目は人の全生涯を見通しているのだ。それをあなたが信じようと信じまいと生きているもの、死んでいるもの、あらゆるものが神の意思により移り変わり、新たになり、そしてやがて消えてゆく。いつもこのように神は全てを統べ治めている。

   『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


今日のみことばー神の現れによる新時代の到来(抜粋 2)

2020-08-10 23:14:28 | デボーション

   神は全人類の神である。神が自分を一つの国や民族の所有物とすることはない。神が自分の計画にある働きを、形式や国、民族といった制限を受けることなく行う。これまであなたはこのような形式を考えたこともなかったかもしれないし、そのような形式があることを否定するかもしれない。神が現れる国や民族は差別されている最貧国かもしれない。しかし、神には神の知恵がある。神は、自分の力によって、また自分の真理と性質を通して、自分と心が一つになっている人々をすでに得ている。それは神が求めていた人々で、神に征服され、苦しい試練とあらゆる迫害に耐え、最後の最後まで神に従うことのできる人々である。神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、神が自分の計画どおりに働きを完成できるようにするためにである。たとえば、神がユダヤの地で肉となったとき、その目的は十字架の働きを完成させ、人類をあがなうためだった。しかし、ユダヤ人は神にそのようなことができるわけがないと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとって現れることなどありえないと考えたのである。この「ありえない」という思いが、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対してしまう原因となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日も、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れるかもしれないと当てもなく言いながらも、神の現れを罪に定める。その「ありえない」という思いが再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めてしまっているのである。わたしは、神の言葉に出会って、それを一笑に付した人々を数多く見てきた。このような態度は、神を罪に定め、冒涜したユダヤ人と何ら変わりがないではないか。真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。神が現れるところでは、真理の現れと神の声がある。真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。まずは、自分の観念を脇に置きなさい。立ち止まって、次の言葉をよく読みなさい。あなたが真理を慕い求めるなら、神はあなたの知性を明るくし、神の心と言葉を理解できるようにしてくれる。「ありえない」という思いを脇に置いておきなさい。人が不可能だと思えば思うほど、実際に可能になる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の思いや観念をはるかに超越するものだからである。不可能であればあるほど、そこには探し求めるべき真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心が詰まっている。どこで自分を現そうとも、神は神だからである。神の本質が現れる場所や方法で変わることはない。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。たとえば、主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもある。さらに言えば、全宇宙で唯一無二の神である。だから、神の語る言葉から神の心を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは共存する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。ここに記した言葉に神の現れを見てとってほしい。そして、新しい時代に向かって神の足跡をたどってゆき、神の現れを待ち望む人々に用意された新天新地にたどりついてほしいのである。

『言葉は肉において現れる』より


御言葉讃美歌

   真理を受け入れる者だけが神の声を聞くことができる

   神が現れるところには真理の表明と神の声がある。真理を受け入れる者だけが神の声を聞き、出現を見る。「それはありえない!」などと思わないで、不可能と思えることほど起こるものだ。神の英知は天より高く、神の思いは人智を越えている。不可能に見えるもの程探すべき真理がそこにあり、人の思考を越えるもの程神の意志が含まれている。どこに現れようと神は依然として神であり、その本質は出現の場所になど左右されない。あなたの観念を捨て、心を静め、これらの言葉を読みなさい。あなたが真理を求めるなら、神はあなたに意志と言葉を教えるだろう。

   神の性質は変わらない。どこに歩み残そうと神は人類(ヒト)の神。イエスは全イスラエル、アジア、ヨーロッパ、そして全宇宙の神である。神の言葉から意志を探して神の出現を見つけ、足跡に従いなさい。神は真理と道といのちで、神の言葉、出現は、同時に存在する。神の性質と足跡は常に人々に認知される。兄弟姉妹よ、これらの言葉に神の出現を見ることを望みなさい。神に従い新時代へと向かい、新たな天地に入りなさい。そこは神の出現を待つ皆へすでに用意されている。あなたの観念を捨て、心を静め、これらの言葉を読みなさい。あなたが真理を求めるなら、神はあなたに意志と言葉を教えるだろう。

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より