賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神と人は共に安息に入る

2020-08-09 23:28:32 | デボーション

   はじめ、神は安息の中にいた。その時、地上には人類も他の何物もなく、神は何も働きをしなかった。人類が存在するようになり、さらに人類が堕落してしまった後、神ははじめて経営(救い)の働きに取りかかった。その時から神はもう安息せず、人類の間で忙しく働き始めた。人類が堕落したため神は安息を失い、また大天使が裏切ったため神は安息を失った。もしサタンを打ち負かさず、堕落した人類を救わなければ、神は二度と再び安息に入ることができない。人に安息がないので、神にも安息がない。神がもう一度安息の中に入る時、人も安息の中に入る。安息の中の生活とは、戦いも汚れも、継続する不義もない生活である。言い換えれば、そのような生活には、神に敵対するいかなる勢力の侵入もないだけでなく、サタン(サタンとは敵対する勢力を指す)による妨害もサタンの堕落も存在しない。万物がおのおのその種類のものに従い、造物主を礼拝する。天上も地上も平穏になる。これが、人類が安息に入った生活である。神が安息の中に入った時、地上にはもうどんな不義も継続せず、もういかなる敵対勢力の侵入もなくなる。人類も新しい領域の中に入る。すなわち、彼らはもはやサタンに堕落させられた人類ではなく、サタンに堕落させられた後救われた人類である。人類の安息の日々は、神にとっての安息の日々でもある。神は人類が安息の中に入ることができないため、安息を失ったのである。つまり、神は本来、安息に入ることができなかったのではない。安息の中に入ることは、あらゆる事物の活動が止まることを意味するのでもなければ、あらゆる事物の発展が止まることを意味しているのでもない。また、神がもう働くことをやめる、あるいは人がもう生活することをやめることを意味しているのでもない。安息に入ったことのしるしは、以下のようなものである──サタンが滅ぼされている、サタンに同調する悪人たちがみな懲罰を受けて一掃されている、そして神に敵対するすべての勢力が存在しない。神が安息の中に入ることは、神がもう人類を救うという働きをしないことを意味している。人類が安息の中に入ることは、全人類がみな神の光の中と神の祝福の下に生きることを意味する。もはやサタンの堕落がなく、不義な事も起こらない。人類はみな地上で正常に生活し、神の加護のもとで生きるようになるだろう。神と人が共に安息に入るということは、人類が救われたこと、サタンは滅ぼされたこと、人における 神の働きが全部終わったことを意味する。神はもはや人の中で 働き続けず、人ももうサタンの支配下に生きることはなくなる。それゆえに、神はもう忙しく働かず、人はもう忙しく駆け回らない。神と人は同時に安息の中に入るようになる。神はもとの場所に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の経営(救い)が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。神はもはや人の間には住まず、人も神と一緒に神の目的地で住むことはできない。神と人は同じ領域の中で生活することができない。むしろ、それぞれ自分の生き方がある。神が全人類を導くのであり、全人類は神の経営の働きの結晶である。導かれるのは人類である。人間は、本質的には、神と異なる。安息することとは、神と人がそれぞれの本来の場所に帰ることを意味する。それゆえ神が安息に入るとき、それは神がもとの場所に復帰することを意味する。神はもう地上で生活しないか、あるいは人の間にあっても、人と苦楽を共にしない。人が安息に入るとは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダムとエバの生活に復する。これが、神と人が安息に入った後の、それぞれの生活と目的地である。サタンが打ち負かされることは、神とサタンとの戦いが必然的に向かう方向である。こうして、神が経営の働きを終えた後に安息に入ることと人が完全に救われ安息に入ることは、同様に不可避的に向かう方向になる。人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し 、地上で生きる。神は安息の中で残りの人類を導くが 、地上から導くのではなくて天から導く。神は依然として霊であり、一方、人は、依然として肉である。神と人にはおのおの異なる安息の仕方がある。神は安息するが、人の間に来て人に現れる。人は安息するが、神に導かれて天を訪ね、天上で人生を楽しむこともある。神と人が安息に入った後、サタンはもはや存在せず、サタン同様、邪悪な者も、もはや存在しない。神と人が安息に入る前に、かつて地上で神を迫害したことのある邪悪な者たち、地上で神に不従順だった敵たちはすでに滅ぼされている。彼らは終わりの日の大きな災難によって滅ぼされている。そのような邪悪な者たちが徹底的に滅ぼされた後、地上でサタンの妨害を見ることはなくなる。人は完全な救いを与えられ、そうして初めて、神の働きが完全に終わる。これは神と人が安息に入る前提である。

   万物の終わりが近づいたということは、神の働きが終わったことを示し、人類の発展が終わったことを示す。このことは、サタンによって堕落させられた人類は発展の終わりを迎えたことを意味し、アダムとエバの子孫たちは、それぞれの終焉に向かって増えていったことを意味し、さらに、サタンに堕落させられたこのような人類が引き続き発展していくことが不可能であることを意味する。初めアダムとエバは、堕落させられてはいなかった。しかし、エデンの園から追放されたアダムとエバはサタンに堕落させられた。神と人が共に安息に入る時、エデンの園から追放されたアダムとエバ及び彼らの子孫は最終的に終焉を迎える。未来の人類は依然としてアダムとエバの後裔から成るが、サタンの支配下に生きている人々ではない。彼らはむしろ、救われ、清められた人々である。このような人類はすでに裁かれ、罰せられており、聖なる人である。そのような人々は最初の人類とは異なっている。最初のアダムとエバとは全く異なる種類の人だと言うことができる。このような人々はサタンに堕落させられたあらゆる人の中から選び出された人々であり、神の裁きや刑罰にゆるがず耐え抜いた人々である。彼らは堕落した人類の中で生き残った最後の一団の人々である。この一団の人々だけが神と共に最後の安息の中に入ることができる。終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。この働きが終わる時、生き残ることを許された人は、みな清められ、人類のより高い境地に入って、地上でのさらにすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。彼らはかつて贖われたことがあり、また裁かれもし、懲らしめも受け罰せられたことがある。彼らはまた神への奉仕をしたこともあるが、終わりの日がきたら、彼らはやはり、自身の悪さ、自身の不従順さ、贖う術もないような有様が原因で、排除され、滅ぼされる。彼らは未来の世界では存在しないし、未来の人類の間で生きることもない。死んだ人の魂であれ、肉としてまだ生きている人であれ、すべての悪を働く者、すべての救われなかった者は、人類の中の聖なるものたちが安息の中に入る時、滅ぼされる。これらの、悪を働く魂と悪を働く人々、或いは義人の魂と義を行う人々が、どんな時代に属していたとしても、悪を行う者はみな滅ぼされ、義なる人はみな生き残る。人あるいは魂が救いを受けるかどうかは、終わりの時代の働きによってのみ決まるのではなく、むしろ、彼らが神に逆らってきたかどうかあるいは神に背いてきたかどうかによって確定されるのである。もし前の時代の人が悪を働き、救われなかったなら、彼らは間違いなく罰を受ける対象になる。もし今の時代の人が悪を働き、救われないなら、彼らもまた、確実に罰の対象になる。人々は、善と悪にもとづいて分離されるのであって、時代にもとづいて分離されるのではない。ひとたび、善と悪によって分離されたら、人々は直ちに罰を受けたり報いを与えられたりするのではない。むしろ神は、終わりの日における征服の働きを遂行した後はじめて、悪を行う者を罰し、善を行う者に報いる働きを行う。実は、神が人類に対して働きをはじめた時からずっと、神は人類を分けるために善と悪を用いている。神は自身の働きを終えて初めて、義なる人を報い、悪である者を罰するのである。最後に働きを終えて悪者と義人を分けて、それからすぐ悪を罰し、善に報いる働きに着手するのではない。悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。

   今日人々は肉のものを手放すことができない。肉の楽しみを放棄できず、この世、金銭、堕落した性質をも捨てることができない。大多数の人は思うままに追求している。実際、このような人々は、心の中に全く神を持っていない。まして、彼らは神を恐れない。彼らは心の中に神を持たないので、神が行うすべてを理解できず、彼の口から出た言葉を信じることはなおさらできない。このような人々はあまりにも肉的である。彼らは、あまりにも深く堕落させられ、いかなる真理をも欠いている。その上、神が受肉できることを信じない。肉となった神を信じない人、すなわち、目に見える神の働きと言葉を信じない人、目に見える神を信じないで目に見えない天の神を崇拝する人はみな、心の中に神を持たない人である。彼らは、神に従わず、反抗する人たちである。このような人は真理を欠いているのは言うまでもなく、人間性と理知をも欠いている。このような人たちにとっては、目に見える神、触れることができる神はもっと信頼できず、目に見えない神、触れることのできない神こそが、いちばん信頼でき、またいちばん彼らの心を喜ばせるのである。彼らが求めるものは現実的な真理ではなく、いのちの本質でもなく、ましてや神の考えなどではない。むしろ彼らは、刺激を求めている。もっとも彼らの欲望を満たすことができるものならどんなものであっても、間違いなくそれが、彼らが信じ、追い求めるものである。彼らはただ自分の欲望を満たすためだけに神を信じるのであって、真理を求めるためではない。このような人たちはみな悪を行う人たちではないのか。彼らはひどく自信過剰で、天の神が彼らのような「善良な人々」を滅ぼすとは信じない。むしろ神は彼らを生き残らせ、しかも手厚く報いてくれると思っている。なぜなら、彼らは神のために多くの事をし、神のためにずいぶん「忠誠心」を尽くしたからである。もし彼らが目に見える神を追い求めるとなった場合、彼らの欲望が満たされないとなれば、彼らは直ちに神に反撃するか、烈火のごとく怒るはずである。このような人たちはみな、自分の欲望を満たそうとする卑劣な人間である。彼らは、真理を追い求めることにおいて誠実な人々ではない。このような人々は、キリストに従ういわゆる悪者たちである。真理を求めないこのような人たちは真理を信じることはできない。彼らは、人類の未来の結末については、なおさら感じることができない。なぜなら、彼らは目に見える神の働きと言葉をひとつも信じず、人類の未来の終着点をも信じることができないからである。したがって、彼らは見える神につき従っていても、やはり悪を働いて真理を求めず、わたしの要求する真理を実践することもない。自分が滅ぼされることを信じない人たちは逆に、まさに滅ぼされる対象そのものである。彼らはみな、自分がとても賢明であると信じていて、自分が真理を実行する人であると信じている。彼らは自分の悪行を真理と考え、それを大事にする。このような悪者はみなひどく自信過剰である。彼らは真理は教義であるとし、自分の悪行を真理と見なす。最後に彼らは自分の蒔いた種から刈り取る。自信過剰で傲慢であればあるほど、真理を得ることができず、天の神を信じれば信じるほど、神に逆らう。このような人たちはみな罰せられる人々である。人類が安息の中に入る前に、各々の種類の人が罰せられるか、それとも報われるかどうかは、彼らが真理を求めるかどうか、神を知っているかどうか、目に見える神に従うことができるかどうかによって決まる。目に見える神に奉仕してきたが神を知らない人や従わない人はみな真理のない人である。このような人たちは悪を行う人であり、悪を行う人は間違いなく罰を受ける対象である。しかも彼らは、彼らの悪行に応じて罰せられる。神は人による信仰の対象であり 、また人が従うに値する存在である。だが、漠然とした目に見えない神だけを信じる人たちはみな神を信じない人たちである。その上、彼らは神に従うことができない。もしこのような人たちが神の征服の働きが終わるときに、依然として、目に見える神を信じることができず、しかも目に見える肉の神に従わず、逆らい続けるなら、このような「漠然派」は疑いなく滅ぼされる。それは、あなたがたのうちにも見られる。つまり、あなたがたのうち、口先では肉となった神を認めるが肉となった神に従うという真理を行うことができない人は誰でも、最後には排除され、滅ぼされる。また、口先では目に見える神を認め、しかも目に見える神が表現した真理を食べ飲みするが、漠然とした見えない神を追い求める人はなおさら将来滅ぼされる。このような人々の誰も、神の働きが終わった後の安息の時まで生き残ることができない。このような人はだれも安息の時まで生き残ることができない。悪魔の類の人はみな真理を実行しない人である。彼らの本質は神に逆らい、不従順なものであって、彼らは神に従う意図が少しもない。この様な人々はみな滅ぼされる。あなたが真理をもっているかどうか、神に逆らっているかどうかは、あなたの本質によって決まるのであり、あなたの外貌あるいは時折の言行によって決まるのではない。人が滅ぼされるかどうかは、その人の本質によって決まる。すなわち、彼らが事を行い、真理を追い求める過程で外に現れる本質によって決まるのである。同様に働きをし、しかも同じ程度の量の働きをする人々のうち人間性の本質が善であり真理を持っている人々が生き残る人々であり、人間性の本質が悪であり、目に見える神に背く者は、滅ぼされる人々である。人類の終着点に向けられた神の働き及び言葉の何もかもが、人類を、各人の本質に従って適切に取り扱う。そこには何の偶然も無ければ、無論僅かな誤りもない。人が働きを遂行するときにのみ、人の情感あるいは意味が入り込むのである。神が行う働きは最適である。神はいかなる被造物についても事実を歪曲して罪に陥れることは決してない。現在、未来の人類の終着点を理解することができず、しかもわたしが話す言葉を信じない多くの人々がいる。真理を行わない人々と同様に、信じない人々は皆、悪魔である。

   追い求める人々と追い求めない人々は今や、2つの異なるタイプの人々であり、彼らは2つの異なる終着点をもつ2つのタイプの人々である。真理に関する認識を追求し、真理を実行する人々は神に救われる者である。真の道を知らない人々は、悪魔であり敵である。彼らは天使長の後裔であり、滅ぼされる。漠然とした神を信じる敬虔な信徒であっても、悪魔ではないだろうか。良心があるが真の道を受け入れないような人々は悪魔である。彼らの本質は神に逆らうものである。真の道を受け入れないような人々は、神に逆らう者である。このような人はたくさんの苦しみに耐えていたとしても、はやはり滅ぼされる。この世を捨てたがらず、父母を離れることに耐えられず、肉の喜びを捨てられないような人々はみな神に従順ではなく、みな滅ぼされる。肉となった神を信じない人はみな悪魔であり、彼らが滅ぼされるのはなおさらである。信じるが真理を行わない人々、肉となった神を信じない人々、神の存在を全く信じない人々はみな、滅ぼされる。生き残ることができる人はみな、精錬の苦しみを受けても堅く立って耐え抜いた人である。これは、本当に試練を経た人である。神を認めない人はみな敵である。すなわち、受肉した神を認めない者はだれでも、この流れの中にあってもなくても、みな反キリストである。神を信じない反抗者でないならば、サタンや悪魔、神の敵となることなどないはずだ。彼らは神に背く者ではないのか。口先だけで信じると言うが真理を持っていない人たちではないのか。祝福を受けることだけは追い求めるが、神のために証しをすることができない人たちではないだろうか。今日あなたは依然としてこのような悪魔と付き合い、良心と愛を悪魔に向けている。そうであれば、あなたはサタンに善意を示しているのではないだろうか。それは、悪魔に同調すると考えられないだろうか。依然として善悪を区別できず、神の旨を求めようとすることも、どんな形であれ神の意図を自分のものとして抱けるようになろうとすることもないまま、無闇に愛情深く、慈悲深くあり続けるなら、そのような人の結末はもっと悲惨だろう。受肉した神を信じないものはみな神の敵である。敵に対して良心と愛を抱けるなら、あなたは義の良識を欠いていないだろうか。わたしが憎み嫌い、反対するものと相容れて、その上敵に対する愛や個人的な感情を抱いているなら、あなたは不従順ではないのか。あなたは故意に神に逆らっているのではないか。このような人が真理をもっているだろうか。敵に対する良心、悪魔への愛、そしてサタンへの憐れみを抱いているなら、そのような人はみな、故意に神の働きを妨げているのではないか。イエスだけを信じて、終わりの日の肉なる神を信じない人たち、口先では肉となった神を信じると言うが悪を行う人たちはみな、反キリストである。神を信じない人たちが反キリストであるのは言うまでもない。このような人はみな滅ぼされる。人が人を判断する基準は人の振る舞いである。行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は邪悪な者である。神が人を判断する基準は、その本質が神に従順であるかどうかである。つまり、その人の振る舞いが良いか悪いか、語る言葉が正しいかそうでないかに関わらず、神に従順な者は義であり、不従順な者は敵であり、悪者である。一部の人は善い行いによって未来のよい終着点を獲得しようと思い、一部の人はよい言葉によって未来のよい終着点を手に入れたいと考える。人々はみな、神が人の行い、或いは人の言葉によって人の結末を定めると間違った信じ方をし、ゆえに多くの人は偽ってこれらを用いて恵みを獲得しようとする。後に安息の中で生き残る人々はみな苦難の日を経験し、しかも神のために証しをしてきた人である。彼らはみな自分の本分を果たしてきた人であり、神に従おうとする人である。仕える機会を利用して真理の実践を免れようと思う人たちはみな、生き残ることができないだろう。神がすべての人の結末を定めるのは、適切な基準に基づいている。神は人の言行だけに基づいてそれを決定するのでもなく、ひとつの期間の行いに基づいて決定するのでもない。神は人がかつて神に仕えたからといって、そのすべての悪行に対して寛大に対処することは決してなく、また、人が神のために一時費やしたからといって彼の死を免除することもない。だれ一人として自分の悪の報いから逃れられず、また、だれ一人として自分の悪行を隠して滅びの苦しみから逃れることもできない。もし人が本当に自分の本分を果たすことができるのであれば、祝福を受けるにしろ不運に苦しむにしろ、その人が神に永遠に忠実であり、報いを求めないという意味である。祝福が見えれば神に忠実であり、祝福が見えない時は忠実ではなくなり、結局神のために証しをすることができず、尽くすべきように本分を尽くすこともできないこのような人たちは、かつては神に忠実に仕えた人であっても、やはり滅ぼされる。要するに、邪悪な者は永遠に生きることはできず、安息の中に入ることもできない。義なる人のみが安息の主人である。人類が正しい軌道に乗った後、人は正常な人間の生活をするようになる。彼らはみな自身の本分を尽くし、神に全く忠実である。彼らは不従順と堕落した性質を完全に脱ぎ捨て、神のために生き、神ゆえに生きる。彼らはもう神に背かず、逆らわず、神に完全に従うことができる。これこそ神と人の生活であり、神の国の生活であり、安息の生活である。

   全く信仰心のない子供や親戚を教会に連れて来る人たちは、あまりに自己中心であり、親切心を示している。このような人たちは、自分が連れてきた人たちが信じるかどうか、あるいはそれが神の旨であるかどうかを考慮せず、親切でいることだけに集中する。一部の人たちは、彼らの妻や両親を神の前に連れて来る。聖霊が同意しているかどうかあるいは聖霊が働いているかどうかに関わらず、彼らは盲目的に神のために「才能ある人材を導入する」。信じていない人にそのように親切心を広げることから何の益が得られるのか。聖霊の臨在がないこれらの未信者がしぶしぶ神につき従っても、人が考えるように救われるものではない。救われる人を獲得するのはそれほど容易ではない。聖霊の働きと試練を経験せず、また肉となった神に完全にされていない人は、完全にされることなどない。それゆえ、このような人々は神に名目上つき従い始めた時から聖霊の臨在がない。彼らの状況と実際の状態では、完全にされることなどない。それだから、聖霊も彼らに対してそんなに多くの精力を費やすつもりがなく、またいかなる啓きあるいは導きをも、どんな形でも、与えない。ただ彼らにつき従わせるだけであり、最後になって彼らの結末を明らかにする──それだけで十分なのだ。人の熱意や意図はサタンから来るものであり、聖霊の働きを決して全うすることはない。どんな種類の人であっても、聖霊の働きを持たねばならない。人が人を完全にすることなどできるだろうか。夫はなぜ妻を愛するのか。また、妻はなぜ夫を愛するのか。子供たちはなぜ親に従うのか。また、なぜ親は子供たちをかわいがるのか。人々はどんな意図を心に抱いているのだろうか。すべて自分の計画どおりにし、私欲を満足させるためではないだろうか。本当に神の経営(救いの)計画のためだろうか。神の働きのためだろうか。被造物の本分を尽くすためだろうか。最初は神を信じたが聖霊の臨在を得ることができなかった人は、決して聖霊の働きを得ることができない。このような人たちはすでに滅ぼされるよう決められている。人が彼らに対してどれだけ多くの愛を持っていても、それは聖霊の働きに取って代わることはできない。人の熱意と愛は人の意図を表わすのであって、神の意図を表わすことも、神の働きに取って代わることもできない。名目上神を信じ神に従う振りをするが、神を信じるとは何かを知らないような人々に、最大限の愛や憐れみを与えたとしても、彼らはやはり神の同情を得ることも聖霊の働きを得ることもないのである。心から神に従う人は、たとえあまり素質がなく、多くの真理を理解することができなかったとしても、彼らはやはり、時折、聖霊の働きを得ることは可能である。しかし、素質がかなりあっても心から信じない人たちは、聖霊の臨在を得ることは決してできない。そのような人々が救われる余地は全くない。たとえ彼らが神の言葉を 読んだり、時折説教を聞いたりしても、或いは神を賛美しても、結局は安息の中に残ることはできない。人が心から追い求めているかどうかは、他の人が彼らをどう評価するかによってあるいは、周りの人が彼らのことをどう見るかによって決まるのではなく、聖霊が彼らの上で働くかどうか、あるいは彼らに聖霊の臨在があるかどうかによって決められる。そして何より、彼らの性質が変化するかどうか、そして一定期間聖霊の働きを経験した後、神についての認識を持ったかどうかによって決められる。もし聖霊の働きが人の上にあれば、その人の性質は次第に変化し、彼らの神を信じることへの見方も次第に純粋になっていく。人が神につき従った時間に関係なく、その人が変化を経験したならば、聖霊がその人の上に働いていることを意味する。もしその人が変化しなかったなら、それは聖霊がその人の上に働いていないことを意味する。そのような人たちが何らかの奉仕をしても、彼らは幸運を手に入れようという意図に唆されているのである。性質を変化させる代わりに時折仕えるということはできない。最後には、彼らはやはり滅ぼされる。なぜなら、神の国では奉仕する者は不要で、性質が変えられていない人が完全にされかつ神に忠実な人たちに対して奉仕するといった需要もないからである。「ひとりの人が神を信じれば、その人の家族全員に幸運が訪れる」という昔からの言葉は、恵みの時代に適しているが、人の終着点とは関係がない。この言葉はただ恵みの時代の一段階だけに適していたのである。この言葉は、人が享受する平安と物質的な祝福に対して向けられていたのである。一人が主を信じれば家族全員が救われるということではなく、一人が幸運を手に入れると家族全員が安息の中に入れるということでもない。人が祝福を受けるか、それとも災いを受けるかは、その人の本質によって決まるのであって、その人がほかの人と共有する本質によって決まるのではない。神の国にはそのような言い習わしも規則もない。人が最後に生き残ることができるのは、その人が神の要求を満たしたからである。そして、人が最終的に安息の時を生き残ることができないのは、その人自身が神に背き、神の要求を満足させていないからである。どの人にもふさわしい終着点がある。この終着点は各人の本質によって決まるのであり、ほかの人とは全く関係がない。子供の悪行が親になすりつけられることはなく、子供の義も親と共有することはできない。親の悪行は子供になすりつけられることはなく、親の義も子供と共有することはできない。誰もが自分の罪を担い、誰もが自分の幸運を享受する。だれもほかの人の代わりをすることができない。これが義である。人間の考えは、親が幸運を手に入れれば子供も幸運を得ることができ、子供が悪を行えば親がその罪を償わなければならないというものである。これは人の見方であり、やり方である。神の見方ではない。どの人の結末もその人の行動からくる本質によって定められるのであり、それは常に適切に定められるのである。誰も他人の罪を担うことができず、他人の代わりに罰を受けることはなおさらできない。これは絶対的なことである。親は子供をかわいがるが、それは親が子供の代わりに義を行うことができるということではなく、また、子供が親に孝行しても、親の代わりに義を行うことができるということではない。これは「ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう」という言葉の背後にある真の意味である。子供をとても愛するがゆえに、悪を行う子供を安息の中に連れていくことができる者は一人もおらず、自ら義を行うがゆえに自分の妻(或いは夫)を安息の中に連れていくことができる者も一人もいない。これは神の行政上の規則であり、一人として例外はいない。義を行う者はつまるところ義を行う者であり、悪を行う者はつまるところ悪を行う者である。義を行う者は生き残ることができ、悪を行う者は滅される。聖なる者は聖なる者である。彼らは汚れた者ではない。汚れた者は汚れた者であって、聖なる要素が少しもない。悪を行う人の子供が義を行っても、義人の親が悪を行っても、邪悪な者はすべて滅ぼされ、義人はすべて生き残る。信仰深い夫と不信仰な妻はもともと関係がなく、信仰深い子供と不信仰な親はもともと関係がない。彼らは相容れない二種類の人である。安息の中に入る前に人には肉親があるが、ひとたび安息の中に入ると、もはや語るべき肉親はなくなる。本分を尽くす者と、本分を尽くさない者は敵であり、神を愛する者と、神を憎む者は敵対する。安息の中に入る者と、滅ぼされた者は相容れることのできない二種類の被造物である。本分を尽くす被造物は生き残ることができ、本分を尽くさない被造物は滅ぼされる。さらに、これは永遠に続く。あなたが夫を愛するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。あなたが妻を愛するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。あなたが自分の未信者の親に孝行するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。神を信じることに関して人の観点は正しいだろうか、間違えているだろうか。なぜあなたは神を信じるのだろうか。あなたは何を得たいのだろうか。あなたはどのように神を愛しているのだろうか。被造物の本分を果たすことができず、全力を尽くすことができない者は滅ぼされる。今日の人々は、血の繋がりだけでなく肉体の関係があるが、今後これは完全に打ち破られる。信じる者と信じない者は相容れないのであり、敵対する。安息の中の人はみな神の存在を信じる者であり、神に従順な者である。神に不従順な人々は完全に滅ぼされてしまう。地上にはもう家族がなくなる。それでは、どうして父母があるだろうか、どうして子供があるだろうか、どうして夫婦関係があるだろうか。信仰と不信仰という不一致が、このような肉の関係を切断してしまうのである。

   人類の中には、もともと家族がなく、男と女という二つの種類の人がいただけであった。家族は言うまでもなく、国もなかったが、人の堕落のゆえに、あらゆる種類の人々が個々の一族へと組織化し、後になって、それは国と民族に発展した。これらの国と民族はまた個々の小さな家族から成り、こうして、あらゆる種類の人々は異なった言語と地境に従って、種々な人種の間に分布するようになった。実は、世界の中の人種がどれほど多くても、人類はたった一人の祖先をもつ。最初、二つの種類の人間しかおらず、この二つの種類は男と女であった。だが神の働きの進展、歴史の移り変わり、地形の変遷のゆえに、この二つの種類の人間は、程度の差はあっても、次第にもっと多くの種類の人に発展した。要するに、人類の中にはどれだけの人種があっても、全人類はやはり神の創造物である。人々がどの人種に属していても、彼らは神の被造物である。彼らは、アダムとエバの後裔である。たとえ彼らが、神の手によって造られたのではないとしても、彼らは神が自ら造ったアダムとエバの後裔である。人々がどのタイプに属していても、彼らは神の創造物である。彼らは神によって作られた人類に属するから、彼らの終着点は人類がもつべき終着点である。そして彼らは人類を体系化する規則に従って分けられる。つまり、悪を行う人と、義を行う人はみな、結局のところ被造物である。悪を行う被造物は最後には滅ぼされ、義を行う被造物は生き残る。これは二つの種類の被造物に対するいちばん適切な取り決めである。悪を行なう者は、これまで不従順であったから、彼らが神の創造物であってもサタンによって略奪されてしまい、かくして救われることが不可能になったことを否定できない。義を行う被造物は生き残るが、彼らが神に造られながらもサタンに堕落させられた後に救いを受けたという事実は否定することができない。悪を行う者は神に背く被造物である。彼らは救われることがなく、しかもすでにサタンに徹底的に略奪された被造物である。悪を行う人もまた人である。彼らは極めて深く堕落させられた人であり、救われることのない人である。同じく被造物であり、義を行う者も堕落させられた人であるが、彼らは進んで堕落した性質を脱ぎ捨てようとする人であり、神に従うことができる人である。義を行う人は義で満ちた人ではない。彼らは救いを受け取り、堕落した性質を脱ぎ捨てて神に従う人である。彼らは最後にしっかりと立つことができるが、それは彼らがサタンに堕落させられなかったということではない。神の働きが終わった後、すべての被造物の中には、滅びる者もいれば、生き残る者もいる。これは神の経営(救い)の働きの必然的流れである。これはだれも否認できないことである。悪を行う者はみな生き残ることができず、最後まで神に従順でつき従う者は、確実に生き残る。これは、人類を経営する働きであるから、生き残る者もいれば排除される者もいる。これは異なる種類の人々の異なる結末であり、被造物に対するいちばんふさわしい取り決めである。人類に対する神の究極の取り決めは、家族、民族、国境を打ち破ることによって人類を区分することである。それによって、家族の区別がなくなり、国境による区別もなくなる。なぜなら、人は、つまるところ、一人の祖先であり、人は神の創造物だからである。要するに、悪を行う被造物は滅ぼされ、神に従順な被造物は生き残る。このようにして、未来の安息の中には家族も、国も、特に民族もない。このような人類が、もっとも聖なる人類である。最初、人が地上で万物を管理することができるように、アダムとエバは造られた。人はもともと万物の主人であった。ヤーウェが人を造る目的は、人が地上で生き、しかも地上の万物を管理することであった。なぜなら、最初人は堕落させられておらず、しかも人は悪を行うこともできなかったからである。しかし、人は堕落させられた後、もう万物の管理者でなくなった。そして、神の救いの目的は、人のこの機能を回復し、人の最初の理性、最初の従順さを回復することである。安息の中の人類はまさに神の救いの働きが達成することを望む結果の描写そのものである。それはもはやエデンの園のような生活ではないだろうが、その本質は同一である。人類は単に堕落させられる前の初期の人類ではなく、堕落させられた後、救われた人類なのである。救いを受け取ったこのような人々は最終的に(すなわち神の働きが終わった後)安息に入る。同様に、罰せられた人々の結末も最後に徹底的に明らかにされ、神の働きが終わった後、彼らは滅ぼされるだけである。つまり、彼の働きが終わった後、このような悪を行う者と救われた者は全てに明らかにされる。なぜなら、あらゆる種類の人々(悪を行う者であれ、救われた者であれ)を明らかにする働きは、すべての人の身に同時に行われるからである。悪を行う人が排除されると同時に、生き残ることができる人たちも明らかにされる。したがって、あらゆる種類の人の結末は同時に明らかにされる。神はまず、悪を行った者を取り置き、彼らを少しずつ裁き罰する前に、救済された一団の人々が安息の中へ入ることを許さない。事実は決してそうではない。悪人が滅ぼされ、生き残ることができる人が安息の中に入った時、全宇宙における神の働きは終わる。祝福を受ける者と苦しみを受ける者の間に優先順位はない。祝福を受ける者は永遠に生き、災いを受ける者は永遠に滅びる。これらの2段階の働きは同時に完成されるのである。それらの従順な人の義が明らかにされるのは、まさしく不従順なものがいるからであり、悪を行うそれらの人が自分の悪行のゆえに受けた災いが明らかにされるのは、まさしく祝福を受ける者がいるからこそである。もし神が悪を行う人を明らかにしなかったならば、心から神に従うそれらの人は永遠に太陽を見ることができない。もし神に従う人を神がふさわしい終着点に導き入れなければ、神に背くそれらの人は当然の報いを受けることができない。これは神の働きの手順である。もし神が、悪を行う者を罰し、善を行う者を報いる働きをしなければ、彼の創造物は永遠に各自の終着点の中に入ることができない。ひとたび人類が安息に入ったなら、悪を行う人たちはみな滅ぼされ、全人類は正しい軌道に乗り、各種類の人は自分の果たすべき機能によっておのおのその種類に従う。これのみが人類の安息の日であり、人類の発展の必然的な方向である。そして人類が安息に入る時こそ、神の偉大で、そして究極の成果が完成する。これが神の働きの終結である。この働きは全人類の退廃した肉体の生活を終わらせ、堕落した人類の生活を終わらせる。そこから人類は新しい領域の中に入る。人は肉体的存在であるが、その生活の実質は堕落した人類の生活のそれと大いに異なる。その存在の意味も堕落した人類の存在の意味とは異なる。これは新しい種類の人の生活ではないが、救いを受け取った人類の生活、回復された人間性と理性を伴う生活であると言える。このような人たちはかつて神に背いた人であり、かつて神に征服されて、それから救われた人たちである。この人たちはまた、神を辱めたことがあるが後で神のために証しをした人である。神の試練を受け、生き残った彼らの存在は、最も意義のある存在である。彼らはサタンの前で神のために証しした人である。彼らは生きるに相応しい人である。滅ぼされる人たちは、神の証しのために立つことができなくて、生きるに相応しくない人である。彼らの滅びは自らの悪行ゆえであり、滅びが彼らにとって最良の終着点である。人がその後よい領域の中に入ったら、人がきっとあると想像するような、夫と妻、父と娘、あるいは母と息子のような関係は全くないのである。その時、人はみな各々の種類に従い、家族はすでに打ち砕かれている。サタンは完全に失敗していて、もう人類をかき乱すことはなく、人にはもう堕落したサタン的性質がなくなっている。そのような不従順な人たちはすでに滅ぼされていて、従順な人だけが生き残る。それゆえに、ほとんどの家族が元のまま生き残ることができない。どうして肉の関係が依然、存続することができるだろうか。人の過去の肉の生活は完全に廃止される。人と人の間に肉の関係がどのして存続することなどできようか。堕落したサタン的性質がなければ、人の生活はもう以前の古い生活ではなくて、新しい生活である。親は子供を失い、子供は親を失う。夫は妻を失い、妻は夫を失うであろう。人々の間には現在肉の関係がある。彼らが完全に安息に入った時は、もう肉の関係がなくなる。このような人類こそが義と聖さをもち、そのような人類だけが、神を礼拝する人類である。

   神は人類を創造し、人類を地上に置き、今日まで導いてきた。その後、人類を救い、人類のための罪のいけにえとなった。終わりの時に、彼は人類を征服して、人類を完全に救い出し、人に本来の姿を回復させなければならない。これが、彼が始めから終わりまで従事してきた働きである。つまり、人を元のイメージへ回復し元の姿へ回復させるのである。神は自身の国を打ち立て、人に本来の姿を回復させる。つまり神は地上における自身の権威を回復し、あらゆる被造物の間における自身の権威を回復する。人はサタンに堕落させられた後、神を畏れる心を失い、被造物として持つべき機能を失って、神に背く敵になった。人はみなサタンの権威の下に生きるようになり、サタンの命令に従った。それゆえ、神は被造物の間で働くことができず、被造物からの畏れ敬いを得ることはさらにできなかった。人は神に造られており、神を礼拝すべきであるが、人は神に背いてサタンを崇拝した。サタンは人の心の中の偶像になった。こうして、神は人の心における立場を失い、つまり人を造った意義を失った。だから、神が人を造った意義を回復しようとするなら、人に本来の姿を回復させ、人に堕落した性質を脱ぎ捨てさせなければならない。人をサタンの手から奪い返すには、人を罪の中から救い出さなければならない。このようなやり方によってのみ、神は次第に人に本来の姿を回復させ、本来の機能を回復させる。そして遂には、神の国を回復する。最終的にそれらの不従順の子を徹底的に滅ぼすのも、人がよりよく神を礼拝し、よりよく地上で生存することができるためである。神は人類を造ったので、人に自身を礼拝させる。神は人に本来の機能を回復させたいので、徹底的に、しかも混じりけが少しもないように、回復させる。神が自身の権威を回復することは、人に自身を礼拝させることであり、自身に従わせることである。それは、人を神ゆえに生きるようにすることであり、神の権威ゆえに神の敵を滅ぼすことであり、神のあらゆる部分全てが人の間で、全く拒否されることなく存続するようにすることである。神が打ち立てようとする国は神自身の国である。神が求める人間は自身を礼拝する人間であり、完全に従う人間であり、神の栄光を持つ人間である。もし神が堕落した人間を救い出さなければ、神が人を造った意義は無となる。神は人の間で権威を持たなくなり、地上に神の国が現れることもない。もし神に背く敵を滅ぼさなければ、神は完全な栄光を得ることができず、地上で神の国を打ち立てることもできない。人類の不従順な者たちを徹底的に滅ぼし、完全にされた者たちを安息の中に連れていく──これは彼の働きが終わったことのしるしであり、神が偉業を達成したしるしである。人類がみな本来の姿を回復し、それぞれ自分の本分を尽くし、自分の立場を守り、神のすべての定めに従うことができたら、神が地上で一団の、自身を礼拝する人たちを得、自身を礼拝する国を打ち立てたことになる。神は地上で永遠の勝利を得、自身に敵対する者たちは永遠に滅びる。これは神が最初に人を造った時の意図を回復し、神が万物を造った意図を回復し、地上での神の権威、万物の中での神の権威、敵の間での神の権威をも回復したことになる。これらは神が完全に勝利を得たことのしるしである。その後人類は安息に入り、正しい軌道に乗った生活に入る。神も人との永遠の安息に入り、神と人が共有する永遠の生活に入る。地上の汚れと不従順は消え、地上の嘆き悲しみも消える。神に敵対する地上のあらゆるものも存在しなくなる。神と神に救われた人たちだけが残り、神の創造物だけが残る。


あなたは「乞食」のような生活に別れを告げたのか

2020-08-07 22:49:00 | 人生の奧義

   わたしは「借金」という短い物語を読みました。物語の内容は次のとおりです。一人の乞食はある通行人に千円を求めました。その通行人は彼に「今日は800円しか持ち合わせていない」と言い、そしてそのお金を彼に渡しました。だが、乞食はそのお金を財布に入れた後、お礼を言わず、かえって胸を張って「それなら、あなたはまだわたしに200円の借りがあるね」と言いました。その通行人はその言葉を聞いてたいへん驚きました。

   この物語を読んだ後、わたしはこの乞食のずうずうしさには閉口し、この乞食があまりにも理知に欠けていると思います。通行人が親切心から乞食を助けたので、乞食はお礼を言うべきでした。けれど、乞食は通行人が彼にお金を与えるべきだと思っていました。通行人が彼の要求を満たすことができなかったら、通行人は彼に借りがあるということにさえなってしまったのです。乞食はあろうことか自分を恩人の債権者だと思ってしまいました。この乞食は本当に理不尽です!

   だが、ある日わたしは突然あることに気づきました。現実生活の中で、人々は無意識のうちに乞食の役をつとめているということに、です。ある人は健康だが、神から与えられた容貌があまり美しくないと文句を言います。ある人は生まれながらの美人だが、神が自分によい出身を与えなかったと文句を言います。ある人は衣食に困らないのだが、神が自分に栄耀栄華を得させなかったと文句を言います。ある人は自分の配偶者がまじめで有能だが、神が自分に理想的な伴侶を与えなかったと文句を言います。……わたしたちは、神が不公平だと文句を言い、神がわたしたちに大きな借りがあると思っています。しかも、わたしたちは神が無条件にわたしたちに祝福を与え、あらゆることでわたしたちを満足させるべきだといつも思っています。わたしたちは生まれつき神の債権者、神から借金を取り立てる者であるかのようです。神がわたしたちに祝福を与えられましたが、わたしたちは神の祝福が足りず、あまりよくないと思っています。今、わたしたちの貪欲な心はすでに、わたしたちの神のご恩に感謝する心に取って代わりました。

   わたしはいつもこのことを見ます。教会の集会で、皆さんは主に恵み、祝福を求めるし、また自分の子女が仕事、婚姻の面で主の恵みを得たり、家の病人が主にいやされたりするために、牧師に代祷をしてもらいます。もちろん、わたしも自分を神の最大の債権者と見なし、神がわたしの求めるすべてのものを無条件にわたしに与えるべきだと思います。大学入試を受ける前に、わたしは理想の大学に合格するように教会に行って主イエスに祈り、それからわたしの友達のためにも祈り求めました。だが、大学入試の成績が発表された後、期待とは裏腹にわたしは重点大学に落ちました。そのため、わたしはこう考えていました。「ふだんわたしより成績が悪いクラスメートは、今回の試験ではわたしよりよい成績を収めた。彼らを採用する学校もわたしを採用する学校よりよい。これはなぜだろう。主はあらゆることで人の願いをかなえてくださるのではないか。なぜ主がわたしに祝福を与えなかったのか」と。そして、わたしの心の中は疑問、不服、主に対する不平不満でいっぱいになりました。

   ある日、お隣さんはわたしが大学に合格したことを祝って、わたしに贈り物を送った時、「このような大学に受かるのも悪くないね。多数の人がこのような大学に合格できない」と言いました。わたしも今の大学に受かるのは他人からうらやましがられていること、ありがたいことだと知っています。だけど、わたしは主のご恩に感謝せず、かえって、主がわたしの欲望を満たさなかった、主がわたしに聡明さ、知恵とインスピレーションを与えなかったので、わたしが能力を十分に発揮して、もっとよい大学に合格することができなかったと、文句を言いました。このことのゆえに、わたしと主の間にわだかまりができました。

   ある日、わたしはヨブ記を読みました。それで、ヨブが神に何かを求めたことがなく、常に主にいけにえをささげて、神から与えられたすべてに感謝するのを見ました。あの時、神がヨブを試して、彼のすべての財産、彼の子女を奪いましたけれども、ヨブは地にひれ伏して神を賛美し、しかも「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名がほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と言いました。ヨブは、彼が世に来た時は何も持っていなかったこと、また、彼が持っているすべてのものは神の特別の褒賞であることを知っていました。神が彼に何を与えても、どのくらい与えても、たとえ彼のすべてを奪っても、彼は不平不満がなく、依然として神の支配、神の知恵あるみわざを賛美しました。ヨブはどんな時でも神を造物主として扱います。神はヨブの真心を見た時、ヨブを大いに祝福し、彼の財産を二倍にされました。

   ヨブの理知、善良さ、従順さには、わたしは非常に感心します。自分が求めたり、思ったりすることを思い返してみると、わたしは恥じ入ります。すると、わたしの心の中の不平不満、誤解はすぐに消え失せました。その後、神に大きな負い目を感じています。今、わたしはこのことを知りました。人はただ神が塵で造ったものにすぎず、もともと何も持っていませんでした。人がどんな条件を持っても、人のめぐり合わせがどんなによくても、それは神の特別の恵みです。だから、人はあらゆることで神のご恩に感謝すべきです。聖書に書いてあるように、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。……」(一テサ5:16-18)。ヨブのように神を畏れ悪を避けるために、ヨブのような理知を持つために、また神の支配に従うために、わたしはちゃんと真理を追い求めようという志を立てました。そうすれば、わたしは神を満足させ、神から与えられたすべてに感謝して、「乞食」のような生活に別れを告げることができます。


地位を失ってから

2020-08-06 23:34:17 | 天の国の福音

   リーダーの地位から外されてがっかりしたり、弱気になったり、いじけたりする人のことを見聞きするたび、私はそんな人たちを見下していました。ひとりひとり教会の中で異なる役割をもっているだけのことで、上下の差があるわけではなく、私たちはみな被造物であり、気落ちする必要などないと思っていましたから。ですから、新しい信者の世話をしている時も、リーダーとして奉仕している時も、自分の地位をそれほど意識したこともなく、自分が地位にこだわる人間だと思ったこともありませんでした。実際にリーダーの立場から外されたとき、自分も同じような恥ずべき行動に出てしまうなどとは、夢にも思いませんでした。

   しばらく前のこと、私が実際の働きを何一つしておらず、いつも教義を宣べ伝えるばかりだったため、リーダーは私を配置転換しました。その時私は、自分の素質が地域のリーダーにふさわしくないとしても、せめて水を与える仕事くらいは許されるはずだと思いました。まさかリーダーが私に教会の庶務を担当させるなどとは全く予想していませんでした。「誇りある地域のリーダーだった私が、今日は使い走りをさせられているなんて。足されあれば、あるいは少しばかりの知恵があれば、教会の誰でもできるこんな仕事を私がするなんて」そう思って驚きました。こんな仕事を私にさせるなんて、どう考えても私の能力を無駄にしているのではないか。けれども教会の姉妹たちに、反抗的だとか、自分の地位を気にかけているなどと言われることを恐れ、自分の気持ちを心の中にしまっておきました。でも家に帰った私はベッドに倒れ込み、ひどく嫌な気持ちになりました。「何の地位もなくなる。兄弟姉妹たちは私をどんな目で見るだろう。」そんな思いで頭がいっぱいになりました。使い走りをさせられているなんて、一体どうしたらここから立ち直ることができるだろう。考えれば考えるほど、ますます落ち込んでいきました。

   数日後、私は私のために仕事を用意してくれたある姉妹に会いました。会うや否や、「この仕事は簡単にできるように見えますが、献身の思いをもってしなければなりません」と言ったかと思うと、その姉妹は知恵や従順といった側面の真理について話し始めました。わたしははっきりしない口調で曖昧な返事をしていましたが、心の中は煮えくりかえっていました。「まるで私が何も知らないみたいに、あなたが私に助言するの?はじめの頃、あなたに助言していたのは私よ。それなのにこんな風に私に話しをするなんて。」その姉妹の言葉はひとつも私の心に届きませんでした。それどころか、私は長々と話すその姉妹を腹立たしく思いました。話しが終わる頃にはうんざりしきってこう言いました。「それだけ?ならもう行くわ。」家に戻った私は、何故自分があの姉妹にあのような態度をとったのだろうかと思い巡らしていました。もし彼女の地位が常に私の地位より上であるか、同じであったなら、私はあのような接し方をしただろうか。おそらくしなかっただろう。間違いなくしなかった。私が彼女を導いてきたのに、その彼女が私に問題を指摘している。だから私は納得できなかったのではないのか。私が地位に執着していた証拠ではないのか。自分の恥ずべき態度に気づいた私は急に自己嫌悪を感じ、それと共に神様からの裁きに関する言葉が心に浮かんできました。「あなたがたの追求がこのようなものであればあるほど、刈り入れる物は少なくなるであろう。ある人の地位に対する欲望が強ければ強いほど、それだけ深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値過ぎる。このような人は地位に対する欲望を完全に捨て去るため、適切な取り扱いと裁きを受ける必要がある。あなたがたがこのように求めれば求めるほど、刈り入れる物は少なくなるであろう。いのちを追求しない者は変化させられることはできない。真理を渇望しない者は、真理を得られない。あなたは自分の変化の追求と入りにことに重点を置かず、度を越した欲望や、神への愛を縛り、神に近付くことを阻む物事にいつも重点を置く。そのような物事があなたを変化させることができるだろうか。あなたを神の国へと導くことができるだろうか。あなたの追求の目的が真理を求めることでないならば、これを機に俗世に戻ってそこでの成功を目指せばよいであろう。このようにして時間を無駄にするのは全く無価値である。なぜ自分を苦しめるのか。」(『言葉は肉において現れる』の「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」より)神様の御言葉を読み、自分自身のことを考えていくうちに、私は気づかされました。自分は真理を求めていたのでもなく、神様に満足していただこうとしていたのでもない。それどころか、自分が求めていたのは、名声、利得、地位だったと気付いたのです。地位を得たことで、私の自信は膨れ上がりました。反対に、地位を失えば不機嫌になり、働きも出来ないほど落ち込みました。私は自分の地位に気持ちを振り回され、ささいで無意味なことに1日中心穏やかでなくなり、無駄な時間を過ごしました。そこから結局何を得たのでしょうか。今日のような恥ずべき姿でしょうか。神様が私にしてくださったこと全てを思えば、私に託すことで神様に安心していただけなかったどころか、神様が与えられた仕事を、くだらない、やりたくないと言って嫌ったのです。それならば私は自分の良心に従って行動していたでしょうか。名声、利得、そして地位ばかりを追い求めていた自分の恥ずべき姿を神様に示されました。あまりにも高ぶり、傲慢になり、地位を重視していた自分に気づかせて下さった神様に、心から感謝しました。すると、ある歌が私の心に浮かんできました。「神よ!私に地位があろうとなかろうと、私は今自分をしている、私の地位が高ければそれは貴方が私を高めたおかげで、逆に低ければそれは貴方の定めだ。神よ!私に選択の余地はなく不平もない、全てが貴方の手中にある……貴方の権威のもと従順であるべきだ。なぜなら貴方はそれを定め.……貴方が私を用いるなら私は被造物、完全にされても私は創造物で、完全にされなくても私は貴方を愛するだろう。なぜなら私は被造物に過ぎないから。」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「私は取るに足りない被造物」より)私は涙と共に何度もこの歌を歌いました。そして神様の前に出て祈りました。「神様!あなたの御言葉を通して、私はあなたの意図が理解できるようになりました。地位の高低に関係なく、私はあなたによって造られたものです。あなたの定めに完全に従わなければなりません。あなたが託された本分を選り好みせず、被造物のひとりとして託された本分に全力で取り組まなくてはなりません。神様!私はあなたの定めに従い、畑で働く牛のように、あなたの意のままに用いられることを願います。自分の地位のために葛藤したり、あなたを苦しめたり傷つけたりするようなことは二度としません。ああ神様、私を更に取り扱い、裁き、地位に対する欲望を明け渡せるようにしてください。あなたに近づく妨げとなる全てのものから解放されるよう私を扱ってください。そしてさらにあなたを愛し、心から与えられた本分を全うできるものとしてください。


あなたは主の再来の2つの方法を知っているのか

2020-08-04 23:34:58 | キリストの再臨

   【編集者メモ】主イエスの再来をうまく迎えることには、主の再来の二つの方法を知ることがとても重要です。では、あなたはこの二つの方法を知っているのでしょうか。

   終わりの日に主はいったいどのように来られるかと言えば、多くの人は聖書に書かれている「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」(使徒行伝1:11)に基づき、主イエスが復活後に白い雲に乗って昇天されたので、再来される時にも雲に乗って降臨されると思っています。

   長年において、私たちはずっとこのように雲を眺め、主が戻られるのを待ち望み、主が白い雲に乗って降りてきて、私たちを天国に迎えるのを想像しています。結局長年が経ち、私たちが待っていた結果は神の国に入る喜びではなく、荒廃した教会の泣き声です。実は、思いもよらないことですが、現在、様々な災害が続々と降りかかり、四つの血の月が既に現れ、ハルマゲドンの戦いは間もなく開始し、主の再来の預言は全て実現されているのですが、私たちは盲目で主を迎えていません。これはなぜでしょうか。

   ある書籍にはこう書かれています。「あなたはイエスに会いたいと思うか。イエスと共に生きたいと思うか。イエスの語る言葉を聞きたいか。もしそうであれば、イエスの再臨をどのように歓迎するのか。あなたは完全に備えができているか。どのようにしてイエスの再臨を歓迎するのか。……イエスが再び来る時、あなたにイエスが本当に分かるのか。あなたがたはイエスの語る全てを本当に理解するだろうか。イエスの働きの全てを本当に、無条件に受け入れるだろうか。……何が想像で、何が現実かを知っているか。」

   この一連の問題は私たちの心の奥まで直撃し、私たちを再検討させずにいられなくします。主は本当に私たちが想像するような白い雲に乗って私たちを迎えに来られるのか。もうそうだとすると、なぜいまだに主が白い雲に乗って来られるのをまだ見ていないのか。主の再来はまだ他の方法があるのか。もし主が別の方法で来られるなら、私たちは主を認識できるのか。自ら進んで主の再来を迎えることができるのか。

   私たちはみな答えを知りたく、主を迎えたいです。では、一緒に主は終わりの日にいったいどのように来られるかを見てみましょう。

実は主の再来の方法は二つある

   1、雲に乗って公然と降臨される

   「力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)

   「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。」(ヨハネの黙示録1:7)

   これは私たち多数の人が堅く守っている主の再来の方法です。

   2、密かに降臨される

   「見よ、わたしは盗人のように来る。」(ヨハネの黙示録16:15)

   「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。」(ヨハネの黙示録3:3)

   「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マルコによる福音書13:32)

   「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)

   これは私たち多数の人が見落としている主の再来の方法です。

   これらの聖句に主は「盗人のように」来ると言及し、これは主がこっそりと来られ、密かに降臨され、誰も知らなく、私たちが見ても分からないだと示しています。もし主の再来は雲に乗って降臨されるなら、すべての人が見えて、「盗人」のようにとたえられることはなく、人の間に降臨されて戸の外に立って、叩くこともありません。そして、聖書の多くの箇所には、主の再来は「人の子が来る」「人の子が現れる」と預言されています。例えば次の通りです。「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。」(ルカによる福音書12:40)「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書17:24、25)「人の子」と言えば、人間として生まれた普通の人です。主イエスはマリアから生まれ、外見は普通かつ正常でしたが、主イエスは受肉された神様であり、地上で働かれる神様ご自身でした。もし、主が雲に乗って降臨され、霊体で人々の間に現れるのなら、「人の子」と呼ぶことができません。ヤーウェ神は霊であり、天使も霊であり、霊でありながら、いかなる人間の姿を持っていますが、霊のからだに属するものはみな「人の子」と言えません。そして、もし霊体が公然と現れるなら、人々はみな怖がって恐怖に震え、あえて抵抗しないので、神様が苦しみを受け人々に見捨てられることもありません。受肉された神様だけが「人の子」と言えます。人間は神様の本当の身分を認識できず、ひいては神様を普通の人として扱い、様々な観念に基づいて、神様に抵抗し、罪に定めます。当時のパリサイ人が観念に基づいて主イエスがメシアではないと罪に定めたこと同じです。これは聖書の預言「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」を実現されているのです。

二つの方法はどのように実現されるのか

   ある人はこう言うでしょう。聖書に主の再来は雲に乗って降臨され、すべての人の目が見ると預言されています。また主の再来は受肉されて密かに降臨されると預言されています。この二つの方法は見たところ矛盾しています。

   実際のところ、神様の言葉には矛盾がなく、神様が預言された事のすべては成就され、現実となります。

   主の再来はまず受肉されて密かに降臨され、その後雲に乗って公然と現れるのです。なぜ神様はまず受肉されて密かに降臨されるのか。実は、これは神様の終わりの日の出現と働きに関わっています。

   聖書にはこう預言されています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12、13)

   「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)

   「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)

   これらの預言から分かるのは、終わりの日に主が再来される時に、また多くの真理を語られ、私たちをすべての真理に導きます。言い換えれば、神様は終わりの日に神様の家から始まる一段階の裁きの働きをなさいます。言葉を語られ、人を裁き、清め、最終的に人を清められ、一群の勝利者を作れられて天国に導き入れるのです。私たちが知っている通り、私たちは主イエスを信じて罪が赦された。しかし、サタンの堕落した性質はまだ神様に赦されておらず、罪深い本性はまた私たちのうちに存在しています。私たちは人と付き合うときに、寛容や忍耐を実践できず、自分の意の通りにならない事に臨む時に怒り出したりします。口には神様に忠誠し、服従すると言いますが、神様を敬う心がありません。常にこの世の欲にふけって神様から離れたり、家が天災や人災に臨む時に神様に不平を言ったりするのです。これは私たちが罪の束縛と制御から抜け出しておらず、まだ昼間罪を犯し、夜になると告白する状態の中で生きていることを示しています。なぜなら、主イエスがなさった働きは人類を贖う働きであり、人間はもはや律法に断罪されず、束縛されなくなりました。人間を罪から贖い出したのは、終わりの日に罪を取り除く働きの道を整える働きでした。罪の束縛から抜け出したいなら、更なる神様の救いを受け入れる必要があります。そのため、主イエスは「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12、13)と預言されたのです。つまり、神様は人の子となって終わりの日の裁きの働きをなさり、人々は神様の言葉による裁きと刑罰を経験することを通して徹底的に清められるのです。

 

 

   ある人は、この裁きの働きは、神様が霊として働かれることでは、できないのだろうかと質問するかもしれません。

   実は、もし神様が受肉されて言葉を語られるのではなく、神様の霊が直接言葉を語って働かれたら、人を清め救う効果を達成することができないのです。なぜなら、私たちは神様の霊を見ることも触れることもできません。しかも霊が私たちに語られても私たちはまったく分からず、雷の音のように聞こえて怖がるのです。旧約に記載されているヤーウェ神がシナイ山に現れたとき、イスラエルの人々は皆、かみなりと、いなずまとを見て、彼らは恐れおののきました。ヤーウェ神の雲を見て神様に撃ち殺されるのを恐れて、神様の言葉を聞くことがまったくできませんでした。(出エジプト記20:18、19を参照する)しかし、受肉された神様が働いて来られて、地上で人々に接され、人の言語で実際的に言葉を語られ、人々を潤し、養われ、人々に悔い改めの道を与えられます。人々はそれを聞いてから、どのように神様に祈り、悔い改めるのか、どのようにして正直な人になるかなどを知るようになります。そのため、終わりの日に神様は人々を罪から徹底的に救い出すため、もう一度受肉されて働かれ、実際的に様々な真理を語られ、私たちのサタン的性質を暴き、裁く必要があります。それによって、私たちは自分のサタン的本性と堕落の真相に対して本当に認識し、どのように実践すれば堕落した性質から解放されるかを理解し、言葉によって変化され、清められる効果に達します。このような働きの効果は、受肉された神様の実際的な働きだけが達成することができます。

   もし、神様が霊を通して働かれるなら、人々は皆恐れ、皆神様の前にひれ伏して神様を礼拝するので、人々の観念や人の抵抗と反抗を露わにすることができません。こうして真理を憎み、神様に抵抗する邪悪な人々をも露わにすることができません。それぞれはその種類に応じて分類されることもできず、ヨハネの黙示録に預言された麦と毒麦、良いしもべと悪いしもべを分ける働きも成就できません。しかし、神様が受肉されて働きを行われることによって、神様を敬う心がない人は受肉された神様の外観が普通かつ正常であるのを見て、あえて思うままに裁いたり、拒絶したりします。このような人こそ露わにされたパリサイ人、悪いしもべであり、神様を十字架に釘付けにした人です。神様を敬う心を持ち、神様の出現を切望する人は、キリストの外見を見ずに、キリストの言葉と働きを考察し、その中から神様の声が分かって主の元に帰るのです。このような人こそ賢い乙女であり、良いしもべなのです。このようにして善悪が分けられるのです。

   ここから分かるのは、神様の働きの必要に応じて、堕落した人類の必要にも応じて、終わりの日に神様はまず受肉されて密かに降臨されて人を裁き、清め、一群の勝利者を完全にされるのです。この一群の勝利者を作られた後、神様によって大きな災害が降りかかり、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ始めるのです。その時、神様は白い雲に乗って公然とすべての国とすべての民族に現れ、終わりの日のキリストを受け入れず、かえって抵抗する人は皆、災害の中に陥り、歯ぎしりして泣くのです。これはヨハネの黙示録の「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。」(ヨハネの黙示録1:7)という預言を成就することになります。

どのように主の現れと働きを迎えるのか

   それでは、私たちはどのようにして主の現れと働きを迎えることができるのか。ヨハネの黙示録3章20節にこう書かれています。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」

   また七箇所に「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」と言及しています。

   ここから私たちが分かるのは、終わりの日に神様は語られた言葉を用いて私たちに戸を叩くのです。すべての諸教会に向けた聖霊の言葉を聞く人は、神様の声がわかり、神様の終わりの日の働きを受け入れる人は、主の迎えている人です。そのため、今、私たちはいちずに主が雲にの来られるのを切望して待ってはいけません。神様の声を聞くことを重視することが肝心です。主の再臨の証しを聞いてから、真理の現れと神様の声であるかどうかを謙虚に尋ね求め考察すれば、神様の足跡にたどることができます。

   今、多くの人は皆知っています。「東方閃電」は主が受肉されて密かに降臨され、数百万字の真理を語られ、神様の家から始まる一段階の働きをなさっていると証しをしています。そして、ここ数年「東方閃電」の福音が迅速に広がり、中国大陸および香港、台湾だけでなく、米国、ドイツ、イタリア、フランス、イギリスなどの地域にも全能神教会があり、少なからぬ宗教家、信仰の無い人々は全能神の言葉を読んで、皆これらの言葉には権威と力を持ち、普通の人が話すことができず、聖霊からの語たられた言葉だと感じています。また彼らの教会は神様を証しする映画、MV讃美歌、ミュージカル、漫才などを制作しています。これによって、多くの神様の出現を渇望し尋ね求め、真理を愛する人が褒めたたえ、続々とこのキリスト教会を尋ね求め考察し始めるのです。

   「東方閃電」はこんなに繁栄しているのは、聖霊の働きに極めて関連性が深く、主イエスの再来である可能性は非常に大きいことを言わなくてはならなりません。まさに主イエスが言われた通りです。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書24:27)では、私たちは神様の声であるかどうかを聞き、謙虚に尋ね求め考察すべきではないでしょうか。これは私たちすべての真心で主の再来を待ち望んでいる兄弟姉妹が深く考えるに値します。


今日のみことばー神を知ることこそ神を畏れ悪を避ける道(抜粋1)

2020-08-03 23:21:35 | デボーション

   誰もが神を信じて生きる自らの生活を顧み、神を求めるにあたり神を真に理解しているか、真に把握しているか、そして真に神を知るに至っているか、様々な種類の人間に対し神がどのような姿勢で臨むかを知っているか、また神は自分にどのような業を施しているか、神は自分の行為を、それぞれどのように定義しているかを理解しているか確認する必要がある。あなたの隣にあり、あなたを進むべき道へと導き、あなたの運命を定め、あなたに必要なものを授ける神。よく考察してみた結果として、その神について、あなたは本当のところ、どの程度理解し、どの程度知っているであろうか。神があなたに対して毎日どのような業を施しているかを、あなたは知っているか。神のあらゆる業の根底となる原則と目的を、あなたは知っているか。神があなたをどのようにして導いているかを、あなたは知っているか。神がどのようにしてあなたに授けるかを、あなたは知っているか。神があなたを導く方法を、あなたは知っているか。神があなたから得たいと思っていること、そして神があなたの中で達成したいと思っている事柄を、あなたは知っているか。あなたが取る様々な姿勢に対して、神がどのような態度で臨むかを、あなたは知っているか。あなたが神に愛される人間であるかどうかを、あなたは知っているか。神の喜び、怒り、悲しみ、楽しみの根源と、その背後にある思いや考え、そしてその本質を、あなたは知っているか。究極的に、あなたが信じる神とはどのような存在であるかを、あなたは知っているか。このような問題は、あなたが全く理解できたことがないもの、考えたことのないものではないだろうか。神を信じることを追求する上で、神の言葉を真に体得すること、経験することで、あなたの神に関する誤解がとけたことは、かつてあるだろうか。あなたは、神の懲らしめ、鍛錬を受けた後に、真に神に従い、神を思うようになったことが、かつてあるだろうか。あなたは、あなたが神の刑罰と裁きを受けている時に、人間の反抗、人間のサタンのような本性を知り、神の聖さの片鱗を理解するようになったことは、かつてあるだろうか。神の言葉による導きと啓きによって、あなたが新たな人生観を得始めただろうか。あなたは、神から授かった試練のなかで、人間にとっての神の不可侵さや、神があなたに要求していること、いかにして神があなたを救っているかを感じてきただろうか。神に対して誤解するというのはどういうことか、そしてその誤解をとく方法を知らないのであれば、今まであなたには神との真の交わりが一切無く、神を全く理解していないか、少なくともあなたが神を理解したいと望んだことは一切ない、と言える。神の懲らしめと鍛錬が何かを知らないのであれば、神に従うこと、神を思うこととはどのようなことかを知らないこと、あるいは少なくとも神に従うこと、神を思うことがかつて無かったことは確実である。かつて神の刑罰と裁きを受けたことが無いのであれば、神の聖さとは何かを知らないこと、またそれ以上に、人間の反抗とは何かをよく知らないことは確実である。未だに正しい人生観あるいは人生の目的を持っておらず、自分の人生の将来について迷い、優柔不断で、前に進むことを躊躇さえしているのであれば、あなたが神の導きと啓きを真に受けていないことは確実であり、また神の言葉により備えられた、あるいは再び満たされたことも無いと言える。今まで神からの試練を通ったことが無いのであれば、人間にとっての神の不可侵さが何なのか、神があなたに要求していることは、究極的には何かについて理解していないし、ましてや、人間を経営し救う神の業とは究極的には何かを知らないことは、言うまでもない。ある者が何年間にわたり神を信じているかに関わらず、その者が神の言葉を経験することも認識することもかつて無かった場合、その者が救いへの道を歩んでいないこと、その者の神に対する信仰は実の無いものであること、そしてその者の神に関する認識が皆無であることは確実であり、またその者は神を畏れることとは何かについて、全く見当もついていないことは言うまでもない。

『言葉は肉において現れる』より


   御言葉讃美歌

   神を畏れ悪を避けるために必要な道

   神を畏れるということは、名づけようのない恐れ、逃避すること、偶像崇拝や迷信を意味するわけではない。むしろ、神を畏れるということは、敬慕、尊敬、信頼、理解、思いやり、従順を意味する。それは奉献、愛、絶対的礼拝、神に報いること、不平のない明け渡しである。

   神についての真の認識がなければ、人は敬慕し、信頼し、理解することも、本当に思い遣り、従うことも出来ず、恐怖と不安に満たされ、疑いと誤解でいっぱいになり、逃避しがちになり、避けたいと思うだろう。神についての真の認識がなければ、神に奉献し報いることはありえないし、人間は礼拝し、真に自らを明け渡すことはなく、盲目的な偶像崇拝、迷信があるだけだろう。

   神についての真の認識がなければ、人は神の道を歩けず、神を畏れ、悪を避けることも出来ない。むしろ、人がすることは全て不従順と反抗、口ぎたない非難、神についての不当な裁き、真理と神の言葉が真に意味しているものに反する。邪悪な行為に満ちている。しかし神への真の信頼があれば、どのように神に従い、拠り頼んだらよいか分かる。その時になってようやく人は神を理解し、思い遣り始めるのであろう。

   神への真の思いやりがあってこそ人は本当に従順になることが出来る。そしてその従順から神に対する真の奉献が流れ出るであろう。そしてそのような真の奉献から神への無条件の報いが流れ出る。このようにしてのみ、人は神の本質、性質、また神がだれであるかを知ることが出来る。彼らが創造主を知る時、真の礼拝と、明け渡しが生まれる。これらが存在する時だけ人は自らの邪悪な生き方を本当に棄てることが出来る。

   そしてこれらのことが「神を畏れ悪を避けること」の全過程を成し、「神を畏れ悪を避けること」全体の内容である。それは又、神を畏れ、悪を避ける者となるために人が歩むべき道である。

   『小羊に従って新しい歌を歌おう』より